2021年03月11日「祈りについて (8)」

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祈りについて (8)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
詩編 84章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

84:1 万軍の【主】。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。
84:2 私のたましいは、【主】の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。
84:3 雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の【主】。私の王、私の神よ。
84:4 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。 

84:5 なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。
84:6 彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
84:7 彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現れます。

84:8 万軍の神、【主】よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。 セラ
84:9 神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。

84:10 まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。
84:11 まことに、神なる【主】は太陽です。盾です。【主】は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。
84:12 万軍の【主】よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。

詩編 84章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 今日も皆で祈りに入る前に、祈りについて学びます。8回目となります。

 私たちが祈りの言葉においても成長するために、ここ暫く、聖書の御言葉、特に祈りの宝庫である詩篇の様々な言葉を見て来ました。

 今日は、念のために一つの点を確認しておきます。

 祈りにおいて成長する上で、私たちは聖書の御言葉にもっと親しみ、自分の内に蓄え、自分のものにすること、またそれによって祈ることに伴う祝福の大きさをお話しました。これは本当にその通りです。しかし、聖書の御言葉に親しみ、それによって祈る目的は、これだけではありません。もっと根本的に重要な点があります。I.J.ヘッセリンク編集・解説によるカルヴァンの『祈りについて』という本にも書かれていますように、そもそも私たちの祈りは御言葉によらなければなりません。ヘッセリンクは適切にもこう書いています。「我々の祈りは御言葉に根拠を持ち、それによって形を整えられ、導かれなければならない。」

 カルヴァンは、キリスト教綱要Ⅲ・20・27で、詩篇44:20の「もし、私たちが自分たちの神の御名を忘れ、他の神に向って手を伸べ広げたなら」を引用しながらこう述べています。「神が喜ばれるのは、信仰から出るもののみであって、御言葉の基準に合致する祈りでなければならない、とはっきり命じておられる。…御言葉を信じる信仰が正しい祈りの母なのである。」

 さらに創世記註解の中でカルヴァンは「我々の祈りは御言葉の上に立つものでなければ、それは偽りの祈りである、とは自明の理である」と言います。

 色々引用しましたが、今見て来ましたこれらのことは何と大切でしょうか。これらは当り前のことなのですが、神に本当に祈りが聞かれるためには、私たちは真実な信仰によって祈らなければなりません。しかし、その真実な信仰とは、あくまで聖書の御言葉に教えられ、導かれて、成り立ちます。大事な点ですので繰り返します。私たちの祈りは、聖書の御言葉に根拠を持ち、御言葉によって形を整えられ、導かれなければならないのです。

 キリスト教らしい雰囲気や形を一応持ってはいますが、どことなく世俗的、この世的であり、もう少しと言いますと、キリスト教的というより、無意識の内に染みついている異教的な考えや習慣に基づく祈りもあります。そういう場合、周りのクリスチャンはハッキリ「アーメン」と言えませんが、何より神がそういう祈りはお聞きになりません。ですから、もう一度言いますが、私たちの祈りは、聖書の御言葉に根拠を持ち、御言葉によって形を整えられ、御言葉に導かれなければならないのです。この点を私たちは肝に銘じたいと思います。

 ヘッセリンクの本が紹介していますカルヴァンのイザヤ書53:12に基づく説教を紹介致します。

 「我々の祈りが神の言葉に沿った正しい規範をもっていなければ、その祈りはふざけたものであり、神はそれを拒まれることは間違いないからである。また、その同じ源泉、すなわち、神の真理から出る確かさによらなければ、信仰から生じた祈りとはなり得ないからである。」

 またカルヴァンは、特に詩篇に沿って祈る大切さを語っていますので、詩篇37の註解から少し引用します。「要するに、神を呼ぶこと(=神に祈ること)は我々が安全を確保する主要な手段の一つであるが、このことを実践するにあたって、より良い、また誤りを冒す危険のより少ない法則は、詩篇をおいて他に見出すことはできない…。」「我々が神に祈ろうとする時、そのようにすることへと鼓舞し励ますのに役立つ全てのことが、この書物(=詩篇)によって教えられる…。」

 以上、私たちの祈りは、聖書の御言葉によらなければならないという根本的な点を、念のために確認しました。

 さて、祈りの宝庫である詩篇の御言葉に改めて戻ります。今日は、特に84篇の御言葉に注目し、そこに滲み出ている万軍の主の神殿(いわば神の教会)とその礼拝を何より慕い、喜び、賛美し、告白する詩篇作者の熱い真実な信仰に触れて終ります。詩篇84:1~3、10をゆっくり味わいつつ読みます。皆様も詩篇作者の心、篤い、熱い信仰を追いながら、是非お読み下さい。

「万軍の主よ、あなたの住まいは何と慕わしいことでしょう。

 私の魂は、主の大庭を恋い慕って、絶え入るばかりです。私の心も身も、生ける神に喜びの歌を歌います。

 雀さえも、住みかを、燕(つばめ)も、ひなを入れる巣を、あなたの祭壇の所に得ます。万軍の主、私の王、私 の神よ。

 何と幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。…

 まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは、私の神の家の門口に立ちたいのです。」

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