◆ルカによる福音書  連続講解説教

「歴史を書き記す」  ルカ1:1~4  2020.1.1
 
Ⅰ.2020年を迎えるにあたって
 主の恵みの内に、2019年を終えることが許され、新しい年2020年が始まりました。今年の標語は「キリストの体なる教会をめざして」です。標語に対する御言葉の説き証しは、改めて会員総会が行われる1月26日の礼拝説教において行いたと思います。
 今年は東京オリンピックが開催され、確実に私たちもまたオリンピックの波に呑み込まれていきます。しかしオリンピックの裏で、神に逆らう人たちは悪事を進めていくことも、私たちは忘れてはなりません。そうした中、私たちは神の民として、主がお与え下さった2020年、戦後75年目の区切りの年、主を証ししつつ、生活することが求められています。

Ⅱ.聖書に証しされるイエス・キリスト
 私たちに今日与えられた御言葉はルカ福音書の冒頭です。「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねて来ている」(1-2)。これはイエス・キリストの出来事です。つまり受胎告知に始まり、イエスの洗礼と宣教活動、最後の晩餐・逮捕・十字架の苦しみと死、陰府下り、復活・昇天です。キリストについては、処女降誕を初め、死から復活、昇天など、神の御業としての奇跡を否定する人たちは、自分たちの都合の良いように解釈し、事実を書き換えておりました。現在日本でも、第二次世界大戦中の歴史を否定し、書き換えようとする歴史修正主義の人々がいますが同じです。毎日毎日、私たちは生活していますが、そこで起こったことを歴史として書き残さなければ、事実としてあったとしても、無かったこととされたり、変更されたりするのです。
 福音書が他の歴史書と一番異なることは、旧約聖書によって預言されてきたことが実現した神の御業であることです。最初に天地創造が行われますが、その後罪が混入した直後、主は彼らの罪を贖い、原福音と呼ばれる救い主の誕生を予告して下さいました(創世記3:15)。それから、アブラハムに始まるイスラエルに祝福が約束され、モーセの時代には罪からの解放と約束の地が示され、ダビデ王において、メシアが約束されていました。すべてが、イエス・キリストの御業を預言し、また予表として指し示していました。つまりイエス・キリストは、2000年前に登場した一人の人物としてではなく、何千年もの昔から約束されてきたメシア(救い主)が来られたことを、証しする必要があったのです。ですからルカは、「わたしたちの間で実現した事柄」と最初に記すのです。
 つまり福音書は、主なる神の御業を伝える書物です。そのため一人が記すだけでは、それを否定する人たちにかき消される恐れがあるため、4名の福音書記者が記します。4つの福音書があることは、複数の目撃者がおり、それぞれの目線で、神の御業としてのイエス・キリストを受け入れてきたことの証しです。
 また、主イエスは病人を癒やし、死人を甦らせ、嵐を静められました。イエス御自身の処女降誕、十字架の死からの復活、昇天…、神を知らない者にとっては受け入れることの出来ない奇跡です。裁判では、事実として認定されるには物的証拠、そして複数の証人が求められます。私たちは2000年の年を隔てた現在、御言葉に聴こうとしています。四人の証人が、キリストの御業を証しします。それに続く手紙においても、パウロを代表とする何人もの人たちがキリストを証しします。パウロは、キリストの復活には500人以上の証人がいることを語ります(Ⅰコリント15:3~6)。ウェストミンスター信仰告白1:1は、次のように語ります。「…肉の腐敗と、サタンおよびこの世の悪意に対して、教会をいっそう確立し慰めるために、その啓示された御心をすべて文書にゆだねること、をよしとされた」。

Ⅲ.神の摂理に生きる
 私たちは今、2020年に生きています。今も、神のご計画に従う、神の御業が実現しています。だからこそ神の民である私たちは、神の御業として刻まれている歴史を大切にしなければなりません。教会に起こったことを教会史として書き残すこと、一般史における出来事を書き残すことは、非常に大切な作業です。ここに神の御業が働いているからです。
 そうしなければ、私たちは神の恵みを忘れてしまいます。神を否定する人々は、事実を否定し無かったことにして歴史を変更します。今年はオリンピック一色になるでしょう。どさくさに紛れて過去の不都合なことをすべて消し去ろうとする人々がいます。だからこそ私たちは、人々がオリンピックに湧いている間も、主が私たちにお語りになる御言葉に耳を傾けなければなりません。主が御支配されている歴史に目を留めなければなりません。
 
 
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 「福音書を学ぶ」  ルカ1:1~4  2020.1.5
 
序.
 大宮教会の今年の標語は、「キリストの体なる教会をめざして」です。大宮教会の将来のことを考える時、長老・執事と共に教会員の皆さんが同じ方向を向き、協力して頂く必要があります。そして皆さんが長老・執事を支え、さらに長老・執事を引き継ぐ人たちが起こされてくることが求められます。そして教会に集うすべての人たちが協力して教会を築き上げる必要があります(ローマ12:2)。今集っている皆さまが中心に教会が形成するのですが、さらに主にこの教会に必要な賜物をもった方々が与えられる必要があります。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。(マタイ9:38)。

Ⅰ.ルカによる福音書を学び始めるにあたり
 その上で、今年はルカによる福音書より主の御言葉を聴きます。福音書はイエス・キリストの出来事について語ります。イエス・キリストは一人の人間ですが、同時に永遠の神のご計画に従って与えられた救い主です。私たちを罪の死から救い出し、神の御国(天国)における永遠の生命へと導いて下さるお方です(参照:ウェストミンスター小教理問21)。

Ⅱ.ルカ福音書の著者と読者
 福音書は、著者であるルカのことはまったく語りません。しかし、1:3と使徒1:1より、共にテオフィロに送付している書簡であり、ルカ福音書と使徒言行録は同一人物による執筆であることが分かっています。そして使徒言行録では16:10以降のパウロの伝道旅行を記す所で「わたしたち」と表記し、ルカ自身も同行していることが明らかになります。これらを総合して福音書・使徒言行録の著者はルカであると言われ、聖書正典がまとまってきた2世紀の歴史書においても、ルカが福音書の著者であることを確認しています。
 ルカはパウロの同労者であり、パウロの最期「ルカだけがわたしのところにいます」(Ⅱテモテ4:11)と語り、最後までパウロと共に宣教していました(参照:フィレモン24)。そしてパウロはルカが医者であることも記しています(コロサイ4:14)。つまりルカのイエス・キリストに対する証言は、パウロから伝え聞いたことと理解することができます。
 ただし福音書は誰が記したかがではなく、救い主イエス・キリストについて記されていることを確認することが大切です。そのため、ルカは自分自身の名を福音書に名を記すことなく、むしろ主に仕える僕としてその働きをまっとうしています。
 では福音書の受取人テオフィロについて、ルカ福音書と使徒言行録の表題にしか出て来ません。おそらくローマ社会において重要な地位にあった人物かと思われますが、詳細は分かりません。ただ「敬愛するティオフィロさま」(ルカ1:3)と記し、使徒言行録では敬称を用いずに「テオフィロさま」(1:1)と記すことから、この間に彼はキリスト者になったと言われています。つまりルカ福音書は伝道メッセージであり、旧約聖書もキリストもあまり知らない人たちを対象に記された書簡です。

Ⅲ.どのようにして福音書に聴くのか…
 ルカ福音書には特長があります。①福音は民族・性別・社会的地位を超えて、異邦人・罪人・女性・子供・貧しい人・見捨てられた人など、あらゆる人々に届けられる。②歴史書的性格③聖霊の働きの強調④祈りの福音書⑤賛美と喜びの福音書⑥キリストによる救いの福音書。これらの特徴は、福音書を読み進むことにより順次確認して行くこととします。
 私たちは、「キリストの体なる教会をめざして」どのようにして新しい人たちをこの教会へと加えていくのかと言うことを覚えつつルカ福音書を読もうとするならば、中心におられるのはキリストです。教会役員は自分たちの都合に合わせて教会運営を行うのではなく、まず教会役員がキリストの御声に聞き従うことが求められます。つまり大宮教会に集う皆がキリストにあって一つになり、キリストに倣い、祈り、賛美と喜びに満たされることが求められます。オリンピックイヤー、日本が"One Team"になるのではなく、私たちはキリストによる罪の赦しに与るキリスト者として一致が求められます。罪赦された者として、神に仕え、遜り、礼拝(時)・奉仕(賜物)・献金(財)を献げる者へと変えられて行きます。
 ルカはキリストが民族・性別・社会的地位を超えて、異邦人・罪人・子供・貧しい人・見捨てられた人等、あらゆる人々をキリストの御許に招きました。つまり教会に集う者は、一人ひとり違い・個性があって良いのです。個性があるからこそ教会はそれらの賜物を用いて豊かさを増すことが出来るのです(参照:Ⅰコリント12:12~26)。教会は誰もが集える憩いの場とならなければなりません。主イエスがどのような人たちを教会に招き、どのような教会形成を求めておられるのかを考えつつ、ルカ福音書を読み進めていきましょう。
 
  
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「預言を語られる神」  ルカ1:5~25  2020.1.12
 
 
 序.イスラエルの儀式に、とらわれ過ぎるな!
 私たちが聖書を理解する時、聖書の時代について知ることは大切なことです。しかし、説教は聖書講義ではありません。当時の文化や宗教儀式の内容を知ることによって信仰が深まるのではありません。こうしたことに時間を割いて調べることにより、主なる神が私たちに語りかける本質を見失う恐れがあるので、注意しなければなりません。今日の御言葉にも神殿における儀式について語られていますが、私たちはその働きに用いられた祭司であるザカリアに注目しつつ、主の御言葉に聴かなければなりません。

Ⅰ.祭司ザカリアと妻エリザベト
 ザカリアと妻エリザベトは、神の前に正しい人でした(6)。そのため主の恵みに満たされるべき人であったといってよいでしょう。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子供がいませんでした。当時は子どもが多く出来ることが神の恵みに満たされていると言われており、子どもがいないことは、神に呪われているとさえ思われていました。
そのためユダヤ人社会の中で、彼らは蔑まれていたと考えられます。

Ⅱ.くじを引く
 そうした祭司ザカリアが、主の聖所に入って香をたく働きが割り当てられます。この働きは、多くの祭司の中にあって、一年に一人だけ行う特別な働きであり、祭司として一生に一回あるかないかの大役であり、祭司にとっては名誉な働きでした。
 聖書においてくじを引いて当たることは、偶然ではなく、主の御業が働いた結果です。主が成し遂げようとする御業に相応しい者にくじが当選します。その例は使徒の補充選挙で確認できます(使徒1:21-26)。自殺したイスカリオテのユダに代わり、主イエスの弟子たちは、ヨセフとマティアの二人を立てて、くじを引くこととによりマティアを使徒に向かい入れます。つまりくじでザカリアに祭司の努めが当たったのは、主の御業の表れです。
 そして、ザカリアに対して天使が現れ、語り始めます(11)。この時、ザカリアはそれを見て不安に襲われます。ザカリアにとっては初めての大役です。その上に、自分には子どもがなく、祭司を引き継ぐ者もいません。ザカリアの恐れは、主の裁きに対する恐れです。

Ⅲ.主のご計画の実現
 しかし主の天使は、ザカリアに対して主の祝福を示されます(13~14)。主なる神の御業は、預言で伝えられ、それが実現します。しかし私たち人間は、突然、主の天使の言葉を聞いても受け入れることは出来ません。そのため主なる神は、しるしにより、それが主なる神の御業であり、私たちが受け入れるべきことであることを示して下さいます。
 この時にザカリアに示されたしるしは、ザカリアとエリザベトの間に子どもがいなかったこと自体がしるしでした。人間には不可能だと思われることが実現することにより、主なる神の御業を受け入れ信じるようにお導き下さいます。旧約聖書で、同様のことがアブラハムとサラにおいて実現しました。主なる神は100歳のアブラハム、90歳のサラに子どもが生まれることにより、主の御業をお示し下さいました。
 そして天使はザカリアに、子どもが与えられる理由を語ります(15~17)。イスラエルが待ちわびているメシヤが来られる時、預言者エリヤを遣わすことを主は預言していました(マラキ2:23~24)。それがザカリアから生まれる子どもによって実現するのです。主の天使は、ザカリアが主から裁きを受けるのではなく、主の祝福に満たされており、主のご計画の一員に加えられることを伝えます。主の祝福は、私たちが求め、勝ち取るものではなく、主がお与え下さいます。私たちは、主からの恵みに感謝して恵みに生きればよいのです。

Ⅳ.ザカリアの不信仰と主による赦し
 しかし、神の前に正しい人であるザカリアですら、天使の言葉を信じることが出来ませんでした(18)。すでに主なる神を信じ、主に従って生きている者であっても、主の御言葉を受け入れることが出来ないことが起こります。しかし主なる神は、ザカリアを責めることをしません。新たなしるしをもって、主の御業を受け入れ、信じる者へと導いて下さいます(19~20、参照:ウェストミンスター信仰告白11:5)。ザカリアにとっては、子どもが生まれるまでの間、口が利けなくなることにより、主なる神と相対する時が与えられたのです。
 失敗すること、罪を犯してしまうこと、そして苦難や災害、これらに遭遇した時、私たちは「なぜ?」と思います。しかし主なる神は、こうした時にこそ私たちに、主の御前に立ち、主がお与え下さろうとしている神の御業、神の恵みに対する備えを行うように求めます。主なる神は、私たちにも語りかけて下さいます。常に立ち止まり、主なる神の御業、主なる神の恵みがどこにあるのか、顧みることが求められています。
 
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「聖霊の働き」  ルカ1:26~38  2020.1.19 
 
Ⅰ.今も生きて働いておられる主なる神
 主なる神は、御自身の御業を完成させ、私たちに救いを与えるために、おとめマリアに子どもを授けます。これは聖霊の働きによる神の御業です。しかし人々は、特別な形で神が働くこと、つまり子どもは男性と女性が交わることにより初めて生まれるのであって、それ以外のことを受け入れません。
 しかし私たちは主なる神の創造の御業を顧みなければなりません。主は、何も無い所から天地万物を創造し、私たち人間に命をお与え下さる御力を持っておられます。しかしそれを受け入れられない人たちはこのように考えました。「天地創造の神の御力は受け入れるが、その後神は何も行わず世界の動きに任せておられる」と。このことを「理神論」と語り、ゼンマイ仕掛けの時計と同じ原理です。
 しかし私たちはそのような考えを否定します。私たちが主による創造を受け入れる時、主なる神の御力が、キリストの誕生においても働かれ、そして今も働いておられます。聖書に記されている神の救いの御業は、天地創造から主イエスの時代、そして現在に、さらに最後の審判と神の御国の完成にいたるまで、一貫しています。全能である神の御業が、私たちに及ぶ時、それは私たちの常識を越えて働く奇跡として成し遂げられます。現在でも神は奇跡を行うことが可能です。罪人である私たちが神を知り、神を救い主として信じることが、神の奇跡です。石の心を持っていた私たちに、主なる神が聖霊を通して働かれた結果であり、これが神による奇跡です。

Ⅱ.聖霊による身籠もり:真の人、真の神として
 主なる神の御業として、おとめマリアは聖霊によって男の子を身籠もります。マリアのことを、カトリック教会では聖母マリアと語ります。彼らは、マリアは神の恵みにより、生涯にわたり罪を犯すことはまったくなかったと語ります。またマリアは生涯、処女であったと語ります。そのため彼らは、マリアを神格化して聖母と呼び、神への祈りの執り成しをマリアに行います。しかし聖書には、マリアに罪がなかったことが語られていません。聖書はイエスの兄弟姉妹について語ります(マルコ6:3)。そのため私たちはカトリックの立場にありません。マリアがキリストの母とされたのは、彼女に罪がなかったのではなく、あくまで神の恵みであって、マリアも一人の人間、一人の主の僕にすぎません。
 主イエスはマリアから生まれた真の人間の子どもとしてお生まれになられました。聖書には少年イエスについて語られています(ルカ2:41~52)。12歳になった少年イエスは、神殿の境内において学者たちと話し合っていました。この時、ヨセフとマリアは心配になりイエスを探し回ります。イエスが、彼らの子どもとして育っていたことを物語ります。
 同時に、イエスは神の御子です。それがおとめが聖霊によって身籠もる神の御業として成し遂げられました。つまり、聖霊によりマリアの胎に宿った時から、イエスは罪から守られ、罪のない状態で人としてお生まれになりました(ウェストミンスター小教理問22)。

Ⅲ.二性一人格と三位一体
 マリアからお生まれになったイエスは、真の人でありつつ真の神です。このことを二性一人格と語ります。宗教改革において「聖書のみ」と語られ、「聖書に記されていない神学用語を用いるべきではない」と語られる方もおられます。しかし、神の御言葉である聖書をどのように信じるか、人間の解釈が出てきます。人によって読み方、解釈の仕方が異なります。だからこそ、聖書をどのように解釈し、理解しているのか、私たちはどのような神を信じているのかを、教会は信仰告白としてきたのです(ウ小教理問21)。
 二性一人格と三位一体の二つの教理は、キリスト教の教派を超えて一致できる信仰告白です。「使徒信条」で告白されています。これは、古代ローマ教会における信仰告白準備用のテキストが信仰告白文書となりました。東方教会が別れるのはエフェソ会議(AD431年)の後であり、使徒信条はそれ以前から教会において保たれてきました。そのため使徒信条はキリスト教会共通の遺産であり、これら二つの教理を否定することは、キリスト教を語りながらも似て非なる異端者であると言えます。
 私たちの教会は改革派教会を立て上げていますが、三位一体、二性一人格を受け入れるキリスト教としての一致を前提としており、キリストの十字架の贖いによる罪の赦しと神の御国の永遠の生命が与えられることにおいては教派を超えて一致があります。その上で、私たちは改革派信仰に基づく教会形成を行っていくのです。 
 
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「訪問して確かめる」  ルカ1:39~45  2020.2.2
 
 
 序.
 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と語られます。主の御言葉、主の約束を信じることは大切です。しかし私たちは、雲をつかむように、何も確証もなく信じることが求められているのではありません。

Ⅰ.受胎告知を確かめに行くマリア
 マリアは天使ガブリエルより、聖霊により身籠もって男の子を産むことが告げられました。マリアは戸惑いながらも、天使にこのように答えていました。38「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と。
 しかし神の御業が私たちに表れ、私たちが信じることは、何も雲をつかみにいくように、実体のないものを手に入れることではありません。天使はエリサベトの妊娠も伝えていました。マリアはエリサベトに会うことにより、天使の言葉が真実であるかを確認することができます。主なる神は、神の御業が確かであることを、別の方法で確認させてくださいます。そのためマリアは、エリサベトに会うために「急いで」旅立ちます。
 主なる神は、主が成し遂げてくださることを、私たちにもお示し下さいます。先週、私たちは会員総会においてオルガン購入の決議を行いました。その結果を受けて、オルガン工房にお電話したところ、中古ですが予定していたものよりもグレードの高いオルガンなら即納できると伝えられました。そして肝心の中側、音源回路・アンプスピーカーは、すべて新しいものです。私は、主なる神が私たちの教会の必要を満たして下さるために準備して下さっていたのではないかと、思っています。

Ⅱ.受胎告知の確信を得るマリア
 さてマリアがザカリアの家に着きエリサベトに挨拶した時、主の御業により身籠もったエリサベトの胎の子ヨハネは、神の子であるイエスと出会ったことを喜びます。主なる神の御業は聖霊によりエリサベトにも示されており、エリサベトは「わたしの主のお母さま」と語ります。マリアから生まれてくる子どもが、神の御子であることの信仰告白です。
 エリサベトのこの証言により、マリアもまた、天使から語られたことが真実であり、自分の身に起こりうることを確信することができたのです。

Ⅲ.主の約束を信じる私たちの信仰
 マリアからお生まれになる子どもこそ、神の御子、救い主です。この御子によって、私たちの救いが成し遂げられ、永遠の生命が与えられます。マリア、そしてエリサベトは、救い主と出会い、当事者となることにより、主の恵みに満たされます。
 そしてエリサベトはマリアに対して最後に「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と語ります。このエリサベトの言葉は、マリアに対して語られていますが、今に生きる私たちに対しても語りかけている言葉です。最初に「信仰とは雲をつかむような実体のないものではない」と語りました。しかし人々は、キリストの再臨と最後の審判、神の国の完成とキリスト者の永遠の祝福の生命を雲をつかむようなものとして、疑いの目で見ます。しかし聖書は未来の約束のみを語るのではなく、過去に示された神の御業も語っています。私たちは聖書全体から、主の御業を確認しなければなりません。聖書は、主なる神による天地万物の創造に始まり、旧約聖書、そしてイエス・キリストの時代、使徒の時代における歴史に基づいています。
 旧約聖書は、主なる神の約束・預言が、歴史において実現していくことを証しします。主なる神はノアに対して箱舟を作るように命じられ、箱舟に乗った後に、約束通り大雨をもってすべてを滅ぼされました。主の約束を信じたノアと家族は救われました。アブラハムは主の言葉を信じて、約束の地カナンに向かい信仰の父とされました。主はアブラハムに対して、イスラエルが囚われの身となり400年後に解放されることを約束され、モーセの時代に奴隷から解放してくださいました。主なる神は、ダビデの子として救い主メシアを約束し、マリアからお生まれになるイエス・キリストにより実現しました。
 聖書が語る神の約束、罪の赦しと永遠の生命を信じることは、雲をつかむような夢物語ではなく、信じるに値することです。私たちは主の晩餐の礼典に与りますが、ここで私たちはやがて与えられる神の御国における晩餐の前味を味わいます。ここに私たちの希望があります。主イエスはお語りになります。「求めなさい。そうすれば、与えられる。…」(マタイ7:7~11)。私たちは、主を信じ・祈り・願い・神の御国の希望をもって歩み続けていくことができます(参照:ウェストミンスター小教理問36)。
 
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「喜びの歌」  ルカ1:46~56  2020.2.16
 
  
序.喜びに満たされていますか?
 皆さまは、教会に来ること・礼拝に出席することが、喜びとなっているでしょうか? 
ウェストミンスター小教理問答は、問1で「人間の第一の(生きる)目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです」と答えています。神と共に歩み、神を礼拝することが喜びである時、私たちの信仰生活は恵みに満ちた豊かなものとなります。今日の御言葉より、神を信じることによって与えられる喜びについて共に考えて行きます。

Ⅰ.マリア エリサベトとの出会い
 マリアは、天使から受胎告知を受け、それを確かめるためにエリサベトの所に来ております。エリサベトにもまた天使が与えられ、主の御業として、子どもを授かったからです。エリサベトはマリアのことを「わたしの主のお母さま」(1:43)と語り、エリサベトの胎内の子も喜び躍ります。受胎告知を受けたマリアは恐怖や不安もあったことかと思いますが、天使が語っていたことが真実であることが示され、恐怖や不安は取り去られ、神によって救われている喜びに包まれます。それが46~55節で語られるマリアの賛歌です。

Ⅱ.魂の叫びとしての賛歌
 マリアは魂の叫びにより賛美します。何の疑いもない信仰告白です。マリアは、すべてを主に委ねています(46)。信じるとは委ねることです。つまり、マリアはメシアの母となることばかりか、すべての敵から守られ、永遠の生命にいたる救いの祝福に満たされます。信仰に伴う賛美・喜びは、この時ばかりではなく、永遠の生命における永遠の出来事です。
 神を信じるとは、キリストの御業による罪の赦しと永遠の生命の約束を信じることです。今の苦しみもすべて解き放たれるため、私たちは救いの希望に生きることができます(参照:ウ信仰告白18:1後半)。そのために私たちは、神を礼拝することにより喜びに満たされます。

Ⅲ.弱さを認めることこそ、信仰の第一歩
 マリアは続けて賛美します(48-50)。主なる神を信じ、主なる神によって与えられるすべての救いの御業を受け入れる時、客観的に自らを顧みることができるようになります。そのためマリアは、自分自身のことを身分の低い、はしためであると語ります(48)。主なる神は、人々からは見向きもされない一人の女性をとらえ、メシアの母としての祝福に導いて下さったのです。カルヴァンは「キリスト教綱要」において、神を知ること、自己を知ること、この両者があることにより真の信仰が築かれていくことを語ります。
 貧しい者を覚え、救いへとお招き下さる主なる神さまの御姿は、ルカによる福音書全体においても、貫かれていきます。羊飼いをキリストの誕生の証人としてお立て下さいます(2章)。汚れた霊に取りつかれた男をいやされます(4章)。5章では、4名の学のない漁師を弟子にし、重い皮膚病の人・中風の人を癒やされ、罪人とされていた徴税人レビを弟子にします。罪深い女を赦され(7章)、7つの悪霊を追い出して頂いたマグダラのマリアを奉仕者として受け入れます(8章)。そして10章では、罪人とされていたサマリア人を真の隣人として下さいます。主なる神が、罪を赦し、救いへとお招き下さるのは、たとえ社会から見捨てられ、迫害され、卑しめられている者であったとしても、主なる神の呼びかけに応え、主なる神を信じ、主なる神に従って歩む人たちです。彼らは、条件なしに主なる神に従い、救いの喜びに満たされて生きました。私たちもまた、主なる神によって召され、今日も礼拝の場へと招かれています。主なる神は、マリアをお覚え下さったように、私たち一人ひとりを覚え、主の救いの恵み、主の喜びに満たして下さいます。だからこそ、主なる神を礼拝する時、私たちは心からの喜びに満たされるのです。

Ⅳ.キリスト者:救いの希望により愛に生きる!
 続けてマリアは告白します(51-53)。主は、思い上がる者、権力を持つ者、経済的に成功した富める者を追い返されます。彼らは、自分の力で生き、他人を虐げます。彼らは主なる神を受け入れないばかりか、神の御力も否定します。彼らは、自分の目の前しか見ず、自分の目に見えるものがすべてです。自分に都合の悪いものをすべて否定します。
 神の救いに与る者は、自らの弱さを受け入れ、隣人の弱さを知り・理解します。主なる神による救いへと招かれた者は、キリストが十字架の御業により私たちにその愛を伝えて下さったように、私たちもまた愛に生きる者となります(Ⅰコリント13:2, 4-7)。
 そしてマリアは最後に主を賛美します(55)。主なる神が旧約の時代にお語り下さった救いの約束が、マリアから生まれ来るキリストによって成就し完成します。だからこそ、私たちも、御子の再臨、最後の審判と神を信じる者の救いの完成が、神によって実現されることを信じ、救いの希望に生きることができるのです。
 
  
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「預言は成就した」  ルカ1:57~66  2020.3.1 
 
Ⅰ.預言の成就としてのヨハネの誕生
 キリスト教は言葉の宗教であり啓示の宗教です。啓示された預言は神によって成し遂げられます。私たちは過去において預言された出来事がことごとく成し遂げられることにより神の御業を確認することができます。
 今日私たちは洗礼者ヨハネが誕生に関して御言葉に聞きますが、父親となるザカリアに対して天使を通して預言されていました(1:5-25)。しかし預言者ヨハネの誕生は小さな預言の成就ではなく、主なる神による神の民の救い全体に関わる事柄であり、マラキ3:23-24で語られていたことの成就です。つまり主はイスラエルの民に、約束のメシア救い主が与えられることを約束されますが、メシアが来る前に、主なる神はマラキにより預言者を遣わすことを約束して下さったのです。このマラキの預言が成し遂げられようとしています。

Ⅱ.人々の言動
 高齢であり不妊の女と呼ばれていたエリサベトに子どもが誕生すること、それも男の子が誕生したことは、ザカリアの家族ばかりか地域の人々にとっても大いなる祝福でした。
 しかしこの時、人々の中ではザカリアが不在でした。ザカリアは口が利けなかったからです(1:20参照)。ザカリア不在の中、人々は父親を蚊帳の外に追い出し、子の名を父の名を取ってザカリアと名付けようとします。子どもが生まれるという祝福された時、外野に位置する人々が中心に動こうとします。彼らは子どもの誕生にのみ心があります。60 母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言うと、人々はさらに61「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と語ります。今ここで起こっている出来事しか見ていない愚かな言葉が重ねられます。彼らは父親に「この子に何と名を付けたいか」と尋ねます。あたかも自分が名前を付ける権利を持っているかのような問い方です。
 彼らがここで行うべきことは、高齢であり不妊の女と呼ばれたエリサベトから子どもが生まれようとしている彼ら夫婦に、何があったのかを確認することでした。ザカリアは主の聖所に入って香をたく祭司として祝福されたにもかかわらず、その時から口が利けなくなりました。その後、妻エリサベトは身籠もり5ヶ月の間身を隠します(1:24)。こうした状況の全体を確認しつつ、これは何なのか、一度立ち止まり、主なる神が彼ら夫婦に何をしようとしているのか、確認しなければなりませんでした。状況も分からず他人の話に首を突っ込み、意見を語る、こうした浅はかな言動を私たちは慎まなければなりません。

Ⅲ.神と向き合う時
 一方ザカリアは口が利けなくなって以来、沈黙を守ります。その間に妻エリサベトが妊娠します。イエスの母となるマリアが尋ねてきます。ザカリアは主と向き合い、主の御業を顧みます。沈黙し主と向き合うことは、私たちの日々の生活にあっても大切なことです。
 ザカリアが主なる神の御声に聞き従い、「この子の名はヨハネ」と人々に示した時、ザカリアの口は開き、舌がほどけ、神を賛美し始めます。この一人の子の誕生が聖書に留められ、そして世界中の人々がヨハネの誕生を覚えるのは、ここに主なる神の御業があるからです。そしてヨハネには、御子イエスの道備えをする大きな働きが託されていました。私たちは、主なる神の御業がここにあることを聖書を通して確認することができます。
 私たちが今の時代に生き、神の子として召されてキリスト者とされて、今、大宮教会に集っています。時間と空間を支配される主の御前に小さな存在です。しかしここに集う一人ひとりに、主は聖霊をとおして働きかけ、神の民へと招いて下さっています。今日も御言葉と主の晩餐の礼典により、私たちが神の民であることを宣言して下さいます。
 この時、私たちの日々の生き方も問われています。日々の小さな出来事も主の支配下にあります。私たちは有神的人生観・世界観に生きることが求められています(参照:Ⅰコリント10:31)。そうであれば、軽々に言葉を語り行動することはできません。小さな一つの出来事でも、時間と空間を支配される主の御前に確認しなければなりません。主は私たちに、主を証しする民として、責任と役割を与えておられます。主なる神は、ここに集う一人ひとりを覚え、愛していて下さいます。すべての言動に心を留め、執り成して下さいます。
私たちに与えられた救いの希望は、決して失望させることはありません(参照:ウ信仰告白18:1)。 主の救いの恵みに感謝し、日々、主の恵みに満たされていることを覚えつつ、私たちは信仰生活を歩むことが求められています。
 
 
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「神の働きへの感謝と喜び」  ルカ1:67~80  2020.3.8  
  
Ⅰ.主の働き人へと召されるザカリア
 旧約の時代からの主の約束であるメシアが誕生する時を迎え、メシアの道備えを行うヨハネが誕生しました。ザカリアは不信仰の故に口が利けなくなっていましたが(1:20)、ヨハネの誕生の時「この子の名はヨハネ」と表明し(63)、舌がほどけ神を賛美し始めました(64)。
 この時、ザカリアは聖霊に満たされ預言を始めます。これは、主なる神と出会い、主なる神を信じたキリスト者として、主の働き人へと変えられたことを意味しています。
 表面的なことで言葉を発し、行動を行う自己中心的な人間のために、今、日本中の人々が振り回されています。そうではなく、キリスト者は、主がお与え下さっている現在の状況を広く・深く知り、キリスト者として賢く判断し、言動することが求められています。この違いは、私たちがキリスト者とされたことによります。ウ大教理問97から、道徳律法(十戒)を手がかりとして考えることができます。私たちがキリスト者とされる時、行い・言葉・心において十戒を守ることができない罪人であることが示され、キリストによらなければ救いがなく、滅びることが示されます。そして神を信じることにより、十戒に従った生活へと導かれます。ザカリアは、主から預言者としての働きが与えられました。ですから、主なる神と出会い、再生されキリスト者となることは、十戒に仕えて生きることあり、それは同時に主の働き人として、主に従って生きることです。

Ⅱ.旧約の約束を成就するメシアが与えられる!
 主によって救いが与えられキリスト者は、救い主である神・キリストを誉め称えます(68-69)。御子により救いが与えられます。主はその民を訪れて罪の死からの解放が与えられました。今までの翻訳では「贖われた」と訳されています。つまり罪からの解放は、キリストによる罪の贖いが行われた結果であり、「解放」と訳すことでキリストの十字架の御業の意味が隠れてしまっています。ここは「贖い」と訳すべきです。
 次に我らのために救いの角(69)を、僕ダビデの家から起こされます。「角」とは、本来動物にある角であり、力の象徴です。救い主を象徴する強い力を示しています。つまり、主が、すべての神の民を救うためのメシアがダビデの子としてお生まれになることを預言します(参照:詩132:17-18)。
 ザカリアは続けて預言します(1:70-73)。御子の誕生によって成就したダビデに対して約束されていた祝福は、アブラハムの時代にまで溯ることのできる主の約束であり、強いては旧約聖書全体において約束されていました(参照:創世17:2,4-7、レビ26:42)。こうした主の契約は、忘れ去られることなく、今、キリストの誕生によって成就しました。
 メシアの誕生により、旧約のイスラエルの民も新約に生きるキリスト者も、キリストの十字架により罪が贖われ、救われます。だからこそ私たちは何も恐れる必要はありません。神がお示し下さった十戒に従い、キリストに倣う生活へと促され、それが良き生活・教会の奉仕につながります。神の民とされたキリスト者は、神との縦の関係が修復された時、同時に横の関係、教会における交わりが与えられます。それが、互いに遜って赦し合い、愛の業をもって、奉仕することであり、聖化の歩み・キリスト者らしさとなります。

Ⅲ.主の働き人へと召されたキリスト者
 そしてザカリアは76節以降、自らの子として生まれた幼子ヨハネについて語ります。ザカリアは、ヨハネのことを、旧約聖書の時代から約束されていたメシアの道を整える主の貴い働き人であることを、「神の憐れみの心による」と語ります。
 主の働き人に召される時、「こんな自分が」、「自分には無理です」と思ってしまいます。モーセも、エレミヤも、主から召しを受けた時、自らが主の働き人として相応しくないと思いました(出エ3:11-12、エレミヤ1:6-8)。しかし主は彼らを主の働き人としてまっとうさせて下さいました。主のための働き人として立てられるのは、その人が一生懸命にやることではなく、主の御業です。主の憐れみによって用いられるのであって、感謝をもって、主に仕えて行くことが求められています。
 そして最後にザカリアは語ります(78-79)。ザカリアの子として生まれたヨハネの働きは、暗闇の中を照らす光として輝くメシア、イエス・キリストを指し示す大いなる御業です。そして私たち一人ひとりが生きること、そして主によって与えられた働き・奉仕に仕えることもまた、主によって与えられた大いなる御業です。感謝と喜びをもって、主に仕え、キリストの体なる教会を共に築き上げていきたいものです。
 
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「イエス・キリストの誕生」  ルカ2:1~7  2020.3.15  
  
序.
 私たちは今、キリストの十字架を覚えますレント(受難節)の時を送っています(イースター:4月12日)。しかし今日、私たちに与えられた御言葉は御子の御降誕です。クリスマスに繰り返し読まれてきた御言葉ですが、受難節だからこそ、ルカ福音書を連続して読んできているからこそ、読み取ることができる言葉もあります。
 そこで今日は、最初に説教のポイントを2つ挙げさせて頂きます。①御子の誕生は、旧約における預言の成就として成し遂げられ、それは十字架へ向かっている。②主の御業に関わる御子の御降誕も、時の為政者の政策の中に振り回されている。

Ⅰ.苦しみを共有される御子の誕生
 私たちは2020年3月に生きています。75年前(1945年3月)、東京大空襲があり、貴い多くの生命が失われました。9年前(2011年3月)、東日本大震災が発生し、今なお多くの人々が苦しんでいます。原発事故では人間の高慢さが厳しく指摘されています。そして今、コロナウィルスによる感染症のため、世界中が恐怖にさいなまれています。これらが語ることは、人間である私たち自身の無力さであり、生きて働く神の御前に遜ることです。また為政者は人々の生活を支配し、私たちも権力者に翻弄されつつ日々の生活を送っています。
 御子の御降誕は主の御業として行われますが、世の権力者に振り回される形で成し遂げられていきます(2:1~5)。主イエスは真の神の御子ですが、同時に私たちと同じように苦しみを覚えられました。つまり神は異次元の存在ではなく、私たちの生活の中に生きておられます。そのために、キリストは人間としても一番低い状態にお生まれになられました(ウェストミンスター大教理問47、フィリピ2:6~8)。
 だからこそ、今、世界中に蔓延していますコロナ・ウィルスの恐怖・苦しみも、キリストは天上にあって受け止めて下さり、執り成しの祈りを献げて下さっています。つまり、問題の解決に向けて、神の御力が魔法のように私たちに示されるのではなく、為政者に知恵を授け、医療従事者に知識と治療方法を与え、研究者に治療に必要な能力をお与え下さることにより、大きな問題を解決へと導いて下さることにより主の御業は成し遂げられるのです。そのために、私たちは、主の御業が成し遂げられるように祈り続けるのです。

Ⅱ.メシア預言
 そうした中、旧約聖書で約束されていたメシアが人としてお生まれになられたことを考えて行かなければなりません。御子の来臨はミカ書5章に預言されています。ここでイスラエルの滅亡(バビロン捕囚)が預言されています(4:14)。主の民であるイスラエルが、自らの罪の故に裁かれます。そしてここでベツレヘムが出て来ます(5:1)。ベツレヘムはダビデの町です(参照:サムエル上16:1)。ダビデの町ベツレヘムも、バビロン捕囚により希望を失い、小さな町、つまり忘れ去られた町となります。
 しかし、5:1 お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出ると預言されます。これが御子の降誕の預言です。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼると語られ、三位一体の第二位格としての神であり、永遠であられることが証しされます。つまり政治に翻弄され、人間の弱さを担ってお生まれになられるキリストは、同時に永遠に生きる神の御子であられます。さらにミカは預言を続けます。 5:2 まことに、主は彼らを捨ておかれる 産婦が子を産むときまで。イスラエルが捨て置かれます。これは御子の降誕に至るまで続くのであり、御子が貧しさの中、政治に翻弄される者として生まれることを指し示しています。神の御子の誕生は、宿屋ですら泊まることができず、飼い葉桶が置かれた家畜が飼われていた家畜小屋、もしくは洞穴で、劣悪な状況の中、お生まれになられました。

Ⅲ.勝利を信じて生きる生活
 劣悪な状況、政治に翻弄され家畜同様に生まれられたキリストですが、その方が同時に永遠の神の御子であり、私たちに救いをお与え下さるお方です(3-4a)。御子こそが、イスラエルの王、神を信じるすべての者の王として、すべてを支配し、統治し、平和(シャローム)が到来することが約束されています。御子は彼らに勝利を遂げて下さいます(9-10)。それがキリストの十字架です。十字架上のキリストは敗北者の姿に見えますが、キリストは死から甦り勝利を遂げ、死を滅ぼし、肉を支配している人々を滅ぼして下さいました。そして、キリストが再臨されるとき、神が勝利を遂げ、平和が訪れます。
 私たちは、この御子の御業が成し遂げられる約束の下、生命が与えられています。私たちもまた、社会に振り回され、見えないウィルスに悩まされています。しかし、キリスト御自身が苦しまれ、私たちの苦しみを知っておられます。このキリストが、今も、私たち一人ひとりの苦しみを覚えて、執り成して下さっています。だからこそ私たちは、苦しい中であっても、キリストにある希望をもって歩み続けることができます(Ⅰコリ10:13)。
  
 
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「聖書を証しする人」  ルカ2:8~20  2020.4.19 
  
Ⅰ.羊飼いたちの予定
 序
 今日の御言葉は、毎年のようにクリスマスに読まれる御子の御降誕のテキストです。しかし今日は、御子の降誕に光を当てるのではなく、主なる神の救いの御業に与った羊飼いに注目しつつ、特に17節と20節を中心に、御言葉から聞いていきたいと願っています。
 主なる神は、罪の赦しと永遠の生命が与える神の民を、永遠のご計画において定めておられます(予定)。ここに登場する羊飼いたちも、主による救いに定められていました。最初に神は、羊飼いたちを主の天使を通して救いへとお招き下さいました。彼らには、御子の降誕を見届ける特別な役割を託す形での召しです(2:10-12)。この時、主なる神は、羊飼いたちの罪を赦し、義と認め、神の子とし、さらに聖化の歩みを約束しておられます。
 このように主の天使の呼びかけがあり、天の大軍の賛美が行われた時(2:13-14)、羊飼いたちはもう迷うことはありません。ここに聖霊の働きがあり、罪を悔い改め、信仰を告白する者とされます。だからこそ彼らはすぐさまベツレヘムへと旅立ちます(2:15)。主なる神への信仰は、主なる神のご計画に基づき、聖霊の働きにより信仰が起こされていきます。
 当時のイスラエルでは、定住することなく、安息日も守ることなく羊の世話をしていた羊飼いに救いなどあるはずがないと思われていました。そのため彼らは、社会からもはじき出され、相手にされていませんでした。しかし、社会からは罪人の烙印を押されていた羊飼いたちを、主なる神は救い、御子の降誕の第一証人としてお立て下さいました。

Ⅱ.福音を証しする
 お生まれになられた御子と会った時、彼らは救いの喜びを人々に知らせる者となります(2:17,20)。私たち一人ひとりが主なる神と出会い、主による救いが示された時、私たちは、救いをお与え下さった主なる神を崇め、賛美します。この思いが私たちを礼拝へと招きます。今、私たちは教会に行って主を礼拝することができません。「だからゆっくり休もう」と考えることなく、なおも家において主を礼拝する行為へと招かれています。主が、あなたの罪を赦し、救い、神の民へと招いて下さっている感謝の表れです。救い主であるキリストと出会い、主による罪の赦しを受け入れてなければ、神を礼拝することはありません。
 そして改めて「羊飼いたちは、……人々に知らせた」(17)ことに着目したいと思います。羊飼いが、ユダヤ人たちからどのように思われていたのか、先程も語ったとおりです。 つまり、彼らがユダヤ人たちに御子の降誕を語ったところで、相手にされません。「あの人の話しなんか聞くに値しない」と思われるのです。続けて「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」(18)と記されています。「非常に驚いた」という意味です。それでもなお彼らは主を証しします。心からの喜びを、隠しておくことができないからです。
 ルカ福音書では、罪人とされたり、社会から蔑まされていた人たちを、主イエスが救いへと招いて下さっていることが多く記されています。汚れた霊に取りつかれた男(4:31)、4人の漁師を弟子にします(5:1)。重い皮膚病を患っている人(5:12) 、徴税人レビ(5:27) 、手の萎えた人(6:6)、罪深い女(7:36)、マグダラのマリヤなど悪霊を追い出して病気をいやしていただいた婦人たち(8:2-3)、悪霊に取りつかれたゲラサの人(8:26) ……。主はこうした人たちを救い、キリストの弟子、神の民に招いて下さいます。そして主は彼らを、福音を宣べ伝える者として用いられます。無理で当然、聞かれなくて当然です。しかし主なる神は、こうした人たち一人ひとりを救い、主を証しする民としてお立て下さいます。
 だからこそ、救い主と出会うことによって救いへと招かれた私たち一人ひとりもまた、主の証し人として立てられています。表だって人々に福音を語ることには勇気がいります。しかし主なる神を信じて生きる私たちに、家族や親しい人たち・偶然のごとくに会った人たちに、神は証しする場をお与え下さいます。日々刻々変化する社会の中にあって、永遠に変わることのない真理、つまり生けるキリストと出会うことにより、信じる者は救われることが、示されたからです。

Ⅲ.救いの希望をもって生き、証ししよう!
 私たちは、今、一つの所にも集まることができず、散り散りバラバラになる恐れさえ感じます。それでもなお、私たちは十字架の死に打ち勝ち甦り下さった勝利者キリストによって集められています。だからこそ私たちは困難な中にあっても、救いの希望をもって、一日一日を歩むことが出来ます。主は私たち一人ひとりに、明日の生活、明日の信仰をお与え下さいます。神の御国の希望をもって、救いの喜びをもって歩み続けていきましょう。
 
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「神に聖別される」  ルカ2:21~24  2020.5.3  
 
序.
 私たちは、今、教会に集まって礼拝を献げることができません。今、個人で、あるいは家族で礼拝を守っておられることかと思います。しかし、みなさんが大宮教会の一員であることには変わりありません。同時に、大宮教会につながります皆さんは、神の国、天国における教会の一員です。そこにはアダムとエバの時代から今まで、そして最後の審判の時に至るまでの、世界中で神の民とされたキリスト者が集っています。そのことを考えるならば、大宮教会に集うことも、一部の者が集まっているにすぎないわけで、私たちは、天国に集う多くの神の民の一員であることを覚えつつ、今日も、主がお語りになる御言葉から聞いていきたいと思います。

Ⅰ.イエス-旧約預言の完成者
 今日与えられた御言葉には、旧約聖書の時代からイスラエルにおいて守られてきたことが行われています。それが割礼を施されること、名前を付けられること、そして宮参りを行い聖別されることです。
 主イエスが人としてお生まれになること、十字架の死と復活の御業を成し遂げることにより新しい時代を迎えます。旧約の時代に行われていた様々な規定(割礼と過越、生け贄等)は廃止され、新たに洗礼・主の晩餐等が規定されます。しかし主なる神は、旧約の規定を否定されたわけではありません。旧約時代に定められていた規定の一つひとつが、マリアから生まれられたイエスがメシアであることを指し示しています。そのため今日与えられた御言葉において、人としてお生まれになったイエスが、割礼を施され、名付けられ、宮参りにおいて聖別されることを確認することも、私たちにとって大切な作業なのです。

Ⅱ.割礼を施されるイエス
 主イエスはお生まれになり8日目に割礼を施されます(2:21)。割礼とは、主なる神がアブラハムに対して契約を結ばれた時に定められました(創世17:7,9-11)。主なる神は、アブラハムを祝福し契約を結んで下さいました(創世記12、15章)。これは永遠の契約としての恵みの契約ですが、直接的にはメシアとして与えられるイエスを指し示しています。主イエスの御業により、アブラハムの祝福も完成します。そのために主なる神は、アブラハムとアブラハムの子孫としてのイスラエルに、契約のしるしとして割礼を求めます。そのために主イエスもお生まれになられた時に、割礼を施されたのです。
 このことは新約の時代の異邦人キリスト者や私たちには割礼が求められないことにつながります。使徒言行録15章におけるエルサレム会議において決議されます。つまり、メシアがイスラエルにおいて与えられることのしるしとして、割礼が求められたのであって、イエスがお生まれになられた以上、割礼の役割は終わりました。そして主イエスは、新約の時代に生きるキリスト者に、父と子と聖霊の名による水の洗礼を求められます。

Ⅲ.イエスと名付けられる
 次に幼子がイエスと名付けられたことを確認します。「幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」と語ります(2:21、参照:1:31-33)。イエスとは、「主は救い」(ヘブライ語「ヨシュア」)という意味です。日本語でも「名は体を表す」と語られますが、聖書において名前は非常に重要です(参照:創世2:19)。だからこそ主なる神が、救い主として遣わされるイエスに、直接、名を与えられたことは、「この子により、主の救いが成し遂げられる」という主の御意志が私たちに示されたのです。
 参照:ウェストミンスター大教理問答問41

Ⅳ.宮参りにおいて聖別される
 そして人としてお生まれになられたイエスは、エルサレム神殿で宮参りを行われ聖別されます(2:22-23)。主なる神はイスラエルに初子を聖別することを求められました(出エ13:2)。「聖別」とは、罪に満ちた世界に生きるのではなく、神との特別な関係・結びつきが与えられることです。初子の聖別は、神の祝福が受け継がれることを意味し、これが主イエスにまで続きます(参照:イエスの系図ルカ3:23-38)。ですから、エサウが長子の権利を軽んじ、ヤコブに譲ったことは(創世25:27-34)、神の祝福を自ら放棄したことを意味しています。主イエスは、聖霊によって宿り罪がない状態でマリアから生まれられることで、聖別されていました。ここで主イエスが改めて聖別されたのは、神の子メシアであることを、公にされる意味があったと言えます。同時に主イエスが聖別されたのは、救い主として預言者・祭司・王としての職務を遂行するためでした(ウェストミンスター大教理問答問42)。
 そして、この主イエス・キリストが人としてお生まれ下さり、十字架の御業を成し遂げて下さったからこそ、私たちは罪が赦され、神の子としての永遠の生命が約束されています。だからこそ、私たちが信仰を告白し、洗礼を授かることにより、あるいは、契約の子どもたちが親の信仰により幼児洗礼を授かることにより、私たちはすでに聖別され、恵みの契約が結ばれ、神の子とされています。だれも、この絆を断ち切ることはできません。だからこそ私たちは、救い主イエス・キリストが人としてお生まれ下さったこと、そして十字架の御業を成し遂げ、死と甦りを成し遂げて下さったことに感謝しと喜びつつ、今週も歩み続けることがゆるされています。苦しい時だからこそ、主なる神を信じ、主にすべてを委ね、祈りの生活を続けていただきたいと思います。
 
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「神より救いが示される」  ルカ2:25~35  2020.5.10   
 
Ⅰ.シメオン
 幼子イエスが神殿に献げられる時に、その証し人として立てられたのがシメオンです。シメオンは、正しい人で信仰があつかい人でした。彼は神の義をつらぬき、律法に従い、神の御言葉に聞き従った歩みを行っていました。そして彼の信仰は、「イスラエルの慰められる」のを待ち望んでいたことに表れます。イスラエルを慰めて下さるのは約束のメシアです。つまりシメオンはメシアを待ち望んでいました(参照:イザヤ40:1-2)。
 このシメオンに聖霊がとどまり、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と告げられていました。シメオンは主の御言葉に聞き従います。これが彼の信仰の表れであり、神の約束を受け止め約束の時を待っていました(参照:ウェストミンスター信仰告白14:2)。

Ⅱ.メシアの働きを指し示すシメオン
 シメオンは主なる神から祝福が与えられていました。そしてこの祝福の時が、生まれたばかりの主イエスが神殿に入って来ることにより成就します。そして、両親に連れてこられたイエスさまと会ったシメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえます(29-30)。
 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。
  わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。
 シメオンの地上における働きは終わりを告げ、神の御国に入れられる時が来ました。 誰もが長生きをしたいと思っています。しかし、地上で長生きをする以上に大切なことは、神の栄光を称えて生きること、そして神の御国に受け入れられることです。
 「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
  これは万民のために整えてくださった救いで、
  異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れ(栄光)です。」(30-32)
 「あなたの救い」=メシアがここにおられます。この方は「万民」=「すべての民」に救いをお与え下さいます。旧約のイスラエルの民は、自分たちの救いを確認するため、いけにえを献げていました。しかし、この方によりすべての民に救いがもたらされます。 「異邦人」=「新約のキリスト者」です。新約のキリスト者にとって、キリストは救いを指し示す光です。だからこそ、私たちはイエス・キリストを見なければなりません。キリストが成し遂げて下さる十字架と復活により、私たちの救いがはっきりと示されています。
 そして、「あなたの民イスラエル」=「旧約のイスラエルの民」は、この時点でその多くの人々がすでに墓で眠っています。彼らが生涯、信仰を貫くことによって約束されていた救いが、イエス・キリストの十字架の死と復活により完成します。そのため、彼らは神の栄光に包まれて、神の御許に入れられます。「誉れ」=「栄光」とも訳されています。

Ⅲ.キリストの御業を指し示すシメオン
 さらにシメオンは母マリアに対して語る預言により、イエスさまのこれから歩まれる御業を指し示します(34)。キリストは万民に救いをお与え下さいますが、それは神がご計画され救いへと招かれているすべての民であって、誰でもが救われるわけではありません。神の民イスラエルであっても、キリストによって倒される者、つまり裁きを受け、滅ぼされる者がいます。そして彼らから反対を受けるしるしとなるのが十字架です。
 そしてキリストにより立ち上がらせられる者もいます。キリストは十字架の死と復活により神の民を神の御国へとお招き下さいます。メシアによる救いは、キリストが再臨され、最後の審判を行うことにより完成します。

Ⅳ.シメオンによる私たちに向けられたメッセージ
 そして最後にシメオンは、マリアに対して直接語られます(35)。母マリアは、キリストが十字架に架かる時、弟子たちと共に見守ることとなります(ヨハネ19:25-27)。自らが産んだ子が殺されていく状況を目の当たりにすることほどの苦しみはないでしょう。しかし、御子の苦しみにより、真の救いが到来し、祝福が与えられる約束が与えられるのです。
 そしてシメオンの預言は、最後に私たちに向けられています。35「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」。キリストの十字架が示された時、キリストを救い主として受け入れ信じるか、十字架に架ける側になり批判するかに分かれます。私たちは今、「あなたは十字架のキリストを何者と思っているのか?」と問いかけられています。キリストが救い主であると受け入れ告白することにより、神の御国の祝福が約束されています。地上の歩みには苦しみが伴いますが、それでもなお御国における栄光を追い求めるとき、主は私たちを神の御国における永遠の生命の祝福をお与え下さいます。
 
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「いつも神に仕えて生きる」  ルカ2:36~39  2020.5.17
  
序.
 主イエスがお生まれになられ、宮参りをして主に献げられるとき、最初にシメオンが証し人として立てられました。そして、今日のテキストにおいてアンナが立てられています。「二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」(申命19:15)からです。そのため、ルカも、シメオンと共にアンナを証人として紹介します。

