◆ウェストミンスター信仰告白による説教

「信仰告白に生きる教会」  ローマ10:5~13  2018.5.6
序.夕拝を始めるにあたり…
 今日から夕べの礼拝を再開します。夕拝で何を語るのかと言うことは、いろいろなやり方があるかと思います。日本の教会において多く行われてきたのは、連続講解説教において、午前の礼拝において新約から語り、夕べの礼拝において旧約から語るということです。しかしこうしますと、夕拝に来られない方が旧約聖書から聞く機会がほとんどありません。またヨーロッパ大陸を起源とします長老教会では、夕拝においてハイデルベルクを学び続けるということが行われています。一年で一度、教理を学び終える形となり、繰り返してハイデルベルクを学び続けるのです。私としては、出席者の状況を確認して臨機応変に対応していきたいと思いますが、最初はウェストミンスター信仰告白の学びを行うことによって、私たちの改革派教会の持っている信仰を確認して行こうと思っています。

Ⅰ.なぜ、信仰告白が必要なの?
 私たちは「聖書のみ」と語るのに、なぜ信仰告白を持つことが必要なのかと思われる方もいるかと思います。。私たちは、神さまを信じる信仰という山に登ろうとしています。富士山を見て「山は良いな」と憧れます。しかし何もなければ、遭難してしまいます。山頂に通じるための山道の地図を持つ必要があります。つまり皆さまは、「神さまを信じる」ことが大切だと思っているかと思います。この時、どのような神さまを、どのように信じているかが大切なのです。それが手引きとしての信仰告白となるのです。なぜならば、同じ聖書を手がかりに神さまを信じようとしても、人によって解釈が異なるからです。それを信仰告白において解決するのです。
 私たちは、御父・御子・御霊なる三位一体なる神さま、そして御子イエス・キリストは、真の神でありつつ同時に真の人である二性一人格を信じることが前提にあります。しかし、聖書をそのように読み取ることが出来なかった人々がいました。3~5世紀の教会においてこのことが議論され、ニカイア信条、アタナシウス信条、カルケドン信条が告白され、三位一体と二性一人格を否定することは、キリスト教会の立場ではないと宣言し、異端との違いがはっきりとしたのです。ですから今でも、エホバの証人や統一協会、モルモン教について、私たちが「彼らはキリスト教ではない」と語るのは、このことの故です。
 つまり、私たちが信仰告白する理由の第一は、私たちが信じている神さまを確認し、異端者との区別にすることにあり、それを基本信条と呼ばれる使徒信条、ニカイア信条、アタナシウス信条、カルケドン信条において確認するのです。この基本4信条は、プロテスタント各教会のみならず、カトリック教会、東方教会においても若干の理解は異なりますが、一致することができるのです。そして信仰が違ったとしても、なおも一つの教会に連なるキリスト者としての交わりが与えられているのです。

Ⅱ.信条教会としての日本キリスト改革派教会
 一方日本のキリスト教会は100以上の教派に分かれています。「なぜ教派に分かれているのか」と言えば、聖書解釈の違いが大きな理由です。そのため、自分がどのように聖書を解釈し、どのような理解を持つ教派に属しているのか明確にする必要があります。そのために信仰告白が求められます。
 もちろん、キリスト教会も一つにまとまるにこしたことがありません。それを達成したのが1941年に発足した日本基督教団です。戦時中であり、国の政策に従うことにより教派が合同して結成されたのです。この時、各教派において目指している方向性の一致はありませんでした。そのため、天皇崇拝という「偶像崇拝」を行う大きな罪を犯し、近隣諸国の人たちを傷つけたのです。つまり、信仰が異なる人たちと一つになろうとする時、私たちは自分たちの信仰を歪めてしまい、さらに信仰の戦いを行うことができなくなるのです。
 そのため日本基督改革派教会は、1946年に日本基督教団から離脱する時、信仰を一にする教会に参加を求めて、ウェストミンスター信条(信仰告白、大教理、小教理)において一致する教会形成を目指したのです。ウェストミンスター信条を学ぶと言えば、何か難しいことを学ぶのかと思われるかも知れませんが、そうではありません。私たちが自分たちの信仰を確認し、自分たちがどのような神さまをどのように信じ、また私たちが神さまの御前にあってキリスト者としてどのような信仰生活を行い、信仰の証しを行うのかを、私たちはウェストミンスター信仰告白から学ぶのです。そして、ここに集う一人ひとりが、より聖書を理解し、信仰という山に登る道しるべとして頂きたいと思っています。
 
 
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ウェストミンスター信仰告白とは」  ペトロ二1:16~21  2018.5.13
序.
 前回、教会は異端者と戦うために信仰告白が必要であり、さらに三位一体と二性一人格を告白する使徒信条等の基本信条だけでは信仰の戦いが出来ないことを確認しました。
 
Ⅰ.多くある改革派諸信仰告白
 そして今日は、「ではなぜ日本キリスト改革派教会は、ウェストミンスター信条なのか」を考えます。実は私たち改革派・長老派教会において告白されている信仰告白は、ウェストミンスター信条に限りません。ハイデルベルク教理問答も、すばらしい信仰告白です。その他にも、ジュネーブ教理問答やフランス信条、第二スイス信条、スコットランド教理問答、アイルランド箇条など、改革派・長老派教会の信仰告白は、宗教改革期のものを中心に多く存在します。また、聖公会大綱とも呼ばれる三十九箇条などは、短い信仰告白ですが、イギリスの福音的な教会において、長く用いられてきた伝統もあります。
 ですから、「ウェストミンスター信条以外はダメ」ではありません。素晴らしい信仰告白も少なくはなく、学ぶべきことも多くあります。松谷先生は、「信仰告白は、武道における型のようなものだ」と語られます。武道にはそれぞれいくつかの型があり、どの型に従って習うのかで基本を身に着けるのです。信仰告白も同様に解釈すれば良いのです。
 
Ⅱ.ウェストミンスター神学者会議
 では、ウェストミンスター信条とはどのような信仰告白なのでしょうか? 信仰告白、大教理問答、小教理問答の3つでウェストミンスター信条と語られますが、1643~1649年にイングランドにおいて、ウェストミンスター神学者会議が開催され、その時に作成された文書です。宗教改革はルターにより1517年に始まりますが、130年に及ぶ宗教改革の最晩年に位置します。ここに一つの特徴があるわけで、宗教改革130年の神学的な進展があるわけで、教理においても構築されているのです。それらがまとまっているという点が、ウェストミンスターの特徴の一つと言って良いかと思います。
 イングランドは国教会の国です。今では違うかと思いますが、17世紀の頃は英国国会が招集される時、同時に神学的なことを話し合う神学者会議も招集されていました。そして国会から神学的な事柄が諮問され、神学者会議はそれを答申をする働きが求められました。英国国教会は、最初(1534年)は当時の国王ヘンリー8世が離婚するにあたり、ローマ教会に認められなかったために、自分の都合に合わせて設立されましたが、その後は国王によってプロテスタントの信仰に立ったり、カトリックの信仰に立ったり、大きな揺れがありました。それが、16世紀後半統治したエリザベス1世がアングリカン(中道主義)の路線を引き、それが現在にまで引き継がれてきています。ところが、ウェストミンスター神学者会議が行われた1640年代は、議会においてピューリタンが大勢を占めた時代であり、国王の側(王党派)はカトリックに近い信仰であり、両者の間に内線が行われていた時代です。そして神学者会議は国王に近い人たちも招集されましたが、参加することなく、ピューリタンが中心に会議が進められます。そして英国議会は、すでに長老主義を採用していましたスコットランドから軍事費を援助して頂き、つながりを深めていました。そして長老主義の教会をイングランドにおいても建て上げるべく、宗教、信仰告白、教会政治の形態、礼拝と教理問答教育の指針を作成することが求められたのです。ウェストミンスター神学者会議は5年8ヶ月にわたって行われます。忠実に議論され、そして立場の違いなども、なるべく受け入れられる文書がまとめられていったのです。文書の作成には、信仰告白で1年半、大教理問答で半年、最後の小教理問答も2ヶ月を要します。
 
Ⅲ.改革派エキュメニズム
 ですから、神学者会議に出席していた神学者たちは、宗教改革以来の改革派神学を十分に研究し、カルヴァン、ハイデルベルクやドルトといった大陸の諸信条も十分に理解していました。さらにピューリタンは、穏健な改革派信仰に基づく英国大綱と呼ばれる39箇条アイルランド箇条により信仰が養われてきております。つまりウェストミンスターは、教会とは何か、プロテスタント信仰(福音主義)とは何かを、突き詰めて、告白されたのです。
 日本キリスト改革派教会は、創立宣言においてウェストミンスターに代わる新信条の作成を目指すことを告白しています。しかしウェストミンスターを研究すれば、新信条作成のためには相当な神学とエネルギーが必要なことを実感します。だからこそ、私たちはウェストミンスターに学び、ウェストミンスター信条に基づく教会形成を行っていくのです。
 
 
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 自然の恵み 1:1」  ローマ1:18~23、1:32~2:16  2018.5.27
Ⅰ.ウェストミンスター信仰告白における聖書論
 今日からウェストミンスター信仰告白の本文に入ります。信仰告白や教理問答における順番、特に最初に何を語るのかは大切なことです。ウェストミンスター信仰告白は、「聖書について」を第1章におきました。宗教改革は、大きく二つの旗印「聖書のみ」、「信仰のみ」を持っていますが、ウェストミンスター神学者会議も聖書を重視したのです。
 また、ウェストミンスター信仰告白の「聖書について」は、宗教改革130年の歴史の中でも傑出した告白であるとされて、改革派教会において受け入れられているばかりか、プロテスタント教会であれば、ほぼ同意できる告白となっています。
 しかし、ウェストミンスター神学者会議が独自に聖書論を展開したかと言えば、そうではなく、ジェームズ・アッシャーによって執筆されたアイルランド信仰箇条(1615)にその基礎となる文書がすでにあったのです。そして、神学者会議に出席していた神学者もこれを良く理解していたのです。そのため神学者会議においては、論争はなく、短時間に信仰告白としてまとまったのです。
 いずれにしても、ウェストミンスター信仰告白において、聖書について私たちが学ぶことは、私たちが改革派教会に属すること以上に、プロテスタント教会に属するキリスト者として、聖書をどのように理解しているのかを確認する上で、大切なことです。

Ⅱ.自然と摂理に表れる自然啓示
 そして今日は、聖書についての第1節を学びます。現在に生きる私たちにとって、神さまを信じるためには、聖書が不可欠なのですが、主なる神さまが人間を創造して下さった時、人間にとって聖書は必要なかったのです。そのことがまず、語られています。
 「本性の光と、創造および摂理の御業は、神の慈しみと知恵と力を、人間が言い逃れできないほどに明らかにしてはいる」。神さまが創造された自然と、神さまがすべてを治めておられる摂理により、人間は、神さまを知り、神さまの慈しみ・知恵・力を受け入れ、神さまを信じることが出来るのです。一般啓示、自然啓示と呼ばれています。
 「しかしそれらは、救いに必要な、神とその御心についての知識を与えるのに十分ではない」と続きます。つまり、先に語られていることは、罪のない状態、つまりアダムとエバが罪を犯す前の状態では、それで十分だったのです。しかし、私たち人間に罪が入って来て時以来、自然により神さまを知ることは出来なくなったのです。それは、雨が降っている日も厚い雲の上に太陽がっても、見えないのと同じです。

Ⅲ.旧約の時代と新約の時代における特別啓示
 つまり、今に生きる私たち人間は生まれながらに罪人であり、太陽の存在を知らないのです。この時、私たちはどのようにして太陽である神さまを知ることが出来るでしょうか?神さまが、私たちに神さま御自身を示し・紹介して下さらなければ、私たちは太陽である神さまを知ることが出来ないのです。そのため、キリスト教は啓示の宗教であると語られ、神さまからの直接的な啓示、特別啓示が必要なのです。
 この時、神さまが私たちに御自身を啓示される方法として、信仰告白では「それゆえに主は、いろいろなときに、さまざまな方法で、御自身を啓示し、そのかれの御心をかれの教会に対して明示すること、をよしとされた」と語ります。「さまざまな方法」とは、旧約の時代、天使を用いたり、夢に現れたり、預言者を遣わされたりしたことであり、モーセに燃える柴に現れたこともあります。雲など自然を用いたり、奇跡を用いることもありました。そして神の御子は人としてお生まれになり、弟子たちに現れ、また十字架と復活・昇天を遂げてからは、パウロに現れたこともあります。旧約からイエス・キリストの時代までは、神さまは様々な方法で御自身を示され、罪人の救いを提示されてきたのです。
 「そして後には、真理をよりよく保持し広めるため、また、肉の腐敗と、サタンおよびこの世の悪意に対して、教会をいっそう確立し慰めるために、その啓示された御心をすべて文書にゆだねること、をよしとされた。神がその民に自らの御心を啓示された上述の以前の方法は、今では停止している」と語るように、新約の時代は、旧約の時代のように直接的な啓示は止み、「聖書のみ」です。カトリックが語る「教会の権威」が「聖書」に並ぶことを否定し、同時に聖書と共に、聖霊による霊感や異言を重んずる聖霊派をも否定します。私たちが、神さまを知り、信じようとするなら、聖書に聞くことが唯一の方法です。
 
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聖書は66巻 1:2,3」  ヨハネの黙示録22:18~19  2018.6.3
 
 Ⅰ.正典と疑われた書簡
 現在に生きるキリスト者に取って、旧約39巻、新約27巻、合計66巻に疑いを持つ者はほとんどいないかと思います。しかし宗教改革の時代では大きな問題でした。新共同訳聖書に「旧約聖書続編付」が発売されていることをご存じの方もいるかと思います。これは、新共同訳聖書をプロテスタント教会とカトリック教会が合同で翻訳したためです。つまり、カトリック教会では、この旧約聖書続編を第二正典として聖書の中に入れているのです。信仰告白1:2,3は、このカトリック教会に対する直接的な答えです。
 しかし私たちは、聖書の集約の歴史を顧みなければなりません。旧約聖書は巻物でした。列王記や歴代誌などが上下あるのは別の巻物だったからです。また新約聖書は主にパピルスに記されました。旧新約聖書が1冊にまとまるのは、4~5世紀を待たなければなりません。その間に正典であるかの取捨選択が行われていったのです。聖書が正典として一つにまとまるきっかけとなったのは、140年頃の神学者マルキオンに溯ります。彼は、キリストの福音しか認めず、ルカ福音書と牧会書簡を除くパウロ書簡のみを聖書としたのです。そのため教会は、どれが正典の書簡を集約することが求められていきました。
 聖書の正典を考える時、私たちも注意しなければなりません。新約聖書ばかりを読み、旧約聖書を無視していると、信仰に歪みが生じてきます。新約聖書だけ読んでいれば、救いや恵みばかりが強調され、旧約聖書に語られている人間の罪と神による神の裁き、罪の悔い改め等が抜け落ちるのです。旧約・新約66巻全体が聖書であって、新約聖書だけではダメなのです。もちろん聖書の中では、キリストが中心となり、福音書を中心に他の書簡よりは重んじられる書簡があることも否定できません。

Ⅱ.主により集められた御言葉
 では何が正典の規準となって、正典に入れられる書簡と正典から外された書簡とが分けられたのかを考えなければなりません。「これらはすべて、神の霊感によって与えられており、信仰と生活の規範である」(1:2)。第一の規準は、信仰と生活の規範として記されているのかどうかです。そして第二は「神の霊感」です。神の霊感によって見分けると言っても、簡単なことではありません。しかしここに聖霊の働きがあることを忘れてはなりません。正典であることは、人間が決めるのではなく、神による決定です。
 ウェストミンスター神学者会議が行われた少し前に活躍していたウィテカーという神学者は、聖書論について記し、ウェストミンスター神学者会議においても大きな影響を与えたと言われています。ウィテカーは次の様に語ります。「経外典は霊感されていない。ヘブル語で書かれていない。決してユダヤ人に受け入れられたことがない。教会の初代公会議において受け入れられたことがない。不道徳を含んでいる。教理的に間違っていること(死者のための祈りなど)が入っている」と。正典論の議論は難しい議論であり、普通の人の手から取り上げられているように思えますが、ウィテカーの教会観は正典に関して、教会(カトリック)の権威の介入を必要としないと考えました。多くの教会の信条は、次の様に語ります。「真の教会は、聖霊の働きによって、聖書の中にお働きになる聖霊を見分けることが出来る。教会の使命は、真と偽を見分けることである。教会は主人の声を知っている。聖書が聖なるもの、神の書であることを知ることが出来る」と言います。また個々の信徒は、教会が語るから受け入れつつ確信に至るのですと、ウィテカーは語ります。
 ウェストミンスター信仰告白が参考にしたアイルランド信仰箇条次の様に告白します。「一般に外典とよばれているその他の書物は、そのような霊感によってなったものではなく、したがって、教理のいかなる部分をも確立するに十分な権威をもったものではない。しかし、教会はそれらの書物を生活の模範と生活態度の教育のために多くの価値ある事柄を含んでいる書物として読むのである」。私たちとしては、旧新約66巻が神の御言葉であり、信仰と生活の規範であることを覚え、聖書に聞き続けることが第一であり、旧約続編と呼ばれる外典を神の御言葉としては一切受け入れませんが、当時の人々の生活を知ったり、価値ある文書として読むことまでは、否定するものではありません。
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 聖書の権威 1:4,5」  ヨハネによる福音書16:12~15  2018.6.10
 
Ⅰ.聖書は神の御言葉
 新約に生きる私たちにとって、仲保者キリストと出会い、神による救いに与るためには、聖書に聞かなければなりません。この時「聖書が神の御言葉である」とはどういうことかが問題とされます。
 聖書は66巻であることを前回確認しましたが、聖書の各書簡は各々に著者がいます。旧約聖書の最初の五書はモーセ五書と呼ばれています。また、預言書は各々預言者の名が書簡名となっています。新約聖書も、各福音書は著者名が記されています。また、パウロ書簡や使徒ヨハネによって記された手紙もあります。中には、ヘブライ書のように誰が記したのか確定できない書簡もあります。それでもなお、聖書は神の御言葉です。
 信仰告白は、「聖書が信じられ、従われねばならない、聖書の権威は、いかなる人間や教会の証言にも依拠せず、その著者である神(真理そのものであられる)にまったく依拠する。したがって聖書は、神の言葉であるという理由で受け入れられなければならない」と告白します。聖書の各書簡は、主なる神さまが聖霊により各書簡の著者に働きかけ、彼らの個性・学識・表現力を用いつつ、なおも神さまの御意志を、御言葉として記したのです。主が聖霊により、御言葉を届け、書簡を記すことを良とされたのです。つまり有機霊感であって、聖書の言葉を機械の如くに、一言一句、神さまが著者に示して書かせた(機械霊感・逐語霊感)のではありません。
 前回、聖書が66巻としてまとまるにあたって、人間的な思いで取捨選択されたのではなく、ここに聖霊が働き、信仰とキリスト者としての生活についての規準が記されているかどうかという判断基準により、分けられていったことを確認しました。
 
Ⅱ.聖霊と共に働く聖書
 聖書がどうして「神の御言葉である」と言えるかについて、信仰告白は第5節で8つ挙げます。①内容の天的性質 聖書は人間的な思いや感情によって記されることはありません。そうした文書は、正典確定段階でふるい落とされていったのです。②教理の有効性 私たちは教理や信仰告白において体系的にまとめていますが、聖書自身に教理があるからこそ、組織的に教理をまとめることが出来るのです。③文体の威厳 他の文書とは異なる文体の威厳さを聖書は持っています。日本語の聖書に翻訳する時、ヘボンはこの聖書自身が持っている威厳を日本語聖書にも持たせるように翻訳を始めたのです。④あらゆる部分の一致 聖書は、1000年以上の幅をもって記されます。それでもなお違和感なく読むことが出来るのは、語っていることが一致しているからです。⑤全体の目標(すなわち、神にすべての栄光を帰すこと) これは小教理・大教理問1の言葉です。信仰告白は大教理・小教理に先立ち記されています。つまり、大教理・小教理の問1「私たちの生きる目的」は、ここから確認しており、これが聖書の目指すことです。⑥人間の救いの唯一の方法についてなしている完全な開示 キリストの十字架による罪の贖いが成し遂げられ、信じる者に救いが与えられたことを告白します。⑦その他多くの比類ない優れた点。および、⑧その全き完全性 こうした8つの項目により、正典としての神の御言葉であるかどうかが、旧約・新約聖書が成立していく段階で確認され、66巻の聖書としてまとめられたのです。
 正典としてまとめられた聖書は、神の御言葉として、私たちが神さまを知り、神さまを信じるための必要な知恵が与えられる書簡です。これが聖書の外的照明・証言です。ただ、すべての人が聖書を読めば、神さまを知り、信じることが出来るかといえばそうではありません。私たちの側、つまり私たちの心の中に聖霊が働いて下さることが必要です。これが内的証言・照明です。内的照明がなければ、私たちは、いくら聖書を読んでも、神さまを受け入れることは出来ず、神さまを信じることが出来ないのです。
 宗教改革では「聖書のみ」を語りました。聖書以外に救い主キリストを知る道はありません。教会の権威を主張するカトリック教会や、聖霊の働きによって新たな啓示が与えられていると語る聖霊派、他の教典が必要だと語る異端は否定します。現在においても異端者は存在し、私たちと解釈を異にするカトリックや諸セクトもあります。私たちとしては、両極端を避け、バランスの取れた信仰が求められています。
 
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  聖書の十分性 1:6,7」  ヨハネによる福音書6:41~51   2018.6.17
 
 Ⅰ.聖書の十分性
 神よりの権威が与えられた聖書ですが、「私たちの人間の救いと信仰と生活に必要なすべての事柄に関する神の計らいの全体が、聖書の中に記されているか、それとも、正しく必要な帰結により聖書から導き出されるか、のいずれかである」と信仰告白は語ります。
 ここで改めて私たちは、「聖書のみ」を確認するのです。私たちは、聖書以外のものから、救い・信仰・生活について、知識を得ることは出来ないのです。つまり、聖書は66巻であることを確認したのですが、聖書のみを語りつつも、聖書の説き証し、実践において、聖書から離れたことを聖書の教えとして取り込むことも出てくるのです。
 主イエスはユダヤ人たちの信仰を否定しますが、彼らも旧約聖書を信じていたのです。しかし彼らは、聖書には記されていない律法を定めていたのです。これが律法主義です。一番良い例が、日曜日の労働についてです。「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と命じ、安息日にいかなる仕事をしてもならないと聖書は教えます。しかし彼らは「何歩以上あるいてはならない」とか規定します。律法はなぜ与えられたのでしょうか?律法は人を裁くためではなく、救われた民が、罪人であることを確認し、罪に注意するように与えられたのです。だからこそ主イエスは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)とお語りになります。またカトリック教会でも、マリアに罪がないこと、聖人の認定等、聖書が語らないことを、教会の権威において定めています。
 そのため信仰告白は「従って聖書には、御霊の新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、いかなるときにも、何も付け加えられてはならない」と語ります。
 ウェストミンスター信条も「律法主義だ」と揶揄されることがあります。大・小教理問答の十戒論の問答で罪のリストを記すからです。しかしウェストミンスターにおける罪のリストを確認すると分かりますが、一つひとつの罪に対してウェストミンスターは証拠聖句を付けており、新しい規定を作成したのではなく、聖書が語る罪を紹介しているのです。

Ⅱ.一般的原則と本性の光
 次に「神の計らいの全体が、聖書の中に記されているか、それとも、正しく必要な帰結により聖書から導き出されるか、のいずれかである」を考えます。ここで聖書を解釈する時、神の霊の内的照明が必要です。また、御言葉の一般的原則に従いつつ、本性の光とキリスト教的思慮によって定めることを良としています。
 例えば、礼拝をいつ行うか聖書は語りません。旧約の時代は、週の第七日を安息日としていました。しかし新約のキリスト教会は、日曜日をキリスト教安息日とし、日曜日に礼拝を持つようになりました。それは主イエスが甦られたのが週の最初の日の朝であること、そして復活の主イエスが、週の最初の日毎に弟子たちに現れ、礼拝を持ちました。そのことから新約のキリスト教会では、日曜日の午前に礼拝を持っているのです。
 また、礼拝を10時半から始めること、説教の長さを30分程度にすることなど聖書は語りません。宗教改革の時代、説教は2~3時間行われていたのです。こうしたことは社会生活の現状に合わせることを神さまは良として下さるのです。
 献金の額に関しても、旧約聖書には「収穫の十分の一を献げる」ことが求められていますが、主イエスは献金の額に関して語られません。ですから、月定献金に関しては十分の一を目処に献げることが語られますが、教会として規定することはしません。教会を維持することも覚えますが、神さまから与えられている恵みの感謝を献げれば良いのです。そして個人の生活、教会の維持においても、主によって満たされるように祈り求めるのです。

Ⅲ.聖書の明瞭性
 そして信仰告白7節では聖書の明瞭性について語ります。「救いのために知られ、信じられ、守られる必要がある事柄は、聖書のどこかの箇所には非常に明瞭に述べられ、説明されているので、学識ある人ばかりでなく、そうでない人も、通常の手段を適切に用いることによって、それらについて十分な理解に到達することができる」。カトリック教会が、聖書を解釈するのは教会が行うことであると語り、人々から聖書を排除していたことに対するアンチテーゼです。聖書の中には理解が難しい教えもあるけれども、聖書を信じるだけのものは聖書の他の箇所に十分に提示されているのです。だからこそ、宗教改革者は、聖書を翻訳し、印刷技術を用いて印刷し、人々の所に聖書を届けたのです。
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 聖書の言語 1:8」  コリントの信徒への手紙一14:26~33a   2018.6.24
 Ⅰ.ローマ・カトリックを意識して
 信仰を告白するのは自分たちの信仰を確認するためですが、それは同時に、意見に異を唱える人たちがいるからです。宗教改革の最後に位置するウェストミンスター信条は、ローマ・カトリック教会に対してプロテスト(抗議)するため、信仰が告白されています。
 当時のローマ・カトリック教会ではウルガータと呼ばれるラテン語聖書のみが用いられていました。それはAD382年に教皇ダマスス1世の命によってヒエロニムスによって翻訳された聖書です。当時のカトリック教会では、このラテン語聖書が、主なる神さまの御言葉を忠実に保存しているとの理由で、神聖の聖書であると語っていました。ウェストミンスター信仰告白の第8節は、このローマ・カトリック教会に対するアンチ・テーゼです。

Ⅱ.聖書の原語
 第8節の前半は聖書原語について語ります。旧約聖書は、神の民イスラエルの言葉であるヘブライ語によって記されました。モーセ五書に始まり、最後のマラキが紀元前2~3世紀頃に記されたことから、1000年を超える執筆期間があっても、記されていることに一致があるのは、主なる神さまの霊感があったわけであり、それが神の民イスラエルで用いられていたヘブライ語でした。この時、旧約聖書がヘブライ語であることを語ったのは意味あることでした。カトリック教会が正典として認めている旧約続編はギリシャ語を言語としていたのです。信仰告白はこれを正典として認めていないことを語っているのです。
 そして新約聖書はギリシャ語で記されました。主イエスの時代の弟子たちはヘブライ語を用いていたのですが、ペトロもギリシャ語を用いて聖書を記しました。信仰告白では、「諸国民に最も広く知られていた」と語りますが、地の果てまで福音宣教を行うように命令され、パウロが異邦人伝道のために召されたのであり、当時の世界の共通語であったギリシャ語を用いて、聖書が記したのです。神さまが直接、聖書記者たちに霊感し、必要な知識と言葉を与えられたからこそ、原語であるヘブライ語旧約聖書・ギリシャ語新約聖書は、大切にされ、最終的にはこれらの原語の聖書に聞かなければなりません。
 「純粋に保たれている」、「真正である」と信仰告白は語りますが、この当時から現在に至るまで、ヘブライ語の旧約聖書、ギリシャ語の新約聖書の原典は、本文研究が進み、変更が加えられています。ヘブライ語旧約聖書も、ギリシャ語新約聖書も、筆者が記した原本が存在しません。多くの写本を研究しながら、本文を確定していくのです。そのため、研究が進むことにより原典に変更が加えられることもあるのです。ですから、信仰告白で「真正である」と語るのは、この時代においては真正であって、これが一字一句に至るまで正確であるとは言っていません。このことは現在においても同様です。それでもなお、今、手にとって読むことが出来る聖書は、神さまから与えられた真正なものであるとの確信をもって読むことが大切であり、筆者が記した文書とは異なるのではという疑問を抱えた形で、聖書を読むべきではありません。

Ⅲ.翻訳聖書
 続けて、信仰告白は、翻訳聖書について語ります。ローマ・カトリック教会においては、聖書を翻訳することは許されず、1415年にヤン・フス(ボヘミア)、1536年にはウィリアム・ティンダル(イングランド)などは火刑に処せられました。ウィクリフはそれ以前の人ですが、死後に遺体と共に翻訳された聖書は焼かれたのです。しかしカトリック教会が翻訳聖書を禁じていた結果、聖書とは異なる教えである免罪符が教会の中に入ってきて、教会は腐敗のです。
 最初にお読みしたコリント書では異言について語られています。異言同様、自分たちの分からない外国語で記されている聖書を、普通の人は理解出来ません。解き明かし、説明する人がいなければなりません。聖書は呪文であってはならないのです。すべての人が理解出来なければなりません。そのため聖書が翻訳されることにおいても、人々が語っている言葉に訳される必要があり、ラテン語のように学問としての言葉や古語に訳されてはなりません。
 そして翻訳された聖書であっても、それを理解出来ない人々が理解出来るように解き明かすのが説教の役割であり、聖書を翻訳することを考える時に、同時に説教においても、人々に理解出来る言葉を獲得することが求められていることを覚えなければなりません。
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 聖書の解釈 1:9,10」  ペトロ二1:16~21   2018.7.1
 序.
 ウェストミンスター信仰告白における聖書についての学びも最後になります。聖書は、旧新約66巻あり、聖書の言葉そのものに、神の御言葉としての権威があります。そして聖霊によって教会に示され、今の私たちに語り継がれてきています。私たちは、神さまを知り、救いに導かれるためには、聖書の御言葉に聞かなければなりません。

Ⅰ.聖書は全体として一致している
 信仰告白は「聖書解釈の無謬の規範は、聖書自体である」と語ります。「無謬」とは「理論や判断に間違いがない」ことです。創世記における人間の創造は1章と2章の2つ語れています。両者に相違があるように思われます。しかし聖書は自然科学や歴史の教科書ではありません。聖書は目的・意図をもって記されており、同じ記述でも語り方が異なるのです。そして聖書は、私たちが神さまを信じるため、救われるため、そしてキリスト者として生きるために必要なことが記されているという点では、一点の曇りもありません。
 信仰告白は続けて、「いかなる聖句であれ、その真の完全な意味(それは多様ではなく、一つである)」と語ります。ローマ・カトリック教会では、聖書を解釈するのは教会だけであり、個人が聖書を解釈してはならず、人々から聖書が遠ざけられていました。一方、プロテスタント教会では、一人ひとりが聖書を読み、解釈をすることが許されています。万人預言者です。しかし、一人ひとりが聖書を解釈すれば違いが生じます。ここで語られていることと、違うではないかと思われるかも知れません。違いがあって構わないのです。ただ全体の流れにおいて一致が求められ、そのために信仰告白を行うのです。この範囲で一致があれば信仰の本質における一致を保つことが出来るのです。信仰告白が語らないことにおいて、解釈の幅があっても構わないのです。ある人から「聖書は金太郎飴である」と語られたことを覚えています。つまり聖書はいろんなことが記されていますが、突き詰めていけば一つのことが記されているのです。それは、「救い」であり、その裏にある「人間の罪」です。それが神の国の完成に向って進んでいるのです。ですから聖書は2000年前に記され自分の生活とは関わりのない昔話として読むためのものではありません。私たちが今、キリスト者として生きる時、体調の変化、生活の変化、艱難、試練、様々な苦しみが生じます。時として、神さまを疑う、信仰の危機を迎えます。そうした中にあっても、聖書は私たちに語りかけ、ゴールである神の御国の完成へと進んでいるのです。聖書が語る一つのこと、つまり真理である神の救いを信じているならば、私たちは神さまが共にいて下さり、救いの喜びに生きることが出来るのです。罪の赦しと救いというゴールに向って、聖書は私たちに語りかけて下さるのです。
 そして、「疑問があるときには、それは、もっと明瞭に語っている他のいくつかの箇所によって調べられ、知られなければならない」と語ります。先週の祈祷会の時、出エジプト記25~40章にある幕屋について学びました。幕屋の建設のための設計図が記されているのですが、読んでいて苦痛に思う様なテキストです。しかし、出エジプトにおけるイスラエルの民にとっては、神さまが一緒にいて下さることを確認することが大切なのであり、メシアとしての主イエスの十字架による贖いを指し示すための空間であったことを覚える時、私たちは新約に生きる者としてキリストの十字架による罪の贖いと救いに与っていることを確認出来るわけであり、旧約の民が約束のメシアを影としてでも、幕屋における神礼拝によって確認出来たことを、私たちは理解することが出来るのです。

Ⅱ.教会会議も、時に過ちを犯す
 続けて10節について考えます。宗教改革の時代、ローマ・カトリック教会における教会の決定に対して、宗教改革者たちは否を唱えていました。免罪符、マリアの無罪性、聖人……、ローマ・カトリック教会は、聖書で語られていないことを、教会の決定として考えて来たためです。そして、教会会議において誤りが混入する危険性があることは、ウェストミンスター信仰告白においても起こりうるし、また現在の改革派教会においても起こりうるのです。そうした場合、教会は、過ちを認め、そして聖書の決定に従うことが求められます。だからこそ、教会における指導的な立場にある牧師や長老は、主の御前に、常に謙虚・謙遜でなければならず、主がお語り下さる御言葉に聞き続けることが求められます。
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 唯一・生ける神 2:1」  申命記6:1~15   2018.7.8

序.
 今日から2章「神について」に入ります。ウェストミンスター信仰告白は、神についての前に、聖書論を最初に語りました。無限・不変・永遠の霊である神を知るためには、神からの啓示としての御言葉が語られなければなりません。


Ⅰ.無限・不変・永遠の神
 ウェストミンスター信仰告白は宗教改革における信仰告白であり、対ローマ・カトリックの告白の色彩が濃いことは確かです。しかし第2章「神について」に関して言えば、ローマ・カトリック教会においても基本的に同意できる信仰告白です。つまり宗教改革時の信仰告白は、古代信条(使徒信条、ニカイア信条、アカタナシオス信条)の基盤の上に、宗教改革時に求められた信仰を告白していきます。つまり神については、三位一体とキリストの二性一人格において、基本的な一致が保たれているのです。
 「唯一の、生ける、まことの神が存在されるだけである」。このことは、八百万の神を信じている日本人にとっては、徹底的に信じがたい真実です。しかし、申命記6:4~6が語るように、出エジプトを経験し、主による奇跡が示されているイスラエルであっても、繰り返し教えることが求められています。人間は忘れやすいのです。私たちが毎週礼拝に集うのも、主の存在と恵みを忘れるからです。
 次に「神は、存在と完全性において無限・目に見えず」と語り、日本人の神観との大きな違いが何であるかがはっきりします。私たち人間が有限であるのに対して、無限・不変・永遠の霊として主なる神さまが存在されます。続けて「無限、広大無辺、永遠、理解しつくすことができず、全能で、絶対的である」と語られます。私たち人間は有限であるため、無限である神を理解することはできません。無限・永遠・不変であられる主なる神さまが、御自身を啓示されることにより、私たちは初めて神さまを知ることができるのです。そして神さまは、有限である私たち人間が理解出来る仕方において神さまご自身を提示されているのであって、それ以上のことを、私たち人間が探し求める時、空想となり、本来の神さまから離れたものを追い求めることとなるのです。

Ⅱ.私たちを理解して下さる神さま
 次に「〔第二に〕最も愛と恵み、憐れみ、忍耐に富み・慈しみとまことに満ち・不義と違反、罪を赦し…」。ここでは私たち人間も持っている属性について語られています。神は御父・御子・御霊なる三位一体なる神です。この時、それぞれの間に交わりがあり、愛があるのです。ヨハネの手紙一では「神は愛なり」(4:8)と語られているとおりです。
 つまり神さまご自身が持っておられる愛・恵み・憐れみ・忍耐・慈しみ・まことと言った属性が、私たち人間にも与えられているのです。神は、神のかたちに、神に似せて人を造られました(創世1:27)。それが体と魂をもって生きる者とされたのですが、魂に通じるものが、これらの属性に備わっていると言えます。ただ私たち人間は、神さまから備わったこれらの属性においても、罪により不完全なものとなっているのです。
 別の見方をすれば、主なる神さまは、私たち人間との豊かな交わりがあり、私たち一人ひとりの苦しみも悲しみも、感情も、すべて知っておられ、そして共に寄り添い、励まし、力づけ、乗り越える力もお与え下さるお方です。そして、私たちは、祈りをとおして私たちの願いを神に語りかけ、神はそれを聞き入れて下さるのです。

Ⅲ.救いと裁きを行う神
 最後に「〔第三に〕熱心に御自分を求める者たちに報いられるお方、しかし他方〔第四に〕その裁きにおいては最も公正で恐ろしく、すべての罪を憎み、咎ある者を決して無罪にしてしまわれないお方である」と告白します。現在、教会において裁きを語ることに躊躇します。特に先週、オウム真理教の麻原彰晃が処刑されましたが、オウム事件(1995年)以降、宗教に対する嫌悪感が広まり、裁きについて語りにくくなりました。しかし、聖書は神さまを信じる者に対する救いを語り、同時に罪を犯しても神さまを信じることなく生きる者には、結果として滅びを避けて通ることができないことを語ります。私は、裁きについて、声高には語りませんが、主の裁きを箱の中に隠すこともしません。
 私たちは、今回の水害のように、人の生命を司り、時として奪うこと、裁き滅ぼすことができ、同時に神を信じる者を救って下さる神の御前に、遜り、救いと命が与えられていることに感謝しつつ、救いの喜びをもって、歩んで頂きたいと願っています。
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  「万物をつくり、治める神 2:2」  ローマ11:33~36   2018.7.15
                                 ※信仰告白は松谷好明訳を使用

序.
 夕拝においては、ウェストミンスター信仰告白より学んでいます。信仰告白では、聖書において神さまが私たちに語りかけて下さっていることの全体像を確認することができます。つまり、①三位一体なる神さまについて、②神さまが自己啓示される場としての聖書と教会について、③私たちキリスト者が生きることについてです。

Ⅰ.神と神の御前に生きる私たち
 第2章は「神について」が告白されます。私たち人間が、主なる神さまがどういう方であるかを知ることにより、①父なる神による予定、創造と摂理、②御子による救いの御業、③聖霊によって私たちにどのように救いがもたらされるのか、を理解することができます。
 前回の第1節は、私たち人間は有限ですが、主なる神さまは無限・永遠・不変の霊であることを中心に考えて来ました。
 信仰告白は神が自己自存、自己充足であると語ります。つまり、神さまは私たち人間の影響を受けるとか、働きかけがなければ存在できないお方ではありません。彫像を作ることも、神殿も不要です。人間がいなくても、神さまは神さまとして存在されるのです。
 同時に、神さまがすべての命を所有しておられ、私たち人間を含め、命あるものはすべて神さまによる創造の故に生きるものとなったのです。神さまの恵みがなければ、今という時も、私たちは生き続けることはできないのです(参照:ローマ9:20-21)。
 月報にも記しましたが、今回の西日本の災害も、自然を司られている神さまによる御業です。主はノアの時代、すべてを滅ぼし尽くすことは、もう終わりの時まで二度としないことを誓われました。それでもなお、部分的に自然を通して主の怒りが示されているのです。主が今、日本に生きる私たち一人ひとりに対して、主に立ち帰り、主の恵みに感謝と喜びをもって生きるように、警告されていのです。
 私たちの生きる目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです(小教理問1)。この時、神さまの栄光が称えられ、それと同時に、私たち人間にとっても、創造主である神さまからの恵みと祝福に満たされるのです。

Ⅱ.無限・無謬の神の知識
 信仰告白は後半で、神さまの知識・知恵について確認します。人間の知識は、著しく進歩し、インターネット・医療技術・様々な科学技術で日進月歩進化しています。しかし、人間の持っている知識はあくまで有限で、限界があります。そして一人ひとりの持っている知識はさらに限られています。英知を極めたソロモンですら、一人の人間に過ぎません。
 しかし神に知識は無限です。無謬、つまり誤りもありません。するとパウロの言葉も理解出来るのではないでしょうか(ローマ11:33~36)。つまり、神の知識の内には、天地万物の創造の前に、聖書に現れ、歴史に現れ、そして私たちに現れる事柄のすべてを定めておられ、そしてご存じなのです。そして、そこに誤りがないのです。
 私たち人間にとりまして、「なぜ?」ということが多々発生します。個人的な様々な艱難、病気、災害があります。また自然を通して発生する災害があります。社会において起こる様々な理解出来ない出来事に出会います。「神さまを信じている私になぜ?」ということもあります。それでもなお、主なる神さまは、すべてを良として下さいます。この時の神の無謬とは、終末の完成に向かっているのです。

Ⅲ.神礼拝は神へ献げるものである!
 そして、私たちは、神の無謬の知識と神が終末の完成に向って完成させようとしている神の国がどのようなものであるかは、手がかりがなければ、私たち人間は理解することはできません。そしてその手がかりが、神の啓示の書である聖書に記されているのです。だからこそ、私たちは、神の御言葉である聖書に聞くことが、求められています。
 だからこそ、無限・永遠・不変の霊である神を知り、神の知恵と創造と摂理の御業が示された私たちは、神の国の完成、つまり私たち自身にもたらされる救いを知るため、求めるため、聖書の御言葉に聞き、神さまを礼拝するのです。そして主は、私たちが主を求め、礼拝を献げる時、私たちの恵みと祝福を与え続けて下さいます。
 そして私たちが神さまを礼拝する時、神にささげられるものとなるのです。「神が天使と人間、および他のすべての被造物に対して求めるのをよしとされる、どのような礼拝・奉仕・あるいは従順も、当然それらから神に対してささげられるべきである」。
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  三位一体なる神 2:3」  マタイ3:13~17   2018.7.22
                               ※信仰告白は松谷好明訳を使用

Ⅰ.聖書が語る三位一体
 「三位一体」は聖書で直接語られていないため、非聖書的と批判する人たちがいます。しかし問題の核心は用語ではなく、その用語で指示されている真理が聖書的か否かです。
 旧約聖書では、神の唯一性が前面に出て来ます。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申命記6:4)。しかし三位一体を示すことが旧約聖書の中にも示されています。創世記1章の天地創造において、神の霊が動いている中、神の御子が言葉を発せられ、ここに三位一体の神が携わっています。また人を創造する時、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と語られ、「我々」は複数形です。神の交わりの内に人もその交わりに加えられます。また「神」を表すヘブライ語は単数では「エル」ですが、聖書では「エロヒーム」と複数形が用いられます。また、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」(イザヤ6:3)や、民数6:24~26において三位一体の暗示を、教会は読み取ってきました。
 新約聖書では多くのことが語られています。主イエスが洗礼を受けられる場面マタイ3:16~17で、天の父、聖霊が語られます。またパウロは「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(Ⅱコリ13:13)と語ります。
 また宣教命令では「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:19)と語ります。父と子と聖霊が並列に語られつつ、名は単数です。父・子・聖霊という3つの神が存在するわけではありません。

Ⅱ.御子、聖霊の問題
 ここで考えなければならないことは、キリストの神性と、聖霊の人格と神性の問題です。
 主イエスは、御自身のことを「わたしは神のもとからきて、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである」(ヨハネ8:42)とお語りになり、主イエスの身分は父との関係において特別な意味で「子」です。また、主イエスは父なる神さまのことを「わたしの天の父」(マタイ7:21)と語られ、御父は、「わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼ばれます。同時に、主イエスは父と等しく、神としてあがめられる本質を有しておられます。「律法の主」(マタイ5~7章:山上の説教)、「安息日の主」(同12:8)、「罪を赦す権威を持っておられる方」(マルコ2:1~12)です。ヨハネ福音書では「言は神であった」(1:1)と明言され、父と共に創造者としての神であることを示されます。そして「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」とお語りになり、「わたしは命のパンである」(6:35)、「わたしは世の光である」(8:12)、「わたしは羊の門である」(10:7)、「わたしは良い羊飼いである」(10:11)、「わたしは復活であり、命である」(11:25)、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と語られました。つまり「わたしはある」とモーセに対して語られた主なる神さまと等しい存在であることを語っています。イエス・キリストが「主」であるとの告白は、キリストの神性との関連で極めて重要な意義を持ちます。パウロは「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマ10:13)と語り、この「主」称号をそのままイエス・キリストに適用し「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)と語ります。
 次に聖霊の人格と神性の問題です。「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」(ヨハネ14:26)と語り、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき…」(15:26)と語ります。つまり聖霊は父と子から区別されつつ、同時に両者と密接に関係し、「父と子から出ている」のである。また聖霊は「神の霊」、「キリストの霊」(ローマ8:9)とも「御子の霊」(ガラテヤ4:6)、「主の霊」(Ⅱコリント3:17)とも呼ばれます。イエス・キリストは聖霊を「別の弁護者」(ヨハネ14:16)と呼ばれました。つまり聖霊は物的ではなく、主体的に人格を持っておられることを明らかにしています。また聖霊は「聞き」(ヨハネ16:13)、「告げる」(黙示録2:17)、「教え」(ヨハネ14:26)、「執り成し、祈る」(ローマ8:26、27)と語られます。また、「聖霊を欺く」ことはただちに「神を欺く」ことを意味します(使徒5:3、4)。つまり聖霊と神とが同一レベルで考えられており、聖霊の神性が証言されているのです。

Ⅲ.御父・御子・聖霊の交わりに生きるキリスト者の喜び
 私たちが三位一体の神を信じることは、御父・御子・御霊の愛の交わりが示されているのであり、御父の恵みが御子により聖霊によって私たちに示され、私たちの祈り・信仰が、聖霊により御子によって御父に示されるのです。私たちは抽象的な神を信じているのではなく、愛の交わりにある三位一体の神の恵みに満たされ、神の救いの交わりに加えられているのです。

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 神の永遠の御計画 3:1,2」  エフェソ1:3~14   2018.9.2
 
 Ⅰ.予定の教理
 ウェストミンスター信仰告白の学びも第3章に入ります。標題は「神の永遠の聖定について」です。ここでは二つのことが語られています。一つは狭い意味での「聖定」であり、神さまが世界のすべてにおいて御計画されたことです。もう一つが「予定」です。つまり、人間と天使のある者たちを救いへの御計画されたことです。この教理は改革派教会の信仰の核心といっても良い教理であり、同時に「神が滅びる者を定められている」と語られ、誤解され、評判の悪い教理です。そのために、より慎重に学んでいくことが求められます。
 聖定・予定を考える時、それだけを考えるのであれば片手落ちになるのであり、天地万物の創造と摂理、つまり神さまが歴史に起こることのすべてを支配しておられることも、合わせて考えなければなりません。それは私たちの生活を見ても明らかです。予定だけを立てて実行しなければ、それは計画倒れです。私たちが今生きていることが、神の聖定と予定の結果であれば、実行され創造と摂理が行われているのです。つまり、主による天地万物の聖定と神の民の予定に従って、主は天地創造を行われ、そして摂理によって歴史を支配しておられるのです。そしてこの歴史の中に、私たち人間も生きているのです。

Ⅱ.神の永遠の御計画
 1節・2節で狭い意味での「聖定」について考えます。エフェソ1:11は、「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。神の存在は、時間において永遠から永遠に存在されるのです。その時間を聖定される前に、主はすべてのことを御計画されているのです」と語ります。そして信仰告白は、「御自身の御心の最も賢く清い計らいにより、自由に、また不変的に、お定めになられた」と語ります。わたしたちは、主なる神さまが創造者であり、私たち人間は被造物であることを理解しておかなければなりません(参照:ローマ9:15~23)。神はすばらしい世界を創造されました。その創造に対して、私たち被造物が何かを語る資格があるのかということです。
 信仰告白は1節後半においてこのように告白します。「しかし、それによって、神が罪の作者となることなく、また、被造物の意志に暴力が加えられず、さらにまた、第二原因の自由や偶発性が取り去られるのではなく、むしろ確立されるようなしかたで、である」。ここでは2つのことが語られています。一つは、神が罪の作者ではなく、罪の責任を神に押しつけてはならないということです。神はすべてを御計画された。しかし罪を作られたとか、罪の責任を神に押しつけることは出来ないのです。そして第二に、人間の自由な意思と偶然についてです。私たちは日々いろんなことを思い、考え、そして行動しますが、神さまはそれを排除されることはありません。私たち人間は、神の操り人形として演じているのではなく、自分の意思をもって生きているのです。主はこうした私たちの意思を結果として尊重する形で、すべてを御計画されているのです。100%神の御計画であり、同時に100%私たち人間の意思の結果として、日々の出来事が起こってくるのです。つまり聖定が、宿命論や決定論として捉えられてはならないのです。

Ⅲ.予定は、喜びの約束である!
 信仰告白は2節で「神は、考えられるあらゆる条件に基づいて起こってくるであろうことや、起こりうることを、何事でもすべて知っておられるが、しかし神は、いかなることも、それを未来のこととして、あるいは、一定の条件に基づいて起こってくるものとして、予見したので聖定しておられるわけではない」と告白します。つまり、「神の予定は、神が人の行動を予知した結果、予定した」と語る予知論を否定しています(参照:ローマ9:10~13)。神さまが、エサウとヤコブが生まれる前に「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げたのは、神の自由な御計画によってであり、神の予知の結果ではありません。
 聖定・予定の教理は、救いを受け入れた私たちキリスト者にとりましては、もう神さまが天国を約束して下さっていることを、はっきりと宣言して下さっているのであり、滅びることはないのです。まだ神さまを受け入れることが出来ない人たちにも、神さまは救いへと招き続けて下さっています。それを拒むことこそが、人間の罪であって、神の責任にしてはなりません。神の救いにすでに入れられていることを、感謝と喜びをもって受け入れていただければ、これほど楽な人生はありません。
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 永遠の生命への予定 3:3-6」  テモテ二1:9~11   2018.9.9
 Ⅰ.神による永遠の予定
 「予定」は、改革派教会の教理の中心的な位置にあります。人の予定について語る信仰告白3節は、テモテ二1:9-10、エフェソ1:4-5の御言葉に基づいています。わたしたちは、主なる神さまが創造者であり、私たち人間は被造物であるとの関係をしっかりと理解しておかなければなりません。神にかたどり、神に似せて造られた人が、神は愛おしいのです。主なる神が定められることを、被造物である人間は、尊重しなければなりません。
 また人間は救われる権利があるから救われたのではありません。神のかたち、神に似せて造られた人間ですが、人は罪を犯し、永遠の裁きを逃れることができません。この滅び行く人間を、神はある人たち・天使を永遠の生命に予定して下さったと語るのです。神のまったくの自由な恵みと愛がここにあります。
 ある人は「神は人が罪を犯した後に予定されたのか」と語ります。「堕落後予定説」と言います。「永遠の昔に」(テモテ二1:9)、「天地創造の前に、……御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェソ1:4)と語ります。堕落前予定、つまり神が天地万物を創造する前に、罪が混入することもご存じの上で、神は人を救いへと予定されたのです。

Ⅱ.予定と遺棄
 信仰告白は続けて「他の者たちは永遠の死に前もって定められている」と語ります。遺棄の問題です。信仰告白の言葉に注意しなければなりません。救いへの「予定」は、「神の意思・命令」がはっきりとしている言葉ですが、滅びに「定められている」は「あらかじめ運命づける」という、より弱い言葉が用いられています。つまり、神さまはある人々・天使たちを救いへと予定して下さったが、残りの人たちは、結果として滅んで行くことを、神は許容したと語っているのです。
 このことがはっきりと語られているのはヨハネの黙示録です。神によって救いへと予定されている者たちは「神の刻印」が額に押されています。神の刻印が押されている神の民は、主が定められた時に、神の御前に、教会に集められ、主なる神さまを信じるように導かれるのです。そしてそうでない者たちは「獣の名の刻印」が額に押されていくのです。
 その結果、第4節では救いに予定されている者が決まっていることを告白します。このことはキリストの再臨と最後の審判の時にも関わってきます。つまり、罪に満ちた世にあっても主が最後の審判を遅らせておられるのは、まだ救いに予定された人々が教会に集まっていないからです。最後の一人が教会に導かれるまで、神さまは、最後の審判と神の国の完成を神の国の門を開けて待っておられるのです。そのため私たちは伝道の使命があるのです。伝道は大切です。しかし数あわせで行ってはいけません。私たちの使命は、神の民を教会に招き入れることです。神の民が教会に満たされることが目的です。ですから、時として、教会が小さくなること、時として閉鎖されることも、主の導きとして受け入れることが求められるのです。真の意味でのキリスト者が教会に集うことを、私たちは求めていくのです。主は罪人である私たちを用いて、御自身の御計画を満たされるのです。

Ⅲ.キリスト者にとって救いの喜びに満たされる神の予定
 予定論に反対する人たちは、「滅んで行く人たちを、神さまが予定されている」、「神さまは憐れみのないお方なのか」と語ります。滅びを主の責任にしてはなりません。主なる神さまを信じ、キリストの十字架の贖いを受け入れれば、救われるのです。無償の愛が提供されています。神さまの申し出を受け入れる者は、皆救われるのです。
 しかし、神さまの申し出を自ら拒否する人が、結果として滅びるのです。これを神さまの責任にしてはなりません。まさに「自己責任」です。社会の平等に対して、社会は環境を整える、支援を行うことが求められます。それなしに「自己責任」を語る時、そこに上に立つ者のおごりがあり、差別があります。しかし神さまは、すべての人に「信じれば救われる」とお語りになられています。たとえそれが殺人犯であったとしてもです。主の招きの声を聞きながらも教会に来ない・神さまを信じないのが、「自己責任」です。救いは神による恵みであり、滅びは彼ら自身の罪の故の刑罰です。
 クリスチャンにとって「あなたはもう神の民である。救われている。天国へ凱旋できる」と主は宣言してくださっています。滅びに向かっていた私が救われたのです。救いの感謝と喜びに満たされて、生きることが出来るのではないでしょうか。

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  選びの民でない人々 3:7」  ローマ9:19~29   2018.9.16
 【ウェストミンスター信仰告白講解説教】    ※信仰告白は松谷好明訳を使用
「選びの民でない人々 3:7」 ローマ9:19~29 (9/16)

序.
 ウェストミンスター信仰告白第3章「神の聖定(予定)について」学び続けています。私たちキリスト者とされた者、これからキリスト者とされる者に対する選びと同時に、結果として滅びていく(遺棄される)人たちがいることを語ります。

Ⅰ.永遠の死の責任を神に求めてはならない!
 選びの民に対して、「人類のそれ以外の者」と語ります。第3節では「永遠の死に前もって定められている」と語られ、この第7章では「恥辱と怒りに定めることを、よしとされた」と語ります。このことに対して教会の中でも批判があります。
 しかし私たちは、創造主である神さまと、神の被造物である人間の関係を忘れてはなりません(参照:創世1:26~28)。神さまが私たち人間を創造して下さる時、三位一体の神と同じように、生きる者として創造されたのです。このことが徹底的に大切です。神さまは、私たち人間が神と共に生きることを喜んで下さいます。
 その神が、どうして永遠の死・滅びることを定められたのでしょうか? 神が滅びに定めたというよりも、人間が罪を犯し神から離れていったのです。生命の契約(創世2:16~17)が与えられながらも、人はこの約束を破り、罪に陥ったのです。そして彼らから生まれ来るすべての人間が、罪の故に滅びの道を避けてとおることが出来なくなったのです。

Ⅱ.私たちがすべてを知り得ない神
 それでもなお、神は「信じる者は救われる」と救いの御手を差し出して下さいます。救われることこそが神の願いであり、罪の故に滅び行く人間を神の責任にしてはなりません。そのため「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか」(ローマ9:20)と語ります。
 続けてローマ書は、焼き物師が焼き物を作ることを例に出して、主なる神さまが、天地万物を創造し、私たち人間をも創り出して下さったことに言及します(9:21~23)。被造物である私たち人間は時間的にも空間的にも有限です。無限・永遠・不変の霊である創造主である神について、神さまが御言葉である聖書を通して私たちにお語り下さったことしか、私たちは神について知ることは出来ないのです。だからこそ、神が、どのような思いで、滅び行く人間がいることを悲しんでおられるか、私たちはその思いのすべてを知ろうとすること自体、的外れなことなのです。
 神による救いへと招かれる人がいる一方、結果として滅びる遺棄される人たちについて、私たちは神の御心を計り知ることは出来ません。信仰告白は「神は、御旨のままに憐れみを示しも控えもなさる、御自身の御心の測り知れない計らいに従い」と告白します。
 私たちとしては、すべての人が滅び行く中にあって、なおも、主は御言葉をお語りになることによりすべての人たちを救いへと招いていて下さっているのです。そして私たちキリスト者は、主の招きに導かれ、救われていることに感謝するだけです。

Ⅲ.予定に見る神の愛
 またローマ書はホセア書に言及します。ホセア書は、私たちに強烈な印象を残します。最初、主は預言者ホセアに、淫行の女をめとるように命じます。そして彼女から生まれた子どもの名前は、最初の男の子がイズレエルです。神は、このイズレエルが流血の罰が下る者とされます。そして二番目の女の子が、ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)です。そして三番目の男の子が、ロ・アンミ(わが民でない者)です。しかしローマ書に引用されていますホセア2:24~25では、裁かれ行くイスラエルの民は、罰が許され、憐れみが与えられ、わが民として迎え入れられることが宣言されます。
 ローマ書はさらにイザヤ書について言及します(イザヤ10:20~23)。イスラエルの罪の故に主による裁きが行われ、バビロン捕囚として囚われの身となるイスラエルに対して、「残りの者」についてお語り下さいます。罪の故に、大多数の者が滅び行く中にあって、なおも主に従い行く民が「残りの者」と語られています。神の義からすれば、イスラエルの民は、罪の刑罰として滅びる存在です。神は、義・聖・真実な方であり、罪をそのままで赦すことが出来ないからです。それでもなお、残りの者、救いの民をお与え下さったのです。主の愛を私たちは忘れてはなりません。遺棄というと、神さまが残酷のように思いますが、実は滅びるべき私たちを救って下さった愛が、予定の教理には込められていることを、私たちは忘れてはなりません。

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 予定の教理 3:8」  申命記29:21~28   2018.9.23
 
Ⅰ.高度な神秘
 信仰告白は、「予定というこの高度の神秘についての教理」と語ります。「神秘」とは、'mystery'であり、聖書では「奥義」、新共同訳聖書では一般的な言葉として「秘密、神秘、秘められた」と訳しています。ここは「予定は奥義な教理である」と語った方が分かりやすいのです。つまり、三位一体や二性一人格といった教理や信仰的が事柄でも同じように、予定の教理も、人間理理性で考えたら理解出来る事柄ではありません。つまり、主なる神さまから啓示された御言葉が、霊的に解き明かされることが求められます。
 だからこそ信仰告白では、「その御言葉の中に啓示された神の御心に注意深く聞き、それに従順に従う人々が、かれらの有効的召しの確かさから、自らの永遠の選びを確信できるように、特別な思慮と注意をもって取り扱われるべきである」と告白します。難しいから「教えなくて良い」、「理解出来なくて良い」とは語りません。特別な思慮と注意をもって、時間をかけ丁寧にです。分からなければ立ち止まり、一緒に考えることが必要です。
 カルヴァンはキリスト教綱要において、次のように語ります。「すべての神の民が神を恐れつつ聖書を読みまた探究するよう命じられているのであるから、聖書の明瞭性を確信し、正しい聖書解釈の原理に従って聖書を解釈し、聖書に密着して予定の教理を学ばなければならない。聖書が明瞭に教えるところでは大胆にどこまでも進んで行き、聖書がとどまるところで、とどまらなければならない」(Ⅲ:21:3)。
 
Ⅱ.信仰の継承は、継続的な学びから
 信仰告白は、「かれらの有効的召しの確かさから、自らの永遠の選びを確信できるように」と告白します。つまり、主なる神さまによる私たちの救いの御業は、救いへの予定に始まり、罪人の罪を赦すためのキリストの贖いが行われ、私たちの内に聖霊が働いてキリストと結合して、有効に召命が与えられ、信仰を告白することにより、義とされ、子とされ、聖化されます。一方、私たち人間の側からすれば、これとは逆のことが起こるのです。御言葉が語られることにより、聖霊により石の心が砕かれ、悔い改めと信仰の告白を行い、良き業へとかき立てられるのです。この時、キリストの十字架の贖いにより、罪が赦され、救われ、天国へと招き入れられていることを確信します。そして黙示録において語られているように、額に神の刻印が押され、神の民であることを確信します。そしてこの救いの御業は、私自身が勝ち取ったものではなく、神の永遠の御計画によることを知るのです。
 私たちはこうした教理を丁寧に、そして繰り返し学ぶことが求められます(申命6:6-9)。つまり私たち人間は忘れっぽいのです。救いの感動を忘れるのです。だからこそ申命29章では、カナンに入城したイスラエルが、主の恵みを忘れ、その結果主の裁きにあうことを警告しつつ、主が啓示して下さった恵みと律法を守るように語ります(申命29:21~28)。
 つまり私たちは、主がお語り下さった御言葉ならびに教理を、繰り返し学び、語り聞かせることが必要です。教理を疎かにする時、信仰の継承も滞ります。
 
