2022年05月22日「主は私の羊飼い」

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主は私の羊飼い

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
詩編 23篇1節~4節

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   ダビデの賛歌

23:1 主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴われます。
23:3 主は私の魂を生き返らせ、御名のゆえに、私を義の道に導かれます。
23:4 たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが共におられますから。あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。」
詩編 23篇1節~4節

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 伝道礼拝ですので、今日は少し自由にお話させて頂きます。

 世界中の多くのクリスチャンに愛されている詩篇23は、古代イスラエルの信仰者が歌ったものです。19世紀のイギリスの有名な説教者スポルジョンは、これを「詩篇の真珠」と呼んだそうです。元のヘブル語聖書では僅か55の単語からなる短いものですが、神への信頼に満ちた美しい詩だと思います。

 標題に「ダビデの賛歌」とあります。これは聖書本文ではなく、詩篇が編集された時に付けられたものです。「ダビデの」は「ダビデについての」とも訳せます。従って、必ずしも旧約聖書が伝える古代イスラエルの有名な信仰者ダビデが作者である訳ではありません。しかし、元は羊飼いであったダビデを思いつつ読みますと、よく分かると思います。今朝は1~4節だけを見ます。

 詩人は1節「主は私の羊飼い」と、まず自分の根本的な幸せを告白します。

 「主」とは、天地万物を創り、統治され、特に自分さえ良ければと思うことの多い私たち罪人を尚も愛し、ただ真実な悔い改めと信仰だけで永遠の死から救って下さる真(まこと)の神のことです。今の私たちには、神の御子、主イエス・キリストと考えますと、分りやすいでしょう。

 詩人は、主なる神と自分との関係を、羊飼いと羊の関係に喩えます。こう喩えるのは、良い羊飼いに導かれる羊は本当に幸せであることを知っているからです。詩人はその幸せを、1節「私は乏しいことがありません」と表現します。これは根本的な幸せについてです。

 詩人も現実の生活では、乏しさや不安を覚えることは度々あったでしょう。信仰者ダビデの生涯も、ひどい仕打ちを受け、命を狙われ、万事窮すということが何度もありました。

 主イエスを心から救い主と信じた歴史上の多くの優れたクリスチャンたちも、この世で辛い思いをしなかった者など、一人もいません。イエスご自身も、十字架の前夜、弟子たちにこう言われました。「世にあっては苦難があります」(ヨハネ16:33)。

 しかし、詩人が「私は乏しいことがありません」と言うのは、もっと根本的なことについてです。すなわち、自分が、全知全能の、しかも愛や真実において無限・永遠・不変の、真の神のものとされていることから来る、もっと大きな次元における幸せのことです。「今や罪を赦され、神の子とされ、永遠の命に与(あずか)っている私は、いつ死んでもすぐ主の御許(みもと)に召され、この世でも現に主に愛されている者として生きることを許されている!」この救いの事実から来る幸せを、詩人は「私は乏しいことがありません」と語るのです。

 今日、主イエスを信じるクリスチャン者も、この世で苦しいことは当然ありますが、根本的には、この詩人と同じ幸せに与っています。

 さて、彼は続けて幸せを歌います。2節「主は私を緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわ(=水際)に伴われます。」

 この詩篇の舞台は今のパレスチナであり、羊にも結構厳しい所のある土地柄です。しかし、羊飼いは羊を必ず緑の牧草地に導き、休ませ、水辺にも連れて行きます。羊は幸せです。

 救い主イエスと共に歩むクリスチャンも同じです。疲れ切って心に潤いをなくすことも時にはあります。しかし、私たちのことを私たちが自分を知る以上に分っていて下さる魂の羊飼いイエスは、ご自分に心から頼る者には、また必ず魂の休息を与え、潤して下さいます。2節「主は私を緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴われます。」

 彼は更に続けます。3節「主は私の魂を生き返らせ、御名の故に、私を義の道に導かれます。」

 詩人は、羊の比喩を用いながら、そこに自分の幸せを重ねて歌っています。良い羊飼いに導かれる羊は、どんなにくたびれても必ず回復させられ、間違った道からも正しい道へ戻らせてもらえます。良い羊飼いは、自分の名誉のためにもそうします。

 同様に、次から次と色々な苦しみに遭うこの世にあっても、ご自分にひたすら信頼する信仰者の魂を、主イエスは必ず癒し、回復させて下さいます。また弱さからつい不信仰な道へ逸れてしまうことがあっても、主は礼拝で御言葉により、神に喜ばれ真直ぐ天国に向かう義の道に戻して下さいます。それもご自分の御名のためにそうして下さいます。それが主にとっては名誉なのです。何という主の愛でしょうか。詩人は歌います。3節「主は私の魂を生き返らせ、御名の故に、私を義の道に導かれます。」

