2022年11月24日「主の家に生きることの喜び」

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主の家に生きることの喜び

日付
説教
秋山安子 委員
聖書
詩編 122章1節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

122:1 「さあ、主の家に行こう。」
    人々が私にそう言った時、私は喜んだ。
122:2 エルサレムよ
    私たちの足は あなたの門の内に立っている。
122:3 エルサレム それは
    一つによくまとまった都として建てられている。
122:4 そこには 多くの部族 主の部族が上って来る。
    イスラエルである証しとして
主の御名に感謝するために。
122:5 そこには さばきの座
    ダビデの家の王座があるからだ。
122:6 エルサレムの平和のために祈れ。
   「あなたを愛する人々が安らかであるように。
122:7 あなたの城壁の内に 平和があるように。
    あなたの宮殿の内が 平穏であるように。」
122:8 私の兄弟 友のために さあ私は言おう。
  「あなたのうちに 平和があるように。」
122:9 私たちの神 主の家のために
    私はあなたの幸いを祈り求めよう。
    詩編 122章1節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 日本キリスト改革派教会・教育機関誌委員会発行の聖書日課『リジョイス』の本年11月20日のところには、「この詩編は、二つの喜びを伝えています。一つは行く教会があることです。二つ目は、誘ってくれる信仰の仲間がいることの喜びです」と記されています。本当にこの通りだと思います。そこで、私が教会に来たきっかけを、まずお話しさせて頂きたいと思います。

 私は、1980年11月23日(日・勤労感謝の日)に、今の夫に誘われて、教会の夕拝に初めて参加しました。夕食は鍋料理だったような記憶があります。午前中にお見合いをしましたので、朝の礼拝を夫は休んだのだと思います。その後、夫は日曜日毎に車で私を迎えに来るのですが、いつも遅れて来ていました。

 翌年の10月に結婚し、夫は11月に入院しましたので、それからは、私は自分で車を運転して教会に来たのだと思います。それから42年間、不思議と私は休むことなく日曜日には教会に来るという生活になりました。なぜ、このように休むことなく教会に集うことができたのか、私にも分かりません。神様の導きとしか言いようがないと思います。

 さて、この詩篇122の御言葉から、今まで学んだことを復習したいと思います。

 まず、「主の家」とあります。これは教会のことです。そこで、教会について復習してみます。エペソ人への手紙1:23には、こう教えられています。「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」

 また、『神様と共に歩む道(子供と親とのカテキズム解説)』の本の中で、「私たち自身が教会であり、私たちはキリストに結ばれて神の子供であり、兄弟姉妹であり、神の子供」だと教えられています。「国籍が天にあるという言葉の通り、教会は地上的な制約を超えた大きな共同体であります。教会には、国や民族や人種といった地上的な区別はありません。目に見える地上の教会には、天上の見えない教会との結びつきがあります。すでに召された信徒たちも同じ神様の家族として一つの教会に属しています」とも書かれています。

 教会は何をするところかというと、何よりも礼拝をするところです。『教会の政治・キリスト教会の礼拝』という本の中には、「改革派教会において、公的礼拝の目的は、躊躇なく神の栄光のため」と書かれています。教会の礼拝は、キリストのからだなる教会を建て上げるために制定されたもので、礼拝を通して、聖徒が完成され、罪人が回心することによって、これは達成されます。

 更に詩篇122を見てみます。6節~9節に「エルサレムの平和のために祈れ。『あなたを愛する人々が安らかであるように。…私の兄弟、友のために』」と書かれています。ここには、他者のための祈りが教えられています。つまり、教会を形成するためには、支え合いとしての祈りが重要であることが分かります。私たちは互いの重荷を分かち合うのです。兄弟姉妹の悲しみを共に担い、苦しみを分かち合う交わりと執り成しの祈りは、何と大切でしょうか。共同の祈りこそ、信徒の交わりを確かなものにし、誠実な共同体として建て上げる力です。その意味で、祈祷会は何と大切でしょうか。

 詩篇122で教えられている祈りの中に、「平和」という言葉が多く出てきます。平和とは完全性、健康、義、繁栄、守りを示すものですが、この世は、これらの平和を提供できません。真の平和は、神への信仰から来ます。なぜなら、神お独りが平和の全ての性質を備えておられるからです。自分の心の平和と他者との平和を見出すためには、神との平和を見出さなければなりません。

 最後に詩篇122:9を見てみます。「私たちの神、主の家のために、私はあなたの幸いを祈り求めよう。」

 「幸い」という言葉が目に留まります。幸いとは何でしょうか。11月20日に服部神学生が奨励をされた時、私は礼拝の司式を担当しました。私は、聖書のどこを礼拝への招きの言葉にしようかと迷い、最初はマタイの福音書5章3~10節の「心の貧しい人は幸いです。~」にしようと思いましたが、結局、詩篇119篇1~8節を選びました。どういう人が幸いであるかが、そこには次のように教えられているからです。

 「幸いなことよ 全き道を行く人々 主のみおしえに歩む人々。

  幸いなことよ 主のさとしを守り 心を尽くして主を求める人々。

  まことに 彼らは不正を行わず 主の道を歩みます。

  あなたは戒めを仰せつけられました。 それらを堅く守るように。

  どうか 私の道が堅くされますように。 あなたのおきてを守るために。

  そうすれば あなたのすべての仰せを見て 私を恥じることがありません。

  あなたの義のさばきを学ぶとき 私は直ぐな心であなたに感謝します。

  私はあなたのおきてを守ります。どうか私を見捨てないで下さい。」

 もうすぐ、私たちに本当の平和を与え、また真に私たちを幸いにするクリスマスを迎えます。その尊いクリスマス礼拝には、誰かが誘うならば、きっと来て下さる方々もおられるでしょう。ですから、是非、皆で親しい方々をお誘いしましょう。

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