Ⅲ.救いの感謝に生きるキリスト者
 信仰告白は最後で「そうすれば、この教理は、心から福音に従うすべての人々に、神への讃美と畏敬と称賛の理由、および謙遜と熱心と豊かな慰めの理由を、提供するであろう」と告白します。神への讃美と畏敬と称賛は、罪人であり滅び行く者が、神の一方的な定め、恵みによって救われ、永遠の生命が約束されていることから生じます。
 自分がどこかに優れたところがあるから選ばれたのではありません。他の人々に対して、信仰の故の思い上がりなど持つことが出来ず、神への感謝と主の誉れを讃えつつ、誰に対しても遜り謙遜を保つことが出来るのです。また、神は選びの民を神の御国における栄光に満たして下さるために、手段をも整えて下さいました。内的手段としての信仰と悔い改めがあり、外的手段として御言葉・礼典・祈りを整えてくださっており、これらに熱心に仕える時、善き業・奉仕・伝道に対しても、熱心さが備えられてくるのです。そして最後に、日々の生活の中に直面する苦難・誘惑・迫害の中にあっても、神の御計画により、神の御国に定められていることによる豊かな慰めが、私たちの信仰を守るのです。
 予定の教理は、聖書に記された神の御言葉と信仰者たちの聖書の核心から与えられた教理です。だからこそ、高度の神秘についての教理であるかもしれませんが、主の御言葉に聞きつつ、救いの喜びに満たされて、信仰生活を歩み続けていきたいものです。
 
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 天地創造 4:1」  創世記1章   2018.10.7

序.
 第4章「創造について」に入ります。信仰告白は第1節で、天地創造が、誰により、何の目的で、どのように創られたかを告白します。

Ⅰ.創造の目的
 ある人たちは、天地創造と旧約は父なる神の時代、イエス・キリストの時代、そして新約は聖霊の時代と、時代によって位格間の神の働きを区別します。しかし、信仰告白は、天地創造は、父・子・聖霊の三位一体なる神の働きであることを告白します。御父・御子・御霊の豊かな交わりの中にあって、御父の御計画に基づき、御子が語り、聖霊が宿ることにより、天地創造が行われたのです。ここに私たちは、主なる神さまが、愛をもって天地万物を創造されたのであり、その後に続く摂理、つまり旧約・新約の歴史の中にも、主なる神さまが介在しておられることを確認するのです。神さまを信じない多くの人々は、神さまによる天地万物の創造を否定し、ビッグバンにより世界が始まり、今も自分たちの手で世界を作り出せるように思っているのですが、私たちは、天地創造においても今の世界においても、三位一体なる主なる神さまが生きて働いておられることを忘れてはなりません。神を意識せず、自分の力で生きようとすることと、常に主なる神さまを意識し、主の御前に生きようとすることとは、生き方、考え方のすべてが違ってくるのです。
 神さまは、天地創造を目的をもって行われました。それが「その永遠の力と知恵と慈しみの栄光を現すため」です。神さまは無限・永遠・不変の存在です。永遠に存在される神さまは、天地万物を創造する前に、すべてを計画し、人の救いも予定されました。そしてこの予定は、神さまの永遠の力と知恵を慈しみの栄光が現れるためです。だからこそ、天地創造によって創られた私たち人間も、神の知恵と慈しみの栄光を現すために生きることが求められるのです。このことが小教理問1が語る「人間の生きる目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです」につながります。そして主なる神さまは、終末における最後の審判と神の国の完成において、この目的を達成されるのです。

Ⅱ.主による天地創造
 続けて信仰告白は何をどのように創造したのかを語ります。天地創造について、私たちは目に見えるものについては理解出来るのですが、「目に見えないものも」と信仰告白は語ります。ノーベル賞の発表の時を迎えていますが、物理・化学・生理医学などは、目に見えないミクロの世界、未知の世界に光を当てたことにより表彰されます。しかし、未知の世界は、主なる神さまがそうしたものを創造しておられた結果であり、人の発見、発明により、それが明らかになったのです。ノーベル賞では人類の学問の成果が素晴らしいことに注目が集まりますが、神さまの御業であることを私たちは忘れてはなりません。
 また、時間や季節の秩序や、自然界における様々な法則や秩序もまた、主によって創造されました。今年は日本でも世界でも自然災害が多発しています。現在の自然環境に関しては、環境問題と共に、神の摂理との関連で、改めて確認しますが、神の天地創造と共に、主の御業であり、主の介在があることを、私たちは忘れてはなりません。
 人間の創造については、第2節で改めて学びますが、私たち人間の生命ばかりか、魂もまた、主による創造であり、神のかたち、神に似せて創られた人間に特有なものです。

Ⅲ.神の国の完成によって到来する「きわめて良い」世界
 そして信仰告白は最後に、「そして、すべてはきわめて良かった」と語ります。創世記においては、4、10、12、18、21、25節において「神は……を見て、良しとされた」と繰り返し語られ、最後に31節で「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と語られました。他にこのような表現は、見当たりません。
 救済の歴史の中で、主イエスの十字架の死に際して「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と語られ、新天新地が到来する時には「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙示録21:4)と語られます。つまり、主が「きわめて良かった」と語るのは、天地創造の時のみです。主が改めてこの言葉を語られるのは、地上にある罪が取り除かれ、サタンが裁かれ、神の民が神の国に入れられた時です。黙示録の段階では、約束されていますが、主の言葉は、神の国の完成まで待たなければならないのです。神の国では、現在とはまったく異なった、罪・汚れ・病気や死・艱難もない、喜びの世界が約束されています。私たちは、「きわめて良い」神の国の完成に、希望をもって、今日も生き続けることが出来ます。
 
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 人間の創造 4:2」  創世記1:26~31、2:4b~17   2018.10.14
 
Ⅰ.神の創造と「進化論」
 人間が神によって創造されたことを語る時、いつも問題となるのが進化論との関係です。ダーウィンの仮説以来、多くの科学者たちによって定説化され、日本の学校教育においてもこれが唯一の答えであるかの如くに、今なお教えられています。子どもたちが学校で進化論を学ぶ時に、混乱したり、つまづいたりすることも少なからずあることかと思います。
 神による人間の創造は進化論と真っ向から対立する教えです。しかし「天地創造は昔話である」として葬り去られてはなりません。近年の遺伝子の研究により、人間や動植物の遺伝子の配列や成り立ち等が明らかになり、「進化」に関して否定されてきているのです。自然科学の研究の進歩により、社会においても「進化論」はやがて否定されるものであり、神の創造を否定できないものであることが証明されようとしています。

Ⅱ.人間の状態
 その上で、私たちは信仰告白に聞きます。信仰告白は3つ語りますが、今日は第一の部分のみ考えます。「男性と女性に、また、理性ある、不死の魂をもち、御自身のかたちに従って、知識と義と真の聖性を授けられた」。人は自由意思に任され罪を犯し創造の状態から離れました。今日は、創造の時・罪の状態・救われた状態について確認して行きます。

Ⅲ.神の像につくられた人間
 最初に信仰告白は「男性と女性に創られた」ことを告白します。現代では、性的な乱ればかりか、男尊女卑、DV、そして性的マイノリティ(LGBT)等の問題があります。男女平等は主イエスの時代から2000年がかかりましたが、今なお不十分です。LGBTは近年明らかになってきた問題です。聖書が語る同性愛の問題に留まるのではなく、病気であることも明らかになってきています。今まで聖書から教えられてきたことで解決することが出来ない問題であり、教会として個別的に信仰的な判断と解決が求められます。つまり人権の問題は、社会全体で考えて行かなければならない問題ですが、同時に神のかたちに創造された私たちキリスト者が、聖書に聞き・解決することが求められています。
 信仰告白は続けて、人が「理性ある」者として創造されたことを語ります。人には物事を総合的に、神の基準に従って判断する能力が備わっています。しかし罪に生きる私たちは、どれだけ冷静であったとしても、罪の故に真の意味での理性的に判断することが出来ません。自己保身・自己正当化します。「理性が外れる」、「感情的になる」のは、罪が極端な形で表に表れた結果です。キリスト者は、何事においても聖書的・理性的な判断が求められます。私たちは罪赦された罪人であり、常に不完全です。主の御前に遜り、信仰的に判断するために訓練が必要です。問題が複雑で感情的になりやすい時、特に金銭に関わることは、解決を急ぐことなく、一呼吸を置いてから、物事を判断することが必要です。
 次に信仰告白は、人が「不死の魂を持っている」と語ります。しかし、人は主との約束を破り罪を犯しました。その結果、人に死が持ち込まれたのです。人が創造された時、主は人を信頼し、永遠の交わりをすることが出来る者として創造してくださいました。しかし人はそれを裏切ったのです。罪の結果である「死」は、単なる肉的な死に留まることなく、魂にも及びます。肉の死に伴い、陰府に下り地獄における永遠の苦しみを避けることが出来ません。罪人である私たちが陰府に下ることを逃れるためには、既に陰府に下り、罪を償い、甦って下さったキリストを信じる以外に、生きる道はないのです。
 続けて信仰告白は人が「神のかたちに従って」創られたことを告白します。主なる神は、御父・御子・御霊の位格間における愛の交わりがあります。人は神との交わりとしての礼拝を献げる者として、そして隣人との交わり、隣人を愛し、自らの遜りと相手への敬う思いをもって生きるのです。しかし、人は罪を犯し、神と断絶し、自己中心に生きる者となりました。それでもなお人は神を求めます。その結果自らの都合の良い神を造り、偶像を拝むのです。主なる神を信じるためには、御言葉と共に聖霊が宿ることが求められます。
 次に人に知識と義と真の聖性が与えられたことを告白します。主が持っておられる知識・義・聖は完全です。罪は、すべてにおいて欠けが生じ、不完全にしました。主は人が罪人であることを示すため、そしてキリスト者が道を踏み外すことなく、神の義・聖を確認し正しい道を歩むことが出来るように、十戒を代表とする律法をお与え下さいました。
 神のかたちに創造された人は、罪を犯し、神がお与え下さったすべてのものを失い、不完全なもの、歪んだものとしてしかしることが出来なくなりました。しかし主は私たちにキリストの十字架の御業により救いをお与え下さいました。同時に、創造時に与えられた神の恵みを理解し、追い求めることが出来るようにして下さいました。再創造と呼ばれます。そして神の国が完成する時、すべての恵みを回復し、喜びに満ちた歩みが始まります。
 
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 神の保持と統治 5:1」  ヨブ記38章   2018.10.21
  
Ⅰ.摂理の教理の位置付け
 ウェストミンスター信仰告白の学びも、5章の摂理についてに入ります。摂理のみを単独で考えるとすべてを理解することはできません。つまり、第3章において語られていた永遠の聖定に基づいて、第4章で創造が語られ、それに続けて、創造の時から続く歴史に表れる事柄が摂理であることを理解しなければなりません。永遠の聖定は、神の国の完成というゴールが示されています。私たちが、家を建てるために設計すれば、ゴールを目指しつつ、途中でアクシデントがあったり、設計変更が必要となる場合もあります。しかし主は完全な御計画を立てておられます。この時、ゴールである神の国の完成と共に、その途上の道のりにおいても、計画通りに進むのであり、ここに歴史に表れる神の保持と統治があるのです。だからこそ、主の臨在、インマヌエル「主は私たちと共におられる」ことを、私たちは信じているのです。すべての歴史において主のご支配が及んでいることを私たちが受け入れる時、それは私たち一人ひとりの人生、そして日々の生活においても、主なる神さまのご支配、御業が及んでいることを受け入れることが求められます。
 信仰告白は、「あらゆる被造物と行為と物事、最大のものから最小のものまで」と語ります。神の働きが及ばないものは何一つ例外はありません。ある人々は、「信仰は心の問題である」と語り、矮小化します。しかし神の支配は、雀の命、花びら一枚に至るまでに及びます。そしてパウロはⅠコリント10:31で「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と語ります。
 そのため改革派教会では創立宣言において、有神論的人生観世界観を確立することを告白するのです。改革派信仰における教会形成は、教会だけに留まることなく、社会・学問・芸術・経済・政治…においても、例外はないのです。どの分野でも、主の栄光を称えて、主による救いを喜びつつ、関与するのです。信教の自由が求められている日本でも、聖書が禁じていることが政治において行われているのであれば、キリスト者としての良心の自由に従い「それは誤りである」との声を発していくことが大切です。
 
Ⅱ.ヨブ記をとおして、神の摂理を考える
 最初にヨブ記38章の御言葉をお読みしました。ヨブは、無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていたため(1:1)、主の祝福と恵みにより、家族・財産に恵まれていました。しかし、サタンの試みにより、家族・財産を失い、ヨブ自身も体全体が皮膚病にかかり、苦しみを覚えることにより物語は始まりました。「神が生きておられるのであれば、なぜ」といった疑問・訴えがなされていきます。こうした不幸と呼ばれることは、私たちの内に突如として訪れることがあります。そしてこうした疑問・訴えは、多くの人々が思っていることです。そして、神さまを否定しようとする人々にとっては、「だから、神はいない」との結論にまで至っているのではないかと思います。
 ヨブは、自ら陥った不幸について愚痴をこぼしつつ、3人の友人たちとの長い対話を行います。そして32章になると、年少者であるエリフが語り始めます。そして最後に、主なる神がヨブに語りかけます(38~41章)。ここでは、主の御計画に基づく天地万物の創造、それに続く摂理、つまり自然を含むすべての事柄、動物・鳥・家畜に至るまでのすべての命あるものを覚え、一つひとつの命に心を配られておられること、ましてや人の命・日々の歩みにいたるまで、配慮しておられることが語られていきます。
 主からの言葉を聞いたヨブは40:4~5と42:2~6で返答します。主の聖定に基づく創造と摂理の中に、私たちは生命が与えられています。私たちの知恵は、その一部に過ぎません。私たちが主なる神さま、主なる神さまの御業を知る時、主の御前にひれ伏すことしか出来ないのです。主の御前に、私たち人間の知恵は取るに足らないものであり、高慢になってはなりません。主の御計画と統治は、私たちを救うための愛に満ちており、私たちが主を知る時、主の恵みに生きる者とされるのです。主の大いなる教理としての聖定・創造・摂理、そして神の国の完成を知る時、私たちは、自らの小ささと共に、罪人でありながらも主の救いに入れられていることに感謝と喜びが与えられます。この時、私たちは、悔い改めと遜りをもって、主への信仰を新たにすることが出来るのです。
 繰り返して語ってきていることですが、聖書全体の救済の枠組み、そして神の教理の全体像を私たちが知る時、私たちは主への信仰が備えられていくのだと思います。
 
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 神の計画と人間の行い 5:2」  エレミヤ書31章23~40節  2018.10.28
 
序.
 第5章「摂理について」で、第1節では、主の聖定が出発点であり、創造と摂理が密接に関連しており、終末における神の国の完成へと向かっていることを確認しました。

Ⅰ.神の御計画と人間の意志
 第2節では神の御計画と私たち人間の自由意志の関係について考えます。「私たち人間は神の操り人形であって、自分の意志は関係ないのか」と考える人たちがいます。
 皆さんは、神に力によって強制的に行われたと感じることがあるでしょうか? キリスト者として、後に考えて「神の導きがあった」と思われることがあっても、日々の生活、一つひとつの出来事まで神の御力を日々感じつつ、生きるということは無いかと思います。私たちに自由な意志が与えられており、神の操り人形ではない証拠です。
 神の永遠の御計画と、私たちの自由意志は、人間理性で考えれば相反することかも知れません。しかしそれらの両者はどちらも成り立つのだと信仰告白は語ります。私たち人間の持っている知識は限られており、無限である主なる神のすべてを知ろうとしてもできないのです。だから、分からないからもう考えないのではなく、私たちには理解しがたいことだけれども、神さまは私たちに何を求めておられるのかを、一緒に考えたいと思います。

Ⅱ.神の摂理
 「万物は、第一原因である神の、予知と聖定との関係では、不変的に、また無謬的に起こってくる」。神さまの御計画は、途中で予定変更して変わるようなことはなく、無謬、つまり、またまったく誤りがありません。
 このことは、神の国の完成という救済の歴史全体において言えるのと合わせて、私たちの救い、さらには私たちの今日の生活、一つひとつの出来事にまで及びます。だからこそ私たちは食べること、飲むことにおいても主に栄光を現し感謝するのです(Ⅰコリ10:31)。
 信仰告白は「万物が、種々の第二原因の性質に従う」と語り、私たちは誰からも強制されることなく、私たちの意思・私たちの自由によって行動・思考するのです。
 ですから、一つの行動を行う時、それは100%神さまの御意志・御計画ですが、同時に100%私たちの自由・意思が表れた結果です。神さまが50%出し、私たちの意思が50%出され、折衷されたものが行動に表れるというようなことではありません。

Ⅲ.聖書の事例
 ここで信仰告白の証拠聖句から確認します。最初に創世記8:22。ノアの洪水の後、ノアと家族が箱舟から出て、地に降りた時に主がお語りになられた言葉です。「わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない。」今年は夏の猛暑や台風や洪水・地震災害が続きましたが、10月も末になれば秋が深まっております。季節の移り変わりを私たちは実感するのです。私たちはこれが当然と思っています。しかし主はノアの洪水の後にこのことを約束して下さったのです。洪水で世界中が水に浸かったのです。季節が移り変わりを普通に考えられない時に、主はこの約束をして下さったのです。
 続けてエレミヤ31:35です。預言者エレミヤは、南ユダ王国の滅亡と捕囚を預言した後、捕囚の民が帰還し、新しい契約が与えられることを預言します。毎日、太陽が登り、月や星を定め、海には波を起こす。これは自然の営みですが、同じようにイスラエルの子孫が祝福されることを約束して下さいます。これは神の一方的な恵みによって与えられることであって、イスラエルの民にとっては予想も付かないことです。
 3つめは列王記上22:28,34です。南ユダ王国のヨシャファト王と、北イスラエル王国のアハブ王は、アラムに戦いを挑んでいます。この時に預言者ミカヤは、北イスラエルの王アハブが滅びることを預言します。24:24~35を御確認下さい。ここで起こったことは、偶然に発生したことですが、主の預言・主の御計画が、このような形で成就するのです。
 主イエスの十字架を確認します。主イエスは、イスカリオテのユダの手によって逮捕され、ユダヤ人の手によって十字架に架けられました。しかしユダヤ人の罪を用いつつ、主の救いの御計画が成就し、神の民の救いが成し遂げられたのです。
 主の御計画は、私たちにとって理解しがたいことがあります。しかし主の御計画が私たちの言動によって成就していきます。ここに主の不思議があります。主は私たちの自由な意志を尊重して下さりつつ、なおも主の御計画を実現し完成して下さいます。
 
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 日々の出来事と奇跡 5:3」  創世記18章1~15節  2018.11.4
  
序.
 父なる神の御計画に基づいて、天地万物を創造し、その時以来、現在にいたるまで、そして神の国の完成まで、主なる神がすべてを統治しておられます。この時、私たち人間の自由意志をも邪魔しない形で、神の御業が成し遂げられているのです。

Ⅰ.通常の手段に生きる私たち
 今日は奇跡に関して考えます。信仰告白は「神は、その通常の摂理においては、さまざまな手段をお用いになる」と語ります。「通常の摂理」とは、自然法則に従い、私たちの常識に従った出来事が起こることです。ここにも常に主の御業が働いています。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)。主の祈でも「日用の糧を今日も与え給え」との祈り、食事毎の祈り、そして毎日の個人礼拝(デボーション)へとつながります。
 そしてインマヌエル「神は(常に)我々と共におられる」(マタイ1:23)であり、改革派教会の創立宣言「有神論的人生観世界観」を確立する生活へと向かうのです。そして、私たちが常に神の御前に生きようとする時、私たちは主を礼拝し、主の恵みによって生きることを喜び、主を讃美する民へと導かれるのです。

Ⅱ.奇跡における主の御業
 信仰告白は後半で「しかし、御自身がよしとされる場合には、①手段なしで、②手段を越えて、③また手段に反して、自由に働かれる」と語ります。これが自然法則を超え、私たちの常識を越えて働く奇跡です。証拠聖句より信仰告白を確認します。
 ①最初に「手段なしで」です。マタイ4:4「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」。主イエスが宣教活動を始めるにあたり悪魔から誘惑を受けられる場面です。人が生きるとは、肉において生きるばかりか、魂において生きることです。この時、主の御言葉が必要です。ここで主が何かを用いられる必要はありません。直接主の御業が私たち一人ひとりにもたらされるのです。
 もう一箇所、ホセア書を確認します。信仰告白は普通の手段においてホセア2:21-22を引用し、手段なしで行われる御業について1:7を引用しす。この両者を見比べることにおいて、理解が深まります。つまり2:21-22では、主がとこしえの契りを結ぶから、あなたが主を知るようになるとお語りになられており、因果関係があるのです。一方1:7での主の救いの御業は、主の御意志が働くのであり、そこに何の手段もないのです。
 ②次に「手段を超えて」です。ローマ4:19~21。これは最初にお読みした創世記18章の解説です。アブラハムとサラから約束の子イサクが生まれるのは、アブラハムが100歳、サラが90歳の時です。つまり、男と女が結婚し、夫婦として生活を行う時、子どもが産まれることは通常の手段ですが、年齢を重ねた女性から子どもが産まれることはありません。しかし主なる神は、通常の手段を用いつつ、それを超えて働かれたのです。これが主の御業であります。洗礼者ヨハネの母エリザベトも同様です。
 ③「手段に反して」です。ダニエル3:27。バビロンの王ネブカドネツァルが金の像を作り、それを拝むように命じましたが、ダニエルと共に捕囚の民であった3名はそれを拒否し、燃え盛る炉の中に入れられました。しかし、無傷でそこから出て来ました。
 聖書にはこの他にも多くの奇跡が記されています。主の奇跡が示される時、主が生きて働いておられることが示され、私たちは主の御業にひれ伏すことが求められます。
 しかし、私たちの生活の中で奇跡が起こることをほとんど感じません。「奇跡があるため聖書を信じることができない」と語られる人もいるでしょう。しかし私たちは、主の御業のすべて、つまり奇跡をも信じます。そして、現在でも奇跡があることを信じます。
 私たちが神さまを信じる信仰が与えられることも、主の御業・主の奇跡です。エゼキエル36:26「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」。
 主の御業として最後の審判が行われます。しかし、主の願いは私たち一人ひとりが、主を信じて、天国へと迎え入れられることです。そのために、主は、罪に対する憤りと悲しみを持ちつつも、最後の審判の時を遅らせておられるのです。主の御業を通して働かれる主の御力を知り、主の御前にひれ伏し、主を信じることが私たちに求められています。
 
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 神の摂理と罪 5:4」  創世記45章1~8節  2018.11.18
 
序.
 主の御計画に基づく摂理について学んでいます。摂理を学ぶ時に問題となることに、罪の問題があります。つまり、主なる神がすべてを創造し、摂理においてすべてを統治しておられるのであれば、「罪も主がつくられたのか」、ということです。

Ⅰ.罪の作者は、神ではない!
 信仰告白は語ります。「しかし、そうした場合の罪性は、ただ被造物から出るのであって、神から出るのではない。神は、最も清く、正しくいますので、罪の作者や支持者ではないし、また、そうではありえないからである」。信仰告白ここで証拠聖句を3つ挙げていますが、その内の2つを考えます。第一にヤコブ1:13~15です。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」。もう一箇所、Ⅰヨハネ2:16~17「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」。主は御自身が罪を犯すことを否定されます。また、私たち有限の人間が、無限の主の御業の全体、罪に関わることを理解することは出来ません。私たちは聖書が語らないことを、あえて探求してはならないし、探求すべきではありません。

Ⅱ.罪を許容される主
 その上で、主の摂理の業に表れる罪との関係を確認します。ヨブ記では、無垢なヨブに対して、サタンが主に語りかけ、会話しております(1・2章)。主なる神は、サタンが罪を犯すことを許しておられます。信仰告白では「許容されている」と語ります。主なる神が、自ら罪を犯すことはありませんし、サタンに対して人に罪を犯すように働きかけることはしません。しかし、サタンが罪を犯そうとする事に対して、主の救いの御業に影響しない程度に、サタンが罪を犯すことを、主なる神は許容されているのです。

Ⅲ.罪をも主の御業に用いられる主
 その上で、サタンが犯す罪を、時として、主なる神は御業を成し遂げられることにお用いになることもあるのです。信仰告白では、「神が、罪を、御自身の清い目的に役立つように、種々の方法で、最も賢く、力強く制限し、さもなければ、秩序づけ、統治することによる」と語ります。ただし、サタンの働きにはヨブの例にもあるように制限があり、方向付けが与えられます。その結果、罪人の動機と意図にも関わらず、神の目的・目標は、単に人間の罪にも関わらず、人間の罪を通して、達成されるのです。
 具体的なことがヨセフ物語です(創世45章)。ヤコブの溺愛にあったヨセフを、兄弟たちは殺そうとし、結果としてエジプトに売り飛ばされました。こうした兄弟たちの罪にも関わらず、ヨセフはエジプトで首相として立てられ、結果として、飢饉により存亡の危機に陥るイスラエルを助けることとなるのです。創世50:19~21でも確認されます。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」。
 もう一つ大切なテキストとして、主イエスの逮捕と十字架があります。主イエスは三度にわたって、御自身の死と復活を予告され、イスカリオテのユダが率いる律法学者やファリサイ派の人々により逮捕され、ポンティオ・ピラトにより十字架に架けられ、死を遂げられました。つまり主の御計画は、ユダヤ人たちの罪により成就し、旧約聖書より預言されていた救いの御業が完成へと導かれました。この時、サタンがイスカリオテのユダを用いたのですが、主なる神は、それを許容されたに過ぎないのです。
 私たちの生きるこの世界には、罪が満ちています。今の日本の国、そして世界の国々もまた、神が求めておられる和解と平和の実現から遠ざかろうとしているように感じます。私たちはこうした世界に生きる時、無力さを感じます。しかし私たちキリスト者は、聖書が私たちに信仰の視点に立って世を見るように求めておられます。主は、世にある罪を通しても、御自身の御心を遂行されます。だからこそ、私たちに起こる罪を通して、神の御業・神の御心が遂行されるのです。罪に迎合するのではなく、罪の中に光り輝く主を証しし、信仰により正義と真理を証ししていくことが、私たちキリスト者に求められています。
 
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 私たちを悩ませる誘惑 5:5」  歴代誌下32章20~31節  2018.11.25
 
Ⅰ.私たちの生活の現実
 ウェストミンスター信仰告白は、信仰を持てば、ユートピアが与えられるかのごとく、試練も悲しみも苦しみもなくなるようには語りません。現実の社会で起こりうる苦しみ、悲しみ、試練もまた、神の摂理にあることを確認します。ウェストミンスター信仰告白が、人々の生活の中で告白された信仰告白であることを物語っています。信仰告白作成当時の1640年代、信仰の問題で神学者会議を開催している議会と王党派(国王)との間で内戦状態でした。1660年、議会軍は王党派に敗れ王政復古の時を迎えます。そしてカトリックに近い王党派の信仰を受け入れることが迫られました。信仰を貫くため王党派の信仰を拒否し、教会を追われていく牧師が何人も出たのです。内戦の最中、信仰告白は作成されました。彼らは苦しみを共有しながら、信仰告白を作成したのです。これは信仰の戦い・命を懸けた戦いでした。このことは、第17章「聖徒の堅忍について」を記した後、第18章「恵みと救いの確信について」が記したことで顕著に示されています。
 キリスト者となった私たちは、なおも日々サタンの誘惑にさらされています。そのため、日々、病気の苦しみや艱難、試練を避けることができません。日本に生きるキリスト者である私たちは、現代においては迫害までは行きませんが、信仰の戦いも強いられます。
 そして私たちの苦しみ・試練は、2つの方法によって私たちの内にもたらされます。第一はサタンの働きを用いた様々な誘惑であり、第二は、私たち自身の罪から生じる腐敗です。もちろん、両者は別々に働くのではなく、両者の間には密接な関係があります。誘惑に関しては、朝の礼拝においても語らせていただきました。そして第二の私たち自身の罪から生じる腐敗に関しては、原罪に関係します(参照:マタイ15:17~20)。
 
Ⅱ.誘惑と腐敗を主が許される理由
 そして信仰告白は、誘惑と腐敗がなぜ私たちの内にあることを主がお許しになられているのか2つ理由を記します。「〔第一に〕かれらを以前の罪のゆえに懲らしめるため、あるいは、かれらが謙遜にさせられるように、かれらの心の腐敗と虚偽の、隠れた強さをかれらに対して露わに示すためであり」。「罪の懲らしめ」は因果応報を考えるかもしれません。しかし救いは、恵みの契約に基づくものであり、因果応報は律法主義であり、聖書はそれを否定します。そして私たちは、罪赦された罪人であり、日々、罪を繰り返します。
 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と語られますが、罪赦されたから何をしても罪を犯しても良いものではありません。主は私たちに罪の悔い改めを迫ります。そのため、罪の現実を知らせるための懲らしめです。今日の御言葉、歴代下32:25,26が証拠聖句として挙げられています。また、出エジプトにおける荒れ野の40年、バビロン捕囚の70年は、象徴的です。つまり私たちが救いを考える時、救い主である神の存在と自分自身の姿を顧みなければなりません。御言葉により、神の御力・恵み・愛が示されます。その一方、私たち自身の姿、腐敗・偽り・罪を顧みなければなりません。私たちの罪にも関わらず、主なる神は、御子の十字架の御業により、私たちは罪が赦され、神の子として天国での永遠の生命が与えられたのです。
 そして自らの内にある苦しみから主なる神の存在を確認する時、私たちは主の御前に遜ることが出来るのです。これが聖化であり、主に仕える善き業、教会における奉仕へとつながります。ペトロ一1:3~7では、「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」と語られます。
 
Ⅲ.信仰の確信に向けての歩み
 「〔第二に〕助けを求めて神御自身に、よりいっそう、絶えず依り頼むようかれらを励ますためと、将来のあらゆる罪の機会に対してかれらを警戒させ、他の正しく清いさまざまな目的をめざさせるためである」。私たち自身の罪深さ、弱さが示される時、一生懸命になるのではなく、主なる神に委ねた生活へと変化するのです。そして私たちを襲う、様々な罪に対する誘惑に対して、警戒して、清い目的へ向って、歩む者とされていくのです。十字架前後のペトロを確認することにより明らかです(マルコ14:66~72、ヨハネ21:15~17)。主イエスが十字架に架けられようとしている時に、ペトロは裏切りますが、主はペトロが自らの罪と相対して、悔い改め、主への信仰が強くさせられていきます。そして主イエスの昇天の後、ペトロは教会の指導的立場となり、キリスト教会を牽引していきます。 
 
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  神の摂理と罪を行う人々 5:6」  ペトロ一2:1~10  2018.12.2
  
序.
 私たちは、ウェストミンスター信仰告白より学び、今、摂理について学んでいますが、前回の第5節においては、神の子とされた私たちキリスト者も、悪の誘惑と心の腐敗に任されることがあることを確認しました。主なる神は、私たちを罪の中に放置されることはなく、救いから離れないために、すべてを整えて下さいます。

Ⅰ.全的堕落に生きる人間
 一方今回の第6節は、結果として遺棄される(神の審判によって裁かれる)人たちについて語ります。主なる神がすべてを御計画し、天地万物を創造され、そして今にいたる世界を支配しておられます。この時、神の義は、不義を許すことができません。そしてウェストミンスター小教理82は「これらの神の戒め(十戒)を、だれか完全に守ることができますか」と問い、「堕落以来、単なる人間はだれも、この世においてこれらの神の戒めを完全に守ることはできず、かえって、思いとことばと行いにおいて、日ごとにそれらを破っています」と告白します。全的堕落です。この時の罪は、すべて死に値するのです。つまり、罪の中に生きる私たち人間は、誰もが例外なく死ぬのです。
 それにも関わらず、神の救いの御計画と御子イエス・キリストの十字架の御業、そして聖霊を通して行われる有効召命と義認・子とすること・聖化により、キリストを救い主として信じる者に救いが与えられたのです。これが主の恵みであり、このことが例外なのです。この前提を、すべての者が受け入れなければなりません。

Ⅱ.すべての人への一般恩恵と神の民への特別恩恵
 しかし主なる神は、恵みを神の民のみならず、すべての人に、自然の恵み(一般恩恵)をお与え下さいます。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである」(マタイ5:44)と語るとおりです。
 この時、地上の生活は、見た目では、彼らの方が、より祝福を受けているのではないかとも思われることもあります。しかし彼らの求めは、神の恵みにおいて示される永遠の生命に向かうことなく、神の御国に持っていくことの出来ないこの世限りのもの、富、権力、武力であり、神の救いにつながるものではありません。
 一方、主なる神は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と語り、すべての人が神を信じ、救われることを望んでおられます。しかし福音は特別恩恵であり、神の約束の民には有効に働きますが、それ以外の人々には届くことがありません。
 そのため福音が語られた時、神の民に有効召命が行われ、石の心が砕かれ、自らの罪の悔い改めと救い主を信じる信仰が与えられますが、彼らはむしろ心が頑なになり、キリストを拒絶し、救いを拒絶します。これが信仰告白では〔第一に〕記されていることです。

Ⅲ.サタンの力に引き渡される人々
 マタイ福音書25章には、「十人のおとめ」のたとえが記されています。この時、10人のおとめが、婚礼に招かれています。婚宴は夜遅くまで及ぶことがあるため、皆、ともし火は持っています。しかし、遅くなることを考え、予備の油を準備していたのはその中の5人でした。神を信じるとは、まさに必要な知恵が主より賜り、婚礼に招き入れられ、共に祝福に与ることが許されるのです。しかし、残りの5名のおとめは、予備の油が必要であるとの知恵が与えられませんでした。信仰告白が語る「持っている賜物まで取り上げ」られた状態です。そして彼女たちは、祝宴の席に着くことが出来ないのです。
 テサロニケ二2:7~12には、彼ら自身の欲望と世の誘惑により、サタンの力に引き渡されることが語られています。
 そしてペトロ一2:1~10では、神の民に対しては、主が働きかけ、救いへと招いて下さる情況を語りますが、同時に7~8節では、彼らにとっては福音が躓きの石であると語ります。このことを信仰告白は最後で「その結果、神が他の人々をやわらかにするのにお用いになる手段のもとにおいてさえ、かれらが自らを頑なにしてしまう、ということが起こるのである」と語ります。
 神の民とされず、裁かれる人がいることを、私たちが受け入れることの難しい問題です。しかし私たちは、彼らについて悲しむのではなく、福音が宣べ伝えることにより、神の民が御国へと招かれていることを、理解しなければなりません。
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 神の摂理と教会 5:7」  アモス書9:7~10  2018.12.9
 
 序.
 ウェストミンスター信仰告白第5章「摂理について」も最後を迎えます。神の導きは、全てに及びますが、とりわけキリストの教会は特別です。このことを第7節で告白します。
 
Ⅰ.教会の歴史から神の恵みを顧みる
 教会の歴史を考える時、まず新約2000年の歴史を考えます。使徒の時代、特にパウロによる異邦人伝道をきっかけに世界宣教が始まりました。この間、ユダヤ人やローマ皇帝からの迫害にも関わらず、キリスト者は信仰を貫き、ローマ帝国で国境化するにまで至りました。その後中世になり、ローマ皇帝との主権争いを行い、次第に教会が腐敗し、ついには免罪符を発行するようになりました。そうした中に起こったのが宗教改革であり、聖書に基づく福音主義に立ち戻りました。もう一方、教会は分裂の道を歩みます。そして福音は日本にまで届きます。切支丹は迫害に遭い、島原の乱が発生しますが、隠れキリシタンとして250年にわたり信仰を継承します。第二次大戦においては、天皇崇拝が強要され、信仰が歪められていきますが、その後も主は日本の教会に働き続けて下さっています。
 2000年の教会の歴史を顧みる時、主の恵みにより福音が世界へと広まります。この時、信仰を貫こうとすれば迫害を避けて通ることは出来ません。しかし迫害に対し妥協し、信仰を歪める者もでてきます。また教会は腐敗し、キリストの教会とは言えない状態に陥ることがあるが、それでもなお主は福音に生きる者を立ち上がらせ、宗教改革が行われます。
 
Ⅱ.イスラエルから学ぶ神の働き
 ウェストミンスター信仰告白は、旧約におけるイスラエルも神の教会であることを、意識しています。イスラエルの姿を顧みる時、神が教会をどのように統治しておられるかが、明らかになります。
 アモス書9章をお読みしました。アモス書は、北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされるBC720年よりも30年程前のBC750年頃に記されました。つまり、これから北イスラエル王国が滅び、南ユダ王国がバビロンによって滅ぼされ、捕囚の民とされていきます。主は、イスラエルの人々が、主なる神から離れ偶像崇拝を行い、異邦人である原住民と結婚したことが、彼らの罪であり、イスラエルは南北両国共に、主の裁きに遭います(9:8a)。しかし主は「わたしはヤコブの家を全滅させはしない」と言われます(8b)。主の統治の目的は、神の国の完成です。イスラエルやキリストの教会を全滅させることはなさいません。罪の裁きが行われますが、僅かかも知れませんが残りの者をお立て下さいます。これがイスラエルにもたらされる神の摂理です。つまり旧約のイスラエルの民には、メシアであるキリストの来臨と十字架の御業による救いが約束されています。また新約の時代、キリストの再臨と最後の審判、そして神の御国の完成が約束されています。このゴールがあるからこそ、旧約のイスラエルの民も、新約のキリスト教会も、どれだけ腐敗して罪を犯し、主の裁きが行われても、僅かな者が神の民として残され、主の加護に置かれるのです。神は、私たちの生きる世界、そして教会に対して、関与し続けられます。予定と摂理、その背後にある神の恵みの契約という、改革派信仰の中心的なことを理解する時、私たちは現在の教会の情況をも受け入れることが出来るのではないかと思います。
 
Ⅲ.これから生きる神の民として
 これらのことを覚えつつ、私たちはキリストの宣教命令との関係を確認することが求められます(マタイ28:18-20)。この主イエスの命令により、キリスト教会は、地域的に広がり、大きくなると信じられ、伝道が行われてきました。
 しかし、旧約聖書の事例と、新約におけるキリスト教会の歴史を顧みる時、教会が世俗化して腐敗していき、地域教会が小さくなることや、消滅することもあるのです。大きくなり拡大していくことは希望的観測であって、教会が小さくなることも、私たちは受け入れていかなければなりません。この時に、そこに集う神の民には苦しみが伴います。しかしこの苦しみにより、私たちは自らの姿と信仰を顧みることが求められます。人間的な力で解決しようとするのではなく、主なる神にすべてを委ね、祈り、主により逃れの道が備えられるように求めていくことが大切です。主は、大宮教会も恵みにより統治して下さっています。現在の教会の情況を顧み、私たちの信仰はこれで良いのか、世俗化し、神に逆らうことを知らず知らずの内に行っていないか、主イエスが求めておられる愛に満ちた教会を形成しているのか、吟味し、悔い改めることが迫られているのだと、私は思います。
 
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 世界に入った罪 6:1」  ローマの信徒への手紙11章25~27節  2018.12.16
 
 序.
 ウェストミンスター信仰告白の学びを続けていますが、今までは主なる神について語られてきました。第2章「神、聖三位一体」、第3章「聖定、予定」、第4章「創造」、第5章「摂理」。そして第6章では、私たち人間にとって、なぜ救いが必要なのかを、「人間の堕落について、罪について、また、その罰について」で学びます。

Ⅰ.罪とは何か…
 そもそも聖書は、私たち人間は罪人ですが、主なる神により罪から救われ、永遠の生命が約束されていることを語っています。そのため信仰告白においても、これから救いに関して語っていく段階になり、私たち自身の姿を明らかします。
 信仰告白では、「なぜ人間に罪が入って来たのか」の理由を記しますが、「罪とは何か」という定義を語りません。ウェストミンスター信条は、信仰告白ですべてを教えるのではなく、信仰告白に語られていないことを、大教理・小教理両問答において補います。
 小教理問答問14 罪とは、何ですか。
 答 罪とは、神の律法に少しでもかなわないこと、あるいは、それに違反することです。
 これは、世の人々が考える「罪」の定義とまったく異ります。神を知らない人にとって、「罪とは法に背く」こと、「警察に逮捕され、処罰されること」です。だからこそ彼らは、「自分は罪を犯していない、罪人でありえない」と思っています。
 しかし、ウェストミンスターの罪の定義は異なります。小教理問答は、神の律法である十戒について語った後、さらに次のように問答します。
 問82 これらの神の戒め(律法)を、だれか完全に守ることができますか。
  答 堕落以来、単なる人間はだれも、この世においてこれらの神の戒めを完全に守ることはできず、かえって、思いとことばと行いにおいて、日ごとにそれらを破っています。
 聖書の理解は、神が天地万物を創造され、人間も創造して下さったことから始まります。そのため、義と罪の定義も創造主である神が私たちに示されるのです。私たち人間が、自分の基準で罪を定義するのとは根本的に異なります。自分が規準だと、「自分は罪を犯していない、大丈夫だ」となりますが、神の御前では「罪」は明白です。私たちの行い、口から発せられる言葉、さらには私たちの心まで問われます。私たちは何一つ隠すことは出来ません。姦通の現場で逮捕された女が連れてこられた時、主イエスはユダヤ人たちに対して、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)と語られた時、彼らは誰一人、彼女に石を投げることは出来ませんでした(ヨハネ8章)。

Ⅱ.堕落を享受する人々
 だからこそ、私たち人間は皆、「罪など犯した覚えがない」と思っていても、神の御前では、皆が罪人なのです。そしてウェストミンスター小教理問答は語ります。
 問19 人間が堕落して陥った状態の悲惨とは、何ですか。
  答 全人類は、かれらの堕落によって神との交わりを失い、今では神の怒りと呪いのもとにあり、そのため、この世でのあらゆる悲惨と、死そのものと、地獄の永遠の苦痛を免れなくされています。
 私たち人間は、罪の自覚がないため、堕落して悲惨である自覚がありません。死ぬことが当たり前になっています。虐げを受けている人、監禁されている人が、その情況を享受し、解放を望まないのと同じです。エジプトで奴隷であったイスラエルの民がそのことを語っています。永遠の生命、解放された自由を知らないから、現状を受け入れるのです。
 しかし神によって創造された時、人間が死ぬことはなかったのです。死は、罪の結果であり、異常事態です。

Ⅲ.神を知るための罪
 信仰告白は語ります。「……このかれらの罪を、神は、御自身の栄光に役立てることを計画して、その賢く清い計らいに従い、許容することをよしとされた。」
 罪が示されることにより、「義」とは何かが示されます。この「義」を求める時、ここに主なる神がおられ、神を信じて生きる道が示されます。罪の事実、自分自身の罪を知るからこそ、義であり、私たちを救い、永遠の生命をお与え下さる主なる神を信じ、求めることが出来るのです。私たちは、真剣に自らの罪と向き合わなければ、義であり、救いをお与え下さる主なる神を知り、信じることは出来ません(ローマ11:25~27)。
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  私たちに転嫁された罪 6:2-3」  創世記1章26~27節、2章16~17節  2019.1.6
 
Ⅰ.神の創造
 主なる神は、御父・御子・御霊なる三位一体の神にかたどり、似せて、人をお造り下さいました(創世1:26-27)。つまりこの時、人は、主なる神と同じように永遠の生命を持つ者として、そして三位一体なる神と同じように愛の交わりを持つ者として創造されました。神によって創造された人間の本来の姿は、ここにあります。何事においても、原点を確認することが大切です。現状認識から始めると、自分がどこに向って歩んでいるのか漠然としますが、原点を確認することにより、私たちの目指すべきゴールが見えてきます。
 一方、主なる神は、人が神との永遠の交わりを持つ神の国に行くために、一つの条件、つまり「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と命じられました(同2:16-17)。これは、出来ないことが命じられたのではなく、神のかたちに造られた人間にとっては十分に守ることができることでした。主がお与え下さった園には、多くの食べ物が与えられており、満たされていました。善悪の知識の木だけが、特別だったわけではありません。

Ⅱ.罪を犯すことにより
 ここで「食べると必ず死んでしまう」(17)ことを確認することが大切です。最初の人アダムとエバは、罪を犯し、善悪の知識の木から木の実を食べました。しかし、彼らは即座に命を落とすことはありませんでした。つまり主なる神の命じられたことは、毒リンゴを食べるとその場で命を落とすようなことではありませんでした。
 しかし、主なる神が約束を反故にされたのではありません。彼らは、神のかたちとして持っていた原義、つまり罪を犯すことなく義しく生きる力を失いました。最初に神によって創造された時に授かった、罪を犯さないことも可能な能力を失ったのです。これが原義の喪失です。原義を失うことにより、人は罪を繰り返す者となります。
 そればかりか、人は罪を犯すことにより、主なる神との交わりから遠ざかります。なぜならば、神は義・聖・真実な方であり、罪を赦すことが出来ないお方だからです。罪を犯した人間は、神の裁きが恐ろしくなり、神から隠れます(参照:創世記3:8-10)。

Ⅲ.「礼拝厳守」を語る教会
 そのため現在に生きる私たちも、罪の中に生きているため、神との交わりから離れていくのです。そのため、教会において礼拝への出席を呼びかけても、人は理由を語り教会から遠ざかります。教会では、第四戒に基づいて「礼拝厳守」を語ってきました。しかし、義しいことでも、上から語られる時、神との交わりを失った人は聞く耳を持ちません。
 教会が伝えるべきことは、罪が赦されることによる神の義の回復であり、神との交わり、キリスト者相互の聖徒の交わりの回復です。このことを認識するならば、「礼拝厳守」を語る前に、礼拝に集うことによって与えられる神による救いの喜びに満たされること、神との交わり、聖徒の交わりの喜びに満たされることを伝えなければなりません。また私たちが救いの喜びに生き、喜びに満ちた教会を形成しなければなりません。

Ⅲ.福音を回復したキリスト者として生きる
 人々は、社会の現実と将来に、苦しみ・不安を持って生きています。私たちキリスト者も同様です。キリスト者になったから、ユートピアに入り、すべてが成功し、裕福になるわけではありません。しかし、主はキリストの十字架によって罪の刑罰が贖われたことを宣言されます。神の義、愛、和解、平和が示されます。そして私たちは神との交わりを回復しました。キリストにより罪に打ち勝ちました。ここにこそ、救いの喜びがあります。
 キリスト者のことを、人々はどのように見ているでしょうか? 私たちキリスト者自身が、「少数者だ」、「力が弱い」と弱気になっていると、人々もキリスト者に魅力を感じません。しかし、キリスト者が、罪が赦された喜び、神との交わりを喜んで生きている時、人々は魅力を感じます。そして罪の中に生きる者は、自分たちの不正が明らかにされるのを恐れ、真の意味での恐れを抱きます。それは、私たちキリスト者が感じている以上です。だからこそ彼らはキリスト者を迫害するのです。現在の中国がそうです。教会が信徒が増え、力が増えてくることにより、為政者たちがキリスト者を恐れた結果です。
 今の日本はどうでしょうか? 為政者が教会を無視しています。キリスト者が、神の義を貫いて生きている姿が、彼らに見えず、恐れに足らないからです。信仰の戦いを行っている人たちに、教会が協力して一つにならないからです。今、私たちキリスト者は、義を貫き、不義・不正を明らかにすることが求められています。 
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  全的堕落に生きる私たち 6:4-6」  ローマ7章7~25節  2019.1.13
 
 序.
 私たちはウェストミンスター信条は、他教派の人々に受け入れられない教理も少なくありません。今日の「全的堕落」も、その一つです。

Ⅰ.アウグスティヌス、ペラギウス論争
 人は「自分自身を認めてもらいたい」、「否定されたくはない」と思います。そのため、「全的堕落」を受け入れたくはありません。この心情は、分からなくはありません。しかし私たちは、神との交わりを失った人間の姿を顧みることから始めなければなりません。
 いつの時代でも人間はどのようにすれば救われるのかを考えます。4世紀、ペラギウスは、「人間には、善悪を選択することのできる意志の自由にあった。神が人間に律法を課せられたのであり、当然人間にはそれを全うする能力がある。人間は正しい行為をする本性的能力を持ち合せている。全く罪のない生活を送ることも不可能ではない」と教えます。それゆえ人間の本性の中に罪は見られないと考えて、原罪も全的堕落も否定します。
 またペラギウスは受け入れられないけれども、全的堕落も受け入れられない人たちが、折衷案を考えました。それが半(セミ)ペラギウス主義です。彼らは、人間は自由意志によってみずからを恩寵を受けるにふさわしい状態に置きうると説きます。つまり、「人は神を信じる能力は残されており、全的に堕落しているわけではない」、と語ります。
 一方、アウグスティヌスは、全的堕落を受け入れ、原罪を負う人間は神の恵みによってのみ救われるという恩恵論を提示します。宗教改革によって見直され、信仰義認を説くルターに、そしてカルヴァンへとその信仰は引き継がれて行きます。

Ⅱ.ローマ書7章の御言葉に聞く
 私たちは、神学者たちの意見に右往左往させられるのではなく、主の御言葉に聞かなければなりません。ローマ書7章です。「律法」は、善悪の基準であり、私たちは律法が示されなければ、善悪すら見分けることが出来ませんでした(7)。そして律法という善悪の基準すらなかったため、罪の意識、死の意識もありませんでした(8-10)。今でも、神を信じて生きているキリスト者を除けば、同じ状態にあります。律法が示されることにより、罪は限りなく邪悪なものであることが示されました(13)。律法の第二の用法です。律法が示され、初めて神の民は、自らが罪人であることが示され、罪の悔い改めへと促されます。
 私たち人間は、死に定められており、神の恵み、救い、つまりキリストの十字架の贖いを通してでなければ、救いはないことを、パウロはここで語ります(24~25)。

Ⅲ.ドルト信条とレモンストラントの5箇条(アルミニウス主義)
 全的堕落を理解できると、改革派教理の全体を理解できると言っても過言ではありません。神の御計画・キリストの御業・私たちの信仰・終末論と教理の全体に関わってきます。
 ドルト信条(1617)では、カルヴィニズムの5特質が告白されました。頭文字から「TULIP」と言われています。①全的堕落:人は全的に堕落し罪の奴隷となった。救いへの招きに応じることも、霊的なことを考える能力も失った。ただ聖霊が私達を造り変えることによってのみ、応答する。②無条件的選び:神は人の内にある何らかの救われる資質(条件)を見たから救うのではなく無条件である(予定)。③限定的贖罪:イエス贖いは選民のためだけ。イエスの血は悔い改めない罪人のために無駄に流れたのではない。④不可抗的恩恵:神が救おうと意図されたなら、その人は抗うことはできず必ず救われる。⑤聖徒の堅忍:神は一度救った者の信仰を、彼が死ぬまで守り抜かれる。その生涯において、その人が神から離れたように見えることもるが、最終的には信仰は個人の努力ではなく、神の恵みによる。
 一方、同じ時代、全的堕落を信じることが出来なかった人たちは、アルミニウスが中心になり、建白書(レモンストラント)を発表しました。①自由意志:人は全的に堕落したが、神の救いへの招きに対し、人は自由意志を働かせて、応答する力が残されている。②条件的選び:神は誰がキリストを信じるかを予知によってご存じであり、その者を救う(予知)。③普遍的贖罪:イエスの十字架は、善人悪人を問わず、すべての人のためにあった。④可抗的恩恵:神が救おうとする手を、人は自由意志によって拒むこともできる。⑤相対的保証:人は努力し続けなければ、神の救いから落ちる可能性がある。
 アルミニウスの信仰は、律法主義、「ねばならない」信仰に陥りやすいです。
 全的堕落、私たちにとっては、心情的に受け入れがたい教理です。しかし、キリスト教教理の全体が示された時、自分で頑張らなくても良いのは、非常に楽な生き方となります。平安に満たされます。必ず天国に行くことができ、感謝と喜びの生活が生じます。だからこそ、私たちは、主を礼拝し、救いに喜び奉仕し、感謝しつつ献げることができます。
 
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  神と人との関係 7:1」  ヨブ記35章  2019.1.20
 
Ⅰ.神と人間の関係
 信仰告白の目標は、私たち人間の救いについて考えることです。信仰告白はここに来て、主なる神さまの御前に立つ私たち人間との関係について考えます。信仰告白は最初、「神と被造物との間の隔たりは非常に大きい」と告白します。
 私たち人間の姿は第6章において明らかになりました。「どの罪も、原罪も現実罪も共に、神の正しい律法への違反であり、それに反するものであるから、必然的に、罪人に罪責をもたらす。それによって罪人は、神の怒りと律法の呪いを言い渡され、かくして、霊的、現世的、永遠的なあらゆる悲慘ばかりでなく、死に服させられる」(6:6)。
 一方神に関しては、小教理問4で簡潔・明確に告白されています。問「神は、どのようなお方ですか」。答「神は、その存在・知恵・力・聖性・義・慈しみ・まことにおいて、無限・永遠・不変の霊です」。
 時間的・空間的に有限であり、罪の故に死に向かう私たち人間が、無限の神を知ることは出来ません。そのため私たちは、自分の力で神を知ること・救いを求めること・救いに到達することは、不可能です。この現実を、私たちは受け入れなければなりません。

Ⅱ.ヨブに見る神と人間の関係
 最初にヨブ記をお読みしました。ヨブは無垢で、常に主に祈りと感謝を表していました(1章)が、サタンから攻撃を受け、最愛の子どもたちをすべて失い、財産を失います。そしてさらに自らの体中、病におかされ、苦しみ続けます。ヨブは、3人の友人たちに自らの正当性を語り続け、嘆き続けます。3人の友人たちは、ヨブに答えようとしますが、ヨブの納得出来るような答えを語ることは出来ませんでした。
 そこにもう一人、エリフが登場します。エリフはヨブが神よりも自分の方が正しいと主張すること、友人達がヨブの罪を適切に見いだせなかったことに怒ります(参照:32:1-5)。その上で、主なる神について、私たち人間の姿を明らかにします(35:7-8)。
 いくらヨブが正しかったとしても、神の御前にあって、神から何ら褒美を得るようなものではありません。「正しい生活を送っているのに、神が答えてくださらない」と訴えるのはお門違いです。人は、神による救いの御手が差しのばされなければ、肉の死と神の裁きを逃れることが出来ません。そして、主なる神は、人が滅びて行くことを忍びないと思い、罪の赦しと救いへとお招きくださっています。

Ⅲ.神の一方的な愛の御業としての契約
 この時、神の側では自発的な遜りがあります。そして神の主体的な働きにより、神は人と契約を結んでくださいました。それが聖書全体を支配する恵みの契約です。「旧約聖書・新約聖書」と語りますが、「約」とは「契約」のことです。英語は、"Old Testament", "New Testament"「遺言」と語りますが、むしろ"Old Covenant", "New Covenant"「契約」と言った方が良いわけです。聖書そのものが、神からの恵みの契約の書です。
 信仰告白は、「行いの契約」(7:2)、「恵みの契約」(7:3-)を告白します。しかしこれらが、旧約・新約と一致しません。行いの契約は天地創造から人が最初の罪を犯すまでで、原福音(創3:15)以降はすべて恵みの契約です。つまり、旧約・新約は、恵みの契約の中における2つの時代区分、救い主イエス・キリスト来臨以前と以後に分けられています。
 神が私たち人間に対して救いにいたる恵みの契約を結んでくださったことが、聖書全体を支配しており、改革派教会では「契約神学」を展開していきます。そしてウェストミンスター信仰告白第7章は、改革派教会を代表する信仰告白であるともいえます。
 しかし、予定や恵みの契約を語る時、改革派信仰に対して誤解や批判を受けることもあります。しかし、神の予定に伴い、神が私たちに対して恵みの契約を結んでくださったからこそ、私たちの石の心は砕かれ、神を信じる告白をすることが許されたのです。そして私たちの信仰は、時として弱く、神から離れることがあったとしても、神の側で契約を満たしてくださるために、私たちは神の御前に立ち帰り、悔い改め、そして神の御国への歩みを成し遂げていくことが出来るのです(聖徒の堅忍)。私たちは一生懸命、「ねばならない」ことは不要です。主の恵みに満たされ、救いの感謝と喜びをもって生きる時、私たちの信仰生活は、主により祝福されたものとされます。
 
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  行いの契約 7:2」  ローマ5:12~21  2019.1.27
 
 
Ⅰ.最初の罪は、契約か?
 「行いの契約」とは、主なる神が人に対して、「善悪の知識の木の実から取って食べてはならない」と命じられた約束のことです(創世記2:17)。「業の契約」、「命の契約」とも言われます。そして行いの契約に関して、「これが契約なのか」という議論があります。
 しかし人が創造された時、人は、罪が無い状態、罪を犯さないことが出来る者として創造されました。罪がない人に罪が入って来ました。罪は、アダムとエバが善悪の知識の実をとって食べたことに始まります。
 人が善悪の知識の木の実を食べなければ、彼らは神の永遠の生命が与えられ、神の国の祝福に入れられていたことでしょう。しかし彼らは罪を犯し、彼らの罪の結果、彼らに死が持ち込まれました。そして、現在に生きる私たちにも罪が継承され、私たちも罪の故に、肉の死を免れることができません(参照:ローマ5:12)。
 つまり善悪の知識の木の実から取って食べることによる罪の混入が、契約だったからこそ、後の子孫、そして私たちに受け継がれたのです。信仰告白は、このことを告白します。

Ⅱ.アウグスティヌス・ペラギウス論争
 行いの契約が後の子孫にも受け継がれたことを否定する人たちが少なからずいます。その代表が4世紀の神学者ペラギウスです。彼は、最初の約束はあくまで最初の人アダムと結ばれたものであり、私たちに受け継がれた契約ではないと考えます。そのため、人が生まれてきた時には原罪を受け継ぐことはなく、罪を犯すことも犯さないこともできると考えます。そしてペラギウスは、全的堕落も否定し、人は自らの行いによって救いを獲得することができると主張します。
 一方同じ時代の神学者アウグスティヌスは、人間はアダムの最初の罪により、原罪を受け継ぎ、生まれながらにして全的に堕落しており、肉の死を避けて通ることができないと主張します。そして救われるためには、神の恵みによらなければならないと主張しました。それが宗教改革に引き継がれ、改革派教会の信仰となっています(参照:ローマ5:12~21)。

Ⅲ.堕落前予定か、堕落後予定か
 また、罪が混入することにより、彼らから生まれるすべての人が死ぬことになったことを語る時、神学的に問題になることが、「神は、私たち罪人の救いをいつ計画されたのか」です。「罪からの救い」は、私たちが罪人であることが前提となるからです。つまり神は、創造の前に、創造した人が罪を犯すことを知っておられ、それを前提に人の救いを予定された(堕落前予定説)のかです。一方、人が堕落した後に神は人の救いを予定したのだと考えるのが堕落後予定説です。堕落後予定説だと、天地創造の後に神が予定されたことになり、永遠の聖定を否定することとなります。宗教改革者、ルターもツィングリ、カルヴァンも、堕落前予定説において一致していました。ただ、神はいかなる意味でも罪の作者ではないと主張し、罪についての聖定は、一般的に許容的聖定であることを主張しました。
 しかし宗教改革の時代、問題を複雑にする出来事が起こります。永遠の聖定の時間的順序ではなく、論理的順序において考えようとすることが行われます。
 つまり論理的堕落前予定論においては、下記のとおり考えます。(1)神は、ある者たちを選び、他の者たちを遺棄することにより御自身の栄光を現すよう聖定された。(2)この目的に対する手段として、選ばれた者と遺棄された者を創造することを聖定された。(3)人間の堕落を許容する聖定。(4)イエス・キリストにより選民に救いを与える聖定。
 一方、論理的堕落後予定論においては、(1)神は人類の創造により御自身の栄光を現されるよう聖定される。(2)堕落を許容される聖定。(3)堕落した人類の中からある者たちを救いに選び、残りの者たちを見過し、彼らの罪のゆえに滅びるように聖定された。(4)イエス・キリストにより選民に救いを与える聖定。 と考えます。
 1643-47年のウェストミンスター神学者会議では、結論を出しません。つまりこれは思弁的な議論であり、教会において議論して結論を出すことではないと判断したのです。
 今日は、神学的な事柄を語ってきました。今の時代、このような複雑な議論は避けられます。しかし、神学的な議論を学ぶことにより、神が人に結んで下さった契約を正しく理解することができます。主なる神は、行いの契約を破った人間に、なおも恵みの契約に入れて下さり、キリストの贖いにより、罪の赦しと救いをお与え下さっています。
 
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  恵みの契約 7:3」  ローマ8:1~11  2019.2.17
 