Ⅰ.女預言者アンナ
 「アシェル族」はイスラエル12部族の一つですが、聖書においてはほとんど注目されることはありません。しかし彼女は女預言者として用いられます。改革派教会において、女性教師・女性長老を認めるかどうかを長年にわたり議論し、そして私たちはそれを認めましたが、聖書は女性が預言者として主の言葉を取り次ぐことが認められてきました。①モーセの姉ミリアム(出エジプト15:20)、②士師デボラ(士師4:4)、③ヨシヤ王に神の意志を宣告したフルダ(列王下22:14)、④ネヘミヤを脅迫した女預言者ノアドヤ(ネヘミヤ6:14)、⑤イザヤの妻(イザヤ8:3)、⑥アンナ(ルカ2:36)。聖書の時代、社会は男尊女卑であり、女性蔑視でした。そうした時代に、少人数ですが、主は女性を主の働き人、預言者としてお立て下さり、重要な働きを担わせて下さいました。そして、約束のメシアであるイエスの誕生においても、主は女預言者アンナを用いられます。

Ⅱ.アンナの信仰
 アンナは長い間、女一人で暮らしております。現在のように年金制度はありません。家が裕福であって生活には困らなかったこともないはずです。生活は苦しくとも、長い間、生活が守られてきました。それは彼女の信仰に基づくものであり、主なる神さまから与えられた恵みとして彼女は受け入れていたことでしょう。
 そうした中、彼女は神への礼拝を熱心に行っていました。ウェストミンスター信仰告白(WCF21:5)で語るように、礼拝の中心は、御言葉の解き明かしである説教と、主への讃美、そして聖礼典の執行です。彼女が神殿を離れず、夜も昼も神に仕えていたことは、こうした主への礼拝を忠実に行っていたことを語っています。そしてさらに、彼女は断食したり祈ったりしていました。祈りは礼拝の中心的な行為ですが、ここに「断食」が加わります。
 主イエスは、人々に見てもらうために断食を行うことを禁じます(マタイ6:16)が、断食そのものを否定しているのではありません。そのため、先程のウェストミンスター信仰告白では、後半部分で「これら以外に、宗教的宣誓・誓願・厳粛な断食・感謝礼拝などが、特別な機会に行われるが、これらは、それぞれの時と場合に、清く、敬虔なしかたで用いられるべきである」と告白します。アンナが断食を継続的に行っていたことは、何も他人に見せるためでもなく、信仰の表れとして行っていたのです。改革派教会では断食が行われることはほとんどありませんが、罪の悔い改めを伴う断食は行われて良いのです。

Ⅲ.メシアと出会うアンナ
 そしてこの女預言者アンナが、メシアが到来したことの証し人として立てられます。38「そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」と記されています。日本語にした時、ぎこちなく、ここだけ読めば、誰が誰に近づいてきたのか、誰が人々に幼子イエスのことを話したのか分かりません。
 原文を訳すと、「その時、彼女はその場に来た(居合わせた)」となります。「その時」とは、幼子イエスが神殿に献げられ、主により聖別される時です。アンナも、シメオンと同じ場において、幼子としてお生まれになった救い主イエスと出会ったのです。

Ⅳ.メシアに出会うことにより
 救い主イエスと出会った時、シメオンはマリアと対話し、主なる神の御業を確認します。一方、アンナは神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話します。救い主イエス・キリストと出会うことにより、神の救いに招き入れられます。この時、私たちは二つの行動を行います。第一に私たちを救いへとお招き下さった主なる神を誉め称えます。これが主を賛美し、主を礼拝する行動へと、私たちを導きます。
 第二に救いが与えられた喜びに生きることであり、それは人々に対する証しとなります。アンナの預言者としての働きは、メシアであるイエス・キリストと出会うことにより、この喜ばしいことを人々に証しすることによって成し遂げられていきます。
 救い主と出会う時、その喜びを隠しておくことはできません。直接言葉をもって伝えること、行動すること、変化した生活により主を証しすることとなります。私たちを罪による滅びから、私たちを救うために、主イエスは人としてお生まれ下さいました。 
 
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「イエスと両親」  ルカ2:40~52  2020.5.24 
 
Ⅰ.少年イエスを記す聖書
 聖書には4つの福音書が記されていますが、主イエスの誕生が記されているのは、マタイとルカの2つの福音書です。マタイでは、主イエスがお生まれになられた後、ヘロデからの迫害がありエジプトに逃れたことが記されていますが(マタイ2:13~23)、その次は洗礼者ヨハネから主イエスが洗礼を受けられ、宣教活動を始められる所へと飛びます。つまり主イエスの子どもの頃のことが記されているのは、今日のテキストだけです。
 聖書は幼少時代のイエスについてほとんど記しません。なぜなら、福音書はナザレのイエスの伝記ではないからです。「福音書」とは「福音」を宣べ伝える書物であり、「福音」とは「喜びの知らせ」・「イエス・キリストによってもたらされた私たちの救いの喜びを伝える」ことです。イエスがどのような生活をして、どのような環境で育ったかということは、興味を引きますが、福音とは関係ないことであり、聖書は記しません。
 ということで、今日の御言葉は、主イエスがどのように育ってきたかと言うことを知ることのできる貴重なテキストということが出来るかと言えます。

Ⅱ.エルサレム・デビューする少年イエス
 12歳になった少年イエスは両親と共にエルサレムに旅をします。これは単なる家族旅行ではなく、ナザレの村こぞっての集団旅行です。イスラエルには、過越祭・七週の祭(ペンテコステ)・仮庵祭がありますが、ユダヤ人は年に一度はいずれかの祭りに集うためにエルサレムに巡礼していたためです。当時ユダヤ人の間では、13歳になると大人の仲間入りをすることになっていたため、通常は1年か2年前から祭りに連れられて行き、準備したのです。ですから少年イエスにとって、この時がエルサレム・デビューの時でした。
 少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づきませんでした(43)。当時のイスラエルでは地域社会のつながりが深く、「誰かと一緒にいるだろう」との思いが両親にあった考えられます。

Ⅲ.神の子としての少年イエス
 しかし少年イエスは、エルサレムの神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話しを聞いたり質問したりしておられました(47)。そして神の御子イエスの聖書知識、聖書理解力は、律法学者たちが語り合っているのに引けを取らず、聞いている人たちにとっては驚きでした(47)。つまり少年イエスは、真の人としてヨセフとマリアによって育ちましたが、同時に、神の御子として、神からの知恵が備わっていました。
 ここで、神の御子であるイエス・キリストの働き(職務)は、預言者・祭司・王の三つです。祭司としては、生け贄として十字架に一回限り献げられることが中心です。王としては特に最後の審判においてすべての者を神の御前にあって裁かれます。そして、預言者としての働きが福音を語り、御言葉を示されることです(参照:ウェストミンスター小教理問24)。
 つまり神の子イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、宣教活動を始められた時に神の子としての賜物が与えられたのではなく、生まれながらにして、少年時代においても、真の人間であると同時に、真の神である二性一人格であられました。

Ⅳ.神の大いなる御業に生きる私たち
 少年イエスを見つけた母マリアは語ります。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」(48)。すると、イエスは言われます。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(49)。母マリアは、自分の子どもとして少年イエスを叱るのですが、少年イエスは、エルサレム神殿のことを「自分の父の家」と語ることにより、神の御子であることをここではっきりと告白されます。
 エルサレム神殿は、ダビデが幕屋に代わる神の住まいとして建てることを願い、息子ソロモンの手によって建てられました。そして神殿は、神のために聖別された場所の象徴とされていました(参照:ヨハネ2:19~21)。
 少年イエスは、ヨセフとマリアの息子としてナザレの人たちにも愛されて育ってきましたが、同時に生まれた時から、神の御子として十字架の道を歩み始められていました。
 この方が、十字架にお架かり下さり苦しみ、死を遂げて下さることにより、私たちは罪の赦しが与えられました。つまり主なる神が、天地万物の前からご計画された救いの御業が、神の御子でありつつ人となられた主イエスの御業により成し遂げられ、今に生きる私たちに示されています。この主の大いなる御業の中に、私たちは組み入れられています。
 
 
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「荒野で叫ぶ者の声に聞け!」  ルカ3:1~6  2020.6.7 
 
 Ⅰ.聖書は歴史的事実
 福音書記者ルカは「最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねよう」と語ります(1:1-2)。聖書は歴史の授業ではありませんが、イエス・キリストは歴史上の人物であり、ここで立ち止まり、歴史的な背景を確認します。
 皇帝ティベリウスは、初代ローマ皇帝アウグストゥスを引き継いだ第2代皇帝です。在位はAD14~37年とされており、治世の第15年はAD28~29年頃です。主イエスは「皇帝(=カエサル)のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(ルカ20:25)と語りますが、直接的には第2代皇帝ティベリウスのことを指しています。
 ルカは続けて、ユダヤの総督ポンティオ・ピラト、ガリラヤの領主ヘロデについて語ります。当時、ユダヤ地方はローマの支配下にあることを確認しつつ、主イエスが十字架に架かられる時の中心人物がここで顔をそろえることとなります。

Ⅱ.ヨハネは旧約の人
 ヨハネは、「洗礼者ヨハネ」と呼ばれ、主イエスに洗礼を授ける重要な働きが主から託されていますが、同時に「最後の預言者」と呼ばれています。聖書的には、旧約の最後の時代に位置付けられています。ヨハネの役割は、父ザカリアに天使が告げた言葉によって明らかになっており(1:13b~17)、「主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」ことです。この主から託された働きを、始められる時が来ました。
 ヨハネは荒れ野で育ち(参照1:80)、荒れ野において叫び声を挙げます。さらに洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた主イエスも、宣教活動を始めるにあたり、40日の断食を行いつつ、悪魔から誘惑を受けられますが、この時、荒れ野の中を“霊”によって引き回されたことが語られています(4:1)。つまり聖書が語る荒れ野とは、ある特定の地域としての荒れ野ではなく、荒廃と窮乏きゅうぼう、罪に満ちた世を指し示していると考えて良いかと思います。

Ⅲ.荒れ野を平和にするキリスト
 預言者ヨハネは、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えます。4~6節の言葉は、イザヤ書40章において預言されたことです。イザヤ書は、第1部1~39章においてイザヤ当時の問題としてのイスラエルの裁きとバビロン捕囚について預言され、第2部40~55章において、神の救いについてのメシア預言が語られていました。そして第3部56~66章において新しい民の礼拝として、終末と神の国の完成について預言されています。
 イザヤ書40章は、第2部の序にあたります。第1部でイスラエルの民は、罪の故に裁かれ、滅ぼされることが預言されてきましたが、ここで、主なる神は心温まる言葉をかけて下さいます(40:2)。①苦役の時は終わり、②彼女(イスラエル)の罪は赦され、③神からの報いを受けます。その上で、ヨハネが語る預言が3~5節で語られます。
 私たちは都市に住んでおり、凸凹の荒れ地を忘れています。しかし私たちは今なお、罪という荒れ野に座しています。コロナ禍において、本来ならば国境を越えて世界が一致してウィルスとの戦いを行い、病気の克服に力を注ぐべき時に、多くの国の指導者たちは、自国のこと、自己保身に走っています。まさに世界が荒れ地であることを象徴しています。
 こうした荒れ野にあって、メシアとしてこられる主イエス・キリストは、荒れ果てた地に、安らぎをもって住む都を建設して下さいます。滅び行く者に救いを、武器をもって戦っている者に平和を実現して下さいます(参照:詩編23編、ミカ4:3、黙示録21:6-7等)。

Ⅳ.キリストにつながりなさい!
 主イエスが来られることにより罪の贖いが成し遂げられ、神の御国が完成し永遠の平和が実現します。この救い主による救いに与るために、ヨハネはあなたは罪を赦しを求めて罪を悔い改めなさいと語ります(3)。荒れ野に住む私たちは、自らの姿を顧み、罪を悔い改める時、キリストの十字架の御業により、罪の赦しが宣言されます。
 その上で、神の子として受け入れられるために、洗礼を授かるように求めます(参照:ウェストミンスター信仰告白28:1)。洗礼を授かることにより、恵みの契約に入れられます。そして、罪を悔い改め、洗礼を授かることにより、神の子として神の御国における永遠の生命が約束されます。「神の刻印が額に押され」(黙示録7:1~3等)ており、だれも、私たちを神から引き離すことはできません。ヨハネが宣べ伝え、キリストによって成し遂げられた罪の赦しと救いを受け入れ、感謝して、日々の信仰生活を守っていただきたいと願っています。
 
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「悔い改めよ!」  ルカ3:7~14  2020.6.14 
 
Ⅰ.全的堕落に生きる私たち
 洗礼者ヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に対して「蝮(まむし)の子らよ」と語ります。非常に強い言葉です。おそらく群衆にとっては、イスラエル人として神の子であることを、洗礼を授かることにより確認したい思いがあったのではないでしょうか。
 しかしこの時ヨハネは、「言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」とも語ります。安易な気持で洗礼を授かりたい、救われたいと願っても適いません。生きて働く主なる神の御前に、私たちは頭を下げ、ひざまづくことが求められます。この時、私たちの前におられる神がどのようなお方であるか、そして生きて働いておられる主なる神の御前にひざまづく私たち自身が何者であるか、確認することが求められます。参照:カルヴァン「キリスト教綱要」(Ⅰ-1:1)
 主なる神は、石ころからでも神の子をつくることが可能である御力、そして罪人の罪を赦し救うことも、裁き永遠の死に定めることもお出来になる御力を持っておられることを、受け入れなければなりません。
 次に私たち自身の姿を顧みてみます。金持ちの議員について記されています(ルカ18:18-30)。「財産は自分で稼いだものだ」と誰しも思っています。しかし私たちが生きることにおいて備えられているすべては主から与えられた恵みであり、賜物です。そのために、与えられたものを感謝して用いることが求められます。金持ちの議員はそれが出来なかったために、主イエスはそこに欠けている愛を指摘されます。つまり私たちは主の御前に罪人です。
 ウェストミンスター小教理問答の次の言葉も確認します。
問82 これらの神の戒め(十戒)を、だれか完全に守ることができますか。
 答 堕落以来、単なる人間はだれも、この世においてこれらの神の戒めを完全に守ることはできず、かえって、思いと言葉と行いにおいて、日ごとにそれらを破っています。
問84 すべての罪は、何に値しますか。
 答 ……この世においても、来るべき世においても、神の怒りと呪いに値します。
 私たちは皆、自らの日々の生活にあって、主の御前に罪を犯し、罪に定められ、主の裁きに定められています。それを受け入れなければなりません(参照:ウェストミンスター小教理問82,84)。

Ⅱ.律法の役割
 それにも関わらず主なる神は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)とお語り下さいます。救いは、神のご計画に基づきます。主なる神から与えられた一方的な恵みです。主イエスを信じることが何よりも大切なことであり、良き行いが認められたことにより救われた(律法主義)ではありません。
 主なる神は私たちに律法をお与え下さいました。律法の代表が十戒です。十戒を読むと「~ねばならない」が繰り返されます。一方、主は律法を守ったから救われたのではなく、信仰義認だとお語りになります。私たちは、この関係を整理しておかなければなりません。
 主は律法をお与え下さいましたが、前提は「私たちは皆罪人である」ことです。つまり、私たち人間は、律法を守ろうとしても守ることができないことが前提です。ですから、私たちは律法を守ることができない罪人であることを知ることです。罪人だけれども、御子であるキリストが、私たちに代わって十字架にお架かり下さり、罪を贖って下さいました。だからこそ、あなたは信仰の故に救われたのです。

Ⅲ.信仰の実りとしての善き行い
 その上で、自らの罪を受け入れ主イエスによる救いを受け入れた時、そのままで留まっていて良いのかということが、次に問われてきます。
ウェストミンスター小教理 問87 命にいたる悔い改めとは、何ですか。
 答 命にいたる悔い改めとは、それによって罪人が、自分の罪を真に自覚し、キリストにおける神の憐れみを悟り、自分の罪を悲しみ、憎みつつ、新しい従順への十分な決意と努力をもって、罪から神に立ち帰る、そのような、救いに導く恵みの賜物です。
 自らの罪を知った以上、罪に留まり続けることはできません。そのために、神の義に従って生きるのです。そのために、律法を用いるのです。これが律法のもう一つの用法です。
 この時、私たちは律法である十戒に従って生きる者とされていきます。それがヨハネが10節以降、群衆の問いかけに答えている生き方です。つまり、律法に従って生きることは、信仰の実りであり、救われた者として、主に感謝の行為です。これは、「守らねばならない」、「守らなければ滅びる」から律法主義として行うのではありません。救われた者の行いも、なおも罪に汚れています。完全ではありません。しかしそれでもなお、救いの感謝をもって、主の教えに従って生きる時、主なる神は、喜んで下さいます。
 このように、私たちが主なる神の御前に立ち、自らの罪を受け入れ、悔い改めることから、この一週間も始めることが求められています。
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「真の救い主が来られる」  ルカ3:15~18  2020.6.21  
 
序.
 前回、洗礼者ヨハネが「蝮の子らよ」と叫ぶことにより、罪に対する真の悔い改めが行わなければ、神の民として相応しくないことを確認して来ました。

Ⅰ.洗礼者ヨハネとは…
 ヨハネの所には、「蝮の子ら」と語れる者ばかりか、真の悔い改めを行い神の民となろうとしている人々が、なおいました。そして彼らの中には、これだけのことを語る「ヨハネこそがメシアである」と考える人たちがでてきました。
 しかしヨハネ自身は、旧約聖書において預言され、さらに誕生の時に天使が父ザカリアに語られたとおり、自らはメシアではなく、メシアの道を備える者であることを心得ていました(参照:マラキ3:23-24)。
 この時、ヨハネは2つのことを語ることにより、自分がメシアではないことを語ります。一つ目が、自分はその方の履物のひもを解く値打ちがないこと。二つ目は、自分は水で洗礼を授けるけれども、その方は、聖霊と火で洗礼をお授けになることです。私たちは、これら2つのことが、何を語っているのかを、確認して行かなければなりません。

Ⅱ.履物のひもを解くとは…
 最初に、履物のひもを解くことを考えます。現代に生きる私たちは、通常、靴下をはき、さらに靴を履きます。当時も履物を履いていました。しかし現代のように道は舗装されているわけではありません。ほこりや泥などが当然あります。そのため、家に入る度に、履物についた泥を洗い落とすことが求められました。こうしたことは、家の奴隷が行う仕事でした。ヨハネはこのことを前提に、「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と語り、自分はメシアではなく、さらに言えば、メシアからすれば奴隷にすらなることはできない、と彼らに語り聞かせます。
 聖書には、主イエス御自身が弟子たちの足を洗われることが記されているテキストがあります。ヨハネによる福音書13:3~10です。これは主イエスが最後の晩餐において行われた行為です。洗礼者ヨハネですら「この方の履物のひもを解く値打ちもない」と語るお方が、弟子たちの足を洗われました。メシアが、僕である弟子たちに仕えられました。それも1回限りです。ここで足についている泥・汚れは、私たちの罪を指し示しています。つまりキリストは、罪人として数えられ、私たちの罪の赦しと救いのために、十字架に献げられました。この一回限りの行為により、私たちの罪は赦され、神の子とされ、神の御国における永遠の生命が約束されました。ヨハネが「この方の履物のひもを解く値打ちもない」と語られたお方が、私たちの足の汚れである罪を、御自身が奴隷となって洗い清めて下さったのです。このことが、水の洗いとしての洗礼につながります(参照:ウェストミンスター大教理問165)。

Ⅲ.聖霊と火で洗礼をお授けになる!
 しかし洗礼に関して、ヨハネはどのように語っていたでしょうか? 今日の2つめのことです。「わたしはあなたがたに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる」。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。ここで「水の洗礼」は分かるにしても、「聖霊と火」による洗礼とは何か?
 次の御言葉も続けて読むことにより理解することができます。17節 「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。主イエスの再臨を思い浮かべていただくことにより理解できるのではないでしょうか。つまり、最後の審判です。
 水の洗いである洗礼において、罪の赦しと救いが宣言されますが、ここで語る聖霊と火での洗礼により、罪の裁きが行われ、サタンにつながるすべての者たちの裁きが行われます。私たちが救われ、永遠の生命が与えられる時、同時に、罪への勝利、死に勝利し、サタンへの勝利が行われます。これら抜きにキリスト者の救いはありえません。
 ここでヨハネの黙示録を確認します(黙示録20:11~21:7)。罪の赦しと救いの宣言を受け、水の洗礼を授かることにより、永遠の生命が与えられる者がある一方で、ヨハネが「蝮の子らよ」と語る神に従おうとせず、信じようとしない者に対しては、主の裁きは避けられません。しかし滅び行く者の中に、永遠の光である救いが指し示されています。だからこそ、主の御前に集められている私たちは、主の御声に聞き従い、主イエス・キリストによる十字架の贖いを受け入れ、信仰を告白し、主に従って歩むことが求められています。 
 
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「悪事に悪事を加える」  ルカ3:19~20  2020.7.5 
 
序.
 私たちは、他人の悪態に対しては目に付き、愚痴を語ったたり不快に思ったりします。しかし自分の行動は、なかなか直視することができません。「人の振り見て我が振り直せ」です。そして主イエスもお語りになります。「兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。……偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。……兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイ7:4~5)。

Ⅰ.罪を重ねるヘロデ
 今日の御言葉には領主ヘロデについて記されています。彼は主イエスがお生まれになられた頃ユダヤを支配していたヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスです(参照:マタイ2章)。
 息子ヘロデ・アンティパスの悪事に関して、ルカは簡潔に語ります(19~20)。最初に記されているのが自分の兄弟の妻ヘロディアのことです。マルコ福音書を読むことにより、状況が明らかになります(マルコ6:17~18)。つまりヘロデは、弟の妻を略奪結婚をしました。
 ルカはさらに「自分の行ったあらゆる悪事」と語りますが、詳細は語りません。しかし、彼が悪事を繰り返していたことを、ルカは指し示しています。
 そして、ヨハネに責められたので、ヘロデはヨハネを牢に閉じ込めました。ヨハネが罪を犯した訳ではありません。ヘロデは腹いせでヨハネを牢獄に入れたのです。そしてヘロデはヨハネを殺害します(9:7)。このことに関しても、詳細をマルコ福音書より確認することが出来ます(マルコ6:17~28)。ヘロデは、倫理的な罪を重ねた上に、上に立つ者として正当な手続きを行わず、恣意的に権力を行使する罪を犯しました。

Ⅱ.十戒の第五戒より
 ヘロデの罪は、十戒の第二の板(隣人愛)に照らし合わせると、第七戒(姦淫)、第八戒(盗み)、第九戒(偽証)、第十戒(むさぼり)、そして第六戒(殺人)に該当します。さらに、第五戒「父母を敬え」について考えていこうと思います。ウェストミンスター大教理問答は、十戒について丁寧に説明します。第五戒「あなたの父と母を敬え」と告白することは、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)と語るように、両親を代表とするすべての人たちを愛し、思いやり、目をくばるように求めています(大教理問124、125)。
 その上で大教理問答は、目上の人、目下の人、そして対等の人に対してそれぞれ求められている義務と禁じられている罪を語ります。問130は目上の人、つまり年長者の罪について語られています。目上の人、目下の人と語れば、年齢的に順列を付けてしまいますが、ヘロデは王としての権威を持ち、為政者として人の上に立つ者になります。ここには〔第一に〕~〔第七に〕が記されていますが、最初に「彼らの求められている義務を無視すること」つまり本来求められている義務を行わないことを含め、8つの罪が記されています。
問130  目上の人の罪は、どのようなものですか。
答 目上の人の罪は、かれらに求められている義務を無視すること以外に、
〔第一に〕自分自身・自分の栄光・安逸・利得・あるいは快楽をむやみに追求すること、
〔第二に〕不法なことや、その人の力にあまることを目下の人に命ずること、
〔第三に〕悪いことについて目下の人に助言したり、励ましたり、賛成すること、また、良いことについて目下の人に思い留まらせたり、やる気をなくさせたり、反対すること、
〔第四に〕目下の人を不当に懲らしめること、
〔第五に〕目下の人を悪・誘惑・危険に不注意にさらしたり、放置すること、
〔第六に〕目下の人を挑発して怒らせること、
あるいは〔第七に〕不正・軽率・苛酷・または無気力なふるまいにより、
ともかく自分自身の名誉を汚したり、自分たちの権威を傷つけること、です。
 ヘロデの罪について確認して来ましたが、「人の振り見て我が振り直せ」です。他人事であってはいけません。ここに集っておられる方々が同じ罪の行為を行ったことがある方はおられないかと思います。しかし主の御前に求められる義務は、行いばかりか、口から発せられた言葉、心の中まで問われます。私たちは心の内で、同じことはしないにしても、心の中で同等のことを思う可能性があります。そして主なる神は、十戒と共に、こうした罪を指摘することにより、私たちが同じ罪に陥らないようにと、語りかけて下さいます。

Ⅲ.助言を行うこと
 最後に、ヘロデに対してヨハネが罪の指摘をしたことを考えて行きたいと思います。罪を指摘して悔い改めを求めることは、正当な働きです(マタイ18:15~17)。注意しなければならないことは、けんかするために行うのではなく、罪を認めさせ、悔い改めを求めます。
 こうした助言は為政者に行われます。教会が政府に対して抗議声明を出すことに否定的な方もおられます。しかし、ごく親しい人・隣人であろうが、為政者・国家であろうが、主が罪であることが行われれば、本来求められている義務を確認した上で、その罪を指摘・抗議することも、キリスト者として求められています。個人的な行動と教会の行動を分けて考える人たちもいますが、個人の生活と教会の信仰が二元論になってはなりません。
 私たちはキリストの十字架によって罪赦された罪人です。自らの罪を、日々、悔い改めつつ、隣人の罪に対しても助言して悔い改めを求めます。これが私たちがキリスト者として社会で生きること、証しすることです。その上で、罪を受け入れない相手に対して、引き続き悔い改めを求めつつ、それでも悔い改めない者に対する裁きは、私たちが行うことではなく、主に委ねなければなりません。私たち自身が神の権威を行使してはなりません。
 
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「イエスの洗礼」  ルカ3:21~22  2020.7.12 
  
Ⅰ.聖書の順番と聖書の目的
 主イエスは、民衆と共に洗礼を授けられます。マタイ福音書(3:13~17)、マルコ福音書(1:9~11)において、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を授かったことを私たちは知っていますが、ルカは主イエスが誰から洗礼を授かったのか語りません。
 ルカは、ヨハネがヘロデに投獄されたことを前の段落で語り、その後処刑されます。時間の流れからすれば、主イエスへの受洗に、投獄が続きますが、ルカはそのようには語りません。このように福音書間で順序が違っていると、「聖書には誤りがある」と語る人たちもいます。しかし、私たちはルカの意図を知らなければなりません。ルカは最初、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのが良いと思いました」(1:3)と語ります。ルカが語る順序とは、ヨハネは、メシアである主イエスの道備えを行う者として、主から遣わさたということです(参照:1:17)。
 つまりイエスの降誕物語とヨハネの道備えは、主イエスの宣教の序章(プロローグ)であり、旧新約の区分から考えれば、旧約に位置します。洗礼者ヨハネは旧約の預言者の一人です。そのためルカは、主イエスの宣教活動は、ヨハネの退場後に語り始めます。

Ⅱ.主イエスの洗礼
 主イエスは民衆と共に洗礼を受けられます。民衆や私たちが洗礼を授かるのは、罪の赦しを受け入れ、罪の悔い改めと信仰を表明するためです。しかし、神の御子・罪のないお方が、洗礼を授かり水の洗いに与る必要はありません(参照:マタイ3:13-14)。つまり主イエスが洗礼を受けられるのは、私たちが洗礼とは意味が異なります。その理由は、主イエスが公生涯に入られ、福音宣教を始められるにあたり、人々にとって徴が必要だったからです。
このことが、「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」という言葉に表れています。ユダヤ人からすれば、「自分がメシアである」と語る偽メシアがやってきたと思うのですが、主イエスには、証人がいたのです。これが主イエスが洗礼を授かった理由です。

Ⅲ.二性一人格
 ここで改めて、御子は真の神でありながらも、真の人となられた二性一人格を持つお方であることを確認します。「真の神の御子が俗である人間となることはない」と語る人たちがいました。また、「イエスは人間であり、神ではない」と語る人たちもいます。こうした異端を廃絶するために、キリストの二性一人格を確認しなければなりません。ウェストミンスター大教理問答 問38~問40において、なぜ仲保者が神であり、同時に人間でなければならなかったのかを告白します。

Ⅳ.三位一体なる神の交わり
 主イエスは洗礼を授かった時、祈っておられました。ルカだけが記します。ルカ福音書は、主イエスが一人で祈られるということが繰り返し語ります(5:16, 6:12, 9:18, 11:1, 22:44)。
 私たちは神は唯一であると語りますが、イエスがポツンとおられるのではありません。御父と御子の交わりの内に、三位一体なる神として存在されます。三つにして一つであることは神の奥義です。私たちが知的に理解することは困難です。しかし私たちがキリストが御父・御子・御霊なる交わりに生きておられることを確認することは大切なことです。そこに愛の交わりがあります。互いの意思疎通があります。神は単なる力ではなく、人格を持っておられます。御自身の内に感情があり、愛があり、他者との交わりがあります。
 主なる神が、三位一体の交わりに生きておられることは、私たちが主なる神を信じる時に決定的に重要です。御父は、御子が十字架に死に、陰府に下られる恐怖・苦しみを知っておられます。だからこそ、罪に死に行く私たちを、主は愛をもって救って下さいます。
 ですから、主イエスが洗礼を受けられた時、御父は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と語られます。御父・御子・御霊の間の愛の交わりが示されています。

結.愛に生きるキリスト者
 私たちが三位一体の神の交わりと愛が示された時、私たちも、神との交わり、隣人との交わりに生きるものとされます。だからこそ、主イエスも語られています。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22:37~40)。つまり、私たちが、御父・御子・御霊の霊的な交わりに入れられる時、私たちも神を愛して礼拝する者、隣人を愛する者として生きるものとされます。

 
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「イエスへの系図」  ルカ3:23~38  2020.7.19 
 
序.
 イエスから神に遡る系図が記されています。イエスからアダムまで75名の名前が記されています。主イエスの系図をマタイ(1:1~17)とルカが記しますが、これらの系図の違いとそれぞれの記された意図を理解することが私たちに求められています。

Ⅰ.二つの系図
 マタイの系図は、アブラハムからイエスの系図であり、ルカはイエスからアブラハム、さらにアダム、神にまで溯ります。またアブラハムからイエスの間の名前を比べてみても、ほとんどが違うように思います。これは間違いなのか、別の系図なのか?
 「違いがあるから、聖書には誤りが混入している」と主張する方もおられます。このことに関して様々な説が語られます。一番有力な説明は、マタイは父方の系図であり、ルカは母方(マリア)の系図であると語られます。あるいはマタイは王の系図(養子を含む家柄としての系図)であり、ルカは生まれの系列を追った系図であると言われます。どの考えが正しいのか意見が分かれますが、私たちが一つの答えを求めることは必要ありません。二つの系図は書かれた意図が違います。4福音書では、並行記事が記されています。特に主イエスの十字架にいたる出来事に関しては、4福音書通じてページを割いて記します。この中には、矛盾するのではないかと思われる記事が少なくありません。
 聖書は神の御言葉です。聖書記者をとおして、主なる神が私たちに、神について知らなければならないこと、私たちが神を信じなければならないことが語られています。しかしそれは一つの方法しかないのではありません。私たちが山に歩いて山に登ろうとする時、道はいくつもあります。しかし違ったルートを歩いても山頂に到着します。系図に関しても、マタイが旧約聖書の救いの約束を信じているユダヤ人たちに対して語られているのに対して、ルカは異邦人に対して、主イエスによる救いを宣べ伝えており、必然的に語り方は異なってきます。つまり聖書は、唯一の神の真理を確認しつつ、多面性ももっています。
 マタイ福音書の系図に関して簡単に確認しておきます。アブラハムから始まり、ダビデ、バビロン捕囚を区切りに14代・14代・14代であり、イエスがアブラハムの子として、アブラハム契約、神の祝福が、イエス・キリストによって完成することを語っています(参照:創世記12章)。14は完全数7の2倍、神の完全なご計画が示されています。またマタイの系図では4名の女性の名が記されています。異邦人や罪深い女もいます。こうしたことを手がかりに、神のご計画を確認しなければなりません。つまり主イエスはイスラエルに与えられましたが、同時に罪人の救いであることを忘れてはなりません。

Ⅱ.ルカの系図の記された意図
 一方ルカは、聖書記者の中で唯一異邦人です。また福音書の差し出し相手も異邦人です。ルカは、旧約聖書の契約やイスラエルの民を意識することなく、イエスが神によって作られたアダムの子であることを示すことが大切でした。ダビデやアブラハムなどここで語られている一人ひとりには注目していません。
 またルカは、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を授かった直後にこの系図を記しています。前回、イエスが神の御子であること、そして三位一体の神を確認しました。同時に、主イエスが真の人間であることを確認する必要があったのです。そのために、イエス・キリストが、神によって作られたアダムの子孫であることが大切なのです。こうして真の神であるお方が、真の人として救いの御業を始めることを宣言しています(二性一人格)。

Ⅲ.罪人の救いのために示された系図
 私たちはもう一つ重要なことを確認しなければなりません。人間は皆、神の被造物であり、私たちもアダムの子孫・ノアの子孫です。今地球上にいるすべての人が、ノアの子孫です。つまり私たちもまたこの系図に名前が記されている一人です。つまり私たちも神とのつながりがあるのです。私たちは神の被造物として、神が良として下さらなければ、今、私たちは生きることもできません。ルカ福音書において、イエス・キリストの系図を見る時、私たちもここに組み入れられているのです。
 神の被造物である人間が、創造主である神から離れた時、罪の刑罰としての死と滅びを避けることができません。しかし神は、私たちが神との交わりを回復するように、私たちに語りかけて下さっています。それがイエス・キリストです。私たちがイエス・キリストとの交わりに生きる時、イエス・キリストの十字架によって私たちの罪が赦され、私たちは神の子とされ、神の交わりに加えられ、永遠の生命が与えられます。
 
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「悪魔からの誘惑」  ルカ4:1~13  2020.8.2 
  
序.
 主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、宣教活動を開始されるにあたり、悪魔から誘惑を受けられます。4章1~13節には、3つの誘惑が記されていますが、個々の誘惑に関しては来週以降、個別に確認して行くことにし、今日は全体的なことを確認します。

Ⅰ.サタンを支配されている主なる神
 主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ祈っておられた時、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえました(3:22)。主イエスは、真のマリアの子としての人間でしたが、同時に御父・御子・御霊なる三位一体の神そのものであり、御子である主イエスは、御父・御霊との豊かな交わりの中に置かれています。
 そして「イエスは聖霊に満ちて」(4:1)と語られています。主イエスはこの時も、そして常に聖霊と共に、御父との豊かな交わりが与えられてた三位一体なる神そのものです。つまり、人間イエスとしては、弱さを持ち、心の痛み・苦しみ・悲しみといった感情を持っておられますが、常に神そのものであられ、この時、御父から離れた人間イエスが悪魔と戦いに臨まれようとされているのではありません。「荒れ野の中を“霊”によって引き回され」との表現もありますが、新改訳聖書が訳す「御霊によって荒野に導かれ」の方がよいかと思います。
 真の主なる神である主イエスは、悪魔に勝利されるお方です。このことを私たちは、ヨブ書1~2章において確認することができます(1:5~12、2:1~7)。サタンは、主の許しがなければ、ヨブに誘惑を行うことはできません。つまり、ここでサタンの誘惑を受けられているのは、人間イエスではなく、人でありつつも神そのもの、三位一体なる神である主イエスです。だからこそ主イエスは、つねに聖霊に満たされ父なる神と共にあるからこそ、どのようなサタンからの誘惑があったとしても、サタンは勝利を遂げることはできません。

Ⅱ.主に委ねて誘惑に立ち向かえ!
 サタンはこのことを知っているにも関わらず、主イエスや私たち人間に対して、様々な誘惑と試練を仕掛けてきます。私たちは勘違いをしてはなりません。つまり、私たちが立派な信仰を持ち、礼拝を守っていれば、私たちも主イエスと同じようにサタンの誘惑に打ち勝つことができるとの勘違いです。私たちが自分で悪魔に戦いを挑んでも、勝つことはできません。 私たちは、罪赦された罪人であり、肉をもった人間に変わりありません。
 もちろん私たちが主なる神を信じ、神との交わりに生きることは非常に大切です。神を礼拝し、聖書の御言葉に聞き、主に祈り求める必要があります。しかし、サタンとの戦い、誘惑に対して、私たちは主なる神に委ねることが必要です(エフェソ6:10~18)。私たちが信仰の武具を持つことにより、主は私たちをサタンに明け渡すことなく、守って下さいます。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:13)。

Ⅲ.主イエスと断食
 主イエスはこの時、四十日間、悪魔からの誘惑を何も食べず行われました。肉を持つ人間としては、非常に苦しい状態に御自身を置かれたのです。つまり主イエスは神だから、楽にサタンに勝利されたのではなく、私たちが誘惑に遭い、苦しんでいるように、御自身も肉の苦しみに耐えつつ、サタンの誘惑に遭われたのです(参照:ウェストミンスター大教理問48)。主イエス御自身が、肉の苦しみを体験されているからこそ、私たちの苦しみを理解し、祈りを聞き届けて下さることが可能なのです。ここに神の愛があります。
 主イエスが40日間断食されたように、断食の必要性を語る人たちがいます。私たちの教会も、礼拝指針において断食について定めています。第83条(断食の日と感謝の日)「神の摂理による特別な事情がある時に、断食の日や感謝の日を守ることは、聖書的であり、またふさわしいことである」。第85条(断食の日)「断食の日には、この日を守ることを必要とした事柄について、厳かな祈りと具体的な罪の告白のために、普段よりも多くの時間を費やし、祈りをもって過ごすべきである」。私たちが断食を行う場合、準備が必要です。しかし、断食を行ったため、信仰が豊かになったとか、宣教者として認められたというものではありません。功績として断食を用いてはなりません。

Ⅳ.イエスを離れる悪魔
 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れて行きます。イスカリオテのユダにサタンが入り(22:3)、主イエスを逮捕し、主イエスが十字架にお架かりになる時までないことを、ルカはここで語ります。
 主イエスは宣教を始めるにあたって、あらゆるサタンの誘惑に打ち勝たれました。しかし私たちは、主イエスのように、サタンに勝利することができるものでもありません。思い上がりを捨て、常に主に委ね、御言葉に従い、主に祈り続けることが求められています。
 
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「信仰によって生きる」  ルカ4:3~4  2020.8.9  

Ⅰ.悪魔の誘惑の本質を知ろう!
 悪魔は、私たち人間の弱いところを知っています。そのため、悪魔は人間の持っている欲望に絞って誘惑を行います。それが富・権力・食欲・性的な欲望に対してです。私たちがそうした悪魔からの欲望に対応する時、自分の力で解決を行おうとしても、勝利し誘惑をはねのけることはできません。主イエスが悪魔に対してどのように対応されたのか、今日与えられた御言葉より、共に考えることが求められています。
 主イエスは40日の断食を行い空腹を覚えておられます。主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、ここにおいて、聖霊を介して、御父との豊かな交わりにある真の神の御子であることが示されました(ルカ3:21-22)。悪魔は、主イエスのこともすべて知っています。悪魔は主イエスに対して、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と誘惑を仕掛けてきます。
主イエス御自身、神の御子として、御自身で問題を解決することもできたました。石をパンになるように命じることもできました。しかし、主イエスはそのようにしません。
 ここに悪魔の本当の狙いがあるからです。つまり、主イエスが悪魔の誘惑に乗ることにより、悪魔はイエスの欲望につけ込みます。「真の神の子ではなく、結局は自分のために生きている」と語ります。悪魔の狙いはここにあります。悪魔は、神の子であると言われているイエスが、実はその資格がないことを、世に知らしめたいのです。
 誘惑は、最初から本質を突くことではありません。最初はその本質に気が付かないがために、軽い気持で誘いに乗ってしまう可能性もあります。しかし、その先に悪魔の真の狙いが隠されており、私たちにとっての本当の苦しみがあります。そして、私たちに対する誘惑は、最終的には、私たちが神に不信感を覚え、主なる神から離れることです。だからこそ私たちは、日常の生活のどこに悪魔の誘惑が隠されているのかを、常に心に覚えつつ、備えておかなければなりません。

Ⅱ.聖書に答えを求めよ!
 主イエスは悪魔の誘惑に対して、旧約聖書を引用することにより答えます。「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。これは申命記8:3の引用です。私たちは試練に追い込まれた時、自分の力で何とか解決しようと思い、すぐに行動します。悪魔の誘惑は私たちが自分の力で解決しようとしてもできません。これでは悪魔の意のままです。
 しかし主イエスは、主がお語りになる御言葉に答えが示されているとお語りになります。とっさの時に、聖書のどこを答えがあるのか?と言われるかと思います。だからこそ、私たちは毎日聖書を読み、祈ることが求められています。また、主の日毎に教会に集められ、主がお語りになる聖書の御言葉の解き明かしに耳を傾けることを求めておられるのです。毎日、聖書の御言葉に聞き続けることにより、少しずつ御言葉の蓄えができます。そうすることにより、誘惑や試練にあったときに、主の御言葉が思い浮かべることができるように変えられて行くのです。これは一長一短で行えるものではなく、日々の積み重ねが必要です。しかし長い人生を考える時、急がば回れであり、御言葉を一つひとつ蓄えていくことにより、私たちの信仰は養われていきます。
 主イエスが引用された申命記8:1~6では、出エジプトに伴う荒野の40年のことが語られています。イスラエルの民は、エジプトにおいて奴隷であった時、苦しくとも食べるものが与えられていたことを懐かしく思いました。イスラエルにとって毎日の食事を得ることは死活問題です。しかし主なる神は、40年間イスラエルに毎日マナをお与え下さり、食べるものを満たして下さいました。主なる神は、すべての民を養う力を持っておられます。

Ⅲ.常に主に感謝し、依り頼み生きよう!
 私たちが今日の一日を生きることは、主なる神の御手によって成し遂げられています。主なる神を疑い、主なる神を試す時、主なる神は、今すぐにでも、私たちの生命を奪うことがおできになります(参照:使徒言行録5章のアナニアとサフィラの例)。
 だからこそ主イエスは、私たちに対して主の祈りにおいて、「日用の糧を今日も与え給え」と祈るように求めておられます(ウェストミンスター小教理問答問104)。
 主イエスは、御自身に対する悪魔の誘惑を、御言葉によって解決することをとおして、今に生きる私たちに日々迫り来る誘惑や試練に対する解決の方法をお示し下さいました。自分の力を過信することなく、主の御言葉・御力に依り頼む生活が求められています。
 
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「ただ主なる神を信じよ」  ルカ4:5~8  2020.8.16  
 
序.
 主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受け宣教活動を始めるに当たり、悪魔から誘惑を受けています。最初の誘惑は、空腹を覚えておられる主イエスに対して「石をパンに変えては」と、食欲に対することでした。主イエスは、すべてを支配しておられる主を信じ、主に委ね「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになりました。

Ⅰ.神をリードしようとするサタン
 そして2つめは人の権威欲に対する誘惑です(5~7)。この言葉は、神の支配を考えると、非常に不思議なことですが、同時に罪に満ちた今の社会を象徴する言葉であると思います。
 何が不思議なのかと言えば、主なる神が天地万物を創造し、今もすべてを治めておられるのであれば、なぜ悪魔が一切の権力と繁栄を与える力を持っているのかです。このことを考える時、聖書全体から考える必要があります。主なる神が天地万物を創造されました。神がお造りになられたすべてのものは極めて良かったのです(創世記1:31)。そして主なる神はと人との間に結ばれた生命の契約を結んで下さいました(創世記2:16-17)。
 それにも関わらず最初の人アダムは罪を犯しました。その結果死ぬ者となりましたが、この時主はアダムに向かって語られました(創世記3:17-19)。主の御前に罪を犯した人間は、苦しみの中に生きることとなります。いわば主なる神が人を悪魔へと渡されたごとくです。
 ここで私たちが忘れてはならないことは、人が苦しんで生きる時、主なる神が力を失われたわけではありません。そのことはヨブ記における主なる神とサタンの会話で明らかになります(ヨブ1:6~12)。ここでの主なる神とサタンとの会話を私たちは忘れてはなりません。

Ⅱ.サタンのはったりに躍らされる人々
 つまり主イエスに誘惑の言葉をかける悪魔は自分が世界を支配しているように語りますが、主とサタンの関係を理解していれば、悪魔の言葉がはったりであることが分かります。
 しかし、主なる神を信じない人々、主のお語りになる御言葉に聴こうとしない人々は、サタンのはったりを鵜呑みにしてしまいます。なぜならば、非常に魅力的だからです。そして彼らは、世界や一国を支配するがために、サタンの甘い言葉に耳を傾け、人々を虐げ、人々を従わせ、人々に偶像を拝ませ、世を支配しようとします。それが、サタンの支配する国です。そして自らが権力を握ることにより、サタンの世界を実現することへと加担していることなど理解せぬままに、彼らは自らの力を誇示し、それを維持しようと務めます。
 第二次世界大戦が終わり75年を迎えました。この間、主なる神が私たちの国に平和と人権・国民主権の憲法をお与え下さり、平和が保たれてきました。主がお与え下さった恵みであることを私たちは忘れてはなりません。同時にコロナ禍にあり、疫病撲滅のために一致しなければならない時に、各国は主権争いを行い、自らの政権の維持のために奔走しています。権力者が自らの権力を維持しようとする時、国と国の間に戦争が起こり、国内は混乱します。こうした混乱こそが、サタンの支配に生きていることを象徴しています。

Ⅲ.主なる神のみを信じ、主に仕えよ!
 サタンは主イエスに対しても、自分を拝めば世界をイエスに渡すと約束します。主イエスは主なる神とサタンの関係を十分に知っています。サタンの要求は、主イエス御自身よりもサタンの方が権力を持っていることを認めさせることです。つまり、サタンの要求はヨブ記における神とサタンの関係を逆転させる意図があります。だからこそ主イエスは、サタンのささやきを耳に留めることなく、旧約聖書の御言葉をもって、それの誘惑を断ります(8)。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
 これは申命記6章に記されている御言葉です(6:13)。また、主イエスは思い悩む人々に対して語っています(ルカ10:29~34)。私たちは神を信じ、神にすべてを委ねるべきです。悪魔の支配を私たちが理解する時、主なる神が私たちを支配し、私たちを守って下さいます。
 キリストは再臨され、サタンに勝利し、神の国が到来します。私たちは、神の国に向かって生きています。神が勝利され、神の国が到来する時、罪の故にサタンの支配に置かれていた人々は、神の祝福に満たされます。このことを、主は罪を犯した人に約束して下さっていました(恵みの契約・原福音:創世記3:15)。 主なる神は、人をサタンに明け渡したわけではなく、サタンの滅びと神の国の到来を約束した上で、人をサタンに渡されたのです。
 私たちが、主なる神を信じ、主なる神を第一に生きる時、私たちは、サタンの誘惑に屈することなく、生きることができます。だからこそ、私たちは主なる神を信じ、主がお語りになる御言葉に従った歩みを行うことが求められています。
 
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「主なる神を試すな!」  ルカ4:9~12  2020.8.23   
Ⅰ.誘惑に対する悪魔の思い
 主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、宣教活動に入られるにあたって、悪魔から誘惑を受けています。今日の第三の誘惑では、主イエスが神の子であることを披露してはと、御言葉をもって誘惑します。ここで悪魔は、主イエスに対して二つの意味で誘惑を行います。第一は、いやゆるパフォーマンスを行うことにより、神の子として有名になり、福音宣教に役立つだろうということです。そして二つ目は、主がお語りになった御言葉から語っており、主の御心に従った行為であることをアピールすることにあります。
 ここで悪魔は、主イエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせます。これは現実離れしており、どういうことかと私たちはいろいろと想像することができます。しかしこのことは人間的には興味深いことですが、聖書が語る福音の本質とは関係ありません。私たちは、悪魔と主イエスの会話に集中しなければなりません。

Ⅱ.「神がいるなら奇蹟を見せよ!」
 今まで2つの誘惑と異なり、悪魔は御言葉で語りかけます(詩編91:11,12)。この詩編は、苦しみの中に置かれた者が、主なる神に依り頼み、救いを求める祈りです。祈りの答えとしての主の答えは、通常、私たちの日々の生活で解決されます。逃れの道が与えられます。主なる神は、私たちの生活の中に共におられ、私たちの生活の中にあって働かれます。
 しかし悪魔はこの時、神の奇跡の御力が与えられ助けられると語ります。これは神に依り頼み祈ることではなく、神を試す行為です。そして神を知らない人たちが陥る誘惑です。人々は、神の存在を信じることができません。そのため、「日常ではありえない奇跡が、今、発生することにより、神の存在を受け入れ、神を信じる」と語ります。しかし、エジプトのファラオは、主の奇跡の御業を目の当たりにしても受け入れることができませんでした。主イエスが十字架の死から三日目の朝に甦られた時も、多くのユダヤ人たちは、それを受け入れ、信じることができませんでした。

Ⅲ.聖書は救いの御言葉
 悪魔は御言葉を本来の意味とは違った意味で用います。聖句を覚えることは大切なことですが、短い一部のみ切り取りますと、主なる神が聖書全体をとおして語ろうとしている福音の本質と異なった理解も可能となります。だからこそ、一つの聖句を取り上げる場合、前後、さらには章全体、書の全体を確認した上で、聖句を理解しなければなりません。
 ウェストミンスター大教理問答問155の問が語るように御言葉は、「私たちの益のため」ではなく、「救いが有効となる」ことが記されています。主なる神は私たちの召し使いではありません。主なる神が天地万物の創造者で、死にて滅び行く私たちを救うために召し出し、御言葉を通して救いを示しておられます。
 また同教理問答の答えが語るように、私たちが真に救われるためには、私たち自らの姿が顕わになり罪が明らかにされる必要があります。すると、今までの生き方も方向転換することが求められます。それが自分の殻を破ることとあり、キリストの御業を受け入れることです。この時、主なる神が、私たちが救われるために何を求めているのかを御言葉に求めるようになります。そのことは、結果として私たちが自分で求めようとしているものとは、異なった答えとなります。それでいて、キリストの十字架の御業により救いが与えられたことに感謝し、律法に従った生活へと変えられて行きます。

Ⅳ.主の御心に従った信仰生活
 そして、悪魔の誘惑に対して、主イエスは御言葉をもって返答をいたします。「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」。これは申命記6:16です。申命記は、約束の地カナンに入城する前に、主なる神がモーセをとおしてイスラエルの民に語りかける言葉です。申命記6:16では、マサのことを思い出すようにと語ります。出エジプトを果たしたイスラエルに、マナの約束が与えられました。それにも関わらずイスラエルの人々は、水が欲しいと不平を語りました。そこが「マサ(「試し」の意)」でした(出エジプト17:7)。
 私たちは、主を試すことと、私たち自身が主に願いを祈り求めることとの違いを確認しなければなりません。つまり主を試すとは、私が主に命令しているのであり、私の命令に聞き従わない主が悪いこととなります。一方、私たち自身が主に願い求める時、主なる神が主人であり、私たちは主から与えられる恵みを受ける存在です。これこそが創造主なる神と被造物である私たちとの関係です。私たちは、私たちの祈りを聞き届けて下さる主なる神を信じ、主にすべてを委ねて、祈り求めることが求められています。
 
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「聖書の言葉は実現する」  ルカ4:14~21  2020.9.6 
 
Ⅰ.宣教開始後にナザレを語るルカ
 新共同訳聖書は「ガリラヤで伝道を始める」、「ナザレで受け入れられない」の2つの段落に分かれています。標題では共観福音書の並行箇所も記されていますが、「ガリラヤで伝道を始める」所は、マタイ・マルコ・ルカ共に、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後に記します。(マタイとルカはその間に、悪魔に誘惑の記事を挟んでいます)
 ところが「ナザレで受け入れられない」では、マタイ・マルコのいずれもが間に多くのテキストを挟みます。共観福音書は時間の順番に記されているのではなく、各々の福音書記者が意図をもって福音書を記します。その流れに従ってテキストが並べられています。マタイはユダヤ人たちに福音を伝えるため、すぐに山上の説教(5-7章)を語り、主イエスが旧約の律法の延長線上におられることを語り、主イエスが約束のメシアであることを示すために病人の癒しや奇跡を行われます(8章)。マルコは、冒頭で「神の子イエス・キリストの福音の初め」と語り、比較的時間の流れに従って淡々と語っていると言えます。
 一方ルカ福音書は、まず主イエスの育ったナザレで福音を語り、故郷の人々からは受け入れられないことを語ります。福音とは皆が受け入れられるものではなく、むしろ躓きの石です。ルカは、異邦人であるティオフィロ、私たちに語りかけます。異邦人の中に生きる私たちは、福音は誰もが信じるものではないことを知っています。ルカは、主イエスがどういうお方であるのかを、福音書の御言葉に耳を傾ける私たちに問いかけています。

Ⅱ.聖書は翻訳されて読まれるもの
 旧約の時代バビロン捕囚までは、神殿を中心とする生け贄を献げることが礼拝の中心でした。しかしエルサレム神殿が破壊され、捕囚の民・世界に散らばったイスラエルは、会堂(シナゴーグ)における礼拝が中心となります。現在、私たちが行っている礼拝の原型がここにあります。そしてシナゴーグの礼拝では、律法と預言書が朗読され、解き明かしが出来る人がいれば、聖書の説き証しが行われていました。主イエスも、会堂での礼拝において、聖書の説き証しを語り、その噂が広がり、皆から尊敬を受けておられました(15)。そうした状況の中、故郷であるナザレに来て、安息日に会堂に入り、聖書を朗読します。
 聖書朗読は、ヘブライ語聖書をこの地方の方言であるアラム語に翻訳して読むことです。聖書は、皆が聞いて理解できなければなりません。外国語であれば母国語に翻訳される必要があります。パウロも異言を語るのであれば、解き明かされる必要を語ります(Ⅰコリント14章)。宗教改革前のカトリック教会は、ラテン語聖書しか認めず、人々が聖書を理解できませんでした。そのため宗教改革を始めたルターを初め、宗教改革者たちは、自分たちの言葉に聖書を翻訳し、印刷して人々に届けました。

