◆日本キリスト改革派教会宣言  連続講解説教

「日本基督改革派教会設立」  詩編145編    2022.9.4
 
Ⅰ.詩編145編より、改革派教会を考える
 今日から、日本キリスト改革派教会の宣言について学び始めます。今日は、詩編より歴史的な改革派教会とはどのような教会であるのかを確認した上で、日本キリスト改革派教会の創立の流れを学ぶこととします。
 詩編145編は、146~150編にあるハレルヤ詩編に先立ち、改革派教会がどのような教会であるかを豊かに語っているかと思います。つまり、まず詩編の作者は、主なる神を誉め称えます。大きな御業(3)、力強い御業(4)、 輝き、栄光・威光、驚くべき御業(5)、恐るべき御力(6)と語られていきます。永遠から永遠に生きておられ、天地万物を創造し、今もすべてを統べ治めておられる神を誉め称え、神の絶対的な支配、御力を顧み、讃美します。
 その上で神の憐れみを語り(8-9)、罪故に滅び行く人間に対して、主なる神は一方的な恵み、忍耐強い憐れみをもって御子による罪の贖いと救いを提示してくださいました。この神の恵みが私たちに示されたとき、私たちは、主による救いに感謝をもち、罪を悔い改め、信仰を告白して、主に従うものへと変えられて行きます。このとき、主によって救いへと招かれた者は、主を誉め称え、主を礼拝し、主に従うものへとされていきます(10節以降)。
 改革派教会は、他のプロテスタント教会との一番の違いとして、神中心の信仰です。それは「いかに自分が救われるべきか」を探求するのではなく、「いかにして主なる神が私たちを救ってくださったのか」から考え始めます。「神の御前に」(コーラム・デオ)と語られますが、自分が神に近づいていくのではなく、主から物事を考え始め、私たちの行いではなく、神の恵みによって救いが与えられたのです。こうした神中心の信仰がウェストミンスター信仰規準において展開され、予定の教理が中心的な教理として据えられていきます。

Ⅱ.改革派教会設立以前の日本のキリスト教会の歩み
 日本で最初のプロテスタント教会である日本公会(横浜公会・現横浜海岸教会)が1872年に設立され、今年で150年を迎えます。日本のプロテスタント教会は、この頃から2つの流れがありました。一つは、「公会」と名乗ったように、教派として分かれて活動するのではなく、一つの教会として歩もうとする流れです。教派性を除くことにより、結果として信仰はあやふやになります。1890年に旧日本基督教会が設立しますが、このとき、使徒信条に簡単な前文を伏した簡易信条を採用し、ウェストミンスターやハイデルベルクのような詳細信条を持ちませんでした。
 第二のグループは、ウェストミンスターを初めとする詳細信条による教会を設立するというグループであり、ヘボンが1874年に設立した横浜第一長老教会に始まり、その後1877年には日本基督一致教会を設立し、ウェストミンスター信仰告白・小教理問答、ドルト信仰規準、ハイデルベルク信仰問答を採用しますが、先ほど語りました旧日本基督教会に看板を掛け替え、簡易信条の教会となりました。
 その結果、朝鮮併合・大東亜戦争・第二次世界大戦へと向かうとき、教会は戦争に反対すること、神社参拝をし、天皇の崇拝を拒否できず、むしろ協力していくこととなります。そして政府の呼びかけにより教派合同が行われ、1941年に日本基督教団が設立されました。

Ⅲ.日本基督改革派教会設立
 こうした状況の中、日本基督改革派教会を設立することになる牧師たちは、教団合同への合同に反対していたのですが、1945年8月15日に戦争が終わるやいなや改革派教会設立に向けて動き始め、1946年1月22日には関西第一回長老会議を行い、現西部中会が成立し、4月28・29日の創立大会を行い改革派教会が創立しました。改革派教会の設立の理由として、簡易信条を用いていたため、信仰の戦いを行うことができずに日本基督教団に合同に至ったこと、自分たちの信仰が歪められ、神社参拝を行い偶像崇拝を行ったこと、礼拝において宮城遙拝を行ったこと等を挙げることができるかと思います。
日本基督改革派教会宣言 序言(現代語訳草案)
 「終戦後すでに9ヶ月、敗戦祖国の再建はさまざまな構想と方法とによって計られているとはいえ、聖書に「主ご自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主ご自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」とあるのは真実です。宇宙と人類を統べ治めておられる全知全能、聖さと愛のきわみである神を信じるのでなければ、国家がよく建てられ、よく保たれることはありません。」
 その上で、簡易信条においてにおいて躓いたことの反省より、ウェストミンスター信仰規準を信仰規準として採用し、信仰を確立し、神社参拝という偶像崇拝の強要に対しても、信仰の戦いを行うことができる教会を目指したのではないでしょうか。創立者の一人岡田稔先生は、「改革派教会の特色」を記し、創立に対する思いがまとめられています(別紙)。


 改革派教会の特色(十箇条)
1.改革派教会は、最も聖書的教会である。聖書66巻を誤りなき神の言として、信仰と生活の規準と信じる。
2.改革派教会は、最も教理的教会である。神の言である聖書を正しく体系化し、正統教理に依拠して、聖書の教を明示する。
3.改革派教会は、最も神中心的な教会である。神の主権を強調し、その栄光を唯一の目標とする。
4.改革派教会は、最も霊的な教会である。儀式や人為的工夫を排して、霊と真をもって神を礼拝する。
5.改革派教会は、最も民主的教会である。キリストのみが我ら罪人の唯一の仲保者にして、預言者、祭司、王でいましたもうと信じる。故に、教会の世俗化、階級化、教権に強く反対する。
6.改革派教会は、最も自由、自律を主張する教会である。教会の国家的支配を排して、ただ首(かしら)なるキリストにのみ服従する。
7.改革派教会は文化的活動に寄与する能力を有する教会である。人生のあらゆる部面に向かって、救いの実現を希望する。
8.改革派教会は、厳格な生活の清潔と道徳の実践を強調する教会である。
9.改革派教会は、信条主義に立ち、他教会との交友を重んじ、各教会の信仰と行動の自由を尊びつつ、協力することを望む教会である。
10.改革派教会は、長老制を聖書的制度であり、教会の純正を保持するにも最も有効な制度として採り、各個教会は中会に、中会は大会に属することを建前とする。
 過去の歴史が実証するように、聖書のみが、あらゆる迷信と無神論に対する有効な破壊力を持つことを、改革派キリスト者は確信する。
                               岡田 稔
 
 
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「創立宣言 第一の主張」  Ⅰコリント10:23~11:1    2022.9.11 
 
序.
創立宣言には、二つの柱が告白されています。主張の第一点は、有神論的人生観世界観こそ新日本建設の唯一の確かな基礎であることであり、今日、学んで行くこととします。そして主張の第二点は、「見えない教会」の唯一性を、信仰告白・教会政治・善き生活とを備えた「見える教会」として具現化することです。今後、学んで行くこととなります。

Ⅰ.神の御前に
 改革派教会の特徴は、神の御前に生きることであることを先週語りました。創立宣言の主張の第一点は、神の御前に生きるキリスト者とな何かが告白されています。
 改革派教会が創立した当時(1946年4月)、戦争により多くの都市が空襲で焼け野原となり、広島・長崎の原爆、沖縄の地上戦を目の当たりにしてきました。彼らはその中に生きていました。創立宣言はそうした歴史と教会の悔い改めを告白します。彼らは生きて働き、歴史を支配しておられる主の御前に立っています。ここに主の働き、摂理があることを覚えます。為政者にあらがうことができず、信仰をまっとうすることができなかった事実を顧みなければなりません。彼ら一人ひとり、神の御前にひれ伏し、全的堕落を覚え、罪を悔い改め、そして主の御業の内にあって教会を建て上げようとする志が込められています。

Ⅱ.有神的人生観・世界観
 そして創立宣言は続けて告白します。「その戒めのとおり神を敬い、隣人を愛し、ただ精神文化面だけでなく、『食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、神の栄光を現す』ことを最高の目的としなければなりません」。「隣人を愛し、ただ精神文化面だけでなく」と語るのは、日本のプロテスタント教会の倫理的側面を前面に押し出した伝道と、その行き詰まりを目の当たりにしての言葉です。信仰が精神論になってはなりません。
 「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)。教会に来ているときだけ、聖書を読みお祈りしているときだけが、神の御前にいるのではありません。私たちは24時間、常に神の御前に生きています。私たちは何を誇って生きることができるのでしょうか? 生命を与え、恵みにより罪の赦しと救いをお与えくださった主なる神の栄光を称え、証しする以外、何もありません。この創立宣言の告白はウェストミンスター小教理問答問1につながります。
  問1 人間の第一の目的は、何ですか。
   答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです。
 私たちが人間として生きる目的は「自分は○○をする」ことではありません。主が生命を与え、賜物を与え、必要なものをすべてお与えくださっています。救いの感謝が「神に栄光を帰する」こととなります。そして主が共におられることを喜びとして生きるのです。それは「今・地上の生涯の間」だけではなく「永遠」にです。地上の生涯を終え、肉の死を迎えても、魂は主に受け入れられ、キリストの再臨のとき、復活の体が与えられ、そして神の御国への凱旋が待っています。つまり肉の死を迎え、墓で眠っているときも、神の御国に入れられたときも、常に神を喜んで生きることが許されています。創立宣言はこうした神の御前に生きる信仰生活のことを、有神論的人生観・世界観に生きると語ります。

Ⅲ.文化命令、そしてカルヴィニズム
 そして神の御前に生きる・有神論的人生観世界観を確立することは、主が私たち人間を創造された目的・秩序を顧みることによって明らかになります(創世記1:26)。文化命令と呼ばれています。主が天地創造の最後に人間を創造された目的は、人間が神に代わり世界を治めるためでした。治めるとは自由にして良いことではありません。天地創造の後、人が罪を犯すことにより、世界に歪みが生じました。それを正すこと、神が求める平和を求めることです。罪の歪みを正すことでは、奴隷制度の解消、男女平等、人権の確立と差別の解消、病院・福祉の形成、学校教育、環境(SDGs)……があります。また、平和を形成するということから、教会の秩序、社会の秩序、権力の秩序を整えることが求められます。独裁を認めず、相互理解・対話を重視していかなければなりません。
 こうした取り組みを、私たちキリスト者が生きている社会のあらゆる分野において行われていくことが求められます。そのために、それぞれの分野においてキリスト者がリーダーに立つことが求められていきます。つまり、私たちが有神論的人生観世界観に生きるのは、非常に大きな広がり・視野を持ち、キリスト者として証しの生活を行っていくことです。私たちは、こうした社会を形成するためにキリスト者として教会形成を行っています。

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「創立宣言 第一の主張(神の救いの計画と実現)」  エフェソ1:3~14    2022.10.2
 
序.
 創立宣言には二つの主張が告白されています。主張の第一点は、有神論的人生観世界観こそ新日本建設の唯一の確かな基礎であること、そして主張の第二点は、「見えない教会」の唯一性を、信仰告白・教会政治・善き生活とを備えた「見える教会」として具現化することです。

Ⅰ.エフェソ書
 今日は主張の第一点が、神の予定と摂理に基づくことであることを確認します。これは、エフェソ書1章から告白しています。エフェソ書は、神の永遠の御計画と、それに基づくキリストの贖いについて語られています。神によって救いへと予定されている私たちキリスト者は、キリストの贖いによって罪が赦され、神の救いに入れられています。つまり、私たちがキリスト者として生きるということは、主なる神の御計画と、キリストの十字架の御業と密接に繋がっています。

