2022年04月17日「私たちの希望-キリストの復活」

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:12 ところで、キリストは死者の中から甦られたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなた方の中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。
15:13 もし死者の復活がないとしたら、キリストも甦らなかったでしょう。
15:14 そして、キリストが甦らなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなた方の信仰も空しいものとなります。
15:15 私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、仮に死者が甦らないとしたら、神はキリストを甦らせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。
15:16 もし死者が甦らないとしたら、キリストも甦らなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストが甦らなかったとしたら、あなた方の信仰は空しく、あなた方は今もなお自分の罪の中にいます。
15:18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。
15:19 もし私たちが、この地上の命においてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちは全ての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中から甦られました。コリントの信徒への手紙一 15章12節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 今年も、神の御子イエス・キリストの復活を祝うイースターをご一緒に迎えることができ、感謝でございます。今朝は、イエスの復活が私たちにとってどんなに大きな希望であるかを改めて確認したいと思います。

 イエスの復活の2、30年後、コリント教会には復活を否定する者たちも現れました。そこでパウロは、17~19節で「もしキリストが甦らなかったとしたら、あなた方の信仰は空しく、あなた方は今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上の命においてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちは全ての人の中で一番哀れな者です」と、事の重大さを訴えます。しかし、事実、キリストは復活された(20節)!ですから、私たちクリスチャンには希望があるということです。

 では、それはどんな希望でしょうか。

 第一にそれは、イエス・キリストを自分の救い主として心から信じる者は、いつ死んでも神の永遠の裁きに至ることは絶対にない、という希望です。

 ヘブル9:27は言います。「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。」その通り、思いと言葉と行いにおける全ての罪に対して、私たち人間は死んだ後、皆、裁きを受けます。人間には見落としもありますが、神にはありません。とすると、一体誰が大丈夫でしょうか。

 しかし、イエス・キリストの復活は、実はイエスが神からの救い主であり、あの十字架はイエスが私たち罪人に代って神の裁きを全部受けて下さったことを証しする出来事だったのです。ですから、自分の罪と不信仰を心から悔い改め、イエスを信じ依り頼む者に、もう裁きはありません。ヨハネ3:18も言います。「御子を信じる者は裁かれない。」

 私たちは皆、必ずいつか死にます。しかし、イエスを心から信じ仰ぐ者に、永遠の裁きはもうありません。ですから恐れる必要はありません。キリストの復活がそれを保証しています!これが希望の第一です。

 第二に、キリスの復活は信仰者に永遠の命を保証しています!これも何と感謝なことでしょうか。

 17~19節は「キリストが甦らなかったとしたら、あなた方の信仰は空し」いと言い、「そうだとしたら、キリストにあって眠った(つまり、死んだ)者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上の命においてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちは全ての人の中で一番哀れな者です」と言います。

 確かにこの世でだけキリストに望みを抱いているのなら、クリスチャンほど、哀れな者はいないでしょう。死んで皆消滅するだけなら、神に喜ばれるように一生懸命真実に生きることに何の意味があるでしょう。空しいです。ですから、32節も言います。「もし死者が甦らないなら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから』ということにな」ると。

 でも、そうではありません!20節「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中から甦られ」たのです。十字架の3日後の日曜日、イエスは本当に復活され、弟子たちに何度も現れられました!ですから、この主イエスに信仰によって繋がって死ぬ信仰者も、世の終りに甦らされ、イエスと共に永遠に生きるのです。

 イエスは言われました。ヨハネ11:25「私は甦りです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです!」信者の魂は、死後、直ちに天に移され、世の終りに新しい完全な体を与えられて復活し、神が再創造された新しい世界で、神を永遠に喜びながら生きるのです。キリストの復活はこれを保証しているのです。