Ⅲ.預言を成就するメシアであるイエス
 18・19節に主イエスが読まれた聖書が記されています。イザヤ書61:1-2です。イザヤ61章は、バビロン捕囚を前にして、バビロン捕囚からの解放が示され、同時に、その先にあります約束のメシアの来臨と神の国の完成の約束が示されています。
 イザヤ書が「主はわたしに油を注ぎ」と語ることを、ルカは「主がわたしに油を注がれた」と御自身のことであると語ります。油を注ぐとはメシア(キリスト)のことです。旧約の時代から約束され、イスラエルの人々が待ち望んでいたメシアであると、主イエスは語られます。主イエスは洗礼者ヨハネより洗礼を受けられることにより油注がれ、神の御業を開始されました(参照:ウ大教理問42)。主イエスが、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21)と語られたのは、まさにこのことです。
 主イエスの具体的な働きはまず福音を告げ知らせることです。私たちは主イエスの福音を聞き、罪人であり、罪の刑罰(死)を避けて通ることを知る必要があります。
 その上で、メシアである主イエスは、罪に捕らわれている私たちを解放するために来られました。それが十字架において、私たちの罪の刑罰を担い、贖うことです。 だからこそ、私たちが御言葉により今、キリストと出会い、キリストの十字架が示された時、私たちは神の子としての特権を回復し、生きるものとされるのです。
 キリストの来臨は、このように旧約聖書において預言され、その準備をもって到来し、十字架の御業を成し遂げられました。そしてキリストの御業により罪から解放されたキリスト者は、キリストの再臨により、神の御国における永遠の祝福に満たされます。聖書の御言葉の実現を信じ、希望をもって今週も歩み続けていきましょう。
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「あなたはヨセフの子ではないか」  ルカ4:22~30  2020.9.13 
 
Ⅰ.心を頑なにする不信仰
 主イエスは、故郷ナザレに来て、会堂での礼拝で福音を語りますす。主イエスの語る福音に対して、誰もが主なる神から与えられた恵み深い言葉であることを受け入れざるを得ませんでした。しかし彼らはイエスの知識がどこから来たものか不思議に思い、疑問を持ちます。なぜならば、ここに集う多くの人たちは、イエスを幼少時代から知っているからです。貧しい大工ヨセフの子であり、母親がマリアであること、兄弟たちも知っています。つまり、あの子が立派になったと思うと共に、神の御子としての主イエスを受け入れられず、疑い、信じることが出来ない状況に置かれました。これが彼らの不信仰です。
 人々は、疑いを持つと証拠を求めます。それが主イエスの言葉に表れています(23)。しかし、一つでも疑いを持った時、どれだけ大きな奇跡が示されても、それを受け入れることはできません。そのことは、エジプト王のファラオの場合で顕著に表れています。主イエスの十字架と死を見届けた人々が、主イエスの復活を信じようとしなかったことも同様です。出エジプト記では、「ファラオの心はかたくなになり」という言葉が繰り返されます。疑いをもった目で見る不信仰という心の頑なさは、何が語られ、どのような奇跡が示されても、その頑なさをほぐすことはできません。主イエスは、ナザレの人たちの不信仰を目の当たりにするにあたり、彼らの心の頑なさを見ています。

Ⅱ.信じる者は、主の御業をも受け入れる
 この時主イエスは、旧約聖書から2つの例を語り始めます。最初は25~26節です。これは、列王上17:8~24に語られている預言者エリヤが干ばつを預言し、バアルの預言者と対決して、勝利を得る出来事が記されている箇所です。ここで登場するやもめは、何の疑いもなく、エリヤを通して語られる主の御言葉を信じました。この時に、息子の死に対して行われる主の癒しの御業に対しても、彼女は信じて、信仰を告白する者とされました。
 次に27節は列王記下5:1~14に語られていることです。ナアマンの場合、エリシャの言葉に憤慨しますが、それでも信じて行動します。つまりナアマンは、自分の思い通りにならないことを起りますが、主が癒やして下さることを疑わず、信じて行動したのです。
 主がお語りになる御言葉を疑わず、信じて行動する時、主は恵みをお与え下さいます。しかし、主を疑い、信じようとしない人たちは、彼らの心がさらに頑なになり、主は救いも恵みもお与えになることはありません。

Ⅲ.改革派教会における伝道とは…
 では、このような不信仰という心の頑なさ持っている人たちに、彼らの頑なさをほぐし、伝道するために、私たちには何が求められているのでしょうか? エゼキエルは次のように語ります。「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。不信仰という石の心は、主なる神、主の御霊によって打ち砕かなければ、取り除くことはできません」(11:19)。
 さらに、ウェストミンスター信仰告白は、第14章「救いに導く信仰について」第1節で「選びの民が彼らの魂の救いのために信ずることができるようにされる、信仰という恵みの賜物は、彼らの心の中におけるキリストの霊の御業であり、通常は御言葉の宣教によって生み出される」と告白します。私たちが伝道することは、主イエスが宣教命令(マタイ28:16~20)で語るように、私たちキリスト者に求められています。しかし、ただ伝道した所で、相手の方が、伝道する私に不信感が少しでもあれば、それが躓きの石となります。
 それをほぐすためには、主が御言葉をもってお語り下さり、主が御霊をもって働いて下さることを待たなければなりません。信仰は、主なる神の恵みによって与えられるものです。その前提として、神の永遠の救いの御計画、予定があります。そのことを、ウェストミンスター信仰告白第3章「神の永遠の聖定について」の第6節で告白します。
 つまり私たちは、家族や親しい友人・知人が信仰を持つことができるように祈り、また伝道します。しかし、「自分が一生懸命でないから、伝道の実が結ばないのだ」と思っているのであれば、伝道を止めた方がよいでしょう。そこに主の働かれる余地がありません。主なる神は、私たちの行為を用いて、御言葉をお語りになり、御霊によって彼らの石の心を砕き、神を信じる者へとお導き下さいます。だからこそ、私たちに求められていることは、疑うことなく主なる神を信じ、神にすべてを委ねて祈り、その上で実行することです。
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「権威と力」  ルカ4:31~37  2020.9.20 
 
Ⅰ.悪の力
 人々は、「現代は悪霊などない」と考えておられる方々が多いかと思います。しかし、私たちが生きている社会の中には、背後に悪霊(サタン)が働いていることは多々感じられているのではないかと思います。犯罪・貧困・自然災害・疫病・戦争……、これらの背後に悪霊の力が働いていると考えることができるのではないでしょうか。そして、神の御子である主イエスが宣教を始められた頃、悪霊は、人々に取りつき、働いていたのです。
 だからこそ、今日の御言葉を読んで、簡単に「今は悪霊などいないから、自分には関係がない」と読み飛ばしてはなりません。私たちの生きている社会全体に、悪霊の力が及んでおり、この悪の支配から神の御子である主イエスが解放して下さろうとしているのです。

Ⅱ.主イエスの権威ある言葉
 さて主イエスは故郷ナザレを離れ、ガリラヤ湖畔カファルナウムに下って来られました。主イエスは、この地で弟子たちを使徒に選び、宣教の拠点とされます。
 主イエスは、カファルナウムでも、会堂に入って聖書の説き証しを行います。「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである」(32)と語ります。「権威」は、「権威、力、支配、影響力」と訳され、「自由にする力」とも訳せる言葉です。ここを「イエスの言葉は人々を自由にした」と訳せば、違訳になるかと思いますが、主イエスがお語りになった御言葉の力を表すこととしては、非常に魅力的に思えます。
 つまり主イエスの語られる御言葉は、今まで語られてきた律法の専門家たちのように、昔の人々の話しを持ち出して、「これをしなさい、これをしてはならない」といったことを語りません。主イエスはすべてを支配しておられ、救いへと導いて下さるメシア・救い主としての御力を持っておられます。それは、救われるために、私たちに努力・義務を求め、強いるものではなく、主イエス御自身が、私たちの持っている様々な束縛から解放するものでした。そうした意味で、権威がある言葉は、同時に、人々を自由にするものです。

Ⅲ.サタンを支配しておられる主なる神
 汚れた悪霊に取りつかれた男は大声で叫びます。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(34)。悪霊は、主イエスを知っており、恐れています。なぜなら、悪霊は主なる神の許可がなければ働くことができず、自分たちが滅ぼされることを知っているからです(参照:ヨブ記1章・2章)。
 このことを、私たちが知り、理解することは非常に大切です。今の世の中で、苦しみ、嘆き、悲しんでいる一人ひとりにとって、非常に慰められる言葉です。神を知らない人たちは、苦しい生活をしていると「なぜ?」「いつまで?」「生き続けることが辛い」と語ります。しかし、それらを支配しているサタンは、主なる神によって裁かれます。滅ぼされます。このことを知ることにより、私たちは、生きる希望が与えられます。肉において死を迎えても、主なる神は、復活と神の御国における永遠の生命をお与え下さいます。だからこそ、希望をもって生きることができます。

Ⅳ.神の支配
 主なる神には力があります(ウ小教理問26)。主なる神が、権威と力を持っておられるからこそ、主イエスが「この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男から出て行きます。これは奇跡の業です。しかし、権威と力を持っておられる主なる神からすれば、何も不思議なことではありません。そのため、主イエスはこのようにお語りになります。マタイ19:24「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。マタイ21:21-22「この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
 私たちは、日々の生活に追われています。そして目に見えることしか信じられないようになっています。そうすると、自分の考えをもつことがなく、人々から語られることを、考えることなく、鵜呑みにしてしまいます。世論に、マスコミに流されてしまいます。 しかし、聖書を読み、主なる神を信じる時、過去の自分たちの罪を隠し、表面的に善良を装う人たちの罪は明らかにされ、ここでの汚れた霊のごとくに追い出されるのです。社会全体、世界の全体、歴史を顧みることが求められています。だからこそ私たちは、目の前のことに一喜一憂するのではなく、すべてを支配し、権威と力をもっておられる主なる神を見上げ、歴史的時間的な視野を広げ、空間的な視野を広げつつ、主なる神のお語りになる御言葉に聞き従うことが求められています。
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「悪霊を戒めるイエス」  ルカ4:38~41  2020.10.4  
 
Ⅰ.高熱を叱りつける主イエス
 主イエスは高い熱を叱りつけられました。これはあたかも「高い熱」に人格があるような擬人的に語られています。高熱や病気は、現代であれば、病気の原因を確認することで病気を治そうとするのが医療です。そのため、私たちは病気にかからないために予防します。病気には原因があり、いかにすれば病気にかからないかの術を経験上知っています。
 しかし主イエスは、病原体に人格があるかの如くに語ります。私たちは、病原体に対して叱りつけられる主イエスを見上げなければなりません。主イエスは、全能なる方として、まことの力を持っておられ、病気を癒やす力を持っておられます(参照:ウ大教理問7)。一方、私たちが病気に「治れ」と命令したり、念じても治ることはありません。それは神を信じたからといっても同じです。「信じなさい。そうすれば適えられる」と語られていますが、それは主なる神の御力を信じるのであって、私たちが病気を癒やす力を手に入れたのではありません。主なる神の御力に委ねて、病気が癒やされるように祈りつつ、主がお与え下さった恵みとしての医療において治療を受け、薬を飲むのです。
 主イエスの命令に対して、高熱や病原体は、人格を持つように聞き従います。この時、「病気」とは何かを考えた時、罪・サタンに起因します。アダムとエバの最初の罪は、彼らから生まれるすべての被造物、私たち人間に及んでいます。ですから、天地万物を創造し、すべてを支配しておられる主なる神の命令に対して、高熱であろうと被造物として創造主に聞き従い、逆らうことができません。「あらゆる悲惨」の一つして「病気・熱」も考えることができます(参照:ウェストミンスター小教理問19)。

Ⅱ.病気により主と出会う
 しかし病気の根源に罪があると語る時、因果応報を考えてはなりません。主イエスは次のように語られています。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」(ヨハネ9:3)。つまり、病気の根源的な原因は罪に起因するのですが、特定の罪を示しているのではありません。同時に主イエスは「神の業が現れるためである」(同)とも語られます。つまり病気は主イエスを信じるきっかけです。自らの弱さ・罪を受け入れ、自分の力ではなく、神に委ねて生きるきっかけです。私たちは病気をすることにより、自らのおごり高ぶり、高慢、罪が指摘され、自らの力で生きる者から、主なる神に依り頼む生活へと変えられて行くのです。私たちが神の御前に立つために、主は病気を用いられます。
 ルカ福音書においてシモンのしゅうとめが主イエスによって癒やされた時、彼女はすぐに起き上がり、一同をもてなします(39)。それは、主なる神との正しい関係、隣人との正しい関係を取り戻し、主なる神を愛すること、隣人を愛することとなり、それが仕えるという奉仕へとつながります。この時は安息日でした(38)。旧約の律法においては、安息日に働くことは厳しく禁じられていました。しかし、シモンのしゅうとめが主イエスたちをもてなしました。律法の教えに縛られることなく、真の福音、主なる神との交わり、隣人との正しい交わりを回復していたことを物語っています。彼女は自らの病気とその癒しをとおして、主と出会い、主と共に生きる喜びが与えられました。

Ⅲ.病気を通して主と出会おう
 一方、安息日が開けるのを待って、多くの人々が、病人たちをイエスのもとに連れて来ました(40)。彼らは古い仕来り・律法に縛られていました。主イエスは、彼らに対しても時間を割いて病気を癒やして下さいました。彼らにとっては自分や家族の病気が癒やされることが第一であり、主イエスが一晩中癒やされ、疲れを覚えられていることなど顧みることをしません。自分や家族の病気を癒やして頂きたい一心、自己中心的な行動です。
 私たちは自分のことだけを考えるのでは無く、視野を広くして、他人や周囲の状況を顧みることが求められています。病気一つをとっても、ここに主なる神のご支配が及んでいることを知らなければなりません。私たちの生活においては、すべてにおいて神のご支配が及んでおり、すべてにおいて意味があります。病気が長引いたとしても、あるいは一生引き受けなければならない病気であっても、なおも神を見上げつつ、感謝することができます。主の御前に謙遜にさせられ、人びとにも仕える者へと変えられます。新型コロナ・ウィルスのため、世界中が混乱している今、主がお与え下さった試練として私たちが受け入れ、私たち自身の信仰を顧みつつ、主が生活の中でお与え下さった恵みの一つひとつを感謝することが求められています。
 
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「福音を宣べ伝える」  ルカ4:42~44  2020.10.11   
 
序.
 今日の説教題を「福音を宣べ伝える」としました。今日与えられた御言葉より、私たちキリスト者が、福音を宣べ伝え伝道するとはどういうことであるかを考えて行きます。

Ⅰ.カファルナウムの人々と主イエス
 宣教活動を始められた主イエスは、この後に宣教の拠点となりますガリラヤ湖畔のカファルナウムに入り、会堂において福音の説き証し、シモン・ペトロの家に入り、シモンの姑を初め、多くの病人を癒やし、悪霊を追い出されました(4:31~41)。
 この時カファルナウムの人々は、主イエスが町に留まることを希望します(42)。彼らの思いは、福音を聞き続けたいと願ったからではありません。現在でも、有名人が来ると、人々が見に行ったり追っかけを行ったりしますが、そういう状況と同じです。つまり、有名な人がいること、奇跡を行うことに、興味本位であったにすぎません。
 そうした中、主イエスは他の町に行き、ユダヤ全土で宣教を行うことを願われます(43)。ここには二つの理由があります。第一に、真に福音を理解しようとしない人たちに語り続けることはしません。私たちが伝道を行う時には、粘り強さが求められます。繰り返し語り、祈り続ける必要があります。何年・何十年とかかることもあります。しかし、主イエスはその人のすべてをご存じであり、彼らが福音を受け入れないことも知っておられます。また第二に主イエスはユダヤのすべての人々に福音を告げ知らせる必要がありました。

Ⅱ.「神の国」
 さて、主イエスは「神の国の福音を告げ知らせる」と語ります(43)。私たちが伝道するにあたり、主イエスが語られる「神の国」が何かを理解することは大切です。ルカは、この後、「神の国」について繰り返し言及します。主イエスが宣教活動を始めるにあたり、マルコは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)と語ります。神の御子、私たちの救い主イエス・キリストが来られました。主イエスは「福音」、つまり「良き訪れ」としての救いをお示し下さいます。この時、私たちがキリストと共にある時、神の国はここにあります。だからこそ主イエスの御言葉に救いがあります。
 ルカ6:20は、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と語ります。貧しさ故に自らを誇ることができない者は、主なる神に委ね、信じて今日の日を暮らします。だからこそ、神と共に歩もうとするあなたに幸いがあります。
 また17:20~21では、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と語ります。キリストが共におられる所に神の国はあります。そういう意味では、私たちはこの目でキリストを見ることができませんが、キリストを救い主として信じている私たちには、聖霊をとおしてキリストが臨在されており、キリストと共に歩む私たちの下に神の国があります。
 また「神の国」は、キリストの再臨と最後の審判によって与えられる完成された「天国」と解釈することができます。私たちが聖餐式に与る時、一つはキリストの十字架を想起し、キリストの死により私たちの罪が贖われ、罪の赦しが与えられたことを確認します。そしてもう一つ、キリストの再臨の後に与えられる天国の晩餐の前味であることも確認します。天の教会における晩餐に与ることこそ、私たちがキリスト者として、罪が赦され、地上における様々な苦しみから解放され、永遠の生命に与る、本当の平安と安らぎです。そしてパウロは、「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:21)と語ります。主イエスは、この神の国の祝福を、良き知らせとして、告げ知らせるとお語りになります。

Ⅲ.私たちが福音を宣べ伝える
 キリスト者である私たちも、福音を宣べ伝えることが求められています(マタイ28:19~20)。
 今日は、改革派教会の創立40周年記念宣言(1986年)福音の宣教についての信仰の宣言を告白しました。2(外的召命)で大切なことを2つ。第一に、唯一の救いの道、永遠の生命を得るには、キリストを信じること以外にないことを伝えることです。第二に、証しされる御言葉と共に御霊の働きにより福音が伝えられるのであって、私たちの伝道の努力の結果ではないことです。これは伝道を行わないのではなく、御霊をお与え下さる主なる神にすべてを委ね、宣べ伝えなさいということです。
 3(福音への応答)は、伝道を行った結果は、主なる神に委ねなさいということです。結果として、生涯悔い改めて信仰を持つことなく地上の生涯を終えた者は、彼らの責任において主の裁きは免れ得ません。私たちは主に委ねるしかないのです。
 主イエスがユダヤ全土で神の国の福音を宣べ伝えたように、私たちは、今与えられている場にあって、キリスト者として生活し、主を証しし続けることが求められています。
 
 
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「恐れることはない!」  ルカ5:1~11  2020.11.1    
 
Ⅰ.主イエスとシモン・ペトロ
 主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、悪魔からの誘惑を受けられた後、宣教活動に入られます。そしてルカ福音書では4人の漁師を弟子にする前に、会堂において礼拝を守り、ペトロの家に行き、ペトロの姑の病気を癒やします(4:38-39)。他の共観福音書とは異なりますが、聖書が矛盾しているのではなく、各々の福音書の執筆意図の違いです。

Ⅱ.ペトロに語りかけられる主イエス
 さてルカは、ペトロたちを弟子にするに先立ち、お一人で祈っておられます(4:42)。ルカ福音書は、主イエスが人里離れ、また山に上られて一人で祈っておられることを、繰り返し記します。ルカは、主イエスが大切なことをことを行われるにあたり、お一人で祈られることを繰り返し語ります。この時も、御自身の最初の弟子である使徒を選ばれるに先立ち、お一人になられ祈られた後に、ペトロたちの所に行かれます。
 主イエスは、漁師であるペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と語られます。ペトロは、主イエスの御言葉の説き証しを聞き、姑の病気の癒しを見ていました。そのため、イエスが立派な先生であることは受け入れていましたが、メシアであることは理解していませんでした。そしてペトロは漁師としての自負もあります。夜通し漁をしても何も捕れませんでした。そのためペトロには、「どうせ網を降ろしても、今日の今の時間に魚が捕れるはずがない」との疑いの思いがあります。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えます。
 ペトロは半信半疑でありましたが、主イエスの言葉に聞き従います。これは大切なことです。このことは伝道でも同じです。家族や友人を誘って教会に導く時、「どうせ断られるだろう」とあきらめの気持ちが私たちを支配しています。しかし、ここに聖霊が働きかけて下さる時、その人は教会へと導かれます。「神を信じる」と、告白する者とされます。

Ⅲ.悔い改めに導く主の御力
 ペトロは半信半疑の思いで漁に出ましたが、大漁となりました。この時、ペトロは、「主よ、あなたを信じます」ではなく、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(8)と答えます。つまりこの時ペトロは、主なる神と出会うと同時に、真の己が示され罪を悔い改めます。ペトロは、何もできない、何も知らない自らの真の姿が示され、主イエスがすべてを支配しておられるお方であることが示されました。これが主により救いへと有効に召命された者の姿です(参照:ウェストミンスター信仰告白10:2)。
 主イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(5:31-32)とお語りになります。私たちが自分たちの知識や技術を誇っている時、私たちは主なる神に出会うことはできません。また財産・富・地位・権力も然りです(19:24-25)。主の御前に立つ私たちは、イエス・キリストが神であり、救い主であることが示されるために、私たちの持っている知識・技術・財産・地位が、神の御前には何にも役に立たない小さなものであることを受け入れることが求められます。すべてを超越しておられる神がおられるからこそ、私たちの定められた死に対しても甦りの望みが与えられます。

Ⅳ.人をとる漁師:集めるのは主の御業
 一方「わたしから離れてください」と語ったペトロに対して、主イエスは離れるのではなく、弟子として召し入れて下さいます。主イエスが逮捕され、十字架に架けられる時には、「主イエスを知らない」とまで語る罪を犯します。主イエスは、ペトロの罪のすべてをご存じです。主イエスは、すべて知っておられた上で、ペトロを弟子として迎え入れて下さいます。これが主の愛・主の救いです。
 そして自分の弱さを知っているペトロだからこそ、主イエスは弟子として、教会の指導者としてお立て下さいます。福音宣教も、伝道も「自分の力で人を導く」ことではありません。自らの弱さ、罪深さを知り、すべてを主なる神に委ねることが求められます。
 十字架の死から復活された主イエスは、漁をしていて何も捕れなかったペトロたちの前に現れます(ヨハネ21:5-6)。最初の召しを確かめるペトロにたいして、主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」(同21:15-17)とお語り下さいます。
 イエスの弟子となるのは、自分を誇るものではなく、自分の罪を悔い改め、主への信仰を告白し、すべてを神に委ねることが求められます。自分で主を求めるのではなく、主が私たちを求めて下さいます。だからこそ、私たちは何も恐れる必要はありません。
 
 
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「御心ならば!」  ルカ5:12~16  2020.11.8     
  
Ⅰ.差別されていた社会的弱者
 聖書には時として「差別用語」が用いられることがあります。そのため聖書翻訳を行うにあたって、差別用語の翻訳には、非常に慎重に行われています。
 ここで記されているのは一般的には「ハンセン病」と呼ばれる病気で、日本語聖書では、明治時代から「らい病」と訳してきました。近年、これが差別用語に当たるということで、新共同訳聖書は1996年に「重い皮膚病」と変更しました。新共同訳でもそれ以前の版では「らい病」と翻訳されています。新しい訳は「規定の病」(聖書協会共同訳)、「ツァラアト」(新改訳2017・ヘブライ語)と訳しています。訳語を変えたら差別がなくなるかと言えば、そうではありませんが、翻訳においても注意が求められます。特に日本社会においては、社会的弱者と呼ばれる人たちに対して、差別を容認する状況が今なお残っていると言わざるを得ず、私たちキリスト者は注意しなければなりません。
 主イエスの前に出て来て、ひれ伏した「らい病」の人は、人びとから差別され、社会から除外されてきた人です。ユダヤ社会でも彼らは差別の対象であり、彼らはユダヤ人たちに近づくことすら許されません。それは旧約の律法においても規定されていたからです(レビ13:3)。らい病にかかっている人は「汚れている」と宣言されました。そして「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない」(同13:45-46)と記され、この症状がある限り、その人は独りで宿営の外、墓場など人気のない所に住まざるを得ない状況でした。
 身体障害者・精神異常者などハンディのある人たちと、肉体的に健康と思われ普通の生活を送っている者との間に、何か違いがあるのでしょうか? 「自分たちは、彼らのようでなくて良かった」と語られる方もいるかと思います。しかし、彼らも私たちと同じ人間です。私たちは表面的には健康で、彼らと違うように見えるかも知れません。しかし主なる神の御前に立つ時、彼らも私たちも同じ罪人、滅び行く人間にすぎません。

Ⅱ.主イエスとの出会い
 主イエスは、らい病の男と出会います。主イエス御自身が、この男に近寄って来て下さいます。主イエスと出会うことにより、彼はらい病が取り去られます。そして祭司の所に行くように命じられます。病人でも罪人でもないことが宣言されることにより、生活を取り戻すことができるからです。
 主イエスはこの後、レビを弟子にする時に語られています。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(5:31-32)。主イエスのこの言葉は5章全体に響いています。自らが罪人・病人である、社会から除外されていると自覚し、主イエスに救いを求める者に、主イエスは出会い、罪の赦しを宣言してくださいます。
 私たちも主イエスにより罪の赦しを宣言していただかなければ、死と滅びを避けてとおることのできない罪人です。私たちは自力では救いを獲得することはできません。そして、私たち自らが罪人であることを受け入れる時、主は、私たちを神の民として迎え入れて下さり、「あなたは私の愛する子どもである」との主なる神の声が届けられます。

Ⅲ.御心に従う信仰
 さてこのらい病の男は、主イエスと出会った時、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(13)と語ります。「御心ならば」とは、信仰的な言葉・信仰的な祈りです。しかしこの言葉は、「出来ないでしょうが、出来るのであればお願いします」と神を挑発する言葉にもなります。これは信仰ではありません。
 「御心」とは「神の心」です。つまり私たちが「御心ならば」と語る時、神の御計画・神の御業に「従います」と答えることです。それは自分の思い通りにならなくても、「ここに神の御意思があり受け入れます」ということを告白とならなければなりません。
 このことの一つの例がゲツセマネにおける、主イエスの祈りです。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)。人間イエスとしては、十字架を避けて通りたいです。しかし、主イエスは父なる神の御意思である罪人を救うことを求められます。
 私たちは主の御前に立ち、神の御心を受け入れることが求められています。主を信じて歩む時、主は私たちを永遠の生命の祝福に満たして下さいます。
 
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「熱心な行動」  ルカ5:17~20  2020.11.15     
 
Ⅰ.病気と罪を混同してるのでは?
 前回のテキストにおいて、主イエスは重い皮膚病の人を癒やされた時、主イエスは「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、……人々に証明しなさい」(14)と語り、罪に言及することなく、病気の清めについてお語りになりました。当時のユダヤ人社会では、皮膚病患者は汚れた者であり、「罪人」と同じ存在と見なされていました。主イエスは重い皮膚病が癒やされ、祭司によって宣言されることにより、この人は社会生活を取り戻し、人々からも罪人扱いされずに済むように、このように語られました。
 私たちは、皮膚病について、旧約聖書より確認しなければなりません。レビ記13章に詳細に規定されています。ここで注目すべきことは、「汚れている」、「清い」と語られていますが、それは病気にかかっているか否かの判断であり、「罪」に関してではありません。
 ここで「一週間隔離する」、「宿営の外に住まねばならない」と語られているのは、伝染病として隔離することです。先週「重い皮膚病=らい病」は、現在では伝染病ではないことが明らかになっていることを紹介しましたが、旧約聖書が語る皮膚病は、伝染病として考えられており、その処置が記されています。旧約聖書の規定(皮膚病患者の隔離)は、あくまで病気としての取扱いで、罪の有無を確認することではありません。聖書は医学の教科書ではなく、当時の社会状況に合わせて記されていることを忘れてはなりません。
 しかし主イエスの時代のユダヤ人社会において、重い皮膚病患者患者は罪人であるとの誤った解釈が行われていたのです。そして因果応報として考えられていました。

Ⅱ.家を破壊する?
 今日の御言葉には、男たちによって家の屋根を破損して、中風の人を担ぎ込むという、とんでもないことが行われます。当時のイスラエルの家は、土の煉瓦でしょうから、修復も割合簡単に行えたかと思いますが、他人の家の屋根を破壊することは許されるこういではありません。寝ている人がそのまま降ろすことができる程であり大きな穴です。その結果、家の中にいた主イエスや人びとは、上からボロボロと土や破片が落ちてきて当たります。現在であれば、器物破損罪で訴えられます。

Ⅲ.良心の自由と信仰に基づく善き行い
 しかし主イエスは、彼らの行動を非難することはありません。主イエスは、彼らの行動の目的・信仰を知っておられたからです。信仰に伴う善き行いです(参照:ウェストミンスター信仰告白16:2)。
 また第20章「キリスト者の自由と良心の自由について」2節「神のみが良心の主であって、神は、何事においてであれ、その御言葉に反するような、また信仰や礼拝に関わる事柄であれば、御言葉に付加されるような、人間の教説と戒めから、良心を自由にされた」と告白されています。「良心」とは善悪を判断する意識です。一人の人間として社会秩序に従って生きることはキリスト者も共通することですが、同時に、キリスト者としての良心をもって信仰生活を歩むことが求められます。キリスト者の良心は、主なる神さまに聞き従うことです。そして主は私たちに良心に従って生活するために十戒をお与えくださいました。十戒の要約は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:37~39)です。
 隣人を愛する故に社会秩序に従った生活が求められますが、第一とされている神を愛することから離れた生活、神を否定することは、キリスト者として良心に従って生きていることではありません。第一のことを第一にしなければなりません。
 中風の男を連れてきた人たちは、中風の男がキリストの救いに生きることが必要であり、そのことが第一であるとの信仰に基づいた行動を行いました。家を一部破損すること、主イエスや人々に迷惑をかけることよりも、彼が信仰を取り戻すために行動しました。
 私たちは日々の生活の中で、このことは聖書が許していることか、禁じていることかと、判断に迷うこともあります。こうした時、私たちは、安易に、自分の思いで判断を下すべきではありません。主イエスは何をどう考え、何を求め、どのような結論を出されるだろうかと思いつつ、主の御心を祈り求めなければなりません。私たちがキリスト者の良心を持って生きようとする時、主は私たちが歩むべき道を備えてくださいます。 キリスト者が、主なる神さまを愛し、主なる神さまの教えに従って生きる時、そこにある信仰に基づき、主は「あなたの罪は赦された」と宣言してくださいます。
 
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「罪を赦す権威」  ルカ5:21~26  2020.11.22 
 
Ⅰ.全知全能の神
 主イエスが人々の前で教えていた時、男たちが屋根の瓦をはがし中風の人を床ごとつり降ろします。この時、主イエスは彼らの信仰を見て「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言されました。その場にいた律法学者やファリサイ派の人々は心の中で考えます。主は全知全能で、人の心の中もすべてご存じです。私たちの常識を越えた力を持っておられます。
 神の御前に私たちは何一つ隠すことができません。一般的に「神を信じる」と語る時、私たちが神を選びとるイメージがあります。このとき神に祈ることにより、私たちの願いを適えてくれる神でなければなりません。願いを適えてくれない神はダメで、別の神に乗り換えるのです。占い感覚です。しかし、主なる神は私たちの知的理解・常識を越えて働く力をもっておられ、心の中もすべてご存じです。主なる神は天地万物を創造し、すべてを統治しておられます。そして私たちを死から生命をお与え下さる力を持っておられます。
 だからこそ私たちは、神の御前に生きることが求められます。私が神を求めるのではなく、主なる神が救いを示して下さいます。私たちは主が指し示して下さった救いを、受け入れることが求められています。救いの主体は神であって、私たちではありません。だからこそ私たちが祈る時、私たちにとって一番ふさわしい答えをお与え下さいます。時に苦しみが伴うことがあります。それは、主が私たちの信仰を養い、自我を戒め、主に遜るためです。私たちは主の御前に、主の導きに従って生きることが求められています。

Ⅱ.神の権威
 神の御子である主イエスは、彼らの心をすべて知った上で、答えられます(22~24)。 「……人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。日本語で「権威」と訳されていますギリシャ語は、「①自由・権利、②能力・力、③権威・全権」と訳せます。全知全能の神を表すにあたって、非常に調和のとれた言葉ではないかと思います。
 〔力〕主なる神は全知全能の力をもっておられ、自然を超えて働くことができます。私たちのすべてを知ることができ、さらに奇跡・癒やしを行う力を持っておられます。
 〔自由〕主なる神は、天地万物の創造主であり、私たち人間も世界も、主によって創造された被造物です。創造主だからこそ、ご自身で作られたものを自由にする自由・権利を持っておられます(参照:ローマ9:19~23)。
 〔権威〕 主なる神には権威が与えられています。この権威を主は、人を滅ぼすために用いられるのではなく、人を救うために用いられます。私たちすべての人間が、主の御前に罪を犯し、自ら滅びの道を歩んでいることが前提にあります。滅び行く人は、自分たちの罪の故にその道を歩んでいるのであって、滅びの責任を神に負わせてはなりません。滅び行く者に、罪の赦しと救いをお与えくださるのが、主なる神の愛です。

Ⅲ.権威ある主イエスを信じよ!
 ユダヤ人たちの目の前にいるイエス・キリストこそが、力と自由・権威を持っておられる主なる神であることを、主イエスはご自身で語られます。そして彼の罪を赦した上で、中風をお癒やしになります。人間の力で不可能なことを、主イエスは行うことができます。
 私たちの仲介者(仲保者)であるイエスは、キリストです(ウェストミンスター大教理問答問42)。「キリスト(ギリシャ語)」とは、「油注がれた者、メシア(ヘブライ語)」です。つまりイエスこそが、旧約において約束されていた救い主です。イエスは、聖霊が注がれ、神の御子が人としてお生まれになられたのであり、神の権威と能力を持っておられます。
 そして、「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言された主イエスは、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。主なる神の御子イエス・キリストに罪の赦しが宣言された者、癒やしていただいた者は、心から感謝し、イエスが主なる神、救い主として信じます(25)。そして信仰を告白し、賛美します。彼がイエスを選んだのではなく、主イエスが彼をとらえ、罪を赦し、病気を癒やしてくださいました。彼は、それを受け入れ、感謝したにすぎません。これが信仰です。今私たちに、主なる神から罪の赦しが示されています。主イエスは十字架の道を歩まれ、苦しまれ、死を遂げられました。そして死から甦られ、神の御国に上られました。キリストを信じる私たちに、罪の赦しと救い、永遠の生命が約束されました。私たちは感謝して受け入れればよいのです。私たちは救いに入れられます。罪を赦す力を持ち、自由があり、権威がある主なる神を、私たちは信じることが、今、求められています。
 
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「罪人の救い」  ルカ5:27~32  2020.12.6  
 
Ⅰ.主イエスの呼びかけ
 徴税人レビのことを、マルコ福音書では「アルファイの子レビ」(2:13)と語り、マタイ福音書では「マタイ」と語り、福音書記者マタイ本人であると語られています(9:9, 10:3)。
 当時、ローマ帝国の支配下にあったイスラエルにおける徴税人の働きは、ローマの手下となり、私腹を肥やしていることから、ユダヤ人たちからは強奪者として嫌われ、罪人とされていました。そのため、徴税人は高収入でしたが、ユダヤ人でありながらも異邦人のごとくに嫌われ、罪人とされ、社会から疎外されていました。
 そうした中、主イエスは「わたしに従いなさい」と語ると、徴税人レビはすべてを捨てて、主イエスに従います。主イエスは聖霊の働きにより、彼の石の心を取り去り、肉の心、つまり主イエスを信じ、取と共に生きる心をお与えくださった結果です(参照:ウェストミンスター信仰告白10:1)。主によって召された者は、自らの罪を悔い改め、キリストへの信仰を告白する者へと変えられます。レビが何もかも捨てたということは、徴税人に戻る意志はなく、主イエスの弟子、キリストの僕として生きることの表れです。

Ⅱ.主によって召された者
 主イエスに招かれ、罪が赦され救われた時、他人に対する判断基準が大きく変更します。
 つまり神と出会う前の人は、しがらみに縛られて生きています。武力・権威・身分・お金・家柄・健康(病気)・行い(罪)……。自分と他人とを比較し、上下関係をつくります。自分よりも上の者に、こびへつらい、忖度し、ひれ伏します。その一方、自分より下の者には、さげすみ、虐げ、無視します。ユダヤ人たちはこうしたしがらみの中に生きていました。そのため、自分たちと罪人を区別し、ファリサイ(分離する者)と呼ばれていました。そして現在でも、こうした力関係において社会が形成されていると言ってよいでしょう。
 しかし、主イエスに招かれることにより、主なる神の愛が示され、キリストの十字架の御業による救いが与えられます。すると、主なる神の御子イエス・キリストを誉め称え、賛美し、主によって集められる者であれば、分け隔てすることなく、共に主を賛美します。そのためレビは盛大な宴会を催します。私たちにとって、神礼拝の場こそが救いの喜びを表す場所です。今は、残念ながら密になることを避けるために、誰もが自由に礼拝に集うことはできず、教会員の皆さまには隔週で礼拝に集っていただくことを要請しています。しかし客員・来会者に対しては、そうしたことを要求しません。主によって招かれ、主による救いを喜ぶ人たちは、たとえ罪を犯したことが明らかな人であっても、人から嫌われている人であったとしても、排除されることはありません。まさに神礼拝こそが、キリストによって集められ、罪が赦された者たちの救いの喜び、分かち合いの場だからです。

Ⅲ.罪が赦された喜びに生きる
 そしてファリサイ派の人々や律法学者たちの問いかけに対して(30)、主イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(31-32)と答えられます。主イエスは病気と罪を同義語のごとくに語ります。主イエスは罪を赦す権威を持っておられます。
 一般的な病気である場合、自分が何の病気であるのかを知ることから始まります。自分が病気であることが分からなければ、治療することも、対処することもできないからです。これは、コロナの無症状の方しかし、目に見えないガンがしかり、精神的な病(そう・うつ病)などでも同様です。「自分は病気ではない」と言い張っているならば、治療を行い、治すことすらできません。つまり、病気であることを知り、受け入れることが第一歩です。
 私たちは今、主の御前に、行い・言葉・心において罪人であり、滅び行く存在であることを受け入れていなければなりません。「自分はキリスト者として、礼拝に出席し、奉仕をし、証しをしている」と自負している人は、ファリサイ人・律法学者と同じです。そうした人たちは、主イエスはこの場に招かれていません。子どもと親のカテキズムでは、問23「では、あなたも罪人ですか。」 答「はい、私も神さまの御前に罪人です。神さまの怒りと裁きを受けなければなりません。」と語られています。
 主イエスは「あなたこそが罪人であり、主によって招かれ、救いに招かれている」と、お語りになります。私たちは主の晩餐に与りますが、罪が赦されているからこそ神の御国の盛大な宴席に招かれています。周囲の人を見るのではなく、あなた自身の罪が問われています。主の救いに感謝し喜びつつ、今週の歩みも送っていただきたいと願っています。
 
 
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「キリストと共に歩む恵み」  ルカ5:33~39  2020.12.13   
 
 Ⅰ.神を礼拝する意義を考えよう
 皆さんは、礼拝における喜びがあるでしょうか。日本の教会の礼拝は葬式のようだと揶揄されてきました。礼拝が終わっても、晴れやかではなく、喜びに溢れていないからです。日本人の国民性もあり、秘められたものもあるかと思いますが、この批判は当を得た言葉でもあります。教派や民族によっていろんな礼拝形式があって良いかと思います。しかし、礼拝は、私たちが救い主である神の御前に集められていることを忘れてはなりません。
 主なる神は、主イエスをこの世に人としてお送りくださり、主イエスの十字架により私たちを救ってくださいました。そして私たちは、神との交わりを取り戻し、永遠の生命を取り戻しました。礼拝はこの神の救いと交わりを再確認する場です。この神との交わりは、永遠の喜びとなり、これは私たちが肉の死を迎えてもなくなりません。肉に死んでも、魂は生き続け、神との交わりの喜びに満たされ続けます(参照:ウェストミンスター小教理問1)。だからこそ、礼拝において、私たちの救いの喜びが溢れるのです。

Ⅱ.ユダヤ人たちが行っていた断食
 ユダヤ人たちは、主イエスの弟子たちが断食しないことを訴えます(33)。彼らは断食の伝統を重んじてきました。教会が伝統を受け継ぐことを否定する必要はありません。私たちを救いに導いて下さった神を礼拝するために、必要な要素が形作られ、それが引き継がれているからです。断食も旧約聖書にもおいて規定されています。断食は罪の悔い改めのために行われました(参照:申命記9:9,17~18)。断食を行う時、神の御前に自らを露わにすることが大切です。つまり断食により、自らの罪を知り、悔い改め、それでもなお神の罪の赦しと救いにあることを感謝するが断食であり、神礼拝です。
 主イエスは、婚礼の席で断食が必要かと語られます(34)。御子イエス・キリストが目の前におられます。そして主イエスは人々に救いの宣言を行います。罪の赦しは宣言され、救いの喜びにあります。この時、罪の悔い改めである断食は必要ありません。礼拝は喜びの場、婚礼の席となります。礼拝では、救い主イエス・キリストと出会うこと、罪の赦しの宣言が行われ、救いの喜びに満たされること、隣人の罪を赦し和解することが大切です。

Ⅲ.花婿が奪い去られた時代
 しかし改めて罪の悔い改めにおける断食を行う時が来ます(35)。主イエスが逮捕され十字架に架かられる時です。それがいつまで続くのか? 一つの解釈はキリストの再臨の時までと考え、他方主イエスの十字架の死から復活された時までとの考えもあります。
 前者のように、現在も主イエスが不在の時と考えるならば、現在でも断食を行うことの意義があります。ウェストミンスター神学者会議の中では月例断食日を設け、断食を行っていました。改革派教会も礼拝指針で「断食」が礼拝の一つの要素であると告白します。そのため、現在でも、断食は、意味を理解した上で行われるべきです。
 しかし私たちの教会では、ほとんど断食礼拝を持ちません。主イエスは死から甦られたこと、そして御子に代わる聖霊が与えられていることを考える時、もう必要ないと考えるからです。主イエスは、「インマヌエル(神、我々と共におられる)」と語られました。聖霊によりキリストとの交わりに入れられています(参照:主の晩餐)。私たちは、主の御前に集められ、復活の主にお会いしています。花婿であるキリストと常に一緒にいるのであって、改めて断食が求められることはありません。このことが、最初に議論してきた礼拝の喜びに繋がります。だからこそ、キリストの臨在、罪の赦しが宣言されたことを感謝し、喜びに満たされる時、礼拝が葬式のようであることがどうかが問われるのです。

Ⅳ.回心の喜びをもって生きるキリスト者
 キリストが共におられる時に、なぜ断食は不要なのかを最後に考えます。主イエスは新しい服、新しい革袋の譬えで語られます(36-39)。ユダヤ人の行っている断食は、旧約の時代であれば受け入れられた事柄です。しかし古い革袋(古い感覚)で、主イエスが語られる福音を理解しようとしても、理解することはできず、革袋はダメになってしまいます。
 そのために古い革袋から新しい革袋へと変更(回心)が必要です。主イエスが共におられる時、悔い改めの断食は不要です。この時、キリストの御前に立ち、ひれ伏して、主イエスの御言葉に聞くことにより、救いの喜びをもって礼拝することです。
 この時、私たちの信仰も変化します。自分で断食を行うのではなく、主によって与えられる罪の赦しに感謝と喜びをもって、主と共に歩む恵みに生きるものとされます(参照:ウェストミンスター信仰告白9:4)。
 
 
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「安息日とは」  ルカ6:1~5  2021.1.3   
  
序.
 ある事件が発生した時、人々はそれがどのような事件であり、どのような人によって行われたのかといったこと、つまり見た目に注目します。しかし、問題を解決するためには、なぜ、何のために事件が起きたのかを考える理由と目的を明らかにすることが大切です。

Ⅰ.律法を守ることを絶対視するユダヤ人
 ファリサイ人たちは、主イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだことを問題とします。彼らは他人の畑で麦の穂を摘んだことは問題にしません。なぜならば、鎌で刈るのは泥棒ですが、旅人が手で穂を摘むことで空腹を満たすことは、兄弟愛として、聖書においても認められていたからです(申命記23:26)。
 ある注解書は、ユダヤ人たちがここで安息日違反を4つ指摘していると語ります。
 ・安息日に穂を摘むことは刈り取りである。 ・手で揉み出すことは脱穀である。
 ・殻を放り投げる。 ・食べることは食事の用意をしたことである。
 つまり彼らの言い分は、「規則で定められていることに違反しているからダメだ」ということです。極端なことを語れば、彼らは律法を守ることが何よりも大切であり、その結果、「飢えて死ぬ結果になっても仕方がない」との考えです。
 このことに対して、主イエスは反論します(3-4節:参照:サムエル上21:3-6)。ダビデが供えのパンを食べたことは厳密に言えば律法違反でした。備えのパンは祭司は食べることが許されていましたが、他の人たちには許されていないためです(レビ24:9)。しかしダビデの行ったことは、窮乏した状態で供えのパンを食べ空腹を満たしのであり、律法を守ることよりも優先した結果です。そして誰もダビデを非難することはありませんでした。

Ⅱ.安息日を覚えよ!
 ウェストミンスター大教理問答問121で「なぜ『覚えよ』という言葉が、第四戒の冒頭に置かれているのですか」と問いかけます。「覚えよ」とは、十戒の第四戒「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と語られている「覚えよ」です。出エジプト20:8では「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と語られています。
 そしてこの答えでは「安息日厳守」は求められることなく、致し方ない出来事があれば、安息日を覚えつつそれを行うのであれば、罰せられることはないことを語っています。安息日でも働くことが求められる人たちがいます。医療従事者……。クリスマスにお生まれになった主イエスをお祝いに駆け付けた羊飼いは、羊の番をするために、安息日も関係なく働くことが求められました。そのためユダヤ人から罪人だとされました。こうした方々が咎められてはなりません。
 そして教理問答は、「キリスト教の短い要約を含む創造と贖いという二つの大いなる益を、感謝をもって覚え続けるようにされるからです」と語ります。十戒が教えられた出エジプト記20:8~11では、天地創造を行われた主なる神と被造物である人間の関係を覚えつつ、安息日を守ることを求めます。そしてもう一つの十戒が教えられた申命記5:12~15では、エジプトで奴隷であったイスラエルを、主なる神は救い出して下さいました。そして現在に生きる私たちも、キリストの十字架の御業により罪が赦され、神の子とされています。主なる神の救いを覚えて、安息日を守ることが求められています。

Ⅲ.安息日の目的を正しく理解せよ
 安息日を守り、休息を取ることは大切です。主なる神によって創造された人間は7日に一日を休息しつつ、生きるものとされているからです。しかし、安息日が定められている理由は、主なる神による創造と贖いを覚えることです。この理由を覚えつつ、安息日である主の日を守り、休息をとり、神に礼拝を献げることが大切です。
 そして主イエスは「人の子は安息日の主である」(5節)とお語りになります。「人の子」である主イエスが、安息日をお定めになられたのであって、そのお方が「良し」としてくださっています。そのため、ユダヤ人も私たちも「否」と語ってはなりません。
 教会でも「礼拝厳守」が叫ばれてきました。確かに、主の日を覚えて礼拝を献げることは大切です。しかし、律法に込められている、この目的と理由が説明されることなく、命令されるならば、これは律法主義となり、それを守ることが出来ない人たちに対する裁きとなってしまいます。私たちはキリストの十字架と復活により罪が赦され神の子とされました。このことを覚えて感謝して主の晩餐の礼典に与りますが、主による救いを覚えつつも礼拝に出席できない方々が主の救いの恵みから漏れ、裁かれることは決してありません。
 
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「安息日に求められること」  ルカ6:6~11  2021.1.10   
 
序.
 1~5節では、主イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだことで、ファリサイ人らは主イエスに対して安息日違反を指摘しました。このことに対して主イエスは、律法は守ることも大切ですが、それ以上に律法の定められた原因・理由、そして目的をはっきり理解し、「覚える」ことが大切であることを確認しました。そして安息日を覚えるとは、主が天地創造を行い7日目に安息されたことを覚えること(出エジプト20章)、そして主がイスラエルの民を奴隷から救い出して下さったことを覚えること(申命記5章)が大切であることを確認しました。つまり、安息日は主による創造と贖いを覚えることこそが大切で、このことを覚えつつ安息日を守って休息し、神礼拝を行うように求められています。

Ⅰ.ユダヤ人たちと主イエス
 そして律法学者・ファリサイ派の人々は訴える口実を見つけようとして(7)、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか注目します。主イエスが宣教活動に入られてから、病人を癒やされていましたが、ユダヤ人たちにも知れ渡っていたのです。つまり彼らが訴える口実を見つけようとすることは、理由は関係なく主イエスが律法違反を行うことが、彼らには許せない行為であったということを聖書は指摘しています。
 主イエスは彼らの考えを見抜きます(8)。神の御子であるイエスは、私たちの生まれる前から今まで、そして肉の死を迎える時までの行い・言葉・心の中の思いのすべてを知っておられます。そのため私たちは、主から隠れることはできません。

Ⅱ.律法の本質とは
 つまり、主イエスはユダヤ人たちの企みをすべてご存じの上で、行動を起こされます。主イエスがどのように律法に仕え、用いられるかを考えることが重要です。律法の要約としての十戒では序文が語られています。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20:2)。ウェストミンスター大教理問101では3つのことを語ります。第一に、自立自存、永遠から永遠に生きておられる主なる神の存在と主権を確認することです。第二に、主なる神がイスラエルを奴隷から救い出してくださったように、私たちを霊的隷属状態・罪の故の滅びから救い出してくださいました。そして主は、私たちと恵みの契約を結んでくださいます。この二つは、先週「安息日を覚えよ」と語られている時、創造主と贖い主を覚えることであると語りましたが、それに合致しています。その上で、〔第三に〕主による救いに感謝して、主がお与えくださった戒めを私たちが守ります。律法を守ろうとする時、十戒の序文を確認することにより、律法の目的を理解することができ、律法主義的な考えを排除することができます。
 また主イエスによる罪の赦しは、キリストの十字架の苦しみに基づきます。そしてキリストの十字架は私たちへの神の愛の表れです。そのため十戒の要約において語られているとおり、神への愛と隣人への愛に基づき行われるべきです(マタイ22:37-40)。つまり律法を守ろうとしようとする時、隣人を愛し、隣人の思いを十分に理解した上で、隣人と寄り添う時に、主は何を行うことを求めているのかを考えつつ行動することが求められます。

Ⅲ.愛をもって律法に仕えよ!
 主イエスは「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」(9)と語られます。主イエスは、目の前にいる右手の萎えた人を愛しておられます。この時、目の前にいる彼がそのままの状態で生きるよりも、右手が癒やされ健康な体が与えられ、救い主に感謝しつつ主を証しする生活へと向かうことを、主イエスは望まれます。彼を愛することは、今日の仕事を休み、彼が明日まで手の萎えた状態であるのではなく、今すぐ癒やされ、健康な体が与えられることであると、主イエスはお語りになっています。そのために、安息日の規定が守られないとしても主は非難されることなく、苦しむ者が救われることを喜んでくださいます。
 私たちが律法に従う時に求められることは、私たちを罪の滅びから救い出してくださった主なる神を信じることであり、主を愛し、隣人を愛すること、隣人の苦しみを理解し寄り添うことです。こうしたことが示される時、厳密には律法違反と言われるようなことであっても優先されるべきことがあるのです。主イエスにとって、律法を守り安息日に休息すること以上に、この場に居合わせた右手の萎えた人を癒やすという行為が大切なことだったのです。隣人を思い、和解し、寄り添っていくことが求められており、こうしたことが忘れ去られた時に、「律法だ」、「規則だ」と語られても、それは律法主義にすぎません。
  
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 「使徒を選ぶイエス」  ルカ6:12~16  2021.1.17  
 
Ⅰ.12人を選ぶ
 主イエスは12使徒を選ばれますが、この12という数字に注目します。黙示録に代表されますが、聖書では3・4・7・10・12といった数字は完全数として象徴的に用いられます。特に12は、神の国を満たす数字として用いられます。
 ヤコブに与えられた12名の息子たちがイスラエル民族を形成し、神の約束の民として選ばれました。イスラエルの12部族は次第に変化を遂げます。祭司の家系とされたレビの代わりに、ヤコブの二人の息子たちがマナセとエフライムと二つの部族に数えられます。また、ヨハネ黙示録7章では、エフライムの代わりにヨセフが記され、さらにレビが記される代わりにダンが抜けています。大切なことは12部族として12がそろうことです。このことは、12使徒も同じであり、イスカリオテのユダが主イエスを裏切り、罪を犯して自殺した時、教会はマッテアを代わりに選び出しました(使徒1:21-26)。
 そしてヨハネ黙示録7章において神の刻印を押されたイスラエルの12部族が紹介され、それぞれ12000人が選ばれていることが語られています。12部族は、世界にあるすべての部族、12000人は各々の部族における神によって選ばれたすべての民を指し示しています。また24名の長老が天上の礼拝において座っていることが語られています(4:4,10、5:8、11:16、19:4)。すべての部族から2名ずつ選ばれています(民数記35:30)。
 つまり主イエスが12人を使徒としてお選びになったのは、すべての部族を神の国にお招きくださる旧約聖書から黙示録に通じて一貫して語っておられることと合致します。

Ⅱ.神の子として選ばれる
 12使徒の内、シモン・ペトロ、ヤコブ、福音書記者でもあるヨハネなどは何度も登場しますし、徴税人マタイは福音書記者です。トマスは主イエスの復活を疑います(ヨハネ20:25)。イスカリオテのユダは、ここでも記されているとおり裏切り者となります。しかし、名前以外、何を語り、何を行ったかがまったく分からない弟子たちもいます。
 しかし主イエスが12人を選ばれ、彼らの名を聖書に記します。旧約聖書におけるイスラエルの系図も同じです。主なる神は、神の子とする者を選び、その一人ひとりを召し出し、主を信じ、神の子として迎え入れて下さいます(参照:ウェストミンスター大教理問答問74)。主は12人を選び名を記したように、私たち一人ひとりも召し入れ、その名を書き留めて下さっています。そして、私たちを神の子として、神の御国に入ることを許可して下さいます。私たちは、洗礼を授かることにより、恵みの契約書に証印が押され、主のサインが行われることにより、神の刻印が押されており、確実に神の国に迎え入れられます。