Ⅱ.救済史に基づく私たちの信仰
 一方創立宣言では、聖書の歴史に基づいて告白しています。大宮教会では、救済史の図表をお配りしていますが、このことを言葉で告白した形です。主の創造において、人は、神に似せて、神のかたちに創造されました。このとき神との交わり、神を礼拝し、讃美すると共に、主がお造りになられた全被造物を治める働きが与えられました。しかし人は、神との約束(生命の契約:創世記2:16,17)を破り、罪人となり、必ず死ぬ者となりました。このことを「そもそも人類は神の御前に一体であり、ひとしく罪の奴隷です」と告白します。
 続けて、「しかし神は罪ある人類のために、永遠の御旨にもとづく救いの計画をお立てになり、御子イエス・キリストの贖いの御業によって歴史の中に実現し、永遠の命に定められている者たちに信仰を与えて彼らを召し出し、義とし、子とし、聖化しつつ、人とともに住まわれます」と告白します。ここは先ほどのエフェソ書の部分と合致しますが、ここではさらに、ウェストミンスター信仰告白の言葉を用いつつ、有効召命・義認・子とすること・聖化が語られます(第10~13章)。これらは神の予定(第3章)、さらにキリストの贖い(第8章)に基づく聖霊の働きであることを、私たちは確認することができます。
 続けて「人とともに住まわれます」と告白します。神によって救いへと招かれた私たちは、いつでも主と共に生きているのであって、それが第一の主張である「有神的人生観・世界観」につながります。そして、「これがわたしたちの信仰であり、その救いは人類の罪の起源とともに古く、人と共に住まわれます」と告白します。私たちの救いは、私たちが神を知り、神を求め、神を信じなれば起こらないことのようですが、主の御計画によって定められており、決定した事実が私たちに聖霊が働きかけることにより実現したのです。
 「これがわたしたちの信仰であり、その救いは人類の罪の起源とともに古く、人類の救いの完成の日にまで至ります。4000年の昔、神はアブラハムを選んで「信仰の父」とし、彼と契約を結び、彼の子孫を恵み(ただし不信の者は除かれました)、彼らにご自身の大いなる知恵、力、慈悲、真理をあらわにされました。」アブラハムに始まるイスラエルですが、原福音としての恵みの契約(創世記3:16)が、アブラハムにより更新され、神の救いが明らかに示されました。しかし肉におけるイスラエルだから救われるのではありません。神の恵み、神の救いに生きる者が救われます。そのためイスラエルの民でも、偶像崇拝、姦淫の罪を犯し、悔い改めない者は、神の民から除かれたことをここで告白しています。
 続けてキリストの十字架の御業を確認し、「その十字架の死と復活によって救いの基が据えられた後、ただちに、不思議な摂理により、この救いの福音はユダヤ人の不信仰を通して全世界に及びました」と告白します。キリストの十字架の御業により、福音がイスラエルから全世界に広がりを見せます(参照:マタイ28:16-20)。主なる神による救いは、バベルの塔(創世記11:1-9)によって世界が分断されたことからの和解がもたらされ、神の国における和解が行われます。このことは、福音が私たち日本人にも伝えられたことによっても確認することができ、同時に、今世界において戦争・独裁・迫害が起こっていることにより、このバベルの塔による分断が今なお解消されていないことも確認しなければなりません。

Ⅲ.今に生きるキリスト者として
 私たちキリスト者は、今の時代がどのような時代であるのかを、聖書から聞き続けることが求められます。第二次世界大戦後、日本では、70年以上の間、戦争がなく、平和が築かれてきました。しかし周辺諸国では戦争が行われています。大震災をはじめとする数多くの自然災害があります。そして今、世界的なパンデミックの中に生きています。こうした世界にあって、私たちはキリスト者としてどのように生きるべきか自己検証し、悔い改め、信仰を新たにし続けなければなりません。その上で、歴史の中に改革派信仰に基づくキリストの教会を建て上げることを、創立宣言で告白します。
 
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「創立宣言 第二の主張(見える教会の形成)」  コロサイ1:9~23    2022.10.9 
 
序.
 創立宣言には、改革派教会の二つの柱が告白されています。主張の第一点は、有神論的人生観世界観に基づいてキリスト者として生きることです。そして主張の第二点は、「見えない教会」の唯一性を、信仰告白・教会政治・善き生活とを備えた「見える教会」として具現化することです。今日から第二の主張を学ぶこととします。

Ⅰ.「見える教会」、「見えない教会」
 創立宣言は「見えない教会」・「見える教会」と語ります。私たちは、この地に改革派大宮教会を建てています。このとき、実際に私たちが大宮教会の会員として存在し、地域の人たちもここに教会があることを知っています。これがここで語る「見える教会」です。
 そして理想的な教会として語られているのが「見えない教会」です。聖書が語る救済のすべてを思い描いていただきたいのですが、キリストが再臨し、最後の審判が行われ、神の国が到来し、私たちキリスト者は皆が復活の生命が与えられ、神の国が到来します。これが天国における教会です。今、私たちは直接見ることができません。この天国における教会が、「見えない教会」の完成形として思い描いていると言ってよいかと思います。
 つまり私たちがキリスト教会を形成しようとするとき、人間的な世俗が持ち込まれては困るのであり、私たちの教会の形成は天国の教会を目指すことを創立宣言は述べています。

Ⅱ.完成された「見えない教会」を目指す私たち
 そして創立宣言は、「『見えない教会』は全世界にわたり、過去、現在、未来のすべての歴史を通して、また地上と天上とを貫いて、聖なる唯一の公同教会として存在しています」と告白します。天国の教会は、完成形・最終到達点であり、今立てられている見える教会である大宮教会は、「見えない教会」とは別々に存在しているのではありません。
 ここで神の救いの御計画を確認します。主なる神は、救う神の民を一人ひとりお選びくださり決定しています。この救いの民を、主は一人ひとりに働きかけてくださり、教会へと導いてくださいます。そうすることにより私たち一人ひとりも大宮教会に導かれ、見える教会の会員となりました。このとき神の選びにある民は、神の国の民としての刻印が押されており、神の御国に入ることが決定しています。まさにこのとき、見えない教会の一員とされているのです。だからこそ創立宣言は、「過去、現在、未来のすべての歴史を通して、また地上と天上とを貫いて」と語ります。つまり、新約聖書の時代は家の教会です。中国では地下教会があります。教会堂を持たない、あるいは牧師のいない教会もあります。しかし、そこに神の民とされたキリスト者がいれば、そこが教会です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と語るように、そこに見えないキリストの教会が存在しているのです。
 ただ地上に属している神の民であるクリスチャンは、地上の歩みの中、完全聖化しておらず、罪赦された罪人です。そのため地上に存在する教会は未完成です。そしてキリストの再臨と最後の審判によって現れる天国における教会を目指して、教会形成を行うのです。

Ⅲ.私たちが大宮教会を形成するとは……
 そうした中、神の国における完成された教会を目指す私たちが、どのようにして教会形成を行うのかということを、創立宣言は主張の第二点として告白します。
 天国における完成された教会の姿を、私たちは聖書から読み取ります。自分勝手な解釈を行っていると、正しさから離れてしまいます。自分勝手な解釈を行っていると、時として異端者となってしまいます。教会は、異端的な解釈が出てくる度に、主が求めておられる教会像を、聖書から導き出し、信仰を告白してきました。これが信仰告白です。信仰告白、教会政治、善き生活が、それぞれどのようなものであるかについては、改めて個別に学びを続けて行くことにより明らかにしていくこととします。
 主イエスは天に昇られるとき、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:18~20)と伝道命令をお語りになりました。これは、私たちが教会を形成するとき、「ただ人を集めて教会を大きくする」とか、「伝道を熱心に行う」とか、自分たちの努力・熱心で教会を建て上げるものではありません。信仰に基づく生活、救いの喜び、神の愛をもって生きるとき、私たちの存在そのものが、主を証しする伝道となります。一生懸命さではなく、御言葉に基づいて救いの喜びに生きることこそが大切です。その礎として、信仰告白・教会規程・善き生活が求められています。

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「創立宣言 第二の主張(信仰告白)」  Ⅰヨハネ5:6~12    2022.10.16 
 
 序.
 前回は、創立宣言の第二の主張より、天国における見えない教会を目指す私たちは、この地において、目に見えるキリスト教会を形成することが求められていることを確認してきました。そのための三本柱が、信仰告白であり、教会政治であり、善き生活となります。

Ⅰ.なぜ信仰告白を持つの?
 そして今日はその最初「信仰告白」について学びます。このことは、繰り返し語ってきていることですが、改めて確認するととします。
 宗教改革に基づいて建てられているプロテスタント教会では「聖書のみ」が語られ、「聖書だけでよい」と語られることもあります。しかし、聖書をどのように読み、どのように解釈するのかは、人間です。生まれながらに罪人であり、自己中心に生きる私たち人間が聖書を解釈するとき、自分の都合の良いように聖書を解釈してしまいます。そのために、「聖書のみ」と語りつつも、聖書の解釈に違いが生じます。
 いろんな解釈ができる聖書の箇所があるとき、教会は一致を保つことができません。主イエスは、山上の説教の最後(マタイ7:24~27)において、岩の上に家を建てた賢い人の例えを語っています。創立宣言は、「新約のキリスト教会も初代教会の時代からあらゆる異端と戦い、これにうち勝ち、真理を保持して今日に至っています」と告白しますが、教会が様々な攻撃が仕掛けられたとき、教会は聖書より一つの教理を生み出し告白してきました。こうした告白が、異端者から教会を守る礎となってきました。

Ⅱ.信仰告白の段階制
 「信仰告白」には、いくつかの段階があります。最初に異教・偶像との違いを確認することです。神が唯一であり、他に神はいません。つまり十戒の第一戒・第二戒において語られていることです。これがキリスト教会の一番の礎となる教理です。
 次に異端との区別です。これは古代教会(~4・5世紀)において異端との戦いを行うことにより、教会は御父・御子・御霊の三位一体の神を告白し、キリストの二性一人格を告白しました。教会は、ニカイア信条・カルケドン信条・アタナシオス信条、さらに使徒信条として信仰告白しました。ですから基本的にはすべてのキリスト教会において、三位一体とキリストの二性一人格は共通の信仰であるということができます。現在においても、エホバの証人、統一協会、モルモン教等を異端とするのは、これらを規準としています。
 三つ目に挙げられるのが、宗教改革によって明らかになったカトリック教会との違いを告白します。宗教改革の旗印「信仰のみ」、「聖書のみ」、「恩恵のみ」、「キリストのみ」、「神の栄光のみ」がありますが、そこから多くのカトリック教会の誤りを反駁し、教理としてまとめられました。マリアや聖人・さらには旧約続編を否定することに始まり、礼典論、聖餐論など様々な教理に及びます。こうした教理は、改革派教会と共に、ルター派教会、福音派の教会においても、多くは共通に告白する信仰告白です。
 次に改革派教会の信仰告白として、プロテスタントの他教派との違いを表す信仰告白があります。5特質で示される「全的堕落」、「無条件的選び」、「限定的贖罪」、「不可抗的恩恵」、「聖徒の堅忍」が、中心な教理といって良いでしょう。
 最後にウェストミンスター信仰規準では、ピューリタン的な信仰告白が挙げられます。信仰告白第18章「恵みと救いの確信について」は、当時の英国国王・王党派との内戦の中、ピューリタンたちの中にも信仰が揺さぶられている者がおり、そうしたことが信仰告白されています。また、第19章「律法について」や大小教理問答の十戒論の展開は、律法主義であるとの批判があります。こうしたことから、同じ改革派教会でも、「ウェストミンスターはカルヴァンの逸脱している」との誤解があり、批判されてきた事実もあります。ウェストミンスター信仰規準は、改革派教会の信仰告白であると同時に、英国国教会(39箇条)の伝統を引き継ぐ信仰告白であることも忘れてはなりません。

