2022年10月09日「天地の創り主なる神を信ず(使徒信条の学び 8)」

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天地の創り主なる神を信ず(使徒信条の学び 8)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
創世記 1章1節~13節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 はじめに神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。
1:4 神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。
1:5 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
1:6 神は仰せられた。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。すると、そのようになった。
1:8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
1:9 神は仰せられた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」すると、そのようになった。
1:10 神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
1:11 神は仰せられた。「地が植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに上に芽ばえさせよ。」すると、そのようになった。
1:12 地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しとみられた。
1:13 夕があり、朝があった。第三日。

創世記 1章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 教会が歴史を通じて告白してきた使徒信条を学んでいます。キリスト教信仰の根本を再確認し、信仰を励まされるためです。今朝は、天地の創り主なる神を信じること、特にその幸せについて学びたいと思います。

 どんな幸せがあるでしょうか。四つばかり、見たいと思います。

 第一は、真(まこと)の神を信じることが出来るという幸せです。

 何でも、偽物ではなく本物と出会い、それを知ることができることは、幸せですね。神についても同じです。世の中で神とされているものは沢山ありますが、常識で考えても神でないものが殆どですね。木や石を刻んだ物、古い大木や大きな岩や山、あるいは人間が頭で考え出したものが、どうして神でしょうか。そういう偶像に、どうして私たちは自分の全人生と永遠の行き先を預けられるでしょうか。

 しかし幸いなことに、私たちが導かれた神は、天地を創られた神なのです。真(しん)に神と呼べる方は、天地の創り主以外にあり得ません。がまさにその神を、私たちはイエス・キリストと聖書を通して知らされ、心から「お父様」と呼び掛け、一切を委ねて構いません。何と幸せなことでしょうか!

 Ⅰコリント8:4は言います。「『世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない』ことを私たちは知っています。というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神から全てのものは発し、この神に私たちは至るからです。」

 「天地の創り主なる神を信ず」とは、「その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変」(ウェストミンスター小教理問答4)の真の神を信じるということです。この幸せを、改めてよく覚えたいと思います。

 第二に、私たちは何ら迷信を恐れる必要がありません。これも何と幸せでしょう。

 随分前ですが、京阪神の町々では、若い世代の休日の関係で、友引の日にも開いている火葬場が増えている、とテレビが言っていました。とはいえ、相変らず友引を嫌がる人は多いです。死者が友を死へ引き込むかも知れず、縁起が悪いとされます。公的機関の火葬場が今もこんなことを恐れ、また葬式の会葬者に清め塩を渡す葬儀場もまだあります。死を恐れるのは自然ですが、問題は死にまつわる迷信です。

 しかし聖書は、何千年もそういう迷信的恐れから信仰者を解放して来ました。古代社会では、何でも神とされました。例えば、光も神とされ、人はそれを恐れました。しかし、創世記1:3は、神が「光、あれ」と言われると、光があったと教えます。光は神に創られた被造物に過ぎないということです。太陽や月や星などの天体も恐れられました。しかし、創世記1:14~18は、神がそれらを、しかも人間のために創られたことを教えます。従って、それらを拝み、あるいはその変化を恐れることなど、ナンセンスだと、聖書は何千年も前から教えて来ました。

 「天」は物理的宇宙空間だけでなく、聖書では、諸々の悪霊の働く霊の領域も意味します(エペソ6:12参照)。しかし、真の神は天地の創り主です。万物がこの神の支配下にあり、神の許しがなければ、木の葉1枚、髪の毛1本、地に落ちることはありません。何も神の主権を越えてまで、私たちに手出しすることは出来ません。天地を創られた真の神を心から信じるなら、迷信的なことも霊的なことも、一切、恐れる必要はありません。何と幸いなことでしょう。

 第三に私たちは、自分の罪からの救いとその完成に、希望と確信を持つことが出来ます。

 人間の持つ罪の問題は誠に厄介です。確かに信仰が成長すれば、救いの確信や神と共にある実感も増し、Ⅰペテロ1:8が言いますように「言葉に尽くせない、栄えに満ちた喜び」を味わえます。そして神の愛の広さ、長さ、高さ、深さが、また神の知恵や力や真実がますます分るようになります。

 しかし、それに伴い、自分の罪深さが一層よく分り、悩み、自己嫌悪するようにもなります。矛盾するようですが、キリスト教信仰は、深まれば深まる程、罪に対する感覚が鋭くなり、自分の不信仰と罪深さがよく分り、落胆することも増えます。自分には本当に信仰があるのか、自分の信仰は偽物ではないのかと思うことすらあります。「一体、私はいつまで同じ罪や失敗を繰返すのか。何故私はこうなのか。何と私は情けない人間か。これでも私は救われるのか」と嘆き、自分を呪わしく思うことさえあります。