Ⅲ.宣教の業を委ねる
 そして聖書は「十二人を選んで使徒と名付けられた」(13)と語ります。使徒とは、本来は「使者、派遣された人、全権大使」を表す普通名詞ですが、主イエスが選ばれた12人は、主がお与え下さった特別な働き人として「使徒」と呼んでいます。彼らは、主イエスの弟子となり、さらにイエスの復活の証人となり、全世界に向かっての福音宣教に携わります(マタイ28:16-20、使徒1:8)。またペトロが足の不自由な人を癒やす(使徒3:1~10)ように、奇跡を行う力も、特別に与えられていました。しかし使徒は12人に限られたのではなく、パウロも復活の主イエスから直接選ばれ、使徒に任じられました(使徒9:1-22、ローマ1:1、Ⅰコリント1:1、Ⅱコリント1:1、ガリラヤ1:1)。
 しかし、主イエスの復活の証人としての使徒は、彼らに限られており、現在では存在しません(参照:教会規定第39条(一時的特別職))。そして、使徒たちが担った福音宣教の働きは、新約の教会に委ねられます。それが牧師・長老・執事の三職です(同第40条)。
 中でも使徒職は牧師の働きに引き継がれていると語っても良いかと思います(参照:ウェストミンスター大教理問答問158、問159)。主イエスが使徒たちを選ばれたように、牧師は主からの召しを受けた者として、その働きを務めていかなければなりません。
 同時に、主によって教会に集められたキリスト者全員に福音宣教が委ねられています。すべてのキリスト者が御言葉である聖書を読み、信仰告白に基づいて、自らで解釈することが求められます(万人預言者)。
 主イエスが使徒たちを選ばれたように、教会に牧師、そして長老・執事をお立て下さり、さらに神の民一人ひとりをお集め下さいました。主によって招き入れられた私たちは、主の民として、永遠の生命が与えられています。救いの喜びをもって、主に仕えて行きたい。
 
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「すべての人を癒やされる」  ルカ6:17~19  2021.2.7
 
   
Ⅰ.主イエスの所に集まってくる人々
 主イエスは、弟子たちと共に、おびただしい民衆が待っている裾野まで下りて来られました。「おびただしい民衆」は、ユダヤ全土、エルサレム、ティルスやシドンからも来ており、主イエスの噂の広がりを示しています(参照:聖書巻末地図6)。主イエスはガリラヤ湖畔カファルナウムにおられました。つまり民衆は、遠くは100km位の道程を歩いて主イエスに会いに来ました。中には病人や汚れた霊に悩まされた人々もいました。病人がいると、さらに時間を要します。現在のように鉄道も車もありません。主イエスの行う奇跡、語られる説教に魅力があったから来た人たちもいました。いずれにしても、主イエスが、人々を引きつけるものを持っていたため、多くの民衆が集まってきました。
 今はいかがでしょうか。教会に人がなかなか集まってきません。改革派教会の礼拝の雰囲気は、「堅い、暗い、冷たい」と言われます。遠からず、当たっているかと思います。このことを打破しなければなりません。教会が暗く、教会・教会員の悪口を語っていれば、だれも教会が魅力的に思うことはありません。救いの喜びに満たされることが大切です。そして喜びをもって新しく来られた方々を迎え入れることが大切です。
 さて人々が集まった時、主イエスは癒しの奇跡を行い、御言葉の説教を語られます。ウェストミンスター信仰告白は、第5章3節「神は、その通常の摂理においては、さまざまな手段をお用いになる。しかし、御自身がよしとされる場合には、手段なしで、手段を越えて、また手段に反して、自由に働かれる」と告白します。主イエスは、通常の手段として御言葉を語られます。同時に通常の手段を超えて奇跡を行う力を持っておられます。
 主イエスが、病気を癒やし、説教を語り教えられることは、福音宣教において大切な働きです。私たちは、通常、教会で御言葉の説教が説き明かされ、私たちキリスト者一人ひとりが伝道を行います。これがすべてと思っています。しかし聖書を紐解きますと、病気の癒しと教育は宣教の働きと密接に絡み合っています。ですから、欧米でも、韓国でも、教会が病院や学校の経営に携わり、教会と共に病院や学校があります。私たちと宣教協力を行っています韓国の高神派は、最初に神学校を建てると同時に、医療宣教を行うことにより、教会が成立していきました。教育が切り離された状態、愛の業としての病院が切り離された状態での宣教は、力が削がれている状態です。ですからなんらかの形で、地域における教育と愛の業に教会が関わりを持つことにより、福音が前進することとなります。

Ⅱ.求めなさい そうすれば与えられる
 主イエスはすべての人の病気を癒やしておられました。病気の原因、その人の事情など聞いた上で、癒やすのではありません。主イエスにとって、彼らが過去どのような人生を歩んできたのかは、関係ありません。主イエスが求めたことは、ただ一つ、主イエスに出会い・触れることによって病気が癒やされることを信じて、行動したことです。主イエスは次のようにお語りになります。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。……」(ルカ11:9-13)。これが主の無償の愛です。
 別に言い方をすれば、求めない者は与えられず、救われません。神を信じることなく、神を恐れない人たちは、自分の力で生きようとしています。主は、偶像崇拝を禁止されたのと同様に、富に仕えることも禁じられました。主なる神と富の両方に仕えることもできません(ルカ16:13)。キリストによる罪の赦し、主による救いが提示されているにも関わらず、それに聴き従わないのは、生きて働く主なる神を恐れていないからです。

Ⅲ.主を信じなさい
 主は今も生きて働いておられ、私たちを支配し、力を発しておられます。それが病人の癒しによって示されています。東日本大震災、新型コロナウィルスの災害により、私たちが、主を畏れ、省み、遜り、主に従うことを求めておられます。主の御力を矮小化してはなりません。生きて働いておられる主なる神が、私たちに警告を発しておられます。主の警告に耳を傾け、悔い改めようとしない時、主は裁きをもたらします。
 主なる神は、最後の審判において私たちを裁判にかけ裁かれます。誰も逃れることができません。私たちはいま、すべてを支配し、裁きを行われる主なる神を受け入れ、信じることが求められています。そうすれば、主は私たちの罪を贖ってくださり、神の民として受け入れてくださいます。主イエスを求める時、主は私たちに救いを、そして生きるために必要なものを満たしてくださいます。主を信じて、主の救いに喜んで生きましょう。
 
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「信仰による幸い」  ルカ6:20~26  2021.2.14
 
    
 序.
 マタイ福音書5-7章の山上の説教に対して、ルカ福音書6:20-49は平地の説教と呼ばれています。そしてマタイ福音書の八福(5:3-12)に対して、今日の御言葉は四福と呼ばれています。山上の説教を簡略化したものが平地の説教とも考えられますが、そうではないかと思います。つまり主イエスは3年間の宣教活動を行われますが、同様のことを繰り返し語られたのではないかと考えられます。

Ⅰ.キリスト者の貧しさ
 日本語で「貧しい」と記すと、「貧乏」をイメージしがちです。主イエスは「金持ちが天の国に入るのは難しい。…金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マタイ19:23-24)とお語りになります。これを読むと、「金持ちよりも貧乏な方が良い」、「金持ちになってはならない」と語られているように思います。主イエスは金持ちの青年に対しても、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(19:21)と語られます。主イエスは、彼が周囲の人たちを見ず、自分自身しか見ていないことを指摘します。隣人を顧みる時、施しを行うことにより主の愛に応えることができます。富を持つことにより、他人を愛することができなくなり、自己中心になってしまう時、そこに神が入り込む余地がなくなり、ここには救いはありません。
 しかし富を持ったら救われず、貧しければ救われると単純に判断してはなりません。自己中心に富に溺れてはなりませんが、神に仕えることのために富を持つこともあります。つまり、神から与えられた能力・才能を用いて、事業に成功し金持ちになり、教会を支え、地域の人々のために用いていくことは神に喜ばれることです。ですから、主イエスは「金持ちが天の国に入るのは難しい」と語られ、不可能であるとは語られません。むしろキリスト者が社会でリーダーとなり成功することは大切です。それが文化命令(創世記1:28)に従って生きることであり、神の栄光を称え、有神論的人生観世界観に生きることです(ウ小教理問1、創立宣言)。神の国の完成のために、キリスト者が指導的な立場に立ち成功することにより、富が与えられ、それを主の働きのために用いることにより主の栄光が称えられ、主の喜びとなります。キリスト者が金持ちになることが否定されているのではありません。

Ⅱ.土の器を神の御言葉で満たせ!
 山上の説教では「心の貧しい者は、幸いである」(マタイ5:3)と語られています。「心の」と言う言葉がルカでは省かれています。「心の貧しい」とは、「心に何も持たない」、「心を空っぽにする」ことです。別の視点から語れば、「自分に誇るものがない」からこそ、別のものによって心を満たす必要が生じます。それが神の御言葉です。パウロは、私たちの体のことを「土の器」であると語ります(Ⅱコリント4:7)。その中に宝としての神の御言葉を蓄えることが必要です。「わたしたちは、このような宝(イエス・キリストの御言葉)を土の器に納めています」。ですから、主イエスが語る「貧しさ」とは、私たちの心の器を「空っぽ」にして、そこに神の御言葉を蓄える準備をすることです。
 しかし土の器の中に、富・権力・実績等を蓄える時、神さまの御言葉を蓄えることが出来ず、自らの能力を誇り、富を追い求めることとなります。ここに神の御言葉が入る余地はなくなります。富、権力、能力、武力、そうした力がある所、人々は自らを誇ります。私たちは、神と富との両方に仕えることはできません(参照:マタイ6:24)。
 また、「富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰められている」(24)と語ります。「慰め」を、ある英語聖書は"easy life"「快適な生活」と訳します。富を追い求める者は、既に自分を満足するものを手に入れいており、これ以上の生活を手に入れることはできません。そのため不幸なのです。キリスト者は「真の慰め」を考えなければなりません。地上の生活における労苦、悲しみ、嘆き、痛み等がすべてなくなった、神の恵みと祝福に満たされた天国における永遠の生命が約束されています(参照:ウ大教理問90)。私たちの安住の地は、神の国であって、神の約束にこそ、私たちの生きる希望があります。
 この終末に訪れる神の国の完成に向かって歩んでいるという方向性を持つことが、この四福を読む時に大切にしなければなりません。私たち自身に訪れる貧しさ、飢え渇き、苦しみに伴う涙、信仰に基づく迫害に違いはありません。自分の生活、周囲の人たちとの比較して生きる時、真の救いの喜び幸いを知ることはできません。自らの姿ではなく、主によって与えられる救いの希望、神の国の幸いを求めて歩み続けていただきたいと思います。
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「敵をも愛する」  ルカ6:27~36  2021.2.21
 
     
 序.
 神を信じことは、時として私たちの生き方そのものを逆転させることが求められます。それが今日の御言葉です。キリスト者とされた私たちは、神が何を求めておられるか、神の御言葉である聖書に聞かなければなりません。

Ⅰ.敵をも愛するとは……
 旧約聖書では「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)と語られていました。そのためユダヤ人は、同胞を隣人として愛し、助け合いました。しかし、主イエスは「あなたの隣人とはだれか」と語り、善いサマリア人の譬えを語られます(ルカ10:25~37)。ユダヤ人である祭司もレビ人も、同胞である追いはぎに襲われ苦しんでいる人を助けることをしませんでした。彼らは彼が同胞であるかすら確かめようとしません。彼らは隣人を非常に狭く解釈することにより、面倒なことには関わりたくないことが、ここで明らかになります。一方、一人のサマリア人が追いはぎに襲われた人を助けました。主イエスにとって、人種・民族・国籍・性別・身分・肌の色は関係ありません。そして主イエスは「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(6:27-30)とお語りになります。これは私たちの常識を覆す言葉です。
 敵対し憎しみを持っている人と相対することは嫌なことです。面倒臭いことです。誰しも避けたいことです。しかし人を愛することは、その嫌なこと・面倒臭いことを引き受けることです。つまり隣人を愛することは、自分を無にし、犠牲にすることが求められます。謙遜でなければなりません。
 そして主イエスは、敵対する者であっても関心を持ち続け、関わりを持つことを求めておられます。今日はウェストミンスター小教理問答において第八戒について告白しました。「盗んではならない」と語られる時、単に相手のものを盗まない行為だけではなく、「わたしたち自身と他の人々の、富と財を合法的に獲得し、増進させることを求めています」(問74)。自分のことだけ考えるのではなく、相手の立場に立っても考えることが求められます。視野を広くして相手の意見を聞きつつ話し合う、バランス感覚が求められます。

Ⅱ.キリストの十字架の愛
 私たちは、キリストの十字架を見上げなければなりません。神の御前にあって、自分がどのような存在であるか顧みることが求められます。人間は罪を犯し、神から離れた者、罪の故に裁かれる者でした。誰一人例外はありません。罪の結果としての死を避けて通ることができません。罪を犯すとは、サタンに従い、神に背き敵対することです。私たちのすべてをご存じである主の御前に立てば、私たちは裁きを免れることはできません。主にとって、私たち人間を救わなければならない根拠など何一つありません。本来は、すべての者が裁かれ、滅びるべき人間でした。それが神を信じる者には、神の恵みによって、救いの中に入れられたのです。そうであれば、神によって招かれ救いへと招かれていることを、感謝をもって受け入れるしかありません。滅びることを神の責任にしてはなりません。
 しかし、神の御子イエス・キリストは、神に敵対して滅び行く私たちの罪を取り除くために十字架にお架かりくださいました。神が神として存在されるだけであれば、人を救うために十字架に架かる必要などありませんでした。人が滅び行くことに対して、神に責任はないからです。しかし、主は私たちを愛してくださいました。そして罪を赦して救うために、御子を十字架に明け渡してくださいました。主イエスは十字架に架けられている時も、「父よ、彼らをお赦しください。自分がなにをしているのか知らないのです」(23:34)と祈られました。主イエスの思いは、パウロによっても語られています(フィリピ2:1~8)。
 神に敵対していた私たちの罪を赦すために、主イエスは十字架にお架かりくださり、苦しみ、死を遂げてくださいました。このお方が、「あなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(27)とお語りになります。私たち人間にとって不可能な要求です。どうしても赦すことの出来ない人が一人・二人はいるものです。権力により人々を虐げている人たちがいます。しかし私たちは、十字架の主イエスを仰ぎつつ、信仰の武具を身に着けることが求められています(エフェソ6:10-18)。簡単なことではありません。だからこそ私たちは、御子イエス・キリストの十字架の裂かれた体、流された血を顧み、主によって与えられる救いの恵み、与えられています生活の恵みに感謝しつつ、今、目の前にいる敵対している人たち、憎んでいる人たちと相対することが求められています。
 
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「罪人を赦す」  ルカ6:37~38  2021.3.7
 
      
Ⅰ.人を裁くな!
 主イエスは、「人を裁くな」とお語りになります。 旧約聖書では「あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい」と語られています(レビ19:15)。「忖度」、つまり権力にすり寄ることとなり、社会の秩序は乱れます。裁きの判断に偏りがある時、不正がはびこります。主イエスがユダヤ人たちの律法主義を批判していたのはこのことです。つまり、自分の都合の良いように自らは罪に定めることはせず、他人を裁いていたからです。
 私たちはどうしても弱く、個人的に人を裁いてしまうことがあります。私たちは改めて、罪とは何かを考えなければなりません(ウェストミンスター小教理問答問14)。「罪とは、神の律法に少しでもかなわないこと、あるいは、それに違反することです」。また私たちは、思いと言葉と行いにおいて、神の戒めを破り、罪を犯しています(同問82)。つまり全的堕落、私たちは皆が罪人であり、誰一人、罪を犯したことのない人はいません。私たちが救われるためには、キリストの十字架による罪の赦しが与えられることを求めなければなりません。最後の審判において、「あなたは本当ならば罪人であり、有罪判決を受け、滅びるべき人間だけれども、キリストが十字架の御業により、あなたの罪はすでに償われており、あなたは神の子として、神の国に受け入れられている」と宣告して頂くのです。
 安易に他人の罪を裁こうとすれば、私たち自身が同じように裁かれます(38節)。

Ⅱ.主の祈り「第五の祈願」が求めていること
 そのため私たちは、「自分自身と他の人々のために、〔第一に〕神がその無償の恵みから、信仰によって認識され、適用されるキリストの従順と償いをとおして、わたしたちを罪責と罪に対する罰との両方から解き放ち、〔第二に〕わたしたちをその愛する御子において受け入れ、わたしたちに対するその愛顧と恵みを継続し、〔第三に〕わたしたちの日ごとの失敗を赦し、また〔第四に〕わたしたちに日ごとにますます赦しの確信を与えて、わたしたちを平安と喜びで満たしてくだるように、と祈ります」(ウェストミンスター大教理問194「主の祈り」第五の祈願)。
 私たちは自らの罪が赦され、救われている確信が強くなければ、他人の罪・過ちを赦すことはできません。だからこそ、他人の罪を赦すことができることを確認することにより、自らの罪の赦しを確信することが許され、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈ることができるのです。

Ⅲ.教会における裁判
 しかし現実には、教会において、違反を認定して、裁判を行う規定が定められています。教会は、「人を裁くな」と語られているからと言って、どのような犯罪が発生しても誰も裁かない無法地帯になってはなりません。主の御前に秩序が整えられなければなりません。
 そのため改革派教会では「訓練規定」を定めています。第10条(違反)「裁判手続きの固有の対象となる違反は、キリストに対する信仰を告白した教会員が信仰または生活において神の言葉に違反することである」。つまり、罪を定め、告白する場合、十戒のどの規定、あるいは教会規定のどの規定に違反しているかを、確認した上で、罪が認められた場合、戒規として「訓戒」、「停止(陪餐・職務)」、「除名」、「免職」が行われます。
 しかし、教会において罪が明らかになる時、それは「裁き」、「懲罰」として行うのではなく、「訓練」として「教会の会員を教え、導き、教会の純潔と霊的豊かさとを増進するため」に行わなければなりません(訓練規定第1条)。教会の純潔と霊的豊かさとを増進させる前に、会員を教え導くことが大切です。そのために、罪の内容を確認すると同時に、原因を確認しなければなりません。、原因を探ることにより、より深刻な罪が明らかになることがあります。それを見落とした上で戒規を行えば懲罰になります。罪の内容と原因を確認した上で、罪を自覚させ、罪の悔改めへとつながらなければなりません。悔改めが行わなければ、訓練ではなく懲罰になってしまいます。
 そのため、教会(小会)が違反を取扱う時、非常に慎重でなければなりません。懲罰ではなく、諭し悔い改めに導いた上で、信仰を新たにする訓練としなければなりません。
 また、教会員が罪を犯し、教会において違反と認められる場合も、戒規が執行されたならば、隣人を愛し、罪の赦しを求める主の教えに従って、罪を赦し、和解することが求められます。いつまでも、「違反」の事実が語られる時、罪の赦しや和解はないからです。
  
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「目の中の丸太に気づきなさい」  ルカ6:39~42  2021.3.7
 
 序.
 主イエスは「罪人を赦す」ように求められますが、私たち自身がキリストの十字架の贖いによらなければ、罪が赦され、永遠の生命を得ませんでした。そうすることにより、隣人の罪も赦すことができます。「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからです」(38)。

Ⅰ.自らの罪を見つめよ!
 その上で、「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」という主イエスは語られます。私たちは今、自分の目の中の丸太を取り除くことが求められています。他人を見る前に、自らが主の御前に立ち、自らの姿を明らかにしなければなりません。私たちは、自らの罪の重大さを自覚し、自らの罪を悔い改めることが求められています(参照:ウェストミンスター信仰告白15:2)。

Ⅱ.長老主義における会議
 キリスト教会では主に3つの教会政治体系があります。監督主義(カトリック、聖公会等:一人の代表者が最終的な決定権がある)、会衆主義(福音派等:会員全員で決議する)、そして長老主義(改革派教会:代表者としての長老による会議により決議する)です。聖書には「監督主義も会衆主義もダメで、長老主義にしなさい」とは記されていません。しかし、すべての人が、主の御前に自らの罪の悔い改めが迫られる罪人であることを受け入れることが求められています。この時、監督主義政治の場合、代表者に罪が混入した時、教会全体がサタンの巣となってしまいます。宗教改革直前の教会は、まさに人の救いをお金で売買する免罪符を販売し、サタン化していました。また改革派教会では、会衆主義のように会員全員による教会運営も求めません。教会員の中には、信仰を持って間もない人もおり、会員全員に責任を負わせることをしません。特に、いわゆる「鍵の権能」と呼ばれる会員の洗礼や戒規、役員のための試問は、非常に重要な働きです。そのため改革派教会では、主がその働きに召し出した牧師・長老の会議により、決議を行います。
 しかし牧師や長老といえども罪赦された罪人です。常に罪・誤りが混入することを恐れつつ、主の御前に遜りと主の御言葉に聞き従うことが求められます。そのため小会は、牧師は1名に対して、長老は2名以上を必要とします。それは、牧師の発言力がどうしても大きくなるためです。牧師の力が大きくなると独裁者となります。しかし会議が正常に機能していれば、牧師が独断に決断しても、長老たちにより否決でき、独裁の道が断たれます。ただし牧師の力が大きくなると、牧師の意向に従う忖度が入ってきます。この時、牧師が独裁者となり、キリストの教会ではなく、「牧師の教会」に成り下がります。改革派教会の中には、残念ながらこうした教会もあったと言わざるを得ません。長老主義が健全に機能するためには、牧師の養成と共に、長老の養成が非常に重要です。現在の改革派教会は、このことがまだ未熟であることを受け入れ、謙遜になることが求められています。

Ⅲ.少数者の意見に耳を傾ける教会
 小会は牧師・長老で構成しますが、大宮教会では、会員に関わる決議以外は執事を交え合同協議会として会議をします。それは、なるべく多くの人たちの意見をくみ上げ、教会全体の一致を図りたいからです。この時、牧師・長老で話し合っていれば、考えが及ばない意見・知恵が出ます。また、普段から会員一人ひとりの意見・不満や提言を聞いておくことも大切です。もちろん、会員の意見をすべて受け入れることはできませんが、こうした一つひとつの意見を吸い上げることにより、小会で話し合っている大宮教会の進むべき方向性と合致するならば、採り入れていくことができます。大切なことは、牧師・長老も自分の殻に閉じこもることなく、心を開いて会員の言葉に耳を傾けることです。これが自分が盲人として誤った道から正され、丸太を取り除くことです。
 改革派教会は、小会(大宮教会)と共に、中会(東部中会)、大会の会議を大切にします。コロナ禍にあり、会議を行っても時間を短くするため、意見をくみ上げることが疎かになり、提案・願書を決議するための会議となり、霊性が低下しています。これは本来あるべき教会の姿からは離れています。中大会では書記団が、自らの弱さと足りない点があることを受け入れ、教会員や議員の意見に耳を傾け、採り入れていくことが求められています。
 私たちは今、自らの信仰を顧み、主の御前には「盲人・罪人」であり、悔い改めが求められています。そして、キリストの十字架の贖いにより罪が赦されたことを受け入れ、謙遜にさせられ、誰に対しても遜りをもって接し、一人ひとりの声に耳を傾け、互いに寄り添い、一つになることにより、教会は前進して行くことが求められています。
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「良い木を結ぶよ意味」  ルカ6:43~45  2021.4.11
 
 
Ⅰ.平地の説教・聖書全体のテーマ
 私たちが聖書を読む時、そこだけを読んでいると解釈を誤ることがあります。そのため、当該箇所の1章分、さらに書簡全体、聖書全体をイメージして読むことも大切です。聖書全体のテーマ「神による罪人の救い、恵みの契約」を忘れてはなりません。今日のテキストも、6:17~49に記されている平地の説教の一部であることを忘れてはなりません(参考:山上の説教 マタイ5~7章)。「敵を愛しなさい」と語られ(27-36)、「人を裁くな」と標題が付けられています(37-42)。「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(38)、「自分の目から丸太を取り除け」(42)と語られています。つまり私たちは周囲の人たちを見て、粗を探して裁きます。しかし私たちが求められていることは、自分自身を主の御前に省みることです。義・聖・真実なる主の御前に私たちが立つ時、私たちの行い・言葉・心がすべて明らかにされ、罪が指し示されます。罪の刑罰は、肉の死と滅びです。
 この滅び行く私たちを救ってくださるのが、主イエス・キリストの十字架の御業です。キリストが死に打ち勝ち甦ってくださったからこそ、私たちが肉の死の時を迎えても、最後の審判において復活の体が与えられ、神の御国における永遠の生命が約束されています。

Ⅱ.神中心に聖書を読むこと
 主イエスは「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」と語ります。ここだけを読むと理解を誤ります。つまり、「自分はクリスチャンだから良い木であり、自分には良い実が実るのだ」と自己肯定し、他者の言動において、良い実を結ぶ言葉と悪い実を結ぶ言葉とに区別し裁きます。こうした解釈は、主イエスが今まで語られてきたことを否定することとなります。
 「人間」を主語に考えるのではなく、私たちは罪人・盲人であり、私たちを救ってくださった「主なる神」を主語にして、聖書の御言葉に聞くことが求められます。改革派教会は、常に「人間中心」ではなく「神中心」に聖書を読むことを勧めます。神中心に考えることによって初めて、ここで語られている真理を知ることが許されます。
 45節の御言葉から考えます。主が救いへと導いてくださった人は良い人です。良いものを入れた心の倉は、主がお与えくださった神の御言葉です。つまり、「神によって選ばれたキリスト者は、聖書によって良い言葉を語り」ます。私たちは主の御前には罪人であり、自分から出るもの・言葉には、何も良いものはないことを受け入れることです。他人の罪を指摘する前に、自分の丸太を取り除かなければなりません。そして、主により自分の罪が赦されたことに感謝しつつ、他人の罪を赦すことが求められています。

Ⅲ.罪人が良い実を実らせるには…
 そのため私たちキリスト者が良い木として良い実を結ぶためには、キリストの霊に委ねることが求められています(ウェストミンスター信仰告白16:3)。私たちが善い行いをしようとする時、私たち自身からは何も善い行いはでてきません。そのため、キリストの霊に委ねることから始まります。つまり主なる神は、私たちを救いへと計画し、その計画に従って、私たちを主の御前に集め、御言葉を受け入れ、神を信じる信仰をお与えくださいます。この時神は、私たちを義と認め、キリストの十字架によって罪を赦し、神の子としてくださいます。日々聖化してくださいます。これらがキリストの霊によって与えられます。
 この時「恵みの賜物(外的な恵みの手段)」としての御言葉(聖書と説教)・聖礼典(洗礼と主の晩餐)・祈祷を用います。特に説教が大切です。主がお語りくださる御言葉を理解する時、私たちは自分の内には良いものがありませんが、キリストの霊が良いものを語るように導いてくださいます。私たちがキリスト者として良い実を実らせることができるのは、キリストの霊によって初めて可能で、私たちの行いにが罪や欠けがありますが、なおもキリストにあって、良き実として主が受け入れてくださいます。
 改革派教会は、創立宣言において、「我等は地上に於て、見えざる教会の唯一性が、一つ信仰告白と、一つ教会政治と、一つ善き生活とを具備せる『一つなる見ゆる教会』として具現せらる可きを確信す」と告白しました。つまりウェストミンスター信仰規準、長老主義としての教会政治、そして三つ目に善き生活によって、見える教会としての改革派教会を建てることを宣言しました。これは私たちの熱心ではなく、自らの罪を受け入れる自己否定から始まり、遜り、キリストの御言葉に聞き従うことによって可能です。キリストの霊により、私たちキリスト者が良い実を結ぶことが許されていることに感謝しましょう。
 
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「信仰の土台」  ルカ6:46~49  2021.4.18
 
  
 序.
 主イエスは弟子たちの前で説教を続けて来ました。他人の言動を見て、評価したり裁いたりするのではなく、主の御前に自らが立ち、行い・言葉・心の中にある罪を顧み、罪を悔い改めることの大切さを語ってきました。自らの罪が示されることにより、キリストの十字架の贖いを知り、感謝する信仰が与えられ、隣人の罪をも赦すことができます。罪赦された者として、神の義に倣う者、御言葉に聞き従う生活が与えられます。

Ⅰ.偽キリスト者・もどきクリスチャン
 このように語ってくる時、主なる神によって予定され、召された真のキリスト者と、そうでない者がいることが明らかになってきます。それが主イエスが語られる「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」につながります。つまり、外見上は主を信じ、教会に来ている人の中にも、クリスチャン「もどき」、「まがいもの」、「似て非なる者」がいることを、主イエスはお語りになっています。
 この時、真のキリスト者でない偽キリスト者は、次第にその言動において、その姿を明らかにします。ここで勘違いをしてはならないのですが、真のキリスト者であっても、キリストが語られた御言葉を完全に行うことはできません。不完全・不十分です。時に過ちも行います。「私は真のキリスト者ではないのでは?」と思う方がいるかもしれませんが、そのような必要はありません。私たちは、主により救いへと召されており、聖霊をとおして自らの罪・欠けが示され、日々、悔い改めへと導かれます。このことが大切です。
 しかしクリスチャンもどきの人たちも、礼拝に集い、教会の奉仕も行い、立派なクリスチャンのように行動しようとします。しかしその行いは、主の御前には不十分です。理由は自らの罪が示されていないからです。彼らは、キリストの十字架により罪の赦しが語られても、その理由を真実な意味で理解していません。そのため、礼拝においても、奉仕においても、本質を理解していないため、形を整え、一生懸命行っていることを強調します。

Ⅱ.信仰の土台を揺るがす試練・艱難
 表面上は、真のキリスト者も、クリスチャンもどきの人も、違いがないように見えます。しかし、その本質が異なります(48-49)。真のクリスチャンか否かは、洪水が発生した時、つまり試練・艱難に陥った時、明らかになります。クリスチャンもどきの人は、真の救いの意味を理解していないため、形を整えようとします。しかし、実際に艱難に陥った時、表面的に信じていた神に裏切られた思いになり、教会から離れていくこととなります。信仰、信念がないため、他の何かを求めることとなります。

Ⅲ.キリスト者の試練
 しかし真のキリスト者は、実際に試練が襲っても、逃げたりすることはありません。Ⅰコリント10:13「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。
 もちろん苦しみ、悩み、嘆きます(参照:ヨブ記)。しかし耐えることができるのは、主なる神が救いへと予定してくださり、主が常に共に歩んでいてくださっているからです。つまり試練に遭う時、主なる神という土台の上に立っているからこそ、風雨にさらされ苦しみますが、なおも信仰を捨てることにはならないのです(参照:ローマ5:3-5、Ⅰペトロ1:7)。
 主によって信仰が与えられた者は、御言葉(聖書、説教)により、自らの罪・弱さが示されると共に、主なる神を知り、信じ、そして主の御言葉の養いに生きる者とされます(参照:ウェストミンスター小教理問89)。

Ⅳ.主が備えてくださる信仰の土台
 私たちが今教会に集められ、御言葉に聞く者とされているのは、主による救いが示されている証拠であり、キリスト者として証しの生活を行う第一歩です。
 自分は救われるように、一生懸命、神という岩の上の土台に登るように努力することではありません。すべてを主なる神に明け渡し、主がお語りくださる御言葉に傾聴することです。信仰と愛をもって受け入れ、心に蓄えることです(参照:同問90)。この時、救いの感謝・喜びが、生活に表れ、御言葉を実践する者、御言葉を証しする者とさせられていきます。主なる神が、主なる神を礼拝する私たちに岩の土台を備えてくださいます。
 そして、私たちは、周囲の人たちを見渡し、あの人は救われているのだろうかと疑うことがあってはなりません。私たちが神の立場で裁判官になってはなりません。主なる神は私たちが主を信じ、また隣人を愛して、赦し合う者であることを求めておられます。
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「ひと言おっしゃってください」  ルカ7:1~10  2021.5.2
 
   
序.
 私たちが主なる神を信じようとする時、私たちが、主なる神がどのような神として信じているのかが問われます。つまり、聖書が主なる神のことを語ってはいても、私たちが理解することなく、自分の思いを実現させてくれる神を求めることもあるからです。

Ⅰ.百人隊長の生き方
 今日の御言葉に百人隊長が出てきます。百人隊長は、ローマ皇帝に仕え、総督あるいは千人隊長の命令に従って、部隊を動かさなければなりません。ユダヤはローマの属国であり、ローマに対して不快に思っている住民が多くいました。ローマの税を集める徴税人が、人々から嫌われていたことからも明かです。住民の反発を招き、暴動になれば、命がけになります。そのため、百人隊長の下にいる者は、百人隊長の命令に対して、絶対服従が求められます。部隊が乱れることにより、部隊全体の生命に関わることだからです。
 ここに出てくる百人隊長は、他の誰よりも周囲の人々を思いやっていました。兵隊は、常に死を覚悟しなければなりません。そのため百人隊長は、一人の生命以上に、部隊全体の統制を考えます。そうした中彼は、一人の兵士にも目を向け、その苦しみが取り除かれることを願っています。またローマ兵は、ユダヤを支配しています。そのため、対立が生じやすい環境の中にあります。そうした中、彼は、ユダヤ人の長老を使いにできるほどの信頼関係を結んでいました(4-5)。
 つまり、この百人隊長にとって、上司・部下、あるいは支配する者・される者の関係は、権力・力による支配ではなく、共に生きて行く者としての関係を築いています。この時、上司・部下、支配する・されるの上下関係は、力や権力によることなく、共生していくための秩序を保つために必要なものです。抑圧ではなく、信頼関係を築きます。力や権威によって上から語られる時、部下も支配されている者も、求められている理由が理解できず、そこで反感が生じます。しかし部下と支配されている者を愛し、彼らの益となることを覚えつつ、必要に応じて命令を行うには、納得のいく理由が求められ、理解されることにより、部下とも支配されている者とも信頼関係が生じ、命令に従うことができます。

Ⅱ.主なる神を知り、実行するとは…
 こうした関係は、信仰、つまり主なる神との間においても見られることです(6-8)。この百人隊長は、主なる神の僕として、主なる神を信じています。主なる神が、自然を超える力を持っておられ、主が言葉を発せられることにより命すらも聞き従うことを信じています。彼は主なる神の支配、力を信じています。そして彼は、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と語り(6-7)、主なる神の栄光を受け入れ、主の御前にある自らの姿を知っています。つまり、主の御前にある自分は罪人であり、主の御前に立つにふさわしくないことを知っています。また彼は、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、……」(7-8)と語り、自分自身がローマ皇帝の名によって命令されたことに聞き従う者として、主なる神が発せられた言葉は、たとえ離れていても実現することを信じています。
 私たちは、自分の考えで神を規定してはなりません。主なる神が御言葉である聖書をとおして、私たちにご自身を示しておられます。この神を私たちが知り、信じることが求められています(参照:ウェストミンスター信仰告白2:1-2)。

Ⅲ.主の僕として生きるキリスト者
 そして、こうした百人隊長の神観に関して、主イエスは感心し、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(9)とお語りになります。百人隊長は、自らがキリストの僕であることをはっきりと知り、また僕として主なる神の御前にひれ伏し、主を尊びます。この関係性を、私たちは理解しなければなりません。
 「僕」とは「奴隷」です。キリストの僕として生きようとしている百人隊長は、キリストの主権、キリストの愛を知り、その恵みに生きています。そのためキリストの命令に聞き従います。私たちがキリスト者として生きようとする時、キリストの僕として、キリストの御言葉に聞かなければなりません。主の御前に遜り礼拝すること、主の命令(十戒)に聞き従うことが求められます。そして、主が愛してくださった他の僕である隣人を愛し、隣人と共に歩むこと、敵対しているのであれば和解し、赦し合うことが求められています。
 
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「憐れに思うイエス」  ルカ7:11~17  2021.5.9
 
    
Ⅰ.はらわたからの激しい感情
 主イエスと弟子たちは葬儀の列に遭遇します。喪主は一人息子を失ったやもめです(12)。息子の年齢は分かりませんが、これから楽しみだったのではないでしょうか。現在のように、社会保障はなく、息子の死は彼女のこれからの生活で保障がなくなることを意味しています。女性が働き収入を得ることは並大抵のことではありません。
 主イエスはこの母親を見て憐れに思われます。「同情を寄せられた」(口語訳)、「かわいそうに思い」(新改訳)と訳されています。しかしギリシャ語で「憐れむ」は「はらわた・内蔵」と言う言葉から派生した言葉です。感情の宿る場所としてのはらわたです。日本語でも「はらわたが煮えくり返る」という言葉がありますが、最上級の激しい感情の表れです。つまり主イエスは、はらわたが煮えくり返るような思いで彼女の悲しみを共有されました。

Ⅱ.やもめを憐れむ主イエス
 主イエスの憐れみは、死を遂げた息子に対してではなく、地上に一人残されたやもめに向けられています。死者に対して同情したり敬ったりすることはありません。なぜならば、肉の死により、その人の魂は神の内にあるからです。神の救いに入れられる者の魂はすでに天国にあります。そうでない人たちは、主の裁きが待っていますが、地上に生きる者が変更を求めることは出来ません(参照:金持ちとラザロ・ルカ16章)。そのため私たちは、死者の救いのために祈りを献げることを行いません。
 葬儀は、①一人の生涯を導いてくださった神に感謝し礼拝を献げること、②遺族に対する主に在る慰めと励ましが向けられること、③遺体の丁重な葬ること、④聖徒の交わりと体の復活・永遠の生命を信じる信仰の確認が行われることです。
 つまり主イエスの愛に満ちた激しい慰めの思いは、一人息子を失ったやもめに対して、そして彼女がこれからの生活における苦しみが待ち受けていることに対して向けられています。日本人の宗教観は、自分で神を求める、救いを求める、精進するといった思いがあるかと思います。「苦しい時の神頼み」も、通常は自分の力で生きており、苦しい時だけ、神の助けを借りたいとの思いが表れた表現です。そして願いが適えられた、適えられなかったと、自分の判断で神に優劣の判定をします。
 しかし、そうではなく、私たちの側から神を求めるのではなく、神が愛をもって私たちに働きかけ、私たちを救いに導いてくださいます。私たちの救いは、神が私たちに働きかけるものです。神の愛は、日々の生活の中にあって、苦しみ、悲しみ、悩み、嘆く、こうした思いを抱きつつ生きている私たちに向けられています。主なる神は、このように、私たちに対して激しい感情によって、私たちを憐れみ、救うことをお示しくださっています。それを感謝を持って受け入れるか、拒否するかのが、私たちに問われています。
 主なる神が私たちを憐れもうと思われる激しい感情が、私たちを神の御前に近づけ、私たちに対して、神を受け入れ信じるように働きかけてくださいます。その上で、神の愛を拒否することは人間の側の責任です。自分勝手に、苦しい時のみ神を求めている者が、「裁きに遭うのは、神が選んでくださらなかったからだ」と嘆くのは、筋違いです。

Ⅲ.永遠の生命につながる主の憐れみ
 そして主イエスは、やもめの一番必要なこと、つまり悲しみを取り去り、生活を再建するために一人息子を戻してくださいます。やもめにとっては、願ってもいなかったことが適えられます。主なる神は、具体的な形でやもめの悲しみを取り除いてくださいます。
 主なる神は、このやもめの如くに、私たちの心の内まですべてご存じですから、言葉にならないこともご存じです。しかし主は私たちに祈るように求めておられます。そのため私たちは、具体的なことを祈ることが求められているのではないでしょうか(参照:マタイ7:7)。
 キリストの憐れみは、肉の死を迎えたやもめの息子にも向けられ、彼に復活の体が与えられます。私たちが肉の死と滅びから逃れることができるように、キリストは十字架の御業を成し遂げてくださいました。その結果、私たちに永遠の嗣業、つまり罪の赦しと天国における永遠の生命と祝福が与えられました(参照:ウェストミンスター信仰告白8:5)。
 私たちは、周りを見渡し、状況を判断してしまいます。そして現実を受け入れてしまいます。しかし、主はあなたを見ておられます。主がこのやもめを憐れまれたように、はらわたが煮えくり返るような思いで、あなたの悲しみ・苦しみを受け止めてくださっています。それは私たちの最大の恐怖である「死」さえ取り除くことが出来る御力を持って、私たちに働きかけてくださり、私たちに天国における永遠の生命をお与えくださいます。
 
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 「イエスにつまづかない人」  ルカ7:18~23  2021.5.16
 
    
 Ⅰ.洗礼者ヨハネ
 18節では、突如、洗礼者ヨハネのことが記されます。洗礼者ヨハネは、誕生の時、父となるザカリアに対して、主なる神は天使をとおして、主イエスの道備えをする預言者として来られることが語られていました(ルカ1:15~17)。
 主イエスが宣教活動を始めるにあたり、ヨハネは「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語り(3:16-17)、その後ヘロデに逮捕され、牢に閉じ込められました(3:18-20)。
 ヨハネは自らの弟子を主イエスの所に送り、主イエスの御業について報告を受けました。この時ヨハネは弟子に、改めて主イエスの所に行き、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(19)と確認することを命じます。ヨハネは、自分の弟子たちが救い主を受け入れ、信じることを求めての言葉です。これがヨハネにとって、救い主を指し示す預言者としての最後の働きです。

Ⅱ.神の御業と人間の心
 ヨハネの弟子たちは、主イエスの御業を改めて目の当たりにします。病人を癒やし、死者を生き返らせることは、通常の人間ではできません。そのため、イエスがこれらの業を行っているのであれば、信じることができるかと思います。
 しかし現実には、目の前で奇跡が行われたとしても、人はそれを疑い、信じることはできません。罪故の頑なさです。その代表的な例が、エジプト王ファラオです。エジプトで奴隷とされていたイスラエルに、主なる神はモーセをつかわせ、モーセをとおして奇跡を行われました。主なる神はファラオとエジプトを前にして10の奇跡を行われます。当初はエジプトの魔術師も秘術を用いて同じことを行うことができました。しかし次第に、魔術師たちもできない奇跡が行われ、彼らは主なる神の御力を受け入れざるを得ませんでした。人間にはできない力が示され、受け入れざるを得なくなった時でも、ファラオは受け入れることをせず、モーセの要求を拒否し続けました。これが人間の持っている罪です。
 主イエスが癒しや奇跡を行っている時も、人々は頑なでした。主イエスの御業を見、福音を聞くため、人々は主イエスの前に集まりました。しかし彼らは、イエスを約束のメシアとして受け入れ、信じることはできませんでした。彼らは興味本位に集まっていました。それは、主イエスと共に歩んでいた弟子たちも同じです。主イエスは繰り返し、逮捕され、十字架に架かり、復活することを予告されていましたが、12人の使徒たちが皆、それを信じることができませんでした。そのため彼らは、主イエスが逮捕されると同時に恐れて、主イエスから離れて行きました。トマスは、他の弟子たちが復活の主イエスと出会ったことを証言しても、彼は信じることができませんでした(ヨハネ20:25)。

Ⅲ.信仰の礎としてのイエス・キリスト
 救い主イエス・キリストは、「つまづきの石」です(ローマ9:30-32、Ⅰペトロ2:6-8、イザヤ28:16)。「この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』のであり、また、『つまずきの石、妨げの岩』なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです」(Ⅰペトロ2:6-8)。ここに答えがあります。つまり主イエスの語る福音・奇跡の御業であって、聖霊の働きがなければ、信じることはできません。聖霊の働きをとおして、人は初めてイエス・キリストを救い主と信じ、福音を受け入れ、御業を信じることができるのです。「〔第二に〕信じて従うように、かれの霊によってかれらを有効に説得し、…かれらのすべての敵を征服されるのである」(ウェストミンスター信仰告白8:8)。主の御業がなければ、私たちは主を信じることなどできないのです。
 イザヤ書28:16-18では、主を信じる者に対して、次のように語ります。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石 堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ」。
「信ずる者は慌てることはない。わたしは正義を測り縄とし 恵みの業を分銅とする。
 雹は欺きという避け所を滅ぼし 水は隠れがを押し流す。
 お前たちが死と結んだ契約は取り消され 陰府と定めた協定は実行されない。
 洪水がみなぎり、溢れるとき お前たちは、それに踏みにじられる。」
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「預言者以上の神」  ルカ7:24~30  2021.5.23
 
     
 序.
 主イエスは、弟子たちならびに主イエスを追い求めて集まっている人たちに対して、洗礼者ヨハネは何を語り、彼が指し示した人物は何者であるかを語ることにより、ご自身を提示されようとしています。ここには、かつて洗礼者ヨハネの所に行き、ヨハネの話しを聞いた人々もいました。

Ⅰ.預言者ヨハネの所に集まった人々
 主イエスは、「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」(24)と問います。主イエスは最初に「風にそよぐ葦か」と答えられます。洗礼者ヨハネを追い求めているその人自身が、常に流行を追い求めている状況をもの語っています。彼らは、ヨハネが語る言葉の意味を考えたり、信じることはありません。流行が過ぎ去れば次の流行に流されていきます。
 続けて主イエスは、「しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる」とお語りになります。金持ちへのあこがれ、権力へのあこがれです。主イエスは、金持ちや権力を求める人が来るところではないとお語りになります。
 彼らは、救いを求めることはなく、流行がさればヨハネや主イエスから離れていきます。主イエスに従ってきていた人たちが、主イエスが逮捕された時、ユダヤ人の指導者たちを指示し、イエスを十字架に架けることに賛成してピラトに訴えたことからも分かります。
これが群集心理です。群集心理は、波のように流れていきます。彼らは自分で考え、答えを導き出すことをしません。自分の言動に責任を持ちません。

Ⅱ.預言者以上の預言者ヨハネ
 しかし主イエスは、ヨハネがどのような人かを、目の前にいる人々に確認されます。「ヨハネは預言者である」と。預言者は、主なる神から言葉を与り、人びとに神の言葉・福音を語り、悔い改めを求めます。その意味ではヨハネは旧約に属します。
 さらに主イエスは、「ヨハネが預言者以上の者である」、「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」とお語りになります。旧約の偉大な指導者(アブラハム、モーセ、ダビデ、ソロモン、エリア、イザヤ、エレミヤ……)よりも、ヨハネの方が偉大であると主イエスはお語りになります。なぜならば旧約の時代の預言者は、メシアの約束は語りましたが、具体的には語ることができず朧気でした。しかし洗礼者ヨハネは、救い主であるイエス・キリストが来られるにあたり、人々がはっきりと救い主を確認し、信じることができるように、道備えをする働きが与えられました(27節、参照:マラキ3:1)。このことが、ヨハネが預言者以上の者である由縁です。
 つまり、預言者としてのヨハネの言葉に耳を傾けなければならないこと、主イエスは私たちに対して語りかけています。ヨハネは、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる」(ルカ3:16)と語ります。この方こそが約束のメシアです。

Ⅲ.救い主イエス・キリストを信じよ!
 人間としては誰よりも偉大であるヨハネにして、主イエスは「神の国で最も小さな者よりも小さい」と言われます。そのことにより、彼らの目の前にいる方こそが、神の国に属する救い主であることを指し示しています(参照:ウェストミンスター信仰告白8:3)。
 主イエス・キリストこそが、私たちの罪を取り除く救い主として、父なる神からつかわされた仲介者(仲保者)であり、主イエスにこそ、神の権威が与えられています。だからこそ、私たちは「預言者以上の者」と語られた洗礼者ヨハネによって指し示された救い主イエス・キリストを信じることが求められています。
 最後に29・30節を確認します。新共同訳聖書は、主イエスの言葉が28節で終わり、次に31節から再開します。そして29・30節は、福音書記者ルカが記した言葉として解釈します。しかしこれでは私たちは理解することはできません。他の訳では、この部分はすべて主イエスの言葉の中に入れています。
 つまり、洗礼者ヨハネは旧約聖書において預言されてきたメシアこそが、イエス・キリストであることを指し示しました。そのことを認めることにより、イエス・キリストこそが、旧約聖書から新約聖書をとおして一貫して貫かれている救い主であることを受け入れ、信じることができます。
 しかし、ヨハネを拒絶することは、ヨハネを拒否するばかりか、ヨハネの指し示すメシアとしてのイエス・キリストを拒絶することであると、主イエスはお語りになっています。

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「知恵の正しさ」  ルカ7:31~35  2021.6.6
 
      
序.
 今の時代、キリスト教会に人が来ません。福音宣教・伝道方法を考えることが求められますが、私たちが真に考えなければならないのは、福音の本質が人々に伝えられているか、私たちキリスト者が福音の本質に生きているのかということです。

Ⅰ.二つの福音? 洗礼者ヨハネと主イエス
 主イエスが宣教を行うに際して、洗礼者ヨハネが現れました。ヨハネは、荒野において生活し、厳格な生活を送っていました。その上で人びとに対して、自らの生活を顧みて、罪の悔い改めを求めました。ヨハネによって福音が語られた時、人びとはヨハネをとおして主による救いを受け入れ、罪を悔い改め、ヨハネより洗礼を受けました。そして彼らは、ヨハネの行っている荒野における生活、厳粛さをも受け入れました。コロナ禍にある今、私たちは、改めて放縦な生活を行っていないか問われており、主の御前に遜りをもって、主が科学を用いてお語りくださる知恵に聴き従うことが求められています。
 しかし、ファリサイ人・律法学者たちは、『あれは悪霊に取りつかれている』とたしなめ(33)、自分に対する神の御心を拒みました(30)。主イエスがここで語ろうとされていることは、ユダヤ人たちは洗礼者ヨハネによって語れらた福音を拒絶したことであり、同時に、返す刀で、主イエスが語られている福音をも拒絶していることです。
 主イエスは、安息日においても麦の穂を摘んで、手でもんで食べた弟子たちを認められました(ルカ6:1~5)。手も洗わずに食事をしていた弟子たちを咎められませんでした(マタイ15:1~20)。またカナの婚礼においても、良いワインを最後に出され人々と共に酒を飲み、楽しまれました(ヨハネ2:1~11)。徴税人ザアカイと出会い、彼の罪を赦すと共に、彼らと食事を共にして一泊の宿を共にされました(ルカ19:1~10)。ファリサイ人や律法学者たちにとっては、これらすべてが律法違反であり、許すことの出来ない行為でした(34)。
 つまりヨハネの行ったことは、律法を無視し・自己中心に生きている者たちの罪を指摘し、罪の悔い改めを迫り、福音に従った生活を求めました。一方主イエスは律法が絶対的になり、律法違反として人々を裁く律法主義に対して、その誤りを指摘され、作られた規定から自由にされた生き方を示されていたのです。十戒は「ねばならない」戒めを求めているのではなく、救いに感謝し、罪の誘惑から守られるために聴き従う主の愛の言葉です。これがキリスト者として、窮屈な生活ではなく、感謝と喜びの生活へと結びつくのです。

Ⅱ.福音に生きる者、福音を聞かない者
 ヨハネの語る悔い改めの生活と、主イエスが語られる福音に生きる生活とは、両極端の持っている罪を指摘し、その両方から解放され、救いに生きることでは一致しています。主イエスが、律法主義を否定され、ヨハネが律法廃棄論を否定しています。これが改革派教会の創立宣言が語る「一つ善き生活とは何ぞ。我等は律法主義者に非らず、又律法排棄論者に非らず」という告白に表れています。
 ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、ヨハネの語る悔い改めに対しても、主イエスの語られる福音に対しても、耳を傾けようとはせず、主の御心を拒みました(32)。

Ⅲ.主の御言葉に聞く生活
 そのため主イエスは彼らを咎めています。彼らがヨハネの言葉・主イエスの言葉に耳を傾けないのは、ファリサイと呼ばれる如く、彼らは自分たちは律法を守って救われており、律法を守ることが出来ない人々は罪人であると決めつけた上で、善人と罪人を分けていたからです。彼らは自分の罪を決して認めようとはしません。そのため、他人が語る言葉に耳を傾けることができません。そして人を裁きます。上から目線、傲慢そのものです。
 私たち人間は「自分が正しい」と思う時、他人の言葉を聞くことができません。いくら素晴らしい言葉が語られたとしても上の空であり、自らの考えを変えることはしません。私たちは主イエスが語るおが屑と丸太の譬えを思い出さなければなりません(マタイ7:3-5)。
 ここにあるのは石の心(頑固)・滅び行く姿です。私たちは自らの罪・弱さを顧み、悔い改めることが求められています。そして遜り・謙遜・他人の話しに耳を傾けることが求められます。そのために聖霊の働きに委ねることが求められます(エゼキエル36:26)。主の聖霊が働くことにより、私たちは初めて主の御言葉に聴くことができます。
 キリストの十字架は、私たちの石の心によって主の御前に罪を犯したことに対する罪の刑罰です。そしてキリストは、御言葉により、私たちに生きる知恵をお与えくださいます。
 
 
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「愛の広さ」  ルカ7:36~50  2021.6.13
 
       
序.
 今日の御言葉に一人のファリサイ人シモンが登場します。彼は、主イエスと一緒に食事をしたいと願い、主イエスを自宅に招きます。そして主イエスのことを「預言者か」と思っており(39)、主イエスのことを「先生」と呼びかけます(40)。つまりシモンは、主イエスに対して興味を持っていて、関心を寄せていたと言ってよいかと思います。

Ⅰ.イエスを知ろうとするファリサイ人
 しかしシモンはファリサイ人であり、主イエスに対して疑いの心も持っていました(参照:5:21、5:30、6:2、6:7)。そのためシモンは、主イエスを家に招き、じっくりと観察します。
 観察し知ろうとすることは大切です。日本人に多いのですが、一度「ダメな人間だ」と思うと、その人を全否定し、思考停止に陥ることがあります。しかしこの時点で、その人自身のこと、あるいはその考えのことは表面的にしか理解していないことがあります。そのため誤った理解もすることがあるかと思います。つまり、良い意味でも悪い意味でも関心を示し、知ろうとすることは大切なことであり、知った上で判断をくだすことが求められます。噂など表面的なことだけで人を判断して、裁いたりしてはなりません。
 このことは、主なる神についても同じことが言えます。つまり私たちが、真の救いを求めようとするならば、主なる神がどのようなお方であるかを知らなければ、神を信じる、信じないの正しい判断をくだすことはできません。そして神を知ろうとする時、同時に神の御前に立つ自分自身を知ることが求められます。カルヴァンもキリスト教綱要において「神を認識することと、我々自身を認識すること」の両方が必要であると語ります。