Ⅲ.改革派信仰の教会を建て上げる
 こうした信仰の土台をもって、私たちは日本キリスト改革派教会を建て上げています。
 改めて次回学ぶこととなりますが、ウェストミンスター信仰規準は、17世紀、イギリス・ピューリタンによって告白された信仰告白であり、地域的・時代的な制約があることを忘れてはなりません。そのため、私たちがウェストミンスター信仰規準を、私たちの信仰規準として採用していますが、地域の違い、あるいは時代の違いがあるため、そうしたことを理解しつつして、ウェストミンスター信仰規準から学ぶことが求められています。
 
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「創立宣言 第二の主張(信仰告白:信仰規準の前文)」  Ⅱテモテ3:10~17    2022.11.6  
 
Ⅰ.創立宣言に信仰規準の前文が附されている!
 創立宣言の主張の第一点は、有神論的人生観世界観こそ新日本建設の唯一の確かな基礎であることです。そして主張の第二点は、「見えない教会」の唯一性を信仰告白・教会政治・善き生活とを備えた「見える教会」として具現化することであり、その中の信仰告白について学んでいます。信仰告白は、聖書の解釈が人それぞれで異なるために必要であり、信仰告白には、段階があり、①異教、②異端、③カトリック、④プロテスタント内の教派(改革派信仰)、⑤ピューリタン的告白があることを確認しました。
 今日は「信仰規準の前文」を学ぶこととします。突然に「前文」が出てきて、理解ができないかと思います。改革派教会は、信仰規準として「ウェストミンスター信仰規準」(信仰告白、大教理問答、小教理問答)を採用していることを語ってきました。しかし単に「ウェストミンスター信仰規準」を信仰規準としているのではなく、「前文」も含んでいます。
 この前文の前半部分は前回学んできたことが文書化されています(特に上記の②③④)。注目すべきは、「わたしたち日本キリスト改革派教会はわたしたちの言葉をもってさらにすぐれた信条を作成する日を祈り求めますが……」と語る部分です。

Ⅱ.新信条作成に向けての道
 つまり、「ウェストミンスター信仰規準は聖書において教えられている教理の体系として最も完備したものであることを確信するものです」と告白しつつ、ウェストミンスター信仰規準も聖書ではないため、完全ではありません。また無謬のものとしてはなりません。 ウェストミンスター信仰規準が作成されたのは、17世紀中頃のイングランドであり、日本という地域、そして時代や社会の違いがあることを受け入れなければなりません。信仰告白は、時代と地域・社会の制約を受けます。そのため、ウェストミンスター信仰規準を学ぶ・告白するにあたっても、現状との違いを理解しつつ学ぶことが求められます。
 日本キリスト改革派教会が創立されて76年が経って、新信条が作成されていません。実際にはできなかったと言って良いかと思います。その後40周年宣言において、「日本基督改革派教会信仰の宣言について」を下記のとおり告白しました。
1.私たちは新信条作成の準備作業として、信仰の宣言の作業を行う。
2.信仰の宣言は、ウェストミンスター信仰基準に示された教理体系との一致において解釈されなければならない。
3.信仰の宣言は、現代における日本基督改革派教会の信仰の公的表明であると共に、私たちが祈り求めている新信条作成のための資料となる。
4.信仰の宣言は信仰規準としての権威を持たないので、教会役員任職式における誓約事項ではない。  5.略
 これを受けて、宣言を積み重ねていくことにより、新信条を作成の作業を進めていきました。30周年(教会と国家)、40周年(聖書、聖霊、福音の宣教)、50周年(予定)、60周年(終末)と積み重ねられていきました。
 改革派教会としての主要な教理についての信仰の宣言を重ねてきましたが、トータルに一つの信仰告白にすることは現状では困難です。ウェストミンスター神学者会議の研究が深められていくことにより、信条の作成の困難さが示された思いがいたします。

Ⅲ.改革派教会の現状と今後
 今、大会では、ウェストミンスター信仰規準の正式な改革派教会訳を採択すべく、議論しています。小教理問答・信仰告白・大教理問答と議論して、2026年の創立80周年記念大会において採択するスケジュールとなっています。新しい改革派教会訳を用いることができるようになることは、非常に有益であると言うことができるかと思います。
 また教育委員会では「子どもと親のカテキズム」を作成しました。大宮教会でも、祈祷会や子ども礼拝においても学びました。これはウェストミンスター小教理問答をベースに、日本の宣教に合わせた形で告白されています。
 また、いま大会では「平和の宣言」について議論されています。今の日本の教会で平和の宣言が採択されることは、非常に重要なことです。
 こうした新たな試みを行っていますが、新信条作成には至りません。そうした中、私たちは、ウェストミンスター信仰規準、ならびに宣言を学び続け、これらに従って聖書を読み、キリストの教会を建てていくことを継続することが求められています。
 
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「創立宣言 第二の主張(教会政治)」  使徒15:1~11    2022.11.20  
 
 序.
 創立宣言は教会政治に関して、「教会政治について言えば、長老主義が聖書的な教会に固有の政治形態であると信じて、わたしたち日本キリスト改革派教会はこれを厳格に実施しようと願っています。監督制、会衆制等は教皇制とともに、人間的な見方からすればそれぞれ長所をそなえていますが、教理の純正と教会の聖さとを守るという点においては長老王義には及びません」と告白します。

Ⅰ.教会政治の種類
 「教会政治」と語ると、「教会に政治を持ち込むのか」ということを思われる方もいるかと思います。しかし教会においても、指導者が必要であり、教会の秩序を保ち、運営を行っていくことが求められます。そうした意味では、「教会政治」と語るよりは、「教会運営」という言葉を用いた方が、わかりやすいかもしれません。そしてこの教会政治の形態として、主に、長老制・監督制・会衆制を挙げることができます。
 監督制は、ローマ・カトリック教会や聖公会において行われていますが、いわゆるピラミッド型の統治体制です。ローマ教会であれば、ローマ教皇をトップに、枢機卿がいます。今、日本には6名の枢機卿がいます。そして地域・各教会に、司教・司祭・助祭がいます。聖公会は、イギリス国王が国教会のトップに立ち、カンタベリー大主教・ヨーク大主教が続きます。監督制の場合、トップが神学的・指導者として立派であれば、教会は秩序を整え、教会は立っていくことができます。しかしトップに立つ人が優れていなければ、教会は乱れ、混乱します。ローマ教会であれば、中世において宗教改革に至る失態である免罪符を教会に持ち込んだことが有名です。また聖公会では、聖公会の成り立ちが、イングランド国王の離婚問題に始まるわけで、このことを否定することはできません。
 会衆制は、いわゆる民主主義です。現代的であるように思われるかもしれません。会衆制は、会員全体が参加する会員総会において決議することとなります。そのため会員全体が聖書・教会を理解していれば機能します。しかし牧師や有力な役員、声の大きな人が群れを導くため、監督主義的となり、独裁を招くこともあります。
 長老主義は、按手された長老・教師(牧師)・執事を役員とします。長老は、旧約における王を指し示し教会を治めます。教師は、旧約における預言者を指し示し、御言葉によって教える働きを行います。執事は、旧約における祭司であり、愛の業を行います。つまり教会役員は、主によって遣わされた働き人であり、御言葉によって主に従うことが求められます。そして長老主義は、長老・教師における会議において決議します。会議は多数決であり、教師が提案しても、長老たちの賛成がなければ実行することができません。長老がしっかりとしていれば、教会に独裁が持ち込まれることはありません。そのため長老は、しっかりと神学を身につけ、教会のあり方を理解していなければ、牧師の独裁を許します。

Ⅱ.監督制・会衆制を否定するものではない
 私たちは長老主義でなければならない、監督制・会衆制を認めないとまでは語りません。監督制・会衆制であっても、非常に教会運営として有用に機能することがあります。また長老制であっても、牧師・長老の質が落ちれば、有機的に機能することはありません。特に今の改革派教会でも思うのですが、多くの教会が牧師中心主義になっています。本来あるべき長老主義が機能しているとは言えません。牧師の独走、独裁を招いてはなりません。

Ⅲ.長老制の特徴
 長老主義の特徴は、第一に会議が段階的にあります。小会・中会・大会は、上下関係にあるのではなく、霊的統治範囲が異なります。つまり小会は、各個教会に責任を持ちます。中会は、各個教会の管理、教師の管理、教会・信徒の教育に責任を持ちます。大会は、教会の教義(信条)、教会規定を取り扱い、さらには友好教会との交わり・渉外、神学校やメディアミニストリーの運営を行い、教会によっては病院や学校を運営することもあります。
 長老主義の第二の特徴は、教師・長老の平等性です。会議では教師も長老も同じ1票を投じます。年配者・有力な人だからと2票・3票を持つことはありません。また会議において大切なことは、牧師・長老が自分の思いで決議を行うのではなく、主によって召された者として、主の御業に参与していることを理解した上で決議に臨まなければなりません。そのため牧師・長老は、聖書に通じ、神学的に研鑽を重ねていることが求められます。
 私たちは、改革派教会を形成しています。そのために、教師の質・説教の質の向上が求められますが、同時に、長老の質の向上が求められています。
 
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「創立宣言 第二の主張(善き生活1)」  ローマ12:1~2    2022.11.27  
 
 Ⅰ.「一つ善き生活」という告白
 今日は創立宣言第二の主張の中の三番目、「一つ善き生活」について学ぶこととします。改革派信仰における信仰告白、長老主義における教会政治に対して、善き生活は趣が異なると思うのは私だけでしょうか? しかし信仰と生活が分離した二元論となってはならず、信仰と生活が一致することを目指している告白であると思います。それが、「善き生活とは何でしょうか。わたしたちは律法主義者ではありません。また律法廃棄論者でもありません」という言葉に表れています。

Ⅱ.律法主義者と律法廃棄論者
 そして律法に従う信仰生活を送ろうとする時、十戒の前文を軽視すると律法主義的に読み取ることとなります。「○○してはならない」という言葉が繰り返されているからです。主イエスの時代の律法学者を初めとするユダヤ人たちも、主イエスから律法主義であることが否定され続けました。「律法の全体を守ることによって救われる」。「ある律法を守らなければ罪人だ」と語られる時、そこに律法主義的な心が潜み、人を裁くこととなります。
 残念ながらこうしたことが、改革派教会においても繰り返し行われてきました。契約の子どもたち・求道者・時には熱心な会員が教会に来なくなります。こうした場合の多くは、聖書の御言葉に不信を抱いか結果よりも、人に躓き・批判され・叱責されたことがきっかけですあり、律法主義的な批判の結果です。
 例えば「日曜日には礼拝に出席しなければならない」。このことは主が求めておられることであり、正しいことです。しかし聖書の真理を充分に受け入れていない人たち・子どもたちにとっては、礼拝に出席しないことにより、罪の裁きを受けているのと同じであり、これこそが律法主義的な発言と受け取ります。たとえ正しいことを指摘したととしても、聞く者との信頼関係がなければ、を指摘された者にとっては裁きの言葉となり、躓きの石となります。そのため教会を形成するとき、まず信頼関係を深める交わりが必要であり、それと同時に、注意するときは、愛をもって言葉を選び、慎重でなければなりません。
 一方、律法廃棄論の誤った概念は、予定や信仰義認に基づきます。パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と語りました。そのため、神を信じていれば何をしても良いと理解する人がいます。これは予定の教理を誤って信じています。「神によって選ばれ、神を信じたのだから、滅びに落ちることはない」と解釈しています。救われた者は、「もう聖書も律法はいらない」と聖は書は語りません。

