2024年04月21日「故人を偲んで」

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故人を偲んで

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
詩編 86章1節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

86: 1 主よ、耳を傾けて、私に答えて下さい。
    私は苦しみ、貧しいのです。
86: 2 私の魂をお守り下さい。
    私は神を恐れる者です。
    あなたのしもべをお救い下さい。
    あなたは私の神。
    私はあなたに信頼します。
86: 3 主よ、私を憐れんで下さい。
    絶えず、私はあなたを呼んでいます。
86: 4 このしもべの魂を喜ばせて下さい。
    主よ、私の魂はあなたを仰ぎ求めています。
86: 5 主よ、まことにあなたは、
    慈しみ深く、赦しに富み、
    あなたを呼び求める者全てに
    恵み豊かであられます。
86: 6 主よ、私の祈りに耳を傾け、
    私の願いの声を心に留めて下さい。
86: 7 苦難の日に、私はあなたを呼び求めます。
    あなたが私に答えて下さるからです。
86: 8 主よ、神々のうちであなたに並ぶ者はなく、
    あなたのみわざに比べられるものはありません。
86: 9 主よ、あなたが造られた全ての国々は、
    あなたの御前に来て、伏し拝み、
    あなたの御名を崇めます。
86:10 まことに あなたは大いなる方、
    奇しいみわざを行われる方。
    あなただけが神です。
86:11 主よ、あなたの道を私に教えて下さい。
    私はあなたの真理のうちを歩みます。
    私の心を一つにして下さい。
    御名を恐れるように。
86:12 わが神、主よ、私は心を尽くしてあなたに感謝し、
    とこしえまでも、あなたの御名を崇めます。
86:13 あなたの恵みは私の上に大きく、
    あなたが私の魂を、
    陰府の深みから救い出して下さいます。
86:14 神よ、高ぶる者どもは私に向かい立ち、
    横暴な者の群れが私の命を求めます。
    彼らは、あなたを前にしていません。
86:15 しかし主よ、
    あなたは憐み深く、情け深い神。
    怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおられます。

詩編 86章1節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 今年も召天者記念礼拝を持つことができ、神に心から感謝致します。

 今、2階にある納骨棚には、2000年7月4日、81歳で亡くなった袖岡花さん、2016年4月28日、68歳で亡くなった和田宣子さんのお骨が納められています。2018年2月10日、94歳で亡くなった岸本靖子さんは、納骨されてはいませんが、かつて救い主イエス・キリストを信じ、神を賛美し、祈りを共にした神の家族としておられます。また、この1月12日に洗礼を受け、3月24日に天に召されました原 和泉さんも、私たちは覚えます。

 今や故人が天地の造り主、天の父なる神の永遠の世界におられることを思いますと、私たちはその厳粛さを覚えないではおられません。しかし、これは何と大切で幸いなことかと思います。何故でしょう。一つには、私たちは、目に見え、手で触れられることや目先のことだけにしばしば心を奪われ、私たちを造られた神の存在と、いつかその神の前に立って自分の全生涯について申し開きをしなければならないことを忘れるからです。すると私たちの生き方は、つい薄っぺらで刹那的なものになりかねません。

 しかし、召天者を偲び、神を静かに仰ぐ時、私たちは自ずと自分の生き方、あり方を問い、より真実に生きる者とされます。これは何と大切で幸いなことでしょうか。

 もう一点あります。それは、故人を偲ぶことで、私たちは改めて故人に感謝し、故人を愛し直すことを可能とされるからです。米国の神学者、リチャード・ニーバーは言いました。「愛とは、愛する者が存在していることに対する喜びである。愛は感謝である。すなわち、愛は、愛する者が存在していることに対する感謝の思いである。」

 確かにそうだと思います。愛は単に「好きだ」とか「好きだった」ではありません。今の私たちのことで言いますと、欠点も含めて故人がかつて存在し、一緒にいてくれたことに、「本当にありがとう」という私たちの心の底から生れる感謝であり、心がポッと温かくなる喜びと言えます。そしてこれは、神の前に私たちが深く謙って(へりくだって)故人を偲ぶ時、より可能となります。

 人間は皆罪人である、と聖書は指摘します。実際、私たちは、自分自身に一杯欠けがあり、人を呆れさせるような恥ずかしい所もありますのに、他人の欠けはよく目につき、よく批判します。しかし、私たちの隠れたことも皆ご存じの神を見上げ、神の目から自分を見るとどうでしょうか。自分の欠け、身勝手、ずるさ、愚かさなど、罪を覚えて謙らざるを得ないと思うのです。

 そして、謙った心で私たちが故人を偲びますと、神が故人に下さっていた良い点に改めて気付かされ、また故人に私たちが随分赦され我慢してもらっていたことなども分ります。すると、故人への感謝の気持ちも自然に湧いて来ます。このようにして、私たちは、かつて故人が存在したことに、改めて感謝し、故人を愛し直すことを可能とされます。神の永遠の世界に、今や故人がおられることを覚えて、私たちが故人を偲ぶことの幸いが、いくらかいくらか分ると思います。これも召天者記念礼拝の大切な意義の一つです。

 そこで次に、故人を偲ぶという点に、もう少し焦点を絞ります。

 先程、旧約聖書の詩篇86:1~15を読みました。表題は「ダビデの祈り」となっています。ダビデは、紀元前1000年頃の古代イスラエルの王です。聖書によりますと、彼は大きな罪も犯しました。しかし、彼は天地を造られた唯一の神を恐れる信仰者であり、大変勇敢な人でもありました。

