2021年03月04日「祈りについて (7)」

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祈りについて (7)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
詩編 5章1節~3節

聖句のアイコン聖書の言葉

 5:1 私の言葉に耳を傾けて下さい。主よ。私の呻きを聞き取って下さい。
 5:2 私の叫ぶ声を耳に留めて下さい。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。
 5:3 主よ、朝明けに、私の声を聞いて下さい。朝明けに、私はあなたの御前に備えをし、仰ぎ望みます。詩編 5章1節~3節

原稿のアイコンメッセージ

 今日も祈りについて学びます。七回目となります。

 前回は、私たちが祈りの言葉においても成長するために、聖書の御言葉、特に祈りの宝庫である詩篇の言葉に親しみ、それを自分のものとし、その言葉、その表現、その信仰によって祈ることの祝福の大きさについてお話しました。今日も詩篇の言葉を見ます。

 詩篇の第5篇は、非常に悪質で邪ま(よこしま)な人たちから正当な理由もなく狙われ、不安で苦しい日々を送っていた一人の信仰者の祈りです。注目したいのは、神に懸命に助けを求める詩篇作者のその祈りの言葉です。1~3節「私の言葉に耳を傾けて下さい。主よ。私の呻きを聞き取って下さい。/ 私の叫ぶ声を耳に留めて下さい。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。/ 主よ、朝明けに、私の声を聞いて下さい。朝明けに、私はあなたの御前に備えをし、仰ぎ望みます。」

 詩篇作者は「神様、助けて下さい」と、ただ1回祈って終るのではありません。必死になって「私の言葉」、「私の呻き」、「私の声」と言葉を重ね、その夫々に「耳を傾け」、「聞き取り」、「耳に留めて下さい」と訴えます。

 3節では「朝明けに、私はあなたの御前に備えをし」と言います。神に助けを求めて必死なのですから、気だるそうに朝のんびり起きるのではなく、「朝明けに」、ですから、早朝から、或いは、毎朝、早起きして祈るのでした。

 「あなたの御前に備えをし」の意味はよく分りません。しかし多分、自分をピシッと整え、神に祈りを献げるということでしょう。

 

 3節の最後は、新改訳聖書2017版や共同訳聖書では「仰ぎ望みます」と訳されていますが、ヘブル語を直訳しますと、新改訳聖書第三版のように「見張る、監視する」という意味です。すなわち、神の答を切に仰ぎ望み、目を凝らし、必死になって見張るように、神のお答を待つということでしょう。

 如何でしょうか。神の救い、神の助けを待ち望むこの詩篇作者の必死で真剣な言葉が一つ一つ、ビンビン伝わってこないでしょうか。神がこういう詩篇の言葉を私たちの前に残して下さっていることの意味は大きいと思います。この通りの言葉で祈らなくても、真に大事で切実な願いがあるなら、これ程の真剣さ、必死さで、自分の日毎の生活形態をも朝から変え、整え、神の答を仰ぎ望み、見張って待つ位の姿勢で祈ることを教えられます。

 次に、詩篇23からはどうでしょうか。救い主、御子イエス・キリストへの信仰の故に与えられている救いの確信と喜び、慰めの豊かさ、またそれ故の魂の安らぎへと、私たちはこれを祈る度に引上げられると思います。引上げられる、と言いましたのは、私たち自身の罪と弱さのために、またこの罪の世界とサタンの狡猾な働きのために、私たちは絶えず試みられ、霊肉共に疲れて意気消沈していることが多いからです。しかし、この詩篇23を自分自身の信仰の告白としてゆっくりゆっくり、瞑想しつつ、祈るように読み、或いは、読みながら神への自分の祈りとするとどうでしょうか。私たちは、聖霊のお働きにより、きっとキリストにある救いの確信と喜び、慰めの豊かさ、そして魂の安らぎを味わうことを許されるでしょう。読んでみます。

 「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。/ 主は私を緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴われます。/ 主は私の魂を生き返らせ、御名の故に、私を義の道に導かれます。/ たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが共におられますから。あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。/ 私の敵をよそに、あなたは私の前に食卓を整え、頭に香油を注いで下さいます。私の杯は溢れています。/ まことに、私の命の日の限り、慈しみと恵みが、私を追って来るでしょう。私はいつまでも、主の家に住まいます。」

 今日は最後に、イエス・キリストの贖いと仲保者としての執り成しの故に、私たち人間に神から与えられている驚くべき栄光と誉れ、またそれ故の感謝と賛美を忘れないために、詩篇8:3~5の祈りの言葉を見ておきます。

 「あなたの指の業である、あなたの天、あなたが整えられた月や星を見るに、人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とは一体何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。/ あなたは、人を御使いより、僅かに欠けがある者とし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせて下さいました。」

 「人とは何ものなのでしょう」という自らの光栄と幸いを覚え、驚嘆しながら発する問いかけは、詩篇144:3にも、Ⅱサムエル7:18以降のダビデの祈りにもあります。自分に与えられている罪の赦し、救いの喜び、神の選びの恵みの余りの大きさに、考えれば考える程、圧倒され、ダビデは「神、主よ、私は何者でしょうか。私の家は一体何ものなのでしょうか。あなたが私をここまで導いて下さったとは」と問いかけ、祈りました(Ⅱサムエル7:18)。

 感謝、感動、喜び、驚きに満ちた問いかけの言葉を発する生き生きとしたこういう祈りを聖書で教えられ、またこう祈ることにより、一段と強められる私たちは、何と幸いでしょう!

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