Ⅲ.罪赦された罪人として生きるキリスト者
 では私たちは、なぜ律法主義でもなければ、律法廃棄論でもないと語ることができるのでしょうか? このことの理解には、主が律法の代表として十戒をお与えくださったときに語られた前文が徹底的に重要な意味を持ちます。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20:2)。主は、これから律法を授けるけれども、あなたたちがこの律法に逆らい、罪人だけれども、エジプトの国において奴隷から救い出してくださるように、罪の刑罰から救い出してくださった神であると語ります。ですから十戒・律法を守った結果救われるのではなく、すでに救われた神の民に対して、律法が与えられていることを、理解しなければなりません。
 改革派信仰では「全的堕落」を語ります。私たちは罪人であり、救われるために何一つ良い行いをすることもできません。そのため、「救われたのだから、罪を犯すことはない」と語る「完全聖化」はなく、「罪赦された罪人である」ことを忘れてはなりません。
 そして律法主義を語る者も、自分自身が主によって罪が赦されキリスト者にすぎないのであり、あたかも自分はまったく罪を犯すことがない完全な人間だとの誤解してはなりません。そのため私たちは誰も他人の罪を裁くことはできません(参照:ヨハネ8:1-11)。主イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)とお語りになったとき、皆が立ち去り、誰一人、彼女を裁くことなどできませんでした。他人の罪を指摘するとき、返す刀であなた自身が裁かれます。
 そして人が、真に誤りに気が付き、罪を悔い改めるには、主なる神が御言葉をもってお示しくださることを待たなければならず、常に聖霊の働きに委ねることが大切です。
 主なる神は、完全に聖・完全に義・完全に真理なお方です。罪を受け入れることのできないお方です。そのため、私たちは律法主義者にも律法廃棄論者にもなってはなりません。
 
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 「創立宣言 第二の主張(善き生活2)」  マタイ22:34~40    2022.12.4  
 
 序.
 夕拝では創立宣言を順番に読み続けてきています。第一の主張は有神論的人生観世界観に生きるキリスト者であり、第二の主張は、天国における見えない教会を、一つ信仰告白、一つ教会政治、一つ善き生活において、見える教会を建設することです。

Ⅰ.「一つ善き生活」という告白
 前回は律法主義者にならないために、十戒の前文を理解することが非常に大切であることを確認しました。つまり、律法を守った結果救われるのではなく、主による救いが示された者に、神の子として主に従う律法が与えられました。順番を逆転してはなりません。
 そして「律法廃棄論者ではないこと」について、考えて行こうと思います。これはまさに予定論を信じる改革派信仰から生じる恐れがあることですが、「主によって救われたのだから、後は自由に生きて良いではないか」という考えです。
 しかし旧約の時代に与えられた律法が、新約の時代、主イエスによって不要なものとなったかと言えば、そうではありません。主イエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)とお語りになります。また金持ちの青年に対して、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』」(マタイ19:18)とお語りになり、その上で「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」(同19:21)とお語りになります。

Ⅱ.律法の三用法
 ここで、主なる神がお与えくださった律法の三つの働き(用法)を確認します。第一用法は、政治的・市民的用法です。つまり、キリスト者に与えられる特別恩恵に対して一般恩恵と語られ、律法が与えられているからこそ、すべての人が、善悪の基準を知り、倫理、そして法律が整えられていくのです(参照:Ⅰテモテ1:8-10)。
 第二用法は、教育的・認罪的用法であり、人に罪を自覚させキリストへの導く用法です(参照:ローマ3:19,20、ガラテヤ3:10-14)。信仰義認を強調したルター派が重んじている用法です。
 そして第三用法は、規範的用法です。キリストにあってすでに義と認められ子とされた者が、キリストに従って生きる上での規範・ガイドラインとして用いられ、聖化の過程で用いられる律法の用法です。義認とともに聖化を強調する改革派はこれを重んじています。まさに創立宣言において「善き生活」を語るのは、第三用法を重視している結果です。

Ⅲ.律法の第三用法
 主イエスは十戒の要約をお語りくださいました(マタイ22:37~40)。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」第一の掟が十戒の第一の板(第一戒~第四戒)の要約であり、第二の掟が十戒の第二の板(第五戒~第十戒)の要約です。
 正直なところ、ウェストミンスター大教理問答・小教理問答において、十戒論を丁寧に展開していくことに対して、世界の改革派教会内においても律法主義的であるとの批判もあります。ここには、ピューリタンの信仰がここに表れているのですが、主が求めておられる義・聖・真実を、聖書において確認して告白されたものであり、律法主義的な読み方をすれば問題ですが、律法の第三用法として私たちが用いていく分には、私たちはウェストミンスター教理問答に聞かなければなりません
 私たちが隣人を愛するとき、十戒においてまず主なる神を愛することが記されていることを忘れてはなりません。主が私たちを愛してくださり、キリストを遣わし、十字架の贖いを成し遂げてくださいました。主の支配と愛に生きるとき、私たちは初めて謙遜にさせられ、自己否定によって主に遣え、隣人に仕えることが可能となります。このことを、私たちはキリストの教会において行っていくのであり、その手段として礼拝があり、聖徒の交わりを深めることにより、愛の業・執事活動が可能となっていきます。私たちは、コロナ禍にあって、改めて聖徒の交わりを考え、愛の業について考えなければなりません。
 そして大宮教会では、来年の主題を「キリストとの交わり、聖徒の交わりに生きる教会」と定め、Ⅰヨハネ3:16-18を年の聖句にしようと考えています。
 こうした大宮教会の歩みは、創立宣言の告白に従ったものであることを、ご理解いただければと思います。
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「創立宣言 第二の主張(公同性・一致性)」  Ⅰコリント12:12~31    2022.12.11   
 
 序.
 私たちは「日本キリスト改革派教会」に属しています。しかし、教派・分裂を願って、改革派教会であるのではなく、なおも公同の一つの教会を目指しています。創立宣言も、このことを告白しています。教派を形成することと、一つの公同の教会を目指すこと、一見矛盾しているように思えることがどういうことなのか、確認して行きたいと思います。

Ⅰ.公同教会への道
 キリストの教会を形成するとき、一つの公同(カトリック)の教会であるべきです。正教会・プロテスタント各教派が形成されている現在、ローマ教会も一つの教派教会です。そして私たちは、宗教改革によって誕生した改革派教会に属していますが、私たちも公同教会「カトリック教会」を目指しています。ですから私としては、公同教会を形成でき、一致できるのであれば、「改革派教会」の看板すら下ろしても良いと思っています。
 ただどのようにして公同教会を目指すのか、ローマ教会等とは違います。そのためどうすれば真の上で公同教会となることができるのかを、私たちは考えなければなりません。

Ⅱ.分離の道を歩む改革派教会
 私たちは、大きく分けて2回、教会から離脱しました。一回目が16~17世紀の宗教改革であり、二回目が第二次大戦後の日本基督教団からの離脱です。
 宗教改革は1517年10月にルターによって始まりました。彼自身、ローマ教会から離脱する意思はなかったのですが、結果としてローマ教会から破門になり、新しい教派(プロテスタント教会)を形成するに至りました。当時の教会が、免罪符を発行し、人の救いを売買し、聖書に語られていることからかけ離れていたからです。彼は、聖書に立ち帰り、「人は信じることによって救われる」という福音を訴えました。御言葉によって立ち帰る宗教改革の歩みでした。つまり、ローマ教会は教会の継続性を重視し、聖書に記されていないことでも大切に守り続けていることに対して、宗教改革を行ったプロテスタント教会は、神の御言葉である聖書を大切にして、聖書の御言葉に従った教会形成を行いました。
 一方第二次大戦後の1946年、改革派教会は「日本基督教団」から離脱しました。最初にプロテスタントの宣教師が入国したのが1859年であり、最初のプロテスタント教会は、横浜海岸教会です。当初は「日本公会」「横浜公会」と呼んでいました。公会は、「一つの教会・公同教会」を意味し、宣教師のバックボーンにある母国の教派ではなく、プロテスタントとして「一つの教会」を目指しました。公会条例第二条例「公会の基礎」「我輩の公会は宗派に属せず。ただ主イエス・キリストの名に依て建る所なれば、単に聖書を標準とし、是を信じ、是を勉(つと)むる者は、皆是キリストの僕(しもべ)、我等の兄弟なれば、各中の各員全世界の信者を同視して一家の親愛を尽くすべし。是故にこの会を日本基督公会と称す。」
 全国で公会が立てられる中、ヘボンは「横浜第一長老教会」を設立し、公会主義は終焉を迎えます。その後、「日本基督一致教会→日本基督教会」、「日本組合基督教会」、「日本メソジスト教会」と分かれていきました。
 そうした中1941年「日本基督教団」が設立され、プロテスタント教会は一つとさせられました。これを神の摂理として受け入れた人々も多くいましたが、文部省によって強制的に教派の解散と教団への統合が命令された教団公同です。ここには信仰による一致がありません。そして戦争が終わり、1946年4月に、教団を離脱し、改革派教会が創設されます。

Ⅲ.公同性・一致性をもって改革派教会を形成する
 私たちは「分派主義者」ではありません。しかし同時に「一致」一つの方向を向いて、一つの思いで教会を形成することが大切です。教会は多様性を認めます。しかし同時に、キリストの体に属し、キリストの体を形成することにおいて一致がなければなりません(Ⅰコリント12章)。一致がなければ、教会の力は削がれます。つまり「キリストの体」である天国の教会を目指すとき、聖書の解釈において一致すること、つまり信仰告白における一致が大切になってきます。ですから私たち改革派教会としては、これらにおいて一致できる教会と共に歩む、合同の道を歩むことを求め、また解釈を異にする教会に対しても、私たちの信仰の理解を深め、一致の道を探ることを行っていくことが求められています。
 そして大宮教会は単立教会ではなく、改革派教会に属しています。同じ信仰を持つ教会との交わり・助け合いを深めることにより、教会としてより強くなり、信仰が養われていきます。そのため地区・中会・大会的な交わりを、行っていくことも求められています。
 
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「創立宣言 第二の主張(改革派教会)」  ネヘミヤ7:72b~8:12    2023.1.8    
 
序.
 前回、私たちが改革派教会を創設するのは、あくまで、公同教会・一致性を求めて改革派教会を形成するのであって、分離主義者ではないことを確認しました。今日は、なぜ「改革派教会」と名乗るのかを確認して行きます。

Ⅰ.「改革派教会」とは……
 創立宣言は、「『改革派教会』という名称も、新たな造語であるかのように誤解されてはなりません」と語ります。なぜ「改革派教会」なのかを説明する必要がありますが、創立宣言は、ここで宗教改革以降の歴史を紹介しますが、名前の由来は説明していません。
 主教改革の時代以来、私たちの教会は「カルヴァン派」とは名乗らず、あえて「改革派」と名乗っています。つまり、私たちは「御言葉によって改革され続ける教会」であり、「御言葉によって、常に原点回帰を求めている教会」と言い換えても良いかと思います。
 私たちは、三位一体の主なる神を信じているわけで、主が御言葉である聖書をとおしてお語りになった福音に聞くことが求められています。しかし次第に自己流になり、聖書から離れます。その結果、律法主義となり倫理的に乱れます。神を忘れ、偶像に走ります。
 ネヘミヤ記は、バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民のことが語られていますが、このときも、イスラエルの民は律法の書を忘れて、神を信じると語りつつも、自己流の信仰でした。そうためネヘミヤは、律法の書を人々の前で読み、御言葉を取り戻し、御言葉に聴く教会として、イスラエルは再出発を行います。主イエスが福音を語ったのも、イスラエルの民が律法主義化しており、本来の福音を忘れていた時代、主イエスが旧約の御言葉を解釈することにより、本来の福音を取り戻すことを行われました。
 そして宗教改革の時代です。当時のローマ教会はラテン語聖書を用いており、信者は自分たちの言葉で聖書が語られ、読まれることがありませんでした。そうした結果、聖書からかけ離れた免罪符が売り出され、ルターによる宗教改革のきっかけとなりました。そうした中、ルターもカルヴァンも、そして宗教改革者たちは、聖書を翻訳し、印刷し、人々のところに届けることにより、福音を取り戻していきました。改革派信仰に生きる人々は、常に、この原点に立つ思いにおいて「改革派教会」と名乗っています。