 この苦しみを、パウロはローマ7:23、24でこう述べています。「私の体には異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、体にある罪の律法の内にとりこにしていることが分るのです。私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか。」

 しかし、ここに福音があります!私たちの信じる神は天地の創り主です。無から有を生じさせ、万物を創られた力をもって御子イエスを十字架の死から復活させられた神が、私たち信仰者の味方となって私たちを救って下さるのです。ですから、パウロはローマ8:31以降でこう言います。「…神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。私たち全てのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子と共に全てのものを、私たちに恵んで下さらないことがあるでしょうか。誰が、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めて下さるのです。誰が、私たちを罪ありとするのですか。」

 自分の罪と不信仰を思いますと、希望や確信はしぼみます。しかし聖書は、創世記からヨハネの黙示録まで66巻を通して、私たちをではなく、天地の創り主なる神を仰ぎ、ただただへりくだって、神を信じなさい、と教えます。イザヤ66:2で神は言われます。「私が目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、私の言葉におののく者だ。」ですから、私たち自身は駄目な人間であっても、神は天地の創り主なのですから、失望する必要はありません。ローマ10:11は言います。「この方に信頼する者は、誰も失望させられることがない。」

 以上、罪からの救いと完成に、希望と確信を持つことが出来るという最高の幸せを見ました。私たち人間の最大の問題である罪についてこうなのですから、私たちが人生で遭遇する様々な苦難についても同じです。天地の創り主なる神は、御子イエスにより断固私たち信仰者の魂を守って下さいます。

 救いはこの世では未完成ですが、死の瞬間、約束に従って聖霊は私たちを完全に清め、神の永遠の世界に入れて下さいます。何という幸せでしょう。

 最後、第四に、私たちは本当の意味で自分を愛し、大切にすることを励まされます。どういうことでしょうか。

 天地創造の最後に人が造られた後、創世記1:31は、神が全てのものをご覧になり、「非常に良かった」ことを伝えます。神は満足され、喜ばれました。この後、人は神に背き、堕落し、罪と悲惨が入って来ます。しかし、忘れてはなりません。神は元々、ご自分の造られた全被造物、特に人間を見て大いに満足し、喜ばれました。堕落した人間を、神が尚も憐れみ、御子イエスを通して救って下さるとは、実は神が最初の喜びと満足をもう一度味わいたいと思っておられる、ということなのです。

 私たちは罪の中に落ちました。しかし、神はご自分の作品である私たちを尚も愛しておられます。勿体なくも元々私たちは「非常に良かった」と言われるぐらい、神にとって最高の喜びであり、素晴らしい作品だったのです。これを忘れてはなりません。

 私たちは自分をどう思っているでしょうか。しかし何と神は、ご自身の子供として下さった私たち信仰者の、体も声も動くことも眠ることも笑うことも、つまり、私たちの存在そのものを喜びとしておられるのです。まして私たちが、自分の体も心も魂も御言葉に従って大切にし、また互いに愛し仕え合うなら、神はどんなに喜ばれることでしょう!勿体なくも私たちは、神の愛と熱心の込められた、また神に似る者として再創造された、神の大切な作品なのです!

 光を造り、水を天の上と下に分け、植物や水生動物、陸上動物を造り、最後にとっておきの作品として神は人間を造られました。その愛と熱心は、今も同じです。

 罪と不信仰を重ねていますのに、尚も神が私たちを滅ぼさず、今まで生かして来られたのは、神が私たちを特別に愛しておられるからなのです。だからこそ、神は私たちが罪のために永遠の滅び、地獄に至ることを望まれず、ご自分の最愛の独り子を賜ったのです。ヨハネ3:16は言います。「神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

 「天地の創り主なる神を信ず」とは、神がここまで私たちをご自分の宝物として愛しておられるのですから、私たちも神を愛し、御言葉に従って自分を正しく愛し大切にし、救いの完成に至るように努め、また互いに励まし合うことを意味します。

 更に言いますと、神が造られた山や海や空、動物、植物などの自然界を愛し、神のパートナーとしてこれらをよく管理し、神の喜びと清い満足のために、少しでも私たちは役立たせて頂くのです。

 この光栄と恵みを覚え、一層神を喜び、喜んでイエス・キリストの福音に生き、主イエス・キリストと共に歩みたいと思います。

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