2023年07月23日「神に知られる幸せ」

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神に知られる幸せ

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
詩編 139章1節~10節

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聖句のアイコン聖書の言葉

139:1 主よ、あなたは私を探り、知っておられます。
139:2 あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ、
    遠くから私の思いを読み取られます。
139:3 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、
    私の道の全てを知り抜いておられます。
139:4 言葉が私の舌にのぼる前に、何と主よ、
    あなたはその全てを知っておられます。
139:5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、
    御手(みて)を私の上に置かれました。
139:6 そのような知識は私にとって
    あまりにも不思議、
    あまりにも高くて、及びもつきません。

139:7 私はどこへ行けるでしょう。
    あなたの御霊(みたま)から離れて。
    どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前(みまえ)を離れて。
139:8 たとえ、私が天に上っても、
    そこにあなたはおられ、
    私が陰府(よみ)に床を設けても、そこにあなたはおられます。
139:9 私が暁(あかつき)の翼を駆って、
    海の果てに住んでも、
139:10 そこでも、あなたの御手(みて)が私を導き、
    あなたの右の手が私を捕えます。詩編 139章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度の伝道礼拝に殆ど毎回出席され、他の日曜日には自宅でYouTubeにより礼拝に参加しておられたサツキさんが、7月10日の未明、天に召されました。今朝のこの伝道礼拝に彼女の姿が見えないことは、本当に寂しいです。

 その彼女を想いつつ、私はご葬儀で、私たち人間の最も大きな幸せの一つは、天と地と私たち人間を創られた真(まこと)の神に私たちが知られていることだという話をしました。

 しかし、どうでしょうか。私たちには、嘘やごまかし、人をすぐ裁く傲慢さなど、自己中心の罪があり、神に自分の全てが知られていることは、怖くないでしょうか。イヤでないでしょうか。実際、ヘブル4:13は「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私達は申し開きをするのです」と言います。

 けれども、こんな私たちのために、神はご自分の独り子(ひとりご)を救い主イエス・キリストとして、約2千年前、世に遣わされました。イエスは十字架でご自分の命を献げて、私たちの罪を全部償って下さいました。従って、そのイエス・キリストを救い主として心から信じ、依り頼むなら、私たちはあらゆる罪を赦され、神の子供とされ、やがて天国に入れて頂けます。神を卑屈に恐れる必要もありません。

 しかし、それだけでなく、私たちが神に知られていることが、本当はどんなに幸せかを、今朝は詩篇の139篇から学びたいと思います。

 詩篇139篇は、今から凡そ3千年前に、イスラエルのある信仰者が歌ったものです。詩人は悪人たちに命を狙われていました。怖かったと思います。しかし彼は、天地を創られた真(まこと)の神を信じる信仰者でした。彼は1節で「主よ」と呼びかけています。「主」とは、神が信仰者に示されたご自分のお名前です。ですから、彼は神に「主よ」と親しく呼びかけることが出来ました。既にここに真の神を信じる人の幸せがあると言えます。

 私たちも、イエス・キリストへの信仰だけで、天地を創られた真の神に、「主よ」と親しく呼びかけることを許されるのです。

 これだけでも幸せですが、詩人には更に幸せがありました。何でしょうか。自分が神に知られていることです。1~3節を読みます。「主よ、あなたは私を探り、知っておられます。あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道の全てを知り抜いておられます。」

 ここに「座る、立つ」「歩く、伏す」という表現が見られます。正反対のことを言うことで、真中も含めた全体をこれらは表わします。要するに、神の知識は、詩人が眠り、休み、働き、くつろぐなど、彼の全生活に及び、何一つ神の目に隠れてはいません。

 しかも、2節「遠くから」彼の思いを読み取られます。神は近くのものしか分らない方ではありません。どんなに離れた遠くからも読み取られるお方なのです。

 ところで、ここは神の知り方を色々なヘブル語で表しています。1節の「探る」は「徹底的に調べる」という意味です。1節後半と2節1行目の「知る」は普通の「知る」ですが、2節2行目の「読み取る」は「~を識別する」、3節1行目の「見守」るは「籾殻を風で吹き分ける」、3節2行目の「知り抜く」は「~に親しんでいる」という意味のヘブル語です。つまり、神が私たちを知る知り方は一面的・ワンパターンでなく、大変豊かな知り方なのです。

 神はまた2節2行目「私の思い」、つまり、彼の心の中もご存じです。これは4節でも言われます。4節「言葉が私の舌にのぼる前に…その全てを知り抜いておられ」ると。これは悪事を企む者にはイヤなことですが、自分の罪や不信仰を一切隠さず、自分を神に全く明け渡す謙った人には、何と幸せなことでしょう。