 序.
 私たちは、どうしても自分の救いに関して関心があります。しかし神の側にあっては、罪人である人間をそのままでは赦すことはできません。人間を救うためには、神が働くことが必要です。ただ場当たり的に人を救うことはありません。混乱が生じるからです。そのため主は、人を救うために秩序を定めて下さいました。それが恵みの契約です。

Ⅰ.恵みの契約
 信仰告白は「人間は、自らの堕落により、自分自身を、その契約によっては命を受けられなくしてしまったため」と告白します。「その契約」とは「最初の契約」(7:2)である「行いの契約」のことです。時間的な順番からすれば、天地創造と最初の罪の後に、神が恵みの契約を定められたと考えるわけです。しかし神は、全知全能であり、無限・永遠・不変の霊です。つまり、神の永遠の計画の内に、恵みの契約も結ばれていたと考えて良いかと思います。つまり堕落後予定説ではなく、堕落前予定説と考えます。
 第二の契約である恵みの契約は、原福音(創世記3:15)以降の聖書全体で語られています。恵みの契約は、別の言い方をすれば「福音」です。そのため、聖書のことは金太郎飴に例えられますが、「聖書はどこを切っても、人間の罪と神の恵みしか出てこない」のです。
 私たち罪人が救われるため、つまり神による恵みの契約に入れられるためには、イエス・キリストと出会い、イエス・キリストと結ばれることが何よりも大切です。

Ⅱ.神の無償の御業
 誰一人、死を避けて通ることは出来ません。しかしキリスト者は、罪と死から解放され、信仰告白が語るように、命と救いへと招かれています。キリストが私たちが負うべき肉の死と裁きを十字架で背負って下さったからです(ローマ8:1~2)。
 人間は、律法により罪に定められました。生きることは不可能だったのです。不可能な私たちに、主なる神が救いをお与え下さいました(8:3)。信仰によらなければ、信じることはできません。死人が甦る、永遠の生命が与えられることは、神との出会いがなければ受け入れられません。だからこそ、神の霊が働かなければ、石の心を肉の心に変えて、神を信じることはできないのです(エゼキエル36:26)。恵みの契約である救いは、神の一方的な働き、無償・何の代償もなしに与えられます。私たちはそれを受け入れれば良いわけです。
 そして信仰告白は「かれらからは、救われるために、イエス・キリストに対する信仰をお求めになり、そして、永遠の命に定められている者たちすべてに、かれらが信じたいと願い、また信じることができるようにするため、かれの聖霊を与えることを約束しておられる」と告白します。信じることは、私たち人間の判断であるように思えます。しかし、キリストの聖霊、神の聖霊が与えられなければ、信仰を告白することは出来ません。そのため、私たちは、伝道を行う時、もちろん、一人ひとりが証し伝道活動をすることが求められますが、同時に、神に委ねて祈ることが大切です。神さまを信じること、神さまを求めて教会に来ることは、聖霊が働かなければ、できないからです。

Ⅲ.霊に従って生きるキリスト者
 肉に従い続ける時、神の恵みにはみたされません。罪の刑罰は死だからです。一方、神の霊に属する者は、神に喜ばれ、神の祝福に満たされて生きることが許されています。
 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(9-11)。「死んでも生きる」ことは、神を知らない人々にとっては非常識です。しかし、天地万物を支配し、命を与えるお方は、常識(自然法則)を超えて働かれます。このような御力を持っておられる神だからこそ、私たちは、神を信じる時、彼に委ねるしかないのです。自分の力で生きようとすることこそが、肉の支配下にある不信仰です。神は、私たちに恵みの契約を提示し、キリストの御業により罪の赦しと救い、そして永遠の生命をすでにお示し下さいました。主が提示して下さる救いを受け入れ信じる者に、主の救いが与えられます。神の霊に導かれ、疑う者ではなく、信じて、主の救いの道を歩む者でありたいと思います。
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 「遺言としての契約 7:4」  ヘブライ9:11~22  2019.3.3
  
序.
 ウェストミンスター信仰告白第7章「人間の神との契約について」を学んでいます。今日の第4節では、恵みの契約が、主から与えられた「遺言」であることを告白します。

Ⅰ.遺言について
 聖書のことを英語では'Bible'あるいは'testament'と語ります。この'testament'が「契約、遺言」を意味する言葉です。日本語では理解できませんが、英語であれば、聖書が「契約の書・遺言の書」であることを、自然と理解することが出来るのかと思います。
 また「遺言」という語は、現在の旧新約聖書ではヘブライ9:16,17にしか出て来ません。しかし、ウェストミンスター信仰告白が作成されました17世紀の欽定訳聖書では、しばしば用いられます。その多くが、現在では「契約」と訳されています。
 今までのウェストミンスター信仰告白の訳では、4節でいきなり遺言が語られ、契約との関連性がまったく出て来ませんでしたので、遺言と契約の関係を理解することが出来ませんでした。しかし松谷先生の訳では「遺言〔契約〕」と訳しました。その結果、私たちは、両者の関係を理解した上で、この信仰告白を学ぶことが許されています。

Ⅱ.新しい契約
 その上で、ヘブライ書9章の御言葉に聞きます。初めに旧約の生け贄とキリストの御業の関係を語ります(11-14)。旧約における動物の生け贄は、罪の度毎に繰り返し行われることが求められました。一方キリストの十字架の御業は、永遠の贖いです。そのため、繰り返される必要はなく一度で良いのです。それは、キリストにつながるすべての人に有効です。旧約に生きたイスラエルばかりか、新約の時代に生きる私たちにも、有効とされています(12,14)。
 また15節では、「新しい契約」と「最初の契約」が出て来ます。それぞれが恵みの契約、生命の契約のことを指し示しています。生命の契約に関して「契約であるとは聖書は語っていない」という主旨のことを2節の学びで語ったかと思いますが、ここで語られていました。ただ2節では、ここを証拠聖句として挙げていません。このことが私たちが理解するのが難しい結果となっています。聖書で「最初の契約」と語るのは、ヘブライ書だけです(8:7,13、9:1,15,18)。
 そして、最初の契約である生命の契約が、人間の罪によって破棄され、その罪の刑罰を贖うためにキリストが十字架の死を遂げて下さいました(15)。そのことをもって新しい契約としての恵みの契約が完成します。

Ⅲ.遺言としての恵みの契約
 ヘブライ書は16節になり「遺言の場合には」と語り始めます。突然「遺言」が出てきます。しかし「遺言」の話しが終わった18節では何も無かったかのように「最初の契約もまた」と、契約の話しを続けます。ここで明らかになるように、聖書を記した記者にとっては、恵みの契約とキリストの遺言は同じものとして扱っています。
 そして16・17節では、キリストの十字架の御業が完成し、つまりキリストが十字架に死を遂げられることにより、遺言が執行され、有効となることを語ります。
 私たちは、恵みの契約が原福音(創世3:15)から始まり、ノア、アブラハム、モーセ、ダビデ、イスラエルの民に継承されて行き、現在に生きる私たちも恵みの契約に生きていることを確認しています。しかしここで、恵みの契約がキリストの遺言であることを確認することにより、旧約に生きる人たちは、神との間で恵みの契約を結んでいたが、それが執行されるには、キリストの十字架を待たなければならなかったことが理解できます。そのため彼らは、恵みの契約を担保する形で、動物の生け贄を繰り返して行ったのです。
 しかし新約の時代に生きる私たちは、キリストの十字架の御業は2000年前に完成しております。恵みの契約はすでに有効なものとなっています。しかし恵みの契約が正式なものになるためにはもう一つの条件が必要です。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)。これを私たちが受け入れれば、遺言は実行されます。
 日本人にとって「恵みの契約」は理解に苦しみます。しかしキリストの遺言書が、キリストを救い主として信じる私たちを受取人として示されています。そしてこの遺言書に、私たちの罪の赦しと永遠の生命が記されています。私たちの救いは主から与えられた恵みです。私たちは、この遺言書である恵みの契約を、感謝して受け入れればよいのです。
 
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 「契約の多様性 7:5-6」  マタイ28:16~20  2019.3.10
  
序.
 ウェストミンスター信仰告白第7章「人間との神の契約について」では、二つの契約、つまり「生命の契約」と「恵みの契約」があることを確認します。聖書の大半は「恵みの契約」について語りますが、問題は旧約と新約の違いについてです。少なからず人が、旧約(律法)と新約(恵み)のように対立的に考えます。しかし、ウェストミンスター信仰告白は、第6節の最後にある通り、「それぞれの時代に、実体において異なる二つの恵みの契約があるのではなく、まったく同じ一つの契約があるだけである」と告白します。

Ⅰ.旧約の時代
 しかし「この契約は、律法の時代と福音の時代とでは、異なるしかたで執行された」とも告白します。なぜなら、恵みの契約は、イエス・キリストの来臨と十字架の御業により、約束から有効なったからです。「契約」は「遺言」でり、神の御子キリストが十字架の死を遂げることにより、初めて遺言が有効になるのです(参照:第4節)。
 そのため、キリストの御業の前後では、明らかにアプローチの仕方が異なってくるのです。つまり、旧約においてはメシヤが約束されているわけですが、まだどのようにしてメシヤが与えられ、救いが完成するのか示されていません。そのため、まず約束をお語り下さいました。それは原福音(創世記3:16)に始まり、ノアにおいて更新され、アブラハムにおいて鮮明になります(同12:1-3)。そして割礼が規定されて契約のしるしが明らかになります(同17章)。そしてモーセの時代に律法としての十戒が与えられ、いけにえが規定されます。律法は守るべきものと考えがちですが、私たちが行い・言葉・心において守ることが出来ない罪人であることが指し示され、同時に救いに導かれた者が、神の義を求めて歩むガイドとして与えられています。いけにえにより繰り返し自らの罪の悔い改めが求められます。このいけにえこそ、キリストの十字架が指し示しています。
 契約はさらに、ダビデ、ソロモンへと引き継がれていき、礼拝形式も幕屋から神殿、バビロン捕囚によりシナゴーグへと変化を遂げます。それでもなお、恵みの契約としての基本的なこと、つまり信じることにより、神の救いに入れられることに変更はありません。
 さらに信仰告白は「これらは、約束されたメシアに対する信仰という点で選びの民を教え、造り上げるのに、御霊の働きをとおして、その時代にとっては十分かつ有効であり、したがってかれらは、このメシアにより、完全な罪の赦しと永遠の救いを得ていた」と告白します(5節後半)。旧約のイスラエルの民は、新約に生きる私たちと比べ、救いの効力が不十分であるとか、罪の赦しが不完全であったわけではありません。救いの実体であるキリストが明らかになる時、彼らに恵みの契約による救いが完成しました。

Ⅱ.新約の時代
 一方、新約の時代に関しては「実体であるキリストが提供された、福音のもとでは、この契約が実施される規定は、御言葉の説教と、洗礼および主の晩餐の聖礼典の執行である」と告白します(第6節)。新約の時代は、キリストの十字架の御業が完成し、神の御国が指し示されました。キリストは死・罪・サタンに勝利しました。これが契約の中心です。このことは、最後の晩餐における主イエスの言葉に表れています。「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26:28)。
 キリストの御業を福音として語ることが御言葉の説教において求められます。さらに恵みの契約のしるしとして、信じる者に確かに神の救いが有効とされていることが、洗礼・主の晩餐の礼典の執行により明らかにされます。旧約の時代、割礼・過越が、水の洗いとしての洗礼、十字架の御業を覚える主の晩餐へと変更となったのです。
 ただし、洗礼と聖餐は常に御言葉と共に行われることが大切です。御言葉がなければ、儀式化した形だけのものとなり、真の救いの意味が忘れ去られていきます。だからこそ、私たちは御言葉の説教を大切にするのです。御言葉の説教と洗礼・聖餐の礼典により、私たちは、神の恵みの契約に入れられ、罪の赦しと天国における永遠の生命が約束されている信仰が与えられ、信仰が強められていきます。
 この恵みの契約は、神の救いの予定に基づいて、御言葉の説教と2つの聖礼典により、私たちに有効なものとして働き、さらに聖徒の堅忍の約束により、自分の努力ではなく、主に委ね、主によって与えられる救いの喜びに生きることが許されます。
 
 
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  「仲保者キリスト 8:1」  テモテ一2:4~6    2019.3.17
 
序.
 キリスト教信仰において、神の御子イエス・キリストは中心的な教理です。キリストならびにキリストの十字架の御業なしにして、キリスト教信仰は成立しません。

Ⅰ.唯一の仲保者キリスト
 説教題を「仲保者キリスト」としました。信仰告白は新共同訳(新改訳も)に従い、一般に用いられる「仲介者」が用います。「仲保者」は「神」と「人」との間に立つことが強調されていた言葉です。この特別な言い回しを残した方がよいと、私は思っています。
 「神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(Ⅰテモテ2:5)と語られています。仲保者はキリストのみです。カトリック教会では、聖母マリアや聖人が敬われ、キリストと人との仲介者のごとく扱われているため、宗教改革者はこれを拒否し、仲保者はキリスト・イエスが唯一であることを、信仰告白も語ります。
 その上で私たちは、仲保者イエスがどのようなお方であるかを、信仰告白から学びます。「神は、御自身の永遠の計画により…」。主なる神は、天地創造の前にイエス・キリストを定めておられました。人間が生命の契約を破ったため、慌てて救いの手立てとして御子の御業を計画されたのではありません(参照:エフェソ1:4)。人は仲保者キリストを介してでなければ、主なる神と出会うことは出来ません。

Ⅱ.キリストの三職
 続けて信仰告白は、キリストの三職(預言者・祭司・王)と語ります。キリストとは、ヘブライ語で「メシア=油注がれた者」です。預言者・祭司・王は、主から油注がれ任職する者であり、キリストの働きにふさわしいものです。信仰告白は、預言者・祭司・王の各々の働きに関して記しません(参照:小教理問24-26、大教理問43-45)。
 私たちがキリストの御業を確認する時に忘れてはならないことは、神の御子の永遠性です。キリストは、マリアにより受肉してお生まれになってから、十字架の死と復活によって天に昇られた肉を取られていた期間のみを考えてはなりません。御子は永遠に神の御子であり、天地創造では言葉を発することにより父なる神と共に働いておられます。天に昇られた後、現在も、私たちに対して執り成しを行っておられます。この後、再臨され、最後の審判を下されます。御子の御業は、永遠から永遠に至ることを、忘れてはなりません。

Ⅲ.キリストの御業に見る教会論的な視点
 ①キリストは教会の頭
 信仰告白は続けて「キリストが自らの教会の頭また救い主、万物の相続人、世界の審判者とされた」と告白します。ここで大切なことは、私たちは、「主イエスを救い主として信じる」と語る時、信仰は個人的なこととして、主イエスと私という一対一の関係に留めることです。私たちはすでに恵みの契約を学びました。神による救いは、神と教会、神と神の家族との関係です。信仰は、教会論的な視点を持つことが大切です(参照:エフェソ5:21-24)。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と語られ、幼児洗礼も制定されています。教会という信仰共同体の概念により規定されています。
 教会については、信仰告白は第25章以降において告白します。そして、最後の審判は、信仰告白の最後、第33章で告白します。私は、ウェストミンスター信仰規準の区分についてお語りしています。神の御子であるキリストの御業(神の教理:左)は、教会(真ん中)、そしてキリスト者の生(右)に至り、そして最後の審判を確認する時、その先にある人生の目的、小教理問1「人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです」につながります。三位一体なる神、仲保者キリストを理解することにより、教会・キリスト者の生と、キリスト教教理の全体を見渡して理解することが出来ます。
 最後に「神は、その主イエスに対して、かれの子孫となり、時至ってかれにより贖われ、召命され、義とされ、聖とされ、栄光を与えられる一つの民を、まったくの永遠からお与えになられた」と告白します。個人の救いは、永遠の神のご計画③が、キリストの御業⑧により、聖霊によって(自由意志⑨、有効召命⑩、義認⑪、子とすること⑫、聖化⑬、聖徒の堅忍⑰)私たちにもたらされます(信仰⑭、悔い改め⑮、善き業⑯)。聖徒の堅忍により信仰が守られ⑱、律法としての十戒に従う者とされ、信仰生活をまっとうして、個人の死、終末㉜、最後の審判による救いの完成と神の国への凱旋㉝へとつながります。
 主なる神の大いなるご計画、キリストによる罪の贖いに心から感謝しつつ、私たちに教会が与えられ、救いの神の御国の約束に喜びをもって、日々歩んで頂きたいと思います。
  
 
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 「二性一人格 8:2」  ローマ1:1~5    2019.4.7
 
 
序.
 ウェストミンスター信仰告白第8章「仲保者キリスト」について学んでいます。第1節では、神と人との仲介者(仲保者)について、そしてキリストの御業として、預言者・祭司・王の三職であることなどを学びました。

Ⅰ.キリスト教の基礎教理としての二性一人格
 信仰告白は第2節で二性一人格について告白します。使徒の時代より「ナザレのイエスは誰か」という問いかけに対して長い間議論されてきました。真の神であり、同時に真の人であるとの二性一人格の告白はカルケドン信条(451)において確立されていきます。この教理は、ローマ1:3-4を証拠聖句として挙げますが、一つ二つの聖句により確定されたのではなく、聖書全体、神の御言葉としての聖書が語る言葉として、確定されて行きました。三位一体同様、聖書は「二性一人格」という神学用語を用いません。しかし、二性一人格と三位一体は、キリスト教教理の中心であり、東方正教会は三位一体論の解釈が異なりますが、西方教会(カトリック・プロテスタント)においては、共通の信仰告白としており、これらを否定する人たちを異端と定めます。
 この教派を超えて一致できる信仰は、使徒信条やニケヤ信条という古代信条において告白されました。ウェストミンスター信条は、古代信条をそのまま告白しています。宗教改革者たちは、信仰告白における一致としての使徒信条を、生活における一致としての十戒、教会における一致としての教会のしるし(御言葉・聖餐・祈祷)、そして祈祷としての主の祈を大切にし、使徒信条・十戒・主の祈を三要文として大切にしました。ハイデルベルクもウェストミンスター大教理・小教理、ルターの大小教理も、基本は三要文です。

Ⅱ.神の御子キリスト
 キリストの二性一人格を確認する時、キリストの神性・キリストの人性・一人格である二性について考えます。キリストの神性を告白するのは、これを否定する人たちがいるからです(エホバの証人等異端者)。彼らはキリストを偉大な教師・預言者に留め、キリストの十字架が、人間的な善・苦行に過ぎなくなり、私たちの救いと切り離されていきます。キリストの神性は、御名(イエス(主は救い:ヨシュア)、キリスト(油注がれた者:メシア)、人の子(真の神が人間性を持っておられることの証し)、神の子)により明かです。
 またヨハネ福音書では、主イエスが「わたしは命のパンである」、「わたしは○○である」と繰り返し語り、キリストご自身が神の御性質と持つことを告白します(ヨハネ6:48、7:29、8:12、8:16、8:42、9:5、10:7、10:9、10:11、11:25、12:47、12:49、13:19、14:6、15:1、16:15……)。

Ⅲ.人間の本性を持つキリスト
 キリストの人性を否定する人々は、神の超越性を信じており、その神が人の位置まで降りてこられることを受け入れることが出来ません。そのためキリストが体を取られたのは、そのように見えているだけだとか、色々なことが語られます。キリストの人性を受け入れることが出来ないと、信仰と生活の分離が起こり、信仰が抽象化してしまいます。
 しかし信仰告白が語るように、主イエスは弱さを持ち、十字架に架けられる前の夜、ゲツセマネでは、「父よ、御心ならば、この杯を私から取りのけてください」とも祈られました(ルカ22:42)。また、病の者、長年寝たきりの者、悪霊に取りつかれた者を見ると、憐れまれ、癒やし、悪霊を追い出される心を持っておられます。
 ただキリストは私たち人間とは異なり、罪をまったく犯されません。罪がないお方だからこそ、私たちに代わって、罪の贖いを成し遂げることができたのです。

Ⅳ.二性一人格
 最後に信仰告白は「かくして、神性と人性という、二つの完結した、完全で、別個の本性が、変化・合成・混合なしに、一人格において、分離しがたく結合された。この人格こそ、まことの神にして、まことの人であり、しかもなお、一人のキリスト、すなわち、神と人間の間の唯一の仲介者、である」と語ります。
 キリストは半分神・半分人間なのか、人となられたイエスは、その時、神としての働きを止められていたのか等、議論されました。しかし人となられたイエスは、100%神であり、同時に100%人間です。なおも一人のキリストという人格を持っておられます。このことを教会は確認し、告白したのです。
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 「イエスの人性 8:3-4」  フィリピ2:6~11    2019.4.14
 
Ⅰ.真の人となられた神なるキリスト
 私たちは受難節、キリストの十字架を見上げつつ、この週の日々を歩みます。ウェストミンスター信仰告白の学びも第8章「仲介者キリスト」についてを学んでいます。第1節では仲保者キリストについて、第2節では、キリストが真の神にして真の人:二性一人格であることを学びました。そして仲保者キリストを学ぶ前提として、三位一体:御父・御子・御霊の関係を正しく理解して置かなければ、キリストも正しく理解できません。神の永遠のご計画と創造と摂理に携わるのが、父なる神です。そして御子が十字架において私たちの罪の贖いの御業を成し遂げると共に、御言葉により私たちに語りけてくださいます。そして、聖霊が私たちに働きかけます。父なる神の御業は、キリストを通して、聖霊によって私たちに示されます。私たちの祈りは、逆に、聖霊によりキリストを介して、父なる神に届けられます。この関連性を理解することが大切です。
 そして、3節・4節ではキリストの人性について告白されています。乙女マリヤにより聖霊によって人となられたキリストは、神性がなくなったわけではなく、なおも真の神として働かれます。そのためキリストは罪を持っておられません。そのため「聖霊でもってかぎりなく、聖とされ、油注がれ」る必要がありました。「キリスト」とは「油注がれる」職務であり、キリストは預言者・祭司・王として、それぞれ義・聖・真実に、すべての職務を全うされました。キリストは、人でありながらも、罪がないばかりか、すべての点において完全であられます。これが、普通の出生による私たち人間とは異なる点です。

Ⅱ.人となられたキリストの御業のすべて
 第4節では人間となられたキリストの御業、つまり謙卑(低い状態)と、高挙(高い状態)について告白します(参照:フィリピ2:6~10)。そして小教理問答は、問27で謙卑について、問28で高挙について告白します。低い状態とは、キリストが人として果たすべき義務を遂行されたことであり、2つの働きがあります。キリストが人としてお生まれになってから十字架に架かる前までは、律法の下に置かれ、神が人と結ばれた生命の契約をキリストがすべて従ってくださいました(積極的服従)。そして、十字架・死・葬り・陰府下りにより、私たち人間の罪の刑罰を、私たちに代わって担って下さいました(消極的服従)。
問27 キリストの謙卑とは、どのような点にありましたか。
 答 キリストの謙卑は、〔第一に〕彼が〔人間として〕お生まれになられ、それも低い状態にであり、律法の下に置かれ、この世のさまざまな悲惨と神の怒りと十字架の呪われた死を味わわれたこと、〔第二に〕葬られ、しばらくの間死の力の下に留まられたこと、にありました。
問28 キリストの高挙は、どのような点にありますか。
 答 キリストの高挙は、彼が三日目に死者の中からよみがえられたこと、天に昇られたこと、父なる神の右の座に着かれたこと、また、終わりの日に世を裁くために来られること、にあります。
 人間イエスの御業は、謙卑と高挙がありますが、信仰告白はこれらを分けることなく、人間イエスの御業として一つの節で告白します。ウェストミンスターは、信仰告白と大教理、小教理、それぞれが補い合っています。ですから、語られていない部分は、相互に確認し合うことが必要です。信仰告白では人間イエスとしての継続性を告白しています。肉の死を遂げ、墓に葬られ、陰府に下られたキリストが、同じ体をもって甦られました。ここに断絶があれば、神を信じること自体が無意味になります。このキリストの甦りが、私たちキリスト者にも与えられます。これが福音の中心です。キリストを信じ、救われることにより罪の赦しが与えられます。この罪の赦しこそが、甦りと永遠の生命に直結します。
 人間キリストは、十字架の死、復活、昇天により終わりを告げるのではなく、さらにその体をもったキリストが、再臨され、最後の審判を行われます。キリストは私たちの救いによりその御業を終えられたのではありません。キリストは今も私たちを覚えて執り成しておられ、再臨と最後の審判により、私たちを天国へと招き入れて下さいます。
 私たちは、キリストの御業を正しく理解することにより、滅びから永遠の生命に生きることの喜びが増し加えられていきます。
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  「十字架による和解と永遠の生命 8:5」  コロサイ1:13~20    2019.4.28
 
 Ⅰ.ウェストミンスター信仰の位置付け
 ウェストミンスター信条(1643-49作成)は、古代4信条と宗教改革で告白された改革派諸信条に基づいて作成されています。つまり、ウェストミンスター信仰告白を理解するには、いくつかの土台があります。唯一の正典である聖書が第一の土台です。異教宗教との違いを確認します。第二にキリスト教としての共通の土台としての古代4信条(使徒信条、ニカイア信条、カルケドン信条、ニカイア信条)です。異端が区別されます。第三が宗教改革における改革派諸信条。教派の違いが明らかになります。聖書を神の御言葉として読み、理解した結果を告白しています。そして最後に、大陸にはないイングランド固有の信仰告白も含まれております(WCF12章、16章、18章、19章等)。つまり、ウェストミンスター信条は四段の土台の上に成り立っています。信仰告白を学ぶ時、どの段階が確認することは大切です。
 今日学んでいる第8章5節は、改革派信仰、特にドルト信条(1619年、オランダ)を土台としています。ドルト信条は、TULIPとよばれる5特質が特徴です(括弧内はウェストミンスター信仰告白)。①神の無条件的選び(第3章)②全的堕落(第6章)③限定的贖罪(第8章)④不可抗的恩恵(第10章)⑤聖徒の堅忍(第17章)

Ⅱ.キリストの十字架の御業
 私たちは、先日、キリストの十字架と復活を覚えて、受難節・復活節を覚えました。イエスを救い主として信じる私たちの罪を赦し、私たちを救うために、キリストが十字架の御業を成し遂げて下さいました。この時に、キリストの十字架の御業とは、直接的には誰のために、何が行われたのかを、今日取り上げる第8章5節は確認します。
 キリストの十字架は誰のためか?「救われる人のためである」と答えることが出来ます。これはドルト信条の「限定的贖罪」に関わることです。ドルト信条を否定する人たちは、アルミニアンと呼ばれ、神の予定を否定します。彼らは人の全的堕落を受け入れることが出来ず、「信じる者は救われる」と語る時、神を信じることは人間の意志で決定することができると考えます。人の無能力を受け入れられず、人の業・功績を認めたいからです。するとキリストの十字架の意味が問題となります。神は誰が救われるか分からないのに特定の人のために十字架で血を流されたのか? すべての人のためにキリストは十字架で血を流されたのだと。そしてキリストを救い主として信じた人たちにのみ、その十字架の血の贖いが有効になるのだ、と解釈しました。これは「普遍的贖罪」です。しかしドルト信条を受け入れる改革派信仰を持つことは、限定的贖罪、つまり主が救いへと予定された者のみのために、キリストが十字架で血を流され、罪を贖われたと解釈します。それを信仰告白では、「父がかれに与えておられる者たちすべてのために」と告白します。

Ⅲ.キリストの御業の十分性
 ではキリストの御業は、具体的には何を意味し、私たちに何をもたらして下さったのか。「完全な従順と自己犠牲」。この意味を信仰告白は2つ挙げています。第一に、かれの父の義を十分に満たしたことです。これは、主なる神が人を創造された時に、人に求められた義務をまっとうしたということです(積極的服従)。
 第二として「父がかれに与えておられる者たちすべてのために、和解ばかりでなく、天国における永遠の嗣業も、買い取っておられる」ことです。消極的服従としてのキリストの十字架の御業と共に、復活による罪に対する勝利です。①和解。キリストの十字架の御業は、私たちの罪の刑罰を担い、私たちの負の遺産をすべて償って下さいました。それが和解であり、義認です。②天国における永遠の嗣業が買い取られました。つまり、神の子として受け入れられたのです。このことにより、創造された時の人が、生命の契約を守った時に与えられるすべての恵みが、キリストの御業により与えられるのです。
 私たち罪人が、罪が赦され、神の子とされ、天国の嗣業に入れられるために、このキリストの御業以外に何もいりません。私たち人間は全的堕落・全的無能力であり、私たちの信仰も善き業も、主なる神から与えられた恵みです。主は、私たち一人ひとりの救いを計画し、キリストの御業により救いを有効にし、義認・子とすること・聖化をお与え下さいます。この時石の心である私たちは、聖霊の働きによりキリストと出会い、罪を悔い改め、信仰を告白し、キリストに倣うものとして善き業を行います。これは救いの感謝の応答であり、礼拝・奉仕・献金、つまり時間を献げ、賜物を献げ、財を献げるものとなるのです。
 
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 「旧約の民の救い 8:6」  創世記3:15    2019.5.5
 
 Ⅰ.旧約の人々にも有効なキリストの御業
 夕べの礼拝では、ウェストミンスター信仰告白、第8章「仲介者キリストについて」学び続けています。先週、キリストの十字架の御業により、私たちの罪の贖いと救いのすべてがカバーされていることを語りました。だからこそ、私たちは、神の恵みによってのみ救われるのであって、救いの条件として善き業が求められることはまったくありません。
 この時に問題となるのが、旧約に生きる人々はどうなのか?ということです。通常の契約においては、契約が結ばれた後のことだけに有効となります。そのため、それ以前の人々に溯って、契約の内容が有効になることはありません。
 しかし、神の救い・福音は、ここが異なります。なぜならば、キリストの御業自体は、2000年前に成し遂げられ契約が実行されたのですが、主が契約を結ばれたのは、主が天地万物を創造された直後、最初の人が主によって造られた直後、生命の契約(創世記2:17)に定められていたからです。最初の人アダムとエバは、この契約を破り罪を犯しましたが、主なる神は改めて恵みの契約(同3:15)をお与え下さいました。主なる神は、ここで「彼」をお立て下さいます。彼がお前(サタン)の頭を砕き、滅ぼすことを宣言しておられます。「お前は彼のかかとを砕く」と語られ、キリストを十字架に架けて殺すことにより、サタンが勝利を遂げたように思われますが、それはかかとを砕いた程度であり、キリストは甦り、罪・死・サタンに勝利されました。この遠く未来において成し遂げられる主の御業によって、あなたの罪は贖われることを、主は創世記において約束して下さったのです。だからこそ、旧約の民においても、キリストの御業により神の民として、救いに与るのです。

Ⅱ.旧約における契約の更新
 恵みの契約は、ノア・アブラハム・モーセ・ダビデにおいて、更新されて行きます。
 ノアの時代、洪水によりノアの家族を除く全世界が滅ぼされました。すべての人間が罪人であること、主が全世界を支配しておられること、主の恵みによらなければ救いがないことが示されました。そして洪水の後、主はノアと契約を更新して下さいました(同9:9~17)。
 次に主はアブラハムを選び、信仰の父として下さいました。アブラハムは、まだ見ぬ地に向かって歩みを始めます(同12:1~3、同17:1~8)。この後、主はアブラハムに、契約のしるしとして、割礼を制定して下さいました。
 エジプトで奴隷となっていたイスラエルに対して、主はモーセをお立て下さり、奴隷から解放して、約束の地カナンにイスラエルを迎え入れて下さいました。この時、主は救いのしるしとして過越を制定して下さり(出エジプト12章)、律法としての十戒をお与え下さいました(同20章)。十戒により、自らが主の御前にあって罪人であることが示されると同時に、神の民としてガイドラインが与えられました。また幕屋建設が指示され、生け贄を献げる規定も定められました。約束のメシアによる生け贄としての十字架が指し示されています。
 主はイスラエルの人々の要求に基づき、最初にサウロを王として立てました。サウロが罪を犯したため、サウロに代わる王として立てられたのがダビデです。ダビデが人々の王として立てられたのは、主なる神の代行者の立場であり、主なる神がイスラエルを支配していることのしるしでした。主なる神が、全世界を支配しておられることを示しています。またダビデの子として、神の子メシア、キリストが指し示されていきます(サムエル下7:11~16)。神はダビデの子孫が、イスラエルの王座、メシアとして就くことを明確に語られます。それが御子イエス・キリストです。このことはパウロも告白します(ローマ1:3~4)。
 また、ダビデは幕屋に代わる神殿をエルサレムにおいて建設を試み、息子ソロモンによって実現します。神殿を建てることは、一方では霊であられる神を一つの器に閉じ込めることですが、同時に、新約における神礼拝の基礎が据えられていきます。そしてエルサレムが、神の国を指し示す場シオンとして示されていきます。ダビデ王により、メシアであるキリストが、旧約の民にも具体的に示され、主は神の御国の完成の時を指し示されます。

Ⅲ.すべての時代の人々に有効なキリストの贖い
 このように、旧約聖書を顧みる時、イエス・キリストの十字架以前であっても、彼らにイエス・キリストの十字架の贖いが適用されており、イエス・キリストの御業により、彼らの救いが完成したことを、確認することが出来ます。キリストの御業により、すべての時代、全世界に生きるすべての神の民への救いが成し遂げられ、完成しているのです。
 
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 「キリストの二つの本性 8:7」  ヨハネ一3:11~18    2019.5.12
 

Ⅰ.二性一人格をもう一度学ぶ
 ウェストミンスター信条は、イングランド国会の神学的な諮問機関として、1643~49年に開催されたウェストミンスター神学者会議によって作成された信条です。そのため、宗教改革の最晩期という時代、そしてイングランドで告白されたという時代と地域性を理解しなければ、理解できない、あるいは誤解してしまう箇所もあります。
 今日学びます第8章6節の告白は、理解しがたい告白の一つです。二性一人格については第2節において学びました。そしてその後半で、「かくして、神性と人性という、二つの完結した、完全で、別個の本性が、変化・合成・混合なしに、一人格において、分離しがたく結合された。この人格こそ、まことの神にして、まことの人であり、しかもなお、一人のキリスト、すなわち、神と人間の間の唯一の仲介者、である」と告白します。特に「変化・合成・混合なしに、一人格において、分離しがたく結合された」という部分は、二性一人格が確立したカルケドン公会議(451年)において、慎重に議論されたことでした。
 第2節では二性一人格を中心に学びましたのでこの部分は語りませんでしたが、ここで確認して置く必要があります。つまり、「変化なしに」とは、神性が人間性によって呑み込まれたとか、あるいはその逆だったという考えを閉め出すために語られています。「合成なしに」は、二つの本性が一人の人のように結び合わされていたという観念を退けます。結合(シャム)双生児のように二つの人格がありながらも、一つの体を共有しているイメージです。そして「混合なしに」は、二つの本性が何らかの仕方で一緒に混じり合わさり、神でもない人でもない第三の種類の存在を形成したと考えることの誤りから守ることです。

Ⅱ.神性と人性の交流について
 その上で第6節を考えます。問題の原点は、二性一人格におけるルター派教会と改革派教会との間の信仰理解の違いです。ルターとカルヴァンは、信仰の一致を図ろうとして話し合いを持ちました。この時、15の教理の内、14において一致しましたが、最後の一つ主の晩餐をめぐる議論で一致することが出来ませんでした。つまりカトリックでは「これは私の体である」と聖定された時、まさしくキリストの体であるとしました。だからこそミサに与ることによって、自動的に信仰が増すのです。カルヴァンは霊的臨在説を唱え、聖霊によるキリストとの交わりを確認しました。それに対してルターは、キリストの体と血は、聖餐のパンと葡萄酒の中にそれとともに実在するという両体共存説をとります。
 この時、キリストの神性と人間性との関係もまた、異なった解釈をとることとなります。つまりキリストの神性の諸属性が、キリストの人間性に伝達され、キリストの人間性は、遍在が可能だ、どこにでもいることができると解釈しました。そのため聖餐の時にも、これがキリストの体そのものになるのだとなります。
 改革派教会では、それは違うだろうとなります。それが第6節前半部分です。「キリストは、仲介の御業において、〔神・人〕両方の本性に従い、それぞれの本性がそれ自身に固有なことをなすことによって、行動される」。

Ⅲ.他方の本性によってよばれる人格とは
 しかし聖書はそれだけでは語り得ないことが記されています。それが後半部分です。「しかし、人格の統一性のゆえに、一方の本性に固有なことが、聖書では時々、他方の本性によってよばれる人格に帰されている」。理解しにくく、証拠聖句から確認しましょう。
・使徒20:28「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」。「御子」とは、神の第二位格としての称号です。しかし血による贖いは人間キリストのなされた御業です。
・ヨハネ3:13「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」。「人の子」とはキリストご自身が、神の御子であることを語る時に用いられる称号です。しかし「天に上る」ことは、死から復活された人間キリストの御業です。
・Ⅰヨハネ3:16「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」。人間イエスが十字架にお架かり下さいました。この時わたしたちは「愛」を知りました。愛とは、本来、神的性質を有しているものです。
 このように確認してくると、今日の信仰告白は、現在に生きる私たちにとっては、理解に苦しむ告白ですが、改革派信仰を神学的に追求するならば、確認が必要な告白です。
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 「贖いの適用 8:8」  ヨハネ10:7~18    2019.5.19
 
Ⅰ.神によって予定された神の民
 信仰告白は最初に「キリストは、御自分が贖いを買い取っておられる者たちすべてに対して、その贖いを確実かつ有効に適用し、分かち与えられる」と告白します。私たちは、すでに第5節において、キリストの十字架の贖いはキリスト者のためであり、すべての者に無条件に救いが与えられる普遍的贖罪ではない、限定的贖罪であることを確認しました。第8節では、「御自分が贖いを買い取っておられる者たちすべてに対して」と告白します。この時、キリストが十字架に架かる時までにキリストの元に集まってきたキリスト者だけに神の救いが有効なのではなく、その後、そして今、主の御前に集められキリスト者とされた者、そしてこれからキリスト者とされていく者も含まれています。
 そのことは、ヨハネ福音書10章の御言葉により明らかです。つまり、キリストは私たちが天国に入るための唯一の門であり、キリストを通らなければ、だれも罪が赦され、救われることはありません。そして、神の救いに予定されている者で、まだキリスト者とされていない者は、皆が、教会に集められ、キリストの十字架による救いを受け入れ、信じるようになります(ヨハネ10:15-16)。つまり、キリストの贖いに与るのは、神を信じるキリスト者すべてです。そしてそれは、主によって予定された者です。このことはすでに第3章で学んだのですが、このことが前提となっています。

Ⅱ.神学の中心に位置するキリストの贖い
 続けて信仰告白は「すなわち~」と語り続けます。ここで3つのことが語られています。キリストが贖いの民を、①どのようにキリストの下に集め、②どのように贖いを適用し、③何を成し遂げようとされているかです。
 最初に、キリスト者がどのようにしてキリストの下に集められるかについてです。「彼ら」と語られています。神が救いへと予定している人々のすべてであり、私たち一人ひとりもここに含まれています。そしてキリストは、私たち一人ひとりを覚えて、前もって執り成しの祈りを献げて下さっています。主は様々な方法を用いて、私たち一人ひとりが、御言葉である聖書に触れる機会をつくって下さり、救いの奥義を指し示して下さいます。この時、私たちはまったく受け身であり、私たちが神を求め、聖書を読み、神を信じるという行いを求めるものではありません。主なる神が、すべてを準備し提供して下さいます。
 〔第二に〕信じて従うように、かれの霊によってかれらを有効に説得し、かれの言葉と霊によってかれらの心を治める。これは、ウェストミンスター信仰告白の今後の展開をまとめて語っています。
 第10章 有効召命  第11章 義認  第12章 子とすること  第13章 聖化
 これは聖霊論ですが、一人の滅び行く魂に救いの道を与えるために、主なる神が全責任をもって、聖霊により働いて下さることを語っています。
 そして、主によって捉えられた人は、キリストの十字架による救いという奥義が明らかにされ、罪を悔い改め、信仰を告白するものへと変えられて行きます。それが、かれの言葉と霊によってかれらの心を治めるという言葉に表れており、信仰告白では続けて、
 第14章 救いに導く信仰  第15章 命に至る悔い改め  第16章 善い行いについて
 続けて信仰告白は、第17章 聖徒の堅忍  第18章 恵みと救いの確信 を語ることにより、私たちの信仰は、神が機械的に私たちに一方的に流し込むものではなく、生きた心を持つ私たちに語りかけていることを確認します。だからこそ私たちは、神による救いへと導かれても、その中にあって信仰がグラつくのです。時として神から離れ、教会から離れることもあります。しかし神による救いに予定されている者は、最終的に信仰が守られ、神の国への信仰をまっとうすることができることを信仰告白は語ります。そして、信仰告白は第19章以降において、私たちの信仰生活、教会生活について語っていきます。
 そして最後の第32章・第33章で、終末論が展開されます。このことを8:8では〔第三に〕で告白します。キリストの再臨に伴う最後の審判によるサタンに対する勝利と神の国の完成、つまり私たちキリスト者が天国に凱旋することを告白します。
 信仰告白8:8は信仰告白(キリスト教教理)の全体を視野に入れつつ、仲保者キリストによる罪の贖いこそが、私たちに与えられている救いそのものであることを告白しています。
 
 
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 「人間の自由意志 第9章」  ヤコブの手紙1:12~15    2019.5.26
 
序.
 ウェストミンスター信仰告白第9章「自由意志」について学びます。人間の自由意志に関しては長年議論されてきたことで、丁寧に学ぶ必要があります。しかし同時に、一章全体を確認することで、信仰告白が語ろうとしていることの本質を確認することが出来ます。

Ⅰ.自由意志と罪
 予定と全的堕落を学ぶと、人間は神の操り人形なのか、人間に自由な意志はないのかと語られます。そのため信仰告白は第1節で、神は人間の意志に対して、強制されることも、本性の絶対的必然性といったものによって善または悪に決定されているということもない、そのような生まれながらの自由を与えておられると告白し、人間に自由意志があることを告白します。ただ、私たちに与えられている自由意志は、私たちの状態、罪の有無によって変わります。このことをウェストミンスターは次の4つに分類します。①神の創造された時の状態(第2節)、②罪に陥った時の状態(第3節)、③神に導かれキリスト者とされた時の状態(第4節)、④神の国の完成における天国での状態(第5節)。罪との関係のことを理解していなければ、私たちが自由意志を考える時、誤った結論を出すこととなります。

Ⅱ.人間の状態と自由意志
 第2節は、天地創造において創造された時の罪のない状態です。この時、主は生命の契約を結んで下さり、善悪の知識の木の実からは取って食べてはならないことを命じられました。つまりこの時の状態において、人間は神との交わりの中、罪を犯すことなく、神を賛美して生きることが出来ました。まさに人間は、無制限・自由に意志し、思うことが出来ました。主なる神は、人が約束を果たすことが出来ないことを契約されたのではなく、人が約束を守ることによって、神の国における永遠の生命が約束されていたのです。
 問題となるのは、罪の状態にある人間の自由意志についてです。第3節.人間は、罪の状態への堕落により、救いに伴ういかなる霊的善に対しても、意志のあらゆる能力を全面的に喪失している1。そのため、生まれながらの人間は、そのような善からまったく離反して2、罪の中に死んでいるため3、自分自身の力によっては、回心することも、回心に向けて準備することもできない4。自分で神さまを知り信じる能力は残っている、さらの善い行いにより救いを獲得することが出来ると考える人たちがいます。しかし改革派信仰は、それらを否定し全的堕落を語ります。すでに第6章で確認してきたことであり、ここでは、証拠聖句を挙げることで理解して頂きたいと思います。1 ローマ5:6、ローマ8:7、ヨハネ15:5、2 ローマ3:10-12、3 エフェソ2:1,5、コロサイ2:13、4 ヨハネ6:44,65、エフェソ2:2-5、Ⅰコリント2:14、テトス3:3-5。全的堕落を正しく理解していなければ、信仰告白が語る罪の状態のある人間の自由意志についても、理解することができません。
 人は自分の力では、神を信じたり、善き行いを行ったりすることはできません。私たち人間が神を知り、神を信じようとする時、聖霊の宿り、聖霊の働きが必要です。そして聖霊が働く時、人はどのようになるのかを第4節で告白します。ここで大切なことは、最初に神は、罪人を回心させて、恵みの状態に移すことです。このことにより、罪の奴隷状態から解放され、神の恵みによって、罪を悔い改め、信仰を告白し、善き業を行うようになります。前回、第8章の最後で、ウェストミンスター信仰基準の順序を確認しましたが、まさに聖霊論・救済論が、第11~13章・第14~16章で展開していく、それが自由意志によって成し遂げられていくことを語っていると言って良いかと思います。
 しかし完全な罪の赦しは、神の国の完成を待たなければなりません。そのため、神のよって捕らえられ、キリスト者となってもなお、私たち人間は、肉の死を迎えるまで、罪を繰り返します。そのため、私たちは日々、罪の悔い改めを行い、遜りが求められます。
 そして自由意志において最後に確認するのが、第5節の神の国に入った時の状態です。キリストが復活されたように、キリストの再臨により私たちが復活し新しい体が与えられ、栄光化された体が与えられます。この時、もう罪を行うことはなく、完全でかつ善のみを行う者、意志する者となり、神の御国において、永遠に主を賛美します。
 人間は「自由だ」と言えば、何を語っても、何を行っても良いように考えています。しかし罪の状態においては、善を行う能力が失われています。罪を十分に理解した上で、私たちに与えられている自由意志の恵みについて、整理して考えていかなければなりません。
 
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  「神による有効召命 10:1」  ローマの信徒への手紙8:26~30    2019.6.2
  
Ⅰ.予定に基づく有効召命
 ウェストミンスターにおける聖霊論は、神の予定の教理に基づいて展開されます。一人の魂が救われ、神の民となるのは、その人自身が信じようと思い行動に移す前に、神の救いへの予定に基づいて、聖霊がその一人に働くことによって行われます。
 つまり、全的堕落にある罪の状態にある人間には、自分の力で神による救いを求めたり、救いに必要な行いをすることができません。そのため、神がその人に直接働きかけ、神を信じるように導いてくださいます。それが有効召命です。有効召命は、神の救いの予定と実際の救いの御業(義認・子とすること・聖化)を橋渡しする役割を担っています。このことは、最初にお読みしたローマ書8:26~30において語られているとおりです。

Ⅱ.御言葉の説教
 そして主なる神が、ある人を救いへと招くために有効召命を与える時、そこに3つの準備があることを信仰告白は告白します。「すなわち、神は、〔第一に〕御自身に関する事柄を霊的に、かつ、救いに役立つように理解できるよう、かれらの知性を照らす」。私たちが神を知るようになるために、神は、私たちの知性に訴えます。つまり、主は御言葉である説教を語るにあたり、知的に理解できるように働きかけてくださいます。つまり、人が主なる神と出会うきっかけは、いろんな方法があるのですが、主を知り、信じるきっかけは、福音が提示される御言葉に委ねなければならないのだということを語っています。
 つまり、主は私たち人間に福音宣教・伝道を行うことを命じておられますが、人が一生懸命に伝道していたら救われる人が現れるのではなく、同時に私たちの行いを主が用いて下さることを語っています。つまり私たちが伝道を行う時に、私たちが努力する以上に、常に主の御業、聖霊が働き、一人ひとりが教会に集め、彼らが主の御言葉を聞き、福音を理解できるように、主に委ねることが必要だと語っています。

Ⅲ.石の心から肉の心へ
 信仰告白は続けて、「〔第二に〕かれらの石の心を取り去って、かれらに肉の心を与える」と告白します。信仰告白は、エゼキエル11:19、36:26を証拠聖句として挙げています。11:19 わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。36:26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
 私たちは神を知る前、石の心でした。つまり自由意志の問題ですが、自分で神を求めるような心は、罪の状態にあれば、備わっていません。そして主なる神が、聖霊により私たちの内に肉の心をお与え下さいます。これこそ、本来主が創造して下さった時にお与え下さった命の息が吹き入れられ、神と交わり、神を礼拝する心です。罪によって失われていた神にかたどって創造された人間性を、ここで回復してくださいます。

Ⅳ.主の御業としての有効召命
 そして信仰告白は、「〔第三に〕かれらの意志を新たにし、その全能の力によって、かれらを善なることへと向かわせ、かくしてかれらをイエス・キリストへと有効に引き寄せられる」と告白します。ここで語る「かれらの意志を新たにし」とは、第9章において、第3節「罪の中の意志」から第4節「キリスト者の意志」へと移ることを語っています。
 ここで働く神の御力は、「全能の力」によってです。一人ひとりを主の御許にお集めになる伝道は、主によって片手間に行われているのではなく、一人ひとりに対して主は全能の力をもって成し遂げられます。ここに神の愛を、私たちは確認することが求められます。
 そして、救いとは救い主イエス・キリストと出会うことです。

Ⅴ.人間の意志を尊重して下さる主なる神
 救いの御業は、神のご計画に基づき、聖霊の働きによって私たちにもたらされますが、この時私たちは、何かの圧力を感じたり、私たちが何かに忖度するのもなく、私たちに救いが必要であることを受け入れ、自らの口で罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として受け入れる信仰告白へと導かれます。つまり、私たちが神を信じ、神の救いに入れられることは、第一には神の予定に基づく100%神の御業です。しかし同時に、石の心が砕かれ人間の心を取り戻した私たちキリスト者は、100%自らの意志において神を信じ、罪を悔い改めます。私たちは神の操り人形ではありません。
 神は、聖霊により私たちに救って下さいますが、同時に、私たちに与えられている自由な意志を尊重し、それを用いる形で救いへとお招き下さいます。
 
 
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  「有効召命:無償の特別な恵み 10:2」  エフェソの信徒への手紙2:1~10    2019.6.16 
 
 序.
 改革派信仰において、主なる神の主権に基づく予定を理解することは、大変重要なことです。この第2節では、予定論に基づいて神を信じるとはどういうことかを、人間の意志による信仰告白を語る人たちが唱える予知論を念頭に置きつつ、信仰告白します。

Ⅰ.予知論を否定するウェストミンスター信条
 最初に「この有効召命は、ただ神の無償の特別な恵みによるもので、何か人間のうちに予見されたものに由来するのではまったくない」と告白します。私たちが神を信じようとする時、どうしても、自分で神を選び、神を信じる、という自分自身の自発的な行為と考えがちです。しかし信仰告白では、私たちが神を信じ、信仰告白を行うにあたって、私たち自身の意志を語る前に、神から与えられる恵み、無償であると告白します。救いを得て、天国に入るために、私たちは、何も準備する必要がないのです。
 これは、予知論を唱える人たちを否定している告白です。つまりプロテスタント教会でも、信仰義認の解釈の仕方が異なることから起こっています。聖書は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と語り、神を信じることは、自分で判断出来るのだと解釈する人々が多くいるからです。それは、福音派から、ルター派、聖公会、そしてカトリックも含めて同じ解釈であると言って良いでしょう。神の予定によって人が救われると聖書を解釈することは、改革派・長老派教会特有の信仰理解です。
 聖書が語り、主が私たちに指し示している福音理解に基づく時、例え少数者であったとしても、主の御言葉に従った信仰告白に生きることが私たちに求められています。このことは、三位一体や二性一人格を多くの人々が信じることができないのと同じです。だらこそ、信仰告白における聖書の証言、つまり証拠聖句をていねいに確認する必要があります。
 ①エフェソ2:4~5、8~9 信仰に伴う救いが、神による恵み、神からの賜物であって、私たちの行いに伴うものではないことを聖書も告白します。そのため、信仰告白は、何か人間のうちに予見されたものに由来するのではまったくないと告白します。
 ②テトス3:4,5、③ローマ9:11~12、④テモテ二1:9-10 キリスト・イエスが永遠の昔に存在されており、御子の永遠性を語っています。御子が天地万物を創造された時に言葉を発せられたロゴスそのものであり、その方が、私たちの選びの計画にも参与され、人としてお生まれになり十字架の御業を成し遂げられます。

Ⅱ.信仰には実りが伴う!
 信仰告白は後半で、「有効召命において、人間は完全に受動的であり、聖霊によって生き返らされ、新たにされて初めて、それにより、この召命に応え、そのうちに提供され、与えられている恵みを受け止めることができるようにされる」と告白します。救いが、予定に基づく時、私たち人間の側は、完全に受け身になります。人間は、全的に堕落しており、神の御前に何一つ善い行いをすることができず、神を信じることもできません。このように全的に堕落している人間が、神の救いに入れられようとする時、私たちは自分の力・行動で神に近づくことができず、神からの働き・聖霊の働きが必要なのです。
 「聖霊によって生き返らされ、新たにされる」とは、前回も確認したとおり、石の心であった私たちが、肉の心を持つことです(参照:エゼキエル36:26-27)。ここに聖霊の働きがあり、この時初めて、救いを求め、主なる神を求めることとなります。予知論が語る、自分の意志で、神を信じ、信仰告白を行う、というのは、聖霊の働きにより、石の心が砕かれた結果です。
 信仰告白は最後に、「それにより、この召命に応え、そのうちに提供され、与えられている恵みを受け止めることができるようにされる」と告白します。聖霊の働きは、内的に行われますが、それを受け止め、行動が伴います。これが信仰を告白し、悔い改めること、善き業を行うことへとつながります。これが信仰の実りです(参照:ヨハネ6:37、5:25)。
 救いは、神のご計画による予定が出発点ですが、それが聖霊によって私たちに働きかける時、私たちは自発的に行動するのです。つまり救いは100%、神の御業であり、100%、私たちの信仰です。だからこそ、信仰義認を中心に語るパウロ書簡と、信仰の実りとしての行いを求めるヤコブ書が、なおも併存が成り立つのです。
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  「幼くして死ぬ者 10:3」  ヨハネ福音書3:1~8    2019.6.23 
 
 序.
 私たちはウェストミンスター信仰告白の学びを続けていると、なぜこのような告白が行われているのかと疑問に思う箇所も出てきます。今日の信仰告白もその一つです。

Ⅰ.通常とは異なる有効召命
 現在は、新生児が亡くなることが非常に少なくなり、今日の告白はあまり議論になりませんが、中世においては、生まれたばかりの赤ちゃんが死んでいくことが当たり前でした。特にカトリック教会においては、洗礼を受けなければ天国に行くことができません。そのために一刻を争う事態を防ぐために、助産師にも洗礼を授ける権威を与えていたのです。
 このことに対して、宗教改革者たちはどのように考えたのか、それが今日の信仰告白に当たります。ここは有効召命についての告白が行われていますが、通常は御言葉と聖霊によって信仰が与えられます。しかし、通常とは異なる有効召命に与る人たち、つまり御言葉によって外的に召されなかった人たちもいるわけで、そうしたことを、告白しています。最初が幼い時に死を迎えた人たちのことです。そして後半は、異教社会に生きる私たちが常に考える、福音を聞かずして死んだ者の救いに対してです。
 ただ注意しなければならないことは、聖書では中心的な関心事ではなく、聖書全体から、神の御意志を導き出さなければならない問題です。そのため、今回も、証拠聖句を確認しながら、この問題に関して、考えて行きたいと思います。

Ⅱ.幼くして死ぬ、選びの民である幼児
 主による有効召命は、御自身がよしとされるとき・場所・方法において聖霊がお働きになります。それをここでは、ヨハネ3:8を挙げています。私たちは、救いは神の御業、永遠のご計画・予定に基づいていることを確認して来ていますが、私たちは聖霊がいつ誰に働いたのかを確認することは出来ず、通常は一人の人が信仰告白をすることにおいて初めて知ることが出来ます。しかし信仰を告白する前にこの世の生命を全うする人たちもいます。彼らに聖霊が働いたか、働いていないかを、私たちが勝手に判断してはなりません。
 「幼くして死ぬ、選びの民である幼児は、…御霊をとおして、キリストによって再生させられ、救われる」。ここの証拠聖句は、これだということを定めることが出来ず、信仰告白では、「ルカ18:15,16と使徒2:38,39とヨハネ3:3,5とⅠヨハネ5:12とローマ8:9を比較」せよと語ります。つまり、ここで挙げられている5つの聖句を総合的に考えれば、このような結論に達しますよと信仰告白は語っています。つまり一つひとつの聖句は、幼くして死んだ者の救いについて、直接的に語ってはいません。しかし、全体を確認することにより、信仰告白に至らずになくなった幼子の中にも、神の予定にあり、聖霊が働き、神の子となっている人々がいることを否定できる箇所もありません。
 ただ、ここは神学者によっても解釈が異なります。ある神学者は、「信仰を告白せずに幼くして亡くなった者は、皆、神の民として受け入れられる」と語りますが、ウェストミンスター信仰告白はそこまでは語りません。あくまで、「聖霊の働きをとおして」です。つまり、信仰を告白する前に亡くなった者の中に、神の民として召され、神の御国に入れられる人たちがいることを信仰告白は語りますが、同時に、こうでない人たちもいることを、ウェストミンスター信仰告白では否定しません。

Ⅲ.福音宣教が届かず、神を知らずに死んだ人たち
 信仰告白は、福音宣教が届かず、神を知らずに死んだ人たちに対しても確認します。このことは異教の国日本に生きるキリスト者にとっては、家族、とくに先祖の救いを考える上で、問題となることです。信仰告白は、一律に「彼らは救われることはない」と切り捨てることなく、神の「選びの民」は救われるのだと告白します。私たちは使徒16:31の御言葉を確認して置く必要があります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。しかし信仰告白はⅠヨハネ5:1と使徒4:12を証拠聖句として挙げます。御子イエス・キリストと結ばれる、つまり神の予定にある時、たとえ、地上の生涯において、福音と出会う機会がなくても、主は彼らを神の御国へと招き入れて下さいます。
 私たちは、カトリック教会のように、生きている間に洗礼を授けることに固執しません。むしろ、主の予定を信じ、主に委ねます。今日のこの信仰告白は、聖書では中心的なメッセージではありませんが、家族の中に、未信者の者たちがいる日本の教会においては、大切な告白が語られていることを、私たちは確認することが出来るのではないかと思います。
 
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 「救われることのない人々 10:4」  ヨハネ福音書6:60~71    2019.7.7 
 
 序.
 ウェストミンスター信仰告白の第10章:有効召命について学んでいます。主なる神による永遠のご計画に基づき、聖霊をとおして私たちに働きかけるのが有効召命です(参照:10:1)。

Ⅰ.滅びの民の中に、一時的に信仰を告白する者もいる
 しかし、私たちの側からすれば疑問に思うことがいくつもあります。第4節では、教会に来て、「神を信じる」と信仰告白を行いながら、教会から離れていく人たちについて確認します。信仰告白は語ります。「選ばれていない他の人々は、たとえ御言葉の宣教によって召命されることがあり、御霊の一般的な働きのいくつかにあずかることがあっても、真実にキリストのもとに行くことは決してなく、したがって、救われることはできない」。つまり、自分の意思で教会に来て、「神を信じる」と告白した人たちの中には、一時的な感情で教会に来て信仰告白した人たちもいます。そうした人たちは、結果として教会から離れ行くのであり、彼らは最初から神の民として選ばれていなかったのです(参照:マタイ6:21~23)。救いの御業は、あくまで主の救いの御計画、予定に基づく有効召命によって行われるものであって、人間の側の一時的な感情によって行われるものではありません。そのため、そうした人たちは、結果として、教会から離れることとなります。

Ⅱ.主の御言葉・御業の受入を求める主
 ヨハネ6:53~58には、聖餐の制定について語られています。聖餐式が行われ、「わたし(キリスト)の肉を食べ、その血を飲む」ことを語る時、新約の教会においても、教会の外にいる人たちからは疑いの目で見られました。「人の肉を食べ、人の血を飲む」ことが、狂気の沙汰だと思われたからです。
 つまり、人は、自分の感情としては、「救いを得たい、永遠の生命に与りたい」との思いますが、一方、主の御業、そして教理に躓きます。その一つがここで語られている聖餐の制定であり、他に、キリストの処女降誕や十字架の死からの復活、奇跡や癒やし、三位一体や二性一人格といった教理です。これらの教理は、人間理性によって考えれば、受け入れがたいことも記されています。こうした奇跡などの主の御業を受け入れ、信じることが出来るのは、主により有効に召命され、主のご計画に基づいて聖霊が働くからです。
 ヨハネ6:71では、イスカリオテのユダの裏切りについても宣べられています。たとえ主イエスが選ばれた使徒であっても、主のご計画に基づいて予定されていなければ、結果として主イエスから離れ、サタンの虜として働くのです。

Ⅲ.私たちが他人の救いを決定してはならない!
 ただ、私たちは注意しなければなりません。教会に来て、信仰告白をしても、教会から離れた時、「あの人は神の民ではなかった」と教会が決定してはいけません。つまり、一時的な感情によって神を求め信仰を告白しつつ、やがては教会から離れていく人たちがいるのと同様に、神の約束の民でありながらも、長い間教会に来ることなく、人生の晩年にキリストと出会い、信仰を告白する人たちもいるからです。また同時に、信仰を告白しつつ、一時的に教会から離れ、時間が経ってから教会に戻ってくる方々もいるからです。救いはあくまで主なる神の御業であって、私たちが見た目で判断をしてはなりません。
 異端者は教会から追い出すように語られていますが(参照:テモテ二2:16)、彼らが完全に滅ぶと私たちが決めつけることはできません。万が一にも真の悔い改めが行われ、回心することも、主の御霊の働きがあれば可能です。そうした時には、私たちは彼らを教会へと招き入れなければなりません。教会における鍵の権能は、小会にとって大きな働きですが、それが天の教会、神の決定事項ではありませんので、注意と配慮が必要です。