 これは、イエス・キリストを心から信じ愛する真(まこと)の信仰者の死に対する意識を、どんなに変えることでしょう。例えば、ヒトラーに抵抗したボンヘッファー牧師は、1945年4月9日(日)早朝、39歳で殉教しましたが、その現場を見た収容所付きの医者がこう書いています。「その日の5時から6時の間に、囚人たちは獄房から引き出され、戦時裁判所の判決文が読み上げられた。バラック建ての一つの部屋の半開き扉を通して私は、ボンヘッファー牧師が、着ていた囚人服を脱ぎ去る前に、床にひざまずき、彼の主なる神に祈りを捧げるのを見た。この特別に好感の持てる人物の祈りが、如何にも神に全身を委ね切り、神は確かに祈りを聞き給うという確信に溢れていたことに、私は非常に深い感銘を受けた。処刑される時も、彼は短い祈りを捧げ、それから力強く落ち着いて絞首台への階段を登った。死はその数秒後に訪れた。私は今まで殆ど50年にわたる医者としての生涯で、このように神に全てを委ねて死についた人を見たことがない。」

 元日本基督教団総会議長の辻宣道牧師は、癌で1994年7月25日、63歳で亡くなりました。辻牧師の最期の日々を、妻の哲子牧師が『もうひとことだけ』という本に書いておられます。死を前にした辻牧師の信仰をよく表している所を短く紹介致します。「朦朧状態が続くようになる。しかし(彼は)無言の中に主の御業を語りかけ、崇高な神の臨在を現している。特に復活の主を信じ、少しも恐れず死を迎える曇りなき信仰の確かさを、不信仰な私に教えてくれている。」キリストの復活が私たちに保証している永遠の命!それは何と素晴らしい希望でしょうか。

 第三に、キリストの復活は、この地上で私たちが生きていく上でも希望です。

 明日に希望があれば、私たちは辛くても今日を生きていけます。同じように、いつ死んでも主と共に永遠に生かされるという希望と確信は、今現在の私たちをも励まし支えます。

 キリストを復活させられた神は、不可能を可能とされる神です。ですから、今余りにも辛く、良いことなど起きそうにないと思えましても、早々と絶望する必要はありません。謙って神を仰ぐ人に、神はいつ、どんな形で恵みを下さるか分りません。ですから、神に期待して、私たちは自分のなすべきことを誠実に果たしていくのです。

 パウロは、イエス・キリストを人々に伝えたために、何度も迫害され殺されそうになりました。先のことを思いますと、どんなに不安だったでしょう。しかし、キリストの復活の事実が彼を支えました。彼は言います。Ⅱコリント1:8~10「兄弟たち、アジアで起った私たちの苦難について、あなた方に知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。実際、私たちは死の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者を甦らせて下さる神に頼る者となるためだったのです。神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出して下さいました。これからも救い出して下さいます。私たちはこの神に希望を置いています。」パウロはこの後、ローマで殉教するまで、神と人のためにどんなに多くの尊い働きをしたでしょうか。

 またキリストの復活は、私たちのためにキリストが今生きて父なる神に執り成して下さっていることを意味します。何と感謝なことでしょう。ですから、何かのことで私たちがひどく弱っている時も、私たちを何もかもご存じのイエスが、眠ることもまどろむこともなく見守り、執り成して下さっていることを、是非、思い起したいと思います。

 さらに、キリストの復活は、キリストを信じ、神と人によく仕えた人が永遠に生き、私たちは彼らと必ず再会できることをも意味します。その希望を抱いて、私たちは自分の歩むべき行程を最後まで歩みたいと思うのです。

 多くの優れた本を書かれ、9年前亡くなった榊原康夫牧師は57歳の時、奥様が天に召されました。暫くして私は他の用事で手紙を差し上げた時、お寂しいと思って、手紙の中で少しそれに触れました。すると「クリスチャンが一人天に召されることは、神を賛美する天国の住民が一人増えることである、というある人の言葉を心に留めています」と書いた葉書を下さいました。こういう気持で天を見上げ、愛する人の幸せを思い、天国での再会を待ち望みつつ、自分の使命にこの地上で励むことのできるクリスチャンの幸いを、改めて思います。

 キリストの復活が、神の裁きについても、私たちの死についても、また私たちがこの世で生きて行く上でも、私たちのどんなに確かな希望であるかを改めて深く心に刻み、神の喜んで下さる業(わざ)に皆で励みたいと思います。

 Ⅰコリント15:58を読んで終ります。「私の愛する兄弟たち、堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなた方は、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」

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