Ⅱ.真の福音主義教会を立てる
 創立宣言では「真の福音主義である」と語ります。「福音派教会」がありますが、「福音主義」とはもっと幅の広い意味があり、「聖書主義」とも言ってよいことです。
 ローマ教会は、教会の決定に従っていく監督教会であり、教会の権威が強いため、教会が以前に告白したことを、誤っていたとしても否定することができません。一方、改革派教会は、会議における決定を重視し、信条も会議において一致して決定して行きますが、それらを絶対視することはありません。そのため、信条も絶対視せず、聖書に基づいて誤りがあれば、後の会議において修正・変更を行います。
 またペンテコステ系・聖霊派教会は、御言葉である聖書以上に、聖霊の力、異言を重視します。そして今も聖霊により新しい啓示が与えられていると信じています。しかし、神の啓示は、主イエスと主イエスの直接的な弟子までであり、それ以降は停止しており、新たな啓示は与えられることはありません(ウェストミンスター信仰告白1:1)。そのため、私たちは、聖霊派とも大きく立場が異なると言わなければなりません。
 こうしたローマ教会・ペンテコステ派教会という両極端な教えに対して、改革派教会は、聖書に従った教会を立てる「福音主義教会」であることを告白しています。

Ⅲ.福音派との違い
 改革派教会は福音主義教会ですが、「福音派」とは違いがあります。一番の違いは、改革派が信条・信仰告白を用いることに対して、福音派は「聖書のみ」を実践し、信条を用いません。信条・信仰告白を持たないことにより、牧師毎に信仰理解に違いがあり、教会において一致を保つことが困難であると言わなければなりません。
 もう一つの違いは、福音派は各個教会主義であることです。民主主義が現代的であるように思われますが、牧師あるいは有力な教会員によって教会が支配されることが起こります。改革派は長老主義教会であり、小会・中会・大会という会議の段階制を取ることにより、一人の独裁が上級会議でチェックできる体制を整えています。
 それでもなお改革派教会は、あくまで真正な公同性と正統性を保持する教会を形成することが目的としており、一致して、一つの教会を形成することを目指しています。 
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「創立宣言 第二の主張(世界の希望)1」  使徒言行録17:22~34    2023.1.15     
 
序.
 改革派教会が設立されたのは、第二次大戦後の1946年であり、今年で77年目を迎えます。すでに時代が変わり、新しい時代を迎えているかと思います。しかしそれでもなお、私たちは、私たちの教会の原点である創立宣言から学ぶことが少なくありません。

Ⅰ.改革派信仰をもって生きるキリスト者とは
 最初にパウロにおけるアテネ・アレオパゴスの説教をお読みしましたが、まさしく私たちの国も、真の主なる神を知らない多くの人々がいる中、主なる神を証ししても、主を信じる者は、極わずかです。こうした国において、キリスト教が伝えられ、改革派教会が立てられています。創立宣言では「宗教はすでに力を失い、無神論的唯物史観に場所を譲ったと断言することはできるでしょうか。そうではありません」と告白します。21世紀、コロナ禍を経た現在、私たちが神による支配の下に言葉を語ったとしても、誰も聞く耳を持ちません。それは1946年当時の日本とまったく変わっていません。
 創立宣言は、宗教改革における歴史を顧みることにより、改革派教会の果たしてきた役割の大きさを語ります。正直なところ、少し自慢げに語る告白となっています。私としては、聖書に忠実な信仰であることを語ってきていることより、聖書がどのように語っているかを、告白した方が良いのではないかと思っています。それが文化命令です。

Ⅱ.文化命令に生きる改革派教会
 文化命令とは、主なる神が人を創造された時に語られたときに「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(創世記1:28)と語られたことです。「地を従わせよ」・「すべて支配せよ」が大切です。神によって、神のかたどり、神に似せて創造された人間が、神が創られたすべてのものを支配し、管理するように命令されました。この時まだ、善悪の知識の木の実における業の契約は結ばれておらず、人は神との交わりの中にありました。ですから人が神の被造物を支配し、管理するとき、神の御心に適った管理を行うことができました。
 しかし業の契約(創世記2:16,7)を破棄し罪を犯した人間は、文化命令も忘れ、自分の思いのままに世界を支配するようになりました。この結果が自然破壊・秩序の破壊です。対人関係において、虐待・独裁・戦争へつながります。神を知らない者、聖書の御言葉に従わないキリスト者が、王・為政者として人の上に立つとき、社会は崩壊へと向かいます。
 そのために、主なる神の支配の下、主なる神が人に求めておられる文化命令を理解した改革派信仰に立つキリスト者が、人の上に立ち、神の御心に従った社会形成を行うことが大切になります。創立宣言は、このことを目指しているのであり、改革派教会の自慢を行っているのではありません。

Ⅲ.歴史に学ぶ改革派信仰
 もう一つ第二段落を確認します。「過去を公平に見つめる者は、世界と人類の精神文化を生み、また導いてきた最大の力が宗教であったことを否定することはできないでしょう。……」。この「過去を公平に見つめる」ことが大切で、改革派信仰は歴史を大切にします。
 歴史を美化して考える歴史修正主義の人たちがいます。民族の罪を認めることができません。他者の失敗を許さないにも関わらず、自分の失敗を認めようとはしません。罪を認めないばかりか、罪ある歴史を変更し、美化した歴史を人々に押しつけます。これが歴史修正主義者です。こうした考えは、日本ばかりか、世界に存在します。
 しかし私たちが歴史に学ぶとき、事実を客観的に理解しなければなりません。そして多くの場合、そこに関わる人々の罪が明らかにされていきます。さらに私たちがこうした明らかにされた人間の罪を見て、同じ失敗を繰り返さないこと、苦しむ者・殺されていく者の立場に立つことが大切です。失敗学という学問があります。人は同じ失敗を繰り返します。だからこそ、過去の失敗に学ぶことにより、同じ失敗を繰り返さないことが大切です。
 私たちが改革派信仰に基づくキリスト者として、社会において生きるとき、文化命令に基づき、主が私たちに求めておられる管理とは何かを常に思い続けることが大切です。そして旧・新約の聖書の歴史に学び、イスラエルの罪・ユダヤ人の罪・弟子たちキリスト者の罪を確認しつつ、私たちも同じ罪の性質を持っていることを理解し、罪の悔い改めが求められます。そして主なる神は、イスラエルやキリスト者・私たちの罪を赦してくださり、キリストの十字架により神の子として、神の国に受け入れてくださっています。
 
 
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「創立宣言 第二の主張(世界の希望)2」  ヨハネの黙示録22:6~21    2023.1.22   
 
Ⅰ.絶えず聖書に立ち帰る教会を形成する改革派教会
 今日は創立宣言の最後の部分、「宗教改革のキリスト教は原始キリスト教の再興です」以降を学びます。ここで2つのキーワード「原始キリスト教」と「宗教改革」があります。この2つは、言葉としては違いますが、実は向かう方向性は一つです。それは「聖書主義」ということです。つまり原始キリスト教とは、主イエスの弟子たちの時代(使徒言行録・パウロ書簡)、主イエスがお語りになった福音を宣べ伝えていたキリスト教会のことです。一方宗教改革は、主の御言葉である聖書が忘れ去られ、教会が自分勝手なことを行っていたことに対して、ルターを初めとする宗教改革者が聖書を取り戻し、翻訳・印刷して、教会員に渡したことに始まります。このとき聖書が語る福音は、主イエスが語る福音そのものであり、旧約聖書の時代から一貫していることを確認しています。つまり改革派教会は、真の意味で原始キリスト教と宗教改革を継承している教会です。
 しかしプロテスタント教会に分裂が起こり、教派が生まれてきました。今も教会は、聖書が語る福音から離れ、罪により自我流になり、律法主義・独裁者による支配・異端信仰など聖書主義から逸脱する危険性が常にあります。だからこそ私たちの教会は、「カルヴァン派教会」と名乗らず、聖書に常に立ち帰る、聖書により改革され続ける教会として、「改革派教会」と名乗っています。
 しかし私たちは、聖書の歴史・解釈を知識として学ぶのではなく、聖書で語られた御言葉が、今の日本に生きる私たちに対して何を語りかけているのか、どのようにキリスト者として生きることを求めているのか、聞き続けなければなりません。度重なる震災をとおして、教会はディアコニア・隣人を愛することの意義を確認しました。コロナ禍にあって、礼拝によりキリストと出会うこと、隣人と交わり愛の業を行うとはどういうことか、主から問いかけられています。戦争や独裁国家の出現により、いかに福音的に生きるのか、平和を実現するために何が求められているのか、主から問われています。教会は、こうした今の時代に投げかけられた問いかけに、御言葉により答えを導き出し、人々に語りかけていくことが求められています。これこそが、今の改革派教会に求められていることです。

Ⅱ.カルヴァン主義の教会を建てる
 創立宣言は、「世界の希望はカルヴァン主義の神にあります」と告白します。私たちは、カルヴァンが示した改革派信仰に基づく信仰告白(ウェストミンスター信仰規準)によって教会形成を行うことを確認してきたのであり、この看板を下ろすことはありません。時代や地域の違いを理解しつつも、今の時代にあっても、私たちはウェストミンスター信仰規準が語る改革派信仰に基づく聖書主義に立つ教会を建てることを目指しています。
 そして創立宣言は最後に、主への頌栄の言葉で閉じます。私たちは徹底的に改革派信仰に基づく説教に聞かなければなりません。福音の真髄は、神の御子であるイエス・キリストが人としてお生まれくださったこそ、そしてこのキリストが私たちの罪を代わりに背負って十字架に苦しみ、死を担ってくださったこと、さらにこのキリストが死・罪・サタンに打ち勝ち、甦ってくださったことです。御父・御子・御霊の三位一体の唯一の主なる神がおられ、このお方によって救いが与えられ、今の私たちも救いに生きることがゆるされています。このことを理解し、信じることにこそ、私たちの信仰の真髄です。

Ⅲ.神の御業の完成に向けた歩み
 この信仰に私たちが生きるとき、ただ教会生活を続け、一生懸命祈る、一生懸命奉仕を行い、伝道活動を行う、多くの献金を行っていれば良いのか、そうではありません。一生懸命に行うことは律法主義となります。キリストによって罪の赦しが与えられ、救われたことが示され、信じたとき、私たちは、天国・神の国に永遠に生きる希望・喜びが与えられます。この希望に生きることこそが、大切なことです。神がいつも私たちと一緒にいてくださるからこそ、様々な困難を乗り越えて生きることができます。
 主なる神は、アルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである(黙示録22:13)。「わたしはある。わたしはあるという者」です(出エジプト3:14)。いつも生きておられ、いつでも私たちと共にいてくださる主なる神が、再臨を約束してくださっています。ここに私たちの希望があります。
 創立77年を迎えますが、この常に原点に立ちつつ、教会形成を行っていきたいとねがっています。 
 
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◆日本キリスト改革派教会創立20周年記念宣言
                          連続講解説教


