2022年10月02日「全知の神を信ず(使徒信条の学び 7)」

問い合わせ

日本キリスト改革派 岡山西教会のホームページへ戻る

全知の神を信ず(使徒信条の学び 7)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
詩編 139章1節~24節

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

139:1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
139:2 あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られます。
139:3 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道の全てを知り抜いておられます。
139:4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはその全てを知っておられます。
139:5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
139:6 そのような知識は私にとって、あまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
139:7 私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊を離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。
139:8 たとえ、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
139:9 私が暁の翼を駆って、海の果てに住んでも、
139:10 そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。
139:11 たとい私が「おお闇よ。私をおおえ。私の周りの光よ。夜となれ」と言っても、
139:12 あなたにとっては、闇も暗くなく、夜は昼のように明るいのです。暗闇も光も同じことです。
139:13 あなたこそ、私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。
139:14 私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって、恐ろしいほどです。私のたましいはそれをよく知っています。
139:15 私が隠れた所で造られ、地の深い所で織り上げられたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
139:17 神よ。あなたの御思いを知るのは、なんと難しいことでしょう。その全ては、なんと多いことでしょう。
139:18 数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。
139:19 神よ。どうか悪者を殺してください。人の血を流す者どもよ。私から遠ざかれ。
139:20 彼らは敵意をもってあなたに語り、あなたの敵は、みだりに御名を口にします。
139:21 主よ。私はあなたを憎む者たちを、憎まないでしょうか。あなたに立ち向かう者を、嫌わないでしょうか。
139:22 私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました。
139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
詩編 139章1節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 キリスト教信仰の基本と骨格を身に着けるために、使徒信条を続けて学んでいます。今朝は全知の神について学びます。

 神の全知は神の全能に含まれていると言えますが、聖書は、神の全知についてかなり多くを語っています。そこで、今朝はこれを別個に取り上げます。

 「神が何でもご存じである」とは、私たち罪人には怖いことです。でも、何と大切でしょう。罪と滅びから私たちを少しでも守るからです。

 神は全てをご存じです。神には何一つ隠せません。詩篇139の作者は2節で、神は「遠くから私の思いを読み取られ」と言い、4節「言葉が私の舌にのぼる前に、何と主よ、あなたはその全てを知っておられる」と告白します。神は私たちの一切を本当にご存じです。心まで見透かしておられます。これを私たちは決して忘れてはなりません。

 私は昔、ある教会の教会学校の子供たちに「今まで一度も嘘をついたことのない人、手を挙げて」と言いました。誰も挙げませんでした。幼くても皆、自分が嘘をついたことは知っているのです。しかも、人は成長するにつれて巧妙になり、またしばしば無意識の内にごまかすため、自分でも嘘と真実とが分らなくなります。しかし、人をまた自分を騙せても、神は騙せません。神は私たちの隠れた罪も忘れた罪もご存じです。最後の審判の時、一切が明らかになります。自分の罪を軽く考えていますと、裁かれます。

 ですから、僅かでも自分の罪に気付くなら、直ちに神の前に平伏し、罪を告白し、主イエスの十字架の故に、赦しと清めを、真剣に神に求めたいと思います。

 隠れた罪についても、詩篇19:12はこう祈ります。「誰が自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか、隠れた罪から私を解き放って下さい。」

 全知の神を信じるとは、私たちの罪を全てご存じの神に心底平伏し、主の十字架を見上げ、真剣に赦しを願い、改めて神を畏れ、清く真実に生きることに励むことを意味します。

 以上、消極面を見ました。次に積極面を見ます。

 神の全知とは、神がご自分の創られた宇宙などマクロの世界から素粒子などミクロの世界をも全部ご存じであることを意味しますが、何より感謝なのは、私たちが神に知られていることです。ガラテヤ4:8、9は「あなた方はかつて神を知らずに、元々神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」と言い、Ⅱテモテ2:19は「主はご自分に属する者を知っておられる」と言います。神の全知とは、御子イエスへの信仰の故に神の子供とされた私たちを、神が誰よりもよく知っていて下さることに最大の意義があります。

 しかもそれは冷たい知り方ではありません。ローマ8:29は、クリスチャンを、神が「予め知っている人たち」と言います。ここの「知る」は「愛する」と殆ど同じ意味です。つまり、神が私たちを知っておられるその知り方は、親が自分の可愛い子供を他の誰よりもよく知っているように、実に温かい知り方なのです。

 御子イエスも、ご自分を羊飼いに喩え、信仰者を羊に喩えてこう言われます。ヨハネ10:27「私は良い牧者です。私は私のものを知っており」と。神はこんなにも私たちを愛しておられるのです。

 そこで詩篇139に戻ります。開口一番、作者は言います。1節「主よ、あなたは私を探り、知っておられます。」彼は自分が神に、それも何もかも知られていることに驚き感動しています!