 幸せはこれに留まりません。外国から重要人物が来ると、ものものしい警護が、その人の前にも後ろにも上にもつき、その人を見守ります。実は信仰者は、神にとってそれ位、重要な存在であり、正にVIPなのです。ですから、詩人は歌います。5節「あなたは前から後ろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。」そういえば、旧約聖書のイザヤ43:4には、信仰者への神のこんな言葉もあります。「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」何と勿体ないばかりの神の愛でしょうか。

 従って、6節で詩人は、神の知識は「余りにも不思議で、余りにも高くて、及びも尽きません」と言いますが、これは嘆きではありません。彼を知っておられる神の知識の素晴らしさに嬉しくて驚嘆しているのです。

 彼は尚も歌います。7節「私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊を離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。」

 彼は本気で神から逃れたいのではありません。逃げられない位、自分が神に知られていることが、嬉しくて堪らないのです。実際、この世のどこに私たちが神から逃げられる所があるでしょうか。「私たちは神の中に生き、動き、存在」するのです(使徒17:28)。

 興味深いことに、7節「あなたの御前」とあります。元のヘブル語では「あなたの顔」、つまり、神の顔のことです。仮に私たちが、私たちのことを知る人など、誰一人いないウンと遠くの辺鄙な田舎の旅館に隠れ、戸も窓も全部閉じたとします。では、私たちは神から隠れられたのでしょうか!全くそうではありません。神の御顔は私たちの目の前にあり、真正面から私たちを見ておられるのです!

 神の御顔(みかお)について、こういうことも言えるでしょう。眠っている幼い子供の顔やお腹に、親は自分の顔を近づけ、くっつけないでしょうか。子供が愛おしいからです。イエス・キリストによりご自分の子供にした信仰者に、実は神も同じなのです!私たちを心底愛しておられるからです。

 詩人は更に歌います。8節「たとえ、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私が陰府に床を設けても、そこにあなたはおられます。」高い天も神の手の中でしかありません!  「陰府」とあります。昔は、地下の深い所に死人の行く恐ろしい所、陰府があると想像されていました。しかし、そこにも神はおられるのです!

 彼は尚も歌います。9節「私が暁の翼を駆って、海の果てに住んでも」と。

 「暁の翼」とは、夜明けに太陽の光がサーっと遠くへ広がる様子を描いたものでしょう。

 では、仮に朝の光に翼があり、それに彼が乗って東の端から西の海の果てまで光の速さで飛んだとして、一瞬でも神から逃げられるのでしょうか。いいえ!10節「そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます!」

 神はそこにもおられる!しかも、神の「御手」が彼を導き、神の力強い「右の手」が彼を捕えます。「捕える」と訳されているヘブル語には、「グイとつかむ、握る」という意味もあります。つまり、神を心から信じ、信頼し、幼子のように一切を神に委ね、素直に従う信仰者が倒れることを、地の果てであろうと海の果てであろうと、神は断じてお許しになりません!グイとご自分の手で信仰者の魂を導き、ご自分の右の手でつかまれる!握って下さる!これが今、イエス・キリストと聖書を通して、ご自分を親しく私たちに現し、私たちを永遠の救い、永遠の命にお招き下さっている真の神なのです。

 時間の関係で、今朝は10節で終りますが、今見て来た全ては、私たちが神に知られていることが、本当はどんなに幸せで、素晴らしいかを色々な角度から語ったものなのです。

 もう分ると思いますが、神は何故こうまでして私たちのような小さな、それどころか、愚かで不信仰な者をお知りになり、私たちに関心を持たれるのでしょうか。それは神が私たちを本当に愛しておられるからなのです。

 愛がない時、私たちは人に無関心です。人を知ろうとしません。知るためのエネルギーを傾けません。その反対に、愛がある時、私たちは人に関心を払います。エネルギーを傾けて、人を知ろうとします。

 聖書のⅠヨハネ4:8が言う通り、「神は愛」なのです。だからこそ、私たちのために、ご自分の独り子イエスを私たちの救い主・キリストとしてこの世に送られたのでした。ヨハネ福音書3:16は言います。「神は、実に、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子(みこ)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

 神は私たちを愛しておられます!ですから、逃げも隠れもせず、逆にもっと神に近づき、神に自分の全てをもっと開き、もっともっと知って頂きたいと思います。

 どうか全知全能の神が、またイエス・キリストが、慈しみをもって私たちの手を握り、今後の歩みの全てを導いて下さいますように!

 私たちもまた、自分が神にこんなにも知られていることを感謝し、喜びながら、ご一緒に助け合い、手を携え合いつつ、神の喜ばれる道を歩みたいと思います。

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