「20周年宣言(回顧と歴史)」  エフェソ1:3~14   2023.2.5
 
 Ⅰ.創立してから20年が経って
 創立宣言は、私たちの教派が、どのような教会であるかを、公に顕す必要に迫られて発表しました。一方20周年宣言は、危機意識の表れとして、改めて創立の志を顧みる宣言となっています。創立に携わった中心的な先生方(岡田稔・常葉隆興・松尾武・春名寿章)は、設立当時30歳代後半から40歳代でした。20年が経ったとき、春名先生は召され、他の先生方も50歳代後半から60歳代で熟年期を迎え、引退を考え始める時期です。そして教会は、改革派教会設立以後に信仰生活を始めた人たちが、次第に牧師になる時期です。創立当初は我武者羅でしたが、20年の月日が経って落ち着きを持ちます。
 しかし落ち着くことは、創立当初の勢いが失われていることでもあります。そのため、20周年記念信徒大会を開催するにあたって、改めて決意表明として宣言を作成することになったのです。それが最初の段落「宣言」において告白されています。われら日本基督改革派教会は、創立20周年の記念すべき日にあたり、当初の信仰と熱情とをしのびつつ、神の栄光のため、われらに与えられている一切をささげて励むことを、新たに決意する。

Ⅱ.回顧
 続く「回顧」の段落で、創立宣言で謳った改革派教会としての理念を確認しつつ、改革派教会を建てることの大切さを確認します。創立宣言には二つの柱がありました。第一が、有神論的人生観世界観を確立することです。常に神の御前に生き、神の栄光を称えるために働き・学び・生活することです。このことを新日本建設の唯一の基礎であると謳います。
 つまり私たちの教会は、三位一体なる神を信じるキリスト教会であることだけではなく、有神論的人生観・世界観を確立すること、つまり主の御前に生きること、神に栄光を帰し、永遠に神を喜んで生きること(ウェストミンスター小教理問答問1)こそが、大切であることを語ります。つまり、「神を信じること」ではなく、「神をどのように信じるのか」を理解していなければなりません。この「どのようにか」を、創立宣言が語る第二の柱で表しています。そに第一が「信条」としての「信仰告白」であり、ウェストミンスター信仰規準を採用することにより、改革派信仰を言い表しています。第二が、「教会政治」であり、「長老主義」を採用しています。この改革派信仰に基づき、長老主義を採用することにより、善き生活へと導かれ、これらをもって教会形成を行っているのです。このことを、20周年宣言ではわが国キリスト教史を飾る画期的事件であったと自画自賛しています。
 そして続けて宣言はわが教会の担う使命の重大さを、われらは恐れつつ自覚するものであると告白します。他の教派の教会とも協力することは協力しますが、神が求めておられる純粋な教会であるべく教会を形成するために、私たちの持っている使命の大きさを、私たち自身、再確認する必要があります。この点は、20周年の頃の改革派教会よりも、現在の方が、より深刻に受け止めるべきことであると、私自身、肝に銘じています。

Ⅲ.聖書の歴史
 そして宣言は「歴史」を確認します。これは救済史・聖書全体の歴史を覚えつつ、教会形成を行うことです。宣言では非常に簡潔に語っていますが、ここに「契約」という言葉が3度繰り返されていることに注目したいと思います。「恵みの契約」は、聖書全体において語られています。最初は、罪を犯した男と女に対して、主なる神が原福音と呼ばれるキリストによる救いの約束に始まります(創世記3:15)。男と女は罪を犯しますが、彼であるキリストがお前であるサタンの頭を砕き、勝利を遂げてくださることを約束してくださいます。この約束を受け入れ・信じるとき、救いが与えられます。この後、ノア・アブラハム・モーセ・ダビデにおいて契約が更新され続け、新約においても「信じる者は救われる」ことが約束されていきます。つまり、私たちは罪人であり滅び行く者ですが、キリストの十字架による罪の贖いを信じるとき、主によって救いが与えられ、神の国が約束されます。
 この契約は、主なる神が罪人である私たち人間と結んでくださった契約であり、神の側から破棄されることはありません。「信じる者は救われる」この契約は、聖書全体・今の教会においても貫かれています。恵みの契約は、キリストによって成就し、再臨において完成し、さらに終末的栄光へと向かいます。私たちは、主の導きにより恵みの契約に入れられました。だからこそ救いの喜びと希望をもって信仰生活を歩むことができるのです。
 この恵みの契約は、主が天地創造される前に、定めておられ、それが私たちに知らされることにより、私たちは契約に基づき、神の救いに入れられているのです(エフェソ1:4-5,8-9)。
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「20周年宣言(礼拝)」  詩編100編    2023.2.19
  
 Ⅰ.礼拝には神が臨在されている!
 前回から20周年宣言を学び始めました。前回は、創立から20周年を迎え、創立当初の勢いが陰りを見せるなか、改めて改革派教会が立てられた意図を確認しました。そして今日与えられたのが礼拝の項目です。「教会の生命は、礼拝にある」は、創立宣言の二つの柱と共に、私たちの教会にとって重要な言葉となっています。
 「教会の生命は、礼拝にある」とだけ独立したかたちで語りますと、「安息日に働いてはならない」と語るユダヤ人たちのように律法主義に陥る可能性があります。しかし20周年宣言は、続けて「キリストにおいて神ひとと共に住みたもう天国の型として存する教会」と告白します。つまり私たちは、教会に来て、キリストと出会うこと、礼拝において臨在される主なる神と出会うことが、何よりも大切です。
 このときに創立宣言とのつながりを覚えます。つまり主なる神は、永遠から永遠におられ、私たちはいつでも神の御前に生きています。そのため、創立宣言では有神論的人生観世界観を確立することを告白しました。生きて働く主なる神が、今も私たちに働きかけてくださいます。それが最も明らかになるのが、神礼拝です。

Ⅱ.御言葉により啓示される主なる神
 つまり何もない状態でも、主なる神は聖霊を通して働きかけることが可能です。旧約の時代、主はアブラハムやモーセら族長、預言者たちに現れ、主の言葉を彼らに託しました。主イエスは弟子たちに召命を与えられました。パウロも復活の主イエスと出会うことにより、回心へと導かれました。しかし新約の時代、直接啓示はなくなりました。
 今は、御言葉である聖書が啓示の書として示され、聖霊と共に働くことにより、私たちに主なる神が啓示されます。そのために主イエスは、私たちに福音宣教を行い、人々を教会に招くことを求めておられます(マタイ28:16-20)。そして教会に導かれた者が、神との交わりが与えられ、御言葉の説教により回心・悔い改め・信仰告白へと導かれます。
 宗教改革では、聖書と説教を回復しました。なぜならば礼拝、とりわけ御言葉の朗読と説教において、私たちは主なる神と出会い、主の恵みに満たされるからです。そのために改革派教会では、説教を語る説教者の養成を重視しています。私たちの教派が神学校を経営し、専任教授やスタッフを雇うことは非常に重荷ですが、それでもなお創立当初から神学校を経営しているのは、改革派信仰に基づく説教を語ることを非常に重視した結果です。
 そして「教会の生命は、礼拝にある」と告白するとき、忘れてはならないのは、主の晩餐の礼典です。20周年宣言では、このことがまったく告白されていないことは残念です。宗教改革時、ローマ・カトリックで行われていたミサが儀式的であり、御言葉と共にあることを強調した関係で、主の晩餐が軽視されたように思われます。しかし御言葉の説教と共に、五感で感じる説教とも語られる主の晩餐も非常に重要です。私たちは弱い人間ですから、耳で聞くだけではなく、目で見て五感で感じる主の晩餐により、主の臨在を実感することができるのです。つまり御言葉の養いと聖霊が宿る礼拝の場で、主の晩餐が行われ、キリストの十字架の御業が、私たちキリスト者の罪の贖いのためであったことが示され、私たちに約束されている神の国における主の晩餐の前味を味わうことが可能となります。

Ⅲ.ポスト・コロナに求められる礼拝中心の生活
 コロナになり、日本の教会全体を見渡したとき、教会の力が非常に削がれていると肌で感じています。教会における礼拝よりも、コロナによる危険性の故に教会を閉鎖したです。その結果、リモートで礼拝を守ることに抵抗がなくなりました。主の晩餐も、長い間、執行していない教会が多くあります。その結果、神との人格的な交わりが希薄になりました。
 だからこそコロナ禍を経験した今、私たちは、教会に集まり礼拝が献げられること、主の晩餐の礼典が行われることを、意識して行っていくことが求められています。つまり危険が伴うことがあったとしても、「危険だから止める」のではなく、ここに危険があることを認識しつつ、それでも注意を払い、心配する人たちに配慮しつつも、礼拝の守ることの重要性を、私たちは認識しなければならないのだと思います。
 だからこそ私は改めて、20周年宣言が告白した「礼拝の生命は、礼拝にある」という言葉を、私たちが認識し、そのために意識して、努力をしていかなければならないのだということを実感させられています。
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「20周年宣言(神学)」  ローマ1:16~23    2023.3.5 
 
 Ⅰ.教会を一致に導く神学
 今日は20周年宣言の「神学」を学びます。宗教改革では「聖書のみ」、「聖書全体」、「信仰のみ」がスローガンとして語られました。そのため「聖書だけあれば良いではないか」、「信仰告白は不要である」といった考えが出て来て、現在の福音派の人たちは、信仰告白・信仰を軽視しました。日本でも、簡易信条主義の教会、つまりニカイヤ信条、もしくは使徒信条のみがあれば良いとするキリスト者が少なくありません。
 20周年宣言は、そうした人たちに対して「従って、神の言葉の体系的把握すなわち神学こそ、教会の生命的形成に不可欠である」と告白しています。つまり聖書だけだと、罪に汚れた私たち人間が聖書を読むとき、自分の都合の良いように解釈を行い、人それぞれで解釈は異なってきます。そして教会はバラバラになります。そのために、聖書を体系的に把握することが求められるのであり、この作業こそが「神学」です。
 そして神学の積み重ね、教会において一致したとき、教会は信仰告白・信条を作成することとなります。それは、異教・異端の誤りを指摘し、主が御言葉によって私たちに語りかけることばを確認・告白する作業です。神学をすることにより、教会は強められます。

Ⅱ.神学を集結したウェストミンスター信仰規準
 宣言は続けて、「聖書に啓示されているキリスト教真理を、歴史的改革派神学の光に導かれつつ体系的に学びとることは、われらが常に第一におく務めである」と告白します。私たちは改革派教会という教派を形成しています。しかし教派となったのは、聖書に基づくキリスト教真理を読み取った結果、聖書解釈が異なる人たちと別れたためです。
 そして、ウェストミンスター信仰規準には歴史的にいくつかの段階に分けられます。
①異教・異端との違いを明らかにする 古代教会は使徒信条やニカイヤ信条を告白しましたが、これらは三位一体の神やキリストの二性一人格を否定する異端者が出て来た結果、聖書の解釈を告白したものであり、異教・異端との違いを明らかにします。
②ローマ教会の否定 宗教改革によって改革された教会は、当時のローマ教会の過ちを正し、プロテスタント教会としての信仰告白を行います。マリアや諸聖人崇拝を否定したり、7つの秘蹟を否定し、2つの礼典(洗礼・主の晩餐)を主張しました。
③改革派信仰の表明 私たちの教会は改革派信仰に基づく信仰告白が出てきます。代表的なものが予定論であり、それに伴い、ドルト信条における5特質(無条件的選び、全的堕落、限定的贖罪、不可抗的恩恵、聖徒の堅忍)があります。
④ピューリタンの信仰 ピューリタンとしての独特な告白(第7章「人間の神との契約について」、第18章「恵みと救いの確信について」)などがあります。