 こうして、詩人は良い羊飼いに伴われる羊の比喩により、神を信じ、神に従い委ね、神に導かれる信仰者の人生における幸せを見事に歌います。

 しかし、幸せはそれに留まりません。誰にとっても最後で最大の問題である死についても、詩人は神に導かれて歌います。4節「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが共におられますから。あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。」

 パレスチナは石灰岩が多く、ワディと呼ばれる深くて狭い暗い谷が沢山あります。そういう谷には野獣が隠れ、羊には非常に危険で、正(まさ)に「死の陰の谷」でした。でも、羊飼いが一緒なら安心です。好き勝手に動く羊を羊飼いは鞭や杖で従わせますが、同時に、羊を襲う野獣を鞭と杖で撃退します。

 同じようにイエスは、聖書の御言葉という鞭と杖で私たちを教え、戒め、正しく訓練し、同時に御言葉により、私たちの魂を永遠の死に至らせる恐ろしい罪とサタンからお守り下さるのです。

 詩篇23の作者は、自分が一匹の羊同様、頑固でわがままで迷いやすいくせに、本当は弱い者でしかないことを素直に認め、何も強がりません。しかし、天地の創り主、全知全能の真の神、主が、そんな弱い私の羊飼いでいて下さるから、私には何ものも奪い去ることのできない平安、喜びがある、と告白するのです。

 ここには一片の気負いもありません。自分に対して神が如何に愛と憐れみに満ちた救い主であられるかをよく知っている信仰者の、何とも言えない平安、穏やかさ、落ち着きが見られます。詩篇23は、こういう信仰者の姿を私たちに示し、また私たちの魂の羊飼いでいて下さるイエス・キリストの愛と恵みの豊かさを、間接的にはありますが美しく歌い上げます。実際、十字架で自ら死をも体験なさり、死ぬことがどういうことかもよくご存じの主イエスは、ご自分を心から信じ信頼する者が死を迎える時にも必ず傍らにおられ、死の手前から死の向う側へしっかり守り、導いて下さるのです。

 私には詩篇23についての忘れられないビデオがあります。『エレファント・マン』という映画です。主人公は、ジョン・メリックという19世紀末の実在のイギリス人です。

 まるで象のような姿の彼は、生れながらに大変重い奇形を持つ障害者でした。人が余りに怖がりますので、目の所だけ穴の開いた袋をいつも頭からかぶせられ、見世物小屋で動物のように扱われていました。

 その彼を、ある医者が医学研究のために病院に引き取ろうとしますが、皆が怖がり、また彼は言葉を話せないため、病院には置けないと言われます。しかし、その医者は彼を何とか置いてやりたいと思い、言葉さえ話せればと考え、詩篇23:1「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」を教えました。

 ある日、医者が病室の前を通りますと、何と部屋の中から詩篇23を唱えるジョン・メリックの声が聞こえ、しかも医者の教えていない所をも唱えていました。メリックは知的障害者のように装っていましたが、本当は聖書も読める人だったのです。誰からも見捨てられていましたが、彼は神を信じ、イエス・キリストだけが彼の友でした。彼は、イエスが彼の羊飼いで、どんな時にも彼と共にいて下さることを思い、普通では耐えられないような苦しみと悲しみと孤独の中でも絶望せず、慰められ平安でした。周りの人がどんなに醜い心で彼を残酷に扱い、卑しめても、勿論その時は辛いですが、彼の心・魂まで汚されることはありませんでした。

 高潔な人柄もあって、やがて彼は有名人になります。ところが、そのために彼は再び悪い人たちに知られ、悲劇が再び襲います。彼は病院から連れ去られ、以前のように見世物小屋でまた見世物にされ、ひどい扱いを受け、彼の健康はどんどん損なわれ弱っていきました。同じように働かされていた仲間の何人かが見るに見かねて、とうとう彼を夜こっそり逃がしてやります。彼は逃げました。しかし、奇妙な格好の彼は、逃げた先で子供たちや大人に動物のように追い詰められ、ついに彼は悲痛な声で叫びます。「私は動物じゃない。人間だ!」映画で再現したこの部分は、憤りと涙なしには見られません。人間はどうしてここまで残酷になれるのかと、たまらない気持になります。

 もう手遅れでしたが、ようやく収容された病院のベッドで、彼は最後まで誰にも恨みごとを言わず、あくまで回りの人に穏やかで優しく、自分の死をよく分りつつ、静かに最後の時を迎えます。聖書の御言葉が、彼の魂を固く守っていたのだと思います。御言葉の力を改めて覚えさせられます。

 「主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴われます。主は私の魂を生き返らせ、御名のゆえに、私を義の道に導かれます。たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが共におられますから。あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。」

 聖書の御言葉により、私たちも神の御子、主イエス・キリストへの確かな信仰を与えられ、そうして永遠の救いの恵みに、是非ご一緒に与りたいと思います。

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