Ⅳ.救いと滅びは、主の御業である!
 信仰告白は最後で立派な行いをする非キリスト者について語ります。私たちの周りには、明らかにキリスト者ではない人々にも、キリスト者以上に立派な生活を行っている人がいます。「彼らは行いの故に、神によって救われている」と思いたくなるかと思いますが、しかしそのように語ることはあってはなりません。本当に神の民として、神の予定に入れられているのであれば、彼らに聖霊が働き、真にキリスト者としての信仰告白へと導かれるからです。私たちは彼らのために祈れても、救われていると決定してはなりません。
 第3節の後半「御言葉の宣教によって外的に召命されることができない、他の選びの民である人々もみな、同様である(救われる)」のであり、いずれにしても主に委ね、主に祈ることがあっても、私たちの側で、自分以外の者の救いと裁きを決定してはなりません。
 
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 「信仰義認 11:1-2」  ローマ3:21~31    2019.7.14
 
 序.
 ウェストミンスター信仰告白の学びも、今日から信仰義認に入ります。1517年にルターによって宗教改革が始まりますが、そのきっかけが信仰義認です。信仰と行いの関係、予定に伴う信仰義認なのか、救われるためには行いも必要と認める神人協力説(半ペラギウス主義、アルミニウス主義)なのかの問いかけがあり、アウグスティヌスの時代から宗教改革、そして現代の教会においても、問題となっていると言わなければなりません。

Ⅰ.義認と義化
 信仰告白が最初に問題とするのは「義を注入する=義化」についてです。これは宗教改革の後、1545年に開催されたトリエント公会議においてカトリック教会が確認したことです。義認と似ており、同義語として扱われることもありますが、区別する必要があります。
 カトリック教会の理解では、洗礼を授かる、ミサに与る毎に、「神の義が注入され、罪の赦しと共に、信仰と希望と愛を受け取る」と語ります。この時、聖化をも含む教えとなります。しかし神によって与えられる義が、段々弱まります。そのため、繰り返し義化される必要があります。そのためミサにおける聖体拝領に与ることが必須となります。いわゆる栄養剤のような働きです。
 しかしウェストミンスター信仰告白は違います。ウェストミンスター信仰規準の区分表を御覧頂きたいと思います。⑨自由意志、キリストとの結合に続けて、⑩有効召命があり、それに続けて⑪義認、⑫子とすること、⑬聖化と続きます。これを3つに分けていることが大切です。それは、状態(有罪→無罪)、身分(滅び行く身分→神の子)、行動(罪を犯す性質→聖化)の違いです。

Ⅱ.義認は徹頭徹尾神の御業
 ここで大切なことは、私たちの行い(救済論)がまったく入っていないことです。私たちの救いは、神の永遠の予定に伴い、神の聖霊の御業であって、私たちの行動いかんによって変更されるものではありません。表では、左部分(神の教理)の内に完結しています。
 このことを信仰告白では、「無償であること、罪を赦すこと、義なるものとみなす、受け入れること、かれらのうちになされたことやかれらによって行われたことのゆえにではないこと、信仰や信ずる行為・福音的従順に伴うこういではないこと」と語ります。
 このことを聖書の御言葉より確認します。洗礼者ヨハネがイスラエルの人々に語りかける言葉です。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(マタイ3:9)。「石」とは、何もしないことを象徴的に語っており、信仰告白すること・律法厳守(行い)を求める前に、神は私たち一人ひとりの救いを決定しておられるのです。聖書で語られる律法主義、そして宗教改革時のアルミニアン主義、そして、人間には生まれながらに神を信じる能力は残されていたと語る半ペラギウス主義を、信仰告白は否定します。

Ⅲ.信仰と律法・行いの関係
 そのことを、パウロはローマ書で展開していきます。私たち人間は、神を信じることにおいても、全的堕落・全的無能力であって、神からの働きかけ、神の恵みがあって、初めて、神を知り、神を信じ、悔い改めに導かれます。 そのため、この表では、キリスト者の生の一番下、救済論に、⑭救いに導く信仰、⑮命に至る悔い改め、⑯善い行いが置かれています。これは、神の義認・子とすること・聖化の決定が、聖霊において私たちに働きかけることにおいて起こるのであり、私たち自身の内から出てくるものではありません。
 そして2節はルターに対してのアンチテーゼです。ルターは、信仰義認を強調するあまり、行いを軽視しました。それ故に、信仰に伴う行いを求めるヤコブ書を「藁の書簡」と語り、軽視しました。しかし神のご計画に伴う義認は、ただ私たちの身分を無罪にして、神の子として下さり救いへと招いて下さることに終わるものではありません。義認には聖化が伴います。つまり、神の救いの御業が私たちに示される時、信仰告白と悔い改めと共に善き行いがなされるのであり、善き行いの報酬として救いが与えられるのではありません。この順番を誤ってはなりません。
 しかし、現代の福音主義教会の多くが、この信仰告白を忘れ、アルミニアン主義、つまり、神の救いに与るために神を信じる行為を求めています。しかし私たちは、神の救いの御業と、私たちの信仰生活を区別して、理解することが求められます。
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 「完全な償い 11:3」  イザヤ書53章    2019.7.21
 
 Ⅰ.キリストの御業によって成し遂げられた私たちの罪の赦し
 前回、神はご計画に基づいて、聖霊の働きによって信仰を告白した者に、無条件に救いが与えられることを確認しました。主は、無償・無条件に義と認めてくださいます。しかし私たちは主の御前に罪人であり、滅ぶべき体を持っていることに、かわりません。それも全的堕落です。自分の力で、罪の償いを行う能力も、神を信じることも、できません。そして私たち罪人は、その刑罰が支払われない限り、義と認められることはありません。
 今日の信仰告白では、私たちのもっている罪の負債は、キリスト自らの従順と死によってのみ、つまりキリストの十字架の苦しみと死をもって完全に支払われたことを告白します。その証拠聖句として挙げられているのが、イザヤ53:4~6、10~12です。
 先週も少し語りましたが、旧約聖書から新約聖書の時代、そして現在に至るまで、一番の信仰の問題となっているのは、神の救いに対して、私たちの信仰や行いが必要なのか、ということですが、私たちの信仰や行いは救いには関係しません。

Ⅱ.恵みの契約に生きるキリスト者として
 旧約の時代から主イエスの時代にわたり、主は恵みによる救いを語り続けています。それにも関わらず、律法学者やファリサイ人は律法を全うすることによる救いを求めました(律法主義)。「ファリサイ」とは「律法を守らない一般の人々から自分たちを分離した」人たち、「分離主義者」です。また4世紀後半から5世紀前半、アウグスティヌスの時代、ペラギウス人は、「原罪を否定し、人は生まれながらの能力で、救いに必要な善を行う能力を持っている」と語りました。そこまでは語りませんが、半ペラギウス主義は「人間は自由意志によってみずからを恩寵を受けるにふさわしい状態に置きうる」と語ります。
 そして宗教改革期、ドルト信条を作成するきっかけとなったアルミニウス主義者も、信仰義認を認めつつ「人間は神を信じる自由意志を失っておらず、神はそのことを予め知っておられたため予知し、その人を救われた」と語り、神の予定を否定します。そして現代においても、このアルミニウス主義的な信仰理解が、残念ながら、改革派教会を除く多くの福音主義の教会に広まっている事実を私たちは理解しておかなければなりません。
 彼らに共通していることは、全的堕落を否定し、神による救いに人間の行いを必要としていることであり、律法主義、神人協力です。
 一方、カルヴァンからドルト信条、そしてウェストミンスター信条にいたる改革派教会では、人間は罪によって全的に堕落し、全的に無能力(全的堕落)であり、私たちの救いは、私たち自身の行いではなく、神の恵み、キリストの御業により私たちの罪の償いが必要であることを語り、今日の信仰告白となります。
 私自身、他教派の教会を否定する意思はありません。改革派信仰に基づくエキュメニズムの交わりを続け、またカトリックや聖公会、ルター派の人々との交わりも、行います。しかし聖書が語る福音を曖昧にしたり否定することは拒否します。主イエスは福音宣教を行うにあたり、ユダヤ人たちと対話し、律法主義からの脱却を語りました。だからこそ私たちも律法主義から脱却しなければなりません。聖書が語り、また聖書に基づいて積み上げて来た信仰告白が語る、全的堕落、予定、恵みの契約に基づく恵みによる救いの教理を大切にします。それは、他のキリスト者たちに不評な教理であっても変わりありません。
 彼らの一番の問題は、神中心、つまり神から物事を考えることなく、人間中心、私たちはどのようにすれば救われるのか、から出発していることです。一方、私たちは、神中心の信仰理解に立ちます。つまり信仰義認の問題は、恵みの契約であり、予定の問題と切り離すことが出来ません。ルターは聖書により信仰義認にたどり着き、ある程度は予定に関しても理解がありましたが、後の世代、ルター派教会はそれ以上の発展を行うことが出来ません。突き詰めていけば、全的堕落と予定を受け入れることが出来なかったからです。
 全的堕落によって滅び行く私たちを、主が予定により私たちを救いへと導いて下さり、その救いのために、御子イエス・キリストの十字架の御業が成し遂げられました。私たちの救いは、この一点に集中します。神のこのダイナミックな救いの御計画と御業が、今に生きる私たちに、「あなたは神の子である」との宣言をもって、聖霊により私たちに働きかけています。神の御業に感謝と喜びをもって、主を信じていきたいと思います。
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 「予定に基づく義認・堅忍 11:4-6」  ルカ22:31~34    2019.7.28
  
序.
 信仰義認は宗教改革のきっかけとなった教理ですが、同時にプロテスタント内でも、予定との関連で、さらに教派として分裂させるきっかけとなった教理でもあります。前回は、義認と行いの関係、つまり律法主義について学んできましたが、今日のところでは、キリストの十字架の贖いが、誰のために行われたのかということを考えて行くこととなります。

Ⅰ.キリストの血の贖いは誰のためか?
 予定を受け入れることの出来ない人たち(レモンストラント)は、「キリストはすべての人々の救いのために、十字架に架かり、血に贖いを成し遂げられた」と主張します。「普遍的贖罪」と語ります。これは突き詰めて考えれば、「キリストはすべてのために十字架に架かったけれども、神による救いを求めなかった人たちは、自分の意思で、キリストの贖いを拒否した結果、滅びるのだ」ということです。
 しかし、改革派教会では、全的堕落と無条件的選び(予定)から出発し、キリストの十字架による血の贖いは「神が救いに定めた者たちのために行われた」のであり、結果として滅び行く者たちの救いには有効ではないと、告白します。これが「限定的贖罪」です。

Ⅱ.限定的贖罪の教理
 信仰告白は、神が永遠において選びの民すべてを義とすることを聖定されたと語ります。つまり信仰告白は、選びの民すべてである者らのために、キリストが十字架に架かり、彼らのために有効召命が行われ、彼らのために義認が行われることを語ります。だから、彼らの信仰は守られ、信仰から落ちることはなく必ず救われ、聖徒の堅忍につながります。

Ⅲ.神の加護にある神の民
 私の思いを正直言えば思弁的な議論です。しかし、当時の人々にとっては切実な議論であったと理解しなければなりません。そのため私たちは、聖書が何を語っているのかを理解し、この信仰告白を整理しなければなりません。ルカ22:31~34は、主イエスが最後の審判においてペトロの離反を予告する場面です。主イエスはペトロを弟子とし神の民としました。これは予定に基づく決定です。この時、サタンと神が天上で会話します(参照:ヨブ1~2章)。サタンは神の許しがなければ、私たち神の民に誘惑することはできません。
 しかし主イエスは、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32)と語ります。ペトロを救いへと選んで下さる主は、ペトロが罪を犯しても、ペトロのために祈りお守り下さいます。「もし立ち直ったら」との仮定ではなく、未来のことは決定しています。「あなたは信仰が立ち直るのだから、~」です。皆さんも、苦しい時、祈れない時、教会に行けない時もあるでしょう。それでもなお神に委ねれば良いのです。主が神の民であるあなたを守って下さいます。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリ10:31)。
 この後、主イエスがゲツセマネで逮捕され、裁判を受けている時、ペトロは主イエスを「知らない」と否定し、離れていきます。しかし、主イエスはペトロの罪を赦し、教会の指導者としてお立て下さいます。主イエスは、このペトロのために、そして神の選びの中にいる私たちのために、十字架にお架かりになられたことを語ります。

Ⅳ.恵みの契約に生きるキリスト者
 ペトロはこれから罪を犯すにも関わらず、「あなたの罪は赦された」ことが主イエスによって宣言されています。神によって救いへと招かれている者であっても、罪を犯します。しかし主による召しは失われることはなく、罪を犯した者は悔い改めに導かれ、教会から離れた者も教会へ帰ってきます。そして、信仰告白した時以降に主の御前に犯した罪も、主は赦し続けて下さいます(5節の信仰告白)。レモンストラントの人たちは、自分で神から離れることもあり、救いから漏れることもあると語ります。そしてキリストの十字架の贖いは、罪を悔い改め、信仰を告白した時までのことが有効であって、それ以後の罪は、改めて、罪の悔い改めと信仰告白を求めます。ウ信仰告白は、それを否定しています。
 最後に第6節を簡単に確認します。旧約の時代の人々は、律法による義が必要で、旧約は律法、新約は恵みと、時代によって区別をしようとする人がいます。しかし、ウェストミンスターでは、恵みによる契約を語り、原福音(創3:15)以来、信仰による救いにおいて一貫しており、時代において救いの質が変わったりするようなことを告白します。
 
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 「義とされた人々 11:4-5」  Ⅰヨハネ1:5~2:6    2019.9.1
 
Ⅰ.義とされるとは…
 私たちは、ウェストミンスター信仰告白の学びを通じて、神の永遠の予定を学んできております。私たちの救いは、私たちが生まれる遙か昔に、神によって決定しています。しかし同時に、信仰告白は「かれらは、聖霊が、しかるべき時に、キリストを実際にかれらに適用なさるまでは、義とされない」(4節)と語ります。神によって私たちが義とされるのは、私たちが実際に教会に集められ、信仰を告白するときを待たなければなりません。
 私たちは義認について改めて確認しなければなりません。神が人を「義と認める」のは、最後の審判での無罪判決であり、それは法廷のことです。つまり人間は生まれながらに罪人であり、毎日罪を侵し続けます。この時点では、最後の審判によって「有罪=死刑」の判決を受ける状態です。しかし、聖霊の働きにより有効に召命され、信仰を告白する時、神は義と認めて下さり、最後の審判の時に「無罪」としての身分をお与え下さいます。
 義認と予定との関係を確認すると、救いへと予定されている者は、人生の中で、必ず、義と認められる時、つまり主なる神に対する信仰を告白する時がやってくるのです。

Ⅱ.生涯有効な「義認」
 このことを受けて、「神は、義とされた者たちの罪を赦し続けられる。そして、かれらは、義認の状態から落ちてしまうことは決してありえない」(5節)と告白します。義認とは、罪の故に有罪だけれども、キリストの十字架によって代わりに罪が償われた結果、無罪となったことです。そうであれば最初に信仰を告白し、義と認められた時点で無罪判決を受けるものとなりますが、その後に犯す罪に対しては有罪となるのではと思ってしまいます。
 しかし義認は信仰を告白した時点までの罪が赦されるだけではなく、地上の生涯を閉じるまでに犯すあなたのすべての罪が、キリストの十字架の御業の故に赦され、無罪と宣言されています。クリスチャンになれば罪を犯さなくなるのではありません。なおも毎日、罪を犯し続けます。それでも主は「あなたの罪は赦された」と宣言し続けて下さいます。
 このことはカトリック教会の信仰と大きく異なります。カトリック教会では、受洗を行った後、信者は繰り返しミサに与り、聖体拝領を受けなければなりません。ミサにより、神の義を注入して頂かなければなりません。そのため、ミサに与らなければ、救いの力が弱まるのです。そのため救いに与り続けるために、ミサに与ることが求められるのです。
 それと似たことが福音派教会にもあります。福音派教会では、礼拝から離れ、信仰生活から離れることを「救いから漏れる」と言います。彼らは「信仰によって救われる」ことを強調し、最終的に救いを獲得することが出来るのは、自分の信仰によることを語ります。これは信仰が弱まり、教会に行くことが出来なくなる時、救いを自らの手から離してしまうことを意味します。これも、カトリック教会に似たものであり、自らの救いは、地上の生涯の終わりを迎える時まで、自分の手に委ねられていることになります。
 これらに対して、ウェストミンスターでは、神は、義とされた者たちの罪を赦し続けられ、かれらは、義認の状態から落ちてしまうことは決してありえないと告白します。私たちの救いは神に主導権があるのであり、キリスト者とされた私たちは、神の民として救われることが既に確定しています。だからこそ、主に感謝して、安心して、信仰生活を送ることが出来るのです。主なる神の主権を、私たちが奪ってはなりません。

Ⅲ.罪の滅びの姿を忘れるな!
 信仰告白は続けて、「それでも、自らの罪によって、神の父としての不興を買い、そのため、へりくだって、自らの罪を告白し、赦しを乞い、自らの信仰と悔い改めを新たにするまでは、神の御顔の光を戻してもらえないことがある」と告白します。
 神は、「あなたは神に予定され、義と認められたのだから、何を行っても良い」と語られているのではありません。私たちは、全的に堕落しているのであり、私たちが救われるのは、あくまで神の一方的な恵みによって、私たちの罪がキリストの御業の故に罪が赦された結果です。私たちは自らの罪の姿、そして滅び行く姿を顧みなければなりません。ですから私たちは、主なる神による救いの御業が私たちに適用されるとき、主なる神への感謝の生活が生じ、それがキリストに倣い、律法に聞き従った良き生活へと促されるのです。
 「もう救われているのだから」と罪を犯して自分勝手に生きようとするのは、自らの罪と、キリストの十字架の御業を理解していないからです(参照:Ⅰヨハネ1~2章)。
 私たちの信仰生活は、私たちが罪の刑罰としての死の意味と、キリストの十字架の御業を理解した時に、主への感謝と、自らの罪の悔い改め、そして謙遜と遜りが生じてきます。私たちが神によって予定され、義と認められ、そこからもう漏れることはありません。
 
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 「旧約に生きた信者 11:6」  ローマ書4章    2019.9.8
 
Ⅰ.旧約の人々と新約に生きる私たちは違うの?
 旧約聖書の人々の信仰について、私たちはほとんど議論しません。しかしウェストミンスター信仰告白は1節を設けて告白します。つまり宗教改革の当時、このことを確認して置く必要があったからであると言えます。このことは、宗教改革の時代だけではなく、現在でも言えることです。つまり福音派の一部では、「旧約は律法時代であり、新約こそが福音の時代である」と時代により聖書の適応を変化させて解釈する人々がいるからです。
 彼らの言い分は以下の通りです。「旧約の時代は、律法が与えられ、律法を守ることにより救われる。しかしイエス・キリストの到来により、罪が贖われ、信仰による救いが与えられた」。彼らは、人間の全的堕落を受け入れませんので、自分の力で救われることを語り、旧約の人々は律法の遵守によって救われるとの解釈に至ります。なぜこのような理解になるのかと言えば、聖書をつまみ食いしているからです。彼らは、聖書の一部のみをピックアップして、「旧約は律法により救われた」との解釈を行います。
 一方、ウェストミンスターの解釈は次のとおりです。私たちは、聖書の全体を理解して、恵みの契約に支配されていることを確認します。旧約の人々も、新約に生きる私たちも、罪人です。全的堕落であり、自分の力で救いを獲得することができません。そのため、キリストの十字架の贖いと共に、神の恵みがなければ、私たちは救われることはありません。

Ⅱ.アブラハムの救い
 この時、なぜ私たちがこのような信仰に立っているのかということを、改めて御言葉から確認しなければなりません。つまり信仰告白が一人歩きしているのではなく、信仰告白は、常に聖書の解釈、聖書全体の理解からの告白だからです。
 3「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」。これは創世記15:6の引用です。アブラハムは立派な人であったと私たちは考えます。しかし、罪が無かったわけではありません。妻サラを妹だとウソをついたりしています。そのことを、パウロはダビデの証しとして語ります(6-8、詩32:1-2の引用)。つまり、ダビデもアブラハムは律法によって罪が赦されたのではなく、神の恵みによって罪が赦され、救われたことを証しします。
 パウロは続けて、「アブラハムの救いは、割礼によってではないのか」との問いかけに対して答えます。アブラハムが信仰によって義と認められたのは、創世記15章に記されていました。一方、アブラハムとその子どもたちに割礼が与えられたのは、創世記17章です。つまりアブラハムは割礼を受けたから救われたのではなく、神の恵みによって救われた後に、割礼が施されたのです。このことをパウロはローマ書で告白します(10-11)。

Ⅲ.アブラハムの救いと私たちの救いは同じである!
 アブラハムが信仰によって救われたことを、創世記では大きく3つ取り上げています。アブラハムは主の御言葉に聞き従い、見ず知らずの土地に旅立ちました(創世記12:1-9)。第二が、ローマ書で取り上げているイサクの誕生の予告です(同18:1~15、21:1~8)。第三が、アブラハムが約束の子であるイサクを生け贄として献げることです(同22:1~18)。
 律法は神の義を識別する指標です。しかし全的に堕落している人間に対して律法が示される時、それは自分には罪があり、滅びる存在であることを確認するしかなくなります。律法によって救いに入る者はなく、律法によっては神の怒りしか招きません(4:15)。それでもなお、主なる神はアブラハムを救うとお語り下さいます。この時、アブラハムが救われるためには、律法は無意味であり、神の恵みに頼る他ないのです(4:16)。そして、パウロは100歳になるアブラハムと90歳になる妻サラから、子どもが産まれることを、アブラハムが信じたことこそが、彼が信仰者の父となったことを語ります(4:18-20)。信じるとは、「信じた」と言葉で表すだけではありません。神の御力を信じ、不可能であることが、可能となる力を信じることです(4:21-22)。
 そして23-25節で、アブラハムが信仰によって救われたことが、神を信じ、神に従うすべての者に受け継がれ、信仰によって義と認められ、救われることを語っていきます。アブラハムと同じように、私たちも信仰によって救われるのであり、旧約の民の代表者であるアブラハムと私たちが同じように恵みの契約、神の恵みによって救われているのだから、旧約の民も同じように、神の恵みにより、キリストの贖いによって救われているのだということを証ししています。
 
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 「神の子とされる 12章」  ローマ書8:12~17    2019.9.15
 
 Ⅰ子とすることが章立てされた意義
 ウェストミンスター信仰告白の学びも、第12章「子とすることについて」に入ります。「子とすること」は、他の信仰告白では独立して告白されていないウェストミンスター独自の章です。宗教改革は、義認と聖化の関係や順番について議論し、信仰を告白しました。ウェストミンスターも大教理問答で告白します。しかし子とすることは、義認の一つの側面と考えられてきました。義認は罪の赦しを意味する消極的な面であり、子とすることが積極的な面です。しかしウェストミンスターは、子とすることを独立した章にしました。しかしウェストミンスター以降、再び子とすることが注目されることはありませんでした。
 それでもなお、私たちはこの子とすることの教理を宗教改革の遺産として、大切にしなければなりません。ウェストミンスター神学者会議が行われた頃、ピューリタン神学者ウィリアム・エイムズがおり、「神学の神髄」という神学の教科書を記していました(1623)。ウェストミンスター神学者会議が1643年に始まりますが、その20年前に出版されました。そして神学者会議に出席した神学者たちは、この本に親しみ、影響を受けていました。そしてエイムズは、子とすることを紙面を割いて展開していたのです。この影響を、神学者会議は受け、そして独立した1章を設けて告白したのです。しかも神学者会議では、この章において多くの議論をすることはなく、神学者会議の中で一致していたのです。

Ⅱ.神の子とされるとは…
 義認とは裁判用語であり、無罪が宣言されることです。一方、子とすることは養子とされることでもあり、神の子としての身分を得ることです。
 そして信仰告白は、「義とされた者たちすべてをと告白し、神の子たちの数に入れられる」と告白します。神の予定に基づいて、その数に入れられている人たちが、義とされ、神の子の数に確実に入れられます。そのため彼らの名は「神の御名をその上に記され」ています。これは、黙示録が語る神の国の刻印が押されている民のことです。私たちは、信仰を告白し、洗礼を授かることによって、地上の教会の会員となると同時に、神の国の住民とされます。ですから、私たちが洗礼を授かることは、「あなたは私の民である」との証書に神が署名捺印して下さっていることを意味します。そしてこの契約は永遠に有効であり、「決して捨て去られてしまうことはなく、かえって贖いの日のために証印され、永遠の救いの相続人として、もろもろの約束を受け継ぐ」のです。
 「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」(ローマ8:17)と語るように、「神の子たちの自由と特権を享受しています」。キリストの十字架の死により、罪が贖われているからこそ、神の国では、永遠の生命と恵みと祝福が約束されています。
 また「アッバ、父よ」(参照:ローマ8:15)と告白することが許されるのは、神の親しさ、愛情が込められています。父の愛は放蕩息子(ルカ15章)で語られています。最初、弟が家を出て放蕩を尽くして無一文になり、雇い人の一人で良いとの覚悟をもって家に帰って来ます。それに対する父の愛が着目されます。しかし私たちは、兄への父の愛も見過ごしてはなりません。父なる神は、神を信じ、信仰生活を送る私たちキリスト者一人ひとりにも、常に恵みを備えていて下さいます。私たちの問題は、兄の如くに神の愛を忘れことにあります。

Ⅲ.キリスト者の試練
 そして信仰告白は最後で、「父によってされるように、神によって、憐れまれ、守られ、必要を満たされ、懲らしめられる。しかし、決して捨て去られてしまうことはなく、かえって贖いの日のために証印され、永遠の救いの相続人として、もろもろの約束を受け継ぐ」と告白します。神は私たちの父親です。私たちは過保護に育てられることはありません。神の民として相応しい者とされるのであり、時に試練があります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリ10:13、参照:ヘブライ12:4-11、Ⅰペト1:3-9)。
 信仰を告白し神の民とされている私たちは、神に愛されています。そして、神の民に相応しい者として神の御国に迎え入れられます。神の御国の永遠の祝福に満たされます。そのために、主は私たちに試練をもお与えになり、本物の信仰をお与え下さいます。
 
        
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「神により聖とされる 13:1」  エフェソ3:14~21    2019.10.6
 
Ⅰ.義認と聖化
 宗教改革と言えば「信仰義認」が中心のように思われがちです。しかし改革派教会では、義認と聖化の両方を取り上げることを求めます。つまりルター派教会では、信仰義認を強調するあまり聖化が疎かにされました。信仰義認を強調するあまり、律法は第二用法である罪の悔い改めのみが強調された結果です。そのため、聖化とそこから生じるキリスト者としての良き生活が疎かになっていきました。しかしカルヴァンは、律法における第三用法、神の義・神の聖を求める道しるべとして律法を用いることを大切にしました。それが聖化の結果として表れる良き行いを求めることとなります。
 義認と聖化の順番を確認することも大切です。聖化→義認と考えれば、良き行いの結果としての救いとなり、律法主義への道を開きます。しかし聖化は、義認と子とすることに引き続き示されることであり、それが第1節の前半部分に語られています。
 この最後の部分「聖とされる」と語られていることが大切です。「信仰を告白した。だから、聖化され、善き業を行わなければならない」ではありません。「聖化」とは、神の御業、聖霊が私たちに働きかけることによって与えられます。このことは、ウェストミンスター信仰告白が、第11章以降、義認、子とすること、聖化を語り、続けて、救いに導く信仰、罪の悔い改め、善き業について告白していることにより、はっきりとしてきます。つまり、宗教改革の伝統に基づけば義認と聖化で告白することを、ウェストミンスターはあえて、神の御業(11~13章)とそれに対する私たち人間の応答(14~16章)に分けたのです。ウェストミンスター信仰告白が作成されていた当初、人間の応答部分(14~16章)は、章として作られていませんでした。しかし信仰告白の全体が完成する直前に、改めてこれらの三つの章を立て、そしてすぐに信仰告白の文書としたのです。ここには、義認・子とすること・聖化が神の御業であることを確認し、それに伴い、私たちの応答・反応として、救いに導く告白、罪の悔い改め、信仰の実りとしての善き業を強調した結果です。

Ⅱ.キリストの十字架と聖化
 聖化とは自分で善き業をする律法主義ではなく、神から与えられる賜物であることを確認しましたが、義認同様に、神のご計画が、聖霊により、有効に召命された私たち一人ひとりに働きかけられるのです。それは、キリストの死と復活による私たちの罪の贖いにより、私たちの内にキリストの言葉と霊が宿るためです。つまり義認同様、聖化とは、神の一方的な御力ですが、あくまでもキリストの十字架による罪の贖いと結びついて、初めて有効となるのであって、神が神秘的に働くのではありません。
 そして、私たちがキリストの十字架による罪の贖いに与る時、全身にわたる罪の支配は破壊され、罪のさまざまな欲望はますます弱められ、力をそがれていきます。つまり、私たち人間は全的に堕落していました。自分の力では神の義を得ることは出来ず、神の一方的な恵みにより、神の恵みの契約に入れられ、義と認められました。しかしこの時、私たちの堕落は、すぐにすべてが除去されることはありません。次回、第2節において確認して行くこととなりますが、義と認められ、神の子とされても、なおも罪の残滓が残っています。それでもなお、神の恵みにより、聖化されるということは、罪の内に生きるのではなく、神の恵み、神の義に従って生きるようにと変えられて行くのです。それが聖化です。

Ⅲ.聖化は後退しないのか?
 また罪赦されたキリスト者であっても、地上の歩みにおいて完全に聖化されることはなく、主の霊により、日々聖化されていきます。そして聖化が後退することはありません。つまり、私たちの信仰は、日々成長して、神の御国の喜びが増していけば良いのですが、試練があり、病気、災害……、私たちの生活は日々変化し、私たちの信仰も上下します。 御言葉に熱心に聞き続け、礼拝し、奉仕においても熱心になることもあれば、段々と慢性化して、信仰がマンネリ化することもあります。 さらには、聖書を読むことが出来ない、祈ることが出来ない、礼拝に出席することさえ出来ないようなスランプの時も迎えます。 こうした時、神の霊が離れてしまったのでは、聖化が止んだのではと思うこともあるかと思います。 しかし、主の御業は、止むことはなく、地上の生涯を終えるときまで継続されていきます。そしてこのことに関しては、次週、改めて学んで行くこととします。
           
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「聖化:罪の残滓との戦い 13:2~3」  エフェソ4:7~5:5    2019.10.13
 
序.
 ウェストミンスター信仰告白の学びも、聖化についてに入っています。前回は、義認と聖化の両方が大切であること、そして順番が大切であることを語りました。義認だけで、聖化を疎かにすると、律法廃棄論に道を開き、義認と聖化を逆転してしまうと、律法主義に道を開いてしまいます(参照:改革派教会創立宣言)。

Ⅰ.完全聖化は地上に於ては与へられず
 創立宣言で「完全聖化は地上においては与えられない」と告白することを、ウ信仰告白は、第2節で告白します。
 義認とは裁判における無罪判決であり、一回限り与えられます。この時同時に、神の子として養子縁組されます。しかし、聖化は私たちの実生活ともからむことであり、洗礼を授かり、義と認められ、神の子とされたからといって、自動的に義を行う能力・力が備えられ、実行できるものではありません。義認・養子とされた時から、日々、聖化されるのであり、継続的です。そして地上の生涯において、聖化は完成に至りません。
 ここで、皆さん一人ひとりの信仰告白して洗礼を授かってから今までの信仰生活を振り返っていただきたいと思います。救いの喜びに満たされ、今までの生活が一変する人もいるでしょう。しかし、私たちは信仰告白後も罪を犯し、人を傷つけてしまいます。これが完全聖化ではないということです。しかしそれでも、自分は他人と比べ、自分はまだましだと思いつつ、他人を見て、この人は本当にクリスチャンなんだろうか?と思ってしまう人もいることだと思います。そうした人に対して、「クリスチャンとして失格だ!」と語りたくもなります。しかし彼らも私たちと同じように、主なる神が教会へと招いて下さり、罪の悔い改めと信仰告白へと導いて下さっています。そして日々、聖化してくださっています。彼らに不平不満を語る前に、主の御業を受け入れることが、私たちに求められています。だからこそ私たちは他者を非難するのではなく、彼らもまた主なる神の恵みの内に生命が与えられていることに感謝しつつ、彼らを受け入れ、彼らのために祈ることが求められています。批判・非難を行っていても、そこには和解はなく、キリストにある一致、聖徒の交わりも成立しません。

Ⅱ.罪の残滓との戦い
 私たちは、常に自分自身の信仰を顧みることが求められています。救われても、不完全で、未熟、そして腐敗の残滓が残っている自分の姿を顧みなければなりません。罪を犯し、時に人を傷つけ、神を悲しませている姿を自覚することが出来るでしょうか?「自分は立派な信仰生活を送っている」と思っている時、それは主の御前に傲慢となっています(エフェソ4:1~3)。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」。私たちが自らの姿を真に顧みることができた時、私たちは主の御前にあって遜り、謙遜になることができ、キリストの御言葉に聞き従うことが出来るのです(4:12-13)。つまり聖化とは、私たち自身の信仰と罪の悔い改めの裏表であり、真の意味での罪の悔い改めと信仰告白がなければ、聖化の歩みもまた聖霊によって与えられるものですが、遅々としたものとならざるを得ないのです。これが私たちの信仰の戦いとなるのです。聖化は、主なる神から聖霊によって与えられる恵みですが、それは私たちがすべてを主なる神に委ねる時、主の御霊が働くのであって、「もう救われているのだから、自分は好き勝手やっていて良いのだ」といった思いで、主の御心、主の語られる御言葉に聞こうとしなければ、聖化されることはないのです。だからこそ、パウロは、4:17以降において、古い生き方を捨てて新しい生き方を求めるように語ります。

Ⅲ.聖化の歩み
 そして信仰告白は第3節が語るように、私たちは信仰的に落ち込んだり、罪を犯したりすることがあっても、最終的には、神の選びと予定に基づいて、最後まで信仰をまっとうすることができ、神の民として、神の御国に加えられます。それが聖徒の堅忍です。
 「救われている」ことに傲慢になってはなりませんが、今なお罪ある自分が主によって救われていることを確認することが出来るならば、救いの感謝により、主の御前に遜り、謙遜になり、主に従う者へと変えられ、自らの聖化も感じることが出来るのではないでしょうか。そして今日もキリストにある新しい生活を始めることができるのだと思います。
          
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 「恵みの賜物としての信仰 14:1」  ヘブライ10:32~11:3    2019.10.20
 
 Ⅰ.予定に基づく信仰の告白
 ①信仰告白は、聖霊の働きによる
 私たちは、ウェストミンスター信仰告白を学び続けています。今日から第14章、救いに導く信仰についてに入ります。
 多くの人たちは、神を信じるという行為は自分の意思によって行われると思っています。最終的に決断し信仰を告白するのは、私たち自身ですから、一見ただしいように思います。しかし私たちは、ここにも神の御業・聖霊の働きがあることを忘れてはなりません。だからこそ信仰告白では、「選びの民がかれらの魂の救いのために信ずることができるようにされる、信仰という恵みの賜物は、かれらの心の中におけるキリストの霊の御業であり、通常は御言葉の宣教によって生み出される」と告白します。つまり、信仰とは、主なる神の選び、そして義認・子とすることに基づいて行われる神の御業です。
 別の見方をすれば、神の側の関与が何もない時に、私たち自身が、神を知り、神を信じ、信仰告白へと導かれることはありません。神の予定、つまり神の子として救いに導く者を、主なる神は永遠において定めておられます。この神のご計画に従い、聖霊が私たちに働くことにより、義と認められ、神の子とされ、そして日々聖化されますが、神が一方的に働かれるだけではなく、神が聖霊により働かれた時、私たちの側においても、御言葉の説教が与えられ、信仰の告白へと促されるのです。つまり、神の救いの御業に対する感謝の応答が信仰の告白となるのです。そのため信仰は、自分の感情、一時的な思いで信仰を告白することとは区別されなければなりません。

Ⅱ.救いにいたる信仰について
 パウロは語ります。「主イエスを信じなさいそうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31:参照:マルコ16:16、ヨハネ3:36)。ここから、自分で信仰告白することの重要性が良く語られます。しかしここで語られていることは、神のご計画に基づき、義と認められ、子とされた者が、聖霊の働きにおいて信仰を告白した者のことが語られており、一時的な自分の思い、感情において信仰を告白することとは一線を画しています。
 そのため、受洗を願い出る者に対して教会が試問を行いますが、試問が非常に重要になってきます。鍵の権能と呼ばれています。シモン・ペトロが主イエスの御前において信仰告白した時に、主イエスによって定められました(マタイ16:16~19)。試問の時、小会議員(牧師と長老)に求められるのが、この人の信仰は、感情による一時的なものなのか、聖霊に基づき主なる神から与えられた信仰なのかを判断することです。これは非常に重要でありますが、同時に非常に難しい判断です。祈りつつ、判断することが求められます。だからこそ、牧師と長老は、積極的に信仰告白希望者と日頃から交わり、彼らの教会生活を確かめ、本人を知ることが求められています。
 そして、主なる神の救いの御計画に入れられていない人も、受洗を認めるということが起こってきます。牧師・長老も、主の御前には罪人であり、主なる神の御心を知ることはできず、結果として誤った判断も起こりうるのです。小会の責任を追及してはなりません。主イエスは、毒麦のたとえを語られました(マタイ13:24~30)。主のご計画により聖霊によって信仰を告白した者はキリスト者として在り続けますが、そうでない者たちは、最終的には最後の審判により明らかにされ、主の裁きに遭います。つまり、一時的な感情で信仰を告白した人たちは、感情が変化することにより次第に教会から離れていきます。また、偽預言者として教会の中に混乱をもたらす者たちもいますが、彼らは罪が明らかになった時点で、教会から閉め出せば良いのです。それでもなお、真の神の民以外の者が教会の中にいたとしたとしても、それは主による最後の審判に委ねたら良いのであり、私たちが誰かと詮索したり、裁いたりしてはなりません。

Ⅲ.予定に基づき信仰を告白した者
 そして、真に救いにいたる信仰が与えられた者は、奥義としての真の救い、神の御国を仰ぎ見ることが出来るのであり、信仰の故の苦しみであっても、それに耐え、信仰を続けることが許されます(ヘブライ10:32~11:3)。そして、神によって選ばれたキリスト者の信仰は、この御言葉の宣教、聖礼典の執行、ならびに祈りにより、増し加えられ、強められます。そして、信仰が強められた神の民の中から、主に奉仕する教会員、教会役員として召される牧師・長老・執事が立てられ、教会が成長していきます。
           
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 「信仰に伴う従順 14:2」  使徒言行録16:25~34    2019.10.27
  
序.宗教改革記念日を覚えて
 今週10月31日は、1517年にルターによって始められた宗教改革を覚える日です。ルターは、免罪符で救いを売買することに否を語り、神の御言葉である聖書に立ち帰ることを訴えました。このことがきっかけに宗教改革が始まりました。ウェストミンスター信仰規準は、宗教改革の最晩期1643~49年に行われたウェストミンスター神学者会議によって作成されました。ウェストミンスターは宗教改革の遺産を受け継いだ改革派信仰の結晶です。

Ⅰ.信仰と善き業
 ルターは信仰義認を強調し、行いによる救い(律法主義)に否を語りました。そして宗教改革でもう一つ問題となったことが、信仰に伴う善き業があり得るのか否かです。信仰の実りとしての善き業を否定することは律法廃棄論につながります。しかしヤコブは信仰により善き業を行うように語ります(ヤコブ2:14~17)。信仰は恵みの賜物であり、神により救われ、罪が赦され、神の御国へと凱旋することです。私たちの得ようとする神の御国は、神を知らない人たちの価値観とは180度違います。主イエスも「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:19-24)とお語りになります。
 今、日本も世界も経済が中心に動いています。もちろん私たちが生きるために、経済活動が欠かせません。しかし、目の前のこと・自分の生活・自分の国のことだけを考えている時、不安は尽きません。私たちが心安らぎ、希望をもって生きることが出来るのは、永遠の平安が与えられる望みがあるからです。そのために世界を見渡さなければなりません。過去から現在・未来・そして神の御国の完成を見渡さなければなりません。時間的・空間的視野が広がる時、私たちは主の御言葉に聞き、主が求めに耳を傾けることが出来ます。
 そのことをウェストミンスター信仰告白は告白します。「この信仰によって、キリスト者は、御言葉において啓示されていることは何事であれすべて真実であると、御言葉において語っておられる神御自身の権威のゆえに信じ、御言葉のそれぞれの箇所が含んでいることに応じて、さまざまに行為する」。神の御言葉である聖書を学び、理解すると共に、神のご計画に伴う聖霊の働きがあるからこそ、私たちは信仰告白することができます。

Ⅱ.信仰の本質は、キリストの十字架の御業による
 一時的な感情ではなく、真に主なる神による救いの約束に伴い、聖霊により信仰が与えられる時、主の権威に従い、神の僕、神の奴隷として、主人である神に仕えるものとなります。それが善き業であり、ここで語るざまざまな行為です。
 命令には従順に従う。これは無理解に従うことではありません。主が命令を発せられるには理由があります。命令として律法と十戒があります。主イエスは十戒の要約をお語りになります(マタイ22:37~40)。つまり、私たちが主なる神の命令に従うのは、神御自身が私たちを愛して救って下さるから、私たちも主を愛し、主がお与え下さる隣人を愛するのです。御言葉が語る命令は、神の愛に基づくことであることを、私たちは忘れてはなりません。
 威嚇にはおののく。私たちは罪の中に生きております。そしてサタンは、エバとアダムに対して語りかけ騙したように、私たちに巧みに語りかけてきます。そのため、主は私たちを威嚇することで、罪の誘惑に陥ることがないように警告して下さいます。
 この世と来るべき世についての神の約束はしっかりと受け止める。来たるべき世の神の約束は、神の御国における永遠の祝福ですが、主は同時にこの世においても恵みを約束して下さいます。インマヌエル「神は我々と共におられ」ます(マタイ1:23、28:20、ヨハネ14:17-18)。
 私たちは主の御言葉である聖書に従い、良い行いを行った結果、救いを勝ち取るのではありません。主の救いは既にキリストの十字架の御業により与えられています。最初に使徒言行録に聞きました。地震により囚人が逃げることも可能であった状態の中、パウロとシラスにより誰一人逃げ出すこともなく、看守はそのことに感銘を受けます。そしてその後、パウロらは主の御言葉を語りました。キリストの十字架の故に罪が赦され、救いに入れられていることです。この時看守は、キリストの御業を受け入れ、信仰を告白します。
 ですから、信仰の実りとしての善き業が伴うわけですが、その原点として、キリストの十字架による罪の赦し、贖いがなければ、無理解の中、盲目的に従う律法主義にもなりかねません。私たちは、救いは、神のご計画に基づくものであると同時に、キリストの十字架の御業が成し遂げられたからこそであることを忘れてはなりません。
            
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 「信仰の勝利 14:3」  ヘブライ人への手紙12:1~13    2019.11.3
 Ⅰ.信仰をめぐる問題
 第14章は信仰についてです。宗教改革において問題となったのは、行いによる救いなのか、信仰による救いなのかということでした。
 しかし宗教改革当初から時間が経ち、プロテスタント教会の中で信仰義認が定着する中、もう一つの問題が出て来ました。それが、改革派信仰に基づく予定により主によって召された者が信仰を告白するのか、それとも信仰を告白するという行為によって救われるのかということです。行為としては同じように見えます。しかし救いの根本原因が、神にあるのか、私たちの意思にあるのかということが問題なのです。このことが一番問題として明らかになるのがドルト信条であり、このことがきっかけになり改革派教会と福音派教会が別の道を歩み始めたと言っても良いかと思います。
 私たちは、日々信仰が揺さぶられ、時として教会から離れてしまう者さえいます。信仰が弱くなったり、罪を犯したりもします。ペトロなど主イエスの弟子たちは主イエスの逮捕と共に逃げ去りました。ペトロは主イエスによって警告されていたにも関わらず、主イエスのことを3度も知らないと語りました。トマスは、他の弟子たちの前で、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20:25)と語りました。

Ⅱ.勝利を得る信仰と背教する者
 信仰告白は、「この信仰は、強弱に程度の差があり、また、しばしば、さまざまなしかたで、攻撃され、弱められることがあるが、ついには勝利を得る」と告白します。つまり、第17章「聖徒の堅忍について」と第18章「恵みと救いの確信について」につながります。
 現実の中に生きているキリスト者の中には、時に教会に来なくなる人、信仰を捨てる人もいるではないかと思われるでしょう。福音派の人たちは、人間の自由意志によって救いを得ると考え、「自分の意思で信仰を捨てた」と解釈します。しかし予定を前提とした改革派信仰では違います。結果として教会から離れる人は、一時的な感情で信仰を告白したとしても、神の予定には入れられていないため教会から離れるのです。しかし神の予定に入れられているキリスト者は、信仰が弱まり、時として教会から離れることがあったとしても、最終的には神の御前に戻って来て、「ついには勝利を得る」のです。

Ⅲ.試練について
 また、神が私たちを救って下さったのに、なぜ試練を味わわなければならないのかと、疑問に思われる方もいるかと思います。
 しかし主イエスは山上の説教においてお語りになります。「求めなさい。そうすれば、与えられる。…まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。…」(マタイ7:7~12)。またパウロは、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:13)と語ります。試練は、私たちが神の民として訓練され、信仰の成長を遂げるためです(参照:Ⅰペトロ1:3~7)。そして最初にお読みしたヘブライ書においても語られています(12:4~11)。神の子として、必要な訓練であり、鍛錬(主の懲らしめ:新改訳)です。
 苦難は、その時には「なぜ?」ということばかりです。しかし、主は私たちを神の子として神の御国に入れて下さいます。ここに生きる希望があります。私たちは、神の子として相応しい歩み、信仰が与えられる必要があり、それが試練という形で与えられるのです。そして、信仰が強められることにより、信仰の確信も強められていきます。
 そのためウェストミンスター信仰告白では、最後で、「そして少なからざる人の場合、信仰は、わたしたちの信仰の創始者また完成者であるキリストをとおして、完全な確信に到達するまで成長していく」と告白します。
             
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 「神の賜物としての悔い改め 15:1」  ゼカリヤ12:1~14    2019.11.17
 
Ⅰ.教会学校教師研修会を受けて
 夕拝ではウェストミンスター信仰告白の学びを続けています。教理を学ぶことは堅苦しいと思われている方もいるかと思います。教会に来たばかりの人たちのつまづきになると思われています。しかし聖書の御言葉や教理は、丁寧に学ぶことにより理解を深めて行く必要があります。そうでなければ、一人ひとりのキリスト者の信仰の養いが行われません(参照:ヘブライ5:13-14)。新しい人たちが入って来やすい教会にしなければなりません。そのためホームページや看板・玄関・受付・教会内等、環境を整えなければなりません。また、礼拝でも、プロジェクタを用いるなど工夫が必要です。その一方、教会に集う者たちは、救いの喜びに生き、信仰の成長が与えられなければなりません。そのために、御言葉の説教、信仰告白としての教理の学びが求められます。礼拝と共に週報やホームページにおいても、初めて教会に来る人たちへの配慮をもっとしなければなりませんが、信徒教育とのバランスをどのように取るべきなのか、私自身、試行錯誤している状態にあります。

Ⅱ.神の賜物としての悔い改め
 さてウェストミンスター信仰告白の学びは、今日から第15章、命に至る悔い改めについてに入ります。信仰を告白すること、善き業を行うことにも共通ですが、私たちはどうしても、自分が信仰を告白する、罪の悔い改めを行う、善き業を行う、と私たち自身が主体に、神に対して行う行為であるように考えてしまいます。
 プロテスタント教会では、聖礼典は洗礼と主の晩餐の2つですが、カトリック教会では、サクラメント(秘跡)として7つ数えます。信仰告白(堅信)、牧師任職(叙階)、結婚、臨終における塗油(とゆ)が秘跡に数えられます。そしてもう一つ、赦しの秘跡(告解)があります。信者は神父の前に行き、自らの罪を告白し、悔い改めることにより、神の赦しが与えられます。これはカトリックの信仰が表れており、私たち人間の行動が求められます。それに神が応答して、神が赦しをお与え下さるとの考えです。
 しかし信仰告白は「命に至る悔い改めは福音的恵みの賜物の一つである」と告白します。罪に対する悔い改めも、神の働き、聖霊によって与えられる恵みです。ウェストミンスター信仰告白が作成された時、すべての信仰告白がほとんど完成した後に、第14章「信仰について」、第15章「罪の悔い改めについて」、第16章「善き業について」が審議され、信仰告白として加わりました。これらは、神のご計画に伴う義認、子とすること、聖化の結果であり、私たちの自発的な行為ではなく、神のご計画に基づく聖霊の御業の応答であることをウェストミンスター信仰告白は特に意識しています。つまり、ウェストミンスター信条の全体を理解する時、神の聖定・予定があります。神のご計画に基づいてキリストが十字架の御業を成し遂げ、私たち罪人の贖いが完成しました。それが聖霊により有効召命が行われ、一人ひとりの神の民に信仰が起こされ、義と認められ、子とされ、聖化が与えられることにより、私たちの石の心が砕かれ、福音が示されることにより信仰を告白し、罪を悔い改め、キリストに倣う善き業を行うようにされるのです。

Ⅲ.罪の指摘と悔い改めを要求する説教
 信仰告白はさらに「この教理は、キリストに対する信仰についての教理と同様、福音に仕えるどの牧師によっても説教されるべきである」と告白します。宗教改革の当時も、罪の指摘と悔い改めについて、牧師があまり説教していませんでした。自分に罪などない、立派な人間だと思っている人に、「あなたは罪人だ」と語っても、理解されない、受け入れられない、嫌われる。だから語るのは止めておこう!となるのです。
 しかし罪意識がない信仰とは何かを、私たちは問わなければなりません。キリスト教信仰はご利益宗教ではありません。ご利益宗教の如くに信仰を持っている人は、「神を信じているのに、なぜ苦しみに遭うのだ、重い病気になるのだ、艱難に遭うのだ」と語ります。真に罪の悔い改めがあるからこそ、主の御前に真の遜りと従順が伴います。
 私たちが苦しみを担うことは、神の民として必要な訓練です(参照:Ⅰペトロ1:6-7)。だからこそ、罪の指摘と悔い改めを説教において語ることが求められています。罪を指摘し悔い改めを求めることは、教理を学び、固い食べ物をかみ砕くことと同様の忍耐が必要です。しかし、説教により罪の指摘と悔い改めが語られていくことにより、真の信仰が与えられるキリスト者として信仰が成長し、それが教会の成長へとつながっていきます。
              
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 「命に至る悔い改め 15:2」  エレミヤ書31章    2019.11.24
  
Ⅰ.命に至る悔い改め
 ウェストミンスター信仰告白第15章「命に至る悔い改めについて」を学んでいます。悔い改めは反省ではありません。反省は猿でも出来ると言われたことがありますが、反省はその場限りといった印象が強い言葉です。しかし標題で「命に至る悔い改め」と記されているとおり、悔い改めは私たち自身の持っている根本的な問題であり、同じ失敗・同じ罪をもう二度と行わないという強い意思が込められています。「信じる」とは、「回心」とも言われ、生き方を180度方向転換して生きることの決意です。ですから自らの罪を理解し、悔い改めることが、私たちに求められています。

Ⅱ.主の御前に、自らの姿を見よ!
 つまり私たちは、私たち自身の姿を顧みて、私たち自身の持っている罪と相対することが求められており、神の御前にあって、自分自身の姿を明らかにしなければなりません。
 そのために主が私たちにお与えくださっているのが、律法であり、その代表が十戒です。私たちは、主の御前に立つ時、10の戒めを行ったか・破ったかが問われるのではなく、行いばかりか、言葉、心の中まで問われます(参照:マタイ19章金持ちの青年)。主なる神は、義・聖・真実なお方であり、私たちのすべてをご存じです。私たちは何一つ隠し立てすることはできません。ですから、他人からどれだけすばらしい人間だと思われている人であっても、主なる神の御前には、自らの欠けを隠すことはできず、罪を否定することはできません。だからこそ「あなたは罪人だ」と呼ばれるのであり、このことを社会において罪を犯し処罰される者と一緒にして考えると、自らの罪を認めることはできません。主なる神が私たちに求めているものは、他人にどのように見られているかという表面的なことではなく、私たちの心・魂といった私たちの存在そのものに対する問いかけです。
 生きて働く主なる神の御前に立つ時、何も口答えができないダメ人間であり、自らの行いで救いを得ることなどできないこと、自らの罪の故に神の裁きがもたらされ、死刑に処せられることを受け入れることです。神の御前に無条件降伏を行うことです。この時、私たちは、主なる神にすべてを明け渡し、委ねることが求められます。そうすれば、今までの自分の生き方が誤っており、神に従って生きるために、心を改めることが求められ、それが悔い改めとなり、回心となります。

Ⅲ.悔い改めと信仰によって与えられる祝福
 エレミヤ書31章において、エレミヤはイスラエルが偶像崇拝から離れないため、主なる神の裁きとしてバビロンによって滅ぼされ、捕囚の民として連れて行かれていくイスラエルの民に対して語りかけています。エレミヤが預言を語っている時、すでに北イスラエルは滅び、これから南ユダは滅ぼされ、捕囚の民とされていこうとしている時です。主なる神はエレミヤをとおして、イスラエルの民に悔い改めを迫ります。快い言葉、偽預言者に騙されてはなりません。イスラエルが悔い改めない結果が、バビロン捕囚となります。
 そうした中、「見よ、わたしの民、イスラエルとユダの反映を回復する時が来る、と主は言われる。主は言われる。わたしは、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる」とエレミヤは語ります(30:3)。これを受けて「そのときには」です(31:1)。罪の結果主の裁きを受けるイスラエルですが、罪を悔い改める時、主はイスラエルの回復を約束して下さいます。それが捕囚から70年後に訪れる捕囚からの帰還です。主が預言者を通してお語りになる御言葉に耳を傾けるのは、イスラエルの中でも一部「残りの者」です。帰還する者の喜びが預言されます(31:13,16-17)。
 そして主は新しい契約をお示し下さいます(31-34)。ここで主がイスラエルに約束されていることは、エルサレムへの帰還ばかりか、やがて来られるキリストの十字架によって完成する神の御国への招きです。エレミヤは、バビロン捕囚とその帰還、さらにキリストの御業と終末、神の御国の完成に至ることを主の約束として示します。
 私たちは今、自らの罪を悔い改め、神の赦しと救い、神の御国を見据えて歩み続けることが求められています。主イエスは、「人を裁くな。…兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイ7:1-5)とお語りになります。
 
               
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 「赦しに求められる悔い改め 15:3」  ルカ13章1~5節    2019.12.1
 
Ⅰ.罪の悔い改めは、神の無償の恵み
 ウェストミンスター信仰告白、第15章、命に至る悔い改めについて、第3節で信仰告白は語ります。「悔い改めは、罪に対する償いや、罪の赦しの根拠として頼られてはならない――赦しの根拠は、キリストにおける神の無償の恵みの決定である――」。
 第1節で、悔い改めは自分で行うことではなく、神から与えられる恵みの賜物であることを確認しました。また、信仰義認を取り扱った第11章においても、神は「御自身が有効に証明する者たちを、神はまた、無償で義とされる」と語り、私たちの善き業云々ではなく、神によって義認、そして救いが与えられることを確認して来ています。そしてこれらの前提としてあるのが、神の永遠の予定です。神が私たちを救いへと予定して下さっていることから考え始めると、すっきりとするかと思います。
 ここで問題となることは、信仰義認においても言えることですが、信じるという行為、罪を悔い改めるという行為によって、罪の赦し、神による救いが与えられると、信仰告白や悔い改めを救いの条件にしてはなりません。
 私たちの罪の償い・罪の赦しは、完全に律法を全うすることからしなければなりません。その上で、罪の償いが求められます。しかし罪人である人間には不可能です。罪のない真の神に委ねなければなりません。同時に、私たちの罪の償いであり、真の人間でなければなりません。そのため、真の神にして真の人となられた御子イエス・キリストに委ねるしか、私たちの罪が贖われることはあり得ません。そのため、私たちの罪の赦しの根拠は、御子イエス・キリストの十字架の御業ぬきには、ありえないのです。

Ⅱ.あなたは罪の責任転嫁していないか…
 しかし、続けて第3節の後半で語ります。「が、しかし、それは、すべての罪人に必要であるから、だれも悔い改めなしに赦しを期待することはできない」。最初の告白と矛盾しているように思われます。罪の悔い改めは、救われるための条件ではありませんが、しかし、真に神による罪の赦し、そして救いに与ろうとする者は、神の御前に自らの姿が顕わにされ、そして罪を悔い改める者とされるのです。つまり主なる神が、聖霊によって恵みの賜物として信仰をお与え下さり、自らの罪の悔い改めを行うように導いて下さいます。ですから、神によって捕らえられ、真の意味で信仰が与えられ、神の子とされている者は、主の御前に自らの姿を顧みて、罪の悔い改めを行う者へと促されるのです。
 ですから、罪の悔い改めをしようとしない者は、真の意味において神の予定に基づいて信仰告白しておらず、罪の赦しを受け、救われようとすることは出来ないのです。この時、人はある出来事をとおして自分の罪が指摘され、悔い改めるように迫られているにも関わらず、言い逃れをして、他人の責任するのです(参照:ルカ13:1-5)。
 つまり一つの問題が提起された時、問題の本質が何であり、そのことに対して神は自分には何を求めておられているのかを考えなければなりません。しかし現実には、第三者的、他人事として考え、他人を裁いたり、他人の責任にするのです。

Ⅲ.信仰は神の御前に立つこと
 私たちは自らの救いを考える時、生きて働く主なる神の御前に、自らの姿を吟味しなければなりません。この時に、神の予定、有効召命、義認・聖化が与えられ、信仰告白と罪の悔い改めへと導かれていれば、聖霊が働き、生きて働き主なる神の御前にあって、自らの罪が明らかにされます。そして罪の悔い改めへと促されるのです。
 しかし、神の予定によって救われることのみを語り、自らを神の御前に身を置かなければ、「もう救われているのだから、何を行っても構わない」と思い、怠慢な生活を行う人たちが出てくるのです(テサロニケ二3:6~15)。繰り返しますが、救いの予定は、聖霊の働きにより、主なる神の御前に私たちを立たせます。罪の悔い改めを迫り、その結果、謙遜と遜り、和解と平和へと促されます。善き業、神への奉仕を行う者へと変えられて行きます。これが遜りと謙遜な生活となります。
 最後に、今年の標語と聖句を改めて確認したいと思います。「互いに柔和で寛容の心をもつ教会を目指して」エフェソ4:2-3「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」。同4:12-13。
                
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 「各々の罪と悔い改め 15:4-5」  ルカ19章1~10節    2019.12.8
 
 Ⅰ.すべての者が罪人、しかし赦されない罪はない
 悔い改めを語る時、私たちが死にて滅びる者から、神によって捕らえられ、救いに導かれる時、信仰告白に至る段階で行います。私たちの生き方を180度、方向転換するために必要なことです。しかし、実際に私たちが主なる神の御前に立つ時、神は、私たちの一つひとつの罪に対して問いかけられますが、「裁きに値しないほど小さな罪が存在しません」。
 しかし多くの人たちは「自分には罪がない」と思い、生きています。そのため教会で「あなたは罪人である。悔い改めなければ救われない」と語られても、「なぜ?自分には必要ない」と思います。私たちは、主なる神の御前に罪とは何かを考えなければなりません。普通に考える罪とは犯罪行為であり、警察に捕まる行為です。そういう意味では多くの人たちは罪を犯していません。しかし聖書が語る罪は違い、神の基準で罪を考えなければなりません。神は義・聖・真実なお方です。かつ、神は全知全能であり、私たちは何も隠すことはできません。私たちは神の御前に、全ての行い・言葉・心の中まで問われます。
 そのためマタイ19章で、金持ちの青年が、「そういうこと(十戒)はみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」(19:20)と語った時、主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人びとに施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」(19:21)とお語りになります。主イエスは、彼の心・彼の愛を問われたのです。そして「あなたは罪人であり、罪の刑罰は死・滅びである」と宣言されます。つまり神を信じ、救いを求めるとは、罪に対する赦しであり、罪の刑罰としての滅びから救いです。そのために主なる神は、私たちに罪を悔い改め、主なる神を信じることを求められます。
 その上で信仰告白は、「真実に悔い改める者に裁きをもたらしうるほど大きな罪も存在しない」と告白します。主イエスと共に十字架に架けられた犯罪人が、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と語った時、主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と語られました(ルカ23:41-43、参照:ローマ8:1-2)。私たちのどのような罪でも、キリストの十字架の贖いにより、すでに罪が贖われ、赦しが与えられています。真の悔い改めに導かれる者の罪は赦されます。
 しかし聖書は「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコ3:28-29)と語ります。「聖霊を冒涜する」とは、イエスの言葉と行いを通して現れる神の救いの力と恵みを意図的・意識的に拒絶することです。人の子の働きを悪霊の働きとして拒むなら、人の子の罪を赦す権威は、その人の上に及ぶことはなく、その人は罪を悔い改めることはありません。その結果、主による裁きを避けることもできません。ただし、最終的に裁きを行うのは神であり、私たちが自分の判断によって聖霊を冒涜する者として、他者を裁いてはいけません。