Ⅱ.状況判断での決めつけ
 主イエスが招かれたシモンの家に、一人の罪深い女が紛れ込んでいました。シモンを初めとして町の人々は、彼女がどのような罪を犯した女であるかを、知っていました。この時シモンは、主イエスが彼女を自分の友人のごとく受け入れていることに、心の中で思います(39)。そして主イエスを「この人は、罪人とつきあう罪人に等しい者だ」と決めつけます。シモンは、主イエスが罪深い女と接している情報だけで、判断しました。
 主イエスはシモンの心の中をご存じです。全知全能である主の御前に、私たちは何一つ隠すことはできません。そして主イエスは私たちのすべてをご存じです。そのためシモンがこの状況を見て、決めつけたことに対して、その過ちを指摘されます。

Ⅲ.主イエスによる罪の赦し
 ここで主イエスは、一つのたとえ話、つまり金を借りた人が借金を帳消しにされた時の話しを行います。500デナリオンと50デナリオンの借金、1デナリオンは一日の賃金ですから、1デナリオンが1万円とすれば500万円の借金と50万円の借金です。借金が帳消しにされた時、より大きな喜びに包まれるのは、500万円の借金を帳消しにされた人です。
 つまり主イエスは、「この罪深い女こそ、大きな罪が赦されたのだ」と言われたのです。それは、この女の行いによって明らかになります(37-38)。善き行いは生きた信仰の実りです(参照:ウェストミンスター信仰告白16:2)。つまり、彼女は主イエスと出会うことによって、主イエスを信じ、罪が赦されました。
 ファリサイ人は、正しい人と罪人を分けることから「分離者(ファリサイ)」と呼ばれていました。彼らは、一度罪人と烙印を押せば、いつまでも罪人のママです。そして、「自分たちは初めから救われている者である」との思いがあるため、救いの喜び・感謝も少ないのです。そのため、主イエスを迎える時も、その思いが出ていると主イエスは語ります。

Ⅳ.主イエスを知ることこそ大切である!
 つまり彼女は、自分が罪人であることも受け入れていました。そして主イエスこそが救い主であることも受け入れ、主イエスを信じました。それが彼女の主イエスに対する行いに表れています。主イエスは、ファリサイ人シモンが何のもてなしも行っていないことと対比して、この女の行為を賞賛されます。つまり、大きな罪を犯した女ですが、この罪すらも救ってくださった主イエスの愛に対する感謝の喜びが、この行為に表れています。
 私たちは、主イエスの前に集まり、主イエスが持っておられる私たちを救ってくださる愛を知らなければなりません。そのために、聖書の御言葉に聞かなければなりません。この時、聖書の御言葉から自らの姿も顧み、罪の悔い改めが迫られます。主イエスを信じ、キリスト者として歩んでいても、自分は正しいとの思いで、真の罪の悔い改めを行わなければ、私たちは主イエスに喜ばれるキリスト者となることはありません。初めから答えありき、聞こうとしなければ、信仰も、信仰に伴う善き行いも生じてきません。 
 
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「奉仕する婦人たち」  ルカ8:1~3  2021.6.20
 
        
序.
 主イエスの宣教活動に関して、主イエスの果たされた福音、行われた奇跡・癒やしは聖書に記されていますが、主イエスの生活・経済的な裏付けなどは知ることができません。聖書は神の御言葉であり、私たちが信じて救われるために必要なことのみが記されており、主イエスの生活は、私たちの信仰には必要ないために、聖書は語ることを控えています。

Ⅰ.主イエスと共に歩まれる人々
 主イエスは使徒たちと共に、婦人の弟子たちとも共に行動していました。この時婦人たちも、主イエスと共に行動し、主イエスがお語りになる福音に耳を傾けることが許されていました。主イエスの時代、律法学者たちは女性たちに教えることを拒否していたと伝えられていた男尊女卑の時代です。
 しかし、主イエスにとって、男女の差別はあってはならないのであり、神の国の働きを担うものとしては、男女に区別はないことを、主イエスはここで語ろうとされています。そのため聖書は、主イエスの十字架について、復活についての証言を、彼女たちの証言により語ります。女性を尊重している証拠です。このことは、現在における男女平等を主イエスも願っておられたことを意味しており、教会はこの問題を解決するために2000年の年月を要しました。そして今なお不十分であると言えます。
 ただし現代では、男女平等を語りつつ、性差をなくす動きもあります。しかし私たちは、主なる神が男と女を創造し、性別の違いによって生じる賜物の違いを受け入れつつ、それぞれの賜物が用いられるような社会を形成して行かなければなりません。
 聖書は七つの悪霊を追い出して頂いたマグダラのマリアも同行していたことを記します。悪霊が取りつくことにより社会生活を行うことができませんでした。肉体的・精神的に病的な状態です。誰もが悪霊に取りつかれた人を色眼鏡で見て差別します。彼女の場合7つの悪霊が取りついていました。7つの悪霊とは、数的な七ではなく、悪霊に取りつかれた状態が、それ程ひどかったことを表しているといっても良いかと思います。
 主イエスは、彼女から悪霊を取り除いてくださり、主イエスと同行することをお許しくださいました。つまり、主イエスは彼女の罪を赦し、全面的に受け入れていることを物語っています。主イエスによって与えられる罪の赦しは、どれだけ罪深く・人々から嫌われていたとしても、その人が神を受け入れ信じ、自らの罪を悔い改めることにおいて与えられます。これが福音です。

Ⅱ.生活を世話し、まかなう弟子たち
 聖書は「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」と語ります(3)。この時の彼女たちは、救い主であるイエス・キリストに従ったことから、神への奉仕の側面があります。神による罪の赦し・救いは、他の世界では生きることができなかったけれども、主イエスによって生きることができるようになったことを意味します。神の僕として、すべてを主に献げることができる者とされたのです。
 現在に生きる私たちは生活が豊かになり、救い・罪の赦しの思いが希薄になっています。他に楽しいことが多いからです。現実の楽しみに価値を持ちつつ、神を求める時、どうしても信仰がぼやけてしまいます。主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)とお語りになります。第一のものを第一とする時、私たちは神への奉仕、つまり礼拝を何よりも第一にすることとなります。それだけ私たちは、主イエスの十字架と復活により、罪が赦され、地獄ではなく、天国における永遠の生命が与えられたことの価値を、再確認しなければなりません。
 次に隣人に対する奉仕、ディアコニアについて考えます。救われるために、これだけのものを献げなければならない、奉仕をしなければならない、といったノルマが要求されるようなことは決してありません。ここでは、救いに生きる者が、喜びをもって、主イエス・キリストや他の弟子たちに対して仕え、支え合って奉仕をしています。「させられている」、「いやいや」という奉仕はありません。神のために、教会のために、隣人のために用いられる喜びをもって奉仕し、仕えます(参照:ウェストミンスター信仰告白26:2)。
 与えられている賜物・富を、主なる神・教会・隣人のために献げることは、信仰によって生み出されます。そのため、私たちが教会の成長・形成を考える時、自らの信仰を顧みなければなりません。そうすることにより、教会は前を向いて歩み続けることができます。
 
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「神の国の秘密」  ルカ8:4~15  2021.7.4
 
 
Ⅰ.キリスト教の真理が秘められているたとえ話
 主イエスの所に大勢の群衆が集まってきた時、主イエスはたとえを用いてお話しになります。たとえですので、人々にとって、生活の中で同意を得やすいことばが語られます。しかし、主イエスは弟子たちにたとえ話には隠された意味があることを明らかにされます。それが「秘密・奥義(ミステリー)」です(10)。この言葉は、単に隠されていることが明らかになるのではありません。キリスト教の真理・福音が秘められています。
 神による救いに与ることができるキリスト者が聞けば真理が明かになりますが、しかし神を信じることができない人たちにとっては、福音の真理を理解することはできません。つまり、人々にとっては、単に種蒔きの話しとしてしか、理解できません。
 この時主イエスは、大声で「聞く耳のある者は聞きなさい」(8)と語られます。聞く耳を持つとは、霊的な心により、つまり聖霊の助けを借りて聞くことです。

Ⅱ.聞く耳をもって聞け!
 では現代に生きる私たちが、主イエスのたとえ話により神の国の奥義を理解しようとする時、何が求められているのでしょうか。時代も文化も異なる私たちが主イエスのたとえ話を理解するならば、まず地理的・歴史的・文化的背景を確認することが必要です。当時のイスラエルでは野蒔きが行われていました。現在のように、一つ一つの種を土の中に埋めていくようなことはありません。ですからたとえにあるように、道ばたに落ちたり、石地に落ちたり、あるいは茨も一緒に生えてくるような所にも落ちるのです。こうした時代背景において、主イエスが何を語られようとされているのかに聞かなければなりません。
 奥義の説き証しを聞こうとする時、霊的に、聖霊の助けによって説教を聞くことが求められます。それが聞く耳を持つことです。一生懸命に礼拝で説教を聞き、聖書を読んでいればよいのではありません。主なる神の御前に自らの体を差し出し、聖霊に依り頼みつつ、聖書を読み、説教を聞かなければなりません(参照:ウェストミンスター大教理問160)。この時、主なる神が聖霊によって語りかけ、奥義を理解させてくださいます。

Ⅲ.奥義が解き明かされる福音
 種まきのたとえにおける「種は神の言葉」です(11)。この時、私たちは自分をどの立場において読むのか、吟味しなければなりません。ここを解釈するにあたって、次のように考える人がいます。今の自分は「自分は良い土地にいる」、「自分は茨の中だ」、「自分は道端に落ちた種だ」と自己吟味します。しかし主イエスは、「あなたは奥義が明らかにされ、この種によって実る果実であって、滅びることはない」と語っておられます。
 12 「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」。神の御言葉を聞き、聖書や教会に関心があるように見せかけつつ、内心は救いに興味がなく最後は教会から離れていきます。
 13 「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」。神の御言葉を聞こうとしますが、神による救いの喜びが理解できず、主によって信仰の養いとして与えられる試練に遭うと耐えられず、教会から離れていく人のことです。
 14 「茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」。御言葉を聞き神を信じようとしますが、悪魔、つまり日々の生活における誘惑があり、楽しいために神から離れます。つまり神による救いよりも、世における様々な誘惑の方が楽しく、神から離れる人です。
 彼らに共通していることは、主なる神による救い・神の国を理解していません。信仰は、この世における幸せに過ぎません。そのため彼らは教会から離れていきます。
 主による救い・福音とは、罪が赦され、永遠の滅びから免れ、神の御国における永遠の生命・祝福が与えられることです。「良い土地に落ちる」人はこの「神の国の秘密(奥義)を悟り」、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」です。 100倍の実を結ぶとは、神の国に受け入れられ、天国に行くことのできる喜び・祝福が与えられることです。信仰を告白し洗礼を授かったキリスト者は、主の晩餐に与ることが許されています。主の晩餐に与ることは、すでに神の国の一員であることを確認する作業であり、主によってすでに豊かな実りが与えられていることに感謝することです。
 今私たちには、神の国の奥義が明らかにされ、神による救いが示されています。 
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「光が露わになる」  ルカ8:16~18  2021.7.11
 
  
Ⅰ.暗闇に生きる私たち
 豪雨による土石流による被害がでました。被害に遭われた方々に主の慰めが与えられ、必要が満たされて、生きる希望が与えられるように祈るばかりです。同時に、主の御力の前に私たちは、力がなく、何もできない存在です。主にすべてを委ねなければなりません。
 また、夜になると辺りが真っ暗になることにより、その事実が示されます。現代に生きる私たちは夜の闇を忘れてしまったようです。夜でも光が失われることは皆無です。被災地ですら、スマホがあり、光があります。私たちは闇の中に生きることがありません。
 しかし私たちは主の御前に立つ時、自分の姿を顧みるわけですが、電気を灯すことができたとしても、人類にとって死という闇を解決することはできません。死は、人間の努力・科学技術によって解決できるものではなく、生命を与える主なる神の権威の下に置かれています。 死という闇に向かう私たち人間は、何を求め、何に委ねて生きることが求められているのかを、主イエスのたとえ話から聞かなければなりません。

Ⅱ.「闇」を知り、「光」を求めよ!
 前回、たとえ話とは神の国に生きることを、神の民であるキリスト者にのみ分かる方法で語られ、非キリスト者にはその意味が隠されている奥義であると語りました。つまり、私たちは神の国、つまり救いを求めようとする時、自分が闇の中、救いのために頼りにするものを自分では何も持っていないことに気が付かなければなりません。このことは、生活が満たされている現代に生きる私たちにとって、滅び行く自らに気が付き、主による救いを求めることは非常に難しいことです。
 闇の中に自らが置かれていることに気が付いた時に初めて、御言葉の光が理解できます。創世記1:1~5には天地創造について語られています。最初の人は、言葉によって光をおつくりになられた主なる神との交わりとして、主の栄光を称え、主を礼拝し讃美します。
 しかし彼らは神との約束でありました善悪の知識の実を食べ、罪を犯しました。罪の結果、神との救いの約束は破棄され、彼らから生まれ来るすべての人間は、神との交わりが失われ、死を避けてとおることができなくなりました。それが、死という闇です。
 それでもなお人は、自分のうちに安心・救いを手に入れるため光を求めます。それが自らの手で偶像を作り上げ信じること、文化・科学技術の発達により、「光」を手に入れようとしました。しかし偶像もお金も「光もどき」であり、輝き続ける光ではありません。ですから、私たちが死を乗り越えて生きようとする時、偶像・お金や権力・科学技術の発展に求めるにしても、ゴールである光である不死を手に入れることはできません。

Ⅲ.私たちに与えられた「光」
 私たちの生命を司っておられるのは主なる神です。そのために、主が語られることに聞くことが求められています。主は聖書の御言葉により、私たちに光をお示しくださいます。ヨハネ1:1-5には、死という暗闇の中に生きる私たちに、光として言であるイエス・キリストが与えられました。神の御子が人としてお生まれくださいました。
 神の御子であるイエス・キリストに、生きる光であることが私たちに示されています。そして私たちはここで示された光こそ、命です。命そのものであり、光である主イエスは、本来、父なる神と共に、永遠の生命に生きるお方です。このお方が罪人として数えられ、十字架に苦しみ、死を遂げられました。光が闇の中に取り込まれたようです。しかし主イエスは、死から三日目の朝に甦られ、闇に打ち勝つ光を示されました。イエス・キリストは、光をもって今も天上におられます。イエス・キリストを救い主として信じることで、肉の死において終わりではなく、復活と天国における永遠の生命を仰ぎ見てることができます。この時、私たちは死という闇の中に生きながらも、光の中に生きることができます。

Ⅳ.光を掲げよ!
 私たちが御言葉の光に従って生きる時、光である福音を隠しておくことはできません。これが主イエスが弟子たちに語られる、人に光が見えるように燭台の上に置くことです。これが伝道です。伝道するとは、私たちが光を他人のところに持って行き広めることではなく、与えられた光を誰の目からも見える場所に置くことです。これは私たちがクリスチャンとして生きることです。そうすれば、光である主が、私たちをとおしてご自身を証ししてくださいます。偶像・富・名誉・科学技術といったまがい物の光を追い求めることなく、真の光である御言葉に依り頼み、聞き続けることです。そうすれば光である主なる神ご自身が、周囲を照らしてくださいます。
  
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「神の言葉を聞いて行う人」  ルカ8:19~21  2021.7.18
 
   
序.
 今、家族のあり方は、これまでとは大きく変化しています。教会でも議論すべきことかと思います。

Ⅰ.主イエスの家族とは……
 私たちが普通に家族を考える時、昔ながらの家族のスタイルとして、男性と女性が結婚をして、そこに子どもが生まれ、家族を形成するということかと思います。そして「家系」が大切にされてきました。日本では「イエ」の継承が重視されました。イスラエルでも、自分がイスラエルに属しているというアイデンティティを確認してきました。肉においてイスラエルに連なることが、神の民であることの証拠であり、割礼をしるしとしました。
 さて主イエスは、マリアから生まれた子どもであり、弟や妹たちがいました。マルコ6章より、弟たちの名がヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンであったことがわかります。そして弟ヤコブは、エルサレム教会において中心的に働きを行い、ヤコブの手紙を執筆しました。
 カトリックではマリアの処女性を守るため、彼らは本当はいとこであったと解釈します。養子にしたり、兄弟同然に扱われることが当時はあったからです。プロテスタント教会では、主イエスが生まれた後、マリアとヨセフから生まれた兄弟たちであると解釈します。
 主イエスの家族のことを聖書はほとんど記しません。しかし主イエスは30歳位に宣教に出られるまで、ナザレにおいて母マリアと兄弟たちと共に住み、主イエスが大工として生計を立てていたイスラエルの家庭に生きていました。そして家族にとっては、主イエスが突然家から出て行ったのであり、その事情を聞きたいのは当然ではないでしょうか。

Ⅱ.宣教論的に家族を考える
 しかし今日の御言葉から家族のあり方は議論しません。今日の御言葉からは、神の家族・教会のあり方について、御言葉から考えて行くことが求められています。
 主イエスは家族と会おうとされません。家族との仲が悪かったからではありません。主イエスの宣教の目的を示すため、つまり「真の家族の姿」、言い換えれば「神の国の家族」を私たちにお示しになるためでした。
 ルカ福音書8章では、神の民とされた婦人たちの奉仕する姿(1-3)、種を蒔く人の譬え(4-15)が語られていました。神の召しを受けた者は100倍の実りをもたらし、その実りは「 立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」です(15)。ともし火の譬えにおいて、神の奥義(秘められたもの)は露わになることを語ります(16-18)。これらに共通していることは、キリスト者は、主の御言葉に聞き、奉仕し、証しするということです。一見すると家族とは関係のないことが記されているようですが、主イエスが求めておられる家族とは、父なる神さまを仰ぎ見るイエスを長兄とする神の家族です(21)。
 神の家族とされたキリスト者は、神に倣う生活へと導かれます(参照:ローマ8:29、8:14-17)。つまりキリスト者となり、キリスト教会に属することは、キリストを長子とする神の家族に組み入れられることです。だからキリスト者相互を「兄弟姉妹」と呼び合い、キリスト者相互の間で親しく霊的な深い交わりが与えられます(参照:ウェストミンスター信仰告白26:2)。
 そしてこのことを象徴的に記すのが婦人たちの奉仕する姿です(1-3)。主と兄弟姉妹に仕えることは、利害関係ではありません。互いに理解し合い、弱さ、罪深さを受け入れ、補い合う関係です。時に忍耐が求められます。ここでは「イエ」に縛られることも、個人が他者のことを排除することもない、罪赦された者同士の霊的な交わりが行われます。

Ⅲ.神の御国における家族
 私たちは自分たちの家族があり、教会・天国があると考えます。そうではなく、まず主なる神さまの天地創造があり、神さまが私たち人間をつくり、家族を持つことを良としてくださいました。そしてキリスト者の家族が小さな教会となります(「信徒の手引き」より)。
 日本では、家庭の中でキリスト者が一人だけであることも珍しくありません。そのための苦労や孤独を感じることもあるかと思います。しかしキリスト者が家族に一人いるならば、その家庭にも契約の祝福が及びます。聖書は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と約束します。私たちが家庭でキリスト者として信仰生活を行う時、主が求めておられる家族が形作られていきます。
 私たちは礼拝において聖餐式を行います。聖餐式は天国における主の食卓の前味です。主イエスが求めておられる家族は天国で実現します。教会では、主の晩餐(聖餐)ばかりか、食事会である愛餐において、兄弟姉妹としての豊かな交わりが与えられることが大切です。
 
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「自然を支配される方」  ルカ8:22~25  2021.8.1
 
   
 Ⅰ.自然を超える力
 主イエスは、弟子たちと共に舟に乗っておられました。弟子たちの中、ペトロと兄弟アンデレ、ゼベタイの子ヤコブとヨハネは漁師でした。彼らはプロであり、自分たちだけで向こう岸に渡ることが可能だと思っていました。
 漁師は漁師の常識があり、今までの経験に即して対応することができます。しかし、嵐や突風が押し寄せてきた時、対応することができず、弟子たちはあわてます。
 多くの人たちは、自然を超えて働く力「奇跡」を信じることができません。これはクリスチャンでも起こりうることです。聖書には、主イエスの処女降誕や十字架の死からの復活、そして主イエスの奇跡・癒やしが記されています。クリスチャンでも、奇跡を信じることができない人たちは、奇跡の部分を物語と解釈し、神の言葉と人間の言葉に分断してしまいます。つまり彼らからすると、自分たちの常識の中に主なる神を閉じ込め、それを超えたことを受け入れる余地はありません。

Ⅱ.主なる神
 主なる神が天地万物を創造し、自然の秩序を定められました(創世記1章)。自然の秩序・常識は、主なる神が定めてくださいました。別の言い方をすれば、自然界の中に主なる神がおられるのではなく、主なる神が自然界を造り・治めておられます。
 ウェストミンスター小教理問答 問4 神は、どのようなお方ですか。 答 神は、その存在・知恵・力・聖性・義・慈しみ・まことにおいて、無限・永遠・不変の霊です。有限で、ある一部しか知らない私たち人間が、天地万物を作られ、無限・永遠・不変の神のすべてを知ることはできません。私たちは神を自然・私たちの常識に閉じ込めてはなりません。聖書は多くのことが語られていますが、神の知恵・能力からすれば一部にすぎません(参照:ヨハネw21:25)。聖書はあくまでも、私たちが主なる神を信じるために必要なことが語られており、主なる神のすべてが語られているのではありません。そのため私たちは、主が奇跡を行われる御力を持っていることを受け入れることが求められます(ウェストミンスター信仰告白5:3)。

Ⅲ.私たちの信仰とは……
 イエスは弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われます(25)。主イエスの家族とは、主なる神、そして神の御子イエス・キリストを救い主として信じることです(19-21)。そして、罪が赦され、天国におけるすべての祝福、永遠の生命が与えられます。そして天国に入れられる時、私たちのすべての苦しみも悲しみも取り去られます。
 私たちキリスト者は、天国を見据えて生きることが求められます。御父、御子イエス・キリスト、聖霊なる神の、三位一体の神がお働きになっています。
 弟子たちは、目の前にいる先生である人間イエスが、解決してくださるとの思いで、助けを求めました。しかし、主イエスが寝ておられようが、三位一体なる神は弟子たちと共におられ、今も私たちと共にいて働いておられます。この主なる神は、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を救い出してくださいました。主イエスは病人を癒やし、悪霊を追い出す力を持っておられます。私たちが「神を信じる」と告白する時、このように御力に満ちておられる御父・御子・御霊なる三位一体なる神を信じているのです。私たちは、神の御力を、自然の秩序の中に閉じ込めるのではなく、自然を超えて働かれることを私たちは信じることが求められています。そして主イエスは、弟子たちが主イエスを起こして助けを求めるのではなく、主を信じ、主にすべてを委ねて祈ることを求めておられるのです。 そして主は私たちに対しても、自然の秩序を超えて働く主の御力を信じるように求めておられます(参照:マタイ17:20、同7:7)。
 改革派教会は、創立宣言において「有神論的人生観世界観」に生きることを告白します。インマヌエル(神は我々と共におられる)であり、コーラム・デオ「私たちは神の御前に」生きるのです。だからこそ私たちは、教会に来ている時だけ、礼拝に集っている時だけ、聖書を読み祈っている時だけ、神の御前に出ているのではありません。日常生活の中に、主なる神は共におられます。そして、主なる神は私たちにすべての必要を満たし、祈りを聞き届けてくださいます。だからこそ、私たちはたとえ苦しい時であって、主が共に歩み・問題を解決してくださることを信じて、主に祈りつつ、神の栄光を称え、神を讃美することができます。これが私たちキリスト者の信仰です。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)。
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「神を知っている悪霊」  ルカ8:26~31  2021.8.8
 
    
 序.
 今日の御言葉では、悪霊に取りつかれた男について語られています。今時、悪魔・悪霊を信じている人などいるのだろうか、と思われるかもしれまん。現在、あからさまに悪霊に取りつかれて騒いでいる人がいることは、あまり考えることはできません。しかし、日本においても厄払いなどが行われています。そして現代では、形を変えて、悪霊が人に入り込み、支配していると考えることができるかと思います。

Ⅰ.悪霊に取り憑かれた人
 この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていました(27)。現在であれば、「変人・危ない人」として扱われるかと思います。しかし聖書は、その人に悪霊が取り付いていることを指摘します。
 私たちが「あの人には悪霊が取り憑いている、悪魔的である」と語るのは、控えた方が良いでしょう。たとえ心の中で思ったとしても、口に出してはなりません。ここに悪霊がいることを私たちが証明することなどできませんし、ここに衝突の原因が生じるからです。
 しかし主なる神は、すべてをご存じです。ウェストミンスター信仰告白2:2は告白します。「神の目には万物が明らかで、露わであり、神の知識は無限、無謬で、被造物に依存せず、そのため、神には偶然なものや不確かなものは何もない」。私たち人間は、悪魔的な働きを推測することができたとしても、それが悪魔の働きであることを断定することはできません。悪霊は形を取らない霊であり、目で見ることができないからです。しかし主なる神にとっては、すべてが明かであり、悪魔の働きも、すべて知っておられます。

Ⅱ.主なる神とサタン
 そして悪魔の側も、主なる神を知っています(28)。キリストが再臨して、最後の審判が行われるまでは、サタン(悪魔)、そして罪が世を支配していることを否定することはできません。しかし悪魔が支配し働いている今の時であっても、悪魔の働きは際限なく行われることなく、限定的です。なぜならば、悪魔は主なる神を知っており、また主なる神も悪魔の働きを知って、制限をされているからです。
 私たちはこのことをヨブ記(1~2章)より確認することができます。サタンは主なる神を知っていると同時に、主なる神の許しがなければ、働くことができません。このことを私たちはしっかりと理解しておかなければなりません。そのため悪霊に取り憑かれた男は、「イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい』」と大声を出します(28)。

Ⅲ.サタンをも、私たちの信仰の養いに用いられる主
 現代でも、世界で様々な出来事が起こります。戦争・独裁・犯罪に巻き込まれることもあるでしょう。家庭においても、様々な出来事が発生します。「神はいないのか」、「なぜ」と思われることもあります。神に見捨てられた状態に陥ることもあります。
 しかし聖書は私たちに語りかけます。「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:13)。サタンが働こうとする時、主なる神がそれを許可しなければ、サタンは働くことができません。そのためサタンは際限なく働くことはできません。そして主なる神は、私たちを神の民として天国へと招き入れてくださいますが、サタンの虜になり、滅びの道に落ちることがないように、お守りくださいます。そして主イエスはお語りになります。「求めなさい。そうすれば、与えられる。……だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7:7~8)。
 そして主なる神が私たちに与えられる試練は、私たちが神の子として相応しい者となるための信仰の養いであることを聖書は語ります(参照:ヤコブ1:2~3、Ⅰペトロ1:6~7、ローマ5:1~5)。
 私たちは苦しい時、嫌になります。非常な苦しみ、いつまで続くのか分からない永続的な苦しみにより、自らの命すら投げ出したくなります。しかしサタンが働くことにおいて与えられる私たちの試練にも、主なる神の御支配が及んでいます。そのため、私たちは主なる神によって守られています。そしてこれらの試練と共に、主は私たちに神の民としての祝福を備えくださっています。ですから、パウロは、「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」(フィリピ1:21)とまで語るのです。
 だからこそ、試練の中にある時、自分で解決をはかろうとする前に、主なる神にすべてを委ねて祈り、主による解決が与えられることを祈り求めましょう。
 
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「悪霊の力」  ルカ8:32~36  2021.8.15
 
     
序.
 前回、26~31節の御言葉に聞きました。説教を語るにあたっては、できるかぎり、一回限りにおいて完結して語ろうと思っていますが、今回は一連の話しを分けていますので、少しおさらいをしたいと思います。現在では、「悪霊」に取りつかれているということは、前面にでてくることはありません。しかし、サタンにより悪霊が、私たち人間に入り込み、そして罪を行わせることを否定することはできません。その一方サタンは、主なる神の許しがなければ働くことができず、そのため、神を信じ、神の子とされている私たちキリスト者は、つねに主なる神の加護にあることを確認して来ました(Ⅰコリント10:13)。

Ⅰ.人間らしさを失う
 悪霊に取り憑かれた男は、サタンの支配下にある多くの人たちの代表といって良いかと思います。彼はサタンの支配下にあります。そのため彼は「人間らしさ」を失いました。
 ここで、彼が本来もっている「人間らしさ」を定義しなければなりません。聖書が語り、私たちが求められている人間らしさとは、人から尊敬されるように生きること、身なりを整えることだけではありません(27)。
 主なる神が私たち人間をお造りくださった時(創世記1:26、2:7)、人間を、三位一体の神にかたどり、神に似せて造られました。それは、主なる神と交わり、主を賛美し、主の栄光を称えて、主を礼拝する者として、そして命の息を持つ、つまりいつまでも生きる者としてつくられたのです。これが、聖書が語る人間の姿です。
 しかしこうした人間としての本来の姿を、人は罪を犯すことにより失いました。その結果、主なる神との交わりを絶ち、人間らしさを失い、罪を犯し、死ぬ者となったのです。その結果、サタンの虜となり、自らの欲望のままに生きる者となりました。

Ⅱ.悪霊の行い
 聖書にはこの男の名は記しませんが、悪霊の名が「レギオン」である記します(30)。「レギオン」とは、ローマ帝国軍の一軍団であり、歩兵約6000とそれに付随する騎兵隊よりなっています。それだけ大きな力を持っていることを誇示した名前です。人が自らの権力・力を誇ろうとする時、数字を大きく見せます。あるいは実際的な権力者、有名人の名を挙げ、名声を高めようとします。そして自らの力を誇示するために、抑圧的になり、命令します。独裁主義・戦争は、「レギオン」という悪霊に取り憑かれた人により始まります。

Ⅲ.主の支配における悪霊の行く末
 前回もお語りしましたが、サタン・悪霊は、主なる神の許しがなければ働くことができません(参照:ヨブ1~2章)。そして主なる神は、サタンを支配しておられます。そして、悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスお許しになります。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入り、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死にます。
 もしかすれば、「豚が可愛そうではないか」と語られる方がいるかもしれません。しかし聖書において「豚」は汚れたものの象徴・代表として語られています(申命記14:8、Ⅱペトロ2:22)。※日本語では訳し分けていますが、「いのしし」は「豚」のことです。

Ⅳ.勝利者キリストを信じる歩み
 主イエスはこの男から悪霊たちを追い出し、この男は正気を取り戻しました。まさに人間らしさを取り戻し、身なりを整えます(35)。身なりを整えることは大切なことです。服装が乱れることにより、サタンの入り込む余地がうまれるからです。それと同時に、ここで悪霊を追い出してもらった人は、イエスの足もとに座ります。主イエスが語られる御言葉に聞く姿、主を礼拝する姿です。これこそが人間らしさです。
 この後キリストは十字架にお架かりになります。イエスの十字架の死により、サタンが勝利し、神が敗北したように思われます。しかしキリストは死から甦ることにより、キリストはサタンに勝利されました。そのため、私たちが主イエスの十字架の御業と救いを信じる時、人間らしさと取り戻し、本来あるべき人間として生きることができます。この時、私たちは、主が整えてくださった自然の秩序に従って生きる者となり、生活が整えられていきます。そして、主なる神を礼拝する者とされていきます。そして、キリストの再臨と最後の審判により、今、世に満ちている悪、苦しみ、悲しみ(自然災害、リストラ、病気、事故、犯罪被害、戦争等による)はすべて、キリストの勝利によって取り去られ、私たちに与えられる天国においては、救いの喜びと祝福に生きることが約束されています。
 私たちがキリストの十字架の勝利を信じて生きる時、私たちは、キリストにより勝利を得ることができます。そして、天国の祝福と希望に生きるものとされます。
 
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「イエスに救われる喜び」  ルカ8:35~39  2021.8.22
 
      
 序.
 主イエスは、レギオンというたくさんの悪霊を、一人の男の人から追い出されました。主なる神は、悪霊を自由にされず、ご自身の御手の下に置かれています。その結果、この男は服を着て、正気を取り戻します。人間が正気を取り戻すと、日常生活が普通になることだけではなく、主なる神とつながり、主なる神を礼拝する者となります。

Ⅰ.主イエスの御力が示されることにより
 ゲラサの人々は、悪霊に取り憑かれた人が正気に戻ったこと、そして悪霊が乗り移った豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、おぼれて死んだことに恐れます(34,37)。彼らには、言葉において悪霊を従わせる主イエスの御力が示されました。しかし彼らは、主イエスを信じることはせず、主イエスに町から出て行くことを願い出ます。主なる神を受け入れることができない人々は、主の御力が示されても、自分とは関係のないもの、あるいは審判者としての恐ろしいものとして、それを拒絶します。これが不信仰です。
 しかし私たちは、主イエスの恐ろしさではなく、御力をもって、一人の男から悪霊を追い出し、正気に戻した神の恵みを顧みることが求められます。彼は、主イエスの持っておられる御力を受け入れ、主イエスによって与えられる恵みの祝福を知りました。神の恵みとは、悪霊の滅びと共に与えられる罪の裁きであり、復活の生命と共に与えられる天国における永遠の祝福です。そのため彼は、主イエスと共に歩むことを願います。

Ⅱ.福音を宣べ伝えなさい!
 しかし主イエスは、この男が主イエスと共に歩むことを拒否されます。すでに、12使徒を始め、何人かの婦人たちも、主イエスと共に歩んでいました(8:1-3)。この男が、使徒たちよりも何かが劣っていたのでしょうか? 聖書はその理由を記しません。私たちはここで、主イエスが拒否された理由を探ることではなく、主イエスが語られた言葉に注目することが求められています。
 39 「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」。主イエスは、男に福音を証しすることを求めておられます。主イエスは、この後12人を派遣され(9:1)、72人を派遣されます(10:1)。そして昇天される時に宣教命令を出されます(マタイ28:19-20)。男への命令は、最初の伝道命令です。
 少なからぬ人が、「伝道しなさい」・「証ししなさい」と語られと、負担に思います。だからこそ、私たちが伝道する理由を明確にすることが大切です。
 ①主イエスがすべてを支配しておられ、御力を持っておられることを信じること。
 ②主イエスによって与えられる罪の赦しと神の国の到来の約束を信じること。
 ③インマヌエル、主なる神は、聖霊をとおして、いつも私たちと共にいてくださること。

Ⅲ.救いの喜びに生きる
 主イエスによって与えられた救いに感謝し、救いの喜びをもって生きること、喜びをもって礼拝に出席することは大切なことです(参照:ウェストミンスター小教理問1)。
 「礼拝は葬儀ではない。祭りだ、喜びだ」と語られます。礼拝は説教が一番大切です。しかし説教は勉強ではありません。礼拝全体・その後の交わりにより、救いの宣言を受け、喜びに満たされることが求められます。教会に集う一人ひとりに、教会と礼拝において、こうした喜びが満たされなければ、礼拝と語られる説教に問題があると言わなければなりません。そして、喜びの内に家庭に帰ることにより、礼拝によって与えられた喜びが、言葉や表情によって出てくるのだと思います。これが伝道です。
 「伝道の宣言」5.福音の恵みの広がりと神の国(改革派教会50周年宣言)
 「すべてのキリスト者は、各自の生活と働きの場において、賜物を十分に活用して主の御国の進展に寄与するように召され、遣わされています。神の創造されたこの世界は、罪の呪いをこうむりましたが、キリストの贖いによって、滅びへの隷属から解放される確かな希望があります。それゆえ、わたしたちは、各自の召しに対する熱心な応答の働きを通して、この世界をその造り主また贖い主に献げていきます」。
 聖書は最後に「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」と語ります(39)。福音の広がりは、一人ひとりが、救いの感謝をもって喜びをもって生きる時、それが信仰の証しとなり、世界へ向けての信仰の進展となります。だからこそ、「伝道しなければならない」といった脅迫概念ではなく、週ごとの礼拝における喜びをもって生きること、喜びを伝えることが、一番大切です。
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「あなたの信仰があなたを救った」  ルカ8:40~48  2021.9.5 
 
序.優先順位と緊急事態
 私たちは日常、スケジュールに優先順位を付けて生活しています。しかし、緊急事態が起こると、他の予定をキャンセルして、緊急なことを最優先にします。そして他の情報は意識的に遮断します。それが生命に関わることであれば、なおさらです。

Ⅰ.主イエスの緊急事態
 今、主イエスは緊急事態に置かれています(40-42)。ヤイロの娘が死にかかっており、主イエスは今、ヤイロの家に向かっています。多くの群衆が押し寄せてきている最中、主イエスは、群衆をかき分けて、ヤイロの家に急いでいました。
 しかし主イエスは立ち止まり、「わたしに触れたのはだれか」と突然語られます(45)。ヤイロも弟子たちも、このような緊急事態の時に、主イエスは何を語り始められたのかと思ったに違いありません(45)。ここで主イエスと弟子たちとの間で、何が緊急事態かとの思いの相違が明らかになります。弟子たちにとっては、主イエスがヤイロの家に行くことでした。娘が生きている間に主イエスが行けば、娘は助かるとの思いがあったからです。
 しかし主イエスにとって、今ここで主イエスに救いを求めてきた女と出会うことの方が重要でした。ここで立ち止まらなければ、この女は二度と主イエスと出会うことがありません。そうすると、彼女は主イエスから病気を癒やしていただいただけで、救い主と出会い、救い主を信じる告白を行う機会を失います。主イエスにとってこの女が救い主と出会うことが最優先でした。
 主イエスはヤイロの娘を見捨てられたのではありません。ヤイロの信仰により、娘の救いは確定しています。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)。恵みの契約はすでに結ばれています。これは神の決定です。ですからヤイロの娘のことは、主イエスには一刻を争う緊急事態ではありません。主イエスにとっては、人が生きている内に、主なる神の救いに与ることができるかどうかの方が重要なことでした。

Ⅱ.長血の女
 さて、この女はどのような女性だったでしょうか。彼女は人間として恵まれていないことが重なっていたといって良いかと思います。第一に、出血が治らない病気であることです。いつ治るか分からない不安があります。第二に、ユダヤ人社会において、彼女は汚れた者とされてきました(レビ15:25-27)。彼女は人々から汚れた者とされ、人々から阻害されていました。第三に、当時の医者にとっては、治すことのできない病気でした。それにも関わらず、医者は彼女からぼったくり、私腹を肥やしていました。つまり彼女は、病気の辛さ、金銭的な貧しさ、社会からの阻害の中、生きていました。
 ですから、女は自分から主イエスに名乗り出ることなどできません。彼女は誰にも見つかりたくはありません。人混みに紛れ込めば気付かれずにすみます。彼女にすれば、病気さえ癒やされれば、それで良かったのです。

Ⅲ.女に一番必要なものをお与えくださる主イエス
 しかし、主イエスは彼女が名乗り出ることを求められます。主イエスは彼女が隠れて行動されていることを怒っておられるのではありません。彼女がキリストと結ばれて救いに生きること、生活を取り戻すことを行うためには、今、主イエスと出会う必要でした。彼女が生活を取り戻すためには、主イエスによって病気が癒やされたことが宣言される必要がありました(レビ15:28-29)。
 さらに、救い主であるキリストと出会い、信仰を告白する時、彼女は罪からの赦しが宣言され、義とされ、神の子とされます。そのために主イエスは、彼女のために、信仰告白する時をお与えくださいました。キリストにとっては、今、あなたが主と出会い、信仰を告白することこそが、緊急事態であり、何よりも大切なことです。
 わたしたちは、自分の意志で教会に来て、自分の意志で信仰を告白し、洗礼を授かると思っています。しかし、魂の救いにあずかる信仰は、神からの恵みの賜物です(ウ信仰告白14:1)。彼女は今、主イエス・キリストという神の御子と出会い、神の御子による救いに与ったのです。主によって与えられた信仰を、口で告白することが大切です。
 すでに信仰を告白し信仰生活を送られている方も、今改めてキリストの十字架による救いに入れられていることを確認して頂きたいと思います。信仰を告白し、救いの恵みに生きる時、私たちは、天国の希望に満たされ、神の祝福の内に生きることが許されます。「緊急事態」と叫ばれる今、キリストと出会うことこそが、あなたにとっての緊急事態です。 
 
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「信じなさい。そうすれば救われる」  ルカ8:49~56  2021.9.12
 
 序.
 主イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と語られます(50)。「あの人は信じることができる」と語る時、「人柄が信用できる」といったこともあるかと思います。「私たちが神さまを信じる」と語る時、神さまをどのような方として、どのように信じるのかが問われます。特に信仰は、私たち自身の死と死後に対して、神が何をお与えくださろうとしているのかを考えていかなければなりません。

Ⅰ.ヤイロの信仰・人々の信仰
 さて今日の御言葉は40節からの続きであり、前回の内容を確認することが求められます。主イエスの所に会堂長ヤイロが来ます。彼は、主イエスに自分の家に来てくださるようにと願います(41)。12歳ぐらいの一人娘が、死にかけていたからです(42)。しかし、割り込む形で、12年出血が止まらない女が現れ、主イエスは彼女を癒やし、彼女に信仰を促されました。この時、ヤイロの娘がどうなったのかを、今日、改めて確認することとなります。
 会堂長ヤイロは主イエスならば、病気の娘を癒やす力を持っておられることを信じ、藁をもつかむ思いで、主イエスの所に来ました。しかし出血が止まらない女が来て、主イエスは彼女に対応します。彼は「なぜ」と思ったことでしょう。この間、どれだけの時間がかかったのか聖書は記しません。しかし、彼にとって気が気でなかったはずです。
 しかしヤイロの家から人が来て、娘の死が知らされます(49)。ヤイロの家のつかいにとって「人は死んだら終わりだ、イエスが力を持っていてもお嬢様は生き返ることはない」との思いがありました。このことはイエスをあざ笑う周囲の人々も同じ思いでした(52-53)。多くの日本人の信仰とはこの程度かと思います。つまり「信仰とは心の安らぎであり、神であっても死者を甦らせる力はない、常識を覆すことはできない」との思いです。別の言い方をすれば、自分の力によって生きているのであり、神への信仰・祈りは、自分ができないことに対する補助手段にすぎないのです。そのため、12月にはクリスマスを祝い、正月に初詣に行き、2月には節分で恵方巻きを食べることに、何の違和感すら持ちません。

Ⅱ.主なる神
 しかし主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と語られました(50)。「救われる」とは、何から救われのでしょうか? 主なる神は、天地万物を創造し、その時から今に到るまで、すべてを治めておられます。そして、私たち人間を創造し、私たちの生命を司られ、日々の必要をすべてお与えくださいます。一方私たち人間は、罪の故に死に向かい、滅びに向かって歩んでいました。そして主なる神は、私たちに、肉の死と死後に訪れる最後の審判における裁きから救ってくださいました。
 主なる神は、私たちの日々の養いをお与えくださるばかりか、滅びから救い出し、神の御国の生命をお与えくださいます。そのような御力を、主なる神、主イエス・キリストは持っておられます。主の祈りで、「日用の糧を今日も与え給え」と私たちが祈る時、主なる神が私たちの生命を支配し、必要を満たしてくださるお方であることを信じるからこそ、祈ることができます。そして、「我らの罪を赦し給え」と祈ります。私たちは、罪の赦しと神による救いを信じているからこそ、祈ることができます。
 つまり、私たち人間は、肉の死においてすべてが終わることはないこと、主なる神が私たちの生命を司り、罪の赦しと天国における永遠の生命をお与えくださる方であることを、受け入れることが求められます。こうした御力をもっておられる主イエスがヤイロに「信じなさい」とお語りになります。そして、主イエスを信じたヤイロに対して、主イエスは娘に対して「娘よ、起きなさい」と語られ、生命をお与えくださいました。

Ⅲ.主によって与えられる救いと信仰
 主なる神による罪の赦し、そして永遠の天国における生命は、主なる神がお与えくださいます。私たちは、それを受け入れ信じればよいのです(参照:ウェストミンスター信仰告白14:2)。主なる神は無条件で、キリストの十字架の御業の故に罪を赦し、神の国の永遠の生命をお与えくださることにより、私たちにお救いくださいます。この約束は、恵みの契約であり、私たちはただそれを受け入れればよいのです。主イエスは、会堂長ヤイロの頼みを受けながらも、長血の女に時間を取っておられる間も、ヤイロと娘に恵みの契約が有効であり、救われること・復活の生命があることを約束してくださっていました。そして私たち一人ひとりを覚え、罪を赦し、神の御国における永遠の生命へとお招きくださっています。
 
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「福音を告げ知らせる」  ルカ9:1~6  2021.9.19
  
序.
 十字架の死と死からの復活を遂げられた主イエスは、天に昇られる時、弟子たちを前にして宣教命令を語られました(マタイ28:18~20)。 この宣教命令により、キリスト者は「伝道するもの」と教えられています。礼拝以上に伝道することを強調し、教会員に強いる教会もあります。今日の御言葉から私たちは、そもそも伝道するとはどういうことかを、御言葉から聞くことが求められています。なぜならば、御言葉から離れた所において伝道を語ると、神の御業ではなく、一生懸命さ・努力することが奨励され、人を何人連れてきた、何人の洗礼者が与えられたとの、人間の努力を認める律法主義に陥るからです。

Ⅰ.主から与えられる恵みとしての賜物・力
 主イエスは8章の後半において、12年長血を患った女を癒やし、信仰の告白を求め、神の民として迎え入れてくださいました。そしてその直後、死んだ会堂長ヤイロの娘を甦らせてくださいました。これらの御業をとおして、主イエスが私たち人間の生命を司り、罪の赦しを宣言する御力を持っておられることを示されました。
 そして主イエスは、12人の弟子たちを伝道に遣わすにあたり、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒やす力と権能をお授けになります。このことは徹底的に重要です。このことは、伝道することに限りません。主なる神が、私たちに生命を与え、私たちが生きていく上で必要な賜物・個性をお与えくださいます。皆さんが仕事を行う、学びを行う、その他の何をするにしても、一人ひとりが異なった個性・賜物があります。この時、それぞれが持っている賜物を用いて、仕事を行い、教会においては奉仕を行います。それぞれの違いは、主なる神がお与えくださった個性です。主がお与えくださった賜物の違いを認めつつ、互いに補い合い、キリストの教会を形成することが求められています(参照:ローマ12:3~8)。ですから伝道においても、どのような善き行い・奉仕にしても、主から与えられたことに感謝して、喜びをもって行うことが求められています(参照:ウェストミンスター信仰告白16:3)。主なる神から悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能が授けられたのは12使徒に特別に与えられた力と権能であり、私たちには各々異なった賜物が授けられています。

Ⅱ.主にすべてを委ねよ!
 私たちがこの御言葉で注目すべきなのは3~5節の主イエスの言葉です。この御言葉を聞くと、「きついな。私には無理だ」と思われる方もいるかと思います。しかし私たちは、主なる神、主イエスが語られた言葉を信じ、主なる神に委ねて、行動することです。
 主イエスは、12年長血に汚れていた女を癒やし、ヤイロの娘に甦りの命をお与えくださいました。そして彼らに対して主イエスは、これらの奇跡・御力を持っておられる主なる神を信じることを求められました。主の御力にひれ伏し、信じ、主への信仰を告白する者に、主は救いをお与えくださいます。ここでも同じです。主の御言葉に聞き、信じる時、主はすべての必要を備えてくださいます。自分の力ではできないことだからこそ、主を信じ、主への祈りをもって、行うことが求められます。
 私は洗礼準備会等で語ることですが、献金を献げることは、主への感謝の応答。維持献金は、旧約聖書に記されているように1/10献金が基本となりますが、生活費が少し足らない位を献げることをお薦めします。この時、私たちは自分ではどうしようもないことであり、主なる神に祈ることとなります。すると、主が必要を満たしてくださることを信じて、満たされたことに感謝して歩むことができるようになります。
 つまり、主イエスが弟子たちに求めておられることは、「伝道する」その行為以上に、主の御言葉に聞き従い、主に委ねて行動することです。この違いを理解しなければ、同じように熱心に伝道を行ったとしても、神の御業ではなく、人間の手柄となってしまいます。

Ⅲ.他者を恐れず、準備せよ!
 弟子たちは主イエスから神的力と権能を授かりました。そうであれば、何を恐れるのでしょうか? 他人の目・心を気にするため、嫌われること、迫害されることを恐れるのです。しかし弟子たちに与えられた力と権能は、人間には太刀打ちできないものです。周りの人たちを恐れる必要はありません。このことは私たちにとっても同じです。神的力・権能を持っておられる主なる神が、私たちと共にいてくださり、守ってくださいます。だからこそ、私たちがキリスト者として何を行うにしても、人の目を恐れる必要はありません。神が共におられ、そして支えてくださいます。私たちは、主がお語りになる御言葉を信じ、聴き従うことが求められています。主は私たちをお守りくださいます(参照:エフェソ6:10~18)。
 
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 「ヘロデの動揺」  ルカ9:7~9  2021.10.3
  
 Ⅰ.恐れを持って生きる
 ヘロデ王は戸惑っています。「恐れ」とも訳される言葉です。戸惑い・恐れをもつのは、何も為政者や王に限ることではありません。私たちの日々の生活においても、様々なことに戸惑い、恐怖に満たされます。死や病気の恐れをもつこともあるかと思います。
 しかしヘロデの戸惑いは、自らの罪からくる恐れです。ヘロデは、主イエスに自らの罪が暴かれることを恐れています。つまり王にとっての恐れは、自らの王位が奪われること、自らの政治が否定されることです。7節の後半で、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいることを記します。並行記事のマタイ福音書14章ではそのことが詳細に記しています(マタイ14:1~12)。ヘロデにとって姦淫の罪のことをヨハネに訴えられたこと、娘を喜ばすためにヨハネの首をはねたことで、後ろめたさを持っていました。ルカはその経緯を語りませんが、ヘロデ王はこの罪が明らかにされることを恐れていました。
 またヘロデは、主イエスの存在そのものも恐れていました。イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返った」、「エリヤが現れた」、「だれか昔の預言者が生き返った」と言う人がいました。主イエスの語る言葉・奇跡の噂は、ユダヤ全土に拡がっていました。そして主イエスにより、罪が指摘され、自らの罪が明らかにされることを恐れたのです。
 エリヤは、旧約聖書マラキ書によって預言されていました(マラキ3:23-24)。預言者エリヤは、救い主であるメシヤの到来に備えて人々を整える終末的な先駆者であると思われていました。この意味において、洗礼者ヨハネは新約時代のエリヤと見られていました(ルカ1:17)。ヘロデは、洗礼者ヨハネは自らが殺したために、その恐怖はなくなったのですが、イエスがヨハネに代わる存在となり、神による裁きが自らにもたらされることに対する恐れが、ヘロデにあったのです。

Ⅱ.罪の故に
 私たちが日々の生活の中にあってもつ戸惑いや恐れもまた、自らの罪と共に、後ろめたさ、自信がないことから生じるものです。私たちがこの恐れを取り除くための一番簡単な方法は、力によって恐れを取り除くことです。自らが恐れている者を抹殺すること、追放するあるいは殺すことです。力による支配です。歴史はこのことを繰り返します。しかしこの方法は、一時的な恐れはなくなっても、同様のことが繰り返されます。報復の連鎖です。力による支配には福音はなく、政治的な解決もありません。 

Ⅲ.主による救いによって、喜びを持って生きる生活
 私たちは自らが罪を告白し、悔い改めを行うこと、償いが求められる場合には償いを行うことがなければ、この恐れ・戸惑いはなくなりません。全的に堕落しているからです。そしてこの罪を精算しなければなりません。罪を隠し、罪が無かったものとして否定し続ける限り、後ろめたさは残ります。
 ここで私たちに求められることは、こうした私たちの持っている罪を十字架に追ってくださったイエス・キリストに委ねることです。キリストは、「信じなさい。そうすれば救われる」とお語りくださいます。私たちの持っている罪を背負ってキリストが十字架に架かってくださいました。キリストの十字架の故に、私たちの罪は贖われます。自分の力で獲得することが出来ない罪の赦しが、キリストの十字架の御業の故に成し遂げられ、救いの道が開かれました。
 ですから、私たちが何事にも恐れを持たず、喜びをもって生きていこうとするならば、人間的な力以上の力を持っておられる方、つまり主なる神さまの存在を受け入れ・信じることが求められます。私たちのすべての罪は、キリストによって一方的に贖われ、償われました。そしてこの主なる神が、神の国の完成の時に、私たちを神の国(天国)に入れてくださることを約束してくださいました。御子の十字架により、すべての罪が滅び、そして神の国の完成で罪は完全になくなります。私たちは何も恐れる必要はありません。
 それでもなお、私たちが、恐れを抱き、戸惑いつつ歩むのは、私たち自身が、完全に主に委ね、主を信頼して生きていないからです。罪が残っており、自分の力で解決しようとするからです。すでに、キリストは御自身が十字架に架かり、人々から罵声を浴び、恥ずかしい姿を露わにすることにより、私たちの恐れも後ろめたさも煩いも、すべてを取り除いてくださいました。だからこそ、私たちはヘロデの如くに戸惑う必要はありません。苦しみ、悲しみもありますが、なおも希望と喜びをもって、歩み続けていきましょう。
 
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  「主イエスによる養い」  ルカ9:10~17  2021.10.10
 
序.
 5000人養いは4福音書すべてで記され、また別に4000人養いもマタイ・マルコ両福音書に記されています。聖書が同じことを繰り返すのは、この出来事が重要であることを語っています。ルカの文脈を確認しつつ、ルカが何を語ろうとしているかを確認していきます。

Ⅰ.食事の準備ができていない!
 主イエスは12人を伝道に派遣された時、悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授けました(9:1)。ことを記します。そして弟子たちは実際に福音を告げ知らせ、病気をいやしました(6)。そのことを弟子たちは主イエスに報告します(10)。
 主イエスの噂は益々広がりを見せていました。主イエスに会うために、多くの人々が主イエスの所に来ています。主イエスは神の国の福音について人々に宣べ伝え、治療の必要な人々には癒やしの御業を施しておられました(11)。時間が経ち、日は傾いてきています。弟子たちは、食事の世話をしなければらないけれども、自分たちの手では準備ができないことに、今、気付きました。私たちも、どのような集会を行うにあたっても会場・食事・飲み物の手配には気を遣うことが求められます。