Ⅲ.神学は、生活の中でこそ生かされる
 神学や教理を学ぶとき観念的・思弁的になり、教理と信仰生活が分離します。「死せる神学」であり、教会が律法主義化し、衰退する原因です。信仰告白・教理問答を学ぶ時、告白された文言を追うのではなく、告白の本質・目的を理解しつつ読むことが必要です。つまり神の現臨・キリストの十字架による救いが、私たちが生きること・生活することと結びつかなければ、神学や信仰告白は意味がありません。また十戒は、罪赦されたキリスト者が、聖化の歩みをするために用いるのであり、十戒の序文が徹底的に重要になります。そして2つの要約(マタイ22:37~40)により、感謝と喜びをもって主に仕えることができます。
 このことは非常に現代的な問題であり、信条を学ぶことに魅力を失った教会は、人間中心主義、個人主義化した教会となります。私たちもウェストミンスター信仰規準から学びますが、覚えることではなく、その本質を理解していただくことが大切です。

Ⅳ.聖書と信条の体系的把握
 最後に、繰り返しお配りしている「聖書の救済史」、「ウェストミンスター信仰規準の体系図」を確認します。私たちが聖書を読む時、救済史における位置を確認し、当時の彼らに語られた言葉が、私たちに何を語りかけているのかを確認しなければなりません。
 そしてウェストミンスター信仰規準における体系図において、三位一体である主なる神、そして神と私たちをつなぎ止める聖書と教会、そして神の国につながる私たちの信仰を、私たちは体系的に理解しておく必要があります。
 20周年の時に、教会の危機を感じていた以上に、今は危機の時代にあります。当時行われてきていたことが観念的となり、教会に閉塞感を感じ、神学が行われなくなってきています。今こそ、生活に直結した神学を行い、信仰を取り戻すことが求められています。
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「20周年宣言(伝道)」  ローマ12:1~8    2023.3.12 
  
 序.
 20周年宣言が発表された当時(1966)、すでに伝道の進展に陰りが見えていました。それがオウム事件(1995)、大震災(2011)、コロナ禍(2020-)、顕著になってきていると思います。

Ⅰ.伝道:神の子を満たす働き
 プロテスタント諸教派の中で、改革派教会は伝道には不熱心であると言われています。改革派教会の伝道とはどのようなものなのか、宣言から学ぶこととします。
 伝道を考えるとき大宣教命令が有名です(マタイ28:18~20)。そして多くの教会・キリスト者は、伝道活動をすることが求められています。しかし伝道の根本理解も必要です。
 「伝道すれば教会は成長する」、「成長しなければ伝道は失敗だ」と言うのは誤った考えです。旧約のイスラエルは、アブラハムへの約束があったにも関わらず、王国は分裂し、捕囚の民の中、「残りの者」としての極少数のイスラエル人が主の約束を受け継ぎました。初代教会も、エルサレム教会は迫害され、使徒たちは拠点をアンティオキアに移します。パウロが建てた教会・黙示録に記されている7つの教会も、ほとんどは今はありません。フィリポがエチオピアの高官(宦官)に福音を語ったように、わずか一人しかいない場所に遣わされる場合があります(使徒8:26-39)。私たちが福音宣教するのは、神の国の住民が最終的に満たされることであり、この地域にはあと一人しかいないかもしれません。時代・地域により教会が小さくなることもあるのです。

Ⅱ.神の御前に生きるキリスト者
 私たちが神に召され、キリスト者とされたのは、神の民として、神の国に招かれるためです。そのために私たちは、日々の歩みの中にあって、日曜日、教会に来ているときだけキリスト者となるのではなく、いつでもどこにいても、神の民として、一緒におられる主なる神に感謝し、証しすることが求められています。それが創立宣言が語るキリスト教有神的世界観・人生観に生きることです。そうであるならば、私たちがキリスト者として生きること自体が、神を証しする伝道の業となります。
 私たちがキリスト者として生きるとき、家庭や職場・どこにおいても、私たち自身をとおして主なる神・キリストが証しされることが求められています(ローマ12:1-2)。また、常に神の御心に聞きつつ、神を忘れた世に染まった歩みを行わず、御言葉に従った生活が求められています。こうしたことが、ウェストミンスター小教理問1が語る、「神に栄光を帰して、永遠に神を喜んで生きる」ことではないでしょうか。
 このときに大切なことは、自己中心に生きることではなく、主によって恵みが与えられ、生命が与えられていることに感謝をもって、主なる神・聖霊に委ねて生きることです。

Ⅲ.改革派教会の伝道:御言葉・教理と愛の業の一元化によって
 御言葉に聴くことは非常に大切です。そのために説教の重要性はないがしろにできません。しかし宣言は「み言葉によるのみでなく、愛の行いにもよるべき」と語ります。ヤコブも「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の訳に立っているのでしょうか」(ヤコブ2:14)と語ります。ですから、「礼拝に出席して説教を聞いていれば良い」、「教理を学んでいれば良い」ではありません。御言葉・教理と愛の業が一体的に行われることこそが、改革派教会の姿であり、これが改革派教会の伝道となります。
 しかし、近年の改革派教会、特にコロナ以後は、神学・教理を学ぶことにおいても、愛の業・交わりを行うことにおいても、以前行われてきたことができなくなっているのではないでしょうか。そのため私たちは、改めて宣言の言葉に聞かなければなりません。

Ⅳ.今求められている伝道を考える
 そして宣言は、海外の協力ミッションの力を得て、改革派教会が成長していることを告白します。現在も韓国人宣教師を中心に、多くの宣教に助けられています。
 しかしここで私たちは、長老主義の教会であることを改めて確認しなければなりません。つまり、自分の教会が成長していれば良いのではありません。無牧の教会が増えています。伝道・宣教を行う以前に、教会が存続することに対して危機を覚えています。相互牧会・相互援助ができます。互いの教会の弱さ・苦しみを覚えつつ協力していくことが大切です。
 改革派教会全体としても、このコロナの危機を経て、大会・中会レベルでこの危機に気が付き、話し合いを始めようとしています。まだ動きは鈍いです。しかし教会が小さくなっても、なおも改革派教会として、伝道を行うスピリッツを失うことなく、信仰生活を歩み続けなければなりません。そのために、御言葉の説教・信仰告白やカテキズムの学びを深めつつ、隣人を愛する者としての愛の業に心がけていくことが求められています。
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 「20周年宣言(一致)」  Ⅱテモテ3:10~17    2023.3.26 
  
序.
 20周年宣言の学びを続けていますが、今日は「一致」の項の学びを行います。今日の部分は、創立宣言で語ったことを、改めて告白し直していると言って良いかと思います。

Ⅰ.改革派教会は「分派主義」ではない!
 つまり、戦時中にプロテスタント教会は、文部省によって一つの教団(日本基督教団)にまとめられたのですが、戦争が終わり、教団の中は聖書解釈の違い・信仰の違いが入り乱れていましたが、改革派教会の創設者らは、改革派信仰に立つ教会を設立しました。このときに、新しい教派として改革派教会を設立するが、「分派主義」ではないことを語る必要でした。つまり正統な聖書解釈に基づく信仰を他教会の人たちに理解していただいた上で、一致して一つになることを願いつつ、改革派教会を設立したのです。
 つまり20周年宣言における「一致」の項は、創立宣言が語ろうと語ろうとしていたことを語り直しているにすぎません。つまり同じことを語らなければならないほど、「改革派教会」について、キリスト教会全体において理解されていなかった証拠です。

Ⅱ.教会にとって「公同性と協力」こそが大切である!
 さて宣言は「われらは、キリストの教会の公同性を信ずるものとして、わが教会の使命遂行を、内外諸教会との交わりと協力とのうちに行なおうとするものである」と告白します。まず「教会の公同性」について確認します。キリスト教会であるか否かを決定づけるものは、「三位一体」と「キリストの二性一人格」の二つの教理です。聖書の解釈の仕方が違っても、この二つのことで一致するとき、私たちは、互いに「キリスト教会」と認め合い、クリスチャンとしての交わりを行うことができます。しかしこれらの教理を否定する人たちを「異端者」とし、彼らを私たちはキリスト者としては受け入れません。
 しかし宣言で語るとおり、教派が違い、聖書理解・信仰告白が異なっても、互いの違いを理解し、神の民としての交わりを行い、協力しあうのが、私たちの教会の立場です。
 正直なところ、現実には、他教会・他教派に対する批判が、改革派教会内でもあり、他教派においてもあることを耳にします。
 たしかにウェストミンスター信仰規準においても、当時のローマ教会に対する批判・否定が信仰告白文書として記されています。しかしウェストミンスターは、宗教改革の時代という時代背景があることを理解しなければなりません。
 今も、改革派教会とカトリック教会の教理は違いがあるばかりか、受け入れることができない教理も少なからずあります。マリア崇拝・聖人崇拝などは偶像崇拝です。それでもなお彼らもキリスト者であることを私たちは受け入れます(参照:ルカ9:49~50)。
 互いの違いを理解しつつ、議論するときは論争すればよいのですが、必要以上に論争し、批判し合うことがあってはなりません。忘れてはならないのは、どこの教派・教会であろうと、三位一体なる神を信じ、キリストの二性一人格を受け入れ、キリストの十字架による罪の贖いを信じていれば同じ神の民です。キリスト者人口が非常に少ない日本で、教派の違いにより批判し合うことは、何の益にもなりません。

Ⅲ.「妥協的教会合同」は行わない改革派教会
 続けて宣言は告白します。「これは、信仰の一致に基づく交わりであって、キリスト教真理の犠牲のもとに行われる妥協的教会合同運動とは、全く性質を異にする」。戦時中の教団合同について「妥協的教会合同運動」として断罪します。実は、この戦時中の教団合同を、「主の摂理」として喜んで受け入れている人たちがいます。それは、キリスト教会が「教派」を取っ払って、一つになることが理想だからです。
 しかし、信仰理解・教理において異なる人たちと一つになっても、「一致」がなければ、牧師毎によってバラバラになり、教会形成・教派形成などできません。信徒の方が、別の教会に行くと、まったく別の信仰であれば、教会生活を継続することはできなくなるからです。そうした意味で、「妥協的教会合同」は、受け入れることができません。

Ⅳ.改革派教会は、教理と教会政治における一致を求める教会である
 そのため、20周年宣言は、「一致」の最後の部分でことように告白します。「われらは、霊的に一つである地上の教会が、教理と教会政治において、その統一性を可視的に表明することこそ、教会のかしらなるキリストのみ心であると信ずる」。教理としてのウェストミンスター信仰規準、長老主義政治としての教会政治において、一致することが大切です。教会が弱くなっているときだからこそ、私たちは教育的伝道として、教理と教会政治をしっかりと学び・理解した上で、教会形成を行っていくことが求められています。

 
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「20周年宣言(祈祷)」  ルカ21:34~38    2023.4.2 
   
 序.
 20周年宣言では、回顧・礼拝・神学・伝道・一致・祈祷と順番に学んでいます。御言葉の養いにある礼拝、そして神学に基づいて教会を形成することが宣言の中心を成しています。それらを中心に各々のつながりを考えなければなりません。

Ⅰ.神の御前に生きるとは……
 このとき忘れてはならないことは、私たちは「神の御前に」生きていることです。これが創立宣言の有神的人生観・世界観を確立することに結びつきます。神の御前に生きるとは神が共におられ神の臨在を意識して生きることです。それは今も共に働いておられる聖霊を信じて生きることです。
 ですから宣言において、「神の国の進展は、人間のわざにあらず、聖霊が人をとおしてなしたもうみわざである」と告白する時、教会の形成は自分たちの行動で行うことではなく、主なる神の御業です。私たちはそこに関わらせていただいていることを私たちは理解しなければなりません。
 つまり「教会形成」と「伝道」が、人間の業に成り下がってはなりません。神の民が教会に集められ、キリスト者となるのは、主なる神の永遠の御計画(予定)に基づいて行われます。「私が一生懸命に伝道を行うことによって、あの人がキリスト者となった」ではなく、主の御計画に従い、聖霊がその人に働くことにより、教会へと人が招かれ、キリスト者とされたのです。