Ⅱ.個々の罪に対する悔い改めを行おう!
 第5節では「人々は、一般的な悔い改めで満足すべきではなく、かえって、自分の個々の罪について個別的に悔い改めるように努めることが、各人の義務である」と告白します。私たちは、罪赦された罪人です。そのためキリスト者となった今でも、毎日罪を犯し、人を傷つけます。これらの罪をもキリストの十字架の贖いがなければ、私たちは救われることがありません。そのため私たちは、毎日、神の御前に罪を犯していないか。他人を傷つけていないか。一つひとつの罪と向き合い、悔い改めることが求められています。
 ルカ福音書19章にはザアカイの救いについて語られています。徴税人ザアカイは、イスラエルの人びとからは嫌われ、罪人とされていました。そのためイエスが通りかかるためイエスを見ようと思いますが、だれも協力してくれず、見ることが出来ません。そのために彼はいちじく桑の木に登り、上からイエスを見ようとします。このザアカイに対して、主イエスが声をかけて下さいます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と。この時に、聖霊をとおして主の御業が働き、ザアカイはイエスを救い主と信じ、そして罪の悔い改めに導かれます。ザアカイは語ります。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人びとに施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8)。このザアカイの行為こそが、個々の罪に対する悔い改めと償いの行為であることを、信仰告白は証拠聖句として確認しています。
                 
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 「悔い改めと祈り 15:6」  詩編51編    2019.12.15
  
Ⅰ.悔い改めの祈り
 前回、悔い改めとは、信仰に対する悔い改めと共に、個々の罪に対する悔い改めが必要であることを確認しました。そして第6節では、罪の悔い改めを行う時、心の中で個人的に思っていれば良いのではなく、神に対する祈りとして表されることを告白します。
 詩編51編は7つあるダビデの悔い改めの詩編の一つです。標題にあるように、バト・シェバとの間にあった罪(サムエル下11章)に対して、預言者ナタンがダビデの所に遣わされた時に行った悔い改めです。ダビデの罪は、主なる神の憐れみがなければ、死において償うしかないものです。その罪の重さをダビデは、「背きの罪・咎・罪・悪事」と表し、「ぬぐってください、洗ってください、清めてください」と語ることにより、主の御前に悔い改めと赦しを請うています(3-6)。主の御前に自らの姿を知る、自らの罪の大きさを確認することが悔い改めの第一歩です。だからこそ、祈ることが大切です。
 自らの罪が明らかになると、主なる神の御姿が顕わになります(6)。そして人間は生まれながらの罪人、原罪があり、全的堕落にあることを告白します(7)。主なる神の御前に、人間として生きることの罪を明らかにします。
 神を否定する人びとは、開き直ります。しかし、生まれながらに罪があり、そして、主の御前にあって赦されるはずもない罪を犯したにも関わらず、主は赦して下さろうとしています。ダビデは、この主なる神の憐れみ、主なる神の愛が示されています(8)。罪を悔い改める時、罪が赦された者として、主なる神に従う意思が表れ、主に知恵を求めます。
 そして改めて罪の赦しと神による救いを求める祈りへとなります(9-11)。
 続けて主なる神が創造主であり、すべてを支配しておられるお方、人の罪を裁き、救いをお与え下さる御力を持っておられるお方である告白となります(12-14)。救い主を誉め称え、救いの喜びと賛美の歌となります(16-19)。そして最後に、神を礼拝する場であるエルサレムが完成し、主によって集められた民たちが、主を礼拝することの喜びに満たされることを誉め歌います(20-21)。罪の赦しの恵みに対する感謝と賛美が礼拝を具体的に形成し、打ち砕かれた心をもって礼拝がささげられる時、主は礼拝を喜びに満たして下さいます。
 つまり、主の御前に自らの姿を顧み罪を悔い改める時、主の御前で祈り、悔い改めに留まらず、信仰を告白し、主の御前に遜り、主を礼拝し、誉め称えるものとされていきます。このことが、信仰告白15:6の前半で告白されています。

Ⅱ.罪を犯した相手との和解と謝罪・関係の回復
 そして、罪を悔い改め神との正しい関係を取り戻す時、私と神との関係に留まらず、人を傷つけた場合その人との関係の回復、謝罪と和解を求めます。つまり救いは、個人的なものではなく、信仰共同体へと広がります。神を愛するように、隣人をも愛します。
 それは直接罪を犯した相手ばかりか、無意識的・無視することにおいて行われる罪にも広がりを見せます(参照:金持ちの青年・マタイ19:16-22)。マタイ19:21「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人びとに施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(信仰告白15:6後半)。
 キリスト者も、罪を避けることはできません。言葉において兄弟姉妹を傷つけることもあります。罪を犯した者は、気が付いていないこと、忘れることもありますが、傷つけられた側は、傷が癒えず、忘れることが出来ません。そして相手を赦すことが出来ません。そのため信仰告白は、私的、あるいは公的な告白(悔い改め)を求めます。言葉の場合、「言った、言っていない」という議論になりがちです。そのため、教会(小会)が対応する時、非常に慎重でなければなりません。事実関係を確認するのではなく、その原因を確認しなければなりません。そうしなければ罪の根源を排除し、和解することはできません。
 こうしたことの対処が、適切に行われない時、教会は分裂したり、教会から離れていく人が出てくる結果を招きます。主なる神は、ダビデの罪を赦し、そしてなおもダビデの子としてメシアをお与え下さる約束をお与え下さり、ダビデの子として、御子イエス・キリストは人としてお生まれ下さいました。教会は、問題が発生し、そこで分裂や離れていく人が出てくる時、それは、教会が問題の対処に失敗した結果であることを、認識しなければなりません。
                  
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「信仰の実りとしての善い行い 16:1~2」  ヤコブの手紙2:14~26   2020.1.5
 
Ⅰ.全的堕落に生きるキリスト者
 ウェストミンスター信仰告白の学びも第16章「善き行いについて」に入ります。信仰と善き行いについては、信仰義認と表裏の関係で、主イエスの時代から大きな問題であり、現在に至るまで繰り返されて議論される事柄です。主イエスは、律法主義、行いのよる救いはないことを語り、律法主義者たちを批判されました。しかし信仰の実りとしての善き業を否定された訳ではありません。このことは、少しずつ論点は変化しますが、古代のアウグスティヌスとペラギウスの論争となり、宗教改革以後のアルミニウス主義論争となります。これらは、律法主義、救われるために善き業を求めるということで一致しています。
 信仰告白は「1.善い行いとは、ただ神がその清い御言葉において命じておられるものだけであり」と告白します。つまり律法主義の共通した問題点は、人間は神が求める行為、つまり善き行いを行うことが出来ると考えることです(ミカ6:8、ローマ12:2)。人間は、神の御前に罪を犯し全的に堕落しているため自らの行いが神の求める善き業とはなり得ません。
 信仰告白は続けて、「御言葉の確証もなしに、無批判的な熱心から、あるいは何か良い意向を口実に、人間によって考え出されたようなものではない」と告白します(証拠聖句:マタイ15:19、イザヤ29:13、サム上15:22-23)。旧約の時代から、主の御心に適っていると思いつつ、人々は罪を重ねてきました。律法学者たちは、律法に従うことによって救われると真剣に考えていたのですが、その自分が律法に背いていること、自分たちで罪の規準を定めていることが、主の御心に沿わないことであることに気が付かなかったのです。
 現在の福音派にいたるアルミニウス主義は、「信じることによって救われる」ことから、信仰を告白することを救いの条件にしています。しかし、信仰の告白は主による義認の結果であり、主から与えられる恵みであることを私たちは確認しています。

Ⅱ.信仰の実りとしての善き行い
 一方、宗教改革においてルターは信仰義認を説きました。信仰義認は、プロテスタント教会における共通の遺産です。しかしこの信仰義認においても、解釈の違いが生じます。それはルターは、信仰に伴う善い業を求めるヤコブの手紙の註解において「藁の書簡である」と記したことが不幸の始まりであったと言って良いかと思います。ルター自身は、それ程ではなかったのですが、その後のルター派の人々は信仰義認で終わってしまい、その後の良き生活には至らなくなりました。この結果、極端な例として、信仰があれば律法、善き行いは不要であるとの考えが出て来て、これが律法廃棄論者となっていきます。
 このヤコブ2:14~17の解釈は、主によって義と認められる私という人間が何者なのか、ということを突き詰めないと理解できません。「神が私を救って下さった。そして義と認められ、自由になった。何も行っても良いではないか」ではないのです。主がキリストの十字架によって罪を贖って下さった私という存在は、全的に堕落しており、自分の内には何も善いものはないのです。義と認められたのもキリストの十字架の贖いです。罪人が神の御国へと受け入れられるのです。この時、己が神の御国に相応しい存在と思えるでしょうか? それが自己否定、主の御前に遜りとなります。その結果、神がお与え下さった律法を守ることは出来ないけれども、神の子に相応しいようにキリストに倣い、律法に仕えて行こうと変えられて行くのです。それが信仰に伴う善き行いです。それが信仰告白の第2節で語られていることです。
 律法の第三用法が用いられます。律法については、第19章において改めて確認しますが、神を知り信仰を告白するのに、律法(十戒)により、自らの罪を知り、悔い改め、神への信仰を告白するものとされます。この罪に対する悔い改めが十分に行われる時、信仰の実りとしての善き行いへと結びつき、十戒に従って生きるものへと返られるのです。そして善き行いの具体的な例がアブラハムとラハブにおいて語られています(ヤコブ2:21~26)。
 信仰告白は最後にこう告白します。「信者は、そうするようにイエス・キリストにおいて造られた、神の作品だからである。かくして信者は、清さにいたる実を結んで、目的である永遠の命を得ることができる」(証拠聖句:Ⅰペトロ2:11-17、エフェソ2:4-10、ローマ6:15-22)。わたしが生きるのではなく、主がわたしに命を与え、永遠の生命をお与え下さいました。だからこそ私たちは善き行いにより、神に栄光を帰し、神を永遠に喜びとして生きるのです。
 
                   
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「恵みの賜物としての善い行い 16:3」  フィリピ2:12~18   2020.1.12
 
Ⅰ.誤った教理は、聖書を深く読み取らないことから生じる
 信仰義認と行いによる救い、信仰と善き行いの関係は、主イエスの時代から注目されてきた事柄です。新約聖書においても、注意して読まなければ、行いによる救いの獲得が奨励されているように理解することができます。
 フィリピ書を確認します。2:12~18ですが、2:13を読み飛ばすと、行いの結果救いが与えられるように読むことができます。しかし私たちは、2:13に記されていることを理解しなければなりません。2:13「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。主なる神が、聖霊により義と認めて下さるのであり、それが私たちの側で信仰告白と悔い改めに導かれる行為となります。その神の御霊の働きが、善き行いを行う原動力です。他の聖書の箇所でも同様のことが言えます。じっくり読まなければ、行いの結果救われると解釈できる箇所があります。だからこそ、私たちは聖書を丁寧に読まなければなりません。そして聖書を解釈した教理の学びが欠かせないのです。

Ⅱ.恵みの賜物としての信仰・悔い改め・善き行い
 そして私たちはウェストミンスター信条から学ばなければなりません。第11章:義認、第12章:子とすること、第13章:聖化引き続いて、第14章:救いに導く信仰、第15章:命に至る悔い改め、第16章:善い行いが告白されます。この後半部分、信仰・悔い改め・善き行いは、信仰告白のほぼすべての文書が出来た後に付け加えられたのです。つまりこの部分は、義認・子とすること・聖化とのコインの裏表であり、ウェストミンスター神学者会議では、このコインの裏の部分も確認する必要を認め、最後に付け加えたのです。
 このことは、小教理問答を確認すると明らかになります。問33「義認とは、…神の無償の恵みによる決定です」。問34「子とすることとは、…神の無償の恵みによる決定です」。問35「聖化とは、…神の無償の恵みによる御業です」。神が聖霊の働きによって、すべてを行って下さいます。朝の礼拝においてザカリアが主によって召され、洗礼者ヨハネの父とされる祝福に与ったことを確認しましたが、主なる神の一方的な御業です。それが私たちの救いにおいても行われるのです。そして問86では「イエス・キリストに対する信仰とは、…救いに導く恵みの賜物です」、問87「命にいたる悔い改めとは、…救いに導く恵みの賜物です」と告白します。そして今日の信仰告白でも、「善い行いをする信者の能力は、…かれらがすでに受けているさまざまな恵みの賜物」を求めます。つまり、信仰、悔い改め、そして善い行いは、神の恵みの賜物です。神は信仰を告白する、罪を悔い改める、そして善い行いをすることの能力をお与え下さり、それを用いて行うように促されるのです。
 ウェストミンスターは、私たち人間は善い行いを行う能力がまったくないと告白します。神の永遠のご計画と、罪による全的堕落・全的無能力により、ここにたどり着くのです(参照:ウェストミンスター信仰告白3:5)。善い行いに関して理解を深めるためには、神による永遠の予定と人間の全的堕落を理解することが必要です。

Ⅲ.どうしたら善い行いが可能になる?
 この時、改めて私たちは主の御前にあって、自らの姿を顧みなければなりません。全的堕落で罪により滅び行く者だった私たちが、キリストによる十字架の贖いに与り、罪の赦しが与えられ、神の子とされ、永遠の生命が約束されたのです。神の愛、そして主の御業を知る時、私たちは感謝と喜びをもって主の僕として主に従う者とされるのです。ここに善き行いの原動力があります。
 世の中は、今なお罪に満ちています。そして私たちもまた、それを否定することなく、受け入れてしまいます。流されてしまいます。しかし主なる神は、私たちが神の義を知り、神の義に従って生きるために、律法をお与え下さいました。これは守るべきものではなく、私たちが罪の故に滅びることから、主なる神が守って下さるものです。だからこそ、私たちがキリストの十字架の贖いにより罪が赦され、キリストにあって生きる時、神の義を求め、律法に従って生きるものとされるのです。政治も、経済も、環境も、私たちは、日本にいて何をするのかではなく、主なる神は私たちに何を求めておられるのか、主の御声に聞き従い、考え、行動していくことが求められています。ここに主が求めておられるサマリア人への譬えで代表される善き行いがあります。
 
                    
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「善い行いは功績に非ず 16:4-5」  ルカ17:10   2020.1.19
 
序.
 改革派信仰は全的堕落を語り、信仰もまた聖霊の働きによる神の恵みであり、神からの召命がなければ信仰告白に至らないことを、私たちはウェストミンスター信仰告白において確認して来ました。しかし他の教派では、行いによる救いを信じたりします。

Ⅰ.罪人である人間に余功などあり得ない!
 カトリック教会では「余功」について言及します。そのためカトリック教会では聖母マリアを初め、聖人・福者を制定します。最近ですとマザー・テレサが聖人に選ばれました。彼らが余功を語る根拠は、善きサマリア人への例えにあります。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」(11:35)。彼らの善い行いにより、罪深い教会員に功績を配ることができる一種の銀行のように貢献することされたのです。こうしたことが、宗教改革前夜に行われていた免罪符制度につながっていきました。
 しかし私たちは、「余功」は非聖書的であるとして信じません。そのことを、ウェストミンスター信仰告白は第16章第4節において告白します。ここにおいて証拠聖句として取り上げられているのが、ルカ17:10です。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」またもう一箇所ヨブ記9:2~3も御確認下さい。
 私たちは、主なる神の御前に、私たち自身がどのような存在であるか、顧みなければなりません。主なる神は創造主であり、私たちは神の被造物です。そして主は、私たちが生きて行く上で必要なものをすべてお与え下さるお方です。そしてキリスト者は、罪の奴隷として滅び行く者であったにも関わらず、主なる神の御前にあって罪が赦されて、神の子とされたのです。この時私たちは、罪の奴隷から神の僕・神の奴隷とされたのです。奴隷が、主人の命令に従うことは当たり前です。出来なければ咎められるだけです。しかし、主なる神は、キリストの十字架の御業の故に私たちの罪をお赦しくださり、さらに私たちがしなければならないことを行わなかったとしても、それをもお赦し下さいます。だからこそ、主が私たちの罪を赦して下さるからこそ、兄弟の罪をも赦すように聖書は語ります。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17:3-4)。私たちに余功などと呼ばれるものはまったくありません。そればかりか、本来しなければならないこともできないのであり、それらも主の憐れみによって赦されているのだということを、私たちは理解しなければなりません。

Ⅱ.私たちの最善の行いも、功績には程遠い!
 だからこそ、信仰告白は第5節で、「わたしたちは、自分たちの最善の行いによっても、神の御手から罪の赦しや永遠の命を功績として得ることはできない」と告白します。
 そして信仰告白は、この理由を2つ語ります。第一は、私たちと神との違いです。私たちの最善の行いと来たるべき神の栄光との間には大きな不釣り合いがあり、無限の隔たりがあります。証拠聖句として、ローマ3:20、8:18、ヨブ22:2-3などが挙げられています。また、エフェソ2:8-9には次のように記されています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」。
 そして信仰告白は第二番目の理由を語ります。「行いが善いかぎり、それらは神の霊から出ているのである」。証拠聖句にガラテヤ5:22-23があります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」。
 そして信仰告白は最後にこのように告白します。「行いがわたしたちによってなされるかぎり、それらは汚れており、非常に多くの弱さと不完全さが混じっているため、神の裁きの厳しさに到底耐えることができないからである」。証拠聖句として、ガラテヤ5:17、ローマ7:15,17、詩編143:2等が挙げられています。
 今日は2つの節から、私たちの行いは、どれほど素晴らしいことであったても、主なる神の御前には、救いを獲得することができるようなものではなく、一人の罪人に過ぎないこと、ましてや他人の救いのために貢献できるようなものではないことが告白されていました。私たちは神の御前では全的に堕落した罪人であり、善き行いの源泉は神にあります。
 
              
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 「善い行いの結果 16:6-7」  マタイ25:41~46   2020.2.2
 
序.
 ウェストミンスター信仰告白第16章、善い行いについてを学んでいますが、行いの結果としての救いではなく、義と認められ、神の子とされた者が、罪を悔い改め、信仰を告白することによって、キリストに倣う善き行いを行うものとされることを確認して来ました。そして前回は、カトリックの語る余功や聖人、つまり善き行いによって他人をも救うことの出来る余功なるものは、あり得ないことを確認して来ました。

Ⅰ.キリスト者の善い行い
 たとえ神によって召されキリスト者となった信者であっても、その善い行いは、神の義・神の聖に対しては不十分です。その上で信仰告白は、「しかし、それにもかかわらず、信者たちの全人格がキリストをとおして受け入れられるのであるから、かれらの善い行いもまた、キリストにおいて受け入れられる」と告白します。キリスト者の行いは、神の義・神の聖に対しては不十分なのですが、それでもな主なる神はキリスト者の行いを受け入れてくださり喜んでくださいます。アベルの献げ物が受け入れられた(創世4:4)について、ヘブライ11:4では「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです」と語っています。ローマ9:19~24、マタイ25:21,23、同25:31~40も参照すべきです。
 主の御前にあって、僅かな行い、あるいは善い行いをおこなったとは思っていないことであっても、主なる神は、すべてをご存じであり、喜んで受け入れてくださいます。そのことを、信仰告白16:6は告白しています。

Ⅱ.非キリスト者の善い行いは…
 一方、第7節では次の様に告白します。「再生していない人々によってなされる行いも、内容的には神が命じておられるもので、かれら自身にも他の人々にも有益なことがある」。未信者であっても、クリスチャンを遙かに超える素晴らしい働きを行う人がいます。そういう人たちを、私たちは「クリスチャンではないから」との理由で、否定すべきではありません。むしろ、愛の業において協力して行えることであれば、一緒に行えば良いのです。
 一方、この時「彼らが救いから漏れるのは、神は不公平だ」と言った声も挙げられます。二つのことを考えなければなりません。第一、「彼らは滅びる」と、私たちが決断を下してはなりません。つまり、今、彼らは神を信じておりません。しかし、主の御業により、彼らが信仰を告白する時が来る可能性まで、私たちが否定してはなりません。
 二つ目のことを信仰告白は告白します。「しかし、それらの行いは、信仰によって清められた心から出るのではなく、また、御言葉に従って正しいしかたでなされるのでも、神の栄光という正しい目的のためになされるのでもないから、罪深く、また、神を喜ばせることも、人を神から恵みを受けるのにふさわしくすることもできない」。
 ここでは3つの理由が語られます。第一「彼らの行いは、信仰によって清められた心から出ていない」。善い行いを行う理由が不純です。ヘブライ11:6 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」。
 第二に「御言葉に従って正しいしかたでなされて」いません。彼らの行いは御言葉に従ったものではなく、神の愛に基づくものではありません。Ⅰコリント13:3 「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」。信仰に伴う愛がなければ、行いは自己満足に過ぎません。
 第三に「神の栄光という正しい目的のためになされていません」。参照:マタイ6:2, 5, 16。
 未信者であっても、社会的に称賛される人たちが少なからずいます。それでもなお、彼らの行いの理由、目的が、神に向かっていないため、神から称賛されることはありません。
 そして最後に信仰告白は語ります。「それでもなお、かれらがそのような行いを怠ることは、いっそう罪深く、神に喜ばれないことである」(参照:マタイ25:41~49)。未信者だから、罪の故に滅びるから、何を行ってもよいのではありません。それは、神のなお一層の悲しまれる行為です(参照:小教理問83)。
               
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 「聖徒の堅忍 17:1-2」  Ⅰペトロ1:3~12   2020.2.16
 
Ⅰ.教理としての聖徒の堅忍
 「堅忍」という日本語は一般にあまり用いられませんが、「辛いことに耐え忍ぶこと。我慢強くこらえること」であり、英語では'perseverance'「忍耐」です。私たちは信仰生活で辛いことや我慢しなければならないことがありますが、神によって与えられた信仰は、最後まで耐え忍ぶことができ、そこから落ちることはありません。
 聖徒の堅忍が一番注目されたのは、ドルトレヒト会議(1619)においてです。ドルト会議で告白されたドルト信仰規準で、改革派信仰の中心に「予定論」があることが確認されますが、ここで5つの柱(カリヴィニズムの5特質)の一つとして「聖徒の堅忍」が挙げられたのです。①全的堕落 ②無条件的選び ③限定的贖罪 ④不可抗的恩恵 ⑤聖徒の堅忍。
 ドルト会議では、予定論を否定するアルミニウス主義者たちが予知論を語り、「抗議の5箇条」を提出し、信仰は自らの意思において維持し続けるのであって、自らの意思で信仰から離れることもあり得ることを主張していきます。そうした中ドルト会議は、改革派信仰における信仰告白の一つとして、救いの予定に基づく「聖徒の堅忍」を導き出します。
 つまり聖徒の堅忍は、神の永遠の聖定・予定と表裏一体です。ウェストミンスター信仰告白で、第3章「神の永遠の聖定(予定)」が告白されますが、その後、第10章「有効召命」、第11章「義認」、第12章「子とすること」、第13章「聖化」が告白されていきます。この第10章~第13章は、私たちが罪から救い出され、信仰を告白する私たちの救いの御業が告白され、私たちのゴールが「聖徒の堅忍」において告白されます。つまり「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と語る時、「救われる」とは、神の予定に基づいて、確実に最後の審判において、罪の赦しが与えられ、神の御国における永遠の生命が与えられることを語っているということです。別の言い方をすれば、今は神を信じており救われているが、後のこと、神の御国の永遠の生命は分からない、という不確定なものではない、ことを告白しています。

Ⅱ.有効に召命された者は、永遠に救われる!
 このことを信仰告白は第1節で次のように告白します。「神がその愛する御子において受け入れ、自らの霊によって有効に召命し、聖とした人々は、恵みの状態から全面的に落ちてしまうことも、最終的に落ちてしまうこともありえず、かえって、最後まで恵みの状態の中に確実に堅忍し、永遠に救われる」。主により救いへと予定された者が、召され、義と認められた者は、罪の悔改めと信仰告白へと促され、どのような状態にあっても、最後まで信仰が守られ、永遠の生命に与ることが許されるのです。
 証拠聖句であるⅠペトロ1章の御言葉を確認します。私たちの救いは、神の予定に基づくわけですが、御子イエス・キリストの十字架の御業により有効となります。ペトロ書は、このキリストの贖いの御業の重要性を語ります。そして私たちが生きていく上で避けて通ることのできない艱難・苦しみについて展開します(1:6-9)。試練は、私たちの信仰の訓練であり、信仰が鍛えられ、神の民に相応しいものとされていくのです。そして、信仰の実りとして魂の救いが決定しているからこそ、私たちは試練に耐えることができるのです(9)。

Ⅲ.聖徒の堅忍は神の御業に基づいて行われる
 2.「この聖徒の堅忍は、かれら自身の自由意志に基づくのではなく、
  〔第一に〕父なる神の自由で変わらない愛から出てくる、選びの聖定の不変性と、
  〔第二に〕イエス・キリストの功績と執り成しの有効性、
  〔第三に〕御霊と神の種のかれらへの内住、および、
  〔第四に〕恵みの契約の性質、に基づく。
 これらすべてから、また、聖徒の堅忍の確実性と無謬性が生じる」。
 信仰告白は第2節で、信仰が必ず守られるという教理は、私たちの自由意志によって信仰を告白したことによるのではなく、神の自由で変わらない愛から出てくる、選びの聖定(予定)に基づくことを告白します。そして父の御業、御子の御業、聖霊の御業、そして神による契約に基づいて、三位一体なる神の御業として聖徒の堅忍が行われているからこそ、私たちの救いは確実なのであり、変更されることはないと告白します。
 そして信仰告白は、ヨハネ福音書10:28を証拠聖句として挙げます。ここで主イエスがどのように語っておられるか? ヨハネ福音書10章では、羊と羊飼いに例えて語られていきますが、10:27~28でこのように語られています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」。主なる神の救いの御計画は、三位一体なる神が共同して実現させるのであり、それを誰も奪うことはできず、神によって信仰告白へと招かれている私たちは、たしかに、神の御国の生命に与るものとされているのです。
 
                
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「キリスト者もつまづく 17:3」  マタイ26:69~75   2020.3.1
 
序.
 聖徒の堅忍は、神の永遠の予定に基づくものであり、予定と切り離すことはできず、また、神の御業の表裏にあります私たち自身の信仰を切り離して考えることもできません。

Ⅰ.信仰は順風満帆ではない!
 さて、私たちは罪赦された罪人であり、聖人君子ではありません。そのため日々の生活の中でも信仰がグラつき、罪を犯し人を傷付けたりすることもあります。ダビデやペトロ、宗教改革者ルターやカルヴァンも例外ではありません。それでもなお、神による救いへと予定された者は、最後まで信仰を保つことができることを、聖徒の堅忍は語ります。
 一方、予定を受け入れることのできない人々は、現実に信仰を告白した者たちの中にも、教会から離れる人がおり、時として教会を迫害する側に立つ人たちもいる中、神の予定を語ろうとしつつも受け入れることが出来ないために、予知論を発表するにいたります。
 そうした中、ウェストミンスター神学者会議は、神の予定の教理を決定した後も、一人ひとりの信仰のあり方を顧み、信仰が弱くなる者・一時的に教会から離れていく者・一時的に躓く者がある、そうした現実を受け入れつつ、それがどういう状態にあるのかを、信仰告白において告白しようとしています。ですから、今日の告白と第18章、恵みと救いの確信についての告白は、信徒一人ひとりのキリスト者としての信仰の嘆きが、信仰告白として告白されています。そしてこれらの信仰告白は、ウェストミンスター信条特有の信仰告白となっています。

Ⅱ.ペトロの例
 今日の告白を確認するにあたり、ペトロの躓きから確認します。主イエスは最後の晩餐の時、ペトロに対して躓きを予告されます(マタイ26:34)。この時ペトロは主イエスの言葉を否定しますが(同26:35)、現実には、主イエスが語られたとおり、主イエスのことを「そんな人はしらない」と三度語ってしまいます(同26:69~75)。すぐさま鶏が鳴き、主イエスの言葉を思い出したペトロは外に出て激しく泣きます(同26:75)。
 ペトロにとっては、先生であるイエスさまが逮捕され、自分も逮捕され、死刑に処せられることを恐れます。私たちはいつでもペトロと同じ状況に置かれる可能性があります。死に対する恐怖です。迫害、戦争、自然災害、そして疫病……。そうした中、あなたは信仰を貫き通すことができるのですか、と問われています。また信仰を貫いた人だけが救われるのかと問いかけられています。その答えは、神によって救いへと予定されているキリスト者であってもペトロ同様に躓くことがあり、罪を犯したとしても自らの罪を真摯に悔い改めれば主は赦して下さることを、信仰告白は語っています。つまり、ペトロは確実に主なる神により救いへと予定されています。そして、主イエス御自身が、ペトロの信仰のために祈っていて下さいます(参照:ルカ22:31~32)。そしてペトロが立ち直った後、教会の指導者として立てられることを主イエスは約束して下さいました(マタイ16:17~19)。主イエスによるこれらの約束の言葉がありましたが、ペトロは主イエスを裏切りました。しかし、十字架の死と復活を遂げられた主イエスは、このペトロの前に立たれます(ヨハネ21:15~19)。主イエスはペトロが自身を失ったままの状態ではなく、これから教会の指導者として立つために、罪の悔い改めと信仰をお与え下さいました。
 救いへと予定されている一人ひとりのために、主イエスは今も天で執り成しの祈りを続けて下さっています。だからこそ、私たちもまた、信仰を保つことができます。また、今、教会から離れている人があったとしても、主の愛が伝えられ、悔い改めと信仰告白において教会に戻ってくる日があることを私たちは信じつつ、主に委ねて祈るのです。

Ⅲ.私たちに与えられている聖徒の堅忍
 私たちにとって大切なことは、キリスト者であっても罪を犯すことが許されているわけではありません。しかし、自らの行った罪を、主の御前に悔い改める時、主なる神はそれを受け入れ、赦して下さいます。そして神の御国を受け継ぐ者としてくださいます。主なる神による救い、御子イエス・キリストの十字架による罪の贖い、聖霊による守りを信じるならば、たとえ一時的に罪を犯したとしても、神から離れたとしても、主なる神がお守り下さり、神の御前に帰って来ることが許されています。そしてキリストの再臨によって与えられる神の御国を勝ち取ることができるのです。これが聖徒の堅忍であり、ここに私たちがキリスト者として生きる希望が与えられています。
 
                 
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「救いの確信 18:1-2」  ヘブライ6:1~20   2020.3.8
 
Ⅰ.ウェストミンスター信条とは
 ウェストミンスター信条は、1617年に始まりました宗教改革の最晩期、1643~1649年に開催されたウェストミンスター神学者会議において作成されました。ウ信条は、宗教改革の歴史、特にカルヴァンからの流れ、改革派信仰を受け継いでいますが、度々「ウェストミンスターはカルヴァンからの逸脱である」と語られてきました。その一つは、十戒論の展開が律法主義であると語られることですが、もう一つが、この第18章「恵みと救いの確信について」です。つまり、改革派信仰は神中心ですが、恵みと救いの確信では、私たちの信仰・心の部分に着目するためです。
 ウ信条は4つの層からなっています。①古代信条に基づく、三位一体・二性一人格を確認し、異端との違いを語る信仰告白。②義認・教会論・典礼論などカトリック教会を意識したプロテスタントとしての信仰告白。③予定に代表される教派分裂に伴う改革派信仰の信仰告白。④英国ピューリタン特有の信仰告白。ウ信条は、このように、項目により対象の相手が異なりますので、読む時に注意しなければなりません。

Ⅱ.ウェストミンスターの時代的な背景
 ウェストミンスター神学者会議は英国議会の諮問機関として議会から支援を受けていましたが、当時は国王派との内戦を行っていました。また神学者会議の中でも、長老主義を主張する長老派と、今の福音派教会に近い独立派の人たちがいました。別の考えを持っている人たちもいました。教派の違いにより、生きるか死ぬかの戦いを行っていたのです。英国は、1660年に王政復古となり、カトリックに違いアングリカン教会となりますが、この時、ピューリタン牧師たちは教会から追放され、逮捕された者もいます。背教する者、国教会に寝返る者もいました。こうした時代です。人々は信仰が揺さぶられていました。
 人々は信仰が揺らいでいる時代、予定に基づいて聖徒の堅忍を確認した神学者会議は、その表裏にある恵みと信仰の確信について告白するにいたります。
 この時同時に問題となるのが、教会から離れていく人たち、教派を移っていく人たちのことでした。信仰告白では、彼らは神の予定にはなく、「偽りの希望」と「肉的な思い込み」であると語ります(参照:申命29:18、マタイ7:21-23)。神によって予定されていない人も、一時的な信仰によって、信仰を告白し、教会生活を続けるのです。

Ⅲ.神的真理に伴う恵みの賜物
 信仰告白は続けて、主イエスを真実に信じ、信仰の確信が与えられている者の希望は失望させられることはない、と告白します。キリストの十字架の御業により罪が赦され、神の子とされるのであり、キリストと共に歩む時、信仰は確かなものとなります。
 そしてこの救いの希望の根拠が第2節で説明されます。具体的に2つ。第一が、救いの約束は神的真理に基づいていることです。これは「キリストにおける救いの約束という神的真理」です。ヘブライ6章では、アブラハムに与えられた約束について語られています。私たちには、主がキリストの十字架において、私たちを救うという救いの約束して下さいました。この約束を真に見つめる時、我々の内に確信が生まれます。
 私たちは主なる神から様々な恵みの賜物が与えられています。信仰・希望・愛・信頼・喜び・平安・望み…。つまり、神のキリストにおける救いの約束は、これらの恵みの賜物により、信仰が強められ、救いの希望が増し加えられていきます。

Ⅳ.救いの確信
 そしてこの救いの希望の根拠の具体的な第二のことが、御霊の証言です。つまり私たちが確かに恵みの救いに与っているというこの確信が確実であることは、聖霊によって与えられた恵みであり、もっともらしい信念ではなく、客観的・内面的に豊かな根拠があることを教えています。
 つまり神の予定に基づいて聖霊の働きによって、義認・子とすること・聖化が与えられた結果、聖徒の堅忍として神の国を受け継ぐことができることが、はっきりと示され、確信するに至った者にとっては、私たちの内に与えられる救いの確信が、主から与えられた恵みであることをはっきりと理解することができるのです。
 「ウェストミンスターは、改革派教会的ではない、カルヴァンからの逸脱だ」と語られますが、ウェストミンスターは、個々の信仰の戦いを顧みながら、主なる神のご計画から、信仰の告白を行っていることを、ご理解していただきたいと思います。
 
                  
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「信仰は揺らぐこともある 18:3-4」  イザヤ書54章   2020.3.15
 

Ⅰ.恵みと救いの確信について
 ウェストミンスター信仰告白、第18章「恵みと救いの核心について」に入っています。この章は、宗教改革の流れを汲むウェストミンスター信条にあって、ウェストミンスター、英国ピューリタン固有の信仰告白です。大陸における30年戦争や英国内における国王派とピューリタンとの間にある信仰のための内戦状態の中にあって、告白された信仰告白です。
 同時にこの告白は、神の永遠の予定に伴う救いが基盤にあり、義と認められ、神の子とされ、聖化の歩みを行うキリスト者は、それに伴い罪を悔い改め、信仰を告白し、良き生活へと導かれます。そして聖徒の堅忍、つまり最後まで信仰は神によって保たれることを告白しました。それでもなお私たちの信仰は揺らぎます。このことが問題となり、この章へとつながります。この章だけを読んでいても理解できないことですが、ウェストミンスターの全体を、そしてその流れを確認し、さらには当時の英国の歴史を顧みることにより、信仰告白で語ろうとしていることを理解することができるようになります。
 このことは聖書を読み進む時も同様です。聖書の全体像を理解し、時代背景を確認することにより、テキストを読み取ることができ、それを今の時代、今の日本において、主なる神が私たちに何を求めているのか、適用することができます。

Ⅱ.信仰の確信を得るために
 第3節の冒頭、信仰告白は「この無謬の確信」と語ります。「無謬」とは、「理論や判断に間違いがない」ことです。日本の政府では「無謬性の原則」を持ち、「ある政策を成功させる責任を負った当事者と組織は、無謬性の原則に立ち、その政策が失敗した時のことを考えたりすることはない」と語られています。これは誤った責任論です。人間が行うことには誤りが伴います。誤りが分かれば立ち戻り、方向転換をすべきです。
 「信仰の確信」は無謬であると信仰告白は語りますが、それは予定に基づく聖徒の堅忍から帰結しています。しかし「信仰の本質ではない」と語ります。これはどういうことか?信仰の確信は、自分で「信仰の確信を持った」、「失った」という気持の問題ではなく、また同時に、神が義と認めて下さり信仰を告白したら、「信仰の確信」が確実なものになるものでもありません。神のご計画と私たち自身の気持ちとのバランスが、こうした信仰の揺れとなります。信仰の確信は、揺るぎなく一度持てばそのままではありません。ピューリタンたちも、信仰が揺らいでいました。
 そしてピューリタンは、信仰の確信は、養っていくもの・豊かにしていくものであるとの結論を得ます。それが「特別な啓示なしでも、通常の手段を正しく用いることにより、無謬の確信に到達することができる」と告白に至ります。通常の手段とは、通常の恵みの手段であり、御言葉・聖礼典・祈祷です。つまり礼拝に与ることにより、キリストに依り頼むように導かれ、救いの確信が増していきます。そうすることにより、信仰の実りとしての平和と喜び・神への愛と感謝、義務を果たす力と楽しさが与えられて行きます。その結果、予定に基づく信仰の確信は無謬であり、神の民を放縦へ誘うことはありません。

Ⅲ.恵みの手段……御言葉・聖礼典・祈祷
 礼拝に与り、御言葉・聖礼典・祈祷が求められます。
 御言葉によりキリストによる罪の赦しと救いがはっきりと示される必要があります(大教理問155、問159)。とりわけ、御言葉の奉仕者の責任は大きいわけです。
 聖礼典、特に主の晩餐により、キリストの十字架による罪の贖い、さらには神の御国における晩餐が指し示される必要が求められます(大教理問161)。
 さらに、祈祷における主なる神との豊かな交わりが求められます(大教理問178)。

Ⅳ.神の民の信仰は守られる!
 私たちが、御言葉・聖礼典・祈祷により頼みながらも、私たちはどうしても信仰が揺らぎ、弱まることがあります。信仰告白は第4節で4つの要因があることを挙げています。
 しかし現実には、ある人は教会から離れ、心が冷えて確信がなくなります。しかしだからと言って信仰がなくなったわけではありません。私たちも信仰が揺らぎ、確信が失われたり、動揺したりします。こういう時にも、神は救いへと予定しているキリスト者を、神が植え付けて下さっている信仰の種子、信仰の生命、キリストと兄弟への愛、心の誠実さ、義務感などがまったくはなくならないように残しおいて下さいます。そして御霊が働いて、適当な時に時至って確信を回復させて下さいます(参照:イザヤ54:7~10)。
 
              
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 「律法としての十戒 19:1-2」  マタイ22:37~40   2020.4.5
 
 Ⅰ.オルドサルティス:救いの秩序
 夕べの礼拝では、ウェストミンスター信仰告白の学びを続けています。今日から第19章、神の律法についてに入りますが、全体の枠組みについて確認しなければなりません。前半は、神・御子・聖霊の三位一体論的に語られ、その中に人間の全的堕落と恵みの契約における人の救いが語られてきました。特に第11章から聖霊論に入り、神の永遠の予定に基づいて聖霊によって義と認められ、神の子とされた者は、自らの罪を悔い改め、信仰を告白する者となることが語られていました。それが第16章の良き行いにつながります。
 しかし信仰告白は、神のご計画が無味乾燥に語られているのではなく、第17章に神の予定に基づく聖徒の堅忍があり、そのためにキリスト者自身は、信仰がグラつくことがあったとしても信仰が守られ、第18章の恵みと救いの確信の告白に続きます。

Ⅱ.主なる神と私たち
 その上で、神によって召され、罪を悔い改め、信仰を告白したキリスト者が、ではどのように信仰の歩みを行っていくのかが、この第19章以降告白されていきます。この時、主なる神と私たちの関係を、改めて確認しなければなりません。主なる神は天地万物を創造し、そして私たち人間に対して生命を与え、日々、必要を満たして下さるお方です。つまり創造主と被造物の関係にあります。そうであるならば、被造物である人間は、創造主である神に従うことが求められます。この時に主なる神は、人との間で契約を結んで下さいました。第一に与えられたのが「行いの契約」です(創世記2:16~17)。ここで主なる神は人に二つの約束を行っております。①園のすべての木から取って食べてよいこと。②善悪の知識の木からは食べてはならない。この刑罰は死であることです。
 このことを信仰告白は第1節で告白しています。アダムは、神から守ることの出来ない約束を課せられたのではなく、守る力と能力が与えられていたのです。にもかかわらず、蛇の誘惑により、罪を犯し、刑罰として死ぬ者となったのです。しかしこの約束は、神が最初の人であるアダムだけに結ばれたのではなく、かれのすべての子孫、普通に生まれてくるすべての人間に適用されます。別の言い方をすれば、創造主なる神の御前に、私たちは今でも主の被造物であることには変わりありません。そのため、「これは神がアダムと結ばれた約束であって、自分には関係ない」と語ることはできないのです。
 しかし、なぜアダムの罪の故に自分も死ななければならないのか、と思われることでしょう。これはアダムの罪が子に引き継がれ、「原罪」があるからですが、アダムの子孫である私たちも罪人であることが示すために、律法としての十戒が与えられました。

Ⅲ.罪人であることを知れ!
 第2節は続けて告白します。「神により、シナイ山の上で、十の戒めの形で与えられ、二枚の石の板に記された。その初めの四つの戒めは、神に対するわたしたちの義務を、残りの六つは、人間に対するわたしたちの義務を含んでいる」。主なる神は、私たちに十戒により、自らの罪を顧みるように求めておられます。
 ここで私たちは、マタイ19:16~22に記されている金持ちの青年から学ぶことが求められます。主イエスが青年に求められていることは愛です。行いだけではだめであり、主なる神は、あなたの口から発する言葉、心の中の思いまで見ておられます(参照:小教理問82)。
 私たちは、神の御前にあって、罪人であることを受け入れることが求められます。罪人であり、刑罰としての死を避けて通ることができません。それでもなお主なる神は、神の恵みによって救われると、私たちを神の御許へと招き入れて下さっています。

Ⅳ.律法に示されている神の愛
 この時に、改めて、私たちがキリスト者として、どのようて信仰生活を送るべきなのかが、問われてきます。神の戒めを完全に守ることができず、死に、そして滅びへと定められている私たちを、主なる神は、キリストの十字架によって罪を赦し、救って下います。この神の一方的な恵みに、感謝し、喜びをもって主なる神を愛し、主によって与えられた隣人を愛して生きることを求めておられます(マタイ22:37~40)。
 最後に改めて確認します。主なる神は、律法という掟を私たちに与え、掟を守ったら救うとお語りになっているのではありません。キリストの十字架により罪の赦しが与えられた私たちは、神の民として、神の御心である神の掟に従って生きることが求められています。ここにキリスト者の生きる喜びがあります。
 
            
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 「旧約の時代の律法 19:3-5」  ヤコブの手紙2:1~17   2020.4.19
 
Ⅰ.旧約と新約
 主のご計画に基づいて、主なる神は私たちを神の民へと有効に召し、それに従い聖霊の働きにより義と認め、神の子とし、聖化の歩みをお与え下さいます。私たちは聖霊の働きにより、罪を悔い改め、信仰を告白し、神の民として歩み始めます。この時、キリストを証しする良き行いへと促されますが、この時に、律法の働きを理解することが求められます。そこで信仰告白は第19章「神の律法について」を告白します。第1節では、神が最初に造られた罪のない状態の人間に与えられた生命の契約における律法について確認し、第2節では、アダムの堕落後に与えられた律法としての十戒が紹介されていました。
 そして第3・4節では、旧約における律法について確認します。私たちは聖書を読み進む時、どうしても旧約は私たちと関係ないことが語られていると思い、物語として読んでしまいます。しかし旧約と新約、まったく違ったことが語られているようであって、実は一つのこと、つまり罪人である私たちが救われるために、主の民は恵の契約が結ばれ、行いではなく信じることにより救いが与えられていることが一貫して語られています。
 私たちはこの時に、まったく異なったことが記されているように思う旧約聖書をどのように理解すれば良いのかを、律法について考えることにより理解することができます。

Ⅱ.儀式律法
 信仰告白は第3節で儀式律法について語り、「これらの儀式律法はすべて、新約のもとでは、今は廃棄されている」と語ります。儀式律法とは旧約における礼拝です。出エジプト記25章以降で幕屋建設が語られています。レビ記では、種々の献げ物、つまり生け贄について規定されています。また、アブラハムの時代に割礼が定められ、出エジプトにおいて過越が規定されました。儀式律法は、私たちの礼拝とはかなり異なります。
 そして儀式律法は「予型」であると語ります。旧約の民は、主によって与えられる救いの完成がどのようなものであるか示されていません。メシアがダビデの子として与えられることが約束されましたが、本体に対する影でありメシアの実体を見ることができません。しかし、儀式律法によりその全体像を理解出来るようにされていたのです。
 キリストの十字架と復活により、私たちは神による救いをしりました。直接復活のキリストに出会うことのできない私たちに、主の晩餐の礼典が与えられました。そして私たちが、旧約の儀式律法が廃棄されたことをはっきりと知ることができるのが、使徒言行録15章のエルサレム会議です。ここでの問題は、異邦人に割礼を施すことが必要か否かということでした。使徒たちは、信仰とはキリストにつながること、つまりキリストによって定められた水の洗いとしての洗礼によって救いへと招かれていることを確認したのです。そのため異邦人に割礼を求めない、旧約の規定は廃止されたんだ、と宣言したのです。

Ⅲ.司法律法
 信仰告白は続けて第4節で司法律法について取り上げます。そして「これら(司法律法)は、その民の国家と共に失効したから、今では、その一般的公正さが求めうる以上のことを、他のいかなる人にも義務づけることはない」と語ります。旧約においてのイスラエルは、主なる神がイスラエルを統治し、主の直接啓示がありました。そのため、主の御声に逆らう者に対して裁きとしての死があり、主に逆らう国に対しては聖戦が行われました。イスラエルの民が王を求め、主は王をお立てくださいましたが、なおもイスラエルの王は、主なる神の御声に聞き従うことが求められました。
 しかしキリストの十字架の死と復活が成し遂げられ、肉的なイスラエルがその役割を終えた今、司法律法もその役割を終えました。顕著な例が、新約においては、聖戦(聖絶)はありません。宗教改革文書やウェストミンスター(23:2)で合法的戦争について告白しますが、これは信仰に基づく迫害に遭っている時の抵抗権であり、限定的に用いる必要があります。合法的戦争と旧約における聖戦の微妙な違いを、理解しておかなければなりません。

Ⅳ.道徳律法について
 次に第5節では道徳律法について考えます。宗教改革の頃、「信仰義認」を語る時、道徳律法も新約になって廃棄されたと考える律法廃棄論者が出て来ました。彼らは、道徳律法を用いることにより、律法主義になると主張します。しかし道徳律法により、私たちの罪が示されるのであり、救いはキリストの十字架を信じることによります。そして良き行いは、信仰の実りです。詳細は、次回第6節の学びにおいて行うこととします。
          
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「道徳律法の効用 19:6-7」  ガラテヤ書3:21~29   2020.4.26
  
序.新約の民にも律法は大切である!
 ウェストミンスター信仰告白第19章、律法について学んでいます。第6節では、全的堕落の中、神の恵みによる救いに与った私たちにとって、律法とはどのような働きをするのかを告白します。最初の段落で、道徳律法は救いを獲得する手段ではない(律法主義ではない)、それでもなおキリスト者にとって律法は大切であり有益であることを確認します。

Ⅰ.第一の用法:市民的用法
 その上で、道徳律法には3つの役割があることを信仰告白は確認します。松谷先生の翻訳では〔第一に〕〔第二に〕〔第三に〕と付けて下さっていますので、分かりやすくなっていますが、私はさらに段落に分けて記させていただきました。しかし、ウェストミンスター神学者会議で採択された信仰告白では、このような区切りも、段落もありません。
 〔第一に〕で記されている第一用法は「市民的用法」と呼ばれています。天地創造の時にすべての人に与えられた感覚であり、罪を犯し全的に堕落した人間にも残っています。それが国家における法律となっています。殺してはいけない、姦淫してはいけない、盗んではいけない、偽証してはいけないといった十戒の第六戒から第九戒に関わる事柄です。
 ここで第二の板の中で、第五戒と第十戒を除きました。第五戒は忠義の問題、第十戒は心の問題です。こうした事柄は社会秩序の中で培っていく事柄であり、大きな意味では市民的用法として用いることができますが、国家が法としてこれらを用いる時、抑圧へとつながるので、注意しなければなりません。つまり通常、刑法において裁くことができるのは実行犯であって、信教・思想信条の自由等は担保されなければなりませんが、こうした所を裁こうとする時、これが国家的弾圧、信仰に対する迫害へとつながるからです。

Ⅱ.第二の用法:教育的用法
 〔第二に〕で記されている第二用法は、「教育的用法」と呼ばれています。つまり律法は、人にその罪を悟らせ(ローマ5:13、20、ガラテヤ3:10)、罪に対する神の怒りを宣言し(ローマ4:15、7:11)、罪、裁き、滅びの関係を明らかにします(ローマ8:2、3:19)。それは結果的にキリストによる救いを求めさせるように働く「養育係」としての機能を持ちます(ガラテヤ3:24~25)。
 ルターは、このことに気が付き、免罪符によって救いを売買していた当時のローマ教会を非難し、結果的に宗教改革を始めることとなりました。それが、1516年10月31日です。皆が罪人であり、神の恵み、信仰によらなければ救われないことを語ったのです。
 ルターのおこなったことは、神の御言葉である聖書から離れた所にある教会の権威に立っていたローマ教会に対しては、その誤りを正すということで、私たちはその信仰を敬称しています。しかし後のルター派教会は、ここで止まってしまいました。「信じれば救われる」のであり、キリスト者として生きる時の律法の存在を軽視しました。律法主義を恐れてのことです。しかしこのことは、結果的に律法廃棄論への道を開くこととなります。

Ⅲ.第三用法:倫理的用法
 しかし改革派教会では、キリストに倣う者として生きるキリスト者の生活、つまり良き行いについて考えました。その結果、「倫理的用法」と呼ばれ第三用法を告白します。
 つまり律法が示されることにおいて、全的に堕落しているため、行い・言葉・心において罪を犯し、救われないことが示されたキリスト者は、罪を悔い改め、信仰を告白します。しかしこの時、なおも日々罪を犯し続けることに対して、心苦しくなります。そのためにキリストに倣う者として、律法の御言葉に聴き、律法に従って生きる者、つまり良き行いをおこなう者へと変えられて行きます。つまり良き行いは、律法主義的な救いを獲得する手段ではなく、信仰の実りの結果です。このことがヤコブ書において展開されています。
 そのために、信仰告白は第7節の告白がおこなわれます。「以上に挙げた律法の用法はいずれも、福音の恵みと相容れないものではなく、かえってそれに見事に一致している。なぜなら、律法の中に啓示された神の御心が行うように求めていることを、自由に、喜んで行うよう人間の意志を従わせ、そうできるように、キリストの霊が、してくださるのだからである」。私たちは、聖書は全体像、つまり神の御国の完成を理解していなければならないわけで、神の国において、神の義・聖・真実をもって、罪が赦された私たちも、永遠の生命が約束されていることを考えると、すでにキリスト者とされた私たちは、キリストを証しする民として、律法に聞き従う良き業を行う生活が求められていることも理解して頂けるのではないでしょうか。
           
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「自由とは… 20:1」  テトス書2:1~15   2020.5.3
 
 
Ⅰ.自由を考える
 ウェストミンスター信仰告白、第20章「キリスト者の自由、良心の自由について」に入ります。契約の子どもにとりましては、クリスチャンであることが、自由ではなく、むしろ束縛だと思っておられる方もいるかと思います。日曜日には礼拝にでなければならない。「○○してはならない」…、自由よりも禁止事項に振り回されているのかもしれません。
 ウェストミンスター神学者会議の当時、「失楽園」を執筆したジョン・ミルトンは、当初、神学者会議に賛成していました。しかし、その後「結婚について、離婚について」の告白が提出されますと、自由恋愛ではなく、神学者会議を批判する立場に立ちます。
 また皆さんは「自由」と聞くとどのように思われるでしょうか? 多くの方は、自分の思うように、好き勝手にできること思われます。しかし、言論の自由のことを考えて見ますと、他人の人格を傷付けることも認められるでしょうか?これはヘイトであり、言論の自由からの逸脱です。基本的人権を尊重する上に求められる言論の自由であり、何を語ろうがまったくの自由であるという考えは間違っています。
 つまり、自由と語られたとしても、どのような意味で、どのような立場で認められている自由であるかということを、理解しなければなりません。

Ⅱ.キリストによって与えられた自由
 ウェストミンスター信仰告白は、「キリストが、福音の下にある信者たちのために買い取っておられる自由」であると告白します。私たちキリスト者に与えられている自由は、キリストによって与えられているのです。テトス2:14 「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです」。キリスト者の自由とは、キリストの十字架の贖いによって与えられたものです。
 そして、何から自由になるのかを、信仰告白は3つ挙げます。
①罪責・罪に定める神の怒り・道徳律法の呪い、からの自由と、
②かれらが、今のこの悪の世・サタンへの隷属・罪の支配から、また、さまざまな災いという悪・死のとげ・墓の勝利・永遠の裁きから、救い出されること、
③かれらが自由に神に近づくこと、および、かれらが奴隷的な恐怖心からではなく、子どもらしい愛と自発的な考えから、神に従順に従うこと、からなる。
 キリストの十字架における御業、これが私たちの罪の贖いとなり、私たちは罪・サタン・死から自由が与えられたのです。
 つまり、私たちは全的に堕落しており、罪の死に定められていましたが、キリストの十字架の御業により、死から解放され、罪の故の神の裁き、罪の刑罰としての死から自由にされたのです。「罪の奴隷」からの解放です(参照:ローマ6:15~23)。

Ⅲ.キリスト者の自由
 さらに信仰告白は続けてこのように告白します。「これらはみな、律法のもとにあった信者たちにも共通であった。しかし、新約のもとで、キリスト者の自由は、
  ①ユダヤ教会が服していた儀式律法のくびきからかれらが自由であること、
  ②恵みの御座にいっそう大胆に近づくことができること、
  ③律法のもとにあった信者たちが通常あずかっていたよりも、神の自由の霊をいっそう豊かに分かち与えられていることなどの点で、さらに拡大されている」。
 これは、新約の教会が旧約の教会よりも神の国、天国との交わりが豊かであること、つまり、罪の結果としての死からは完全に解放され、自由にされていることを語っています。
 このように考えて来た時、私たちは改めて、キリスト者として自由が与えられた時、私たちは何を行っても良いのかを考えなければなりません。私たちは、第19章律法についてを学び、第6節で律法の用法について告白しました。律法を破ることは、罪であり、本来滅びに直結することです。キリストの十字架によって勝ち取られた天国から遠ざかる行為です。だからこそ私たちはキリストによって与えられた天国の素晴らしさを知れば知る程、滅びに至る罪から離れ、神の義を行う者へと変えられます。これが聖化、良き行いです。
 だからこそ私たちは、キリストによって与えられた自由を確認するとき、改めて律法を学び、信仰の実りである善き行いへと促され、神の民として相応しい歩みへと導かれます。
 
            
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「良心の自由 20:2,3」  ヤコブ書4:11~12   2020.5.10
 
 序.
 第1節ではキリスト者の自由について学びました。何でも自由なのではなく、主なる神による自由であり、主の御言葉に聞き従うこと、律法にひれ伏す所に真の自由があります。
 
Ⅰ.第一に主に従え!
 次に「良心の自由」ついて考えます。「神のみが良心の主である」とウェストミンスター信仰告白は語ります。ここで2つの証拠聖句を挙げています(ヤコブ4:12、ローマ14:4)。「良心」つまり、私たちが何を基準に正しく生きようとすべきかと言う時、自分自身ではなく、主人・権力者・為政者でもなく、主なる神にあるのだと聖書は語り、告白します。
 そのため良心の自由を考える時に、聖書が語る上に立つ権威との関係を確認しなければなりません。ローマ13:1では「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と語られています。上に立つ権威者に従うことが常に求められているように思われます。しかし、「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです」とも語ります(13:4)。つまり、為政者が神に逆らうことを行っている場合、為政者に従うことは良心の主である神に逆らうことです。偶像崇拝を求める為政者には従ってはならないことを聖書は繰り返し語ります。ですからキリスト者は、為政者に従う以前に主なる神に従って生きようとするとき、為政者が過ちを行っているならば、主に従い、為政者に反対して生きることが求められます。
 つまり良心の自由を考えようとするならば、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と語られているように、主の御言葉に聞かなければなりません。主なる神が私たちに何を求めているのでしょうか。この時、自分の価値判断で行動してはなりません。社会の様子を伺い、周囲の人たちに倣っていてはなりません。私たちの判断は、常に主なる神が御言葉に従わなければなりません。そして先程お読みしたローマ書13章で語られていることは、上に立つ権威者が、主なる神のお語りになることに反しないことを行うに当たって、上に立つ権威が語ることには従うべきであると言うことです。
 
Ⅱ.聖書を理解し、考えよ!
 ですから「理解抜きの信仰や絶対的で無批判的な従順を要求することは、良心の自由と、さらには理性をも破壊することである」を理解することは重要です。これは教会に対して、そして為政者・権力者に対しての双方に対して語られています。まずローマ・カトリック教会においては、聖書の前に、教会の決定が重要視されています。そのため、聖書に規定されていない教会の決定で、免罪符が販売されるようになっていました。それがきっかけで宗教改革が発生したのです。御言葉から離れた所で教会が決定するならば、それは否定されなければなりません。こうしたことは、改革派教会・長老教会であったとしても、独裁者が出て来て教会を統治した時、発生します。
 ここで私たちが求められることは、個人が聖書の体系としての教理・信仰告白を理解した上で、聖書を読むことです。もちろん、その土台となります聖書の説き証しである説教、教理の学びを教会で行わなければなりません。そのための牧師の働きは重要です。しかし、宗教改革時のローマカトリック教会がそうであったように、教会であったとしても腐敗することがあります。改革派教会でも腐敗は持ち込まれます。だからこそ最終的には、万人預言者として個人個人が聖書を理解し、解釈することを行っていかなければなりません。
 教会、政治、また社会・企業であろうが、独裁的な者が現れた時、彼らは無批判的な従順を求めます。いわゆる恐怖政治です。すると、良心の自由も理性も破壊された状態に陥るのです(参照:ローマ14:23、使徒17:11、ヨハネ4:22)。苦しいながらも、周囲に合わせて生きる方が楽な道かも知れません。しかし、それは人間性を失わます。自分で聖書を理解し、実践すること、時として抵抗することが求められています。
 
Ⅲ.キリスト者の自由をはき違えるな!
 続けて第3節に移ります。良心の主である神の御言葉に聞き従わず、誤ったキリスト者の自由を主張して、自分勝手な生活を行う時、キリスト者として主なる神による救いを放棄し、破壊したものであると信仰告白は語ります(参照:ガラテヤ5:13、Ⅰペトロ2:16-17、ヨハネ8:34)。自由を口実に、罪を犯すことから離れなければ、神による救いを放棄し、破壊へと向かうことであることを忘れてはなりません。
 
             
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「神の定めと自由 20:4」  ローマ書13:1~8   2020.5.17
 
序.
 キリスト者として私たちが生きる時、罪から自由にされ、主の御言葉を第一にして生きることが求められていることを学んできました。この時に、為政者や社会に従わずに、関わることなく生きていて良いのかということが問題となります。つまり、宗教改革の時代、極端な人たちはアナ・バプテストと呼ばれる人たちですが、「キリスト者は国家から自由にされたのであり、一切国家が示すことと関わる必要がない」と考えました。それがアーミッシュやブラザレンのグループとなっていきます。この時に、ウェストミンスター神学者の立場はどうなのかが、第4節において告白されています。