Ⅱ.主イエスが求める信仰
 この時主イエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13)とお語りになります。弟子たちは、「イエスさまは何を語っておられるのか?」との思いがあったでしょう。
 しかし弟子たちは、宣教している間、飲むもの・食べるもののすべてが、宣教している土地で与えられるとの信仰に基づいて行動しました(9:3-4)。すべてを主なる神が備えてくださる信仰と祈りが求められました。弟子たちにはこの信仰が求められたのです。
 イスラエルの人々は、旧約における神の御業を聞かされていました。エジプトにおける奴隷から解放され、約束の地に向かうイスラエルの民は、荒野において食べ物、飲み物に困った時、主なる神が、マナとうずら、水が与えられました。主が共にいてくださるのであれば必要はすべて満たされます。そして主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる」とお語りになります(ルカ11:9~13)。パウロも語ります。Ⅰコリント10:31「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と。どのような時にも、主が必要を満たしてくださる方であることを信じる信仰が求められます。そのために、与えられた食べ物・飲み物を、神からの恵みとして、感謝しつつ、神の栄光を称えなさいよと語られています。
 つまり、主イエスが求められたのは、どのような時にも主に委ね、祈り求める信仰です。主なる神がすべてのものをお与えくださる方であることを忘れてはなりません。そのため、どのような時でも、特に自分たちでは対処が不可能なことが起こると、私たちは主なる神に頼り、主が解決してくださることを信じて祈ることが求められています(参照:大教理問答問183,184)。そして主イエスは、成人男性だけで5000人もの人々がいた群衆に対して、必要な食べ物を分配して行かれます。主の愛、主の御力を、私たちは顧みなければなりません。

Ⅲ.分配:ディアコニアを覚えつつ
 一人の命を司られる主なる神は、その日の食べ物をお与えくださり、分配してくださる神です。この分配の働きは、新約の教会に受け継がれます。それが愛の業、執事的働き(ディアコニア)です。執事的な働きは、病院や福祉施設の働きにつながります。現在では福祉・医療などは行政の働きとして区別されていますが、本来は教会の職務です。
 主イエスは、金持ちの青年に「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」(マタイ19:21)とお語りになります。貧しい者を覚え施すことにより、隣人への愛を表すことができます。この時、私たちは献金の姿勢が問われてます。献金は、主に教会の働きを支えるために献げられますが、同時に、弱者に対しても愛の働きのために献げられる必要があります。献金は、余裕があるから献げるのではなく、自らの生活が苦しくなる中、必要を主に委ねて祈りつつ、教会・弱者を覚えて献げます。

Ⅳ.現在行われている福祉・医療に対して
 本来は教会の働きである医療・福祉を、現在では行政が担っています。主の権能が行政に委ねられられています。そのため、それらの働きを担う者も、主が聖書を通してお語りになられていることを理解しつつ、行うことが求められることとなります。
 この時私たちは、行政にその働きを100%委ねつつ、行政が主の求めから離れたことを行っているのであれば、それを正すことがキリスト者に求められています。今私たちは、すべてを主に委ねつつ、この日本においてキリスト者として主を証しする者とされています。
 
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  「信仰告白」  ルカ9:18~22  2021.10.17
 
序.
 私たちが神を信じると語る時、だれをどのように信じるのかが問題となります。

Ⅰ.イエスはメシア
 イエス・キリストが福音宣教を行っていた時、民衆はイエスを見ていました。注目の的です。そして彼らはイエスの偉大さを認め敬意を込めて、「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、「だれか昔の預言者だ」と語っていました。しかし彼らは、イエスを偉大な人・預言者であるとは思っても、信じる対象である神、メシアとは信じることはできませんでした。
 この時イエスは弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何ものだと言うのか」と問いかけます。ペトロはとっさに「神からのメシアです」と答えます。「メシア」(ヘブライ語)とは「キリスト(ギリシャ語)・救い主」という意味です。この信仰告白は、純粋にして、最も簡潔な信仰告白です。しかしこの一言を、多くの人は語ることができません。
 このとき主イエスは「あなたがたは」と呼びかけます。彼らは主イエス御自身がお選びになられた12名の弟子であり、使徒と呼ばれます。彼らは主イエスの呼びかけにより弟子となり、信仰告白をすることができました。ここには主の導き・聖霊の働きがあります(参照:マタイ16:17、ウェストミンスター信仰告白14:1)。つまり頭で理解して、イエスを救い主であると信じようと思ってもできません。頭で理解しようとするのではなく、私たちに提示された神を受け入れ、信じることが、私たちには求められています。

Ⅱ.キリストの十字架と信仰告白
 しかし主イエスはこれだけで良しとされるのではありません。主イエスはこのことを誰にも話さないように命じ、ご自身の十字架の死と復活を予告されます(21-22)。つまり、キリストの十字架抜きでイエスをメシアと信じても片手落ちです。キリストの十字架抜きの信仰は、主観的・概念的になり、信仰の実りとしての信仰生活が伴いません。
 つまり、「イエスは神の子メシアである」と告白する時、「イエスは、私たちの罪の贖いを成し遂げるために十字架の死を遂げてくださり、死に打ち勝ち復活をとげられた救い主である」との告白が求められます。キリストの十字架が示されることにより、罪の裁きとしての永遠の死からの救いであることが初めて明らかになります。そして、私たちが避けて通ることができない肉体の死を超えた所で、天国における永遠の生命の希望があることが示されます。信仰告白にはキリストの十字架というしるしが示される必要があります。

Ⅲ.真の信仰告白
 ですから私たちが神を信じる時、「信仰があればそれで良い」とはなりません。私たちが信じている神とはどのようなお方であり、私たちは何から救われるのか、を確認する作業が伴います。そのために神は、主の御言葉である聖書を読むこと、七日毎に主の御前に集められ礼拝に与り説教を聞くこと、神の恵みの聖餐の礼典に与ることを求められます。
 10月31日は宗教改革記念日です。宗教改革は1517年のことです。当時のローマ教会は、ラテン語聖書(ウルガータ)のみが聖書であり、自分たちの話す言葉の聖書は認めませんでした。そのためキリスト者も、自分で聖書を読むことができません。そのために聖画やマリア像が信仰の対象となっていきました。この時、彼らの信仰は、教会で決められたこと、神父の語ることを受け入れるしかありません。その結果、悪いことを考える神父も出てくるわけで、信仰を金儲けの道具とする人々が出て来ます。それが免罪符です。「免罪符を買うことによって救われる」と語り、金銭で救いを売買し始めます。
 このことに対して、ルターは聖書を読み、「聖書には免罪符について語っていない」、「信仰によって救われる」ことを聖書から読みとりました。このことを教会に訴えたのが宗教改革の初めであり、そのためルターは人々が読めるドイツ語に聖書を翻訳し、当時発明されたばかりの印刷を用いて、人々に聖書を届けました(参照:ウェストミンスター信仰告白20:2)。
 つまり私たちは一人ひとりが聖書を読み、神を知ること、神によって私たちの救いがどのように行われるのかを確認することを継続的に行う必要があります(万人預言者)。同じように聖書を読んだとしても、人によって解釈が異なります。そうなれば神が歪められます。そのため教会は、聖書を解釈し、共通の理解を信仰告白としてまとめていきます。
 私たちは、聖霊の導きにより、「イエス・キリストは私たちの救い主」と告白することが第一に求められます。しかしこの信仰告白は同時に、イエス・キリストが、私たちを救うために十字架にお架かりくださり、死から甦られた救い主であることを告白することが求められ、さらに私たちを救ってくださった神を知るために、聖書を読み続け、礼拝に集うことが求められていることを、私たちは忘れてはなりません。
 
 
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 「死と復活の予告」  ルカ9:21~27  2021.10.24 
序.
 前回、ペトロの信仰告白の御言葉に聞きましたが、信じるとはただイエスを救い主として信じていれば良いのではなく、御言葉によって示された主イエス・キリストの十字架と復活を信じることであることが示されました。

Ⅰ.十字架から「死」を考える
 そのため主イエスはペトロの信仰告白に対して弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じ、信じるだけではなく十字架と復活を受け入れなければならないことを、十字架と復活の予告によって示されます(22)。「必ず」と主イエスは語られます。主イエスの十字架は約束のメシアとして避けて通ることのできない必然の行為です。
 十字架と復活を覚えることは私たちをに「死」とは何かと問いかけます。多くの人たちは「死」とは肉体の死、すべての終わりと考えています。そして生きていることがすべてと思います。そのため人は今を生きる喜び・希望は何かを追い求めます。その結果、富・地位・権力を得ること、人々を従わせること等が、生きていることの価値となっています。
 パウロは「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことも利益なのです。…どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません」と語ります(フィリピ1:21-22)。つまりキリスト者は、「死においてすべてが終わる」という概念はなく、永遠の生命を考えます。
 人は生きる者、死ぬことのない者として、神によって創造されました(創世1:26)。しかし、最初の人アダムとエバは、神によって禁じられていたことを行い、罪を犯しました。神は「食べると必ず死んでしまう」と語られていました(創世記2:16~17)。しかし、彼らの地上での生涯はなおも続きました。しかし彼らはこの時、神の語る「生」から「死」んだものとなったのです。神の語る「生」とは、永遠の生命・神との霊的な交わりに生きることです。
 人は肉の死を避けて通ることができず、神との霊的な交わりが絶たれました。言い換えれば「生きる屍」であり、地上での生涯は肉の死に向かう執行猶予期間となりました。

Ⅱ.生きるとは、キリストと共に歩むこと
 主イエスは「自分の命を救いたいと思う者は~」(24)と語られます。つまり主イエスが語られる命・救いは、今・この世の枠を遙かに超えた「永遠」の時間、神とのまじわりが与えられる「天国」を指し示しています。ですから、神を信じることによって、今の幸せ、つまり富や権力を得たいと思っても、それを得ることはできません。(マタイ6:24)。
 つまり私たちは神の救いを考える時、天国における永遠の生命にある祝福を見据えることが求められています。主が私たちにお与えくださる新しい天は、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」所です(黙示21:4)。神に救いを求める時、私たちは足もとではなく、神との交わり・天国を見上げ永遠の生命を求めます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられます」(マタイ6:33)。

Ⅲ.キリスト者の聖化の歩み  自分の十字架を背負い、天国に向かって!
 そして主イエスは、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とお語りになります(23)。キリストの十字架にこそ私たちの罪の赦しがあるのですが、キリストに十字架を背負わせれば、私たちはもう何もしなくても良いのではありません。私たちはキリストの十字架に委ねなければならない自らの罪を確認する必要があります。
 私たちは主によって創造された被造物であり、私たちの生きる目的は、創造主である方の喜びの内に生きることです(参照:ウ小教理問1)。この時、私たちは自らを誇ることはできません。私たちが本当の人間として生きようとするならば、自分を誇って生きるのではなく、救い主である主を褒め称え、主の御前に遜りと謙遜をもって、主の栄光を称えて生きることが求められます。そのため自分の十字架を背負おうとする時、私たちは自己中心に生きるのではなく、神中心の生活へと変わります(参照:カルヴァンの生活綱要)。そのため主イエスは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、日々、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(24)とお語りになります。
 カルヴァン「キリスト者の生活綱要」
 (1) 謙虚な服従
 (2) 自己否定
 (3) 十字架を背負うこと
 (4) 来たるべき世への希望
 (5) この世の生の正しい用い方

 弟子たちは、まだキリストの十字架と出会っていませんので理解することができませんでした。しかし私たちは、すでにキリストの十字架の死と死から三日目の朝に甦られたことが指し示されています。そのため私たちがキリストの十字架の死と復活を顧みる時、私たちは自らの姿を顧み、私たちが主の被造物であり、私たちはキリストの十字架なしには生きる希望がないこと、キリストによって天国が約束され、天国にこそ希望があることを確認しつつ、キリストと共に歩む救いの希望に満たされて歩むことが求められています。 
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「イエスの変貌」  ルカ9:28~36  2021.11.7  
 
Ⅰ.私たちの信仰を位置付けるキリストの復活
 今、私たちに与えられた御言葉は、共観福音書でありますマタイ、マルコ、ルカの3福音書に記されていますが、最も不思議なテキストの一つではないかと思います。しかし、ペトロが信仰を告白したのに伴い、主イエスが十字架の死と復活を予告され、その後にこの変貌が語られていることに注目をするならば、主が私たちに何を語りかけようとしておられるのか、はっきりとしてきます。つまり、信仰とは「口で告白すること」ですが、ただ信じれば良いのではなく、キリストの十字架と復活があるからこそ、信じることにより救われ、天国における永遠の生命を受け入れることができます。つまり、信仰とは思弁的ではなく、私たちの命に関わること、私たちの生き様、生活と密接に関わることです。
 しかし、日本のキリスト教会に多いのですが、キリストの十字架で止まってしまいます。キリスト教会においてキリストの十字架は中心です。しかし、キリストの十字架の死と共に、復活によって与えられる天国がはっきりと示される必要があります。キリストの十字架で終わってしまうと、罪の赦しのみで、復活と天国における永遠の生命がありません。このとき、信仰は心の問題に留まってしまいます。心の問題だと、信仰生活が伴いません。例えば、神を信じていれば、礼拝に出席しなくても良い、聖書を読まなくても良い、となります。キリストの十字架の死で終わっているため、神が今も天において生きて働いておられる認識が非常に希薄になり、信仰の主体は自分になり、自己中心の信仰となります。
 しかし、キリストが十字架の死・復活・昇天・着座が示されると、私たちは、今も生きておられる主の御前に立たされます。そうなれば信仰の主体は主なる神となります。主なる神が私たちに命をお与え・罪を贖い・永遠の生命をお与えくださいました。ですから、主イエスが弟子たちに対して、天国における栄光に満ちた姿をお見せになることは、私たちが神を信じて救われると語る時に、非常に大切なことでした。

Ⅱ.天国におけるイエス
 弟子たちは、信じられない光景を目にします。一つは、主イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いたことです。もう一つは、二人の人(モーセとエリヤ)が主イエスと共に語り合っていることです。弟子たちはこの状況を理解できました。モーセとエリヤが霊的な存在として主の栄光に包まれていたこと、そして主イエスとの会話から理解することができたのではないかと考えられます。しかし弟子たちは、理解して頂けないと思い、主イエスの復活まで、このことを誰にも話すことはできませんでした。
 ここにモーセとエリヤがここで登場します。モーセには律法の代表としての十戒が授けられました。エリヤはバアルやアシェルに勝利を遂げ、さらに生きたまま天に昇っていかれました。つまり二人は律法と預言書の代表者・旧約聖書全体に記されている御言葉を象徴しています。そして旧約における預言が、主イエスの最期、つまり十字架の死と復活、召天によって成就することを語っています(参照:ルカ24:44)。

Ⅲ.天国の証人とされた三人の弟子たち
 さらに弟子たちは「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声を聞きます(35、参照:ルカ3:22)。主イエスが三位一体なる神の第二位格であることが示されています。
 この後、主イエスは十字架に架けられ、肉の死を遂げ、そして三日目の朝を迎えます。主イエスは甦られ、ペトロを初めとする弟子たちと出会います。この時に初めて、弟子たちはこの時の全貌を知ります。そして彼らは、救いとは天国における永遠の生命であることを、はっきりと証しする者とされていきます(参照:ヨハネ21:15-19)。3人の弟子たちは、ここで見た出来事により、天国の証人をなります。
 私たちは今、救われることによって与えられる天国における栄光の姿が示されたペトロたちの証言を、引き継ぎ、救いの喜びに満たされています。救いとは、心の問題・思弁的なことに止めてはなりません。キリストの十字架と復活を経て、キリストが指し示してくださった天の御国における神の栄光の場へと、主は私たちを招いていてくださっています。
 今日はこの後、聖餐式に与りますが、信仰告白を行い、洗礼を授かっている方は、他教会の方も一緒に与って頂きたいと思います。なぜならば私たちは、聖餐において十字架で死を遂げられたキリストの贖いに与り、さらに天国における主の晩餐に招かれているからです。救い・天国が漠然としたものではなく、主イエスによって与えられた永遠の恵みの場所であることをご確認いただきたいと思います。
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「神の偉大さ」  ルカ9:37~43a  2021.11.14  
 
Ⅰ.主からの賜物
 ペトロは信仰告白をしましたが(9:20)、主イエスは十字架と復活の予告をされ、救いにはキリストの十字架と復活が不可欠であることが示されました(9:21-27)。さらにキリストによって与えられる救いは、天国における祝福であることを、主イエスの変貌において確認しました(9:28-36)。つまり信仰とは、キリストの十字架による贖い、そして天の国における永遠の生命の祝福のリアリティーが求められます。しかし弟子たちはまだ、主イエスの語られる言葉・行いを理解することはできませんでした。弟子たちは主イエスへの信仰を告白しながらも、主イエスの御言葉・御業を受け入れることができないでいました。
 ところで弟子たちは、主イエスによって宣教に遣わされていました(9:1-6)。この時、主イエスは弟子たちに対して、悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになられました。そして弟子たちは宣教に出かけた時、それらを用いて、人々に福音を伝え、病人の癒やしを行うことができました。そのため弟子たちは、宣教に遣わされた時、主イエスを信じ、主イエスに信頼して与えられた賜物を用いようとすれば、行うことができました。
 私たちは、能力・技術等は自分の努力によって築いてきたものと私たちは思いがちです。しかし弟子たちが癒やしの御業が授けられたように、私たちが持っている能力や技術もまた、神からの賜物です。神から与えられたものだからこそ、私たちが主なる神を信じてそれらを用いようとする時、私たちは主を証しして、それらを用いることができます。

Ⅱ.弟子たちの不信仰
 しかし弟子たちは、主イエスの御言葉・御業を受け入れることができなかったため、悪霊を追い出すこともできなくなっていました(9:40)。そして一人の男は、悪霊に取りつかれた息子を伴い、主イエスと弟子の所に来て、大声で次のように語り始めます。「弟子たちに悪霊を追い出してくれるように頼んだが、誰もできなかった」と。
 このとき主イエスは弟子たちに対して、41「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて我慢しなければならないのか」と語ります。「よこしま」とは、「歪んだ、ねじ曲がった、ひねくれた、邪悪な、離反した」という意味を持つ言葉です。つまり、主イエスは弟子たちに対して、正しい信仰の道から離れていることを語ります。このことは、深刻な出来事です。
 弟子たちの不信仰とはなにか? 弟子たちは主イエスから福音を宣べ伝え病人をいやす力と権能が与えられ、それらを用いて宣教を行うことができました。そして彼らは主イエスが5000人の人々が養われた奇跡を見ました。しかし弟子たちは、主イエスの十字架と復活の予告を理解することができず、さらに主イエスが姿を変えられ、天国における祝福を弟子たちにお示しになった時も、彼らは理解することができませんでした。
 つまり、彼らの不信仰は、①主イエスの持っておられる御力を理解しなかったこと、②自らに与えられた権能を信じて用いることができなかったことです。

Ⅲ.主の御力を受け入れ、主を畏れよ!
 主イエスが「信仰のない、よこしまな時代なのか」と語られた言葉は、周囲にいた群衆に対しても語られています。彼らは主イエスが本当に悪霊を追い出すことを行うことができるのかと半信半疑です。彼らは常識を越えた所に働く主の御力を信じることができませんでした。このことを、主イエスは「不信仰だ・よこしまな時代だ」とお嘆きになります。
 そしてこの言葉は、今に生きる私たちに語りかけられています。つまり、私たちは主が持っておられる御力を信じているかどうかということです。
 信仰とは主イエスのことを「神からのメシアです」(20)と告白し、主イエスを救い主として信じることです。それに加え、主イエスが神として持っておられる御力を信じて、主イエスの十字架と復活を信じ、天国における永遠の祝福を信じることです。常識を越えて働く御力と天国の祝福を持っておられる主イエスを信じる時、私たちが教会の礼拝に出席し、キリストの御前に立つ時、畏れをもっていつもと同じ心で立つことなどできないはずです。旧約の民は、主なる神と直接出会うことにより、死が訪れると恐れました(参照:出エジプト3:5)。私たちは、主なる神の御前に立つ時、主を畏れ、畏敬の念を持つことを忘れているのではないか、このことが今、問いかけられています。世の中はよこしまな時代にあっても、私たちは、主を信じ、主を畏れ、主の御力にひれ伏し、救いの喜びをもって生きることが求められています。
 
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 「この言葉をよく耳に入れておきなさい」  ルカ9:43b~45  2021.11.21  
 
Ⅰ.ルカ9章の流れを確認せよ
 ルカによる福音書の中に記されている3節のみの聖句を読みました。しかし、私たちが聖書を読み進む時、聖書の全体(救済史の流れ)を覚えつつ読むことが求められます。ルカ福音書であれば、主イエスの公生涯の中における位置づけを確認しなければなりません。
 ですから今日の御言葉であれば、9章全体の流れを考えながら読むことが求められます。つまり9章の初めで、12人の弟子たちは、主イエスから悪霊に打ち勝ち・病気をいやす力と権能が授けられ、福音宣教に出かけていきました(9:1)。そして宣教に赴くと、主イエスから授かった力・権能を用いることができました。その後、主イエスが5000人の人たちを養う奇跡を目の当たりにします(10-17)。このときペトロは、主イエスのことを「神からのメシアです」と信仰告白することができました。しかし主イエスは、第一回目の十字架の死と復活の予告をし、さらに変貌を遂げて神の御国の姿を弟子たちにお見せになることにより、信仰には救いと神の国のリアリティが求められていることを指し示めされました。
 それにも関わらず弟子たちは、主イエスの語られた言葉を理解することができず、悪霊にとりつかれた子どもを癒やすことができずに、不信仰が明らかになりました(37-43a)。

Ⅱ.弟子たちに語られた十字架と復活の2度目の預言
 44節の主イエスの言葉は「あなたがたに命じます。あなたがたは、この言葉をよく耳に入れておきなさい」と訳せます。新共同訳聖書では翻訳されていませんが大切な言葉です。頭に入れ理解するようにということではありません。彼らには理解できないように隠されていました(45)。「理解できないことを耳に入れておく」とは矛盾しているように思えます。しかしまだ福音を理解できず、真の信仰を告白することができない人にとって大切なことです。つまり意味を理解できず、信じることができないにしても、主イエスが語られたことを頭に入れ留めておくことが求められています。弟子たちが頭に留めておくべきことは直接的には「人の子は人々の手にひきわたされようとしている」ことです。しかし主イエスが死と復活の予告をされたこと、変貌を遂げられたことも頭に留めておくべきことです。
 ここで主イエスはご自身のことを「人の子」と語られます。主イエスは、自分のことを「メシア・救い主」とか「神の御子」とは語られません。主イエスご自身が「人の子」とお語りになる時、ご自身が神の御子、救い主であることを示しています。つまり救い主であるイエスが、ユダヤ人たちに逮捕され十字架に架けられることを予告しておられます。
 つまり、主イエスが語られる「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」とは、二度目の十字架の予告です。聖書で同じことを繰り返し記すのは、その事実が非常に大切だからです。主イエスの十字架の死と復活の予告を共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)が3度づつ記すのは、私たちの救いに関わることであり、聖書の中でも最も大切な出来事であり、聖書の中心だからです。だからこそ弟子たちは、このときまだ意味を理解することはできませんでしたが、頭の中で覚えておかなければならないのです。

Ⅲ.隠されていた・奥義
 では主イエスは、まだ弟子たちがその言葉が分からず、理解できないことを語る必要があったのでしょうか?「彼らには理解できないように隠されて」いました。神による救い、福音を理解し信仰を告白するには、神が定められた時があります。これは、福音の事実を聞き、頭に入れた時と普通は異なります。弟子たちは、主イエスが十字架の御業を成し遂げ、復活することにより、初めて目が開かれ、信仰を告白することができました。
 福音は奥義(おくぎ)です。隠されていたものが明らかにされます。つまり信仰とは頭で覚えることではなく、福音の真実を受け入れ、信仰を告白することです。パウロはファリサイ人としてすべてを知った上でキリスト者を迫害していましたが、復活のキリストと出会うことにより、目からうろこが落ち、信仰が与えられられました(使徒9:17)。
 伝道は福音を伝えることが大切です。すぐに神を信じる人はほとんどいません。しかし、主がとらえていてくださる方々は、その人にとっての時を待たなければなりません。ですから、今は理解できないとしても、福音を伝え、信仰を証しすることが大切です。信仰を告白する時を、主なる神は準備してくださっています。クリスチャンホームの子どもたちに多いことですが、分かっているんだけれども、信じることができない人たちがいます。あせって信仰告白をする必要はありません。格闘して頂いてよいかと思います。主は心の目を開いてくださり、信仰を告白する日をお与えくださいます(参照:ウ信仰告白8:8)。
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「いちばん偉い者」  ルカ9:46~48  2021.12.5  
 
序.
 主イエスは2回目の十字架の死と復活の予告をされ、主なる神を信じ、イエスの弟子として生きるのに、キリストの十字架と出会うことが大切であることを指し示されました。

Ⅰ.生きるとはどういうこと…
 弟子たちは、「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」という議論を行います。この議論は主イエスに隠れて行われていました。なぜならば主イエスの弟子であることと、いちばん偉いことは両立しません。弟子は、主人である主イエスへの服従が求められます。一方、「いちばん偉い」とは、「偉大な・価値のある」存在のことです。これは、自分中心の生き方を意味しています。
 私たちも他人に認められ、仕事に見合う地位、報酬を得ることにより自分の価値を確認します。一方、コロナ禍にあって孤独を覚えている方々が多くなっています。彼らは自分の居場所がなく、自己卑下を行い、生きる希望を失います。私たちは、弟子たちの議論を通して、私たち自身がキリストの弟子として生きるとは何かを考えなければなりません。

Ⅱ.「あなたは貴い」とお語り下さる主
 主イエスは、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と語られます(48)。主イエスは、自分がどのように思われるのかではなく、あなたはキリストの弟子としてどのように生きるのかと問いかけます。発想の転換が必要です。自分中心で考えるのではなく、わたしという人間をお救いくださった神中心に考えることが求められます。つまり他人との比較において生きるのではなく、主の御前に生きることが求められます。主イエスは、主イエスを信じている私たち一人ひとりを、受け入れてくださり、神の民として貴い存在であることを認めてくださっています。キリストの十字架の贖いと出会った者が、「イエスこそが私たちの救い主である」と信仰を告白する時、主イエスがお示しくださった天の御座、天国に招かれることをお示しくださっています。そして主は「あなたは生きる価値のある人間である」と宣言してくださいます。
 そして天国においては、「誰が一番だ、二番だ」と、気にする必要はありません」。私たちの生きる価値は、主イエスによって愛され、永遠に天国において主の祝福に生きることができる者とされていることにあります。だからこそ、私たちは共に主の栄光を褒め讃え、讃美するのです。弟子たちの中で一番誰が偉いか、誰が一番の地位についているか、誰が立派かなど、ちっぽけなことです。キリストの十字架によって罪が贖われ、天国に招かれることこそが、何よりも素晴らしいことだからです(参照:ウェストミンスター小教理問1)。

Ⅲ.神の民として生きる
 その上で主イエスは「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(48)とお語りになります。主イエスは、子供のようになれとはお語りになりません。現在、子供は貴い存在・愛すべき存在ですが、当時は、何も出来ない無価値な存在と見なされていました。つまり子供を受け入れるとは、社会的に無価値であると思われている人々を価値ある存在として受け入れ尊ぶことです。なぜならば、社会的に無価値とされる子どもであっても、主にとっては愛おしく、神の子どもとして受け入れられているからです。
 つまり、自らの弱さ・罪深さをも受け入れ、互いの弱さを補い合い、助け合うことを求めておられます。ですから主イエスは、金持ちの青年に対して、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」(マタイ19:21)とお語りになりました。主の恵みによって富める者は、持っていない生活の苦しみを覚えている人たちに分かち合うことが求められます。またパウロは、「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」と語ります(ローマ12:4-5)。
 価値は、一つの規準だけではありません。様々な価値があり、神の賜物、特技、長所は、一人ひとり異なります。様々な賜物を受け入れようとする時、自らにはない賜物を感謝して受け入れることができます。この時、人は自らを誇るのではなく、遜ります。この時、キリストの教会を形成することが可能となります。互いに賜物を用いて奉仕を行い、与えられたものに感謝して献金を献げます(参照:ウェストミンスター信仰告白第12章)。
 私たちは、周囲の人々の評価を気にして生きるのではなく、神の子として、主の愛に満たされ、神の愛に生き、遜り、周囲の人々に仕えて生きていく時、主は「あなたは神の国にふさわしい」とお語りくださいます。主の愛に感謝して、今週も、歩んでいきましょう。
 序.
 主イエスは2回目の十字架の死と復活の予告をされ、主なる神を信じ、イエスの弟子として生きるのに、キリストの十字架と出会うことが大切であることを指し示されました。

Ⅰ.生きるとはどういうこと…
 弟子たちは、「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」という議論を行います。この議論は主イエスに隠れて行われていました。なぜならば主イエスの弟子であることと、いちばん偉いことは両立しません。弟子は、主人である主イエスへの服従が求められます。一方、「いちばん偉い」とは、「偉大な・価値のある」存在のことです。これは、自分中心の生き方を意味しています。
 私たちも他人に認められ、仕事に見合う地位、報酬を得ることにより自分の価値を確認します。一方、コロナ禍にあって孤独を覚えている方々が多くなっています。彼らは自分の居場所がなく、自己卑下を行い、生きる希望を失います。私たちは、弟子たちの議論を通して、私たち自身がキリストの弟子として生きるとは何かを考えなければなりません。

Ⅱ.「あなたは貴い」とお語り下さる主
 主イエスは、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と語られます(48)。主イエスは、自分がどのように思われるのかではなく、あなたはキリストの弟子としてどのように生きるのかと問いかけます。発想の転換が必要です。自分中心で考えるのではなく、わたしという人間をお救いくださった神中心に考えることが求められます。つまり他人との比較において生きるのではなく、主の御前に生きることが求められます。主イエスは、主イエスを信じている私たち一人ひとりを、受け入れてくださり、神の民として貴い存在であることを認めてくださっています。キリストの十字架の贖いと出会った者が、「イエスこそが私たちの救い主である」と信仰を告白する時、主イエスがお示しくださった天の御座、天国に招かれることをお示しくださっています。そして主は「あなたは生きる価値のある人間である」と宣言してくださいます。
 そして天国においては、「誰が一番だ、二番だ」と、気にする必要はありません」。私たちの生きる価値は、主イエスによって愛され、永遠に天国において主の祝福に生きることができる者とされていることにあります。だからこそ、私たちは共に主の栄光を褒め讃え、讃美するのです。弟子たちの中で一番誰が偉いか、誰が一番の地位についているか、誰が立派かなど、ちっぽけなことです。キリストの十字架によって罪が贖われ、天国に招かれることこそが、何よりも素晴らしいことだからです(参照:ウェストミンスター小教理問1)。

Ⅲ.神の民として生きる
 その上で主イエスは「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(48)とお語りになります。主イエスは、子供のようになれとはお語りになりません。現在、子供は貴い存在・愛すべき存在ですが、当時は、何も出来ない無価値な存在と見なされていました。つまり子供を受け入れるとは、社会的に無価値であると思われている人々を価値ある存在として受け入れ尊ぶことです。なぜならば、社会的に無価値とされる子どもであっても、主にとっては愛おしく、神の子どもとして受け入れられているからです。
 つまり、自らの弱さ・罪深さをも受け入れ、互いの弱さを補い合い、助け合うことを求めておられます。ですから主イエスは、金持ちの青年に対して、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」(マタイ19:21)とお語りになりました。主の恵みによって富める者は、持っていない生活の苦しみを覚えている人たちに分かち合うことが求められます。またパウロは、「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」と語ります(ローマ12:4-5)。
 価値は、一つの規準だけではありません。様々な価値があり、神の賜物、特技、長所は、一人ひとり異なります。様々な賜物を受け入れようとする時、自らにはない賜物を感謝して受け入れることができます。この時、人は自らを誇るのではなく、遜ります。この時、キリストの教会を形成することが可能となります。互いに賜物を用いて奉仕を行い、与えられたものに感謝して献金を献げます(参照:ウェストミンスター信仰告白第12章)。
 私たちは、周囲の人々の評価を気にして生きるのではなく、神の子として、主の愛に満たされ、神の愛に生き、遜り、周囲の人々に仕えて生きていく時、主は「あなたは神の国にふさわしい」とお語りくださいます。主の愛に感謝して、今週も、歩んでいきましょう。
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「逆らわない者は味方」  ルカ9:49~50  2022.1.9
 
序.
 主イエスは、主に逆らわない者、つまり異なった信仰・教会観を持っていたとしても、同じキリスト者として受け入れることを求めています。私たちは今、二人の姉妹を他教会から受け入れたわけで、まことに今日の御言葉はそれに相応しい御言葉が与えられました。

Ⅰ.別の群れの信仰者の働き
 新共同訳聖書では「お名前を使って」と訳しますが、大切なことが訳されていません。「あなたの名前を使って」です。新共同訳聖書では「お」を用いその意図を語ろうとしています。「御」を用いればまだ理解できますが、「お」では分かりづらいです。
 つまり、主イエスの名において悪霊を追い出している人がいました。そして彼は、主イエスを信じており、主イエスご自身の力により、悪霊を追い出すことができたのです。主イエスの御名、神の御力でなければ、悪霊を追い出すことはできません。だからこそ主イエスは、「やめさせてはならない。…あなたがたの味方なのである」とお語りになります。

Ⅱ.真のキリスト者は誰か…
 私たちの味方とは誰であり、味方でない者は誰でしょうか。別の言い方をすれば、キリスト教徒とは誰かということです。ここでは、主イエスご自身を神として受け入れるか否かが問われます。ウェストミンスター大教理問答問62では、「真の宗教を公に告白する」ことと語ります。言い換えれば、御父・御子・御霊の三位一体の神を信じること、そして真の神にして真の人であるキリストの二性一人格を信じること、古代四信条(使徒信条・ニカイア信条・アタナシウス信条・カルケドン信条)を受け入れることです。
 プロテスタント教会の中でもかなり違いがあり、さらにローマ教会や東方正教会などは私たちからすれば同じキリスト教会なのかと思ってしまいます。それでもなお、三位一体の神、二性一人格のキリストを信じていれば、同じキリスト教徒として受け入れるのです。
 しかし、三位一体の神、二性一人格のキリストのいずれかでも否定する人たちを、私たちは異端者とします。エホバの証人・統一教会・モルモン教等が知られています。近年では韓国を中心に、一見異端者と分からないような人たちが教会の中に入ってきて、教会ごと、異端の教会にしようとする動きがありますので、私たちも注意しなければなりません。

Ⅲ.教派形成とエキュメニズム
 第二に教派形成についてです。「キリスト教会は一つであるべきだ」と、昔から語られてきています。ローマ教会は「カトリック」と呼ばれていますが、「カトリック」とは「普遍」であり、唯一の公同教会を指しています。ですからプロテスタント教会に対する教会としては「ローマ教会」と呼んだ方が良いのかと思います。また、日本にプロテスタント教会が誕生した時、「横浜公会」と名乗りました。当時各教派の宣教師が来日しましたが、教派性を排除した教会を形成しようとした結果です。戦時中の1941年に、文部省の命令により、プロテスタント教会は合同させられ、「日本基督教団」が誕生しました。この時、キリスト教会の指導者たちは「これぞ神と摂理」として受け入れ、現在でも存在します。
 しかし私たちは、「キリスト教会だから、一つであるべき」という考えも違うと言わなければなりません。主イエスも、「やめさせてはならない。……あなたがたの味方なのである」とだけ語られ、「一緒に行動しなさい」とは語られていません。教会としての違いを受け入れ、教派を形成することを拒否されていないと理解することができます。
 なぜ教派が形成されるかといえば、教会を形成するのは、罪人だからです。神の御言葉である聖書が与えられても、それを解釈するのは人間です。聖書解釈の違い、つまり教理・信仰告白の違いにより、教派が形成されていきます。互いに受け入れ合うことは大切ですが、違いがあっても一つの教会で一致を保とうとする時、問題が生じます。私たち改革派教会は、ウェストミンスター信仰規準という、詳細な信条を採用していますが、これは聖書を解釈した結果、神の御言葉に聞き従う教会を形成しようとしている結果です。違いがあれば、別々の教会を形成し、互いの違いを認め合い、共存する道を歩めば良いのです。
 しかし改革派教会は我が道を行くのではありません。教派の違いを認め合いながら、教派を超えた交わりも(エキュメニカル)、できる限り行っていくことが大切です。「改革派」を強調する必要はありません。純粋な信仰をもってキリスト教会を形成するのであり、その信仰の本質としては改革派信仰・ウェストミンスター信仰規準に基づいているとの認識でよいのです。三位一体なる神を信じているキリスト者相互に、互いに受け入れ合いつつ、キリストを証しする教会を形成していくことが求められています。
 
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 「イエスを歓迎しない人々」  ルカ9:51~56  2022.1.16
 
Ⅰ.主イエスの決意と顔つき
 主イエスは9:22、9:44において、すでに十字架の預言を行われていましたが、ここから主イエスの十字架への道が始まります。「決意を固められる」とは、「その方へ顔をむけられ」(口語訳)、「御顔をまっすぐに向けられ」(新改訳)と訳されていますが、新共同訳の方がはっきりした翻訳となっています。そしてこの主イエスの決意は顔つきに表れます。
 顔つきが変わると、周囲の人々は変化に気が付くかと思います。しかし弟子たちは気付きません。しかし、サマリアの村の人々は、主イエスを歓迎しませんでした。今までは、主イエスのことを歓迎していた者が、歓迎しなくなったのです。今まで人々が主イエスを歓迎していたのは、今まで聞いたことのない福音が語られ、病人が癒やされ、奇跡を行われ、罪の赦が宣言されてきたからです。つまり、人々にとって主イエスはアイドルでした。
 しかし、そうした人々が主イエスから離れていきました。これは、真の神である方、主イエスの本質が人々に明らかになったことを意味しています。主イエスの十字架の目的は、罪人である神の子の罪を赦し、神の国に迎え入れることです。人間的なアイドル、スターであると思っていた人が、真の神・救い主であることが人々に明らかになります。これは、主イエスにより神を信じる者が救われる一方、イエスを受け入れない者たちに対する罪の裁きが明らかになります。彼らは主の裁きを肌で感じ取り、主イエスを拒絶したのです。

Ⅱ.主イエスの道は狭く険しい
 主イエスは、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く……しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」(マタイ7:13~14)とお語りになります。主イエスは、すべての民に福音を告げ知らせることを命じられます(マタイ28:19-20)。しかし、宣教は皆に歓迎され、右肩上がりが約束されているわけではありません。キリスト者として歩む時、人々から受け入れられないこともあれば、迫害も避けて通れない時もあります。
 日本では、豊臣秀吉と江戸幕府により禁教令が出て、キリシタンが迫害に遭いました。60万人程いたとされるキリシタンは弾圧され、背教が迫られました。隠れキリシタンとして生き延びていく人々もいましたが僅かです。今でも世界の各地で、キリスト教徒であるが故に、迫害を受けている人たちがいます。つまり、キリスト者が救いの福音を解き明かしていくとき、それを拒否する人々があり、虐げ、迫害を避けて通ることができません。
 ですから、私たちがキリスト者として生きようとする時、福音を語り、証しの生活が求められますが、八方美人になり、万人に受け入れられることはありません。日本のプロテスタント教会の伝道で、明治期から「政府に認めてもらおう」、「人々に認めてもらおう」としました。この時にキリスト教の本質である福音、「キリストの十字架以外に救いはない」ことを宣べ伝えなければなりませんが、妥協し福音の真理が歪められ、真の信仰から切り離されていきました。こうした状況においてキリスト教が成長することはありません。つまり、私たちがキリスト者として生きていくことは、キリストの十字架によって罪が赦されたこと、天国における永遠の生命に喜びをもって生きることです。

Ⅲ.神の裁きとキリストの愛
 しかしこの時、主イエスの弟子であるヤコブとヨハネは、主イエスが歓迎されなかったことを受け入れることができませんでした。そのため「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(54)と語ります。預言者エリヤにより、モアブのアハズヤの裁きが行われますが、弟子たちはこのことと同じことをイメージしていたと考えられます(列王記下1:10-12)。この罪の裁きは、主からエリヤを通して成し遂げられました。
 しかしこのとき弟子たちは感情的になっています。彼らは、主イエスを守るつもりで、彼ら自身が神となり、罪の裁き手となっています。「無分別な熱心」です(ウ大教理問105)。また、エリヤの時代とは決定的な違いがありました。神の御子、イエスが一緒におられたからです。旧約の時代は、神の御意志が預言者を通して明らかになりました。しかし、今主イエスが一緒におられるのであり、主の裁きは主イエスに委ねなければなりません。主イエスの十字架により、主を信じる者への罪の赦しが与えられます。そして主イエスは、信じない者に悔い改めを待っておられます。今なお、キリストが再臨され、神の国が完成しないのは、神の民が満ちていないからです。主イエス御自身が、十字架の歩みを決意し、顔いろを変えられたように、まだ信仰を告白していない方々、そしてここに集っておられない方々が、信仰告白の決意が与えられますよう、主は見守っていてくださいます。
 
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「神の民として生きる」  ルカ9:57~62  2022.2.6 
 
 序.
 聖書の表題には「弟子の覚悟」と記されています。「覚悟」といえば構えてしまうかも知れません。しかし私たちは、今日の御言葉より、そもそもクリスチャンとはどのように生きることが求められているのかを、与えられた御言葉から考えて行こうと思います。

Ⅰ.キリストの決意と救いを求めない者
 主イエスは十字架に架かるためにエルサレムに向かう決意を固められ、顔つきが変わりました(51)。ここに主イエスのメシアとしての使命感があります。
 キリストが十字架の御業を成し遂げることは、救いを求めない人々には滅びの宣告となります。そのため彼らは、主イエスから離れ、時として虐げを行う者となります。これは見かけの上でキリストを信じていた人、キリストを支持していた人たちに起こることです。このことをウェストミンスター信仰告白第18章「恵みと救いの確信について」の第1節前半で語ります。彼らは「偽善者」であり、メッキが剥がれ、本心が露わになります。
 同様にキリスト者も、彼らの敵対の対象となります。それを避けることはできません。キリスト者は、キリストに逆らう人たちから嫌われないように生活するのか、それとも救い主のお語りになる御言葉に従って生活するのか、選択することが求められます。
 誰も他人に嫌われたくありません。しかしキリストを信じることにより私たちは、肉の死により滅び行く体でしたが、キリストの十字架の御業により復活の体が与えられ、天国における永遠の祝福に満ちた生命が与えられました。そうであるならば、信仰故の苦難に陥っても、救いの喜びと信仰の確信をもって生き続けることができます(信仰告白18:1後半)。

Ⅱ.自らの決意よりも信仰に生きよ!
 ここに主イエスに従おうとする3人が登場します。最初の人は、自分の意思で主イエスを求めて来て、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と語ります。彼は決意をもって従おうとした様子がうかがえます。しかし、「どこへでも従う」との答えに対して、主イエスは御自身について「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と答えられました。つまり主イエスには安住の地はありません。このことは主イエスが十字架に架かり地上の死を遂げるまでのことを語っています。「あなたは、最後まで私と従うことができますか」と、主イエスは問いかけておられます。
 ペトロは最後の晩餐で「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)と語りましたが、わずか数時間後、主イエスのことを「わたしはあの人を知らない」(22:57)と3度語りました。私たちは自分の気持ちを強めればよいものではありません。救いをお与えくださった主イエスにすべてを委ねることが求められています。

Ⅲ.第一のものを第一にして生きよ!
 主イエスは別の人に「わたしに従いなさい」と声をかけられます。この時彼は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と語ります。彼には年老いた父親がいたのです。
 この時、家族を敬わなくても良いのか、主は十戒で「父母を敬え」と語られている、と語られます。聖書は、父母を敬い、死者に対して丁重に葬ることを求めており、決して、父母や家族を疎かにすることを求めてはいません(第五戒)。第五戒は十戒の第二の板「隣人を自分のように愛しなさい」の最初で大切な戒めです。しかし第二の板は、第一の板に次にあります。そして第一の板には主なる神を愛し、主なる神のみを礼拝することが求めています。つまり、私たちは主なる神を第一にすることが求められています(マタイ6:33)。

Ⅳ.優先順位を間違えるな!
 続けて主イエスが誘った人は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず、家族にいとまごいに行かせてください」と語ります。彼は律儀で良いことではないかと思ってしまいます。しかし、主イエスがここで問題だと思っておられることは、地上の事柄を神に優先させて、キリストに背を向けているからです。カルヴァンは注解書でこのように語ります。「この世に対する心遣いに熱中し、正しい道から逸れてしまい、特に、キリストに従うことを妨げる事柄に没頭する者は『うしろを見る者』である」。マルタとマリアの話しにおいて(ルカ10:38~42)、主イエスはマルタに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(10:42)とお語りになりました。主イエスは、私たちに同じことを語っておられるのです。キリストに従うことが最優先であり、家族への報告・別れは後からでもできるからです。主イエスを信じ、キリスト者として生きる時、家族や周囲の人たちとの関係が問われます。私たちはキリストを信じることを第一にすることが求められています。
 序.
 聖書の表題には「弟子の覚悟」と記されています。「覚悟」といえば構えてしまうかも知れません。しかし私たちは、今日の御言葉より、そもそもクリスチャンとはどのように生きることが求められているのかを、与えられた御言葉から考えて行こうと思います。

Ⅰ.キリストの決意と救いを求めない者
 主イエスは十字架に架かるためにエルサレムに向かう決意を固められ、顔つきが変わりました(51)。ここに主イエスのメシアとしての使命感があります。
 キリストが十字架の御業を成し遂げることは、救いを求めない人々には滅びの宣告となります。そのため彼らは、主イエスから離れ、時として虐げを行う者となります。これは見かけの上でキリストを信じていた人、キリストを支持していた人たちに起こることです。このことをウェストミンスター信仰告白第18章「恵みと救いの確信について」の第1節前半で語ります。彼らは「偽善者」であり、メッキが剥がれ、本心が露わになります。
 同様にキリスト者も、彼らの敵対の対象となります。それを避けることはできません。キリスト者は、キリストに逆らう人たちから嫌われないように生活するのか、それとも救い主のお語りになる御言葉に従って生活するのか、選択することが求められます。
 誰も他人に嫌われたくありません。しかしキリストを信じることにより私たちは、肉の死により滅び行く体でしたが、キリストの十字架の御業により復活の体が与えられ、天国における永遠の祝福に満ちた生命が与えられました。そうであるならば、信仰故の苦難に陥っても、救いの喜びと信仰の確信をもって生き続けることができます(信仰告白18:1後半)。

Ⅱ.自らの決意よりも信仰に生きよ!
 ここに主イエスに従おうとする3人が登場します。最初の人は、自分の意思で主イエスを求めて来て、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と語ります。彼は決意をもって従おうとした様子がうかがえます。しかし、「どこへでも従う」との答えに対して、主イエスは御自身について「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と答えられました。つまり主イエスには安住の地はありません。このことは主イエスが十字架に架かり地上の死を遂げるまでのことを語っています。「あなたは、最後まで私と従うことができますか」と、主イエスは問いかけておられます。
 ペトロは最後の晩餐で「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)と語りましたが、わずか数時間後、主イエスのことを「わたしはあの人を知らない」(22:57)と3度語りました。私たちは自分の気持ちを強めればよいものではありません。救いをお与えくださった主イエスにすべてを委ねることが求められています。

Ⅲ.第一のものを第一にして生きよ!
 主イエスは別の人に「わたしに従いなさい」と声をかけられます。この時彼は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と語ります。彼には年老いた父親がいたのです。
 この時、家族を敬わなくても良いのか、主は十戒で「父母を敬え」と語られている、と語られます。聖書は、父母を敬い、死者に対して丁重に葬ることを求めており、決して、父母や家族を疎かにすることを求めてはいません(第五戒)。第五戒は十戒の第二の板「隣人を自分のように愛しなさい」の最初で大切な戒めです。しかし第二の板は、第一の板に次にあります。そして第一の板には主なる神を愛し、主なる神のみを礼拝することが求めています。つまり、私たちは主なる神を第一にすることが求められています(マタイ6:33)。

Ⅳ.優先順位を間違えるな!
 続けて主イエスが誘った人は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず、家族にいとまごいに行かせてください」と語ります。彼は律儀で良いことではないかと思ってしまいます。しかし、主イエスがここで問題だと思っておられることは、地上の事柄を神に優先させて、キリストに背を向けているからです。カルヴァンは注解書でこのように語ります。「この世に対する心遣いに熱中し、正しい道から逸れてしまい、特に、キリストに従うことを妨げる事柄に没頭する者は『うしろを見る者』である」。マルタとマリアの話しにおいて(ルカ10:38~42)、主イエスはマルタに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(10:42)とお語りになりました。主イエスは、私たちに同じことを語っておられるのです。キリストに従うことが最優先であり、家族への報告・別れは後からでもできるからです。主イエスを信じ、キリスト者として生きる時、家族や周囲の人たちとの関係が問われます。私たちはキリストを信じることを第一にすることが求められています。
 
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「収穫の主に願いなさい」  ルカ10:1~12  2022.2.13  
 
Ⅰ.主に委ねて生きよ!
 主イエスは、12名の使徒たちを宣教に派遣したこと(9:1)に続けて、72名の弟子たちを宣教に派遣します(10:1)。聖書によっては「70人」と訳されています。写本の違いによるのですが、聖書を理解するにはこの違いは問題にはなりません。この当時、主イエスにどれだけの弟子たちがおり、この中に女性や子どもがいたのかも分かりません。しかし、この段階で72名が宣教に送り出すことは、キリストの弟子の皆が宣教に遣わされたと理解して良いかと思います。ですから私たちがキリスト者として社会において生きることは、キリストの証し人として生きることであることを受け入れることが求められています。
 そして、主が私たちキリスト者を送りだそうとしている社会が、どういう社会であるか、私たちは理解しておかなければなりません(3~4)。「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」。私たちは、自らの姿を確認することが求められます。伝道をすることは、自分で努力することが求められていると思われる方もいるかと思います。それは、何事においても自分の力・自分の能力・自分の信仰にうぬぼれを持ち、自分で解決しようとしていることを意味しています。一生懸命に努力すれば伝道は成功し、社会的にも成功すると思ってしまいます。しかし私たちが相手にするのは、主なる神を知らない人であり、その背後にサタンがいることを忘れてはなりません。彼らの頑なさ、自惚れ、傲慢、こうしたものは、サタンから来ているのであり、私たちが自分の力で対処できるものではありません。
 ですから、「財布も袋も履物も持って行くな」と語ります。お金があれば不自由はありません。着替え、履き替えの草履を持って行くことも同様です。現在で言えば、お金と同時に、携帯やパソコンではないでしょうか。手元になければ不安になり、焦ります。主なる神は、私たちが自分の力で解決することを行わないように求められます。つまり、今日の泊まる場所・食べるものも、主なる神に頼り、委ねて祈りなさい、と語られています。
すべてを神さまに委ねて、祈りつつ行動することが求められます。

Ⅱ.二人ずつ遣わされる主
 主イエスが弟子たちを二人ずつ遣わされました。主の証し人として生きることでは、すべてのキリスト者が宣教者として遣わされます。しかし直接的に御言葉を語り、福音を語るのは牧師です。ですから教会の牧師のことを考えてみたいと思います。現在大宮教会の牧師は私一人です。現在のように、牧師不足の時代、牧師を二人にすることは無理があり、現実困難なことです。二人・三人の牧師が、より多くの教会の責任を持つことはどうでそうしょうか。このことを実現するためには十分に議論を行う必要があります。しかし一人の牧師が教会の主(あるじ)になる弊害を考えるならば、一考する価値があるかと思います。
 カルヴァンは注解書で語っています。「主は彼らの弱さを考慮されているように思える。なぜならば、ばらばらになると、任務を遂行するのに必要な強い勇気がなくなる恐れがあるからである。それ故、彼らが互いに励まし合うように、主は彼らを『二人づつ』遣わされたのである」と。
 また多様性について考えることもできます。人には個性があります。個性はぶつかります。しかし複数の牧師がいれば、一人が受け入れることができなくても、もう一人が受け入れることが可能となるからです。こうして教会は多様性を広げることができます。

Ⅲ.キリスト者は平和の使者
 そして主イエスは具体的なことを語ります(5~12)。「平和」とは「平安」であり'peace'、「シャローム」(ヘブライ語)です。キリスト者が信仰を証しすることは、人々に平和・平安を届けることであり、終末的な意味を持ちます。「神の国」は、キリストが再臨され、最後の審判をとおして与えられる天国のことです。天国では、罪もサタンもなく、死もない平和が訪れます。神の国が近付き、平和が訪れることは、終末的な出来事であり、キリスト者でなければ叫ぶことができないことです。
 神による救いを知らない世は狼の群れが戯れており、生きるか死ぬかの戦いが行われています。日本では、戦後75年の間、憲法9条に守られ、平和と繁栄の時代を送ってきました。憲法9条を私たちにお与え下さった主の恵みがあることを忘れてはなりません。そして今、憲法を改悪が迫っています。だからこそ私たちキリスト者が、神による平和を届けることが大切です。私たち一人ひとりが、隣人の罪を赦し、そして和解をしなければ、真の平和はあり得ません。私たちを通してお働きになる主なる神には御力があります。主に不可能なことはありません。主を信じて、語ることが、私たちに、今、求められています。
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「イエスを拒む者」  ルカ10:8~16  2022.2.20  
 