 19~22節によりますと、彼は悪人に命を狙われる危険な状況にあり、どんなに怖くて不安だったでしょうか。しかしそんな中、彼は神のことを思いっ切り瞑想したところ、自分が神に知られている幸せにどんどん気付くのでした。

 まず1~6節です。神は、彼が2節「座るのも立つのも」、つまり、彼が休む時も起きる時も、また3節「歩くのも伏すのも」、つまり、彼が活動し、あるいは眠る時も知っておられます。命を狙われる危険な中、彼が恐れ苦しんでいることも、神は4節「その全てを知っておられる!」

 また屈強なボディガードがVIPの前も後も見守る以上に、5節、神は彼を前からも後ろからも上からも知っておられます。彼が自分を知る以上に、神が彼を全方向から知っていて下さる!ですから、彼は驚嘆して言います。6節「そのような知識は私にとって余りにも不思議、余りにも高くて及びも尽きません。」

 次の7~10節では、彼がどこにいようとも、神が彼を知らないなど、あり得ないことが生き生きと告白されます。7節「私はどこに行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。」無論、彼は本気で神から逃れようとしていたのではありません。仮に神から逃げようとしても、ということです。

 8節、まるで「天に登る」ような嬉しい時も、その逆に「陰府」、つまり地の底の死者の世界に身を横たえるような最悪と思える辛い時も、更に9節、「海の果て」に行っても、神が彼を知っておられることに何ら変りはありません。

 しかも、その知り方が嬉しいです。7節に「御前」とあります。仮に彼が海の果て、地の果てまで逃げ、世間から深く身を隠したとします。しかし神は、彼を隠れて見ておられるなどというのではありません。どこに隠れても、彼は本当は「御前」に、つまり、神の目の前にいるのです!しかも10節、力ある神の「右の手」が彼を掴んでいる!これが神の知り方なのです。

 11、12節、仮に恐ろしい暗闇の中に彼が囲まれ、誰一人彼のことに気付かないとしたら、どうでしょうか。この世ではそういうこともあるでしょう。しかし、神がご存じでないなど、決してあり得ません!最新の高性能赤外線カメラでは、真夜中でも人の様子が分ります。でも、神の目はそれどころではありません。神には12節「暗闇も光も同じ」なのです!ですから、暗闇で密かに流される私たちの涙をも、神はご存じです。

 13~18節、要するに、神は私たちの命の初めから終りまでご存じです。

 私たちは皆、誰かや何かを通して、人生のある時、神との出会いを許され、神を知りました。しかし神は、私たちが神を知る遙か前から私たちを知っておられます!私たちが16節「胎児」であった時も、神は見ておられました。私たちはそんな時から神に知られていたのです。

 それだけではありません。16節「あなたの書物に全てが記されました。私のために作られた日々が、しかもその一日もない内に」です。私たちには明日のことすら分りません。しかし私たちが知らなくても、神はご存じです!神は私たちの人生の終りまで、私たちの全てを、それも私たちのために知っていて下さるのです。

 私たちは誠に弱い者です。しかし、神を愛しているなら、私たちは神の永遠の救いのご計画の中で、間違いなくちゃんと神に知られています!Ⅰコリント8:3は言います。「誰かが神を愛するなら、その人は神に知られています。」

 もう十分でしょう。ですから、詩篇作者も嬉しくて、もっと自分が清くされることを願い、24節のように祈り、自分を神に明け渡すのです。

 私たちも自分の将来を考え、計画も立てます。それは大切なことです。しかし、分らないこともいっぱいあります。けれども、神は永遠のご計画の中で、私たち信仰者の生涯をハッキリご自分の書物に書いておられます。私たちは知らなくても、神が一切を計画して下さっている!ですから、いたずらに心配することなく、明日のことは明日自身に任せ(マタイ6:33)、むしろ今日という日を、真(しん)に神を畏れ、神を愛し、自分の責任を果たし、それ以上のことは一切を神に委ね、神に喜ばれるように生きたいと思います。

 誰かをよく知るためには、エネルギーが、いいえ、何より愛がいります。神はどうでしょうか。不信仰で全く取るに足りない罪人の私たちですのに、神はどれ程、私たちに関心を持たれ、詳しく親しく知っていて下さることでしょう。どうしてでしょうか。それは神が私たちを真に愛しておられるからです。何という神の愛でしょう。

 ですから、私たちも神から逃げないで、むしろ、自分を神にもっと知って頂き、また私たちも神をもっと知り、喜ぶことができるために、喜んで自分を神のご支配に明け渡し、御言葉と御霊の導きの下、心も魂も傾けて愛する主イエス・キリスト、魂の真(まこと)の羊飼いに改めて従いたいと思います。

関連する説教を探す関連する説教を探す