Ⅰ.教会と国家の関係
 第3節では、主の御言葉に逆らう為政者に対しては、良心の自由を貫くために御言葉に従い、為政者に逆らうことが求められていました。しかしこれは例外事項であり、教会と国家の関係を整理して考えておかなければなりません。
 為政者が皆、信仰を持っているわけではありません。しかし、すべてを支配しておられる主なる神は、為政者をも支配しておられ、彼らも主の御声に聞き従うことが求められています(ローマ13:1、参照:ウェストミンスター信仰告白23:1)。そのため、キリスト者の自由を口実に、国家的なものに対して反対することを、ウェストミンスター信仰告白は正当化しません。
 しかし今の日本の為政者の多くは、主を否定する人たちです。彼らが行う靖国参拝は、明らかに偶像崇拝行為であり、教会は反対します。しかし、私たちにとって不都合なこと、例えば増税などが為政者によって定められても、個人的感情において反対することがあったとしても、教会としてそれに反対することはしません。一つの決議に反対しようとする時、私たちは主の御言葉に反することであるかを、慎重に確認することが求められます。
 そしてこの告白では「国家的なものであれ、教会的なものであれ」と告白し、時として、教会会議においても同様のことが求められていることを、信仰告白は告白します。

Ⅱ.教会における譴責・戒規について
 第4節の後半では、信仰的な事柄において違反することにより、教会の譴責と国家的為政者の権能において責任が問われることについて語られています。「国家的為政者の権能について」は、私たちの教会では削除しています。
 なぜならば、この信仰告白が告白されたウェストミンスター神学者会議は、国教会における長老主義を確立するための制度の下に作成されているからです。神学者会議は、英国国会の諮問機関です。誤ったことを行った時、教会または国家のいずれにおいて裁かれるのか、このことは神学者会議の中でも、時間をかけて話し合われました。教会の戒規権と国家における裁判権、両者の力関係も絡んできます。「すべての裁判権を国家が持つべきだ」と主張する人たちもいました。しかし、ピューリタンの大半は、信仰的なことは教会の戒規権に委ねられるべきであり、日常的な犯罪と区別すべきであることを主張しました。それでもなお、信仰告白では、信仰に伴う違反であっても、国家的為政者の権能によって裁かれることの余地を与える信仰告白となりました。
 ただこの規定に関して、米国長老教会において、国家的為政者の権能によって信仰的な部分を裁判にかけることは不都合であることを確認して、そして日本キリスト改革派においても削除し、信仰に基づく事柄を国家が裁くことを認めていません。
 一方、信仰告白は教会の譴責、つまり戒規権を認めています。教会における信仰、秩序から外れた時、やはり正されていくことは必要です。しかし、小さい教会において、譴責を行う時は、慎重でなければなりません。この時、教会における決議や教会運営に対して、瑕疵(かし)がないか、慎重に確認しなければなりません。十分な意思疎通が取れていないことにより、不満が爆発することもあります。譴責を行う立場となる小会(牧師・長老)の一人ひとりの信仰も問われてきます。教会はキリストの体を形成しているのであり(ローマ12:4-5)、そこに愛という血が通わなければなりません。聖徒の交わりです。愛・つまり聖徒の交わりが十分に行われていないと、不信感も相まって問題が生じてきます。従って、「キリスト者の自由」ということで、教会内で何を語っても良いことはありませんが、教会に集う一人ひとりが、教会の秩序に従って歩むことができるように、教会、特に小会は、教会員一人ひとりとの交わりを大切にし、血の通った愛の交わりが求められています。
         
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「真の神を礼拝する 21:1」  ローマ書1:16~23   2020.5.24
 
Ⅰ.本性の光
 神が人を創造された時、人は神を礼拝する存在としてつくられました。この時に、人間には「宗教の種」と呼ばれる神を求める心が備えられました。この宗教の種のことを、ウェストミンスター信仰告白では、"light of nature"「本性の光(以前の訳では自然の光)」この時、人は自然をとおして主なる神を求めることができました。自然により神が啓示されていたのであり、「自然啓示、一般啓示」と語ります。ですから罪の無い状態において、人間は神の御前にあって、常に神を礼拝する存在でした。
 そのため、ウェストミンスター信仰告白は、最初でこのように告白します。「本性の光は、万物に対して支配権と主権を持ち、慈しみ深く、万物に対して善を行い、それゆえに、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、畏れられ・愛され・たたえられ・呼び求められ・信頼され・仕えられるべき、神が存在されることを示している」(参照:ローマ1:19-20)。

Ⅱ.罪人
 しかし人間は善悪を知る木の実を食べることにより(創世記2:17)、罪が混入してきました。そのため人間に与えられていた宗教の種は正常に働かなくなり、本性の光を見失います。罪の故に曇らされ、神を求めようとしつつも主なる神と出会うことなく、別の神・偶像を求める者となりました。つまり、主なる神は自然をとおして主なる神御自身が顕されていますが、罪人はゴールにたどり着くことができません。そのため信仰告白は、「神は、人間のさまざまな想像や工夫、あるいはサタンの示唆に従って、何か目に見える画像や、聖書に規定されていない、他のいかなる方法ででも、礼拝されてはならない」と告白します。
 またローマ書では次のように語ります。「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです」(1:21-23)。この御言葉は、現代の社会に訴えている御言葉です。今、世界はコロナウィルス感染症に脅えています。主を求めようとせず、心が鈍くなり、自分の知恵・権力を誇る社会に対する、神からの警告です。私たちキリスト者の信仰が問われており、同時に権威者・為政者のあり方が問われています。私たちは、自分自身の発病を心配し、発病している人たちの癒し・医療従事者たちのことを祈りますが、これは対処療法にすぎません。キリスト者は、問題の根本的な原因である、人間が神を忘れて生きていることの問題を解決することが求められています。

Ⅲ.神の救いに生きる
 そのため、私たちは生きて働く主なる神を信じ、神を礼拝することが求められています。信仰告白は告白します。「この真の神を礼拝する、唯一〔神に〕受け入れられる方法は、神御自身によって制定されており、したがって神御自身の啓示された御心によって制限されている」。自然によって示されている自然啓示が理解できなくなった者は、特別啓示としての聖書の御言葉に聞かなければなりません。罪人である私たちに対しても、主なる神は、御言葉により本性の光をお示し下さり、主なる神をお示し下さいます。
 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されます。特別啓示としての聖書の御言葉は、福音を示します。「福音」とは喜びの知らせです。「教会に行くこと」、「神に頼ること」、「人と違った道を歩むこと」、「偶像を拒絶して生きること」……、異教徒の国日本に生きるキリスト者は、信仰の戦いがあります。しかしパウロは「わたしは福音を恥としない」と語ります。パウロはキリスト者として歩むことによって、多くの迫害に遭いました(Ⅱコリント11:23~28)。パウロが、信仰を貫くことができたのかは、キリストの十字架によって与えられる救いが指し示されていたからです。そして御言葉にこそ、神の力があります。神の約束、救いが、私たちに約束されています。
 そして聖書の御言葉によって指し示されている福音を信じる時、私たちに永遠の生命が与えられます。だからこそパウロは、「正しい者は信仰によって生きる」と語ります。今、私たちに特別啓示としての聖書の御言葉が示されています。私たち自身が、日々御言葉により福音が示され、日々罪を悔い改め、今の時代に語る言葉を獲得していくことが求められています。艱難の時代にこそ、主なる神は、私たちに語りかけておられます。私たちは改革派教会に属しています。日々、御言葉によって改革されることが求められています。
          
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「三位一体的神礼拝 21:2」  ヨハネ福音書5:19~30   2020.5.31
 
 Ⅰ.礼拝の対象としての三位一体の神
 第2節で、礼拝は「父・子・聖霊なる神」つまり三位一体なる神に限定されることを告白します。宗教改革の伝統を受け継ぐプロテスタント教会であれば、自明のことですが、異端やカトリック教会では必ずしも自明とは言えず、三位一体の神以外のものが礼拝の対象となっています。ウェストミンスター神学者会議は、カトリック教会を意識しています。
 カトリック教会では、マリア、天使、聖人が、イエス・キリストの仲保の業の位置が与えられ、崇敬されています。特にマリアに関しては、「聖母マリア」と呼ばれ、「天の女王」、「弁護者」、「助け主」と語られています。
 異端者たちは、御父・御子・御霊なる三位一体の神を否定します。御子の神性、聖霊の神性を否定します。神以外の者、つまり、統一協会は文鮮明が神格化されています。

Ⅱ.主なる神を礼拝する(方向性を確認しよう)
 私たちの礼拝の対象は、三位一体の主なる神お一人です。別の言い方をすれば、礼拝は自分を満足するために行くものではありません。礼拝説教により、罪の赦しと救いが宣告され、聖餐の礼典により神の御国の住民であることを確認することがゆるされています。同時に、礼拝は救いへの応答として、感謝し喜びを表します。つまり礼拝は、神の側から私たちへの働きかけがあり、私たちの側から神への応答があり、呼吸のようです。

Ⅲ.私たちが礼拝する神とはどのようなお方か
 では三位一体なる神はどのようなお方なのでしょうか? 主なる神は、人を創造されるにあたり「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創世1:26)とお語りになりました。「我々」とあり、三つの位格間に豊かな交わりがあります。また、ノアの時代に洪水を起こされるにあたり、主は、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められます(創世6:5~7)。つまり主なる神は、何も考えず意思ももたない、感情もない存在ではなく、互いに交わり、感情があり、愛があるお方です。
 また主なる神は、私たちの生活とまったくかけ離れた所に存在されているのではなく、私たちのすぐ側、私たちと共におられるお方、インマヌエルです(マタイ1:23)。
 だからこそ私たちが主なる神による救いを受け入れ、主なる神を礼拝する時、神御自身の内に喜びが溢れます。このことはルカ福音書15章に記されている3つのたとえ話によって明らかになります(見失った羊・無くした銀貨・放蕩息子)。特に放蕩息子においては、末息子が放蕩の末にすべてを失ってボロボロの状態で帰って来た時、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻します(ルカ15:20)。
 そして愛に満ちておられる神の御子は、私たちを救うために滅びの刑罰を担い、十字架に苦しみ、死を遂げ、墓に葬られ、陰府に降ってくださいました。そして三日目の朝に死に打ち勝ち、甦り下さいました。そして御子は、今も天において、私たちのために執り成して下さっています(ヘブライ7:24~25)。
 私たちは、このようなお方に礼拝を献げています。つまり、日曜日が来たから、家族が行くから、教会に行く、礼拝に出席するのではありません。天地創造の前から、私たちのことを覚え、救いへと御計画し、今も私たちのために執り成して下さっています。だからこそ、私たちが教会に来るとき天国での喜びとなり、私たちが神を忘れ放蕩をしている時、天国における悲しみとなり、教会に戻ってくることを祈り続けて下さっています。

Ⅳ.三位一体の神を礼拝する私たち
 私たちはイエス・キリストによる十字架の贖いを信じています。だからこそ、礼拝の中心はイエス・キリストです。しかし、私たちがイエス・キリストを礼拝する時、御子は御父と御霊と共に豊かな交わりにあるため、私たちはすでに御父との交わりに入れられ、キリストの喜びは、御父の喜びとなり、聖霊の喜びとなっています(ヨハネ5:19~30)。
 私たちが、三位一体なる神を礼拝していることを一番明らかにするのは、祈りです。私たちは、「父なる神よ。・・御子イエス・キリストの御名によりお祈りします。アーメン」と祈ります。私たちの祈りは、父なる神に届けられるため祈りが実現しますが、この時、御子イエスの御名により、聖霊を通して祈ります。この時、父なる神が、私たちの祈りを聞き届けて下さり、御子を介して、聖霊の働きにより、実現していきます。
 私たちは、愛に満ちたもう三位一体なる神を信じ、礼拝する所に、私たちの救いの本質があります。
 
           
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「礼拝としての祈り 21:3-4」  フィリピの信徒への手紙4章2~7節   2020.6.7
 
 Ⅰ.すべての人に求められる祈り
 信仰の有無に関わらず、人は苦しい時には祈ります。つまり祈りは、すべての人たちが、心の奥底に持っている宗教行為です。主なる神によって創造された時に神を礼拝する者として創造されましたが、罪の故に主なる神を信じることができなくなりました。それでもなお「神の像」は持っており、「宗教の種」が残されているために、信仰の有無にかかわらず、人は神を求め、神に祈りを献げようとします。
 この時に、私たちはどのような思いで神に祈るのかが問題です。つまり、「苦しいから助けろ、助けてくれたら信じてやる」という祈りが成立するでしょうか?神を、私たちの奴隷や召し使いにしてはなりません。そのため信仰告白は「感謝をもってなされる祈りは」と書き始めます。私の前に神を置くのではなく、私たちが神の御前にひれ伏すことが求められます(参照:フィリピ4:2~7)。

Ⅱ.三位一体なる神への祈り
 私たちが祈る時、祈りの対象は御父・御子・御霊なる三位一体なる神でなければなりません(信仰告白21:2)。三位一体の神に祈るとはどういうことか?祈りは神に祈られますが、具体的には父なる神です。そして祈りは、〔第一に〕御子の名によって、〔第二に〕かれの霊の助けにより、と告白されます。これを私たちの側から語れば、聖霊の助けにより、御子イエス・キリストの御名により、父なる神に祈り求めるということです。
 つまり私たちは三位一体の神と語りますが、それぞれの働きに違いがあります。父なる神は、すべてを御計画され決定されるお方です。御子は、私たち人間との仲保(仲介)者であり、私たちを執り成して下さいます。そして聖霊は、主なる神と私たちとをつなぐ働きがあります。三位一体の神の間に、それぞれの働きに違いがあり、順序があります。
 私たちが信じている三位一体の主なる神は、無機質な神ではなく、御父・御子・御霊の間に豊かな交わりがあり、感情を持っておられ、私たちを愛していて下さいます。だからこそ、罪を犯すと怒られ、私たちが神から離れと悲しまれます。そして私たちの苦しみを知っておられ、「祈りなさい。そうすれば、与えられる」とお語り下さいます(マタイ7:7)。

Ⅲ.御心に従う祈り
 信仰告白は続けて、〔第三に〕彼の御心に従いと告白します。先程も語ったとおり、私たちが神に祈り求める時、「祈りを聞き入れて下さい。そうであれば信じる」ではなく、「御心ならば、聞き入れて下さい」との祈りが求められます。つまり、主の御心に適わない、聞き入れられない祈りもあることを忘れてはなりません。
 なぜそうなるのか?例えば、怒りに覚えている人がいた時に「あの人を殺させて下さい」という祈りが聞き入れられるでしょうか? 主なる神は、私たちの罪をキリストの御業の故に赦し、お救い下さいました。私たちが罪を犯すことから守り、神の義を行い、神を証しして歩むことを求めておられます。そうであるならば、「あなたは人を殺してはならない」が、主なる神の祈りの答えとなるのではないでしょうか。
 また私たちの祈りに対して、「今はその時ではない」と「待て」と主が答えられることもあります。主なる神は、私たちの一番良い時を知っておら、時を定めておられます。苦難もまた私たちの信仰の養いのために、主が備えておられます(ローマ5:3-4、Ⅰコリント10:13)。
 だからこそ信仰告白は続けて〔第四に〕理解・畏敬の念・謙遜・熱意・信仰・愛・堅忍をもってと告白します。私たちが主なる神を理解し、主が私たちを神の御国へとお招き下さる堅忍の確信を持って、信じて祈ることが求められています。三位一体なる神を知り、信じ、委ねて祈り求めなければなりません。

Ⅳ.祈りに対する注意事項
 最後に2つのことを確認します。第一に「声に出して祈る場合には他の人にわかる言葉で、なされるべきである」です。ペンテコステ派において異言を語る人たちがいますが、彼らに対して語られています(参照:Ⅰコリント14:1~19)。
 もう一つは第4節、死者のために祈らないことです。カトリック教会では免罪符が売られており宗教改革が始まりました。また今でもカトリック教会は煉獄を定め、死者のために祈りを行っています。下記の2つの聖句を確認していただきたいと思います(サムエル下12:21~23、ルカ16:25~26)。また、死に至る罪を犯したことが知られている人々のために祈ってはなりません(参照:Ⅰヨハネ5:16~17、ルカ12:10「聖霊を冒涜する者は赦されない」)。
 
            
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「礼拝の要素 21:5」  テモテへの手紙二3章10節~4章5節   2020.6.14
 
序.
 私たちは信仰規準としてウェストミンスター信仰告白、大教理問答、小教理問答を用いています。これらウェストミンスター信仰規準が作成されたウェストミンスター神学者会議(1643-49)では、「公的神礼拝の指針」、「教会政治規準」も作成されています。ですから、現在、私たちの教会において、政治規準や礼拝指針が定められていますが、これらもまた宗教改革(ウェストミンスター神学者会議)で作成されたものが原点にあります。

Ⅰ.宗教改革:聖書を取り戻した礼拝へ
 ここで信仰告白は、礼拝指針において確認する礼拝の要素を列記します。カトリック教会との違いを明らかにするためです。ルターは、自分たちの言葉で訳された聖書がなかったため、聖書翻訳を行います。つまりカトリック教会においては、ラテン語訳の聖書しかなく、人々は聖書に何が記されているのか、ほとんど教えられていませんでした。聖画を用いて聖書について少し教える程度でした。
 そして現在でもカトリックにおける礼拝の中心は「ミサ」です。つまりカトリック教会では、ミサに与る聖体拝領(聖餐式に相当)が礼拝の中心です。聖体拝領に与ることにより、霊的に力が注がれることを大切にしました。そうすると、御言葉である聖書が読まれたり、それが解き明かされることは、行われなくなります。その結果、聖書に記されていないことが行われ、免罪符が発行されるようにまで教会が腐敗しました。
 そのためルターを初め宗教改革者たちは、聖書を自国語に翻訳すること、聖書の説き証しである説教を行うことを重視しました。そのためカトリックのミサ中心に対して、説教中心の礼拝となって行きました。

Ⅱ.礼拝の諸要素
 礼拝要素の最初に記されていることは「敬虔な恐れをもって聖書を朗読すること」です。自国語において聖書が翻訳されるべきであることは、第1章「聖書について」第8節ですでに確認しました。聖書朗読は、自国語、誰もが理解できる言葉で朗読されることが大切です。言葉も日々変化するため新しい翻訳が行われます。できる限り新しい翻訳聖書を用いていけばよいのですが、改革派教会全体の動きに合わせて、教会において理解を求めた上で、切り替えれることも考えなければなりません。
 次に「…御言葉の健全な説教と御言葉への傾聴」です。「説教において何が語られるかによって、教会が立ちもするし、倒れることもする」と語られ、礼拝における説教は重要です。つまり説教者がどのような説教を行うべきかが問題となります(参照:ウェストミンスター大教理問答問158、問159)。つまり聖書と教理の全体を理解し解き明かすことが求められます。この時、教理としての信仰告白の理解が大切であり、このガイドラインに従って、聖書が解き明かされ、説教されることが求められます。
 信仰告白は続けて、「心から感謝しつつ詩編を歌うこと」を告白します。カルヴァンは、説教にふさわしい賛美を求めました。つまり賛美において心が高揚すれば、御言葉じっくり聞くことができず感情的になってしまいます。それを避けるためカルヴァンは、礼拝にふさわしい賛美として詩編歌を整えました。それが、現在私たちが用いていますジュネーブ詩編歌です。現在では多くの讃美歌が作成されており、私たちも讃美歌を用いています。ですから、私たちの教会では、詩編歌と共に礼拝にふさわしい讃美歌を用いています。
 続けて聖礼典です。プロテスタント教会の聖礼典は①洗礼、②主の晩餐(聖餐)の2つです。カトリック教会では、秘跡「サクラメント」として7つ数えます。①洗礼、②堅信(信仰告白)、③聖体(主の晩餐)、④ゆるし(告解)、⑤病者の塗油(とゆ)、⑥叙諧、⑦結婚。聖礼典については、第27章~第29章において改めて学ぶこととなります。
 プロテスタント教会は説教中心ですが、説教と聖礼典、つまり御言葉の説教と、五感で味わう説教と言われる聖晩餐が礼拝の中心となります。聖餐式は大切ですが、毎週行うことによりマンネリ化します。そのため大宮教会では、原則月に一回聖餐式を行っています。
 最初に礼拝指針を紹介しましたが、信仰規準、政治規準とは異なり、あくまで指針です。「これ以外の要素が持ち込まれてはならない」とは語りません。ですから、その他の要素を加えることも、教会の判断によって許されています。そして宣誓や請願、断食を行うにあたっても、人間的な理由で行うのではなく、神礼拝として行うことが求められています。
 
             
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「礼拝の場所と時間 21:6-7」  ヨハネによる福音書4章7節~26節   2020.6.21
 
Ⅰ.神を礼拝するとは?
 最初に礼拝の場所について考える時、私たちの信じている主なる神がどのような方であるかということを考えなければなりません(参照:ウェストミンスター小教理問答問4)。神は形を持つ方ではなく、霊です。そして、時間を超えて存在されます。
 旧約の民の礼拝から確認します。族長の時代までは、祭壇を築き礼拝を献げてきました。それが大きく変化したのが幕屋建設です。「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」(出エ25:8)。神がイスラエルと共におられること、臨在されることであり、その象徴として、至聖所の中に契約の箱が安置されました。
 ソロモンによって神殿が建築されるときのソロモンの祈りにより新たに示されます。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(列王上8:27)。
 そしてこのことは主イエスの誕生の時に明らかになります。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『「神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1:23)。

Ⅱ.神は我々と共におられる
 「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:19~20)。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4:23~24)。そして主イエスは、十字架の御業を成し遂げ、天に昇られる時、お語りになります。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。 主なる神は、いつも私たちと共にいて下さいます。だからこそ、私たちは神を礼拝する場所を選びません。教会堂がなくても構いません。家庭であっても、また個人であっても、主は共にいて下さいます。そして、主なる神を礼拝することができます。

Ⅲ.礼拝の時間について
 次に、礼拝の時間についてです。礼拝の要素は前回確認したとおり、御言葉・聖礼典・祈祷が中心です。しかし、聖書はどれ位の時間、礼拝するべきか等、語りません。後述しますが、キリストの十字架の死からの復活が週の最初の日の朝であったことから、日曜日の朝に行われる習慣となっているに過ぎません。
 使徒20:7~12ではパウロが説教しています。この時、若者が眠りこけ、3階から落ちました。奴隷などは、日曜日も休日もありません。一日の働きを終えて、疲れている中、神を礼拝するために集められています。パウロは日曜日に働くことを叱責されることなく、むしろ一日働き疲れている中、神を礼拝することを喜んでいるのではないでしょうか。
 またこの時、パウロは夜明けまで長い間話し続けます。宗教改革時も2~3時間の説教が普通です。時代や場所の違いで、礼拝する時間も違いが生じてきます。

Ⅳ.安息日について
 最後に安息日についてです。安息日は、天地創造における主の安息に始まり(創世2:2~3)、第七日が安息日とされました。それが、十戒によって確認されています(出エジ20:8~11)。
 問題は、安息日厳守の律法主義が生じて来たことです。私たちは律法としての十戒が与えられた背景を忘れてはなりません(同20:2)。律法を守ることができるから救われたのではありません。全的堕落であり、律法を守ることができないことを分かっていながら、主なる神はイスラエルをお救い下さいました。そうであるならば、第四戒において、安息日厳守が命令された時も、神の救いに感謝して、安息日厳守する努力することは求められます。しかし、できなかったため裁かれることではなく、悔い改めが行われればよいのです。
 最後にキリスト教安息日のことを考えます。旧約の時代、安息日は週の第七の日でした。しかしキリストの十字架の死と復活があり、キリストの弟子たちは、週の最初の日(日曜日)に集まるようになりました。「キリストの復活から週の最初の日に変えられた。この日は、聖書では主の日とよばれており、キリスト教安息日として、世の終わりまで継続されるべきである」。新約の教会の最初から日曜日に礼拝が行われ、それが受け継がれている事実を、私たちも受け入れ、引き継いでいます。
              
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「礼拝への準備 21:8」  出エジプト記16章22節~30節   2020.6.28
 
 
Ⅰ.備えの一日
 月曜日から土曜日まで必死に生活し、日曜日を主の日として神を礼拝すること自身、ぎりぎりの生活をしておられます。また、日曜日すら休みを得ること無く、働かざるを得ない多くの人たちがいます。パウロが説教している中、眠りこけて三階から下に落ちて死んでしまった青年を、パウロは生き返らせました(使徒20章)。主を覚え、礼拝に出席すること自体を、パウロは喜んでいたのだと思います。
 そうした方々もいることを十分理解した上で、礼拝の備えについて考えます。出エジプト記16章にはマナについて語られています。22~30節は、安息日の前日・当日のことが記されています。主は荒れ野でのイスラエルの民に、必要な糧を毎日お与え下さいます。しかし安息日は異なります。前日に、安息日に食べる分も含め2日分のマナが与えられます。主御自身が、安息日に備えると言うことを、お示し下さっています。
 つまり、本来、主の日に行うことも、土曜日の内に行い、主の日は礼拝することに集中すべきです。体力的なことも鑑み、体調を整えることも必要です。礼拝奉仕者は、準備を前日までに終えておく必要があります。主の日の朝にバタバタ行うことを、主は求めていません。主の日は、霊と真理をもって神を礼拝することを求めておられます(ヨハネ4:23-24)。

Ⅱ.主の日の礼拝と奉仕について
 今日の説教題を「礼拝への準備」としましたが、準備と共に、主の日一日の過ごし方について語られています。主の日は「キリスト教安息日」であり、礼拝を献げるばかりか、肉体的な休息も必要です(参照:出エジプト20:10)。家族と共に過ごす時間も必要です。だからこそ日曜日に仕事を休むことをできる限り実践していかなければなりません。
 教会において熱心に奉仕して下さる方々に感謝します。しかし主の日一日教会の奉仕に追われることは、肉体的な休息はなく、家族の時間もなくなり、問題です。
 主は礼拝に出席することを求められます。しかし「礼拝に出席せねばならない」と語ると、多くの人たちがつまづきます。私たちは十戒の序文から考える必要があります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エ20:2)。主は律法を守ったら救うとは語られず、罪を赦し・救うから、神の民として律法に従いなさいとお語りになります。つまり礼拝に出席することは、罪の赦しと救いの感謝をもって行うことです。そのために努力も求められます。礼拝出席を求める時にはこのことを説明する必要があります。しかしこうした説明なしに、「礼拝に出席せねばならない」と語られた時、それは律法主義となり、契約の子どもたちにとってはつまづきとなります。
 教会では、教会活動を多く行うことにより教会が成長し、礼拝出席者が多いことで神の祝福に満たされているように思います。しかしそれは人間的な誘惑です。教会の本質は、キリスト者が喜びをもって神を礼拝し奉仕することです。礼拝出席や奉仕が、喜びとなっているか、他の教会員や子どもたちにつまづきとなっていないか確認する必要があります。そして、教会員や子どもたちが、喜んで礼拝に出席し、奉仕することができる教会にするために、小会は話し合い、実践していくことが求められています。

Ⅲ.娯楽の問題
 信仰告白は、「この世の仕事や娯楽についての自分たち自身の業・言葉・思いから丸一日清い休息を取るだけでなく」とも告白します。主の日は、仕事を休むと共に、娯楽についてもこの日に行わないことを求めています。これは現代的に非常に難しい問題です。
 ここで語られている本質は、仕事にかこつけ礼拝を休むことがないように、娯楽にかこつけ礼拝を休むようなことをしないことです。そうしたことは、平日に行うべきです。
 問題は優先順位です。主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)とお語りになります。
礼拝よりも優先させることであるならば、主なる神の御前に悔い改めつつ、そうしたことに従事すべきであり、礼拝を欠席する自己正当化して、錦の御旗にしてはなりません。
 私たちは、キリストの十字架の御業の故に罪が赦されました。救いが与えられています。この事実を確認し、救いの感謝の表れが神礼拝です。礼拝に出席するために準備し、礼拝に出席するために体調を整える必要があります。その上で、礼拝に出席し、神礼拝を献げ、丸一日を安息日として休息する思いをもって、過ごすことが求められています。
 
               
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「神礼拝としての宣誓 22:1~4」  申命記10章12節~22節   2020.7.5
 
序.
 今日からウェストミンスター信仰告白第22章「合法的宣誓と誓願について」に入ります。宣誓に関して、アイルランド箇条である位で、他の信仰告白ではあまりありません。そういうことでは、この章も第18章、第20章と共に、ピューリタンの信仰と言えます。

Ⅰ.聖書が語る宣誓
 聖書は誓いに関して語ります。申命記10:20-21 「あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である」。レビ19:12 「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない」。
 一方、主イエスは誓ってはならないと語られます(マタイ5:33~37)。「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。……」。宗教改革時代の再洗礼派やその後のクエイカーなどは、この御言葉を根拠にして宣誓を拒否しました。
 しかし、このマタイ福音書の御言葉はバランス良く理解することが求められます。つまり、当時、通常に生活の中にあって人々が容易く誓いを立てていたことに対して(マタイ23:16~22)、主イエスは容易く誓わないように語られたのです。事実主イエスも裁判を受けておられる時、誓うことが求められ、拒否されることはありませんでした(マタイ26:63~64)。また、パウロは神を証人に立てて、命にかけて誓っています(Ⅱコリント1:23)。また、ヘブライ6:16~18でも語られています。
 こうしたことから、神の御名において宣誓することが正当であることを語ると同時に、信仰告白は第2節において、「みだりに、あるいは、軽率に誓うことや、ともかく何か他のものによって誓うことは、罪深いことであり、嫌悪されるべきである」と語ります。

Ⅱ.神への誓い
 そして3節に移りますが、「宣誓を行う場合、かくも厳粛な行為の重大さをしかるべく考慮すべきであり、宣誓においては、自分が真実であると完全に確信していること以外には、何事も、真実だと言明してはなりません」。つまり神の御名によって宣誓を行うのであって、軽い気持で宣誓を行うことによって、神の御名を蔑むこと、あるいは神の御名を淫らに唱える第三戒違反となることがないように、しなければなりません。
 3節後半では、「また、いかなる人も、良く、正しいこと、自分がそうだと信じていること、そして、自分が果たすことができ、また果たそうと決意していること、意外の、いかなることにも、宣誓によって自分を拘束してはならない」と語ります。使徒23:12~15のパウロを殺すまでは飲み食いをしないと誓いを立てた人は、これに該当します。
 教会において直接的に誓いが行われるのは、受洗の誓約、結婚の誓約、教会役員の誓約があります。いずれもが神の御前に行われる重大な誓いであり、誓約を行う時には、それまでに慎重に進めなければならないことが、ここからも明らかになります。

Ⅲ.宣誓は厳粛さが求められる
 最後に4節を確認します。「宣誓は、用いられる言葉の、明瞭で、通常の意味において、あいまいさや意中留保なしに、なされるべきである」。このことは、当時のローマカトリックにおいて、意中留保が認められていたため、宣誓する人が、不誠実に宣誓を行うことがあったということから、告白されています。
 「宣誓は人に、罪を犯すように強いることはできないが、しかし、罪ではない、いかなることにおいても、いったんなされたならば、たとえその人自身が損失をこうむるとしても、果たすことを義務づける」。これはヘロデがヨハネを殺すと娘に誓ったことです(マルコ6:17~28)。ヘロデは望んでいませんでしたが、娘との約束を果たし、ヨハネを殺しました。
 そして最後、「宣誓は、たとえ異端者や不信者に対してなされたとしても、破られてはならない」と告白します。つまり誓いが、人間相互において行われたとしても、主なる神の御前にあって行われている事実を忘れてはならず、相手がだれであろうと、誓ったことに対しては誠実に実行することが求められます。
                
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「誠実に行う誓願 22:5~7」  コヘレトの手紙4章17節~5章6節   2020.7.12
 
 
序.
 ウェストミンスター信仰告白、第22章「合法的宣誓と請願について」は、ピューリタン的な信仰告白ですが、誓いと願いについて信仰を告白し、主なる神の御前に誠実に実践していこうとする信仰は、私たちも否定するものではなく、むしろキリスト者として厳格に生きようとする姿勢の表れであることを確認しなければなりません。また宣誓と請願は、共通する所が多く、先週の学びを確認しつつ、今日告白を学ぶこととします。

Ⅰ.神への願い
 主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。……だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。……あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(マタイ7:7~11)。ここだけを読めば、私たちは神に何を願い求めてもよいように思います。しかし今日の信仰告白では、第5節「誓願は、……信仰的な注意をもってなされ、同様の誠実さをもって果たされるべきである」と告白します。つまり、私たちが主なる神に祈り求めること、願いを行うにあたって、自分の求めることを思うがままに祈って良いのではありません。
 コヘレトの手紙5章では、願い、誓いを行う場合、言葉数を重ねることなく、本当の必要を求め、また達成できる努力をもって祈ることが求められます。そのため、必然的に言葉数が多くなることはありません。このことは、主イエスも語られています。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:7~8)。

Ⅱ.一度願ったことは、簡単には取り消されない!
 信仰告白は続けて第6節「誓願は、いかなる被造物に対してもなされてはならず、ただ神に対してのみなされるべきである。……誓願によってわたしたちは、必要な義務や、それらの義務の遂行に適切に役立つかぎりで他の事柄に、自らをいっそうきびしく拘束するのである」と告白します。願い事は個人間で行われることもあります。しかし、どのような願い事でも、主なる神の御前に明らかにされないようなことはなく、常に主なる神の御前に祈りをもって願い求めることが必要です。
 ここの証拠聖句で挙げられている申命記23:22~24には、誓願の定義が語られています。
「唇に出したことはそれを守り、口で約束した誓願は、あなたの神、主に誓願したとおりに実行しなさい」。口約束は、「言った」、「言わない」の問題になりかねません。しかし、
主なる神は、私たちの行いのすべて、口から発せられる言葉のすべて、そして心の中のすべてまでもご存じです。私たちは主の御前に隠し立てすることはできません。そのため、私たちは、口約束であっても、たとえ心の中で誓ったことであったとしても、主なる神の御前には、果たすことが求められ、後から無かったことにすることはできません。

Ⅲ.無理なことを約束してはならない!
 第7節「いかなる人も、神の言葉において禁じられていること、神の言葉において命じられている義務の遂行を妨げること、あるいは、自分の力にあまり、しかもそれを成し遂げる能力を神から約束されていないこと、などを、果たすと誓願してはならない」。ここの証拠聖句として、2つ確認しておきます(使徒言行録23:12~14、マルコ6:26)。神が律法において禁じていること行うこと、神が求めていることを妨げることは、許されません。つまり、罪を犯す約束(共謀)などは、認められません。
 信仰告白は、カトリック教会で行われている聖職者の独身について批判します。彼らは、マタイ19:12、Ⅰコリント7:32を拠り所としています(カトリックのカテキズムより)。カトリック教会では、近年、聖職者の性的な事件が世界中で問題となっていますが、果たすことのできないことを誓っているからです。
 ウェストミンスター信仰告白の証拠聖句をいくつか確認して起きます(マタイ19:11,12、Ⅰコリント7:2,9,23)。聖書は、結婚しない独身の男がいてもよいわけで、そのことにより、パウロのように主に喜ばれる働きを行う人がいることを語ります。しかし、聖職者が独身でなければならないことを、聖書は語りません。罪を犯す可能性があるのであれば、結婚を行うことにより、家庭を持つことの方が、主の栄光を称えることができるのです。
                 
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「国家的為政者 23:1」  ローマの信徒への手紙13章1節~7節   2020.7.19
 
 序.
 教会と国家の問題は、ローマ帝国からの迫害と国教化の時代から常に考えられてきたことです。両者の間には権力争いもありました。ウェストミンスター神学者会議に出席していた神学者にもエラストス主義者がいました。彼らは最高権力は国家にあると主張し、裁判権は国家にあると主張しました。こうした中、信仰告白は、この章を告白しています。

Ⅰ.聖書における国家の誕生
 国家の誕生に関して、私たちは聖書から確認することができます。バベルの塔が建設され、その結果主の裁きとして主が言葉を混乱させられました(創11章)。その直前(10章)で、ノア(セム、ハム、ヤフェト)の子孫が記されています。ノアの子孫が世界に広がっていくと最中、言葉が分かたれることにより分断され、国家が形成されていきました。
 つまり、国家が誕生したのは人間の罪の故です。ただ、私たちは国家が悪で、教会が聖であるとする聖俗二元論になってはなりません。教会も国家も、それを担っているのは、全的堕落した人間です。教会もまた罪に汚れ、サタン化する恐れもあります。だからこそ、教会は戒規を整え、教会の中の腐敗の除去を心がけ、神のもっておられる義・聖・真実を実行するために務めるのです。教会と国家は、統治の範囲が異なります。
 そして、旧約におけるイスラエルは、主なる神の統治の下に歩んできましたが、彼らも周辺諸国にならい王を求め、そして国家を形成することとなります。モーセの時代に約束の地に戻って来たイスラエルに、主は12名の士師を与え統治させますが、イスラエルが王を求めたのです(サムエル記上8章)。イスラエルが王を求めたのも、罪の結果です。

Ⅱ.為政者に従うこととは……
 教会と国家との関係を、ウェストミンスター信仰告白は2つの証拠聖句を挙げています。一つ目が、ローマ13:1~4です。罪の結果、生じて来た国家ですが、これらもまた神に由来していることをパウロは語ります。別の言い方をすれば、人間が罪の中に生きていれば、社会は無秩序となり、全面的に滅びに向かいます。そうした中で、主なる神が国家を定めることにより、様々な弊害、悪政も行われますが、社会の秩序を保つことも行われます。そのために、主は、上に立つ権威に従うことを求めています。
 そしてもう一つの証拠聖句がⅠペトロ2:13,14です。ここにおいて、隣人愛を行うことにより、どのような人たちにも愛をもって言動すること、そして愚かな者たちにも同様の愛の言動を行うことにより、彼らの愚かさ、罪を顕わにすることが求められています。
 これらのことを信仰告白は語ります。「全世界の至上の主であり王である神は、御自身の栄光と公共善のため、御自身のもとにあって、国民の上に立つ、国家的為政者を定めておられ、そしてこの目的のため、善良な者は守り励まし、悪を行う者は処罰するように、国家的為政者に剣の権能を帯びさせておられる」。

Ⅲ.信仰と政治の諸問題に対して
 しかし現実には、主に逆らい悪政を行う為政者や王も少なくありません。私たちキリスト者はどのように対処すべきか?「だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです」(ローマ13:5)。ウェストミンスターは、第20章「キリスト者の自由と、良心の自由について」の第2節で「神のみが良心の主であり、神は、いかなることにおいても、その御言葉に反する、また、信仰や礼拝にかかわる事柄の場合には、その御言葉にない、そのような人間の教説と戒めから、良心を自由にされた」と告白しています。つまり、主が私たちに求めておられることから離れた行為、政治において罪が行われている場合、私たちはキリスト者として、それを拒否し、抗議することを行うべきです。
 この時に、政教分離原則に関して確認します。つまり政教分離原則は、為政者の側が、自らの権威により、宗教を支配することが禁じられているのであり、宗教の側から政治に対して、正しい道を外れたこと抗議や修正を求めることは、許されています。
 最後に思想信条の自由についても確認します。教会が抗議声明などを発表することは、個人の思想信条を縛ることであり、キリスト者個人が行うべきだと言ったことが語られます。しかし、神の求めに反することを教会が反対声明を行う時、個人の思想信条さらには選挙の自由までは奪いません。ただ、主の御言葉に逆らったことを行う政党を、支持していることを理解しなければなりません。教会と国家の問題、新しく古い問題です。教会においては、繰り返し確認していかなければならない問題の一つです。
                  
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「為政者の職務と合法的戦争 23:2」  マタイ福音書8章5節~13節   2020.7.26
 
序.
 今日取り上げる、ウェストミンスター信仰告白第23章2節は、合法的戦争を認めるということに関して、大会的にも注目される信仰告白です。

Ⅰ.キリスト者が為政者と成り得るか?
 しかし今日の信仰告白を学ぶにあたって、前半の告白を切り離して考えてはなりません。キリスト者が為政者の職務に召されるとき、それを受け入れて遂行することは、合法的である。この告白が作成された背景には、その後にアメリカに渡っていき形成されるアーミッシュですが、信仰告白作成当時の17世紀のイングランドでは、アナ・バプテストと呼ばれたグループに属していました。彼らは、国家は俗に属し悪であるとして、聖に属する教会とは分離されなければならないと考えました。いわゆる聖俗二元論の立場です。彼らは独自の社会を形成し、文明も否定した自給自足の生活をする人たちです。そのため、政治に関わることを行わないばかりか、戦争にも関わろうとしませんでした。
 キリスト者が為政者の職務に関わることは、前回も確認しましたように、イスラエルの民が王を求めた時、主がそれを認めてサウル王をお立てくださったことにも表れています。ウェストミンスター信仰告白は2つの証拠聖句を付します(箴言8:15~16、ローマ13:1,2,4)。

Ⅱ.キリスト者為政者の務め
 続けて信仰告白は、為政者の職務内容にまで踏み込みます。このことは第1節において確認したように、為政者もまた、主なる神の支配の下に与えられた働きだからです。
 ここで2つのことを確認します。第一に法律にのっとり職務を行うことですが、この時「健全な」という言葉を付け加えます。すでに整えられている法律の中に、主の教えに罪とされること(たとえば偶像崇拝を求めることなど)は、それら遂行してはなりません。
 第二に「特に敬神と正義、平和の維持に努めるべきで」す。ここに主なる神が私たちに対して、そしてこの世に対して願っておられることが語られています。まず、主なる神を敬うことであり、主の御言葉に聞き従った政治を行うこと、そして正義を貫くことです。この世は、私利私欲に生きる人々に満ちています。そうしたことを改めよと語っています。そして最後に平和の維持です。国内的には、すべての民の平等と尊厳が保たれることが求められ、人権を確立することです。他国との間では平和であり、和解・対話が求められています。人権と平和を求めていることは、日本国憲法における基本原理(国民主権、基本的人権の尊重、平和主義)の原型が、この短い告白に意図されているということです。

Ⅲ.合法的戦争
 最後に一番問題とされている合法的戦争についてです。「合法的に戦争を行うことができる」ことが強調されます。しかし信仰告白は「それで、その目的のために」と語ります。主語は「為政者」ですが、原文では第2節全体が一文であり、「キリスト者が為政者の職務に召された時」の為政者です。つまり合法的戦争を行うに時、その判断が求められているのは「キリスト者である為政者」です。このことを確認することは重要なことです。
 マタイ8:9,10が証拠聖句として挙げられています。百人隊長の信仰告白と共に、戦争のために兵士を送り出す命令も行います。この時に、主イエス御自身も、彼の信仰を称賛し、同時に隊長が兵士に戦争へ行く命令を出すことをも認めておられます。
 つまり合法的戦争であるか否かの判断は、キリスト者である為政者が行うべきであると、信仰告白は語ります。ですから日本において、合法的戦争か否かの判断を、為政者に委ねることはできず、教会がその判断を慎重に行わなければなりません。
 最後に合法的戦争のための判断基準を確認します。「その目的のため」とあり、「それぞれの国の健全な法律にのっとり、特に敬神と正義、平和の維持に」務めなければなりません。そのため正義と平和の維持を目的とした戦争は、非常に限定的であるべきです。
 一般的には抵抗権です。迫害され生命の危険が迫っている時です。第二次大戦中の日本の植民地にあった韓国・朝鮮・中国・台湾などがそれにあたります。
 現在日本に立てられている為政者は偶像崇拝者です。そして主がお語りになる律法に従った政治を行っていません。そうした中、戦争が合法的に行われるのかの判断は、非常に慎重に吟味しなければなりません。
 そのため、合法的戦争について議論されるとき、私たちは、ウェストミンスター信仰告白が語っていることを正しく理解した上で、議論していかなければなりません。
          
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「教会と国家の権能の違い 23:3」  歴代誌下26:16-23、マタイ16:13-20   2020.9.6
 
 Ⅰ.国教会制度と自由教会制度
 今日は第23章「国家的為政者について」の第3節を学びます。日本キリスト改革派教会はウェストミンスター信条を採用していますが、すべてをそのまま採用しているわけではなく、教会と国家に関する箇所(20:4、23:3、31:2)は、修正・一部削除を行っています。
 その理由は、ウェストミンスター信条を作成した当時の教会と現在の私たちの教会との違いがあるからです。ウェストミンスター信条を作成した同神学者会議は、1643~49年に、イングランド国会の神学的諮問機関として開催されました。この時、イングランド、スコットランド、アイルランド三王国において「厳粛な同盟と契約」が結ばれ、「教理・礼拝・規律・政治の点で、スコットランド教会の改革された宗教を保持すること」を目的とすることが決議されました。当時のスコットランドは、改革派長老主義の教会を国教会とした政治体系でした。ウェストミンスター神学者会議は、イングランドにおいてもそうした国教会を立てるために、会議を行っております。つまりイングランドの国民全体が、国教会に属する教会が前提です。
 改革派長老主義の教会を立て上げるということでは、私たち日本キリスト改革派教会も、同じ方向性を持ち、ウェストミンスター信仰規準を、そのまま受け入れています。しかし、日本の教会は国教会ではありません。日本では、不十分でありながらも政教分離が認められています。国家、為政者が、一宗教に関与・影響を与えることが認められていません。そのため、国家との関わりがある箇所は、日本の教会では受け入れられず、別の告白に書き換えなければならないことが生じてきます。そして日本キリスト改革派教会は、アメリカの教会において、すでに変更された本文を採用しました。

Ⅱ.教会に与えられた礼拝と鍵の権能
 信仰告白の最初の部分「国家的為政者は、御言葉と聖礼典の執行や、天国の鍵の権能を、自らのものとしてはならない」は変更されていません。信仰告白は、先程お読みした2つの聖書個所を比較して読むことを求めています。
 歴代誌下26章では、ユダの王ウジヤについて語られています。ウジヤは神の恵みにより、強い軍隊を持ち成功者となりました。ところが彼は勢力を増すとともに思い上がり堕落し、自分の神、主に背きます(16)。彼は主の神殿に入り、香の祭壇の上で香をたこうとします。彼は、教会に与えられている権能を、自らが支配しようとしたのです。そのことを、主なる神は祭司アザルヤにより、罪を指摘し、そしてウジヤ王は主の裁きとして、死ぬ日まで重い皮膚病に悩まされ、王権が剥奪され、神殿にも近づくことすら許されませんでした。
 一方、マタイ福音書では、ペトロに鍵の権能が授けられることが語られています。つまり、教会の入会・脱退(洗礼・戒規・除名…)は、教会に与えられていることを確認しており、改革派教会では、牧師と長老によって行われる小会に与えられた権能としています。
 ウェストミンスター神学者会議の中でも、「教会政治における国家主権の優位性を唱え」、「鍵の権能は国王にある」とする主張するエラストス主義者もいましたが、ウェストミンスター神学者会議は、礼拝を行うこと・鍵の権能は、主なる神から教会に与えられたもので、国家・王がそれを奪うことはできないことを、告白しました。
 これが政教分離原則であり、国家が宗教を支配してはなりません。政教分離原則は、教会が国家に抗議することが禁じられているのではありません。

Ⅲ.信教の自由と政教分離の教会の告白と実践
 そして、本文の2行目「しかし」以下に告白されていることは、国教会だからこそ告白できることです。キリスト者である王、国家的為政者が、教会の秩序を保つために教会会議を招集して、神の御旨にそったものとなるように配慮する権能を認めます。しかし、これは王が教会を支配するのではなく、教会会議における決定は、あくまで教会に与えられた権能であり、その内容まで王が介入することは許されていません。
 いずれにしても、自由教会制度である日本においては認められない制度であり、アメリカにおける改訂文を、日本キリスト改革派教会は第4回大会において決議しました。こうした早い段階で改訂文を採用したのは、この問題の重大性を認識していた結果です。
 そして、「イエス・キリストはその教会に正規の政治と訓練とを定められたので、どのキリスト教教派の自発的会員の中での・自分自身の告白と信仰に従うその正当な行使を、どの国家のどのような法律も干渉したり、邪魔したり、妨害したりすべきでない」と告白します。戦時中、国家儀礼ということで、礼拝の中で、宮城遙拝を行い、君が代を歌っていた日本の教会においては、同じ過ちを犯してはなりません。政教分離原則を貫く強い意志を私たちは持たなければなりません。
           
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「国民の義務 23:4」  ローマの信徒への手紙13章1~7節   2020.9.13
 
 序.
 教会と国家の関係は、旧約聖書の時代に始まり、常に問題となってきております。そして問題を問題として考えるのか、それともそれに蓋をして考えないようにする、国家・政治の問題に関わらないようにするのか、二つの対応に分かれています。

Ⅰ.国民の義務
 ウェストミンスター信仰告白では、教会と国家の関係を真剣に考え、そして国家のことに関わる市民の義務にまで踏み込んで考えます。信仰告白は最初に「為政者のために祈り、かれらの人格を尊び」と告白します。為政者が異教徒であろうと、敵対している者であったとしても、彼らのために祈ることを求めます。それは第1節で確認したように、彼らもまた、主なる神によって立てられた権威者だからであり、主イエスも「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とお語りになっているからです。
 そして、「かれらに税を納めなさい」と告白します。主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)と語り、同様のことをローマ13:6-7も語ります。
 続けて信仰告白は、「良心のゆえに、かれらの合法的命令に従い、かれらの権威に服することは、国民の義務である」と告白します。当時も急進派の人たちの中に、国家は罪で有り、国との関わりから離れて生活しようとする人たちがいました。彼らに対して、国家から離れて生活するものではないことを、ここで告白します。 しかしここでの告白では、「良心のゆえに」という言葉があることが重要です。つまり国家の命令に対して、あくまでも良心のゆえに従うのであって、無批判に従うのではありません。偶像に仕えることを要求すること・人々を虐げること・戦争する行為に対して、無批判に従ってはなりません。

Ⅱ.為政者が異教徒であろうとも
 そしてこれらの理由を信仰告白は、「為政者の不信仰や宗教上の違いは、かれらの正当で法的な権威を無効にはせず、また、かれらに対する当然の従順から国民を解くこともない」と告白します。そして証拠聖句としてペトロ一2:13,14,16を挙げています。ペトロは、直前の2:12で「異教徒の間で立派な生活をしなさい」と語っていることに意味があります。為政者がキリスト者であろうと、そうでなかろうと、主がお立て下さった権威者に従うことを、主が求めておられます。

Ⅲ.国家の権能に介入してはならない!
 そして最後の部分、「また、かれらに対する当然の従順から国民を解くこともない。教会人*といえども、この当然の従順から除外されず、まして教皇は、為政者たちの領土において、かれらやかれらの国民の一部を治めたりしていない」は、宗教改革当時の状況を表している表現です。当時、教会と国家の関係を考える時、ローマとカトリック教会との間の権力抗争にも関わってきます。今まで「教職者」と訳されてきた言葉を、松谷先生は「教職者〔特に高位聖職者をさす〕」と訳し変えられました。ここにカトリック教会が国家に持っている特権意識があります。日本でも「上級国民」という言葉も用いられ、特権階級・特権待遇がある人たちがいることが語られていますが、まさに、そうした特権意識が、教会の聖職者、これは特にカトリック教会の中でもありました。ウェストミンスター信仰告白は、そうした特権意識を持ち、一市民として行わなければならない義務を拒否することは、キリスト者・牧師は、持ってはならないと告白します。
 そして最後に信仰告白は、「たとえ教皇が為政者を異端者と断定し、あるいは、他のどんな口実を設けても、かれらからその領土や生命を奪い取るといった、そのような権能と管轄権を何ら有していない」と告白します。教会が一人の為政者をキリスト者として戒規を課すこと、または異端者として教会から追放することもあります。しかし、そのことをもって、彼が為政者の職を奪われることはあってはならず、彼が治めている土地を、教会や教皇、あるいは教職者のものとして取り上げることはできません。
 ウェストミンスターが告白していることは、教会としての権能は、キリスト者一人ひとりの信仰に伴う事柄に関しては持っており、国家がそれを奪ってはならず、同時に、為政者が有している権能(納税や財産権)を、教会が奪い取ってはなりません。
 教会と国家における権能の違いは、当時と異なる点もありますが、私たちもウェストミンスター信仰告白を受け継いでいることを、私たちは学びました。その上で私たちは、30周年記念宣言や教会と宗教に関する問答集で、学び続けることが求められています。
            
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「聖書が語る結婚 24:1-4」  創世記2章18~25節   2020.9.20
 
 Ⅰ.ウェストミンスター信仰告白の歴史的背景
 ウェストミンスター信仰告白の学びも、第24章「結婚と離婚について」に入ります。ウェストミンスターが結婚と離婚のこと告白するのは、いくつかの理由があります。
 宗教改革のプロテスタント教会は、信仰の故にカトリックから独立したり、プロテスタント内で分離した教会が多いのですが、英国国教会は違います。英国国教会の成立は、王であるヘンリー8世の離婚問題を端に発しています。ヘンリー8世は、キャサリンを妻としていましたが、子どもに恵まれませんでした。それをきっかけに彼女と離婚し、宮廷の侍女アン・ブーリンとの結婚を望んでいました。しかし、ローマ教皇の承認を得ることは出来ませんでした。そのためヘンリー8世は、ケンブリッジ大学教授のトマス・クランマーをカンタベリー大司教として、キャサリンとの結婚を無効とし、アンとの結婚の合法性を認めさせました。このことに対して教皇がヘンリー8世を破門としたため、1534年国王至上法(首長法)を発布して、ローマから分離した英国国教会が誕生しました。
 ウェストミンスター神学者会議は、英国国会の神学的諮問機関であり、英国国教会とはどういう信仰の教会であるかを再定義することです。つまりヘンリー8世の離婚問題にも絡むことです。それは同時に、国教会として、ここで作成されている信仰告白が、英国の国法・法律として施行されることを目的としているということです。こうしたことを背景にして、神学者会議は信仰告白を作成していることを私たちは忘れてはなりません。

Ⅱ.結婚とは、その理由は(1~2節)
 ウェストミンスター信仰告白は創世記2:24の御言葉により一夫一婦制を告白します。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(2:24)。このことはカトリック教会との相違はなく、異教文化の根ざした一夫多妻制、一夫多夫制の否定です。
 しかし、旧約聖書では一夫多妻について繰り返し言及します。ヤコブが2人の妻、2人の女奴隷から12人のイスラエルを形成したことは有名です。ダビデ王、ソロモン王も同様です。しかし、これらは神が認めておられるのではなく、奴隷制度や男尊女卑と同様に罪の結果であり、それを許容しておられるに過ぎないのです。そのため新約聖書では、「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」(Ⅰコリント7:2)と語ります(参照:Ⅰテモテ3:2)。
 信仰告白は第2節で結婚の理由を告白します。ここに3つの理由が述べられています。第一が最も重要な理由であり、互いに助け合うためです。結婚は、自己満足、競い合うものではありません。関心、思いやり、心配りが求められ、創世記が語るように、真に一体となることが求められます(エフェソ5:28、Ⅰコリント13:4~7)。第二に家族を持つことです。しかし、子どもがいない夫婦も少なくありません。彼らは主の裁きにあっているのではなく、配慮が求められます。そして第三に性的欲求を満たすことです。性的欲求を満たすためだけに結婚するのは、動物と化しています。また、パウロも語ることですが、結婚を行わず、独身のままでいることも語ります。しかし、結婚が主なる神が定めて下さった清い規程であることを、私たちキリスト者は理解しておかなければなりません。
 その上で、現代社会における風潮にも流されてはなりません。同棲や未婚者の性的行為が許される風潮があります。主なる神は十戒の第七戒において「姦淫してはならない」と語り、旧約聖書全体において、性的乱れに対して、園罪が厳しく斬罪されています。

Ⅲ.結婚が許される人たち(3~4節)
 第3節では結婚相手について告白します。結婚は「主にあって」すべきです。そして、信仰告白では、不信者や教皇主義者としてのカトリック教徒との結婚はすべきではないと語ります。日本においては、どうしても未信者との結婚が少なくありません。そのため、この告白は厳密に守ることは困難です。ただし未信者、特に別の宗教を信じている人との結婚は、信仰を貫くことが非常に困難であり、信仰の戦いが強いられます。
 第4節ではレビ18章に基づき、近親相姦を禁じています。しかし改革派教会は、最後の一文を削除しました。つまり、配偶者が亡くなった後、配偶者の兄弟・姉妹と結婚することが認められないことを告白していますが、これは、ウェストミンスターの時代の事情があったことだと思われます。ウェストミンスター信仰告白をとおして結婚と離婚のことを学ぶことは、現代社会に生きる私たちに対して、改めて信仰のあり方を問いかけています。
             
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「聖書が語る離婚 24:5-6」  マタイ19章1~12節   2020.9.27
 
 序.
 ウェストミンスター信仰告白は、結婚と離婚についても告白します。前回も確認したことですが、ウェストミンスター神学者会議の母胎である英国国教会自身が、国王の離婚問題において誕生したのであり、そのことに触れざるを得ないと言ってよいかと思います。

Ⅰ.離婚もまた、主の御前に明らかにされる
 結婚は、主において行うのであり、それが結婚の誓約を神の御前に行うことに表れています。つまり結婚は、夫と妻との間の契約ですが、主神にも交わしていることを忘れてはなりません。そのため、自分の都合で離婚すること(マタイ19:7、申命記24:1の引用)は許されません(マタイ19:8-9)。つまり、奴隷制度や男尊女卑、一夫多妻(信仰告白24:1参照)などは、罪の結果であり、主なる神が許されていたことではありません。主はそうした事柄を許容されていたにすぎません。だからこそ、本来は理由もなく離婚状を渡すことは認められないのだと、主イエスはお語りになります。

Ⅱ.離婚の第一の理由:姦淫
 しかし、まったく離婚が許されないかと言えば、そうではありません。相手が姦淫の罪を犯した時です(5節前半)。主イエスが御降誕される時、聖霊によって身ごもったマリアを、夫のヨセフは縁を切ろうとしていたのは、まさにこのことです(マタイ1:18-20)。
 聖書では、教会とキリスト者との関係を、夫婦の関係に置き換えて語ります(エフェソ5:21-28等)。不倫を行うことは、偶像崇拝を行うことと同じであり、夫婦の関係性が破綻していることを意味しています。だからこそ、離婚の理由になるのです。

Ⅲ.離婚の第二の理由
 そしてもう一つの離婚の理由を信仰告白は語ります。6節「人間の腐敗は相当なもので、神が結婚において結び合わされた者たちを不当に引き離すために、さまざまな理由を挙げるのに腐心しがちであるが、しかし、姦淫、もしくは、教会や国家的為政者によってもどうしても救済できない故意の遺棄、以外の、いかなることも、結婚のきずなを解消するのに十分な根拠とはならない」。「教会や国家的為政者によってもどうしても救済できない故意の遺棄」とは、証拠聖句にあるⅠコリント7:15では、信者でない配偶者が離れていくことを語ります。しかしそれだけではありません。救済できない故意の遺棄として、DV、家庭内暴力、アルコール依存症、ギャンブル依存症等も挙げることが出来るかと思います。
 DVなどに関して、今までは離婚が認められることとして、教会はあまり考えて来ませんでした。しかし、ウェストミンスター信仰告白を読めば、ここまで踏み込んで語ってもよいかと思います。主なる神は、私たちに生命をお与え下さるために、救いをお与え下さいました。家庭において、こうした拘束・束縛・隷属状態にあるならば、そこから解放されることも、主が求めておられます。

Ⅳ.その他のこと
 最後に、信仰告白において告白されている中、残されていることを確認します。第5節「離婚後に、罪を犯した側が死んだかのようにして、別の人と結婚することは、合法的である」。離婚が認められた者が、再婚を行うことが阻まれる理由はありません(参照:ローマ7:2-3)。
 そしてもう一つ、第6節「結婚のきずなの解消にあたっては、公的で正規の手続が遵守されるべきであり、問題の取り扱いが、当事者たち自身の願いと裁量にまかされてしまってはならない」。証拠聖句を確認します。申命記24:1~4「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない」。離縁状を書いたら離縁できると簡単に考えてはならないことを先程語りましたが、同時に、離婚の場合には、離縁状を書き、正式な形式を整えることが重要であることを語ります。つまり、正式には家庭裁判所における調停等があるかと思いますが、教会において、あるいは親戚や共通の知人などが間に入り、なんらかの正式な手続き、合意が必要です。結婚が主の御前に行われたように、離婚も主の御前に明らかにされる形で行われることが求められています。
 
              
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「天国の教会 25:1」  エフェソ1章   2020.10.4
 
序.
 ウェストミンスター信仰告白の学びも、第25章「教会について」に入ります。第24章「結婚と離婚について」で、夫と妻がキリストと教会の関係であることを確認しました(エフェソ5:22-25)。そのことに呼応するようです。