Ⅰ.主の裁き
 主イエスは、72人、つまり主イエスの弟子は皆宣教に派遣されました。私たちも派遣されていることを確認してきました。そして、主なる神による救い、神の国としての天国が指し示されても、それを断り、主に従わないとどうなるか隠してはなりません。かの日、つまりキリストが再臨し、神を信じる者に罪の赦しと永遠の生命が与えられる日、そこに与ることのできない人たちは最後の審判によって主の裁きをうけます(参照:ウェストミンスター大教理問89)。
 この主の裁きに関して主イエスは、「かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」と語られます(12)。ソドムは、創世記18章・19章で主の裁きにより滅ぼされることが語られています(参照:創世記18:20)。非常に罪が重い町です。自らの罪、不道徳の故にすべてが滅ぼされても仕方がない町です。その様な町でも、主はすぐに町を滅ぼすことはなく、アブラハムの願いを聞い、主の使いを送り、その使いを受け入れる者(ロトとその家族)に救いをお与えくださいました。主は救いの民を見殺しにされることはありません。
 次に同じように主の裁きに遭うと語られているティルスとシドンです(14)。地中海に面したフェニキア地方の町です(参照:聖書巻末地図6)。エジプトなどとの貿易が盛んで、この地方有数の町でした。そのため様々な文化があり、イスラエルからは「姦淫の町」とまで言われるほど道徳が乱れていました。その様な町ですら、キリストの教え(福音)を聞きに、病気の癒やしを求めてガリラヤまで来た人々がおこされていました(6:17)。
 神さまは、ソドムやティルス・シドンのように、町全体がどれだけ汚れていても、その中に一人でも主の民がいると、滅ぼされることはありません。それだけ情け深く、憐れみ深い神さまです。そして主イエスは、「ソドム、ティルスやシドンの町々が腐敗し、乱れた生活をしているのは、福音が語られていないからだ」とお語りになります(10:13b)。

Ⅱ.イスラエルの罪
 その上で主イエスは、ソドム、ティルスやシドンの方が軽い罰で済むとお語りになり、「あなたたちは、私が語ってきた言葉を、行ってきた癒やしの業を聞いて、見ていただろ!」とお語りになります。キリストの福音を拒み伝道者を拒むことは、それだけの重い罪です。
 カファルナウムは、主イエスが伝道の拠点として置いていた町です。そしてベトサイダはフィリポ、ペトロ、アンデレの出身地でした(ヨハネ1:44)。そしてコラジンは、カファルナウムからわずか3km程にあり、主イエスの御言葉も奇跡の噂は確実に人々の耳に入っていた町です。ティルスやシドンであっても、主イエスの噂を聞き、駆けつけてきた人々がいたのですから、コラジンにいて主イエスを信じないのは、責任が問われるのです。多くの人々が、主イエスの御言葉を聞き、キリストの奇跡を見てきていました。神の恩恵、神の御業、神の御言葉が示されながらも、それを拒否し受け入れないことこそ、最大の罪です。神に対する冒涜、聖霊の御霊を汚すこととして、厳しく罰せられます(10:15)。

Ⅲ.私たちも遣わされている!
 この時主イエスは72人を遣わされ、私たちも遣わされています。「福音」とは、「よい知らせ」Good Newsです。福音を宣べ伝える伝道は「喜び」が伴います。福音は、滅び行く人たちに、救いの宣言が語られます。そして私たちが証しする言葉がたとえ言葉足らずであったとしても、ここに聖霊が働きがあり、耳を傾けるのです。
 しかし多くの人々は、この「良い知らせ」に福音に耳を傾けることができません。なぜなら、語られる福音を聞く前に、語る人を見ることにより、人々は「自分には関係のないこと、聞く必要のないこと」と耳を閉ざします。これが問題です。ここで遣わされた72人も、彼ら自身に何か権威があったからではありません。人々を納得させるだけの語り手であったわけではありません。聖霊をとおして主の御言葉・福音が伝えられるのです。聖霊が働き、主が、権威を授けてくださいます。この時、伝える者・説教者から語られる言葉は力を持ち、信じるに値する言葉が伝えられます。
 伝道を「自分の力で行え」と命令されていたとすれば、どうでしょうか? 空しいだけです。人間的な弱さに苦しみ、嘆くしかありません。しかし、聖霊が共に働くことにより、主の権威により福音が伝えられます。そうすることにより、聞く者の心の扉が開かれ、福音が伝わります。この時、自分で言葉を語る必要はありません。主が言葉をお与えくださいます。主に委ね、聖霊の働きがあるとき、福音に力があり、神の国は届けられます。
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 「クリスチャンの本当の喜び」  ルカ10:17~20  2022.3.6  
 
序.
 聖書を読むとき、前後の文脈を理解しつつ読み進むことが大切です。主イエスは12名の弟子たちを宣教に派遣されました(9章)。この時、主イエスは弟子たちに、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになりました。10章で72名の弟子たちを派遣した時にも、主イエスは彼らに同様の権能をお授けになったと思われます。そのため、福音が伝えられても悔い改めない人たちは、ソドムやティルス・シドンの罪よりも重いのです。

Ⅰ.伝道の成果を自分の手柄にしてはならない
 72人が宣教から帰ってきた時、多くの人たちが福音を受入れ、悔い改めたことが報告されました(17)。彼らの多くは、「一生懸命、伝道すれば結果が伴う」と思ったと思います。
 このことは、今の大宮教会においても言えることです。伝道が難しい中、大宮教会では、洗礼者・加入者が与えられ続け、また長老・執事に相応しい方々が与えられています。しかしここに落とし穴があります。これらの結果を人間の手柄とすると、神の教会ではなく、人間の作り上げる教会となってしまいます。
 主イエスは語られます。主が必要な権威・権能・能力をお与えくださるからこそ、悪霊を追い出すこと、福音宣教において必要な言葉を宣べ伝えることが可能となるのです(19)。主が勝利してくださったのであって、自分の力、自分の能力を誇るべきではないように、主イエスは語っておられます。私たちはサタンの力に対抗することはできません(参照:ヨブ記1-2章)。主がすべての必要を満たしてくださったのです。私たちの教会も同じです。

Ⅱ.皆が天国に入れるわけではない
 つまり多くの人たちは、受洗者が出た・礼拝出席者が増えたと目に見えることを喜びますが、そうであってはなりません。聖書には語られていませんのではっきりしたことは言えませんが、この72人は、皆クリスチャンとしての歩みを行い、生涯をまっとうして神の国に受け入れられたでしょうか? 主イエスが十字架に架けられるために逮捕された時、12使徒ですら主イエスから離れていきました。この72人も然りではないでしょうか。主イエスが死から復活を遂げられ、天に昇られた後、聖霊が降臨するまでの間、120人が一つに集まって祈っていました(使徒1:15)。ですからこの72人が皆含まれていたかも知れません。しかし主イエスから離れていった人たちも少なからずいたのではないでしょうか。

Ⅲ.天に書き記されているあなたの名
 主イエスは語られます。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」 (20)。またパウロは「わたしたちの本国は天にあります。……」(フィリピ3:20-21)と語ります。私たちが信仰を告白しクリスチャンとなった時、私たちの名前はすでに天国の名簿に書き記されています。これは天国へのパスポートです。天国に名前が記されていなければ、天国に入ることはできませんし、不正を働いて偽っても見破られます(参照:ヨハネ10:7-10、黙示録21:27)。
 日本語聖書では「あなたがたの名が天に書き記されている」と訳され分かりませんが、英語では完了形で記されています。つまり主なる神は、初めから私たち一人ひとりをお覚えくださり、天国に名前を書き記し、登録し、私たちがキリストの十字架の故に罪赦され、救われることは確定しています。つまり私たちの救いは、既に神の永遠のご計画の中に入れられているのです。そうであれば、「自分は本当に救われるのだろうか? こんなことを行っていれば、救われないのではないか?」との疑う人もいるかと思いますが、そのような心配もいりません。神を受け入れ、キリスト・イエスによる十字架の贖いを受け入れ、信仰を告白する者は、すでに主が天国に名前を記しています。
 今から主の晩餐に与りますが、私たちが確かに救われている、天国における晩餐に招かれていることを確認することです。パスポートを持って海外に行く時、あるいは日本に帰ってくる時、証明の印が押されます。主の晩餐に与るのは、私たちが天国に入るために、すでに名前が記されており、あなたは天国に入る資格がありますよと、あらかじめ確認を受けているようなものです。天国への入国審査を既にパスしていることを、聖餐により確認するのです。だからこそ私たちは、神さまを信じて、信仰を告白するならば、もう何の心配もなく、安心して生きることができるのです。これがキリスト者としての救いの喜びの生活です。だからこそ主イエスは、今神さまを信じていることを喜ぶのではなく、また将来のことを不安に思うことなく、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とお語りになります。
 
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「主なる神のみを見よ!」  ルカ10:21~24  2022.3.13 
 
Ⅰ.生活における喜びとは…
 皆さまは、どのような時に喜びが溢れるでしょうか? 人それぞれかと思います。しかしそれらは永続的な喜びでしょうか? 多くの場合、一時の喜びかと思います。また一つの目的が達成され喜んでいたとしても、次の目標に向け結果が求められます。そうなると、達成した喜びの内に安らぎはなく、追い迫られてくることとなります。

Ⅱ.リジョイス
 しかし主イエスが持っておられる喜びは消え去ることはありません。主イエスは、宣教旅行に遣わした72人が喜んで帰って来た時、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と語られました(20)。一時の成功を喜ぶのではなく、永遠に続く喜びを私たちは見つける必要があります。パウロは「わたしたちの国籍は天にある」と語ります(フィリピ3:20)が、主を信じる私たちは天国に入るためのパスポートが与えられています。つまり私たちに与えられたリジョイスは、「天国に名前が書き記されている」ことであり、天国での永遠の生命が約束されています。奪われることのない確定した身分があるからこそ、不安に陥ることもなく、喜びを永続的に保つことができます。
 また天に名が記されていることが事実でも、そのことを知らなければ喜びを共有することはできません。だからこそ、私たちは伝道することが求められています。救いの喜びは、自分一人で納得するものではなく、多くの者が共有することにより喜びが増します。教会がその交わりの場です。この永遠の生命につながる教会の交わりに、家族、知人を招き、永遠の喜びを共有するために伝道が求められます。
 しかし救いの御言葉を伝えられ、知識として理解したとしても、それを受け入れ信じることができない人もいます。救いを得ることは、自分で獲得することではないからです。「天国に名前が書き記されている」事実を知るためには、幼子のように無防備になり、神の御言葉を聞く人でなければなりません。つまり主なる神が聖霊を通してお語りになることを、全面的に受け入れることが求められています。何か条件を出していてはダメです。自分の力で勝ち取ることではなく、神がすべてを提供してくださいます。無になり、すべてを神に委ね、明け渡すことによって、初めて、神がお語りくださる御言葉、救いの言葉が聖霊によって私たちの体の中に入ってきます。だからこそ主イエスは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(ルカ18:25)とお語りになります。

Ⅲ.神と出会うことによって与えられる天国への救い
 ですから、私たちが永遠に朽ちることのない喜び溢れる希望を手に入れようとするなら、社会で成功すること・一攫千金を手にすること・名声を得ることを、第一の目標としていても手にすることはできず、神の御前に立ち、神を知り、神がわたしに何をくださろうとしている救いを受け入れるしかありません。
 そのため主イエスは、弟子たちに対して「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」とお語りになります。弟子たちが見ているもの、つまり目の前におられるイエス先生を主なる神として見上げることです。旧約の民は、ダビデの末としてメシアが現れることは預言されていましたが、実現していませんでした。ですから、動物による生贄を行うことによって、十字架で犠牲を払われるメシアが来る約束が示されていただけで、キリストと出会うことはありませんでした。しかし弟子たちはこのとき、直接キリストと出会い、そして私たちも今、御言葉である聖書を通して復活のキリストと出会っています。そして私たちが主イエスと出会うことにより、父なる神と出会い、父なる神が備えてくださった天国における永遠の生命が指し示されています。
 私たちは今、聖霊の働きと御言葉によりキリストと出会っています。父・御子・聖霊なる三位一体なる神が私たちに示されています。三位一体なる神を知ることにより、神による永遠のご計画が示されます。永遠から天地万物の創造に始まり、旧約の時代、イエス・キリストの時代、新約の時代、これから先のすべてを御支配くださる神の御手に、私たちは置かれています。神の深さ・大きさ・広さを知れば知る程、私たちは神の御前に自らの小ささが分かってくるはずです。しかし、そこに私の救い、天国に名が記されています。
 自分の力で救いを手に入れることはできません。主なる神を無条件に受け入れる者に、廃れることのない救いという大いなる喜びが与えられます。私たちがこの喜びに生きる時、苦しみ・悲しみが迫ったとしても、永遠の希望を持って生き続けることができます。
 
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 「善きサマリア人」  ルカ10:25~37  2022.4.3 
 
序.
 伝道が成功し、悪霊さえも屈服したことに喜んでいた弟子たちに対して、主イエスは、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(20)と語られました。その上で、救い主である主イエスを見ることができることの幸いをお語りくださいました。

Ⅰ.自己中心の信仰の誤り
 この時ある律法の専門家が立ち上がり、主イエスに発言します。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25)。彼は、主イエスを試し「自分を信じなさい」と語れば、神を冒涜していると指摘しようとしていました。このときに主イエスは、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(26)と問いかけます。
 彼は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」(27)と答えます。ここでは十戒の要約として、神を愛すること、隣人を愛することが語られています。彼らは律法主義者であり、特に第四戒における「安息日厳守」を求め、安息日に働く者を厳しく罰していました。しかし主なる神が第四戒をお語りになるのは、イスラエルを愛してくださり、救いへを導いてくださった主なる神を忘れないためです。また同時に、奴隷にいたるすべての人が、七日の内一日は体を休め休息するためでした。
 また主は、罪人である人間が律法を完全に守ることができないことを知っておられました。そのため主は、律法厳守ではなく、信仰によって救いに入ることを求めておられます。
 このとき律法の専門家は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と問いかけます(29)。自分は律法を守ることができる範囲で枠を定めようとします。

Ⅱ.どのように主なる神を信じているのか
 主なる神は、空間的に無限・時間的に永遠・変わることがない不変の神です。その支配は、全世界・全宇宙のマクロの世界、そして目に見えないミクロの世界にまで及びます。主なる神は、主がおつくりになられたすべての被造物・人間を愛しておられます。その中の一人が苦しみを覚える時、彼・彼女を愛する者として、助けることを主は求めておられます。そのため隣人を限定することは、枠の外にいる人たちは助けなくて良いということになり、それは主なる神・律法に対して挑戦していることとなります。
 つまり、彼らは主なる神を理解することをしない、自己中心の信仰を持っています。自分の都合のよいように聖書を解釈し、律法に制限を加えることは、自己中心の信仰であり、主なる神を自分の奴隷のように扱っている信仰もどきということになります。
 主イエスが語られる追いはぎにあった人は、エルサレムからエリコへ下っていく途中に追いはぎに襲われたのであり、ユダヤ人でした。ですから、ユダヤ人である祭司やレビ人が、同胞のユダヤ人を隣人として助けることが求められました。しかし彼らは見ないふり、知らないふりをして、彼を助けませんでした。

Ⅲ.神の救いに生きるキリスト者
 しかしサマリア人は、彼を助け、介抱し、宿屋まで届けました。神の民として、永遠の生命を受け継ぐ者として生きるとき、隣人の苦しみに心を痛めます。思いやり、そして自らが何もできない弱さ・小ささに悩みつつ、できることを行動に移すのです。それが神の愛よって罪赦され、神の子とされたキリスト者の隣人愛です。ウェストミンスター大教理問答問135は、第六戒において「殺してはならない」ことに関連して積極的に求められている義務について告白します。私たちは、完全に律法を守ることはできません。しかし、主なる神による救いに導かれ、信仰が与えられた時、主を愛し、隣人を愛する者として、救いに感謝しつつ、喜びをもって、律法に従おうと願い、行動する者と変えられています。そのことをヤコブも語ります。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役にたつでしょうか」(ヤコブ2:14)。
 主なる神によって教会に集められ、イエス・キリストの十字架の死と復活により救いが与えられた私たちは、隣人を愛することが求められています。今であれば、ウクライナの人たち、香港・ミャンマーで虐げを受けている人たち、自然災害や経済的理由で苦境の中にある人たち、病気や身体的な障がいを抱えている人たちもいます。教会は、教会に来られている人たちのことを覚えますが、教会外におけるこうした苦しみを覚えている人たちを覚えて、愛の業を行っていくことが求められています。執事的な働き(愛の業)は、執事だけが行うのではなく、キリスト者一人ひとりが意識して行うことが求められています。
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 「御言葉と奉仕、優先すべきは」  ルカ10:38~42  2022.5.1 
 
Ⅰ.腑に落ちない?
 マルタとマリアの話しは、読んでいて腑に落ちない方もいるかと思います。客人である主イエスを持てなすマルタに対して、主イエスが「良し」とお語りにならないからです。ルカは、直前に善きサマリア人への譬えを語りました。私たちは隣人の垣根を取っ払う必要があることを確認しました。近くの人、同胞のみならず、異邦人・敵すらも隣人です。このとき私たちは御言葉によって「隣人とは誰であるか」が示されることが大切であり、今日の御言葉においても、御言葉により神の愛に基づく隣人愛によって奉仕を行うことを確認しなければ、「行いによる救い」が可能であるとの誤解が生じます。

Ⅱ.主イエスをもてなすマルタ
 主イエスは、マルタとマリアの姉妹の家を訪問します。ヨハネ福音書11章では、マルタとマリアの弟ラザロが死んだ時、主イエスが甦らせられたことが記されています。主イエスが度々マルタとマリアの家に赴き、豊かな交わりがあったと考えられています。
 そしてマルタは、主イエスが訪問してくださることを聞き、食事の準備をしています。親しい家族、友人が尋ねてくる時、誰しも周到準備を行います。最初に「一行が」とあるように、主イエスと共に弟子たちや一緒に旅をしていた人たちがいます。20~30人はいたのではないでしょうか。お持てなしを行うのには、相当な準備が必要です。
 もてなしの準備をすること自体が、否定されることではありません。客人のことを思い、愛をもってお持てなしを行うことは、大切なことです。

Ⅲ.第一のものを第一にせよ!
 しかしマルタの一言で状況を一変させます。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(40)。主イエスはマルタの心を察しています。マルタには、「自分はこれだけ行っているのに、マリアは…」と、マリアが何も行わないことに対する不平・不満があります。主イエスを丁重におもてなしをしたい思いは、しなければならない、自分だけが行っているとの思いが強いのです。マルタはマリアの行動を理解することができません。
 この時主イエスは、「必要なことはただ一つである。マリアは良い方を選んだ」(41)とお語りになります。つまりマリアが求め、マルタに欠けていたこと、マルタが気が付いていなかったことを主イエスは指摘します。つまり、主の御言葉に聞くことです。つまり、お持てなしは大切なことです。しかし、御言葉に基づく、御言葉に根差した神の愛に満ちて、神と人に仕える思いで行われる持てなしが求められています。だからこそ私たちは、一日の最初、朝に神の御前で、御言葉と祈りに時間を割くことが求められます。個人礼拝、デボーションです。リジョイスで御言葉の養いを受け、一日を始めることです。
 マルタの心配、これは、皆さまもよく分かると思います。しかし、第一のことではありません。こうしたことは、第一のことである御言葉に聞いた後に、行えば良いことです。御言葉に聞く前に、十分に準備を行っておくことも大切です。
 聖書は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』」(10:27)と語ります。十戒は、第一の板に続けて第二の板があります。これらが並列に並んでいるのでも、どちらか一方だけがあるのでもありません。つまり、序文を理解した上で、第一の板、第二の板を順番に確認しなければなりません。私たちは神によって救い出されました。そのためにイエスさまは十字架にお架かり、死と復活を成し遂げてくださいました。神の救いに生きる者は、神の御言葉の養いにより、救いの感謝と喜びをもって奉仕を行います。

Ⅳ.70周年記念宣言に生きるキリスト者
 日本キリスト改革派教会は、戦後1946年に日本基督教団を離脱して創立されましたが、創立宣言において、改革派教会を信仰告白・教会政治・そして善き生活によって建て上げることを告白しました。最後に記された「善き生活」が目的化してはなりません。「聖書に基づく信仰告白」が第一にあり、長老主義に基づく教会形成がその次です。その基板に立って、主による救いへの感謝と喜びをもって奉仕を行うことが求められています。
 そして創立70周年記念宣言(2016年)において、改めて御言葉に基づいて教会を形成し、その延長線上に、福音宣教、愛の業としてのディアコニア・善き生活があることを、改めて告白しました。「良き行い」、「おもてなし」ありきではなく、命の道としての御言葉に基づく感謝と喜びをもっての奉仕することこそが、キリスト者の生きる道です。
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「祈りの見本」  ルカ11:1~4  2022.5.8
 
Ⅰ.ルカ福音書の流れを覚えて今日の箇所を読もう!
 ルカは11章に入り、祈りについて語り始めます。しかし、聖書は前後の文脈を確認しつつ、読み進まなければなりません。そもそも聖書が記された時、章・節も、ましては表題など付けられていません。
 主イエスは、逮捕され十字架に架けられるために、エルサレムに向かう決意を固められました(9:51)。10章に入り、主イエスは72人を宣教に派遣されますが、彼らが帰ってきて喜びの報告を行った時、主イエスは彼らに対して、伝道が成功することを喜ぶのではなく、救い主イエスと出会っていること、神の救いにあることを喜ぶことが求められました。そして25節からは善きサマリア人の例えが語られます。隣人愛に満たされて奉仕を行うことの大切さを確認すると共に、私たちは隣人とそうでない人たちと境界を設定して壁を作ってはならないことを確認しました。38節からはマルタとマリアのことが語られていました。隣人愛に満たされ奉仕を行うことは素晴らしいことですが、御言葉こそが奉仕に優先するのであって、奉仕が第一になるとき、律法主義に陥ってしまうことを確認してきました。

Ⅱ.御言葉から祈りへ
 これらの話しに続いて、ルカは祈りについて語ります。つまり、私たちが祈る時、奉仕を行うときと同様に祈りが先行してはならず、主がお語りになる御言葉が第一でなければなりません。つまり、主なる神が存在され、私たちを救ってくださっている、この救い主である神が私たちに御言葉をとおしてお語りになられていることが前提にあります。
 言い換えれば、御言葉に聞くことなく祈ろうとするとき、自己流になってしまい、主が求めておられる祈りを行うことができません(参照:子どもと親のカテキズム問87)。主の御言葉に聞くことを疎かにするならば、私たちクリスチャンにも起こることです。ですから、主がお語りになる御言葉に聞いた上で、祈りを行うという順番を大切にしなければなりません。

Ⅲ.主の御名を崇める祈り
 その上で、主イエスがお教えくださった主の祈りに聞かなければなりません。主の祈りの前半部分は、主の栄光を称え、主を誉め称える祈りです(参照:子どもと親のカテキズム問87後半)。これは、御言葉に聞かなければ出てこない祈りです。
 私たちがこの祈りを行うためには、ただ主の御言葉に聞いていればよいのではありません。つまり私たちが御言葉をどのように聞き、理解しているかが問われます。聖書全体の流れを理解していただきたいと思います。主なる神は、天地万物を創造し、私たち人間にも生命をお与えくださいました。この主なる神は、罪の故に滅び行く私たちを、御子イエス・キリストの十字架の贖いの故に救い、神の子として神の国である天国へと導いてくださいます。このように聖書で語る神の救いの全体像を知ることにより、私たちも神の大いなる御業の内に入れられていることが示され、御名を崇め、御国が来ますように、そして御心の天になるごとく地にもなさせたまえ、と祈ることができるようになるのです。
 主イエスが祈りの見本としてお教えくださった主の祈りを、私たちは礼拝毎に祈り、またご家庭において毎日祈っておられる方もいるかと思いますが、意味を理解せずに祈っていてはだめです。 主なる神が創造者であり、救い主であることを理解しつつ、この主なる神が私たちを支配し、すべての恵みをお与えくださる方であることを理解しつつ、祈ることが求められています。罪人である私たちを救い、私たちの祈りをすべて聞き届けてくださる神の愛をかみしめて祈ることが求められます。

Ⅳ.隣人愛に基づく祈り
 そして主の祈りの後半では、私たちが個人的な思いを祈ることを良しとしてくださっています(参照:11:9-10)。しかし私たちが御言葉により、主の栄光を誉め称え、主の御業として神の国の完成を願うとき、続けて私たちが自分自身のことを祈る時、単に自分のことだけを願う祈りとはなりません。つまり、主なる神の尊い御計画に組み入れられた私がここにいます。神の子とされた私が、神の子として生きるのに必要なものが与えられ、そのことをとおして主を証しすることができるものとされています。そうであるならば、単に、自らの欲望を願い祈るのではなく、なおも主なる神の栄光を称えつつ、その中に生きる民にとって何が必要であるかを祈り求めることとなります(参照:ウェストミンスター大教理問187)。
 最後に「わたしたちも自分の負い目のある人を皆赦しますから」という言葉を確認します。キリストが無条件に私たちの罪を赦してくださったように、無条件に他者の罪を赦し、和解することが求められています。ここに謙遜と自己否定が求められています。
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「求めなさい。そうすれば与えられる」  ルカ11:5~13  2022.5.15 
 
 Ⅰ.確信をもって祈ろう
 主イエスは弟子たちに祈りをお教えくださいました。私たちは主の御言葉に聞いた上で祈ることの大切さを確認しましたが、同時に私たちは主なる神に、自分自身の必要・求めていることも許されていることを確認しました。
 ここで主イエスは、弟子たちに対して譬えを話されます。イスラエルでは、昼間は高温になるために、夕方・日が暮れてから旅に出ることも行われていました。ですから、道を急ぐときは夜中になっても歩きました。現代のように携帯などない時代、真夜中に突然、友人の家の門を叩くことになります。家族が皆寝静まっている時間であり、非常識です。
 しかしここで常識・非常識を議論するのではありません。彼がとった行動そのものに目を向けなければなりません。旅行をするには食べ物が必要です。また彼は、尋ねて行く友人の家には迷惑になるのは分かっていました。しかし彼の家はパンがあることを確信していました。ここで大切なことは確信して行動することです。この確信が祈りでも必要です。
 私たちは、こんなことを祈っても大丈夫だろうかと思うこともあります。しかし、私たちが祈り求めるお方は、天地万物を創造され、私たちに命を与え、恵みにより毎日の生活を支えていてくださり、御子を十字架にお渡しくださることにより、私たちの罪の赦し、私たちを神の子として、天国における永遠の生命をお与えくださる神です(ウ大教理問189)。
 主イエスは、「求めなさい」・「探しなさい」・「門をたたきなさい」とお語りくださいます(9-10)。聖書は重要なことを2度・3度言葉を重ねます。確信を持って祈る祈りには力があります。私たちの祈りは聞かれ、確実に必要は満たされます。私たちは一度の祈りであきらめ、神を疑うのではなく、確信をもって祈ることが求められます(8)。主が聞き届けてくださるとの確信をもって祈る時、困難なことであっても主が解決してくださり、祈りが聞き届けられます。祈りには、山さえ移動する力があります(参照:マタイ17:20)。

Ⅱ.諦めずに祈り続けよ!
 例え話に戻りますが、真夜中に尋ねてきた人に起こされた人は、真夜中であり、面倒なことはしたくありませんので、友人の頼みを断ります。しかし、しつように頼み続けることにより、渋々ですがパンを与え、もう一度寝ることができるように行動します。
 祈りも、このしつこさ、粘り強さ、あきらめないことが大切です。一度祈って、祈りが聞かれなかったから、「神はいない」、「私の祈りなど聞いてくださらない」とあきらめてはなりません。粘り強く祈り続けることが大切です(参照:ルカ18:1-8)。

Ⅲ.聖霊による祈りの確かさ
 そして私たちは、祈りを献げる主なる神がどのような方であるか知らなければなりません(11-13)。主なる神は、私たちの罪を赦し、救い、神の子どもとするために、御子をこの世にお送りくださり、十字架の苦しみと死にまで置かれました。私たちを愛してくださっている主なる神は、私たちに最も必要なものを、祈りの答えとして備えてくださいます。
 そして、主イエスはさらに「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13)とお語りになります。主イエスがお生まれになられた時、「インマヌエル=神は我々と共におられる」と語られました(マタイ1:23)。そして、弟子たちは主イエスと共に歩むことによって、勇気をもって福音宣教を行うことができました(ルカ10章)。しかし、主イエスが逮捕され、十字架に架けられることによって、弟子たちは去って行くこととなります。しかし、主イエスが復活され、真の信仰者として立つことができるようになった時、主イエスは天に昇るにあたって、聖霊を約束してくださいました(ルカ24:49、使徒1:8)。聖霊をとおして、私たちは力を持っておられる主イエスと共に歩むことができます。
 今日私たちが、主を礼拝するために教会に集められています。主が私という人間をお用いくださり、牧師として立て、神がお与えくださった神の御言葉である聖書を通して、語りかけてくださいます。ここに聖霊が宿り、私たちと共にキリストが臨在されることを、私たちは確認することができます。だからこそ私たちは教会に来て、主を礼拝するのです。
 そして聖霊をとおして私たちと共におられる主イエスは、奇蹟を行われます。死者を復活させられます。病人を癒やされます。嵐を静められます。自然の秩序を超えて、私たちの常識では考えられないことを、世界を支配しておられる主なる神は、私たちの祈りの答えとして、成し遂げてくださいます。だからこそ私たちは、キリストの民として、希望と喜びをもって、祈りが聞き届けられる確信をもって、主に祈り続けることができるのです。
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 「悪霊の働きと主の御業」  ルカ11:14~23  2022.5.22
 
Ⅰ.言葉を回復する主イエス
 親と子、為政者と国民の人間関係においてはいくつかのスタイルがあるかと思います。その一つに力による支配があります。時に相手の弱みを握り、時にアメとムチを使い分け、一方的な支配を行います。このとき、反論さず黙らせます。力関係がはっきりしていれば平穏ですが、上に立つ者は常にクーデターや権力争いに脅えることとなります。
 今日の御言葉で登場する悪霊はその代表です。悪霊は、口を利けなくすることにより、その人を支配し、滅びへと導きます(14)。現代では、聖書で語られるような目に見える形で悪霊が働くことはありません。しかし、神がいないことが当然と思わせ、肉の死をもってすべてが終わると諦めさせることに、悪霊の働きがあると言うことができます。
 主イエスは、人々から悪霊を追い出されます。主イエスは悪霊を追い出すことにより、人々を滅びから解放し、神との交わりを回復し、生きる者としてくださいます。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたのは、神との交わりを回復したからです。私たちキリスト者は、主なる神の御言葉に聞くことが第一に求められます。しかし神との交わりは、神から私たちへの一方通行ではありません。神による救いが示され、神の御言葉を聞いた者は、主に礼拝を献げ、奉仕をするように、御言葉に応答します。だからこそ私たちは礼拝においても、御言葉の朗読と説教を聞き、聖礼典に与りますが、その応答として讃美し、祈り、信仰を告白し、献金を献げることにより応答します。

Ⅱ.神の支配
 しかし人々は、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と語ります(15)。しかし内輪もめをしていれば、平穏は訪れず、権力争いが生じます(17-18)。権力による支配は、権力に従っている間は、秩序が保たれますが、権力に刃向かえば追い出され、常に目を付けられる存在になります。そして、対立が鮮明化すると、白黒がはっきりするまで戦乱が終わることはありません。そのため、権力の支配によって生きようとする時、権力に従順になるのか、内輪もめするのか、どちらかになり、ここに平和はありません。
 しかし主イエスは、「神の指で悪霊を追い出している」とお語りになります(20)。「主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになりました」(出エジプト31:18)。二枚の掟の板は十戒です。「神の指」は、神の御支配・権威を象徴しています。つまり神の指で悪霊を追い出されることは、私たちをサタンの支配から救い出してくださいます。このとき私たちは、平安、天国にある永遠の生命が与えられ、内輪もめを行っている権力争いから解放されます。そしてキリストの勝利の姿こそ、十字架の死から三日目の朝に起こった復活です。
 しかし神の支配を、私たちはこの目で見ることができません。そのため、人々は神を恐れることなく、権力の下に生き、自らが権力・武力・財力を手に入れることにより、他人を支配しようとしています。しかし主なる神は、彼らに勝利してくださいます。だからこそ私たちは、十戒を告白する度に、神の指によって神の律法が心に刻まれており、神の御力の下に生きていることを確認することができます。強い武装した悪霊に対して、「もっと強い者」こそが主なる神です(21-22、参照:ウェストミンスター小教理問26)。

Ⅲ.神の支配の下に生きるキリスト者
 それでも私たちは、悪霊の力、権力・武力・財力による支配に恐怖を覚えます。声を潜めてしまいます。しかし、私たちは救い主の平和の内に生きることが許されています。主の支配は、私たちから離れることはありません。私たちの救いは決定しています。そして私たちの救い主は、神の小羊である私たちに、神の武具を身に着けるようにお語りになります。私たちの武具とは何でしょうか? 私たちは権力も、戦うための武器も必要ありません。私たちにとって信仰こそが神の武具です(参照:エフェソ6:10-18)。
 私たちは、もう自分の力で、武器をもって戦う必要はありません。主なる神が戦ってくださいます。勝利を遂げてくださいます。そして、主は私たちに言葉を回復させてくださいました。だからこそ、私たちは御言葉に聞き続けるのです。根気よく祈り続ければ良いのです。主を信じて生きる時、私たちは権力を手に入れることが生きる目的とはなりません。しかし最終的な勝利者である主なる神が、私たちを支配し、平和を実現してくださいます。このとき私たちは、為政者・権力者の力に口を閉ざすのではなく、言葉を語り、主の支配・主の真理を語り続けることが求められます。
 
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  「汚れた霊の住処にするな!」  ルカ11:24~26  2022.6.12
 
Ⅰ.整理整頓
 今日の御言葉を読んでいて理解できない、もしくは腑に落ちない方も多いのではないかと思います。つまり、家を「掃除をして、整えられていた」ことが、都合が悪いことであるように語られているからです(25)。私たちは、整理整頓を行うことにより、気持ちが良くなりますし、初めての人も入りやすい空間となります。しかし聖書は、家が掃除され、整理整頓がされていることにより、7つの悪霊の住処になると語ります。綺麗にされた部屋のどこが悪いのか? このことが、今日、私たちに示されている問いかけです。

Ⅱ.悪霊の出入りを自由にしていないか…
 この綺麗にされた部屋は、私たちの心の中、信仰そのものでです。パウロは、私たちの体のことを土の器として語ります(ローマ9:19~24、Ⅱコリント4:7)。私たち自身は、罪に汚れ、滅びに向かっています。このときに、私たちが尊いものとして用いられるためには、土の器である私たち自身に、何を蓄えるかが問題となります。つまり土の器をきれいに掃除し、空っぽの状態にしていると、何でも入れる状態になり、サタンにとって非常に都合の良いことです。つまり何もないことは、主なる神が私たちの心の中におられないことを意味しており、悪霊が自由に出入りできる状態だからです。神を信じない人たち、教会の礼拝に来ない人たちが語る言葉に、信教の自由を盾に、「自分で判断する。強制はされたくない」と語ります。しかし自分で判断することは、神が入ってくることも拒否しているのと同じであり、悪霊が自由に入ることができる状態にあるのです。
 だからこそわたしたちは、主なる神と出会い、主イエスによって悪霊を追い出していただかなければなりません。悪霊を追い出すには、主なる神である主イエスに委ねなければなりません(11:14-23)。しかし問題は、それだけでは留まりません。つまり、主イエスに悪霊を追い出して頂いた上で、イエスさまありがとうございました。「あとは自分で片付けるので、イエスさまにはお引き取り頂いて結構です」と語って良いのかということです。今日の御言葉は、このことを問いかけています。
 綺麗に掃除がされ、整えられていると、誰でも入ってくることができます。「無宗教」、「中立の立場」と言えば、聞こえは良いようですが、実はそこに悪霊、汚れた霊が入ってくるスペースがあるということです。世には、いろんな誘惑があります。金銭的にだまし取ろうとする詐欺があります。権力・暴力によって他人を支配しようとすることもあります。心の中が空っぽだと、誰でも自由に出入りでき、そこに悪霊はつけ込みます。

Ⅲ.私たちには主なる神という番人が必要である!
 部屋は綺麗にした方がよいのですが、私たち一人ひとりの心・信仰は何もないでは済まされません。悪霊が再び住み着かないように防御することが求められます。危機管理です。このとき求められるのが、神の御言葉です。私たちは知識を身につけ、自分でかみ砕き、理解することにより、どのような問題が出されたとしても対応できるようになります。仕事においても、どのようなトラブルに陥ったとしても、様々な知識を身に付け、対応できるようになっていると、トラブルにあっても解決することができます。私たちに今求められるのは、主なる神を信じる信仰です。サタンという泥棒に遭いたくなければ、家番としての主イエスに居ていただかなければなりません。

Ⅳ.整理しつつ、信仰を身に付けよ!
 このときただ主なる神を信じるのであれば、「看板倒れ」になります。看板だけであることが気付かれると、それをかいくぐって悪霊が入ってくるようになります。そのために悪の誘惑を受けないように準備することが求められます。それが、主を礼拝し、説教を聞き、聖書を聞き続けることです(参照:ウェストミンスター大教理問160)。
 つまり、礼拝に出席すること・集会に集うことは大切ですがこのとき主の御言葉・説教・教えを、整理した上で理解することです。熱心さも必要ですが、頭の中で整理されていなければ、それはゴミ屋敷になってしまいます。これでは宝の持ち腐れです。
 今日も、聖書の概観図をお渡ししました。繰り返しお渡ししているものですが、神の御言葉の全体像を確認しつつ、一つひとつの御言葉に聞くことにより、日々の生活の中で、対応することが可能となってきます。サタンの誘惑に対して、「否」と語ることができるようになります。このことが、エフェソ書6章において語られている「信仰の武具を身につける」ことです。
 
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「真の幸い」  ルカ11:27~28  2022.6.19
 
序.
 家族が幸せに生きることは、嬉しいことです。そして自分や自分の子どもたちのことを褒めていただくと、照れくささもありつつ、この上ない喜びではないかと思います。

Ⅰ.褒められること
 ある女性は、主イエスを見て、イエスの母を称賛します(27)。「よくぞ、素晴らしい人を世に送り出してくださった。立派に家庭で教育も行われている」と言った思いでしょうか。これは、主イエスが語る福音、奇蹟などを見て発した言葉です。
 カトリック教会は、マリアを「聖母」と呼ぶように、主イエスの母マリアを神格化した扱いをします。しかし、私たちはマリアを神格化することはしません。イエス・キリストは神の御子ですが、聖霊によって特別な形でマリアに受胎したのであり、マリアは私たちと同じ一人の罪人にすぎません。つまり、マリアはイエスの母となり主から祝福を受けた女性ですが、カトリック教会のように、賛美や礼拝の対象としてはいけません。
 しかし人は素晴らしい人がいれば、正当に評価し、その家族をも褒めます。この時、人が他人を判断する規準は、言動や学歴・地位・権威など目に見える情報で判断するのであり、その人の背景である信仰や思想まで踏み込んでの発言ではありません。

 ③世(せ)間(けん)体(てい)を気にして生きる
 そして、立場が変わり、人から褒めていただく時、誰しも、嬉しいものです。 つまり、人は、周囲の評判、世間体を気にします。そして、自分のこと、家族のことを他人に認めてもらうことに、喜びを覚えます。 その一方、「出る杭は打たれる」と語られるとおり、他人とは異なることを行い、人々から偏見の目で見られることを嫌い、周囲の人々に合わせて生きるということが、私たち日本人にあるのではないでしょうか。 良い人間だとは思われたいのであり、嫌われたくないのです。そのため、見た目、表面的なことを取り繕います。見たくれ、表面的なことのみを取り繕うため、無理することも出て来ます。それは、これはおかしい、誤っているのではないかと思いつつ、周囲の反応を見ながら、調和を合わせる社会が形成されています。確かに周囲の人たちに認めていただくことは、良いことです。周囲の人たちに合わせて生きていくことも、時には必要なことです。しかし周囲の顔色を伺いつつ、生活を送る時、自分を見失うこととなり、ここには柱である信仰の本質が抜け落ちています。つまり、ここで私たちが考えなければならないことは、私たち自身の生き方、何を本質にして生きているかが問われています。

Ⅱ.主なる神さまを畏れて生きよ!
 この時主イエスは、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」とお語りになります(27)。「むしろ」、「それ以上に」です。つまり、周囲の人たちに認められ、世に合わせて生きていくことも大切ですが、主の御前・神の秩序に従って生きることこそが、第一です。「私たちにとって一番大切なことは、神さまの子どもとして、神さまと共に歩むことです」が大切です(子どもと親のカテキズム問1)。つまり、私たちは、人の目を気にするのではなく、主なる神を気にして生きなければなりません。物事の判断の基準は、主なる神がお語りになる聖書の御言葉です。このとき私たちは、フラつくことがなくなり、筋が通った生き方をすることができます。
 しかし同時に、真理を曲げないことにより、人との衝突も避けることができません。しかし私たちが畏れるべき方は、周囲の目や権威者ではなく、天地万物の創造主・全世界を統治しておられる主なる神です。私たちの命、私たちの救いは、主なる神によって与えられるのであり、私たちが生きる希望はここにしかありません(参照:ルカ12:4-7)。
 つまりこの女性は、主イエスを受け入れ、母マリアにその称賛の言葉を向けますが、私たちは母であるマリアに称賛してはなりません。むしろ私たちは、神の御子を人としてお送りくださった主なる神を誉め称えることが求められています。

Ⅲ.幸いは主の御言葉から
 主イエスは「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」とお語りになり、私たちの生きる規準は神の御言葉です。先週の御言葉において、主の御言葉を蓄えるとき、整理整頓して、理解した上で蓄えることの大切さを確認しました(参照:ウ大教理問155)。
 私たちの生き方・生きる本質は、御言葉にあります。主の御言葉に従って生きる時、主の祝福・幸いが与えられ、救いと永遠の生命の希望に満たされます。御言葉に従って生きるとき、私たちの生きる本質はぶれることはありません。私たちの真の幸いは、表面的な取り繕いではなく、主なる神との交わり、主の御言葉に聞き従って生きることです。
 
  
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 「救いのしるし」  ルカ11:29~32  2022.7.10
 
 序.情報の中に埋もれる福音
 現在、インターネットやスマートフォンで、私たちの周りは情報で溢れています。膨大な情報がある中、殆どのことが湯水の如く垂れ流され、その中に福音は埋もれています。

Ⅰ.よこしまな時代
 主イエスは、このような今の時代のことを「よこしまだ」をお語りになります。「邪悪な時代、悪意に満ちた時代」です。人間を悪へと誘惑する時代です。今日、参議院選挙が行われています。候補者や政党は選挙において訴えますが、かつて語ってきたこと、行ってきたことを顧み、その本質を理解した上で、投票することが求められます。つまり情報は溢れていますが、知ろうとしない人々が多くいます。「お任せ民主主義」です。その方が楽だからです。しかし大きなこと、つまり憲法改正や戦争に繋がる行為が起こってから、「これは違う」と思っても、手遅れです。その危険性がある人たちを選んではなりません。
 さらに人間は余裕がなく目の前のことで切羽詰まっていると、物事をじっくりと考えることができなくなります。そして現状を肯定します。しかし、人が考えること・判断することをしないようになると、悪へと誘惑する力が働きます。そのためキリスト者は、周囲の状況に左右されることなく、今の時代の状況を読み解く力を身に付けることが大切です。私たちは、今の時代もよこしまな時代に生きていることを自覚しなければなりません。

Ⅱ.御言葉をもって示されるしるし
 そして主イエスは、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(29)とお語りになります。「しるし」とは、救われるために求められることです。ヨナは、人々がよこしまな生活を行っているニネベに行き、人々に悔い改めを語りました。その結果、人々は罪を悔い改めました(ヨナ書参照)。ニネベの人たちにとって、主の御言葉は暗闇を照らす光として示されたのです。彼らは自らの姿を客観的に判断し、悔い改める行動を行いました。
 私たちは、主の御言葉が語られた時に、自らの歩みを止めて、考え、悔い改めと信仰を表すことが求められます。過度の情報に振り回されることなく、また思考停止に陥ることなく、今、主なる神が語りかける御言葉に耳を傾け、考え、主を信じ、自らの罪を悔い改めるために示されました。だからこそ私たちは忙しい日々の生活から離れて礼拝に出席し、主の御言葉が語られる時、立ち止まらなければなりません。
 主がお示しになるしるし、つまり罪の裁きの宣言と悔い改めを迫る言葉に聞き従わない者に、主は裁きを行なわれます。裁きの理由を主御自身に帰すことはできず、主が語りかける御言葉に聞こうとしなかった者がその責任を負わなければなりません。そして、この主の裁きが行われる時、主は南の国の女王(参照:列王記上10章)やニネベの人々を用いるとお語りになります。シェバの女王は、ソロモンの名声を聞いて、シェバ(サウジアラビア)からエルサレムまでやってきました。このとき女王は、ソロモンの知恵が主から与えられたことを悟り、主を誉め称え、主を信じました(10:9)。主がお示しになるしるしを受け入れ、罪の悔い改め、主への信仰を告白する時、主は異邦人であっても受け入れてくださいます。

Ⅲ.信仰と生活の一致
 私たちは主の御前に立ち、主の御言葉に聞き、今の時代を確認しなければなりません。聖書の御言葉と私たちの生活が分離していてはなりません。私たちの生活に起こってくることすべてが神の御業です。ヨブは「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と語ります(ヨブ1:21)。喜びも試練も苦しみも、すべて主の恵みの御業です。私たちは、主の御言葉に聞きつつ、信仰の目をもってそれらを受け入れ、考えなければなりません。
 そして主イエスは、「人の子(主イエス御自身)も今の時代の者たちに対してしるしとなる」(30)、「ここにヨナにまさるものがある」(32)とお語りになります。これがキリストの十字架の御業です。主は、キリストの十字架による救いをとおして、私たちに考えることを求めておられます。キリストの十字架にこそ、私たちの罪の赦しと救いがあるからです。この時私たちは、神の救い、キリストの十字架の贖いに感謝をもって、主の御言葉に聞き従った歩みを行っていくことができるのです。主の御言葉が語られた時、それを私たち自身の生活に照らして理解する時、私たちは初めて主の救いをしるしとして受け入れることができます。時代の中で溢れる情報に振り回されることなく、耳をふさぐことなく、主の御言葉に聞きつつ、キリスト者として歩み続けることが求められています。
 そして聖礼典(洗礼・主の晩餐)に与ることにより、救いのしるしが、神による救いの契約として私たちは繰り返し確認し、救いの喜びに与ることが許されています(ウ信仰告白27:1,2)。
 
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  「あなたの目は澄んでいるか」  ルカ11:33~36  2022.7.17
 
序.
 ルカ福音書は、11章において「真の幸い」(27,28)、「救いのしるし」(29-32)について語り、本物とは何か、本物は何によって知ることができるのかを語ってきました。つまりキリストは十字架により、あなたを死から永遠の生命へと移し、真の喜びをお与えくださいます。
 そして、この本物の救い・永遠の生命が主イエスの御言葉によって与えられた者の生き方について、主イエスはともし火を例にとって私たちに語りかけます。

Ⅰ.信仰の目
 私たちの生きる世界は嘘が満ちています。闇の中、皆が彷徨っています。宗教にその道を求めつつ、拝金主義のために家族が苦しみ、その結果として今回痛ましい事件が発生しました。彼らはキリスト教を名乗る異端者です。
 しかし主イエスは本物を提供し、救いを指し示す御言葉は私たちに光をもたらし、天国に通じる道を示します。私たちは、聖書に聞く時、道を誤ることはありません。私たちが手に持っている聖書こそが「ともし火」です(参照:ウェストミンスター大教理問155)。
 ともし火である御言葉が私たちに働きかけられたとき、聞くだけでは意味がありません。つまりともし火を確認することが求められます。ここで問われるのは、ともし火としての聖書ではなく、聖書を読み・理解しようとする私たち自身です(34)。聖書があっても、私たちの目が濁っていれば、正しい道を歩むことができず、道を誤り、躓いてしまいます。つまり聖書を理解する力です。そのために、日々のすべての営みを止め、礼拝・説教に集中します。ここに聖霊が働き、私たちに御言葉を理解する力をお与えくださいます。その上で教理を身に付けることが大切です。それが信仰告白として与えられているウェストミンスター信仰告白・大小教理問答を理解することです。教理の基礎があることにより、聖書が語ろうとしている真理を、福音として受け止めることができるように導かれます。

Ⅱ.真のキリスト者として生きるとは…
 私たち自身が、聖霊によって満たされ、光り輝く聖書と解き明かしとしての説教によって、道をしっかりと歩くことができるようになれば、私たちの信仰は養われます(36)。このとき、様々な不安や艱難な道があったとしても、主に委ね、信仰の道を歩み続けることができるようにされます。このとき、私たちの姿を見ている周りの人たちは、私たちの姿が神の光に包まれており、人々に信仰を証しするものとされます。
 私たちは、伝道すること・証しを行うことが求められます。しかし嫌々ながら行っても、意味がありません。嫌悪感・後ろめたさは、透けて見えます。つまり形の上で伝道していたとしても、結果として伝道は進展しません。
 私たちにとって大切なことは、私たちに救いが示されている御言葉としての聖書を、光り輝く宝石のように大切にして、ここで語られている御言葉に潜む福音、光り輝く神の国への道を理解し、私たち自身が救いの喜びに生きることです。このとき、私たちの生活・信仰は、家族に対して、友人に対して、親しい人たちに対して、証しとなります。伝道・証しを妨げているのは、私たち自身が疑っていること、すべてを神さまに明け渡し信じ切っていないことです。このとき、福音が人々に伝わることはなく、私たちの伝道は、人間的な努力・小手先の方法に頼ろうとしてしまいます。
 1995年のオウム真理教、そして2011年の大震災、そして2020年に始まったコロナと、日本の教会にとって信仰が揺さぶられる出来事が続いています。こうした出来事をとおして、主なる神は、私たちに信仰を問いかけています。そしてこの時代、将来に不安を持っている人たちに教会が開かれ、そうした人たちと寄り添って歩む教会でなければなりません。これこそが、主イエスが語るともし火を輝かせるということです。中世の黒死病(ペスト)の時もそうでしたが、危険と分かっていても、不安な人々、死にゆく人々に寄り添うこと、福音を証しすることが、私たちに求められています。

Ⅲ.本物の信仰を貫け……
 私たちは救いのしるしである聖書に出会いました。ここに本物があります。私たちがどのようにしてキリスト者として生きるかが問われています。そしてこの時、私たちが避けて通ることができないのが、偽物です。御言葉をもって偽物を見破らなければなりません。そして私たちはキリスト者として生きようとすれば、衝突、信仰の戦いを避けて通ることはできません。私たちは本物、揺るぎない信仰を持っているからこそ、苦しくとも、救いの喜びをもって、信仰を貫くことができます。このとき私たちの体は光り輝いています。
 
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「不幸な人々」  ルカ11:37~44  2022.8.7 
 
Ⅰ.律法主義のユダヤ人に対する挑戦
 「食事の前に手を洗う」ことは「当たり前ではないか」との声が聞こえそうです。しかし、主イエスはあえて、食前に手を洗うことを行いませんでした。その理由は、主イエスを食事に招待したファリサイ派の人々が、食前に手を洗うことを律法の規準にしていたからです。手を洗うことにより身が清められ、罪が赦されると信じていたからです。つまり主イエスがファリサイ人たちに対して挑戦を始めたことを意味しています。「あえて」と言わなければなりません。つまりファリサイ人たちが、主イエスの行為に対して疑問を呈するを理解した上で、そのことをきっかけに議論を行おうと考えておらたからです。
 主イエスはすでに十字架を見据えてエルサレムへの歩みを始められ(9:51)、エルサレムにおいてユダヤ人たちに捕らえられ十字架刑に処せられることの準備していたことを意味します。主イエスであれ、私たちキリスト者であれ、すべての人々に受けいられる八方美人であることは許されません。信仰と真理を貫くために、人々と対立することもあります。私たちはあえてけんかを売るようなことは必要ありませんが、主イエスはこの時、意図的にこの対立・戦いを始められたと言ってよいかと思います。

Ⅱ.救われた者に大切なこと
 主イエスは、ファリサイ人たちの根本的な問題を指摘する前に、具体的に問題を指摘します(39-40)。主イエスが指摘する「外側はきれいにする」とは、律法で規定されていることのみを守る形式主義です。彼らは律法で定まっていることを守ることにより救われると信じており、それ以外のことに気遣うことはありません。これが律法主義であり、ファリサイ派(分離主義者)と呼ばれる由縁です。主が求めておられることは、表面上奇麗にすることではなく、私という人間のすべて(行いも言葉も心の中も)を露わにすることです。
 そして主イエスは、「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」(42)と語られます。この「不幸だ」という言葉は11章の終わりまでに6回繰り返され、ファリサイ人・律法学者たちが気付いていない信仰の本質を問いかけます。
 ファリサイ人たちは、薄荷(はっか)や芸香(うんこう・ハーブの一種)といった香りに用いるような農作物の収穫にまで1/10を献げる忠実な所があります(42)。小さなことにまで忠実であることは素晴らしいことです。しかし問題は、彼らがこれらに忠実なのは、救われるために必須だと思い、人々からの印象を良くしようとしているところにあります。
 そして主イエスは、救いの本質を見失っていることを指摘し、「正義の実行と神への愛をおろそかにしている」と語ります(42)。私たちを救ってくださる主なる神とはどういうお方であるのか、私たちに与えられた救いとはどのようなものであるかを知らなければなりません。彼らはそのことを知らず、救いは自らの力で勝ち取ることができる律法主義に陥っています。私たちに与えられた救いは、永遠から永遠に存在され聖・義・真実なお方の子どもとして受け入れられ、永遠の生命に与ることです。この時私たちは、キリストの十字架の贖いにより義と認められ、神の子とされます。
 律法が示された時、自分は律法を守ることができないと、不完全さを認めざるを得ません。たとえ立派な行いをしたとしても、神の聖・神の義・神の真実を満たすためには到底及びません。自分は律法を完全に守ることはできないことを受け入れ、そのような自分を、主なる神が救いをお与えくだり、キリストの十字架により贖われたことを受け入れることが求められています。ここにキリスト者として生きる本質があります。