 聖書は彼の祈りを収録し、いわばダビデを偲んでいます。無論、ただ偲ぶのではありません。神に導かれて聖書を編集した人たちは、ダビデが残した祈りの言葉により、彼の信仰を偲ぶことで、神の御心(みこころ)を更によく知り、神と人の前に、皆でより真実に生きる者とされたい、と願ったのでした。

 故人を偲ぶ方法にも色々あります。故人の写真を見、その声、その言葉、その姿、また生活の思い出をたどることが身近な方法ですが、興味深いことに聖書は、かつて故人が祈った「祈り」に注目させます。そこで、その祈りからダビデを少し偲びます。

 彼は祈ります。1節「主よ、耳を傾けて、私に答えて下さい。私は苦しみ、貧しいのです。」

 ダビデは、多くの敵を前にしても恐れない勇猛果敢な人として、古代イスラエルのみならず、近隣諸国でもよく知られていました。しかし実際の彼は、恐れや苦しみを覚えて神に切々と祈る人でもあったのでした。

 彼は、14節では、「神よ、高ぶる者どもは私に向かい立ち、横暴な者の群れが私の命を求めます。彼らは、あなたを前にしていません」と祈ります。具体的にどんな人たちが彼を追い詰め、命を狙ったのかは、これだけでは分りませんが、ここまで彼が神に訴えるのですから、相当悪辣(あくらつ)な者たちが彼を殺そうとしていたのでしょう。命を狙われるなんて、どんなに恐ろしいでしょうか。

 その上、神が祈りにすぐ答えて下さらないという苦しみも、彼にはありました。ですから、1節「主よ、耳を傾けて、私に答えて下さい」、6節「主よ、私の祈りに耳を傾け、私の願いの声を心に留めて下さい」と祈ります。「苦しくて祈っているのに、神の助けが来ない。自分は神に忘れられ、捨てられたのか。」そう思うと、この状態は何と辛いでしょう。

 実は、私たちの救い主として、天の父なる神の許(もと)から、約2000年前、この世に来られ、私たちの罪の全てを償うためにご自分の命を犠牲にし、十字架で死なれた神の御子イエスも、同じ苦しみを味わわれたのです。マタイ27:46は、十字架上でイエスが「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたことを伝えています。ですから、その後、復活して今天におられるイエスは、私たちの辛さをよくお分り下さるのです。

 また、死ぬということも体験されたイエスは、病気などで信仰者が死ぬことになっても、それは決して神に捨てられたのではなく、その人が自分の役割を全うして天の父なる神の御許(みもと)に召されたことを教えて下さっています。

 詩篇86に戻ります。

 ダビデの祈りから分るもう一つのことは、厳しい試練の中にあっても、彼は天地を造られた生ける神をあくまでも仰ぎ、信頼し、神を賛美し、人として真実な道を歩み通そうとしたことです。彼は歌います。2節4、5行目「あなたは私の神。私はあなたに信頼します。」5節「主よ、まことにあなたは慈しみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求める者全てに恵み豊かであられます。」11節「主よ、あなたの道を私に教えて下さい。私はあなたの真理の内を歩みます。」12、13節「わが神、主よ、私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名を崇めます。あなたの恵みは私の上に大きく、あなたが私の魂を、陰府の深みから救い出して下さるからです。」

 今朝の説教題は、「故人を偲んで」です。特に偲びたいことは、外からは分らない故人の内なる祈りです。大変勇敢で人気者でもあったダビデですが、実はとても苦しみ、激しく神に求め、しかし神の答が分からず、捨てられたように感じる孤独感や葛藤があったのでした。

 その一方で、ダビデは尚も神を仰ぎ、信頼し、感謝し、神の真理の内を歩もうとする強い意志を持ち、最終的には一切を神に委ね、天に召されていきました。

 人間の究極の姿は祈りにあります。そのことを思って、故人の祈りに思いを向け、内面を偲びたいと思うのです。

 和田宣子さんのお好きな讃美歌は、讃美歌21の227番(讃美歌Ⅰでは85番)でした。実は讃美歌は元々祈りなのです。従って、ご自分を重ねておられた讃美歌21-227番は、和田さんの祈りでもあった、と言えるでしょう。そう思って、暫くご一緒に歌詞に目をとめ、彼女を偲びたいと思います。

 1節「主の真理(まこと)は岩のごとし。逆巻く波にも、揺るぎもなし/ 尊きかな、天の神は。力にあふるる、とこしえの主。」

 3、4節も読みます。「弱きわれも、心つくし、わが主にすがらば、力を得ん/ 主の真理と、その恵みを、望みて我らは、安らぎを得ん。」

 では、祈りや信仰が私たちに分らないまま、世を去った故人についてはどうでしょうか。

 ダビデは15節で祈ります。神は「憐み深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富んで」おられる、と。

 神の御子イエスはどんな方でしょうか。ある時、イエスに祝福して頂きたくて人々が子供たちを連れて来ました。ところが、弟子たちは、子供たちがイエスを煩わせると思って彼らを叱りました。その時、イエスは「子供たちを、私の所に来させなさい。邪魔をしてはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです」と言って、子供たち一人一人を抱っこし、彼らの上に手を置いて祝福されたことを、マルコ福音書10:14は伝えています。

 このように、憐み深く、情け深い天の父なる神、また幼子を愛する慈しみに満ちたイエス・キリストに故人のことは委ね、私たちは、自分に残された人生を、ダビデのように主を見上げて素直に祈り、神の真理の内を、是非、励まし合いながら、ご一緒に歩みたいと思います。

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