Ⅰ.キリストの下にある教会
 一般に、教会とは教会堂や組織された教会について考えるかと思いますが、改革派信仰では神の国(天国)もまた教会と表現します。つまり「地上の教会」に対して「天上の教会」です。「地上の教会」のことは「目に見える教会・戦う教会・途上の教会」とも語りますが、「天上の教会」は「目に見えない教会・祝福された教会・完成された教会」と語ります。信仰告白は、第1節で天上の教会、第2節以降で地上の教会について告白します。
 信仰告白は、教会は公同的・普遍的であると告白します。公同的とは'catholic'です。天国の教会は「カトリック教会なのか」と思われるかも知れませんが、「カトリック」とは、「ローマ・カトリック教会」の専売特許ではありません。教会が公同的であり、普遍的であるとはどういうことかを、信仰告白は確認して行きます。
 教会は、頭であるキリストの下にあります(エフェソ1:22-23、5:22-25)。教会を考える時、時として「○○牧師の教会」、あるいは「改革派教会」と語ります。しかし教会とは、キリストを花婿とするキリストの教会です。このことを確認すると、私たちがどのような教会を建て上げるのかということを考えることとなります。キリストがお語りになる聖書の御言葉に聞き従う教会です。キリストがお集め下さる神の民を受け入れる教会です。神の民が、キリストによる救いの喜びに生きる教会です。常に主体は、主なる神、御子イエス・キリストであって、牧師や小会が主体となることはありません。つまり、私たちがどのような教会を作り、伝道していくかではなく、キリストが私たちにお与え下さった救いと恵みに感謝と喜びをもって、キリストを誉め称え、証しする教会となることが大切です。だからこそ、裁き合うのではなく、赦し合い、和解する教会でなければなりません。

Ⅱ.場所を持つ天国
 そして天上の教会の特徴は、次の告白において顕著に言い表しています。「過去・現代・未来を通じて、一つに集められた選びの民全員から成る」。天上の教会は、キリストの再臨と最後の審判によってもたらされる神の御国によって露わにされます。そこには、一つの場所が用意されています。天国は、空想や霊的な場所であって、形あるものであることを否定する人がいるかも知れませんが、そのように考えてはなりません。このことを証しするように、主イエスは「あなたがたのために場所を用意しに行く」(ヨハネ14:2)とお語りになります。また新天新地について語られています(黙示録21:1-4)。

Ⅲ.すべての神の民が集う場所
 そして天上の教会は、過去・現代・未来を通じて、一つに集められた選びの民全員から成ります。つまりアダムとエバの時代に始まり、旧約のイスラエルの民、主イエスの時代の弟子たち、そして新約に生きる私たち、時代を超えて一同が集まります。そして全世界の人々が集います(黙示録7:9-12)。
 またここに集められるのは選びの民全員です。主なる神が救いへと御計画し、信仰を告白した者、契約の子どもたちのすべてが集められます。信仰を告白しながら教会から離れた者はどうなるのか?信じながら、信仰を告白する機会がなく、肉の生涯を終えた者がどうなるのか?と言われます。しかし私たちは、最終的には主なる神に委ねればよいのです。
 この天上の教会は、公同的・普遍的な教会です。地上においては、聖書の読み方、教会形成の違いにより、教派が分裂し、大宮にもいくつもの教派の教会があります。しかし、天上の教会は一つです。地上における分裂もなくなり、和解し、一つの公同的・普遍的な教会があります。私たちは改革派教会としてのこだわりが必要ですが、もう一方において、教派を超えてキリスト者としての一致と共同を心がけることも求められています。

Ⅳ.キリストと一体なる教会に属する私たち
 そして信仰告白は最後に、「すべてにおいてすべてを満たしているキリストの、花嫁・体・満ちておられる場である」と告白します。教会は、キリストと一体であり、キリスト抜きにはあり得ないことを表現したものです。そして、教会抜きには、私たちの信仰も成り立たず、キリスト者であれば、教会に属する信仰共同体、聖餐共同体に属していることを、私たちは確認しなければなりません。
               
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「地上の教会 25:2-3」  エフェソ2:11~22   2020.10.11
 
Ⅰ.地上の教会
 第1節では完成された神の国(天国)における祝福が、目に見えない教会であると告白しました。私たちは、この目に見えない教会である神の国を目指して歩むわけですが、同時に目に見える教会である地上の教会にも属していることを第2節以降で告白します。
 キリスト者の中には、「自分は聖書を読んでいる」、「神を信じている」、「それで良いではないか」と語り、教会に来ない人もいます。これは個人主義的な信仰です。主は神の家族が集う地上の教会が形成されることを求めておられ、地上の教会に集う者が、天上の教会に集います(エフェソ2:19、同3:15)。
 私たちが地上において生きる意義が問われています。十戒は2つの板に記されました。十戒の要約がマタイ22:37~39に示されています。主なる神は、神さまを信じて、信仰を持てばそれで良いとは語られず、金持ちの青年は主イエスに叱責されます(マタイ19:16-22)。神さまを信じる人たちとの間で、隣人を愛して生きることを求めておられます。そして主がお与え下さった賜物を用い、互いに助け合って生きることを求めておられます(Ⅰコリント12:12-13、ローマ12:1-2)。ですから教会のことを、「信仰共同体」と語ります。神さまを信じる者たちが集う共同体を教会は形成します。さらに、教会のことは聖餐共同体とも語ります。キリスト者は皆が、主の御前に洗礼を授かっており、主の晩餐の礼典に与ることにおいて、キリストにあって一つであることを確認します。

Ⅱ.教派性と公同の教会
 教会が聖餐共同体であることをお語りすることにより、地上の教会もまた、公同的であることの意味を理解して頂けるかと思います。つまり、私たちは「日本キリスト改革派教会」と名乗っているように、多くの教派に分かれています。プロテスタントにおいても、大きなグループに分けても、改革派・長老派、ルーテル、福音派、聖公会……とあります。さらにカトリック教会、正教会等も存在します。教派間には信仰の一致はありません。しかし、御父・御子・御霊なる三位一体なる神を信じ、御子でありつつ人となられたイエス・キリストを信じ、キリストの十字架による罪の赦しを信じています。ここにおいて一致があります。このことにおいては、教派を超えても大方の一致があります。それ故、地上の教会のことを、「公同的、あるいは普遍的である」と告白しています。
 この時に、私たちは教派の存在を確認しなければなりません。日本基督教団は、神の摂理として受け入れ、合同教会を形成しています。しかし私たちは戦後、教団から離脱し、改革派教会を設立しました。なぜならば、教派における教理の違いを克服することなく、合同すれば、教会に一致が保つことができず混乱を招くからです。ですから、私たちは、信仰の一致を求めつつ、近い教派間において、協力し合い、合同の道を模索すべきです。ですから改革派教会は、信仰の違いの解消を考えることのないエキュメニズム運動にはくみしませんが、同時に改革派エキュメニズムに向けての働きかけは必要です。
 信仰告白は、2節の後半で教会に属する者に救いが与えられることを告白します。カトリック教会も同様の信仰をもっており、教会に属さない者には救いがないと解釈し、生まれたばかりの幼児に対して、死ぬのを待たなければならない状態においては、助産師に洗礼を授ける権威を与え、洗礼を授けていましたしかし、ウェストミンスター信仰告白は「通常の可能性はない」と語り、洗礼を受けなければ100%救われないとの立場に立ちません。通常主から信仰が与えられた者は、信仰告白に導かれますが、その機会が与えられなかった人たちのことも考えます。誰が救われるかは、最終的には主なる神の御業であると信じているからです。そして教会は主からのその職務を与っているにすぎないのです。

Ⅲ.福音宣教
 最後に第3節を確認します。地上の教会を建て上げるにあたり、牧師職の働きが大きいことを信仰告白は語ります。牧師が、互いに一致した教理を持ち、理解し、その上で説教を語らなければ、教会に一致は生まれてきません(参照:エフェソ4:11~13)。
 そして教会では聖書と神の諸規定(礼典)が重要です。つまり教会においては、牧師により説教され、御言葉の解釈の一致が与えられ、主の晩餐における一致を確認することが、大切です。ここにキリストの現臨と聖霊の働きがあり、地上の教会を形成します。この教会こそが、見えない教会である天国の教会につながっています。
                
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「腐敗することもある地上の教会 25:4-5」  マタイ13:24~30   2020.10.25
 
 序.罪が混入する地上の教会
 私たちキリスト者は、地上の生涯において、罪赦された罪人であり、完全聖化は地上の生涯を終えなければ与えられません。すべてのキリスト者が罪人であるならば、必然的に地上の教会も罪を無くした完全な状態にすることはできません。そのため地上の教会は、常に罪が混入することがあり、欠けがあることを避けて通ることができません。

Ⅰ.福音の教理を必要とする教会
 ここで信仰告白は、どのようにすれば罪が混入することなく、神の国に相応しい純粋な教会を形成することができるかを告白します。宗教改革の旗印の一つに「聖書のみ」があります。しかし聖書だけでは純粋な神の教会を形成できないことを語ります。私たちは「聖書のみ」と「教理の必要性」の違いを、理解しておなければなりません。
 宗教改革において「聖書のみ」と語る時、聖書の他に、正典となるもの、聖画・形づくられたものを用いることが禁じられており、宗教改革の時代であれば、ローマ・カトリック教会における聖画や聖像、異端者に対しては別の経典を求めることを禁じています。
 しかし信仰告白が「福音の教理を教える」ことを求めるのは、聖書とは別の経典を持つことではありません。旧新約聖書66巻が唯一の正典です。ただし聖書を解釈するのは罪赦された人間であり、解釈に誤りが生じて来ます。聖書を誤って解釈する時、教会に異端者が現れ、教会の純粋さが乱されます。その時に教会は自らの信仰の立場を表明しました。これが信仰告白・カテキズムであり、こうした福音の教理を教会が教える時に、腐敗が取り除かれ、純粋な教会を形成することができます。

Ⅱ.諸規定の執行
 そして続けて信仰告白は諸規定が執行されることを告白します。これは戒規のことです。
 この時に、どのように戒規が執行されるのかを考えなければなりません。「福音の教理の教えに従っているか否か」ということです。これは信仰に関わることで、異端者に対する裁きです。具体的には、三位一体・二性一人格を否定することです。また聖餐における未陪餐会員や未信者に対する陪餐も教理に関わることです。こうした問題は、教会が立つか倒れるかの重要な問題であり、教会は教理に従って判断することが求められます。
 次に倫理的な事柄に対してです。ここでも聖書の教えに基づいて裁かれることが求められます。この時に、十戒をどのように理解するかが問題となります。ここで聖書の御言葉から離れた律法主義となってはなりません(参照:マルコ7:5~13)。「今まで教会が行っていたから」、「教会の秩序だから」という言葉は、主イエスが指摘された律法主義そのものです。彼らの過ちは、律法を理解せず、自分たちで戒律を付加したことです。そのため、十戒の序文と要約(マタイ22:37-40)を理解することは大切です。序文「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」。
 つまり教会において戒規を執行しようとする場合、明確に十戒に確認した上で、どのような罪があるから戒規を執行するのかを明確に規定しなければなりません。

Ⅲ.主の御言葉に従うことによって与えられる健全な教会
 それでもなお、教会には罪が残り、混合と誤りのいずれも免れず、教会の中には堕落して、キリストの教会ではなく、サタンの会堂になり果てることもあり得ます。黙示録2章・3章には7つの教会が紹介されています。いずれの教会も弱さを担い、そしてキリストによって叱責を受けます。それでもなおキリストは、各教会に対して、「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」とお語り下さり、「勝利を得る者は……」とお語り下さり、神の民に対して、主から恵みと祝福が与えられることを語ります。
 だからこそ教会は、信仰規準に学び続け、教会憲法としての教会規程に習熟しなければなりません。しかし私たちが自らの力で、サタンの業に打ち勝つことはできません。主によって裁きが与えられる時を待つことが求められます(マタイ13:24-30)。判断に迷うこともあります。こうした時に、教会は無理に判断するのではなく、むしろ主なる神に判断を委ね、教会は祈りつつ、真実が明らかになる時を待たなければなりません。主が定めておられる時が来た時、主は必要に応じて、サタンの働きを教会にお示し下さいます。
 教会は、サタンの会堂にならないために備えなければなりません。そのために、主の御言葉に照らされ、御言葉に聞きつつ、福音の教理としての信条に学び、必要な時に戒規が執行できるように準備しておくことが大切です。
                 
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「教会の頭はキリストである 25:6」  コロサイ1:16~18   2020.11.1
 
序.
 地上にある目に見える教会は、福音の下では公同的・普遍的であることを告白しますが、なお罪赦された罪人が形成する教会であり、誤りが混入し、堕落したり腐敗したりします。

Ⅰ.プロテスタント教会におけるローマ教皇の位置付け
 1517年に始まった宗教改革の最晩年にウェストミンスター信仰告白が作成されました。宗教改革は、ローマ・カトリック教会が免罪符の販売によって腐敗したことによって始まった運動です。そのために宗教改革の教会はローマ教会とは敵対し、殺し合いすら行っていました。フランスのユグノーはローマ教会からの激しい迫害に遭い、多くのキリスト者・牧師が殉教の死を遂げました。こうした時代だからこそ、ローマ教皇のことを「反キリスト、すなわち、あの不法の者、滅びの子である」とまで告白します。
 日本キリスト改革派教会もローマ教会の様々な教理を受け入れることができません。マリアを聖母マリアとして崇まず、聖人を認めません。旧約聖書続編を正典とは認めません。しかし私たちはローマ教会のことを「反キリスト」とは語りません。むしろ、三位一体なる神を信じ、キリストの二性一人格を受け入れる正当なキリスト教会として認めます。

Ⅱ.ローマ教皇
 ローマ教会では、ローマ教皇は使徒ペトロの後継者としての地位が与えられていることを主張します。その根拠は、主イエスがペトロに天国の鍵の権能を授けたことです(マタイ16:17-19)。しかし6世紀頃からは、「キリストの代理者」との称号も与え、世俗権力をも有するようになり、腐敗していきました。
 そしてローマ教会は、ローマ教皇をトップとする教会の権威を主張してきました。そのためローマ教会が行う公会議の決定は、何より重要とされてきました。それに対して、プロテスタント教会は「聖書のみ」を語り、主イエス・キリスト以外に、教会の頭はないと告白します(参照:コロサイ1:18、エフェソ1:22)。

Ⅲ.教会政治
 教会に反キリストが混入しないために、教会は教会政治を考える必要があります。
 第一は、ローマ教会や聖公会が採用する監督主義政治です。監督が、優秀な人であり、教会政治に通じている人であれば、教理に基づく健全な教会運営が行われます。しかし監督者が独裁者となり教会を支配する危険性も秘めています。
 次に、エラストゥス主義と呼ばれる国家によって教会統治が行われる教会形態です。ウェストミンスター神学者会議にもエラストゥス主義者がいて、激しい異論を唱えます。ウェストミンスター神学者会議は、国教会としての長老主義教会を建設しようとしますが、戒規権を国家に権能を置くことに、神学者会議は激しく抵抗し、エラストゥス主義を拒絶しました(参照:第30章「教会譴責について」や第31章「シノッドとカウンシルについて」)。
 次に独立教会制(会衆主義政治)です。ウェストミンスター神学者会議においても、独立主義者がおり、彼らの流れが福音派教会を形成することとなります。会衆主義は、民主主義に通じて現代的のようですが、教会の中で分派が生じると権力闘争が起こります。すると人が作る教会となり、主の願い、福音が離れる危険性も秘めています。
 そして改革派教会では長老主義政治を採用しています。使徒言行録15章に記されているエルサレム会議により、按手された者たちによる会議において、教会が決議することにより正式な教義を採択したことは、重要な聖書の証言です。

Ⅳ.長老主義政治
 長老主義を行うことの前提は全的堕落です。教会の中にも罪が混入することが前提です。そのため、本人の召命の意思と共に、教会の承認という客観的召命が与えられた按手された牧師と長老による複数の者が、教会政治を行います。この時、牧師も長老も同じ立場で、たとえここに罪が混入したとしても、多数決で決議することにより、罪が排除します。
 それでもなお、教会には罪が混入します。そのために各個教会に委ねられている議会権能の上に中会・大会と段階的に会議が設置され、罪の除去を行うシステムとなっています。
 教会の頭は主イエス・キリストです。そのために、主の栄光が称えられることが求められます。しかし同時に、教会に集められる一人ひとりは、罪赦された罪人であり、互いに、罪を赦し、和解しなければ、キリストの栄光を称える聖徒の交わりを行うことができません。律法主義になることなく、神の御国の救いの喜びが満ちたキリストの福音がみなぎる、神の民の誰もが、平安をもって集うことのできる教会形成をすることが求められています。
                  
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「聖徒の交わり 26:1」  エフェソ4:1~16   2020.11.8
 
序.
 私たちは、今コロナ禍にあり、礼拝後の交わりや諸集会、愛餐会等を行うことができないことにより、聖徒の交わりがどれだけ大切であるかを肌で感じています。

Ⅰ.「教会について」に続く「聖徒の交わり」
 第25章の「教会について」では、目に見える教会(地上の教会)は、罪の故に混合と誤りが入り込み、純粋ではないこと、教派に分裂してきたことを学びました。それに続き、第26章で「聖徒の交わりについて」を学びます。これは「目に見える教会-これも福音の下では公同的、あるいは普遍的である」(25:2)と告白したこととつながります。つまり、教会がどのようにして公同的であり続けるのかは、教会形成と共に、聖徒の交わりが大切であり、求められていることを、ここで告白します。

Ⅱ.神との交わりの回復
 交わりは、縦(神と私)の一対一の関係が最初に扱われ、後半で、横(キリスト者相互)の交わりが語られます。交わりの源泉は三位一体の神にあります(創世記1:26等)。御父と御子、御父と聖霊、御子と聖霊の間に、密接な交わりがあります。「愛の交わり」です。この愛の交わりが、神の子とされた私たちキリスト者にも与えられています。
 そして神と私たちの関係は、私たちの信仰によって回復します。つまり私たち人間は、罪により神との交わりが断たれ、死と滅びの道を歩んでいました。この関係が回復するために、神の永遠のご計画があり、それが聖霊により私たちに有効に召命されることにより、義認・子とすること・聖化に伴い、私たちに罪の悔い改めと信仰が与えられます。
 そして、神と私たちとの交わりの根拠は、イエス・キリストの十字架の御業にあります。キリストが人となられ、私たちに代わって十字架の苦しみ・死・復活を遂げて下さったことにより、私たちに罪の赦しが与えられ、神との交わりが回復しました。つまり、私たちが教会における横における聖徒の交わりを語ろうとする時、神との関係、縦の関係が各々回復していることが必要なのだということを、信仰告白は語ります(参照:エフェソ3:16~19、同2:5~6)。

Ⅲ.聖徒の交わり
 続けて信仰告白は、横の関係を告白します。聖徒の交わりは、各々が神との交わりにあることが前提であることを確認して来たわけですが、キリスト者相互にあっても、愛において互いに結ばれていることが求められます。このことは、十戒の要約として語られているマタイ22:37~40において確認することができます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
 隣人との交わりは、キリストとの交わりに基づく愛の交わりであり、だからこそ、互いに罪赦された者同士が、キリストにあって赦し合い、和解し、交わりを形成することが求められます。律法学者が語るように「お前はあれができていない、これができていない」と語り、「それができなければ、あなたは救われない、交わりの回復はない」と語るのは、各々が行うべき神との関係の回復、和解が行われ、愛の交わりが与えられていることを否定する行為です。
 愛についてパウロは次のように告白します。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(Ⅰコリント13:4~7)。そしてこのことは、主イエスの金持ちの正典に対する言葉に置いても確認することができます。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(19:21)。主イエスは、彼に、隣人への愛が欠如していることを指摘されました。
 教会は、互いに愛をもって聖徒の交わりを育み、互いに主に仕えて奉仕を行うことによって、キリストの体としての成長が与えられて行きます(参照:エフェソ4:12~16、ローマ12:3~7)。
      
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「聖徒の交わりの方法 26:2」  使徒言行録2:37~42   2020.11.15
 
序.
 聖徒の交わりは、根源的には御父・御子・御霊なる三位一体の神の愛の交わりにあり、私たちが救われ、神との縦の交わりを取り戻すことにより、この交わりが横に広がりを見せることを確認して来ました。

Ⅰ.神礼拝における聖徒の交わり
 この聖徒の交わりが、具体的にはどのようなことにおいて行われるのかを第2節で確認します。その第一は、神礼拝においてです。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と記されています(使徒2:42)。説教、聖餐、祈りと共にが、ルカは、相互の交わりを加えています。このことが、信仰告白において教会についてと礼典についてとに挟まれた場所に聖徒の交わりを告白する根拠となります。
 正直なところ、改革派教会においては、聖徒の交わりについて、神学的に展開することもほとんど行われず、交わりや愛餐について重要視することが少なかったと思われます。しかし聖書が語り、信仰告白が告白していることを、私たちは直視すべきです。
 今、コロナ禍にあり、教会員の皆さまが一度に集まって礼拝を献げることを控えていただいています。非常に心痛むことです。インターネットを通じて礼拝に与って頂いていますが、キリストが臨在される場において、一つの空間で礼拝を献げることが大切です。
 大会憲法第二委員会において、教会会議(大会・中会・小会)をリモートで行うことに関して声明を出しました。一般社会ではリモート会議が当然となり、「教会会議もそれで良いではないか」と言われます。しかし委員会としては、少人数の委員会がリモートに代用できることを確認しましたが、基本的には一つの場所に集まることの必要を求めました。特に人事や重要な決議を行う場合、一つの場に集まり、決議することを求めます。これは、神礼拝や会議の場において、キリストの臨在を確認しつつ、交わりが与えられているからです。リモート飲み会のように聖餐式をリモートで行うことを認めないのも同じ理由です。

Ⅱ.教会の奉仕について
 信仰告白は、聖徒の交わりの第二として、相互を建て上げるのに役立つ他のさまざまな奉仕を行うことを挙げます。ここでは、霊的奉仕を語り、教会内での奉仕、特に神礼拝に関わる奉仕と考えて良いかと思います(参照:ローマ12:1-8)。
 神の愛に基づく聖徒の交わりはキリストの体である教会を形成して行きます。そしてここにおける霊的奉仕の中心は、礼拝での諸奉仕ということができるかと思います。
 つまり主なる神は、キリスト者一人ひとりに個性を与え、異なった賜物をお与え下さっています。キリスト者が互いの賜物を用いて奉仕を行うことで、一つのキリストの体たる教会を形成することができます。牧師、長老、執事、奏楽者など目に見える働きもあれば、掃除、週報の作成・印刷・発送、お花、営繕など週間の奉仕もいます。礼拝に出席すること、家庭で教会のことを祈ることも主への奉仕です。献金をもって教会を支えることも奉仕です。どのような奉仕も、教会にとって必要です。

Ⅲ.執事活動(ディアコニア)について
 そして信仰告白は、聖徒の交わりの3番目に、外的な〔物質的・物理的な〕事柄に関しても、互いに助け合い、清い交流と交わりを保つことを告白します。第二が霊的奉仕と語られており、礼拝や教会における奉仕であり、第三では物質的・物理的奉仕として、その他の一般に向けての奉仕と言うことができるかと思います。
 聖徒の交わりには広がりがあります。信仰告白はⅡコリント8~9章を証拠聖句として挙げています。迫害の中、困窮を覚えているエルサレム教会に、諸教会から援助を届けることについてです。私たちであれば、教会内の愛の業、伝道所への援助等が挙げられます。
 さらには、教会外の人たちに対する愛の業があります。病院や社会福祉への援助・支援などです。被災地支援も然りです。主イエスは、金持ちの青年に「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マタイ19:31)とお語りになります。
 改革派教会では、阪神大震災から始まり東日本大震災においてもディアコニアの働きとして広まっています。野宿者に対する炊き出し、子ども食堂、病院・高齢者施設・障害者施設などへの支援・援助などはキリストの教会を成長させる大切な働きです。

       
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「聖徒の交わりと信仰の関係 26:3」  テモテへの手紙一6:11~21   2020.11.22
 
 Ⅰ.聖徒の交わりを学ぶにあたって
 神との交わりを回復したキリスト者は、教会を通して神の民との交わりを行います。神のかたち、神に似せて、命の息が吹き入れられることにより創造された人間は、神との交わり、神を礼拝する者として創造され、同時に隣人との交わりを行う者とされていました。そして神を信じ、神との交わりを回復したキリスト者は、隣人との交わりをも回復します。
 この時に、どこに向かって行われているのかという信仰的なことを理解しておかなければ、誤った方向へと向かいます。今日は、このことを2つの点で考えて行くこととします。

Ⅱ.聖徒の交わりの目指すところ
 縦である神との交わりと、横である隣人(聖徒)の交わりがあることを語ってきております。ここで縦の関係について改めて確認します。つまり、キリストの十字架の御業により、罪が赦され、神の子とされ、天国における永遠の生命が与えられた私たちは、神との関係を回復します。それが神礼拝においてもっとも鮮やかにされます。御言葉の説教、キリストの十字架を想起し、神の御国における晩餐の前味としての主の晩餐に与ることです。
 この時に、私たちは、神と交わるとはどういうことかが問題となります。ここで語られていることはカトリック教会を意識しています。つまり、カトリックのミサにおいて聖体拝領を行うことは、キリストの体を食し、キリストの血を飲むことであり、キリストの本質を注入して頂くことを意味しています。そして、カトリック教会では、聖体拝領に与ることこそが大切であり、ミサの中心となります。そのため、聖書が疎かにされ、聖書が解き明かしも行われなくなりました。その結果、別の教え、つまり死者の救い、免罪符を売買するようになっていきます。
 私たち改革派教会における聖餐式について考えます。パンはパン、ワインはワインです。ただし聖餐式で、パンを食し、ワインを飲むことにより、十字架に架けられたキリストの体と血を想起します。そして聖霊によってキリストとの交わりに入れられていることを覚え、救いに感謝します。御言葉の説教においても同様ですが、聖霊をとおしてのキリストとの交わりに入れられています。キリストの実体に与るようなことはありません。
 またカトリックでは良き行いを奨励します。そしてイエスの母マリアは聖母として崇め、信者の中から福者や聖人を選出します。そして聖人を祝う日としての祝日が制定され、聖人をとおして神に祈ります。改革派教会は、長老主義政治ですが、教職の平等を語ります。教師の中で、キリストに近い者、権力を握る者が出てこないためです。監督主義はキリストと同様な者になろうとする独裁者を生みます。長老主義教会でも、制度として長老主義であっても、形だけであり、独裁主義となることもあります。そのため、真の長老主義を培っていこうとするためには、教師・長老がそれぞれ訓練され、形ではなく、理念をしっかりと理解し、実践できるようにして行かなければなりません。そうした意味で、現在の改革派教会も、まったく途上であると言わなければなりません。

Ⅲ.信仰が表れる聖徒の交わりの実践
 最後に信仰告白は、私有財産について確認します。使徒2:43~47では、すべてを共有した生活が行われており、私有財産が否定されているように読むこともできます。しかし私有財産を持つことが否定されているのではありません。あくまで信仰に基づいて行われたのであり、強制されて行うことではありません。アナニアとサフィラが裁かれたのも、自分の持ち分を残していたからではありません。ペトロも「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったではないか」(5:4)と語ります。彼らが裁かれた原因は、主の御前で、代金をごまかしたことです。私有財産が問題だったのではありません(使徒5:1~11)。
 このことは私たちの献金の精神にもつながります。献金を強制してはなりません。献金は、主から与えられた恵みに対する感謝によって献げられなければなりません。教会では、維持献金のように献金の求めが行われます。信徒のしての責任が伴いますが、強制ではありません。旧約聖書で1/10を献げることが求められますが、一つの目安であり、金額の多い・少ないが問題ではありません(参照:ルカ21:1~4)。
 主イエスは金持ちの青年に語ります。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(マタイ19:21)。救われたことを神に感謝を献げる時、私たちは、隣人を思いやることが求められます。この時、与えられた分を施す、献げる者とされます。このことは、教会における愛の業として行われ、病院・介護等の社会福祉における貢献などにも広がりを見せます。私たちは、聖徒の交わりを学ぶことにより、信仰のあり方、さらには献金や奉仕のあり方を考えることが求められています。
        
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「聖礼典 27:1~3」  マタイ28:16~20、Ⅰコリント11:23~26   2020.12.6
 
 序.
 ウェストミンスター信仰告白の学びも、第25章「教会」、第26章「聖徒の交わり」と学び、今日から「聖礼典」、「洗礼」、「主の晩餐」と学びを続けて行くこととなります。

Ⅰ.神によって制定された聖礼典
 聖礼典は、プロテスタントでは洗礼と主の晩餐の2つですが、カトリックではサクラメント(秘跡)と言われ、洗礼・堅信・聖体・告解・病者の塗油・叙階・婚姻の7つです。この違いには改めて学ぶこととしますが、その語源はミステリー(神秘)から来ています。
 聖礼典の条件は「直接神が制定された」ことです(マタイ28:19、マタイ26:26-29)。つまり、カトリックにおける堅信や告解・病者の塗油・叙階・結婚は、制度としてはプロテスタント教会にも存在するものもありますが、主イエスが直接制定されたものではありません。そのため、プロテスタント教会では聖礼典とは認めません。

Ⅱ.恵みの契約のしるし
 そして聖礼典は「恵みの契約の清いしるし(サイン)、また証印(シール)です」。聖礼典は、主なる神の救いのご計画(予定)とそれに伴う恵みの契約と密接に関わっています。つまり、私たちが信仰を告白し洗礼を授かるのは、主のご計画が摂理において表れ、聖霊によって私たち一人ひとりに示されることによって成し遂げられます。そして、主の晩餐に与ることにより、聖徒の堅忍により信仰が守られ、神の御国の永遠の祝福を確認します。
 そして聖礼典(特に主の晩餐)は「見える説教」とも呼ばれます。主は御言葉によって、私たちに信仰を与え、養いくださいます。しかし私たちは弱く疑います(参照:トマス・ヨハネ20:25)。だからこそ、目で見ることによって確認できる聖礼典として洗礼と主の晩餐を私たちにお示しくださり、私たちの信仰の養ってくださいます。
 ですから、私たちが洗礼と主の晩餐の聖礼典に与ることを、「神による救いを確実なものとすることより、しるし(サイン)であり、証印(シール)である」と語ります。私たちが洗礼を授かることは、恵みの契約が明らかになり、私たちが神の民として契約書にサインすることです。人間相互の契約であれば破棄されることもあります。しかし恵みの契約の当事者は主なる神です。この契約は、破棄されることはあり得ず、永遠に効力を持ちます。聖礼典は契約書に神によってサインが行われ、押印を確認することです。「神の僕たちの額に神の刻印を押されている」のです(黙示録7:3)。

Ⅲ.しるしとしての聖礼典
 そして第2節では、聖礼典が霊的なしるしであることを語ります。つまり洗礼を「水の洗い」のしるしであって、神との霊的な関係において罪が洗い落とされるのであって、洗礼によって全身が水に浸からなければならないとは私たちは解釈しません。
 また、洗礼を授かることによって、私たちの持っている罪がすべて洗い流され、聖くなったとも語りません。しかしカトリックでは、洗礼を授かることにより罪の除去が与えられたと解釈し、洗礼を授からなければ救われないと語ります。それ故、中世においては、生まれたばかりの子どもが直ぐに息を引き取ることもあるため、助産師に洗礼を授ける権能が与えられていました。しかし洗礼によって物理的に罪の除去されるのではなく、神との間に結ばれた救いを霊的に確認することです。
 このことは、主の晩餐においても言えます。制定の言葉で「これはわたしの体である」、「これは、…わたしの血、契約の血である」と語られる時、カトリックでは、パンはキリストの体そのもの、ワインはキリストの血そのものへと変化した(化体説)と語り、聖体拝領によりキリストの恵みが注入されたとします。ですからカトリック教会では、繰り返し聖体拝領に与り、キリストから直接、力を注入されることを求めます。しかし、主の晩餐も神との霊的な関係であり、キリストの十字架によって罪が赦され、神の子とされていることを、しるしとして確認し、その恵みにあることを確かめるのです。

Ⅳ.聖礼典の効力は、聖霊によって与えられる
 第3節では聖礼典の執行者との関係を確認します。例えば、洗礼執行を行った牧師が異端宣告を受け教会を追われた時、その牧師によって授かった洗礼は無効となるのかということです。一度、教会がその資格を与えた牧師が、後に牧師の資格が剥奪されたとしても、その洗礼は無効にされることはありません。また名声を得ている牧師から洗礼を受ければ、より祝福されるとかといえばそうでもありません。聖礼典は、あくまで聖霊を通してお働き下さる主なる神の業であって、教会や牧師で効力に違いが生じることはありません。
         
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「旧約と新約における聖礼典 27:4、5」  Ⅰコリント10:1~4   2020.12.13
 
 序.
 今日は、聖礼典が、洗礼と主の晩餐の二つであること、旧約と新約における聖礼典の一貫性について学ぶこととします。

Ⅰ.聖礼典は二つ
 プロテスタント教会における聖礼典が二つであることは前回も確認しました。主の晩餐はマタイ26章で、洗礼はマタイ28章において、それぞれ主イエスが救いと神の民であることを確認するしるしとして教えています。しかし、聖書において、特に主イエスにおいて語られていないことを、プロテスタント教会では聖礼典としては認めません。
 カトリック教会では、サクラメント(秘跡)を7つ数えます。洗礼・聖体(主の晩餐)の他、「堅信」は私たちでいう「信仰告白式」であり、主と教会の前で誓約が伴います。しかし直接主イエスが私たちに教えたことではなく、聖礼典には含めません。また叙階は、教師・長老・執事への「任職」であり、主と教会の前に誓約を行った上で按手を行うこともあり、改革派教会では重視しています。また婚姻は、創世記2章で記されており、主と教会の前で誓約を求めます。告解は罪の悔い改めであり、病者の塗油は訪問による祈りとして行われます。いずれも、プロテスタント教会としても大切な行為として行っており、各々の行為自体を否定するものではありません。しかし聖礼典は、救いに関わるしるし(サイン)であり、証印(シール)であるのかが問われ、プロテスタント教会では、洗礼・主の晩餐以外は聖礼典には含めません。

Ⅱ.牧師の職務
 信仰告白は第4節の後半で、「そのいずれも、合法的に任職された御言葉に仕える牧師以外の、いかなる人によっても施されてはならない」と告白します。聖礼典の執行は治会長老にも執行することは許されていません。これは牧師と長老の職務の違いによります。
 なぜ、聖礼典の執行は長老ではダメで牧師だけが行うのかに関して、理解ができないかと思いますが、聖礼典が説教と密接に関連していることから説明が付きます。聖礼典、特に主の晩餐は、見える説教・五感で感じる説教と語られ、常に御言葉の説き証しと共に行われることが求められます。そうであるならば、御言葉を解き明かす牧師によって聖礼典が執行されなければならないことに、理解をして頂けるのではないかと思います。

Ⅲ.旧約と新約の聖礼典
 最後に第5節に移ります。「旧約の聖礼典は、それらによって意味され、提供された霊的な事柄に関するかぎり、新約の聖礼典と実体においては同じであった」。聖礼典は、主イエスによって制定されていることと同時に、旧約聖書によって制定されている規定を引き継いでいることも大きな特徴であると言えます。
 つまり、洗礼は旧約における割礼です。割礼はイスラエルの男子に限られていましたが、新約ではすべての民に洗礼が授けられることとなりました。2つのことを確認します。
 第一に、割礼は異邦人には求められませんでした。新約の時代に入り、異邦人に宣教された時、異邦人に割礼が必要かが問題となりました。エルサレム会議において決議が行われます(使徒15章)が、この時エルサレム教会は、洗礼を授かった異邦人に、改めて割礼を施す必要がないことを決議しました。つまりエルサレム会議では、旧約の割礼に代わり洗礼を授かることにより、神の民として受け入れられることを確認しました。
 そして第二に、教会は幼児洗礼を認めました。聖書は、「幼児洗礼を授けた」という直接的な聖句はありません。しかし、「『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます』。そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた」(使徒16:31-33)と語られています。ここで語られている「家族」とは、当然、子どもたちも含まれていたものと解釈されています。親の信仰によって、子どもにも救いが約束されます。このことは、イスラエル人として生まれることにより、子どもたちにも割礼が施されたことが引き継がれていることを物語っています。
 そして、旧約における過越の規定が、新約において主の晩餐として引き継がれています。過越は、出エジプト時に定められたものであり、イスラエル人であることを、門の鴨居に血を塗ることを徴として確認し、過越の食事を取りました。同じように、主の晩餐により、キリストの十字架の贖いによって罪が赦されたことを確認し、パンとワインを味わいます。
 
         
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「洗礼とは 28:1」  マタイ28:16~20     2021.1.10
 
Ⅰ.教会の会員への加入の意味
 ウェストミンスター信仰告白は第27章「聖礼典について」に引き続き、第28章「洗礼について」に入ります。信仰告白は最初に、「洗礼は、イエス・キリストによって定められた新約の一つの聖礼典で、受洗者を目に見える教会に厳粛に加入させるためのものであるだけでなく」と告白します。洗礼は、十字架の死から復活を遂げ、天に昇って行かれる直前に、主イエスが定めてくださいました(マタイ28:19)。
 信仰告白は「あるだけでなく」と語ります。イングランド、つまりキリスト教国の信仰告白ならではの言葉です。キリスト教国の多くの場合、カトリック・聖公会・改革派の違いなく、子どもが生まれると教会で子どもに幼児洗礼を授けて頂くことが当然だからです。私たちが子どもが生まれたら役所で出生届を出すのと同じような感覚で、教会で洗礼を授かります。かつては結婚の証明も、子どもの出生も、教会でのみ管理されていました。そのため、教会で洗礼を授かることにより、出生届を出していた感覚でした。
 そのため、教会では何百年にわたる教会員の名簿が、大切に保存されています。日本の教会では、教会や牧師にもよりますが、教会の資料、個人の記録を大切にすることがあまりありません。このことは問題です。脱線しましたが、洗礼を授かることは、第一には、目に見える教会の会員として受け入れられることです。

Ⅱ.契約書としての洗礼
 しかし、洗礼を授かり、教会員となることの意味を理解することが大切です。信仰告白は続けて告白します。「受洗者に対し、恵みの契約・キリストへのかれの接ぎ木・再生・罪の赦し・新しい命のうちに歩むためイエス・キリストをとおして自分を神にささげることなどの、しるし(サイン)、また証印(シール)となるためのものである」。ここで大切なことは、第27章の「聖礼典について」でも確認しましたが、しるし(サイン)であり、証印(シール)であることです。つまり洗礼を授かるとは、教会員となる入会式のようですが、主なる神が私たちと結ぶ契約書にサインをして、割り印が押されることです。
 そして主なる神が結んでくださる契約であることから、この契約は永遠に無効になることはありません。この契約書に、私たち自身が誓約するだけではなく、主なる神ご自身がサインしてくださいます。だからこそ洗礼を授かった者は、主なる神の名が額に刻印され、キリストの再臨と最後の審判によって与えられる神の国にキリスト者は招き入れられます。

Ⅲ.洗礼を授かることにより与えられる恵み
 このようにして、神の民として契約が結ばれた者に、どのような祝福が与えられるのか、改めて、信仰告白より確認します。「恵みの契約・キリストへのかれの接ぎ木・再生・罪の赦し・新しい命のうちに歩むためなど」とあります。恵みの契約に関しては、今までにも語ってきたとおりですが、主が一方的にお与えくださる契約です。
 さらに付け加えなければならないのは、罪人である私たちが救われるためには、罪の償いが求められます。この罪の償いを、主は御子であるイエス・キリストの十字架によって代わりに担ってくださいました。通常、契約であるならば、契約の当事者双方が約束を守らなければなりません。しかし、主がお与えくださる恵みの契約は、主なる神がすべての約束を果たしてくださいます。私たちは、主の御業に対して「そのとおりです。主を信じます」と答えるだけです。だからこそ、私たちが洗礼を授かることは、罪の赦しと、神の御国の永遠の生命と祝福が与えられることを受け入れることとなります。
 続けて信仰告白は、「キリストへのかれの接ぎ木・再生・罪の赦し・新しい命が与えられる」ことを告白します。洗礼を受け、キリスト者になると、キリストの十字架によって私たちのすべての罪が赦され、神の子、キリスト者として生きるものとされ、再生されます。この時、私たちはキリストを長子とする枝に接ぎ木されます。これが養子とされることです(参照:ローマ6:3-5、6:17,27-30)。
 そして信仰告白は「イエス・キリストをとおして自分を神にささげる」と告白します(ローマ6:3,4、12:1-2)。つまり、洗礼を授かり、キリスト者となることは、神の御国に招き入れられる特権が与えられ、主の晩餐の礼典に与り確認し続けます。しかし神から恵みを受け続けるだけではなく、神による救いが与えられ、神の御国が約束されることにより、感謝と喜びをもって、神と教会のために仕え、奉仕する者と変えられて行くのです。
          
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「洗礼における水 28:2-3」  ヨハネ1:29~34     2021.1.17
 
Ⅰ.水で洗礼を授ける
 ウェストミンスター信仰告白第28章「洗礼について」を学んでいます。今日の第2節・第3節においては、洗礼において用いられる外的な品が「水」であること、そして受洗者が全身、水の中に浸すことは必要ではないことを告白します。水で洗礼を授けることに関しては、異論はないかと思います(ヨハネ1:33)。
 一つの具体的な例としてエチオピアの宦官(高官)の例を挙げることができます。使徒8:36,38「宦官は言った。『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。』…そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた」。

Ⅱ.全身を水に浸す必要があるのか?
 ここで問題となるのは、水の中に体を完全に浸すことを求める全浸礼でなければならないか否かです。一部の教派(パプテスト派)では「全浸礼以外の洗礼の方法はない」と主張します。彼らは聖書翻訳においても「洗礼」ではなく「パプテススマ」でなければならないと主張し、新共同訳聖書で「洗礼」と記し「バプテスマ」との振り仮名を記しているのは、そのためです。そして「バプテスマ」は常に「全浸礼」の意味を持つと主張します。
 しかしウェストミンスター信仰告白では、水がふさわしい媒体となることを主張しますが、「水の中に浸すことは、必ずしも必要ではない」とし、また、「水を注ぐか、振りかけることによって、正しく洗礼が執行される」と告白します。
 「バプテスマ」と記されている語においても、洗礼以外の方法が記されています。ルカ11:38「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て…」と訳しますが、「清めの洗いをしなかった」のであり、全身を浸すことではありません。
 また、「洗礼」とは、「全身を浸す」こと以上に、注目すべきことは「罪の赦し」です。つまり「洗礼」により「罪の赦し」が行われる時に、「水を振りかける」という徴の下に行われたことを確認しなければなりません。ヘブライ9:19~22「モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」。ヘブライ12:24では「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」と語られています。「血が注がれる」のであり、血が象徴的に用いられています。
 聖霊による洗礼を語るのに、聖書は「聖霊を注ぐ」と語ります(使徒2:17-18)。水の洗礼は御霊の洗礼において与えられる内的実体の外的で目に見えるしるしです。そのため、「注ぎ」という語が、御霊の洗礼を描くのに適切であれば、それは水の洗礼についても同じです。水の洗礼は、聖霊の賜物という内的実体の外的象徴です。

Ⅲ.恵みの契約のしるし・証印としての洗礼
 洗礼はしるし(サイン)であり、証印(シール)です(参照:信仰告白27:1、28:1)。
 つまり、洗礼における水に浸されることにより、「罪の赦し」が行われるのではなく、私たちの罪の赦しは、神によってご計画され、キリストの十字架の御業により完成しています。それが聖霊の働きにより、私たちがキリストに結合され、義認・子とすること与えられます。この時私たちの側で、主なる神を受け入れ、信仰を告白し、罪を悔い改めることにより、洗礼を授かります。つまり私たちが洗礼を授かることは、私たちの罪の赦しが神によって行われこと、つまり恵みの契約を確認する契約式です。罪の赦しという実体は、神の側で完結しているため、洗礼で用いられる水は、象徴として注がれればよいのであり、水に完全に浸され、沈むことによって洗い清められる必要はありません。
 ただし「受洗者を水の中に浸すことは、必ずしも必要ではなく」と語るように、全浸礼を否定するものではなく、パプテスト派等で全浸礼において洗礼を授かった方が加入される場合、その洗礼は有効です。洗礼を授かる時に大切なことは、水が用いられることであり、もう一つは「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」ことであって、三位一体を受け入れる教会で行われた洗礼を、私たちは同じキリスト者として受け入れます。
          
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「幼児洗礼 28:4」  マルコ10:13~16     2021.1.24
 
 
Ⅰ.バプテスト派の理解
 バプテスト派の人たちは、全身を水に浸かることによる罪の洗い、つまり罪の赦しが与えられることを主張しました。この時に彼らは、受洗者自身の信仰の告白を求めました。つまり洗礼を授かるのは自らの口で信仰を告白した者だけであり、幼児洗礼は認めません。そのためすでに幼児洗礼を授かっている人であっても、バプテスト教会において信仰を告白する人たちには、改めて洗礼を求めます。そのため「再洗礼派」とも呼ばれていました。
 彼らが幼児洗礼を認めなかったことには根拠があります。聖書的な根拠としては、信仰義認です。ルターが宗教改革を始めるきっかけとなったローマ3:21-24です。
 またもう一つの根拠として、当時の教会の状況を挙げることができます。当時は、信仰を持った親が子どもたちに洗礼を授けていただくというよりも、出生届を役所に届けるような感覚で幼児洗礼を授けてもらっていました。幼児洗礼のみで信仰を告白していない親の子どもたちにも幼児洗礼が授けて頂こうと教会に来ます。つまり、洗礼における信仰の本質がまったくなくない世俗化している状況にあります。

Ⅱ.幼児洗礼を認める根拠
 それでもなお改革派教会では、カトリック教会や聖公会同様に幼児洗礼を認めます。それは、聖書的な根拠、それも聖書全体における聖書的な根拠を求める結果です。
 洗礼・主の晩餐の聖礼典は、いずれもイエス・キリストによって定められましたが、旧約聖書における割礼・過越を引き継ぐ形で定められました(参照:ウ信仰告白27:5)。旧約における割礼は、主なる神によりアブラハムが召命されたことに起因します。主はアブラハムに星のように子孫が増えることを約束してくださり、アブラハムはそれを信じ、主はアブラハムを義と認められました(創世記15:5-6)。その上で主はアブラハムと子どもたちに割礼を授かるように求めました(同17:1-11)。つまり主の契約(恵みの契約)は、信仰によって義とすることでしたが、アブラハムの子孫に対しても約束されています。そして主は十戒においても、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。(出エジプト20:6)とお語りになります。
 だからこそ新約の教会においても、信仰によって義とされた者の子どもたちにも、同様に救いの約束が受け継がれています。主イエスは御言葉を聞くために集まっていた人たちの子どもたちに、神の国がこのような子どもたちのものであるとはっきりとお語りくださいます(マルコ10:13-16)。
 また、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と語られています(使徒16:31)。これは信仰を告白できる大人だけでなければならないとは解釈できません。この場に子どもたちがいることが当然あり得ます。旧約からの流れからしても、幼児にも洗礼を授けたことを、新約の教会は受け入れています。

Ⅲ.幼児洗礼と信仰告白、親の信仰を求める幼児洗礼
 その上で、幼児洗礼を授かるとはどういうことかを確認します。それは幼児洗礼を授かる子どもたちの親の責任です。ヨーロッパの教会において問題となっていることは、親が信仰を持っていない人たちがいることですが、私たちの教会では、そのようなことは許されません。両親、もしくは片親が信仰を持っていなければなりません。その上で、幼児洗礼を授ける子どもが、成長することにおいて、自らの意志で信仰を告白することができるまで、養育する責任が伴います。信仰告白までの教育は、教会にも責任が伴い、教会全体で子どもたちの成長を見守らなければなりません。申命記において、繰り返し教えるように求めていますが、信仰の教育、聖書の教育を繰り返し行っていくことが求められます。
 このことを併せて、幼児洗礼を授かった子どもたちは、幼児洗礼を受けたから「これで救われた」と言うのではなく、自らの意志で信仰を告白することが求められます。こうして、教会は初めて信仰の継承を行うことができるのであり、「自分たちの信仰が保たれればそれでよい」では終わりません。
 ただし、幼児洗礼を授かった子どもたちが信仰を告白する時、バプテスト教会のように新たに洗礼を求めることはありません。洗礼は一度行うことにより、神との契約が明らかにされるのであり、だからこそ、カトリック教会における堅信礼と同じように、改革派教会では信仰告白式を行います。
 
           
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「神による救いと洗礼 28:5~6」  使徒言行録10:44~48     2021.2.7
 
 序.
 洗礼は、旧約における割礼との継続性があり、神の子となり、神の救いにあることの約束、恵みの契約にあることを確認するために、重要な礼典です。
 この時、極端な二つの誤りについて考えなければなりません。一つは、心の中で信じていれば良いのであって、「洗礼を授かる必要などない」とする主張です。そしてもう一つは、カトリック教会が主張するように、「洗礼を授からなければ神の国に行くことはできない」とすることです。第5節の告白は、この両極端な考えを否定しています。

Ⅰ.この規定〔洗礼〕を軽蔑したり無視することに対して
 「この規定〔洗礼〕を軽蔑したり無視することは大きな罪で」す。洗礼を軽視すると信仰は内面的になり、自分が心の中で信じていれば良いとなります。すると教会や礼拝を軽視することとになります。このことは信仰は自分の決断と思う自己中心から生じています。
 洗礼は、主なる神のご計画に基づく恵みの契約が実現した結果です。主なる神はアブラハムを召し出し、神の民イスラエルを形成させて下さいました。主なる神は、アブラハムを召し出した後、契約として割礼を授けてくださいました(創世記17章)。この旧約における恵みの契約としての割礼が、主イエスの十字架の御業により罪の償いが行われることにより、新約の教会では洗礼に引き継がれました。
 洗礼とは、礼典としてしるし(サイン)であり、証印(シール)です。神が契約を結んでくださり、私たちはサインすることが求められます。それが信仰告白であり、洗礼を授かることです。この恵みの契約書にサインし洗礼を授かることにより、主はこの契約書を永遠に有効なものとしてくださいます。
 恵みの契約は個人的に神と結ぶものではありません。救われたと思い信仰を告白する者は神の国の教会の一員ですが、同時に地上の教会の一員でもあります。主は、神の国の教会につながる者を地上の教会に集うことを求めておられます。主は地上の教会を通して、私たちの信仰を守り、養ってくださいます。第一に御言葉の説教により、私たちは信仰を保ち、聖化の歩みを行うことができます。第二に、主の晩餐により、キリストの十字架における救いと、神の御国における永遠の生命を繰り返し確認します。第三に祈りにより、聖霊によりキリストとの交わり、父なる神の愛を感じます。そして、教会におけるキリスト者相互の交わり(聖徒の交わり)により、神の愛を知り、隣人の愛を知ります。

Ⅱ.洗礼必須論に対して
 続けて第5節の後半です。「洗礼を授からなければ救われない」とは断言できません。「洗礼を授からなければ救われない」と主張するのはカトリック教会です。彼らは洗礼を授かることにより、神の救いが与えられ救われると判断します。宗教改革当時、子どもが生まれて直ぐに息を引き取る可能性もあり、助産師に洗礼を授ける権能を与えていました。
 しかし主の救いの御計画が示される時、近くに教会がない場合もあります。信仰告白を行うことができない場合もあります。
 ローマ4:9~11では、割礼を受ける前のアブラハムについて語られています。主は割礼を授ける前に、すでにアブラハムを召し、神の子としてお示しくださいました。そのため洗礼を受けていなければ、「神の民ではない」とはいえません。
 そのため、ウェストミンスター信仰告白は第10章「有効召命」の第3節でこのように告白します。「幼くして死ぬ、選びの民である幼児は、御自身がよしとされるとき・場所・方法においてお働きになる御霊をとおして、キリストによって再生させられ、救われる。また御言葉の宣教によって外的に召命されることができない、他の選びの民である人々もみな、同様である」。幼くして死ぬ選びの民も、直接福音宣教に出会わなかった選びの民も、神の救いから漏れることがないことを告白しています。

Ⅲ.洗礼の効力
 最後に第6節です。すでに洗礼を授かることにより、恵みの契約に入れられ、救いが有効になることを語りましたが、洗礼を授かると、自動的にその力が私たちに与えられる、洗礼がいわば車でいうガソリンのようなものではありません。幼児洗礼を授かった幼子に信仰理解を求めることはできません。洗礼において大切なことは、主が契約を有効にしてくださり、私たちが神の子として神の国に受け入れられることが示されることです。そのため私たちは、それを認識し、主の救いを信じて信仰告白をすることが求められます。
          
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「信仰告白と再洗礼 28:7」  テトス書3:1~7     2021.2.21
 
Ⅰ.再洗礼を求める人たち
 洗礼を考える時、教会への「入会式」のように考えている人たちもいるかと思います。また、バプテストを初めとする教派では、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒言行録16:31)と語られるように、自らの口で信仰を告白することを重視することもあります。
 今日の信仰告白第7節では「洗礼の聖礼典は、いかなる人に対しても、ただ一度だけ執行されるべきである」と語られています。これはバプテスト派が、自らの口での信仰告白を重視するばかりに、すでにカトリック教会や改革派教会において幼児洗礼を受けていた人たちに対しても、改めて洗礼を授かること(再洗礼)を求めたことに対して、私たちの信仰では、そのようには考えないことを告白しています。宗教改革の当時、彼らはアナ・バプテスト(再洗礼派)と呼ばれていました。

Ⅱ.契約信仰に基づく洗礼
 改革派教会、そしてウェストミンスター信条においては、洗礼を単なる「教会の入会式」のようには考えていません。神と私たちとの間に結ばれる契約と考えます。すでに確認して来ている通りですが、この契約は旧約聖書アブラハムにおいてすでに与えられています(参照:創世記17:1-14)。神がアブラハムを、そしてイスラエルの民を神の恵みによって救いへと導き、契約を結んでくださいました。この契約は、主に逆らい、その結果として主による裁きを受けない限り有効です。
 そして、旧約における恵みの契約は、主イエスの十字架と復活により、更新されることとなります。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18~20)。洗礼を授け、神との間に契約を交わすことにより、救いの恵みにあることを確認することが求められました。そしてこの契約は、旧約聖書における契約同様に、自らの口で信仰を告白した者ばかりか、家族・子どもたちにも有効であることを確認して来ました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と語られる時、ここに子どもたちも含まれていると、教会は解釈してきました。
 この契約とは、主なる神と私たちとの間で交わされる契約であり、一度行われることにより、無効になることはありません。そしてすでに確認して来たとおりですが、この契約により、主なる神は、契約書にシール(証印)を貼り、サイン(しるし)をすることにより、契約を有効にしてくださいます。このことにより、私たちの目には見えませんが、私たちの額には、神の子のしるしが押されています。そして、キリストの再臨における最後の審判においては、罪の赦しが宣言され、神の御国の住民として招かれるのです。だからこそ、洗礼は一度行えば良いのであり、他の教派に教会を変わったとしても、改めて洗礼式を行うことは求めず、またそれを行ってはならないと、信仰告白は語ります。

Ⅲ.信仰告白を求めること
 ここで問題となるのが、親の信仰により洗礼を授かった人が、自らの口で信仰を告白する時です。アナ・バプテストの人たちはここで洗礼を授かるべきであることを主張しますが、私たちは別の解釈を行います。カトリック教会では堅信礼が行われます。そして改革派教会では信仰告白式を行います。近い解釈であるかと思います。つまり幼児洗礼を授かった人は、親の信仰により教会員となっており、教会における責任を持つことができません。責任を持たないからこそ、主の晩餐に与れません。しかし、信仰告白をすることにより、主の晩餐の礼典に与ることを初め、教会員として礼拝を大切にし、教会のために献金を献げ、奉仕を行うことが求められます。しかしこの時行うのは、信仰告白式であり、洗礼式ではありません。もう救いの約束である恵みの契約が結ばれているからです。
 宗教改革の当時は、アナ・バプテストの立場は、他にも極端な教えが行われることにより、徹底的に否定することが行われましたが、その時から350年を経て、現在では、それぞれの教派の立場が、互いに理解されるようになってきているため、このような信仰告白を表明することまでは、不要ではないかとも思います。
           
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「主の晩餐 29:1」  Ⅰコリント11章23~26節     2021.3.7
 
 Ⅰ.主イエスによる主の晩餐の制定
 ウェストミンスター信仰告白は、聖礼典が洗礼と主の晩餐の2つだけであることはすでに確認しました。その根拠は主イエスがお教えくださったからです。救いだけを考えれば、恵みの契約としての救いが提示され、洗礼を授かることにより、罪の赦しと天国における永遠の生命は確実に与えられます。このことを御言葉によって確認し続ければ良いのです。
 しかし旧約の時代に過越をお与えくださったように、主イエスは、最後の晩餐において、主の晩餐を繰り返し守るように命じられました(マタイ26:26-29等)。
 主イエスが主の晩餐を定められたのには目的があります。それは私たちの罪・弱さの故です。つまり、私たちが御言葉に聞き、主イエスの十字架の贖いによって救われることにより洗礼を授かりますが、時間が経つと新鮮味が薄れ、信仰が弱まります。時に御言葉から離れたり、教会からも離れたりします。罪を犯す場合もあります。この時、「本当に救われているのだろうか?」、「救われなくても良い」といった誘惑が頭によぎります。主イエスは、こうした私たちの弱さを知っておられるからこそ、御言葉により、罪の赦しと救いを繰り返しお語りくださることと併せて、主の晩餐の礼典をお与えくださいました。
 主の晩餐は「五感で味わう説教」とも語られます。つまり、十字架におけるキリストの体を記念するパンを食し、キリストの血を記念するワインを飲むことにより、目で見て、手で触って、臭い、味わい、そして御言葉を聞くことにより、五感を刺激することにより、救いの御業を確認します。そのため礼拝は、御言葉の説教と主の晩餐がセットで行われることが相応しいのです。ただし毎週主の晩餐を執行することにより、マンネリ化し、形骸化することもあるため、私たちの教会では月に一度、主の晩餐を行っています。しかし毎回、主の晩餐を覚えるために、私は週報の礼拝式で、「聖餐式」を記載しています。

Ⅱ.主の晩餐に見る過去・現在・未来
 さて洗礼は、主による救いが永遠に有効です。しかし、主の晩餐に私たちが与ることにより、私たちが今、主による救いに与るキリスト者として生きていることを確認することができます。この時に、やはり聖書における救済史の全体を見渡して、確認して行くことが求められます。このことを信仰告白は、過去・現在・未来について告白しています。
 第一に過去として「主イエスの十字架の死」こそが、私たちの救いの原点です。罪のない神が、人として遜り、私たちの罪を背負って十字架で苦しみ、死を遂げてくださいました。この時、主によって定められた救い、つまり永遠の予定によって定められていることを忘れてはなりません。主による救いの御計画が旧約聖書によって示され、約束のメシアとしてイエス・キリストが与えられました。ですから、私たちがイエス・キリストの十字架を顧みる時、同時に旧約における主の御業をも忘れてはなりません。
 次に主の晩餐は現在に生きる私たち自身への働きかけます。今も主なる神は、私たちと共にいてくださり、恵みに満たしてくださいます。だからこそ私たちは、生活において与えられる恵みに感謝します(Ⅰコリント10:31)。この時、主なる神に対する感謝は、信仰生活、そして教会生活において実践されることとなります。日々の信仰生活においては、主の日毎に礼拝に集うこと、家庭礼拝・個人礼拝において御言葉と祈りの生活を行うこと、キリストを証しする生活へと導かれます。そして教会生活では、礼拝に集うと共に、各々に与えられた賜物を用いて奉仕を行い、隣人への愛の奉仕を行います。また教会を立てるために感謝して献金を献げます。教会のため・教会員のために祈ります。しかしこれらの前提として、御言葉の養いと主の晩餐に与ることが必要であって、御言葉抜き、礼拝抜きの奉仕は、形の上では立派であったとしても、人間的な業となってしまいます。
 そして未来のこととして、神の御国におけるキリストとの交わりを仰ぎ見ます。今、私たちは、直接、キリストを見ることはできません。しかし、主の晩餐に与ることにより、天国の前味を味わいます。キリストがお招きくださる天国での晩餐へと、主は私たちをお招きくださいます。
 つまり私たちは、主の晩餐の礼典に与る度に、キリストの十字架により罪の赦しが与えられていること、神の御国における聖なる交わりに招かれていること、そのための恵みの契約としての洗礼が有効であることを、確認して頂きたいと思います。
          
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「記念としての主の晩餐 29:2」  マタイ26章26~29節     2021.3.14
 
 
序.
 洗礼は1回限りの永遠の契約であることに対して、主の晩餐は繰り返し執行されます。その理由は、私たちの弱さ故に、主による救いを確認することが求められるからです。そして主の晩餐の礼典に与ることにより、過去におけるキリストの十字架の贖いを覚えるだけではなく、今与えられている主の恵みを確認し、さらにキリストの再臨と最後の審判によって与えられる神の御国における永遠の生命を覚えることが求められています。