Ⅱ.神のみ業としての伝道
 ですから祈祷や伝道を考えるにあたり、人間中心ではなく、神中心となることが求められます。そして神の御計画に従い、神の御業が行われる時、私たちはそこに参与させていただいているのです。
 私たちは、神の国の進展のために教会形成を行いますが、そのために聖書に導かれた教理、とりわけ予定と神の国の完成の教理を理解した上で、信仰の養いに与ることが求められます。教理に基づき、信仰の養いが行われることにより、喜びをもって信仰生活を送ることができ、それが結果として伝道となります。これが「教育的伝道」です。そのため、神の国の進展を願うならば、熱心に伝道に訴えるのではなく、主の御業が私たちを通して行われるように、祈り求めることが大切です。

Ⅲ.神学・伝道・祈祷の結びつきは、有神論的人生観・世界観を確立を目指す
 続けて宣言は「神学と伝道を祈祷の生活において統一することによってのみ、聖霊の力あふれる教会として立ちうる」と告白します。神学は知的研究です。伝道は実践です。そして祈祷は聖霊に委ねることです。「神学しなければならない」、「伝道しなければならない」、「祈りが大切である」とそれぞれで語られます。しかしこれら3つが分離してはならず、有機的なつながりが必要です。
 つまり、神学が知的な理解に留まっていてはならず、頭で理解するのではなく、聖書に従った本質的なものとして理解していなければなりません。このことを理解していなければ、律法主義・教条主義になります。教理の文言にこだわるのではなく、教理の本質を理解することが求められます。
 伝道も同様です。「伝道、伝道」と叫ぶ教会もあります。しかし新興宗教のようなノルマになると、これもまた律法主義となります。伝道とは、救いの喜びに満たされて主を証しすることであり、私たちの内に働く聖霊の実りを喜んで生きることが求められます。
 ですから、神学も伝道も、聖霊に基づく祈りがなければ、いずれも律法主義となり、私たちの教会は、そうした教会ではないと告白しているのです。
 創立宣言で「有神論的人生観・世界観を確立する」ことを告白しましたが、食べるにも飲むにも、何をするときにも、主を証しすることが求められます。これは、教会にいるときも家庭や働きの場にあっても、主の御言葉に従う裏表のない生活です。

Ⅳ.聖霊の力あふれる教会を形成する
 「牧師や教会は聖霊の邪魔をしてはならない」と語られます。そのため人間的な行動計画を立てるのではなく、主がお与えくださった現状を認識する必要があります。
 私たちは、日々変化する状況を的確に判断し、その時その時に必要なことを、実践していくことが求められています。そのため、自然災害、コロナという疫病、各個教会における問題等がもたらされたとき、私たちは主が何を意図してこのような状況をお与えになったのかを、御言葉と祈りによって解決を求めて行くことが求められています(ルカ21:36)。私たちは常に主の御言葉に聴きつつ、聖霊の働きに委ねて祈りつつ、いつでも主の御旨を探ることが求められています。
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「20周年宣言(信徒)」  Ⅰテモテ6:11~16    2023.4.16 
   
 序.
 20周年宣言の学びを続けています。20周年宣言では下記の通り語られてきました。
礼拝:「教会の生命は、礼拝にある」。
神学:「神の言葉の体系的把握…神学こそ、教会の生命的形成に不可欠である」。
伝道:「わが教会の伝道も、神学と愛の執事的奉仕とを一元的に実践するもの」。
一致:「教理と教会政治において、その統一性を可視的に表明する」。
祈祷:「神学と伝道を祈祷の生活において統一する」。

Ⅰ.神学と伝道に基づく信仰生活
 そして信徒の項目の最初で「わが教会のこの高く険しい目標をめざす」と告白します。目標は高く、難しいイメージです。
 しかし宣言はさらに「信徒にひとしく与えられた光栄である」と告白します。私は、ポイント、つまり全体の枠組みを理解すれば、しっかとした信仰の基盤が形成され、様々な信仰の誘惑が迫ってきても、それを乗り越える信仰を形成することができると思います。そのことにおいて、「光栄である」と語っているかと思います。
 続けて宣言は「教会の神学と伝道とは、…信徒各自が、この世にあって神の言葉に従う生活を営むときの、具体的な信仰の戦いに基礎をもつ」と告白します。つまり、日々の生活と教会生活(礼拝)と区別して、二元論になってはなりません。創立宣言が語る有神論的人生観世界観に生きることです。そのために、礼拝における御言葉の養いと共に神学(教理)、聖書の体系をしっかり理解すること、信仰と生活が一致することが求められます。
 神学は特別なことではなく、聖書全体を体系的に理解することです。そのため私はいつも二つの表を用いています。そして聖書を理解しようとするとき、常に教理との結びつきを確認することが大切です。

Ⅱ.奉仕:家庭形成と教会・社会における奉仕
 続けて、「われらの奉仕の第一歩は、神の契約に基づく家庭の形成にある」と告白します。日本では、信仰は個人の内心のことであるように考えられています。しかし信仰は、神と共に歩むことであり、私たちの生活そのものです。そのためキリスト教信仰に基づく家庭を形成することは大切です。結婚を行い、クリスチャンホームを形成することは、神の創造の秩序、神の民として生きることにおいて大切なことです。
 宗教二世が問題となっている今、クリスチャンホームにおける子どもたちへの信仰継承は大きな問題です。このときに私たちが大切にしなければならないことは、私たち自身・親自身が、教会生活を喜んで生きること、楽しむことです。教会の奉仕に追われたり、教会に対して不平・不満を家庭で語っているならば、子どもたちは教会に対する魅力を感じません。親が喜んで教会に行っているからこそ、子どもたちも喜びをもって教会に行くことができるのです。礼拝を大切にすることは教えなければなりませんが、強制することは律法主義となります。
 宣言は続けて、教会と社会に仕えること、つまり奉仕することを語ります。教会における奉仕を行うことにより、時間が取られます。自由が奪われます。しかし、主なる神により救われ、生きていく上での必要が満たされ、そして賜物が与えられています。このとき私たちは、主によって与えられた恵みに感謝しつつ、神を礼拝しつつ喜びをもって信仰生活を送ります。このとき同時に、神によって与えられた賜物を用いて奉仕をすることが求められます。
 教会の奉仕については繰り返し語ってきていることです。しかし社会に対する奉仕も忘れてはなりません。仕事や社会のあらゆる分野で、キリスト者がリードすることは必要なことです。神を知らない人、自己中心・人間中心の社会形成を行いますが、私たちキリスト者は神中心の社会形成を目指します。そして社会において模範を示していくことが求められています。
 ですから私たちは、教会での奉仕を一生懸命に行っても、社会において、地域において批判されるようなことを行っている場合、神の民として相応しいとは言えません。

Ⅲ.聖霊の養いに生きるキリスト者
 続けて宣言は「全能の神が、……聖霊による力を働かせて、ご自身の栄光を現わしたもう」と語ります。聖霊の働きを感じることができるためには、私たちは礼拝により御言葉の養い・聖礼典の恵み・祈りによる交わりが必要です。
 そして私たちは、御言葉である聖書により主の啓示を受け、そこに聖霊が働くことにより、主の御意志を顧み、主の恵みに生きることができます。
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 「20周年宣言(現代)」  ローマ11:25~35    2023.4.23 
   
Ⅰ.今の時代を考える
 そして20周年の最後の項目が「現代」です。20周年宣言が告白されたのが1966年ですから、今から57年前です。「現代」といっても、今ではまったく違った現代となっています。コンピュータ、インターネットなどはなく、今ではチャットGTP(AI)の時代となり、さらに大きな変革が起ころうとしています。
 そのため20周年宣言で、「科学技術のいちじるしい発達により、世界観が空間的にも時間的にも一変しつつある今日、機械文明の中における人間性の回復と自由とは、全世界の渇望するところである」と告白されますが、「時代が違う」という声が出てくるかと思います。
 しかし、「人間性の回復と自由とは、全世界の渇望するところである」と告白することは、変化していません。私たち人間が生きるにあたって、罪の赦しと永遠の生命を求めて生きる人間性の回復を求めて生きることでは、まったく変化していません。
 しかし現代、宗教・そして教会から人が去っています。理由は、様々な要因を考えることができるかと思います。教会が小さくなる、定住の牧師がいなくなる中、どのようにすれば、教会を維持していくことができるか、考えて行く必要があります。
 しかし私たちは、時代・社会状況の変化で片付けてはならないことだと思います。主なる神によって天地万物が創造され、私たち人間が、神にかたどり、神に似せて創造されました。しかし人は、神の御前に罪を犯し、罪の刑罰の死と滅びが入ってきました。最初の人から普通に生まれてくるすべての人が、生まれながらに、そして日々罪を犯し、死と滅びに向かっています。全的堕落です。そのため罪はなくなりません。むしろここ数年で、自然災害・疫病・戦争・飢餓・さらには迫害は、聖書が繰り返し語りますが、それらは今の時代にあっても、必ず起こることを物語っています。
 そして教会もまた、数的・質的に成長する時もあれば、減少・衰退することもあることを忘れてはなりません。そうした中、一日一日、キリストの再臨と神の国の完成の日に近づいています。

Ⅱ.神の摂理と改革派信仰
 宣言は続けて告白します。ここに改革派教会の歩むべき道が語られています。①「歴史と自然における聖なる神の主権への服従」すること。②「真の救いの自由と喜びを与える改革派信仰」であることです。
 ここでは今まで語られていなかった、新しいことが語られているように思います。しかし、創立宣言や20周年宣言において語られてきたことを、言葉を換えて告白していると理解した方が良いかと思います。
 第一の「歴史と自然における聖なる神の主権への服従」するとは、主なる神は天地創造の前に、すべてを御計画し、聖定・予定で定められました。その神の御計画は摂理、つまり歴史において私たちに示されます。それは自然界にまで及びます。
 ただ主の摂理が現れる世界は、罪に満ちた人間が形成しています。そのため、様々な悪が現れます。そして、それらに対する主の警告が行われます。それらが自然災害・疫病・戦争・飢餓・さらには迫害として現れます。私たちは、こうした社会の中にあって、主なる神から神の民として求められていることは何かを、御言葉から読み取り、実践していくことが求められています。
 そして第二に「真の救いの自由と喜びを与える改革派信仰」と語ります。改革派教会であること、ウェストミンスター信仰規準を用いることは、改革派教会外では堅い・難しいと思われているかと思います。そして改革派教会内では、律法主義的なことが行われてきたことも否定できません。
 しかし改革派教会を形成すると、罪の奴隷から解放され自由にされます。主なる神から与えられた一人ひとりの賜物を大切用いて、キリストの体なるキリスト教会を形成します。だからこそ私たちキリスト者は、罪の奴隷から解放され、自由と救いの喜びに生きることができます。すると、一人ひとりが、もっと自由に伸び伸び信仰生活を送ることができるのではないでしょうか。

Ⅲ.今の時代に改革派教会を建て上げるには
 そして宣言は最後に告白します。「永遠に過ぎ行くことのない神の言葉の上に立つ」ことが大切です。だからこそウェストミンスター信仰規準に基づいて聖書に基づく教会を建て上げることは変化しません。
 その上で、今の社会・今の日本の状況を理解し、今に生きる人たちに届く言葉を獲得し、教会の在り方を考え、教会形成を行っていくことが求められています。
 創立から76年、20周年宣言から57年を経ています。それでもなお、私たちは、改革派教会を建て上げるために、創立宣言と20周年宣言から学び、信仰の礎を確認した上で、変わりゆく時代にあって、教会形成を行っていくことが求められています。

 
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