Ⅰ.化体説は否定されるべき!
 今日は、私たちが主の晩餐に与ることと、キリストの十字架の関係を考えます。つまり主イエスが「これはわたしの体である」、「これはわたしの血である」と語られた意味を考える時、カトリック教会で、主の晩餐(カトリックでは聖体拝領と呼ばれます)が、行われるにあたり、「パンはキリストの体になった」、「ワインはキリストの血になった」として、キリストの体、キリストの血を食すると考えます。このことを化体説と呼びます。その結果、彼らはミサが行われている今、キリストが十字架に生け贄として献げられたとの解釈し、2000年前に行われたキリストの十字架の御業が、ミサが行われる度に、繰り返されていることとなります。
 しかしキリストは十字架に架かられ、苦しみと死を迎えられました。死から3日目の朝に甦りになり、その40日後に天に昇って行かれました。キリストの体は今も天にあります。ミサの度にパンがキリストの体に、ワインがキリストの血に変化することを、受け入れることはできません。キリストの十字架はあくまで2000年前に行われた1回限りのことです。
 2000年前に十字架に架かられたキリストの御業が、私たちのすべての罪の償い・罪の贖いとなります。私たちは、日々、主の御前に罪を繰り返しますが、その度に、キリストの十字架が繰り返されなければならないということではありません。そのため、ウェストミンスター信仰告白はカトリック教会の考えを否定します。

Ⅱ.十字架が繰り返されることはない!
 信仰告白は、主の晩餐に与るのは「記念である」と語ります。このことは、Ⅰコリントの制定の御言葉において確認することができます(11:23-26)。ですから、主の晩餐で示されたパン・ぶどう液は、あくまでもパンとぶどう液であって、キリストの体・キリストの血に変化したと私たちは解釈しません。
 ローマ・カトリック教会の腐敗(免罪符)によって宗教改革が始まったのですが、カトリック教会とプロテスタント教会の違いは、様々な点で出てきます。この主の晩餐の解釈の違いも、カトリック教会とプロテスタント教会の違いの一つです。つまり、聖書から福音を聞き取ろうとすれば、人間的な思いで行われていることは、一つひとつと否定されていかなければならず、主の晩餐の解釈においても、顕著に表れています。

Ⅲ.キリストとの霊的な交わりに与る主の晩餐
 宗教改革の歴史を紐解けば、ルターとカルヴァンが違う道を歩み、別の教派を形成することとなったのは、この聖餐論の解釈の違いによりますが、複雑になりますし、信仰告白ではまったく触れていませんので、違いがあることだけをご理解して頂こうと思います。
 次に信仰告白が「霊的な奉献である」と告白することに注目します。つまり「記念である」とだけ語られると、主の晩餐は単にキリストの十字架を覚える徴にすぎなくなりますが、ウェストミンスター信仰告白の改革派教会の立場は異なります。つまり主の晩餐に与るキリスト者は、主なる神による救いに与り、キリストの十字架による罪が贖われました。そして、主の晩餐に与る時にも、霊的にキリストとの交わりにあることを確認します。霊的に主の恵みに与り、霊的に感謝しつつ讃美します。キリストの十字架との霊的な交わりを疎かにしてはなりません。なぜならば主の晩餐を、単に記念とするだけならば、キリストの十字架の贖いに与っているという現実味が、次第に低下していくからです。
 その上で主の晩餐に与る時、キリストの十字架を顧みると共に、現在の恵みに感謝し、神の国の完成と永遠の生命にあることを覚えます。その結果、主による救いの喜びと感謝が讃美として表れます。主の晩餐は儀式に過ぎませんが、形を行えば良いのではありません。キリストの十字架の御業が私たちの罪の赦しと神の国の永遠の生命と結びついていることを理解することにより、主の晩餐に与ることにより、今もキリストとの霊的な交わりに生きていることを知り、罪の赦しと救いの喜びに溢れ、信仰の養いとなります。
           
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「主の晩餐の品 29:3」  ルカ22章14~23節     2021.3.21
 
 序.
 ウェストミンスター信仰告白における聖餐論は、カトリック教会におけるミサの聖書的・神学的な誤りを正すことが中心です。前回も確認しましたが、カトリック教会では、パンがキリストの体に変わる、ワインがキリストの血に変わると語ります(化体説)。しかしパンはパンのまま、ワインはワインのままです。私たちは、聖霊の導きの下、2000年前に行われたキリストの十字架を覚えつつ、聖餐に与ります。

Ⅰ.式文に従って行われる聖餐式
 聖餐は最初に制定の御言葉を朗読します。Ⅰコリント11:23-29、もしくはマタイ26:26-30、ルカ22:14-23です。キリストが直接語られた御言葉、もしくはパウロによって確認された御言葉です。
 引き続き式辞を語り、聖餐の意味を確認します。通常は、式文に定められた定型句を用いていますが、礼拝指針やウェストミンスター信条から奨励することもできます。聖餐式がパンと杯の配餐だけとなりますと、儀式となり、信仰の意味合いが忘れられていきます。常に御言葉と共に、その意味を確認つつ、聖餐式に与ることが大切です。
 次に招きの言葉が語られます。誰が聖餐に与ることができるのか確認しなければなりません。幼児洗礼しか授かっていない未陪餐会員または未受洗者は、聖餐に与ることはできません。聖餐の意味を理解し、受け入れることが求められるからです。
 その上で聖別の祈祷を行います。パンはパン、ワインはワインのままですが、聖別することにより、主なる神がこのパンをお与え下さり、このワインをお与え下さったことを覚えることが大切です。
 そしてパンを裂くことにより配餐し、ワインを取り上げた上で配餐します。カトリック教会のミサでは、ワインは配餐されることはありません。それは化体説であり、ワインがこぼれることを恐れるためです。しかし、パンはパン、ワインはワインであり、こぼれ落ちることを恐れるのではなく、キリストが私の代わりに十字架に架かられたことを、正しく恐れつつ、パンとワインの配餐に与ることが求められています。

Ⅱ.集会に出席していない人に関して
 信仰告白は最後に、〔第四に〕そのとき、集会に出席していない人には、だれにも与えないことと告白します。このことは、コロナ禍にあって、インターネットを通じて礼拝を守っている中、リモートでも聖餐に与れるのかという問題とも関係します。
 ウェストミンスター信仰告白は2つの聖句を引照聖句とします。使徒20:7、Ⅰコリント11:20です。聖餐に与る時、集まることが大切です(参照:ルカ22:14,17,19)。
 その上で神学的に考えます。カルヴァンはキリスト教綱要で語ります。「このサクラメントにおいて目の前に示された物件を通じて、我々は謂わば譬えの手段によるようにして霊的な事柄へと導かれる。つまり、キリストの体がパンという象徴の下に我々に与えられる時、我々の身体の命がパンによって養われ・支えられ・守られるのと同じように、キリストの体が我々の魂を力づけまた命を与える唯一の霊的食物であると、この譬えから直ちに理解しなければならない」(Ⅳ17-3)。聖霊による神秘的な霊的現臨が、聖餐卓の上で生起すると考えるのが、改革派教会の立場です。ですから、共に集まると共に、目の前でパンとワインが聖別され、配餐されることが大切であって、その場に居合わせない人が、同じように聖餐に与ることはできないと考えます。
 昨今リモートでも、聖餐に与ることができると解釈する神学者が出て来ました。しかし、キリスト教会が、長年、出向き、直接会い、伝道し、教会を立ててきたことと関係します。メディア伝道は、教会がない、あるいは伝道者がいない地域では有用です。それでもなお、教会はマスメディアを通じての礼拝ではなく、直接赴くことを大切にします。それは主イエスの宣教命令においても語られていることです。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい(マタイ28:19)。一緒にいて、交わり、人格的な交わりの内に伝えることが求められるのであり、この時、聖餐においても、共にあることが大切です。
 そのため、入院されている方や長い間礼拝に集うことができない人に対しては、牧師と長老が訪問して、聖餐式を行うのであり、リモート飲み会のように、離れていた所で、互いにパンとワインを準備して、聖餐式を行うことを、私たちは行いません。
        
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「キリストの臨在 29:4-6」  Ⅰコリント11章23~29節     2021.4.11
 
序.
 主の晩餐について学ぶにあたって、常に問題となるのが、カトリック教会です。今日学びます第4節~第6節では、カトリックにおける過ちを正すことが語られています。

Ⅰ.主の晩餐におけるカトリックの誤った教え
 第4節では最初に、私唱ミサの過ちを指摘します。これは王なり権威ある人が司祭を呼んできて、ミサを献げて頂き、聖体拝領(主の晩餐)に与るということです。つまり、主の晩餐とは、教会における聖徒の交わりを確認することもあり、教会で公的に行われることが求められます。ですから、教会において決議された上で、入院・入所されている方、礼拝に出席することのできない方の所に訪問して、教会の集会として礼拝が行われ、主の晩餐が行われる分には良いのですが、自分の権威と救いのために、司祭を呼び、聖体拝領を求めるような、個人的なこととして認められないことを語ります。
 次に、杯を会衆に与えないことが指摘されます。カトリック教会では、制定のことばの朗読により、パンとワインがキリストの体・血に変化する(全実体変化説・化体説)と解釈します。そのため、キリストの血を疎かに扱うことができず、こぼす危険性を排除するために、彼らは会衆に杯を与えず、司祭が飲み干すことが行われます。しかし、パンとワインの両方を会衆の一人ひとりに与って頂くことが、主の晩餐において大切な行為です。
 第三にパンとワインを礼拝することを禁じます。これは化体説のため、キリストの体・キリストの血に変わったことより、これらの品々を神格化していく結果、行われていることではないかと思いますが、そうしたことを信仰告白は禁じています。
 第四に、偽りの宗教的用途のためにそれらを保存しておくことを禁じています。これは聖人に選ばれたような人が用いた用具が、聖遺物とされて保存されていることを語っていることかと思います。こうしたものが、礼拝の対象となってくるわけで、そうしたことを、信仰告白は禁じます。

Ⅱ.化体説を拒絶する
 第5節では、化体説に関して改めてそれを否定します。主の晩餐において制定の言葉が読まれることにより、パンとワインが、十字架に架かられたキリストの体と血を想起し、霊的な交わりを確認することを語ってきております。もちろん、私たちは、パンとワインを疎かに扱うことはしません。しかし、あくまでもパンはパンのままであり、ワインはワインのままです。そのため、カトリック教会のように、落としてはならない、こぼれてはならない、キリストを卑しめているとは考えないのです。
 正直な所、ワインなどは小さなカップですので、聖餐式の準備を行う時、あるいは配餐の途中で、少しこぼれることもあります。しかし、そのことを目くじら立てて批判することこそが、信仰を離れた形式主義に陥っていると言えます。

Ⅲ.聖書と常識に訴える教会であれ
 続けて第6節でも化体説の問題を扱います。化体説は聖書に反していることを、信仰告白では3つの聖書テキストを比較することにより、そのことが明かであると語ります。
 「このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています」(使徒3:21)。キリストの体は今、天にあり、パン・ワインが天におられるキリストに変化することはありません。
 次に主の晩餐における制定の言葉としても読まれるⅠコリント11:24~26です。パンとワインが目の前にありますが、あくまでもキリストの体・血に対する記念であって、実体ではないということを理解しなければなりません。
 最後ルカ24:6,39は復活されたキリストが体をもっておられることを明らかにされます。
 さらに信仰告白は「常識と理性にも反し、この聖礼典の本質をくつがえし」ていると語ります。聖書において、主イエスや弟子たちが奇跡を行うことが記されており、私たちとしても主の奇跡を否定することはありません。しかし使徒の時代が過ぎ、現在において、一般的な形で常識と理性に反する奇跡が繰り返し行われることを、私たちは認めません。
 最後に「この聖礼典の本質をくつがえしている」と語ります。主の晩餐の本質は、キリストの十字架の御業により、私たちの罪が贖われ、罪が赦され、神の子とされていることを確認することです。これがキリストが臨在されることによって確認するのであって、キリストの体と血を直接補給することなど求めてはなりません。
         
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「主の晩餐におけるしるし 29:7,8」  Ⅰコリント10章14~22節     2021.4.18
 
Ⅰ.時代と地域により理解の差が生じる信仰告白
 ウェストミンスター信仰告白は、主の晩餐の礼典に関して現在に生きる私たちからすれば詳細すぎると思います。このことは歴史的な信仰告白を学ぶ時、信仰告白が作成された地域・時代背景を考えることにより理解できます。そのため、私たちにとって、時には詳細すぎ、時には足らない部分を付け足したいと思うことが出てきます。
 私たちの日本キリスト改革派教会が、ウェストミンスター信仰規準を教会の信仰規準として採用しつつも、自分たちの手で新信条を作成することを求める創立宣言の言葉につながります。新信条の作成の道のりとして、30周年「教会と国家にかんする信仰の宣言」、40周年「聖書についての信仰の宣言」、50周年「予定についての信仰の宣言」、60周年「終末の希望についての信仰の宣言」が告白されてきました。しかし、私たちがウェストミンスター信仰規準に匹敵する信仰告白を作成しようとするには、宣言の積み重ねだけでは不可能であり、さらなる神学全体を包括的に理解しつつ神学を積み重ねて行くこと、教会会議の充実が求められることを実感せざるを得ません。なお、ウェストミンスター神学者会議は6年半にわたって1100回を越す会議が週日行われ、信仰告白・大小教理問答を始め、教会規定、礼拝指針等を作成しました。
 その上で、大会教育委員会が作成した「子どもと親のカテキズム」がウェストミンスター小教理問答に匹敵するカテキズムとして、与えられた恵みも覚えることができます。

Ⅱ.肉的・身体的ではなく、内的・霊的に
 主の晩餐に関しては、プロテスタント教会の間でも一致することが出来ませんでしたが、信仰告白は一番の問題として、カトリック教会が語る全実体変化説(化体説)を問題視し、その過ちを徹底的に追求していると言ってよいかと思います。
 私たちは、主の晩餐の礼典により、キリストの十字架を見上げ、キリストの十字架によって与えられた罪の贖いと神の子とされ、永遠の生命が与えられたことを享受し実際的な益が与えられていることを確認しますが、信仰告白は「霊的」であって、「肉的・身体的ではない」と語ります。つまり、主の晩餐に与っても、2000年前のキリストの十字架が目の前で再現されるわけではありません。また、パンがキリストの体に、ワインがキリストの血に変わることもありません。パンとワインは、あくまでもキリストの十字架を指し示すのであって、ここに肉を取られたキリストがおられるわけではありません。
 一つの例えがあります。私たちは車を運転していると道路標識を見ます。右方面は東京、左方面は高崎、と出ています。この時、東京と書かれた標識の上に立ったとしても、いつになっても東京に到着することはなく、ここ大宮にいるままです。車を運転して、現実に東京に行かなければなりません。主の晩餐におけるパンとワインもに同じように、キリストの十字架を指し示し、私たちはキリストの十字架からの恵みに与りますが、キリストの十字架そのものに出会うことはありません。

Ⅲ.相応しくない者が主の晩餐に与ると…
 第8節は大切なことが語られています。洗礼を授かり、信仰を告白した者のみが主の陪餐に与る資格があるのであり、それ以外の相応しくない者が主の晩餐に与る時、主の裁きを受けることを警告しています。このことをパウロは次のように語ります。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(Ⅰコリント11:27-29)。
 いわゆる未陪餐配餐・無限定配餐です。日本キリスト教団の教会においては、これが行われ、問題となっています。「教会に来ること自体が信仰告白である」との考えですが、これが重大な罪を犯すことであると、信仰告白は語ります。教会に鍵の権能、つまり誰に洗礼を授け、誰に戒規を執行するのかが与えられていますが、主の晩餐に与ることができるのは、まさに主による救いに与った者の特権であり、教会において洗礼を授かった者の特権であること、そして教会には誰が主の晩餐に与れるのかを確認する大きな責任があることを、私たちは忘れてはなりません。そのため私たちは、未陪餐配餐を認めることはできません。
          
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「教会における譴責 30:1,2」  マタイ16章13~20節     2021.4.25
 
 序.
 ウェストミンスター信仰告白の学びも今日から第30章に入ります。終わりが見えてきました。第30・31章は教会政治について、第32・33章は終末論についての学びとなります。

Ⅰ.教会と国家に関わる教会内の争い
 最初に「譴責」は、「戒規」とも訳されてきた“Censures”の訳語です。つまり教会において罪を犯した者に対する処罰することです。中世ヨーロッパでは、ローマ皇帝とローマ教皇の間で叙任権闘争も行われ、聖職者の任職・解職、そして会員の罪の処罰(戒規)に関して、世の為政者に与えられているのか、教会が持っているのかが、議論されてきました。これは、神学論争に留まることなく、権力闘争でもありました。このことは宗教改革を行っていたプロテスタント教会内においても起こっていました。
 国家とは別の教会役員が必要であることを改めて告白しなければならないのは、国教会が前提にあるからです。つまりウェストミンスター神学者会議は、英国議会の宗教的な諮問機関として開催されており、英国において国教会をどの様な教会にするのかが議会の命令によって話し合われている会議でした。そこで、国王派が行っていたカトリックに近い教会であったものを、ピューリタンたちが改革派信仰、長老主義の教会にするために話し合っています。ですから教会と国家の関係も、確認しなければならない問題でした。
 ウェストミンスター神学者会議に出席が求められた神学者は、4つのグループあります。第一にピューリタン(長老主義者)です。私たちと異なるのは、教区教会制の国教会を前提とした長老主義を採用しようとしています。第二に穏健ピューリタンと言うべき独立派です。後にアメリカに渡り福音派教会を形成していくグループで、各個教会主義で中会・大会を認めず、また長老主義も否定します。また第三に、国王派のカトリックに近い信仰を持つ人たちも議会に招集されました。彼らは国王が反対するために、会議には出席しませんでした。最後がエラストゥス主義者です。彼らは、国家が教会にまさる権力を持つとする国家権力至上主義者です。彼らは人数的には少ないのですが、有力な神学者で、意見を刻々と述べます。
 信仰告白全体において言えることですが、こうした激しい議論の応酬の中で、信仰告白や文書が作成されていくのであり、決して全会一致で文書が採択されたのではありません。そして、決定された信仰告白を受け入れることが出来ない神学者もいます。この時、彼らは反対署名を行い、自分はそのことに反対であることを明確に記録したのです。

Ⅱ.主は、教会に役員が立てられることを求めておられる
 英国におけるエラストゥス主義者は、教会における鍵の権能、特に裁判権と戒規権に関しては国王にこそあるのであって、教会が最終決定することはできない、とする立場です。信教の自由を主張する日本では考えられませんが、国教会だから議論できることです。
 第1節で証拠聖句として挙げられています(使徒20:17,28、ヘブライ13:7,17、マタイ28:18-20)。キリストの教会において、神の民を世話する者、監督する者を立てるように、主は求めておられます。国家的為政者がこれらをかねる時、腐敗が持ち込まれます。

Ⅲ.教会に委ねられた鍵の権能
 第2節では教会役員の働きが記されています(天国の鍵の権能)。証拠聖句として、マタイ16:19、同18:17-18、ヨハネ20:21-23が記されています。
 教会役員(牧師と長老)に、主が持っておられる天国の鍵が委ねられています。非常に大きな責任が伴います。主は、罪人を、キリストの十字架の御業において、無条件に罪を赦し、神の子として迎え入れてくださいました。それでもなお罪に定める時、その理由が明らかにされなければなりません。つまり、十戒におけるどの罪に該当するのか、信仰規準(ウェストミンスター信仰規準)のどの項目の違反であるかを明らかにしなければなりません。そうでなければ、牧師や長老の思い次第で罪に定めることとなるからです。そして罪に定める時は、それに伴う戒規(訓戒、停止(陪餐・職務)、除名・免職)が行われ、悔い改めの機会が与えられなければなりません。除名であれば、異端者として周囲の人々にも周知することが求められますが、そうでなければ、罪の悔い改めが行われ、和解が行われ、聖徒の交わりが取り戻されるように、教会は配慮すべきであり、一つの罪により、いつまでも聖徒の交わりが回復されないのは、罪を赦し、和解と聖徒の交わりを求めておられる主の求めではないことを、私たちは忘れてはなりません(Ⅱコリント2:5-8)。
           
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「教会譴責の目的 30:3」  Ⅰコリント5章1~13節     2021.5.9
 
 序.
 ウェストミンスター信仰告白の学びも第30章「教会譴責について」に入りました。前回は、国家ではなく教会において譴責を行うことを、聖書が求めていることを確認しました。そして今日は、教会譴責の目的・定義を考えて行きたいと思います。

Ⅰ.譴責の第一は、兄弟姉妹を取り戻すためにある!
 教会譴責とはどのようなものであるかが定義されていますが、どのような理由で、このような定義が定められたのかを、私たちは確認しなければなりません。譴責を受けるのは律法に違反したからであり、私たちは律法を確認することから始めなければなりません。
 ウェストミンスター小教理問答では十戒論が展開されていますが、その後の問82では、だれも神の戒めを完全に守ることができず、思いと言葉と行いにおいて破っていることを告白します。つまり、律法である十戒に違反したからということで、戒規に処せようとするならば、私たち全員が主の御前に裁かれる者であることが前提にあります。
 その上で主なる神は、イスラエルを救い、十戒をお与えくださいました。十戒の前文は大切です。前文「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20:2)。順番が大切です。律法を守ったイスラエルに救いが与えられたのではなく、奴隷から救い出されたイスラエルに律法が与えられました。主は律法違反の処罰を第一に求めておられるのでは無く、彼らの罪を赦すことを求めておられます。つまり、譴責は「処罰」を目的に行っているのではありません。ですから、教会譴責において「第一に求められることは、過ちを犯した兄弟たちを矯正し、取り戻すため」であり、「〔第二に〕他の者たちに同じような過ちを思いとどまらせるため」であると告白します。
 律法違反である罪は私たちの内にもあります。そのため譴責を行うにあたって、違反した兄弟姉妹が、神・教会から離れないように、取り戻すことが求められています。主なる神が、私たちの罪を赦し、私たちと和解して神の子として召し出してくださるために、御子イエス・キリストを十字架にお渡しくださったように、私たちもまた、罪を犯した兄弟姉妹を赦し、和解することから始めなければなりません。罪の処罰が前面に出る時、兄弟姉妹を追い詰めることとなり、赦しと和解はできません。

Ⅱ.常に愛に生きるキリスト者であれ!
 私たちは、律法において求められていることを十戒の要約において確認しなければなりません(マタイ22:37-40)。愛をもって罪を包み込み、その上で罪を除去することが求められます。ですから、「〔第三に〕かたまり全体を損なう恐れのあるパン種を除くため」が、兄弟たちを取り戻すことの後ろに置かれているのです。
 私たち自身が罪赦された罪人であり、毎日、罪を犯し続けていることを忘れてはなりません。この時私たちは、主の御前に謙遜になり遜ることとなります。そして神の戒め、つまり十戒に従って生きる者と変えられます。これが律法の第三用法と呼ばれているものです(大教理問95)。こうしたことを理解した上で、第四の定義を告白することができます。「キリストの栄誉と、福音に対する清い公の告白を擁護するため」。このことが今まで語ってきたことを差し置いて前面に出てくる時、教会は律法主義に陥ります(参照:マタイ7:1-5)。

Ⅲ.サタンの攻撃に対して
 その上で、私たちが忘れてはならないことは、教会・そして神の民は、なおも地上においてサタンとの戦いの下に置かれているということです。 サタンと化した者は、教会から除外されなければなりません。そのために、戒規においても「除名」があります。 罪に対する悔い改めがなく、かえって罪の行為が繰り返され、継続的に行われる時、彼らには、主なる神に対する信仰は失われています(参照:コリント一5:1-13)。
 教会が簡単にこの結論を下し、裁くことがあってはならず、慎重でなければなりません。しかし、教会を分裂、破滅に追い込もうとしていることに対しては、教会は黙っていてはなりません。だからこそ、こうしたことを語る規定は最初に持って来ることなく、最後に語られます。「〔第五に〕もし神の契約とその証印が、名うての、頑なな、過ちを犯す者たちによって冒されるままにしておけば、教会に当然下るであろう神の怒りを防ぐため」。

Ⅳ.結論
 教会譴責は、律法主義に陥る危険性があり、また、恣意的に他人を裁く凶器にもなります。そのために、譴責が教会に委ねられていることを私たちが受け入れる時、私たちは、主の御前に遜り、謙遜でなければなりません。
            
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「教会役員の使命 30:4」  マタイ18章15~20節     2021.5.16
 
 Ⅰ.和解と平和を求める教会
 教会譴責について、第1・2節より、教会の譴責は、為政者・王が行うのではなく、教会が行うことを確認しました。そして第3節で教会譴責の目的について学びました。ここでは順番が大切であることを語りました。主なる神が教会に求めておられることは、滅び行く者を教会に集め救うこと、罪を悔い改め、和解し、平和を実現することです。その上で罪を除去することです。戒規・譴責を語る時、どうしても、「裁く」というイメージがあるが、和解と平和を実現することこそが教会にとって大切なことです。これこそが、王や為政者ではなく、教会にその権能が与えられた最大の理由です。

Ⅱ.愛をもって行う譴責
 その上で信仰告白は、第4節で「これらの目的をよりよく達成するため、教会役員は、その人の犯罪の性質と過失の程度に応じて、訓戒、主の晩餐の聖礼典の停止、そして教会からの除名〔破門〕などの手続きを執らなければならない」と告白します。この第4節を、前回の第3節と切り離して考えると、「裁く」ことに比重が置かれるため、注意しなければなりません。証拠聖句を確認することにより、確認していこうと思います。
 Ⅰテサロニケ5:13では、「愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい」と語られています。教会は、愛をもって、和解と平和を築くことが求められています。
 次にⅡテサロニケ3:6では、「怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい」と語られ、続けて3:15では、「しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」と語られています。主なる神を信じている人であっても、いわゆる「キリスト者らしくない」生活を行っている人がいます。教会では教育することが求められますが、そのことをもって、自らが罪を悔い改め、生活を改めることを求めなければなりません。その上で、生活が改まらない人に対して、キリスト者であることを否定し、裁いたりしてはなりません。あくまでも同じキリスト者としての兄弟姉妹として、接することが求められています。
 次にⅠコリント5:4,5です。「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです」。ここで、サタンに引き渡す、つまり除名・破門が語られています。教会から閉め出すのであって、それだけの理由がなければなりません。三位一体の主なる神を否定する異端者であること、あるいはまたそれに匹敵する罪が行う者である時に限ります。

Ⅲ.譴責は恣意的に行われてはならない!
 次にマタイ福音書18:17が示されています。15~16節より、裁きを行う前に、忠告をすることが求められます。その上で裁きを行うのであれば、証人が求められます。裁きを確定するのには、拙速に行われてはならず、時間をかけ、非常に慎重でなければなりません。
 そして最後にテトス3:10が挙げられています。「分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい」。
 教会役員として、牧師・長老が小会会議を形成していますが、主によって与えられた権能は非常に大きいものです。前回も確認しましたが、御言葉に忠実に、十戒の条文に従って犯罪を確定し、裁きを行わなければ、恣意的に用いられてしまいます。そうすれば、教会がキリストの教会ではなく、牧師と長老の教会、つまり人間が統治する場所に成り下がってしまいます。だからこそ、牧師も長老も、主なる神からの権能が与えられていることに、主の御前に畏れをもって、主の御言葉に従って、判断することが求められています。
 キリストは、罪人である私たちを無条件に受け入れ、キリストご自身の十字架の苦しみと死をとおして、私たちの罪を贖い、神の子として受け入れてくださったことを、私たちは忘れてはなりません。
 教会譴責・戒規と語れば、教会にその権能が与えられていると受け取られますが、愛により、罪を赦し、和解と平和が成し遂げられることこそ、教会に求められていることを、私たちは忘れてはなりません。
             
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「教会の会議 31:1」  使徒言行録15章1~21節     2021.6.6
 
 Ⅰ.標題について
 ウェストミンスター信仰告白第31章「シノッドとカウンシルについて」に入ります。私たちの教会では、松谷好明先生の訳を用いていますが、松谷先生は標題を英語をそのまま用いています。今までの日本語訳として、大会・総会、地方会議(地域会議)・総会議(全国会議)と言った訳が用いられてきました。私たちは通常、会議として中会・大会を用い、英語ではプレスビテリー、シノッド、ジェネラルシノッドが用いられます。
 ウェストミンスター信仰告白ではプレスビテリーを用いません。それは、主流派である長老主義ピューリタンに対して、各個教会主義を唱える独立派ピューリタンの存在があったからです。彼らは「長老」や「長老主義」という言葉を嫌います。そのため教会規則を作成するにあたり「長老」を用いず、「他の教会統治者」と標題を立て合意形成しました。
 また松谷先生の研究によれば、神学者会議において、討議している神学者自身が「シノッド」・「カウンシル」の定義を行わず、明確に区別しませんでした。そのため松谷先生も、シノッドは地方会議、カウンシルは総会議と分けてしまわない方が良いと考えておられ、標題としては英語表記をそのまま用いられました。

Ⅱ.教会の統治形態
 教会が、どのような統治形態をとるのかが重要な問題です。教会の統治形態としては、主に3つの立場があります。監督主義・長老主義・会衆主義です。
 監督主義は、ローマ・カトリック教会や英国教会が行っています。監督主義はひとりの監督(教皇・主教)により教会統治が行われます。そしてヒエラルヒ(ピラミッド型)です。カトリックの主張は、主イエスがペトロに首位権を与え、それがローマ教皇によって受け継がれていると語ります(マタイ16:13~20)。監督主義は、監督として立てられた者が適任者であれば教会が健全になります。しかし監督が真理から離れる時、教会は堕落します。
 第二に会衆主義です。先程語りました神学者会議に出席していた独立派の人たちは会衆主義を唱えました。現代における民主主義に合致しているように思います。しかし、会衆主義にはいくつかの問題が挙げられます。第一に、主なる神によって立てられた教会であることの認識の欠如です。そして会衆主義では、責任の所在があやふやになります。誰も責任を担わないこととなります。また教会全体で会議を行う時、有力者と呼ばれる人、声の大きい人の意見にながされやすい傾向にあります。また聖書的根拠も乏しいと言えます。
 そして最後が長老主義です。ウェストミンスター神学者会議の立場であり、私たち改革派教会も採用します。牧師と長老による会議であり、中会・大会といった会議の段階制を取ります。長老主義の欠点は、一つの結論を得るのに手間と時間がかかることです。多数決により、早急に決議することもできるかと思いますが、教会が一つの信仰を確認するために、同意形成のために時間をかけて同意形成を行います。
 長老主義は罪の混入を防ぎます。会議を形成する牧師と長老は、それぞれが会議により按手を授かります。しかし主の御前では罪赦された罪人に違いありません。各々は主の御前にあって決議しますが、罪が混入する恐れがあり、会議において多数決を行うことにより、ここに主の御旨があることを、私たちは確認します。そのため小会では、最低でも牧師一人、二人以上の長老により決議されることが求められ、一人の独裁を許しません。
 しかし、会議に集う牧師・長老の一人ひとりが、常に御言葉に聞き、教会における信仰告白・教会規定に学び続けていなければ、賛否に対しても形式的になります。
 長老主義の聖書的な根拠は、使徒言行録15章のエルサレム会議です。会議の内容は、異邦人キリスト者に割礼が必要かが問われたことでした。

Ⅲ.長老主義とは
 長老主義とは、会議の段階制、つまり小会・中会・大会・総会を持つということです。これは、小会において罪の混入・独裁者が支配することもあるからです。そのため上位機関である中会が小会の記録調査を行い、大会が中会の記録調査を行います。
 また長老主義が機能するために、教職の平等が語られます。もちろん、経験豊かな年長者の声に耳を傾ける必要があります。しかし投票においては、すべての教師・長老が1票であり、平等に扱われます。議員が各々、主の御前に決議を行うことが求められています。
 また小会では、牧師一人に対して長老は2名以上であることを求めます。どうしても各個教会では、牧師の発言力が大きく、牧師が誤った判断を行う時に、教会の中に、罪や混乱が混入することを防ぐシステムとなっています。
              
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「教会会議の招集者 31:2」  歴代誌下19章8~11節     2021.6.13
 
 序.
 ウェストミンスター信仰告白第31章「シノッドとカウンシルについて」に入りました。前回は、教会会議のシステムとして、長老主義こそが、罪と腐敗が教会に持ち込まれることを防ぐことができる最良のシステムであることを確認しました。

Ⅰ.為政者が会議を招集するとは……
 そして第2節では、教会会議の招集者について告白します。現代の日本の教会に集う私たちは、中会・大会といった教会会議は、常任書記団が招集することが当たり前で、教会自身が教会内において会議を招集するものと思っています。そして、「為政者が教会会議を招集することができる」と語ることには、違和感を覚えます。
 この節を理解するにあたり、旧約の時代における国家と宗教の関係、そしてウェストミンスター神学者会議が実現しようとしていた国家と教会の関係を確認する必要があります。
 まず旧約の時代におけるイスラエルという国家と、神の民としてのイスラエルの関係を顧みなます。イスラエルという国は、周辺諸国とは異なり、主なる神がアブラハムを召し出し、アブラハムにつながる子どもたちを主がイスラエルとして祝福してくださいました。彼らが一つの民族を形成し、イスラエルという国となりました。この時イスラエルは、主がお立てくださる族長・士師・預言者によって語られる主の言葉に聞き従うことが求められました。その後イスラエルの民が「周辺諸国と同じように、王を立てて欲しい」と願い、主はイスラエルの訴えに耳を傾け、イスラエルに王をお与えくださいました。しかしこの時、イスラエルに立てられた王は、自分の思いで政治を行い、イスラエルを統治することが許されたのではなく、常に王は主の御意志を確認し、主の御心に適うことを行うことが求められました。そのため、王が主なる神の御声に聞き従っている時には主からの祝福が与えられますが、王が主から離れた時、王は主なる神からの裁きに遭いました。そのため、イスラエルが宗教的な決定を行う時も、主からの命令に従うことが求められました。
 次に宗教改革の時代、特にウェストミンスター神学者会議が行われていた17世紀イングランドの状況を確認しなければなりません。中世における神聖ローマ帝国をはじめ、宗教改革に入っても、各国の統治者の宗教が国教として一国で一つの宗教でした。ですから、イングランドであれば、16世紀に国王ヘンリー八世の離婚問題で、ローマ教会から脱退し、イングランド国王をトップに据える英国国教会が成立しました。そして英国国教会は、王の信仰の立場によってカトリックに近くなったり、プロテスタントになったりして、17世紀に入り、エリザベス一世により、中庸主義の路線が敷かれることとなりました。ウェストミンスター神学者会議が開催された時、国王チャールズ一世はローマ教会よりの信仰を持っていましたが、議会はピューリタンが主流派となり実権を持っていました。そして、両者が内戦状況の中、英国議会が招集され、宗教的な諮問機関として神学者会議が招集されました。神学者会議に託されたのは、主教制度を廃止して、ピューリタン的な改革派信仰長老主義に基づく国教会を形成することでした。ですから、国王が教会を支持している時には、国王が宗教的な諮問を行うために会議を招集することは、当然の立場でした。

Ⅱ.日本における教会と国家
 ですからウェストミンスター神学者会議において形成しようとしていた教会は、改革派長老主義教会ですが、国教会制度に基づき、教区(教会区)制度です。つまり今、小学校があるように教区があり、そこに住む人は皆が教区にある一つの教会に行くのです。教区を越えて別の教会に行くことは許されません。そして一つの市で、一つのカウンシル(中会)が形成されるイメージです。ですからウェストミンスター神学者会議において信教の自由・政教分離など議論されていません。
 しかし現代の日本では信教の自由が保障されています。信教の自由が保障されることは、異教徒が支配している日本において、私たちキリスト者が信仰を守っていく上で重要です。この時私たちは異教徒の信仰をも尊重することが求められます。この時に政治に求められるのが政教分離原則です。為政者は特定宗教と結びつき、宗教的な力を用いて民を支配してはなりません。国家における宗教支配を禁止します。
 ですから、日本においては、国家の側が、教会に対して、会議の招集を求め、自分たちの決定を押し付けようとするとき、私たちは、それに反対しなければなりません。
 ですから、ウェストミンスター信仰告白31:2で告白されていることは、教会の置かれている時代・教会の状況を理解した上で、私たちの信仰の立場を守るために、何が大切であるか、そのことを十分に理解した上で、教会会議を開催し、教会形成を行うことが求められていることを、ご理解いただきたいと思います。
               
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「教会会議の内容 31:3」  使徒言行録15章12~35節     2021.6.20
 
 序.
 前回は、教会会議の招集者について学びました。ウェストミンスター神学者会議は国教会を前提とした長老主義教会形成を目指していたため、「為政者」によって招集されることもあるが、信教の自由が認められた日本において為政者が教会会議を招集することは、日本の歴史においても確認できるように、国家による教会支配が起こるため、私たちとしては認められないことを確認しました。

Ⅰ.国家的為政者との関係において
 今回は教会会議の内容についてです。最初に信仰告白が告白しないこと、つまり教会会議で扱ってはならないことを確認します。国家的為政者との関係において公共善、つまり平和や人々の生活に関わることなどに関しては、主なる神により国家的為政者に委ねられている働きであり(信仰告白23:1)、日本のように信教の自由が認められている国だけではなく、国教会においても、教会で扱うことをしてはなりません。
 ただし、主なる神によって求められていることからひどく逸脱する場合、特に偶像崇拝、国民の生命に関わる事柄に関してなどは、主なる神の権威により、助言・注意・抗議・反対することが求められています。そのため日本キリスト改革派教会では、偶像崇拝(靖国神社問題)、あるいは平和に関しても、抗議・反対声明を発表し、為政者に届けます。

Ⅱ.教会会議の内容
 その上で、信仰告白において教会会議において取り扱う事柄を確認します。最初に「信仰上の論争と良心の問題」です。これは教理的な事柄であり、私たちの教会においては、憲法委員会第一分科会において扱います。私たちの教会では、教理に関わる問題(ウェストミンスター信条を中心に)を憲法第一委員会において取り扱います。
 第二に、公的神礼拝と神の教会の政治をよりよく整えるために、規則と方針を定めます。教会政治、つまり政治規準・訓練規定に関しては憲法委員会第二分科会、公的神礼拝の礼拝指針・式文・讃美歌に関しては憲法委員会第三分科会において取り扱います。
 第三に、誤った教会運営の場合に訴えを受理して、権威をもって裁定することです。これは各個教会の小会決議に対して疑義があれば、上級会議の中会が、そして中会決議に関してであれば大会が、訴えを受理して裁定することが求められます。疑義に関して、会議は正統性を振りかざして排除するのではなく、謙遜になり訴えを聞くことが求められます。なぜならば、会議を構成する牧師・長老も罪赦された罪人であり誤りを犯しうるからです。また、弱い立場にある人の声を聞くことこそが、真の教会の姿です。自分たちの正統性を楯に聞く耳を持たない時、会議は乱れて腐敗し、教会員は離れていくこととなります。

Ⅲ.日本キリスト改革派教会における取扱い事項
 その上で、日本キリスト改革派教会における会議の内容を確認します。政治規準第67条(教会会議の平等性)「小会・中会・大会は、その本質において同一であり、本来、同等の権利と権能を有している」。小会は中会、中会は大会の決議に従うことが求められますが、本質においては同一の教会であり、同等の権利・権能が与えられています。
 第68条(教会会議の議事範囲)「各教会会議の議事範囲は、次のとおりである。
一 小会は、各教会にかかわる事項に法治権を有する。
二 中会は、一定地域内の教師・小会及び各個教会に共通の事項に法治権を有する。
  各個教会、教師・教師候補者、伝道・教育が中心になります。
三 大会は、全教会の中会・教師・小会及び各個教会に共通の事項に法治権を有する。」
 第95条(大会)「大会は、日本キリスト改革派教会の最上位の会議であって、本教会を代表し、これに属するすべての教会及び会議の間の一致・平和・調和を確立するものであると規定しています。」
 1.憲法関係(第一・第二・第三分科会、中会記録調査)。
 2.宣教関係(国内伝道、国内教会関係、外国教会関係、執事活動、宣教と社会問題)
 3.教育関係(教育、教育機関誌、学生・青年、教師学科試験、歴史資料編纂、出版)
 4.財務関係(経常会計、教師共済会、予算調整、会計監査)
 5.その他(諸委員選考、議事運営)
 ウェストミンスター信仰告白との違いを確認します。ウェストミンスターは国教会が前提のため「伝道」を語ることをしません。そのためアメリカ長老教会は「福音宣教」の章を改めて告白し、日本キリスト改革派教会も40周年宣言で告白しました。教育関係に関して信仰告白は語りませんが、ウェストミンスターの時代ピューリタンは、家庭礼拝・聖書研究を重視し、各個教会において行うことが前提でした。また財務関係や委員選考は、神学者会議、もしくは英国議会において行われていました。つまり日本キリスト改革派協会において行っていることは、ウェストミンスターを継承しているということができます。
          
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「教会会議も謝りうる 31:4-5」  エフェソ2章11~22節     2021.6.27
 
 Ⅰ.教会会議の議事
 教会会議において、どのような内容が審議され、審議しないかについて、前回学びました。実は前回の学びにおいて、最初に教会会議において審議しないことを確認したのですが、このことが今日の第5節で告白されている内容です。第4節を挟んで、別々に確認するよりも、一緒に扱った方がわかりやすいかと思い、学びを先に行いました。

Ⅱ.会議も誤りを犯す
 その上で、今日は第4節を学びます。信仰告白は、教会会議も誤った決議を行うことがあり得ることを告白します。こうした告白をあえて行うのは、ローマ・カトリック教会を意識してのことです。カトリック教会は、現在も、根本的に変更が行われていませんが、教会の無謬性を主張します。現在のカトリック教会は変化が生まれていると思いますが、基本的に過去の決議を否定しません。
 そうした中、ウェストミンスター神学者会議は、会議が誤った決議を行うこともあり得ることを告白し、会議が絶対的になってはならないことを主張します。ウェストミンスターの考えは、無謬なのは主の御言葉である聖書だけであり、人間が介在した所、それが教会であっても誤りが混入することを前提とします。それは、教会会議が決議した信仰告白にも及ぶことを忘れてはなりません。信条もまた無謬ではありません。信条も、修正されてよいわけで、時代・地域によっても変更されてよいのです。
 このことはウェストミンスター神学者会議もまた、絶対的なものではないことを、自分たちが十分に理解しつつ会議を行い、決議していたことを表しています。神学者会議に出席していた神学者の中には、長老主義のピューリタンが主流派でしたが、長老主義を否定する独立派の広い意味でのピューリタンがいました。また、教会は王に従うことを求めるエラストス主義者もいました。会議には出席しませんでしたが、王党派(主教主義者)も意識の中にありました。こうした中で決議を行う時、すべてにおいて、BESTな決議を行うことができたかといえば、そうではなく、神学者会議に出席していた神学者も、悩みつつ、誤った決議が混入することもあり得ることを覚えつつ、審議をしていたかと思います。そして、自分の信仰にとって受け入れることのできないことが、会議で決議される時、神学者は反対署名を行い、自分は決議されたことには反対であることを、意思表示したのです。

Ⅲ.罪赦された罪人として会議に参加せよ!
 この信仰告白の神学的前提には、全的堕落があります。会議を構成するのは牧師と長老です。主によって召され、教会によって承認されることにより、按手を受けました。しかし、牧師や長老もまた罪赦された罪人であり、罪が完全になくなることはありません。そのため、牧師も長老も誤ったことを行うことがあり得ます。そのため独裁という形で、一人が力を握り、他の議員を支配すること、あるいは会議を構成する全体が腐敗することにより、会議において、御言葉に逆らったことを決議することも避けることができません。
 そのため会議に臨むにあたり、牧師も長老も、自己中心になることなく、主なる神の御前に立ち、頭を垂れて遜ることが求められます。そのために、主がお語りになる御言葉に聴くことが求められます。そして教会において決議してきた信仰告白、教会規定を学び続けなければなりません。この時、告白された条文を追うのではなく、なぜ教会がこの条文を告白した聖書的な位置付け、目的、意図を確認しなければなりません。こうしたことが行われなければ、信仰告白も教会規定も、律法主義化してしまい、会議が硬直化します。
 そのために、会議を司る議長、書記団は、会議における事務的な事柄に終始し、会議の運営に尽力すること以上に、主の御前に遜りをもって会議に臨むことが求められます。

Ⅳ.教会会議の霊性
 それでもなお教会会議において、誤り・罪が混入することを避けることができません。そのため、各個教会(小会)に対しては中会が、中会に対しては大会が記録調査を行います。
 その上で私たちは会議の決議を尊重します。主によって立てられた牧師・長老によって決議されたものが、主の支配の下にあることを信じているからです。
 教会会議は、事務的な働きのように思われがちです。実際に、中会・大会の書記団は、相当な事務作業を担います。しかし、教会と各々の会議は、主なる神が御支配しておられます。そしてそこに集う神の民が、救いの喜びをもって、平安と安らぎをもって信仰生活を送るための霊的な働きであることを、忘れてはなりません。
 
           
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「人間の死後 32:1」  Ⅱコリント5章1~10節     2021.7.4
 
 Ⅰ.人間の死
 神の存在を受け入れない人たちは、人間を動物のごとくに、地上に生きている時にのみ生があり、死によってすべてが終わりであると信じています。そのため、物質主義、目に見えるものがすべての世界に生きることとなります。
 天地創造において人間がつくられた時、主なる神は、神のかたち、神に似せて生きるものとしておつくりくださいました(創世記1:26)。神のかたちにつくられることにより、体が与えられるだけではなく、魂も備えられました。魂があるからこそ、感情があり、神を信じること、礼拝すること、讃美することができます。しかし、すべての人間が肉の死を避けることができません。肉の死は、最初に神が人に対して生命の約束(創世記2:16-17)をお与えくださったことに対する違反によって、人間に罪が混入した結果です。この時以降、すべての人間が肉の死を避けて通ることができなくなりました。

Ⅱ.死後の義人の魂
 しかし、主なる神が創造してくださった人間には体と共に魂が宿っています。つまり人が地上における肉の死を迎えたとしても、魂が死ぬこと・なくなることはありません。信仰告白は、肉の死後の魂について2つの証拠聖句を挙げています(ルカ 23:43、コヘレト12:7)。
 これは、神を信じた神の民クリスチャンばかりか、神を知らずに死んだ、結果として滅びゆく者も同じです。ただ、その状態の違いを信仰告白は語ります。
 信仰告白は「義人」と語ります。「神の民・キリスト者」のことです。「義人」とは聖人のように罪を犯さない立派な人のことではありません。キリストの十字架の贖いにより義と認められたキリスト者のことです。つまり最終的な審判は最後の審判を待たなければなりませんが、もう「罪」は赦されたことが宣告されていると言って良いかと思います。
 そしてここの証拠聖句としてⅡコリント5:1,6,8が示されています。私たちの地上の生涯は幕屋のごとくであり、一時的な場所です。そして旧約の時代に神殿が与えられたように、私たちは地上の生涯を終えることにより、本宅である天国が用意されています。そして天国は、主なる神によって与えられる信仰によって約束されていることを語ります。

Ⅲ.遺棄される者
 そしてウェストミンスターは、遺棄される者、つまり地獄に投げ込まれる悪人の魂に対しても言及します。遺棄される者がいることを語る時、裁きを強調し、脅迫するように伝道することは避けた方がよいでしょうが、このことをまったく話すことなく隠したり、否定することも、避けなければなりません。
 そして信仰告白は、ここの証拠聖句として、金持ちとラザロの場面(ルカ16:23,24)を挙げています。貧しいラザロが死んだ時、アブラハムのいる祝宴が行われている天国に迎えられたことに対して、金持ちは陰府でさいなまれていることが語られています。そして死後のことは、このように聖書によって指し示されているのであり、主なる神を信じようとしない者も、誰も主の御前に不平を語ることは許されません。

Ⅳ.煉獄を考える!
 そして信仰告白は最後に一文を付け加えます。「聖書はこの二つの場所以外に、体から引き離された魂に対して、いかなる場所も認めていない」。カトリック教会では、中間層と呼ばれる煉獄を語りますが、ウェストミンスター信仰告白はこれを否定します。
 ローマ・カトリックの用いています「カトリック教会のカテキズム」において煉獄について告白していますので、確認しておきます。1030 「神の恵みと神との親しい交わりとを保っていながら、完全に清められないままで死ぬ人々は、永遠の救いこそ保証されているものの、死後、天国の喜びに与るために必要な聖性を得るよう、ある浄化の苦しみを受けます」。1031 「教会は、永遠に呪われた人たちの苦しみとはまったく異なる、選ばれた人が受ける最終的浄化を、煉獄と呼んでいます。教会は煉獄に関する信仰の教えを、とくにフィレンツェ公会議とトリエント公会議で表明しました。教会の伝承では、聖書の若干の箇所に基づいた、清めの火というものを取り上げています(Ⅰコリント3:15、Ⅰペトロ1:7)」。
 これらの聖句はいずれも、地上における試練について語られていて、肉体の死後に訪れる場所として語られているものではありません。主なる神によって創造された人間として、肉体の死をどのように覚えるかは、私たちの信仰にとって非常に大切なことです。主なる神は、信じる者に救いを宣言してくださり、神の御国をお与えくださいます。
        
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「死者の甦り 32:2-3」  Ⅰコリント15章35~58節     2021.7.11
 
 序.
 ウェストミンスター信仰告白の最後、終末論の学びを行っています。
 前回は、人間の肉の死に伴い、魂がどうなるのかを、確認しました。続けて、今日の信仰告白では、キリストが再臨され、復活の体が与えられる時のことを告白します。この部分は、キリストの再臨、人間の復活、そして最後の裁判と神の国の完成と一連の流れですが、ウェストミンスターにおいては、最後の審判に先立つこととして、別の章に分けられています。ですから、前回・今回・次回の学びは連続的であり、そうしたことを念頭に学んで頂ければと思います。

Ⅰ.キリストの再臨時に生きている者
 そして第2節では、最初に終わりの日に、生きている者たちについて語ります。つまり、キリストの再臨によってすべての人間が復活し、最後の審判に臨みますが、キリストの再臨の時に地上の生涯にある人たちは、生きたまま上げられます(参照:Ⅰテサロニケ4:16-17)。
 1世記後半、主イエスの弟子たちは、まだ終末が訪れないのかとの思いでしたが、2000年の年月が経ち、現在に生きる私たちの多くは、「自分たちが生きている時には、終末は訪れない」と高をくくっていないでしょうか? 主イエスは思いがけない時に来るから、目を覚ましておくようにお語りになります(マタイ24:43-44、50-51、25:13)。

Ⅱ.再臨に伴う復活
 続けて第2節後半では、キリストの再臨に際して、私たち人間がどのような状態で復活するのかということが告白されます。主イエスの復活を思い浮かべていただきたいと思います。エマオの途上において、二人の弟子たちは、一緒に旅をして話し合っていた人が、復活された主イエスであることに気が付きませんでした(ルカ24章)。宿屋について、食事の席で、讃美の祈りを唱えられた時に、復活された主イエスであることに気付きました。つまり復活した時に与えられる体は、地上の歩みを行っていた時と、まったく様相が同じと言うことではありません。新しい復活の体が与えられることは、まったく新しい、神の栄光に満たされるのにふさわしい体であって、生前の体を考えることは不要だと思います。それでもなお、二人の弟子が復活の主イエスであることに気が付いたように、十字架に架けられる前の主イエスの面影・雰囲気が残っていたと言ってよいのではないでしょうか。
 復活して新しい体が与えられることは、最後の審判の後の永遠の生命と直結しています。そのため、キリスト者の新しく与えられた体は、朽ちることはありません。闇である死に属する者でしたが、キリストの十字架の贖いにより、光である天国の生命に属する者とされます(参照:Ⅰテサロニケ15:42-49)。

Ⅲ.復活した状態
 第3節では「正しくない者たち・正しい者たち」と記されていますが、第1節では「義人・悪人」と記されていました。大教理問答でも混在しています。厳密には違いを意識して言葉を選んだのか、この当時は違いをあまり気にせずに作成したのか理由は分かりませんが、同じことを言い換えていることは確かかと思います。
 また順番も逆転しています。第1節では、義人・悪人の順番でしたが、第3節では、正しくない者・正しい者の順番です。そして第33章「最後の裁きについて」の第2節でも、義人・悪人の順番に戻っています。ウェストミンスター信仰規準全体をとおして、順番などには気をつけて、論理的な順番で記していることから考えても、不思議なことです。
 信仰告白は、復活した時の状態に関して語りますが、証拠聖句から確認します(使徒24:15、ヨハネ5:28,29)。また金持ちとラザロの場面も確認します(ルカ16:23~26)。この状態は、復活し新しい体が与えられる時、そして最後の審判の後にも継続していくこととなります。
 キリスト者であっても、肉の死と共に最後の審判を恐れる人がいるかと思います。しかし、肉の死を迎え、神の子とされたキリスト者は、罪が赦され、永遠の生命が決定しています。恐れている自らの罪の刑罰は、すでにキリストの十字架によって贖われています。私たちキリスト者は、このことを理解し、感謝して、喜びをもって受け入れることが求められています。最後の審判を恐れる必要はまったくありません。
         
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「最後の審判と神の国 33:1-2」  ヨハネ5章19~30節     2021.7.18
 
Ⅰ.神の秩序の中の最後の審判の位置付け
 私たちが信仰告白を学ぶにあたり、教理の全体像、そして方向性を忘れてはなりません。つまり、父・子・聖霊の三位一体なる神が、6日間で天地万物を創造し、私たち人間も、主により、神のかたち・神に似せて創造されたことです(創世記1:26)。この時の終着点・ゴールは、神の国の完成であり、人は三位一体の神との交わりに生きる者となることでした。つまり、天地創造の時からゴールに到るまで、世界は主なる神の支配の中にあり、主なる神から離れた所に、被造物である人間にとっては生きる喜びはありません。
 しかし、主によって創造された人は罪を犯しました。罪の刑罰は死です。この時、主なる神が天地創造の時に定められたゴールは、世に持ち込まれた罪を除去することが必要となりました。なぜならば、主なる神は義・聖・真実な方であり、罪を受け入れることができないからです。そしてこの罪が除去される日が、裁きの日(最後の審判)です。
 裁きはイエス・キリストに委ねられました(参照:ヨハネ5:22,27)。そして最後の審判の時は、主なる神によって定められています。私たちは黙示録を読むことにより、終末が訪れることを知ることができますが、しかし私たちは、終末がいつ訪れるかを知ることはできません。だからこそ、目を覚ましておくように語られるのです(マタイ24,25章)。

Ⅱ.最後の審判に臨む者
 続けて信仰告白は告白します。「その日には、背反した天使たちが裁かれるだけでなく、同じように、地上に生きたことのあるすべての人が、かれらの思いと言葉と行いについて申し述べ、善であれ悪であれ、かれらが体をもってなしたことに応じて報いを受けるために、キリストの法廷に立つことになる」。天使に関して私たちはあまり注目しませんが、聖書はそのことを語っています(Ⅰコリント6:3、ユダ6、Ⅱペトロ2:4)。
 そして、地上に生きたことのあるすべての人が最後の審判を受けます。生まれて直ぐに死んだ子ども、死産だった子どもはどうか、ということも言われるかと思います。最終的には主なる神に委ねなければなりません。
 そして、最後の審判において、私たちの何が罪に問われるかと言えば、私たちの地上での全生涯における思い・言葉・行いのすべてです。義・聖・真実なる主なる神の御前に、これらのことが提示される時、私たちは、誰一人、申し開きすることはできません。

Ⅲ.最後の審判が定められた目的
 ただし、主なる神が最後の審判を行うのは、人を裁くためではありません。罪を除去し、神の御国を完成させるためです。そのため信仰告白はその目的を語ります。「神がこの日を定められた目的は、選びの民の永遠の救いによって、自らの憐れみの栄光を表し、また、悪く不従順な失格者の裁きによって、自らの義の栄光を表すためである」。最後の審判の目的は、人の裁きではなく、罪が除去され、選ばれた民キリスト者が救われることです。
 「なぜなら、そのとき義人は、永遠の命に入り、主の御前から来る満ちあふれる喜びと力づけを受けるが、悪人は、神を知らず、イエス・キリストの福音に従わないので、永遠の苦しみに投げ込まれ、主の御前と、主の力の栄光から永遠に絶たれることによって罰せられるからである」。主なる神は、罪を受け入れることができませんが、最後の審判においては「罪を犯したから裁く」とは語りません。「神を知らず、イエス・キリストの福音に従わない」こと、頑なさ故の裁きです。つまり、主によって選ばれ、有効に召命されて神の民として召された者たちは、信仰が与えられ、主に従った生活へと導かれます。それに対して、頑なな人が裁きを受けると語ります。これは、ウェストミンスター信仰規準全体を貫く契約信仰が表れている告白です。罪を犯したか、犯していないかということでは、義人と言われる救われる者も、罪を犯したことがない人はなく、主の刑罰に値します。しかし主なる神は、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いにより、信仰により罪を赦し、神の子としてくださいました。主なる神は、信仰の故に義と認め、子とし、聖化の生活をお与えくださり、救いへと導いてくださいます。これが恵みの契約に生きる者の姿です。
 最後に、幼くして・神を信じる知恵がつく前に亡くなった子どもたちに対してはどうなのかということを確認します。カトリックでは、そのために洗礼が必要であるとして、宗教改革期までは、助産師にも洗礼を授ける権能を与えていた程です。このことに関して、第10章「有効召命について」の第3節ですでに告白しており、ここでは語っていません。
          
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「希望に生きるキリスト者 33:3」  黙示録22章6~21節     2021.7.25
 
Ⅰ.ウェストミンスター信仰告白が語ること
 ウェストミンスター信仰告白の学びも今回で最後です。聖書論に始まり、神・予定、人間とその罪、神の御子キリスト、聖霊論における有効召命・義認・子とすること・聖化、救済論における信仰・悔い改め・善き業、神の律法とそれに関わること、教会論、そして最後の終末論と学んできました。これらのすべてが、私たちの生きる目的「神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとする」と語るウェストミンスター小教理問1に繋がります。
 また、ウェストミンスター信仰告白全体は、私たちキリスト者が、改革派信仰を持ち、神の民として、神の御国を目指して生きるために必要なことが、告白されているのであって、結果として神の救いに与ることができない方々のために記されてはいません。そのため私たちが、ウェストミンスター信仰告白を学び、私たち自身で理解し、この信仰に生きることが大切であり、これをもって、未信者への伝道の手段に安直に用いてはなりません。

Ⅱ.最後の裁きで罪の赦しが確定しているキリスト者
 「キリストは、すべての人に罪を思いとどまらせ」るためです。すべての人と語るとおり、神の民として救われるキリスト者に対しても語られています(参照:Ⅱコリント5:10,11)。
 神の民であるキリスト者は、最後の審判において、キリストの十字架の贖いにより罪が赦されますが、罪がなかったのようにスルーされるのではなく、神の御前に明らかにされた上で、罪が赦されます。そのため、「もう救われているのだから、何を行っても良いではないか」とする神の選びを誤った形で理解してはならないことを警告しています。
 私たちは律法(十戒)を繰り返し確認しなければなりません。十戒により自らの罪が示されます。そのため私たちは毎日、罪を悔い改め、それでもなおキリストの十字架の御業により罪が赦されている恵みを感謝します。そしてキリストに倣った生活を行うことが促されていきます。これが聖化の表れとしての善き業です。十戒を顧みることは、教会における信仰生活、さらに教会員との聖徒の交わりに生きることにつながります。「信仰を持っていれば教会に行く必要はない」と考える個人主義的な考えは受け入れられません。
 その上で信仰告白は「敬虔な者たちをその逆境の中でいっそう慰めるという目的のために、裁きの日がある」と告白します。神の民になるための信仰の訓練です(参照:Ⅱテサロニケ1:5~7)。キリストの信仰は試練により、精錬されていきます(Ⅰペトロ1:7)。また同時に「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:13)とも語られています。いずれにしても、これらのすべてのことは、神の国の完成と神の民の救いに向けられていることから、理解して頂けるのではないでしょうか。

Ⅲ.神の国の希望に生きるキリスト者
 続けて信仰告白は「いつ主が来られるかわからないので、人々が、すべての肉的な油断を振り捨てて、常に目を覚ましているように」と告白します(参照:マタイ24:36,42~44、マルコ13:35~37、ルカ12:35,36)。すでに罪の赦しと救いが確定しているキリスト者ですが、だからといって、油断し罪の中に生きることは避けることが求められています。
 信仰告白は最後で、「いつでも『来りませ、主イエスよ。すみやかに来りませ、アーメン』と言う用意ができているように、その日を人々に知らせずにおかれる」と告白します。キリスト者にとっての生きる希望は、まさに神の国が完成し、新天新地における神の栄光の中に生きることです。私たちはこのことを聖餐式において確認します。神の国の晩餐は、わずか人数の交わりではありません。主なる神の御前に、すべての神の民が集められます(参照:黙示録7:9~12)。私たちは、この日が与えられることが約束されています。この希望が与えられているからこそ、私たちは常に喜びをもって生きることができます。

最後に.
 これをもって、ウェストミンスター信仰告白の学びを終えます。
 私たちは改革派教会を立てるためにこの信仰告白を学び続けて来ましたが、ウェストミンスター神学者会議では、国教会、つまりすべてのキリスト教会が一致することを目指していました。そしてウェストミンスター信仰告白は、バプテスト教会や福音派教会にもと受け継がれていきました。信仰告白は、意見の違いを確認しつつも互いの一致できることを確認しつつ信仰の一致を目指すために用いていくことが、私たちには求められています。  (完)
           
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