Ⅲ.救いの感謝に生きよ!
 つまり、私たちの救いは、自分で清めることが求められているのではなく、信仰を告白することにより、主がお与えくださるしるし(洗礼)により清められます(バプテスマ)。そして神による救いを確認するしるしとして、私たちは主の晩餐に与ります。
 神の愛によって、罪が赦され救われた者は、神の愛に生きる者とされます。神の子どもとして、神の聖・義・真実に倣うものとなります。そのために私たちは律法としての十戒に従います。救いの感謝・救いの喜びを持って、神の愛を実践していくのです。
 この時、傲慢さは消え去り、遜りと謙遜が生じます。主がお与えくださった収穫の恵みを献げることにより感謝を献げます。1/10を献げなければならないのではなく、主への感謝の応答が献金です。また主の御前に謙遜にさせられるため、会堂で上席に着くこと、広場で挨拶されることを好むことはしません。

 
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 「人に重荷を負わせるな!」  ルカ11:45~54  2022.8.14 
 
Ⅰ.あなたたちは不幸だ!
 主イエスはファリサイ人・律法学者に繰り返し「あなたたちは不幸だ」と語ります。口語訳・新改訳では「わざわいである」と訳されており、胸の張り裂けそうな思いで「あぁ、なんと悲しいことか」といった言葉です。まさに主イエスは、信仰の本質に迫っています。
 彼らは律法を学問的に学び、神の働き人として召されていた聖職者です。神の民イスラエルが、神の子として天国に導かれるために主の福音の御言葉を語ることが求められています。「自分の救い」「自分の正しさ」ではなく、「神の求め」を人々に語り、神による救いを示すことが求められています。つまり自己中心ではなく、神中心でなければなりません。創造主である神の喜びこそが、私たち被造物の本当の生きる喜びとなるからです。
 しかし、彼らは律法主義者でありファリサイ(分離主義者)でした。自らの正当性を主張しつつ、人々の罪を指摘し裁きを行っていました。主の働き人としての働きを行わず、主のお語りになる御言葉に耳を傾けず、自分勝手な聖書解釈を語るため、主の裁きに値します。そのため主イエスは「不幸だ」とお語りになるのです。

Ⅱ.重荷を担え!
 彼らは律法を手に持って自らの正当性を主張しつつ、人々を裁きます(46)。自らの律法の規準と、人々に要求する律法の規準が異なります。教会のあるべき姿は、罪の故に滅び行く者が、神による救いに入れられ、共に救いの喜びの道を歩むことです。他者の罪を明らかにし裁くことではなく、罪人の罪がキリストにより贖われ、互いに赦し合うことです。
 そして私たちは聖徒の交わりが求められます(参照:ウェストミンスター信仰告白26:2)。この聖徒の交わりは、隣人を愛することに基づいて行われ、ディアコニアに通じます。差別し、裁くのではなく、苦しみを共に担うことが求められます。この時、自らは財的な支出、賜物を用いて奉仕すること、共に寄り添う時間を献げることが求められます(参照:マタイ19章)。
 そしてこうした働きは自己中心では成し遂げることはできません。隣人への愛は、主により救いが与えられ、神によって生かされている喜びにある時に、初めて主を誉め称え、主による救いに喜びを覚えつつ、重荷を背負う奉仕を献げることが可能となるのです。

Ⅲ.信仰故の迫害
 続けて主イエスはイスラエル人が預言者を殺し、迫害していることを指摘します(47-51)。主なる神はイスラエル人に預言者を遣わしますが、預言者の声を聴くことなく、迫害し殺害しました。「アベルの血」は最初の殺人を語っています(創世記4章)。そして「ゼカルヤの血」とは、歴代誌下24:20-21に記されていることを指しています。私たちが用いている聖書とは異なり、ヘブライ語聖書では歴代誌が旧約聖書の中で最後に置かれており、これが最後の殺人です。つまり主イエスは、旧約聖書の最初から最後まで、イスラエル人が主が遣わされた預言者を迫害し続けていることを語ります。
 自己中心に生きる者は、主から託された預言者の言葉により罪の悔い改めが迫られても、罪を悔い改めることができません。ファリサイ人・律法学者も、この後主イエスを罪人として捕らえ、死刑判決を行い、十字架刑に処せることとなります。彼らのこうした行為に対して、彼らはその責任を担わなければなりません。主の裁きを逃れることはできません。
 現代でも主の御言葉に従って生きようとするとき、主を知らない者たちが形成する世と対立することが避けられません。八方美人であってはなりません。キリスト者が、多くの人々に受け入れられ認められようとする時、福音は変質します。福音の本質が忘れ去られ、偶像崇拝と自己中心の罪が混入してきます。

Ⅳ.知識の鍵により、キリスト者として歩め!
 最後に主イエスは「彼らが知識の鍵を取り上げる」と語ります(52)。彼らは、律法を教え、律法を守るように要求しつつも、律法(聖書)の全体を語り、そこに秘められている主の救いの真意を理解し、語ることはしません。しかしここにこそ、知識の鍵があります。
 主イエスは、「主なる神を愛すること、隣人を愛すること」(マタイ22:37-40)を語りつつ、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」とお語りになります。これこそ聖書全体であり、知識の鍵として神への愛・隣人への愛が示されます。これらを、私たちは聞き、そして信仰の礎としなければなりません。これこそが福音です。この神が御言葉においてお与えくださった知識の鍵を手に入れるとき、私たちは、自己中心から離れ、他人に重荷を負わせるのではなく、自らがその重荷を一緒に担い、さらにキリストの十字架を自らが担う者へと変えられていきます。これがキリスト者の生きる道です。
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 「偽善者に気をつけよ!」  ルカ12:1~3  2022.8.21
 
序.
 教会に人が集まらない時代、何とか人が増えることを願います。しかし教会に人さえ集まれば良いのではありません。教会が大きくなっても、そこに求められる本質が忘れ去られる時、キリストの教会が変質してしまいます。また、福音を誤って理解する人がいたり、時として、意図的に教会を攻撃するために教会に忍び込む異端者もいます。

Ⅰ.パン種
 主イエスは弟子たちに対して「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と語り始めます。パン種は、一般に酵母としてのイースト菌でありパンを作る時に必須です。イースト菌がなければ、パンは発酵せず、せんべいのように膨らまず堅くなります。また違ったパン種が入ってくれば、パンは膨れなかったり、味が変わったりします。それと同様に教会を変質化させる異端者が忍び込むことを、主イエスは述べています。
 異分子が入り込むことにより教会は変質化してしまいます。信仰においては、パン種が異なることにより正しい信仰を受け継ぐことなく、信仰が変質してしまいます。
 第二にパンを焼く時、パン種を入れることにより時間が掛かります。教会は、時間をかけて信徒一人ひとりの信仰が成長していくことにより成長します。時間がかかるため、徐々に変化していくため、異質な変化に気がつかないということが起こります。そのために、原点・基本に忠実であることが求められます。主イエスの時代、年に一度の過越祭の時、種なしパンを食することにより、主による救い・純粋な信仰を確認しました。原点に立ち戻ることは大切です。

Ⅱ.○○もどき
 主イエスは、「それは偽善である」と語ります。「○○もどき」と言い換えることができます。表面上の行動・発言は立派なようでも、内実(心・隠れた所で行われる行動)が伴っていないことを語ります。裏の顔を持つような人間のことを語っています。
 「偽善」とは「注意した方が良い」程度ではありません。ギリシャ語では、「背信・偽装・欺瞞・装い・偽善」といった意味の言葉です。完全否定されなければなりません。似て非なるものです。理解していなければ騙されます。それが異端者です。異端者は、御父・御子・御霊なる三位一体、御子の二性一人格を否定します。旧新約聖書以外の書物を正典として用います。違いを理解することが大切です。違いを理解し真理を知るために、信仰告白が求められています。信仰告白は真理を知るためのガイドラインです。信仰告白がなければ、私たちは自分勝手に判断してしまい、偽善者にだまされ、真理から逸脱します。信仰告白は偽善を見破る武器となります。異端者たちは教会の中に入ってきます。そして教会を乗っ取ることもあり得ます(参照:ウェストミンスター信仰告白25:5)。
 また異端者以外にも教会を惑わす人々が混入します。生活を乱し、信仰を変質させる人たちです。誰か特定の一人のときもありますが、社会・時代に流され、教会全体が流されることもあり得ます。特に性的乱れは注意しなければなりません。私たちキリスト者も、弱く、社会に流されてしまいます。平和に関しても、戦争が起こり、緊張関係が生じますと、為政者に批判することが批判されることもでてきます。
 しかし、私たちが聖書を読み解く、聖書に生きるとは、私たちの生活全般に関わることです。だからこそ、私たちは、周囲の人々の意見に流されることなく、主なる神さまが聖書を通してお語りになる御言葉に聞かなければならないのです。

Ⅲ.神の御国の希望に生きよう!
 さて、キリスト者の非常に少ない日本において、私たちがキリスト者として生きていくことは、並大抵のことではありません。私たちは、「自分が誤っているのではないか」、「聖書の語ることは古いのでは」、「信じる価値などないのでは」など、色々なことを思ってしまい、誘惑されます。しかし私たちは、相対的な規準である移りゆく社会を規準にしてはなりません。私たちは少数者の立場です。人々から馬鹿にされることもあるでしょう。しかし、私たちが持っている信仰・規準は、真理であり、変更されることはありません。
 主の晩餐の礼典は、神の御国が完成する時、私たちが主なる神さまの御前で、すべての神の民であるキリスト者たちと共に与る食卓の前味です。ここにこそ私たちの希望があります。何にも代えがたい永遠の喜びがあります。だからこそ私たちキリスト者は、世の動きに右往左往させられることなく、主が御言葉である聖書をとおして私たちにお語りになる真理に耳を傾け、救いの喜びをもって、御言葉に従って生きることが求められています。
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 「真に恐れるべき方」  ルカ12:4~7  2022.9.4 
 
Ⅰ.友人であるあなたがた
 主イエスは弟子たちに「友人であるあなたがたに言っておく」と呼びかけてくださいます。ここに、主なる神と神の民との関係、キリストを長兄とする兄弟姉妹の関係、神の家族・友人としての親しい関係が示されています。ここに神の愛が示されています。
 説教題を「真に恐るべき方」としました。この説教題だけを見ると、「恐ろしい神だから、信じなければならない」といった恐怖を植え付け、信じることを強要することを思われるかもしれません。しかし主イエスは、「わたしはあなたがたの友人である」とルカは語り、生きて働いておられる神は、親しみと愛に満ちたお方であることを聖書は語ります。

Ⅱ.主の御力
 私たちはまず主なる神の御力を確認しなければなりません。主は天地万物の創始者であり絶対的主権を持っておられ、今なお世界を統治しておられています(参照:Ⅰテモテ6:15-16)。神の御子イエスは、永遠から永遠に生きておられ、王の王・主の主です。2000年前に地上に生きておられた神の御子は、今なお、私たちと共に生きて働いておられます。
 そして主は、「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」です(5)。現在に生きる多くの人々は、今生きる世がすべてだと思っています。だからこそ、自分の人生、「今」を楽しむこと・成功することが大切です。そして今の生活を脅かす者、肉の死に追いやる権力を恐れます。しかし地上の権力者は、力をもって人々を脅かすことができたとしても、私たちの魂を脅かすことはできず、彼らは私たちを地獄に投げ込む権威は持っていません。
 一方、神によって創造された人間は、他の動物と同じように肉の命に生きているのではありません。御父・御子・御霊なる三位一体の神にかたどり神に似せて作られた人間は、神の命の息が吹き入れられています(創世記1:26、2:7)。これが他の動物とは異なることです。魂があり、主なる神との交わり、つまり主を賛美し、礼拝して生きることができます。

 最初の人アダムは、神の御前に罪を犯しました。そのため、すべての人が、神との交わりが断たれ、死と滅びを避けることができなくなりました。しかし神の御子イエス・キリストが人としてこの世に来てくださり、十字架の死を成し遂げてくださいました。使徒信条においてキリストは「陰府に下り」と告白します。肉の死を遂げ、主の裁きを受けた者が行く場所、「地獄」です。しかしキリストは、陰府に留まられることはなく、三日目の朝に甦ってくださいました。このキリストの死と陰府下りこそが、主を信じる者の裁きであり、キリストを信じる者は、キリストの故に罪が赦されました。そしてキリストが復活されたように、滅びることがなく、神の国に受け入れられます。主なる神を信じる者は、肉の死を持って生が終わりではなく、神との交わりを回復し、魂が存在し、復活によって、休んでいた魂と共に救われます。
 私たちを地獄に投げ込む権威があるのは、主なる神のみであり、地上の為政者にはその権威はありません。だからこそ私たちが真に恐れるのは、主なる神以外におらず、世における権力者、暗闇に導こうとする偽善者を恐れる必要はありません。そして主への恐れは、主なる神の御力を知ることで畏れ敬いとなります。一方、主なる神を拒絶する者は、最後の審判において、裁きがもたらされます。そのため、主なる神に対する恐れは、誰一人避けて通ることはできません。

Ⅲ.友としての主なる神
 主なる神から「友人たちよ」と語られる私たちには、主の愛が注がれています(6-7)。1アサリオンは1デナリオン(一日の賃金)の1/16、500円程度ですが、当時の貨幣としては少額とされていました。5羽の雀が2アサリオンです。つまり雀は、肉が少なく、食べることにおいても価値のないものとみなされていました。この価値のない雀の一羽一羽すらも、神はお覚えくださっています。さらに私たちの髪の毛一本一本も、主は覚えていてくださいます。つまり非常に小さな、普通であれば見過ごすような事柄であっても、主はお覚えくださいます。このことが主なる神の私たちへの愛として示されています。
 そして私たちの友となってくださり、体と共に魂を生かしてくださる主は、私たちが地上の生涯を終え、肉の死に与った時にも、恵みをお与えくださいます(ウェストミンスター大教理問86)。そして主なる神は、終わりの日(最後の審判)に私たちに新しい体がお与えくださり、天国における神の友としての豊かな交わり、永遠の栄光と祝福に満たしてくださいます。

  
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 「聖霊の導きに生きる」  ルカ12:8~12  2022.9.11  
 
序.
 信仰は、私たちを救いへとお招きくださった主なる神を信じることですが、その主なる神を知り、恵みを確認するために、私たちは主なる神を礼拝し、主の御言葉に聞き従うことが求められています。

Ⅰ.信仰の弱い人を受け入れてくださる主
 しかし、すべてのキリスト者が忠実に礼拝を守ることはできません。仕事や病気のため、また信仰の故に教会から遠ざかっている方もいるでしょう。人によっては、「自分はこれでもキリスト者なのか?」と他人から思われたり、自問自答される方もおられるでしょう。
 しかし、主イエスは「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」(8)とお語りになります。この主イエスの言葉は、信仰の弱いキリスト者、教会や礼拝に行くことができないキリスト者にとって、非常に心強い言葉ではないでしょうか。
 だからといって、「信仰さえ持っていれば礼拝に出席しなくても良い」わけではありません。神によって救われていることを確認し、信仰生活を維持しようとするならば、毎週、神の御前に集められ、神を礼拝し、神や兄弟姉妹との聖徒の交わりが非常に大切です。そして御言葉の養いに与ることが大切です。七日に一度、神の御前に集まることは、信仰が弱い私たちのために主なる神が準備し、招いてくださっています。ただ様々な事情で、教会や礼拝に出席できない方がいたとしたとしても、「神から捨てられ、自分は滅びる」と嘆くことは短絡的です。礼拝に出席できない人、教会からしばらく離れている人であっても、神はそれでもなお神の救いに入れてくださるお方です。
 ウェストミンスター信仰告白は、第17章「聖徒の堅忍について」を告白します(17:1,2参照)。救いとは、神の御計画に基づく決定であって、私たちの一時的な感情によって決まるものではありません。ですから、すでに信仰を告白し、神さまを信じている人であれば、神さまは必ず守ってくださり、神の救いの中にあり、滅びに至ることはありません。

Ⅱ.迫害の中に生きるキリスト者
 大切なことは「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す」ことです。それも、偽善者・教会を迫害している権威者からの質問に対して答えることです(参照:12:1-7)。つまり、戦前・戦中であれば、靖国神社参拝を拒否する、天皇を神として拝まない、御輿を担がない、神社へのお布施を拒否することができたかです。キリシタンは、信仰を貫いて処刑にされていきました。こうした中に置かれても、キリスト者として、イエスを私たちの救い主(キリスト)と告白することを、主は求めておられます。現実の問題として、逮捕・拷問・死の覚悟を持たなければなりません。足がすごみ、「イエスがキリストである」、「イエス以外に救い主はいない」ことを告白することは、安易ではありません。
 しかし、私たちを救ってくださる主なる神は、今も私たちと共にいてくださいます。そして必要な時に必要な言葉をお与えくださいます(11-12)。そのため信仰の弁明が求められるとき、自分で対処しようとするのではなく、主に委ね、主の御声に従えば良いのです。聖霊をとおして私たちに必要なことばをお与えくださいます。

Ⅲ.キリストを信仰の土台として生きよう
 「人の子の悪口を言う者は皆赦される」(10)。「人の子」とは主イエスのことです。主イエスの悪口、否定することを語ったとしても、撤回することもできるし、主は私たちの信仰の弱さを知っておられ、赦してくださいます。現実的に恐怖の中に置かれた時、主なる神を否定することも起こってきます。主イエスが逮捕されたとき、ペトロは3度、主イエスのことを「知らない」と語りました。キリシタンは踏み絵が求められました。主イエスは、踏み絵を行えば、もう救いから漏れ・裁かれるとは語らず、ペトロが復活の主イエスによって赦されたように、なおも神の愛に包み赦してくださいます。
 次に「聖霊を冒涜する者は赦されない」と語ります。これは私たちが聖霊は働きを無視して、主の御言葉に聴かず、無視して生きることです。主に従って生きようとして失敗・罪を犯しても主はお赦しくださいますが、主の御支配を無視し、聖霊の働きを否定して、自分勝手に生きるとき、主の裁きを逃れることはできません
 主なる神は、キリストの十字架の御業の故に、私たちの罪を赦し、私たちを神の御国へとお招きくださっています。主による救いと恵みに感謝しつつ、主の御言葉に聞き従うことが求められています。  
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「富に対する貪欲」  ルカ12:13~21  2022.10.2
 
 Ⅰ.お金は経済的悪か?
 主イエスの所に一人の男が詰め寄り、遺産相続について裁定を求めました。主イエスも、遺産相続の裁定を行うことができたでしょう。しかしこの時主イエスは、この男の訴えに対して耳を貸そうとしません。なぜならば主イエスは、彼が自分に有利な判決を下すことを願っていたことをご存知でした。それが主イエスの続く「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」との言葉に表れています。経済的な問題は貪欲という罪と結びつくのです。
 これは今に生きる私たちに対する問いかけでもあります。私たちの生活、そして教会の運営にも、経済的な支えが必要です。だからこそ教会では、献げられた献金の使用に関して、会計の報告を丁寧に行い、不正が行われていないことを説明させていただいています。
 主なる神が天地万物を創造されたのであり、私たちの生命も、私たちに与えられている富も時間も、すべてが神からの贈り物です。そのため経済的なことは罪であると極論を語ってはなりません。富も神が私たちにお与えくださった恵みです。ただここに罪の誘惑があり、貪欲という罪が私たちの内に入り込みます(参照:ウェストミンスター大教理問142(第八戒違反))。

Ⅱ.主がお与えくださる恵み
 主なる神は、必要を満たしてくださいます。豊作により多くの農作物を得ることも神の恵みです。主の恵みに感謝し管理することが求められます。しかしこの男は、大きな新しい倉を作り、穀物や財産をしまい込もうとします。すべてを自分の所有物として用いようとします。ここに貪欲の誘惑があります。そして彼は、「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と語ります。主なる神は、私たちに命をお与えくだると同時に、隣人にも命を与え、「自分のように隣人を愛しなさい」とお語りになります。あなたの隣人とは誰か? 苦しむ者の隣人となり助けることを主は求められます(参照:ルカ10:25-37)。主がお与えくださったものは、自分のためのみならず、隣人を愛する者として、隣人のために用いることが求めておられます(参照:金持ちの青年・マタイ19:16-22)。人間は、罪があり、欠けがある者として、互いに支え合い、助け合って生きていくことが求められています。自分は一人ですべてを成し遂げることができると思うことに、欲望の罪があります。
 「自己責任」が語られ、他人に助け・援助を求めることが「悪」であるかのような風潮が広まっています。しかし「自己自律ができる」と思うことこそが傲慢です。社会福祉において相互扶助を行うことは、主なる神が私たちに求めておられる隣人を愛することです。私たちはキリスト者として、隣人を愛し、助け合うことが求められています。
 そして聖書は、「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。……自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(20)と語ります。主は私たちにすべての恵みをお与えくださると同時に、生命を取り去ることがおできになる力を持っておられます。主が私たちの生命・財産・時間のすべてを恵みとしてお与えくださっています。そのため私たちキリスト者は、主のために時間を献げて主を礼拝し、時間と財と賜物を献げて、奉仕を行います。自分の持っているもので賄える時、私たちは主への感謝を忘れます。だからこそ少し足りないくらい、少し多めに献金を献げ、主に必要を求めて祈るのです。主は私たちが、祈り、願い求めることを待っておられます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。……」(ルカ11:9-10)。必要は主が満たしてくださいます。

Ⅲ.永遠の生命に生きるキリスト者
 私たちはもう一つの重要なことを確認しなければなりません。つまり主イエス・キリストは霊的な統治者であり、主の統治と世俗における社会・市民の統治とは異なります。私たちはこの方を救い主として信じているのであり、いくら地上において財産を蓄え、裕福になったとしても、そのことによって主の救いに入れられることはありません。
 そして「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者は、このとおりだ」(21)とお語りになり、私たちの救い・生命を司っておられる方こそが、主なる神であることを示されます。裕福な生活は魅力的に見えます。しかしここに誘惑があり、傲慢の罪が表れます。私たちは神と富の両方に仕えることはできません(ルカ16:13、マタイ6:24)。
 私たちは主の晩餐において、キリストの十字架の血と裂かれた体を想起し、私たちがキリストにあって神の救いにあることを確認します。同時に、私たちが与えられる神の御国の晩餐の前味です。キリストの再臨と最後の審判の時に、復活の体が与えられ、天国に招き入れられます。ここにこそ、私たちの生きる希望があります。
 
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「何よりも大切なこと」  ルカ12:22~34  2022.10.9 
 
Ⅰ.すべてを自分一人で背負っていないか…
 何を食べようか、何を着ようかと思い悩むことは、私たちにとって当たり前のことです。主イエスはこうしたことが不要であることを語ろうとされているのではありません。自分の生活・家族のこと、隣人のことを思いやることは、大切なことであり、尊い働きです。
 また現実に今日食べるものすらない多くの人たちがいることを私たちは忘れてはなりません。彼らに、「聖書が語っているから、思い悩む必要はない」と私たちは安易に語ってはなりません。私たちは、彼らを思いやり、施しをすることが求められています。
 しかし、主イエスがここで問題としていることは、もっと根本的なこと「生きるとは何か?」、「何のために生きているのか」を問うておられます。
 そして主イエスは、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切で有り、体は衣服よりも大切だ」(22-23)とお語りになります。主イエスは、私たちが生きることの本質を問いかけます。私たちは「自分で働いている」、「自分の力で生きている」と思いがちです。しかし、私たちは主なる神によって命が与えられています。自分の力で生きていると思っている人たちにとっては、理解できません。しかし苦しみの中、今日の食事に困っている人たちにとって、肩の重荷を下ろすことができる言葉ではないでしょうか。自分一人で背負う必要はありません。神が一緒に歩み、担ってくださいます。自分でなんとかしようと思うのではなく、神を信じ、神に委ね、周囲の人たちに委ねるとき、自分一人で苦しみを背負うことから解放されます。

Ⅱ.主の御力を知り、主の救いに感謝して生きる
 主イエスは、「神は烏を養ってくださる。あなたがたは、烏よりもどれほど価値のあることか」とお語りになります(24)。生きるとは、天地万物の創造者であり、今なお世界を統治しておられる主なる神によって、命が与えられていることです。烏は、嫌われている生き物の一つです。嫌われる存在である烏ですら尊ばれている主なる神が、あなたに生命を与え、「あなたは尊い、愛している」とお語りくださいます。
 旧約聖書は、イスラエルが罪の故に主の裁きがもたらされたことを、繰り返し語ります。またアナニアとサフィラは、主をだまし私利私欲に生きたため、主により命が奪われました(使徒5章)。全世界を支配し、生命をお与えくださる主の御力を私たちは忘れてはなりません。キリストの十字架による罪の贖いが成し遂げられた今、主はすぐにでも犯罪者を裁くことがおできになるにも関われず、裁きを行うことを猶予してくださっています。罪人が悔い改めるのを待っておられるからです。神は、私たち自身が知らない髪の毛の数までもご存知です(ルカ12:7)。主は、小さなこと、些細なことまでご存知であり、心配りを行ってくださいます。この主なる神が、あなたの必要をすべて満たしてくださいます。
 私たちは、主なる神によって命が与えられ、今日も、主の御前に生活を続けています。主の御支配・養いと恵みを私たちが知ったとき、主なる神への感謝の思いが生じてきます。本当の意味で主と出会い、主の恵みに満たされて生きているとき、喜びが生じてきます。それが神を礼拝し、祈る原動力となります(参照:ウェストミンスター小教理問1)。
 恵みをお与えになる神は、私たちに苦しみをも与えられます。この時、自分の力で解決しようと思うと、苦しみから抜け出せなくなります。しかし、苦しい時にこそ、主に祈り求め、主にすべてを委ねることが大切です。烏を養ってくださり、花を綺麗に咲かせてくださる神が、私たちの祈りを聞いてくださいます。疑うことなく、信じて祈ることです。

Ⅲ.隣人と共に生きるキリスト者
 しかし、好きなものを食べ好きなものを着る、富を蓄えることは、楽しく、魅力的です。しかしここには自分しかありません。家族や仲間以外の人たちが見えません。こうしたことがむさぼりとなります(第十戒:ウ小教理問79,81)。「むさぼりは、この世のものを神とする偶像礼拝です」とも告白します(子どもカテキズム問81)。偶像礼拝の禁止は第二戒につながります。ですから第十戒を、心の問題として小さなことと思ってはなりません。
 また十戒は第五戒から第十戒の第二の板で、隣人に対する愛について語っています。私たちが自らの欲望を求めて生きることから解放されるとき、隣人と共に生きるように変化していきます。つまり、「わたしは何を求め、欲するか」から解放され、周囲の人たちを見渡し、苦しむ者、悲しむ者へ目を向けるようになります。そして分かち合い、助け合うことができます。これがキリストの愛に生きる生活です。
 
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「思いがけない時への準備」  ルカ12:35~40  2022.10.16  
 
Ⅰ.今、キリスト者として生きるとは…
 私たちは2022年の日本に生きています。コロナがようやく終わりを迎えようとしていますが、「これからどのようになるのか」、「どのように生きれば良いのか」と迷いながらも、先のことは考えずに今日を大切に、今日を楽しく過ぎていくこと人が多いかと思います。
 しかし私たちは今、主なる神によって教会に集められ、神の御前に立たされています。主を信じて神の国を求める私たちの生命は、神の国で神の永遠の祝福に満たされます。ゴールがはっきりと示されています。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(32)と語られているように、私たちキリスト者は小さく、世にあって、まったくと言って良い程に影響力のない群れですが、何も恐れる必要はありません。天地万物を創造し、今もすべてを統治しておられる主が、私たちに救いをお与えくださいます。
 今日の御言葉は、神の国が約束されている私たちキリスト者が、今をどのように生きるのかを問いかけています。キリスト者の中には、「すでに神の予定により救われているのだから、何もしなくても良い」、「今を楽しもう」と語る人もいます。彼らは聖・義・真実を追い求めず、生活が乱れ、神の御前に罪とされることでも行います。いつの時代にもこのようなクリスチャンもどきの者が表れます。

Ⅱ.主人の帰宅と主人がもてなしてくださる晩餐
 神の国の到来の時、つまり主イエスが再臨され最後の審判を行われる時は、主人の帰宅のように突然訪れます。主人の帰宅時間を前もってわかりません。当時婚宴は、何日にもわたり、一週間に及ぶことすらあります。今日は主人が帰宅しないだろうと思っていても、突然祝宴が終了し、帰宅することもあります。そのためいつでも動ける状態でいなければなりません。ここで「目を覚ましている」ことが求められますが、寝ずに主人を帰りを待つことではありません。私たちがキリストの再臨を、何十年も寝ないで待つことは不可能です。何か不測の事態が起これば、すぐに動ける状態でいることが求められています。例えば、消防署の消防士を思い浮かべていただければ良いかと思います。仮眠を取りますが、いざ火災の連絡が入ると、すぐに起き上がり、消防に出かけます。準備をし、いつでも動けることが大切です。つまり忘れることなく主イエスの再臨を待ち望むことです。
 つまり時代に流されていればダメで、時代を見極める力を持ち、賢く生きることです。神の民は迫害を避けて通ることができません。迫害を避け、主への信仰を歪めるのではなく、主への信仰を貫くことが求められます。そして黙示録においては、終末の迫害の厳しさと共に、信仰を貫くキリスト者に与えられる祝福が語られています。私たちは、今の時代、終末の時代を生きています。そして神の国の祝福を忘れてはなりません。
 主人が突然帰ってきたとき、私たちが主人を給仕するのではなく、主人が私たちを給仕してくださいます(37)。給仕は、使用人・身分の低い者が主人や来客に行うことです。この給仕を主人自らが行ってくださいます。つまり主イエスが再臨し、神の国が完成する時、神の国に招かれる私たちが、神によって招き入れていただく客人となっています。このことは、聖餐式において教会を治める長老が配餐し、会員が陪餐に与ることによって指し示されています。客人である会員は、その日時を確認しドレスアップして晩餐に集うのです。

Ⅲ.神の御国を覚えつつ、神を礼拝しよう
 ただ、天国における晩餐は日時がいつか分かりません。戦争のときや世紀末では、「世の終わりが迫っている」と噂されることがあります。しかし私たちは、終末に行われる神の御業を、自分勝手に判断することは許されていません。
 だからこそ、いつその時が訪れても構わないように、準備を整えておく必要が求められています。主イエスは、この日がどのように来るのかを泥棒によって例えています(39)。油断していると、その時は突然訪れ、取り残されることも起こりえます。
 私たちは今、主によって集められ、主の御前で礼拝を献げています。今の日本社会では、無視されるような小さな存在です。しかし私たちが神の国を求める時、何も恐れる必要はありません。主が勝利を遂げてくださいます。主が私たちを神の国に導き入れてくださいます。だからこそ私たちは、どのような時代にあっても、常に主による救いに喜びを持ちつつ、信仰の武具を身に着け(エフェソ6章)、主の御前に礼拝を献げ続けます。主を忘れることなく、私たちが神を礼拝し続けることにより、主は私たちの日々の生活をお守りくださり、私たちを神の御国へと招き入れてくださいます(参照:ウェストミンスター信仰告白33:3)。
 
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「不在の主人に忠実に仕える」  ルカ12:41~48  2022.11.6  
 
序.
 主イエスは、弟子たちに対して、婚宴に出かけた主人の帰宅を待つ僕(しもべ)のように、常に目を覚まして準備をしておくように、お語りになりました。キリスト者にとって、主イエスが再臨するときは、神の御国の完成の喜びの時です。この時を常に待ち続け、油断することなく、主なる神を礼拝する生活を、主は私たちに求めておられます。

Ⅰ.教会役員と一般信徒
 この主イエスの話しをペトロは自分たち弟子こそが守るべき教えとして聴きました(41)。弟子たちは主イエスの弟子であることを特権意識として持っていました(22:24)。ですからペトロの問いかけは、教会役員である牧師・長老への問いかけであると受け取って良いかと思います。しかし主イエスはすべてのキリスト者が主の御言葉に聞くように求めておられます。
 改革派教会の教会規定では、次のように規定されています。「第42条(職務の権威)……教会におけるすべての職務の権威は、キリストに由来し、職務そのものには帰属しない故に、職務に就く者は、他のキリスト者に対して霊的優位性を主張してはならない。彼らは奉仕者、弟子、しもべに過ぎない。」つまり教会は、キリストによって救いが与えられた者たちが集うのであり、主人はキリストお一人です。そのため、教会役員は特別ではなく、罪赦された罪人である一人のキリスト者に過ぎません。主が私たち一人ひとりに賜物を与え、教会役員にも召し出してくださっているのです。漁師であったペトロも、主のしもべとして召されたのであり、特別、優れていたからでも何でもありません。

Ⅱ.忠実で賢い管理人とは…
 主イエスは「忠実で賢い管理人であれ」とお語りになります(42)。「忠実さ」とは何でしょうか? 主イエスがお語りになる御言葉に耳を傾け、それを理解することです(参照:ウェストミンスター大教理問160)。主は私たちの心の中もすべてをご存知であり(45-46)、主人に見えていないことであっても、何も隠すことはできず、忠実に行うことが求められています。
 主は私たちに十戒をお与えくださいました。私たちは心と言葉と行動においてこの十戒に倣う生活を送ることが求められています。また主は私たちの罪をご存じであり、完全に行うことができないこともご存じであり、できないことに対して悔い改めと遜りをもって主を信じ、主の御言葉に従うことが求められています。
 「賢さ」とは世の現状を認識することです。社会の流れ・国の政治状況、そして世界の状況を正しく読み取ることです。為政者や権力者は、マスコミを巧みに用いて誤ったメッセージを私たちに伝えることもあります。社会に迎合することは「賢さ」ではありません。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10:16)。
 主は、賢い管理人に全財産を管理させてくださいます(42-44)。信頼があるからです。表裏がなく、人を裁かず寛容であることが求められます。特に教会役員として主によって召されている牧師や長老は、信仰と共に、政治・社会・経済のことに対して、明瞭であり、状況把握を行う眼力が求められています。

Ⅲ.知らないことは……
 そして最後に主イエスは無知であることに対しても警告を発せられます(48)。つまり、聖書の御言葉、社会状況、経済的な状況を把握することを積極的に行おうとしない者は、「自分は分からない」とさじを投げるのではなく、やはり知ろうとすること、知っている人からアドバイスを受けることが求められています。日本では、政治や社会の体制に対して、積極的に声を発することが敬遠されます。特に「キリスト者は政治に関わるべきではない」と誤った価値観が広まっています。しかしキリスト者は、自分たちの置かれた立場を理解しつつ、政治や社会に対しても積極的に関わっていくことが求められています。
 私たちは今、直接キリストを仰ぎ見ることができません。しかしキリストは今も、天にあって世界を支配され、私たちのために執り成しの祈りを続けていてくださいます。そして再臨され、神の国を完成してくださいます。そしてキリストが再臨されることにより、キリストを救い主として信じる私たちが天に凱旋することが許されます。だからこそキリストが不在であることから、神を忘れた自分中心の生活をするのではなく、信仰の目を覚まし、キリストの再臨を待ち望みつつ、主を礼拝しつつ、信仰の道を歩み続けることが、私たちに求められています。
 
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「主に従う者・背く者」  ルカ12:49~53  2022.11.13   
 
 【ルカ福音書説教】「主に従う者・背く者」ルカ12:49~53、創立70周年宣言(世に仕える教会) (11/13)

序.
 キリスト教は平和の宗教であり、私も説教において和解と平和を求めることを繰り返し語ってきております。また、福音書の著者ルカも、主イエスの誕生に先立ち、「平和の道に導く」(ルカ1:79)、「地には平和、御心に適う人にあれ」(同2:14)と語られていました。

Ⅰ.人は誰も主の裁きを逃れることはできない
 しかし今日の御言葉では、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と語られています(51)。主イエスが、和解と平和ではなく、分裂を求めているとはどういうことでしょうか? 私たちは、私たちの現在あるべき姿と、目指すべきゴールの違いを理解する必要があります。
 つまり、人は、主なる神によって神にかたどり、神に似せて、命の息吹が吹き入れられることによって創造されました。そして主によって与えられる神の国における永遠の生命、そして平和が実現することが約束されていました。しかし人は罪を犯し、それ以来彼らから生まれ来るすべての人間が、生まれながらに罪を持ち、さらに日々罪を犯し、罪による死を避けて通ることができなくなりました。そのため最初の罪以来、人は誰一人例外なく、皆死にます。そして主が天地万物のすべてを支配し、罪の裁きの故にすべてを滅ぼし尽くすことがおできになることを、ノアの洪水によって明らかにしています。
 しかし同時に、ノアの洪水では、主がただすべてを滅ぼし尽くすお方ではないことを、私たちに語りかけています。主なる神は、ノアと家族に呼びかけ、神の恵み、神の憐れみに入れられ、滅びから救い出してくださいました。神からの恵みの手が差し入れられなければ、誰も神と和解し平和に入れられ、神の裁きと滅びを逃れることはできません。

Ⅱ.キリストの十字架  「すでに」と「いまだ」
 真に神との和解がもたらされ、平和を取り戻すためには、罪が償われる必要があります。そのために、神の御子イエス・キリストが人としてお生まれくださいました。そしてキリストは律法の下に暮らされ、十字架の道を歩まれました。つまりキリストの十字架により、キリスト者の罪の赦しと救い、そして神との交わりの回復が与えられました。
 さらに、キリストが死から復活を遂げられ、死に対する勝利、世界を支配している罪に対する勝利がもたらされました。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」(49)と語るのは、まさに罪とサタンを破滅させるためです。しかしこの時は、キリストが十字架に架かる時まで待たなければなりません。そのためまだ火による裁きが行われていません。キリストの十字架の苦しみと死は、私たち神の民の罪の刑罰の償いであると同時に、罪に勝利を遂げるためにくぐらなければならなかった苦しみです。
 また主イエスは、「わたしには受けなければならない洗礼がある」とお語りになります。私たちは水による清めとしての洗礼を授かりますが、この水の清めは、キリストの十字架による火による洗礼があり、罪が滅びがあるからこそ可能なのです。
 キリストの十字架と復活によって、サタンと罪は滅びます。しかし、神の御国の完成は、キリストが再臨される時を待たなければなりません。「日本キリスト改革派教会史」には「途上にある教会」というサブタイトルが付いています。キリストの十字架の御業は成し遂げられましたが、神の国の完成は、キリストの再臨を待たなければなりません。それ故に、罪の残滓が残り、キリスト者は迫害や苦しみを避けることができません。
 主イエスは、すべての人たちが、主の御前に集まり、悔い改めと信仰を告白することを願っておられます。しかし、罪の故にサタンの虜となっている者は、キリスト者を迫害し、キリストの教会を迫害します。そして結果として滅びに向かいます。キリストが語る分裂とは、彼らとの分裂と裁きを意味しています。
 私たちはこの御言葉を読む時に注意しなければなりません。それは、分裂だ、親族でも対立が生じるのだと、主イエスが語るからと言って、家族の中で対立することが求められているのではありません。最終的な救いは、主に委ねられており、私たちは家族の中においても、あくまで和解と平和を求めて歩むことが求められています。
 そのため私たちは、信仰故に様々な苦しみに置かれた中、信仰生活を送ることが求められます。時に家族とさえ対立しつつ、信仰を失うことなく、キリスト者として信仰を貫くことが求められています。このことが可能なのは、キリストによる救いの完成の希望に生きているからです(参照:創立70周年宣言(世に仕える教会))。
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「今の時を見分けよ」  ルカ12:54~56  2022.11.20    
 
Ⅰ.主の摂理の御業に私たちは生きている
 現在、人工衛星やコンピュータの発達により、明日の天気・気温を知ることができる時代になりました。しかしこれは、私たちの肌感覚ではありません。しかし主イエスが語られるように、実際に農作物を育てられている人たちは、長年、肌で感じ取った感覚で、次の日の天候や気温などを予想することができます。経験的な感覚です
 同様に、主イエスは「今の時」を見分けるように求めておられます。それは、天気のように生活に密着していること、政治・経済・社会の動きに関しても言えます。なぜならば、主なる神は、永遠に生きておられ、すべての御計画に基づき創造し、それを摂理においてすべてを御支配になられているからです(参照:ウェストミンスター信仰告白5:1)。つまり主なる神は、歴史に現れるすべての出来事、私たちの生活で起こるすべての出来事を支配しておられます。ですから、今の時を知ることにより、主のしるしを見分けることができるのです。
 そのため、自然災害・疫病・戦争は主なる神の御業として聖書は語ります。これらはイスラエルの罪に対する裁きとして語られてきています(参照:詩編78:50、エレミヤ14:12等)。新約聖書では終末のしるしとして語られています(参照:ルカ21:7-11)。
 ここで注意しなければならないのは、旧約聖書では特定の罪の結果として、疫病や飢饉等がもたらされていますが、新約の時代、罪を特定することはしてはなりません。例えば、大地震が起こったとします。そうしますと、「そこに住んでいる人たち、被災した人たちの罪が裁かれたのだ」と語るようなことはあってはなりません。むしろ、一部地域の災害であっても、終末のしるしとして私たちに対して語られていると理解し、社会全体、そしてキリスト者に対して、罪を指摘し、悔い改めを迫っていると解釈しなければなりません。

Ⅱ.コロナ禍にあって、交わりの意義が問われている
 今回のコロナ禍において、私たちは主からのしるしを読み取ることが求められています。先週、教会教育研修会が行われました。テーマは「わたしたちはなぜ教会に『集まる』のか~コロナ禍以前・以後 今、あらためて考える」です。この座談会において、教会における交わりの大切さを考えたわけであり、コロナ禍における主からのしるしを聞いた結果です。今、教会における交わりが問われています。社会の中では、感染予防の観点から、交わることを閉ざすことが起こりました。予防は必要です。しかし「交わらなくなった」ことにより、改めて教会に集まることの意義を、私たちは考えることが迫られたのです。
 しかしこの問題はコロナ禍にあって出てきた現象ではなく、コロナ禍前にあった問題が、コロナ禍にあって顕在化したのです。その上で、私たちは周囲(世論)に流されてはなりません。つまり、ウィルスの恐ろしさを正しく知り、感染予防を行わなければなりませんが、事象に追われて世論に流されることにより、そこに潜む問題の本質が見えなくなります。
 つまり安易にオンラインで、礼拝に直接出席しないと、キリストとの人格的な交わりを失い、同時に聖徒の交わりを失います。説教は、聖書の学び会、講演会ではありません。授業や講演会であれば、ある程度オンラインでも事足りますが、人格的な交わりを行うことができません。つまり、コロナという現象にのみ注目していると、主が私たちキリスト者に対して問題の指摘を行い、改善を求めていることに気が付きません。このことを、主イエスは「どうして今の時を見分けることを知らないのか」とお語りになっています。

Ⅲ.今の時代に改革派教会を形成する
 つまり私たちが注意しなければならないことは、生活と信仰を分離しないことです。アメリカのアーミッシュは、世の中のことを否定し、自分たちだけのコミュニティを形成しました。これが聖俗二元論であり、私たちの信仰とは相容れません。これに近いことは日本の教会にもあります。「教会は政治に関わってはならない」と語られてきたことです。教会と政治を二元論的に考えてはなりません。
 主なる神は、すべてを支配しておられます。そして今、私たちが生きている中にあっても、主はすべてを支配しておられ、食べるもの、飲むものの一つひとつに主の関与、主の恵みがあります(参照:Ⅰコリント10:31)。そのため改革派教会は、有神論的人生観・世界観に生きることを求めます。そして、一つひとつの出来事において、神が私たちに語りかける言葉をしるしとして受け取り、悔い改め、改善が求められています。「改革派教会」とは、「御言葉によって改革される続ける教会」です。変化することを恐れ、誤った習慣を勇気をもって変更し、御言葉に従った教会を形成することが求められています。
  
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「真の正しさを知ろう!」  ルカ12:57~59  2022.12.4     
 
序.一本の木ではなく、森を理解せよ!
 私たちが聖書を読むとき、聖書の一字一句に注目しなければなりません。しかし同時に、前後の文脈、さらには書簡全体・聖書全体を意識して読まなければ、聖書が語ろうとしている意図を理解することができません。つまり森の中の一本の木、その葉に注目することも大切ですが、森全体を忘れてしまうとさまよってしまいます。森全体を知り、ゴールを知っているからこそ、一本の木の大切さも見ることができるのです。
 今、水曜日の祈祷会で、ネヘミヤ記を読み進んでいますが、バビロン捕囚から解放されるという、旧約聖書では最後の出来事が記されています。しかし、今回じっくり聖書を読んでいると、旧約最後のメッセージは、新約聖書への繋がりを意識しており、さらには聖書全体、つまり最後の審判において訪れる神の国と私たちの救いを意識して語られていることが示されました。これは私にとっても、まったく初めての気付きであり、喜びでした。

Ⅰ.文脈から位置をテーマせよ!
 今日の御言葉においても同様のことを語ることができます。つまり、今お読みした所だけを切り取り読んでいると少し分かりにくいかと思います。しかしこの部分から理解しようとすると、「悪いことをすれば神の裁きを受けるから、そういうことはしてはならない、キリスト者として聖い生活が求められている」と言った、教訓じみた説教になります。
 しかし前後(12:35~13:5)の文脈を読むと、ここで語ろうとしていることは、まったく違うことに気付いて頂けるかと思います。つまり主イエスは終末について語っておられます。だからこそ、「目を覚ましておきなさい」、「時を見分けなさい」と語られていました。つまり、裁判官に引き渡されることは、最後の審判をイメージしなければなりません。

Ⅱ.主の御前に、私たちは罪人
 このとき私たちは、裁判官に連れて行かれている自分という人間を顧みなければなりません。キリストが再臨し、最後の審判という主の裁判に引き渡されます。主なる神は全知全能であられ、私たちのすべてを知っておられます。つまり、生まれたときから地上の生涯を終えるまでのすべてです。このとき主なる神は、私たちのすべての行いばかりか、口から発してきたすべての言葉、そして心の中で思ってきていたことのすべてを判断されます。そしてその規準が、十戒に代表される律法として、私たちに示されています。
 主なる神は、完全な方、義・聖・真実なお方です。私たちは罪人であり(参照:ウェストミンスター大教理問149)、誰一人として、「罪がない」と宣言することはできません。そのため、主イエスが「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)と語られたとき、誰一人、女を裁くことができませんでした。私たちは、主なる神の御前に罪人であることを、受け入れることが第一に求められています。このことにより私たちは、主なる神の御前に遜り、謙遜と自己否定によって頭を垂れて、主の御言葉に聴く者とされています。つまり、このままの状態で最後の審判に私たちが連れて行かれたとき、有罪判決を受け、永遠の死、滅びの宣告を受けなければなりません。

Ⅲ.キリストの十字架と私たち
 このとき主イエスは、「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい」(58)とお語りになります。この「仲直りする」とは、第一に「自分には、裁かれる罪などない」という開き直りの態度を捨て、自らの罪を受け入れること、罪を悔い改めることです。いわゆる「情状酌量」を求めることです。
 そしてもう一つ、いま私たちには主の御言葉が与えられています。そして御言葉は、クリスマスの日に人としてお生まれになられた方が、私たちの罪を代わりに背負い、十字架の死を遂げられ、死から三日目の朝に、甦られたことを語ります。私たちは、キリストを救い主として受け入れ、キリストによって成し遂げられる罪の贖いを信じることが求められています。キリストが成し遂げられる十字架の死と死からの復活により、私たちの罪は贖われました。キリストの十字架の死は、本来ならば、キリストを信じる者の負わなければならない罪の刑罰です。私たちが、このキリストの十字架の御業を受け入れるとき、私たちのすべての罪の刑罰はキリストの十字架の御業に転嫁され、私たちは義と認められます。これが「信じる者は救われる」という信仰義認です。
 そして「最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」(59)と語られます。レプトンとは100円程度です。どれだけ小さな罪であってもそれが残っていると有罪とされ裁かれますが、キリストの十字架を受け入れる者は、これから犯す罪もすべて赦されています。私たちは今、キリストと出会うこと・信じることが求められています。
 私たちはいま、御言葉により、主イエスが私たちに示してくださった罪の赦しと救い、神の国における永遠の生命を受け入れるか、「否」と語り拒否するか問われています。主イエスは、「いま目を覚ましていなさい」、「今の時を見分けなさい」とお語りになります。キリストはすでに私たちの救いのために、十字架の御業を成し遂げてくださっています。
 
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「災難は因果応報か?」  ルカ13:1~5  2022.12.11     
 
 序.因果応報
 「因果応報」とは「人は良い行いをすれば良い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ」ですが、現在では、悪い方にのみ用いられていることが多いかと思います。しかしこの考えは誤りであることを、主イエスは私たちに語りかけます。

Ⅰ.ガラテヤ人の死
 ルカ福音書13章では二つの出来事が記されています。一つ目はローマの総督ピラトがガリラヤ人を殺したことです。なぜ、そのガリラヤ人が殺されたか、私たちは知ることはできませんが、総督ピラトは横暴であり、罪も無い人々を捕らえ、次々殺していたと語られています。ですから、ここでも同じ状況であったのではないでしょうか。
 また、この殺されたガリラヤ人の血を、ユダヤ人たちが行っていたいけにえに混ぜたということです。いけにえは神聖なものです。そうした主へ献げられるべきいけにえの血に、殺された者の血が混ぜられたのです。ここにピラトの罪が明らかにされています。
 しかし今日の御言葉では、私たちは殺されたガリラヤ人に目を向けなければなりません。主イエスは、「そのガリラヤ人たちがそのような災難にあったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うか。決してそうではない」(2-3)とお語りになります。主イエスは因果応報を否定されています。そしてさらに主イエスは、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と語られています。すべての人が罪人であり、罪の刑罰を避けることはできません(全的堕落:ウェストミンスター小教理問19)。
 何があなたの罪なのか? 十戒、特に第二の板(第五戒~第十戒)に注目しますと、「行いにおいては守ることができる」と語ることができるかも知れません。しかし主は全知全能であり、私たちの行い・言葉・心の中もご存じです。そして神は、僅かな罪・過ちも許すことができない義・聖であるお方です。そのため私たちの小さな行い・言葉・心の中の罪さえも見逃されることはありません。罪の刑罰は死であり、誰も逃れることができません。
 ですから、ガリラヤ人たちの死は、本来ならば私たち自身にもたらされる死でもあることを、私たちは受け入れることが求められています。私たちは自分の力で神による救いを手に入れることはできません。主の御前に自らの罪を悔い改めることが求められています。私たちが今主の裁きに遭わず、日々の暮らしが守られているのは、主なる神による恵みに過ぎず、このことこそが特別なことであることを、私たちは知らなければなりません。

Ⅱ.エルサレムでの事故とその結果
 続けてエルサレムに住むイスラエル人がシロアムの塔が倒れることにより、事故死したことが語られています(4)。主イエスが同じ事柄を重ね、繰り返してお語りになるのは、このことが非常に大切な事柄であるからです。つまり、私たちは自らの罪を受け入れ、神の御前に罪の悔い改めを行い、救いを求めること以外に、私たちの救いはないのです。
 エルサレムで18名の住民が亡くなりました。しかしAD70年にはローマ軍によりエルサレムが崩壊し、110万人の命が奪われたと言われています。主イエスを十字架に架けた結果であるとも言えます。旧約においては、イスラエルの罪の故に、王国は分裂し、バビロンにより滅ぼされ、捕囚の民とされました。つまり罪を悔い改めなければ、主の裁きを誰も避けて通ることができないことを、聖書は私たちに語りかけます。
 一方ヨナ書では、バビロンの首都ニネベの人々に、罪の悔い改めを語ることによって、彼らは罪を悔い改め、断食を行いました。罪を悔い改める者に対しては主の救いが与えられます。だからこそ私たちは、キリストを信じ、十字架の御業を私たちのために成し遂げられた贖いとして受け入れることが求められています(参照:ウェストミンスター大教理問153)。
 ルカ福音書は貧しい者・障害のある人たちに対して、主の恵み・癒やしが与えられることを繰り返し語ります。主イエスは、経済的・社会的・身体的な状態が、その人の霊的な状態を直接反映していることではないこと、つまり因果応報を否定し、彼らの貧しさ・障害は、彼らの責任ではないを私たちに語っています。
 現在の日本社会では、自己責任が語られます。これは「因果応報」によって弱者を切り捨てることを意味しています。主イエスはこうした社会を否定しています。今、キリスト教会は、社会的弱者に対して、愛の業を実践していくことが求められています。キリスト教会が、そして私たちキリスト者一人ひとりが、社会的弱者と寄り添い、交わりを持つことなしに、キリスト教会の成長、私たち一人ひとりの信仰の成長は成し遂げられません。
  
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「これ以上実りを待てない」  ルカ13:6~9  2023.1.1      
 
Ⅰ.信じる者の救いとまだ立ち帰らない者を待っておられる主
 ルカ11章6~9節は、ここだけを切り取って読みますと意味を理解することが困難です。前後を読まなければ理解できません。つまり主イエスは、私たちが主の裁きから逃れるためには、罪の悔い改めと主への信仰を表すことを求めておられました(1-5)。主は義であり、最終的に罪を悔い改めず、への信仰を表さない者は、彼の故に裁きを行われます。
 しかし主は私たちを愛していてくださいます。今なお罪の中に生きている者に対して、罪の悔い改めを行い、主に立ち帰ることを願っておられます。そのため、すぐにでも最後の審判を行うことができるお方ですが、それを猶予し待っていてくださっています。今も主は、忍耐して待っていてくださっています。今の時代、主は最後の審判を遅らせておられることを、今日の御言葉は園丁と主人の会話をとおして、私たちに語りかけています。

Ⅱ.今、苦しみの中にある人たち
 私たちは今、終末の時を歩んでいます。世界では戦争が行われ、迫害が行われています。日本でも、今の政権は戦争を行うことができる安保法を成立させ、憲法を改正しようとしています。平和のための対話を行うことをせず、恐怖を煽って軍事費を増大させています。その一方で、社会的弱者は切り捨てられ、少数者の人権は疎かにされています。主なる神を知らない者は、主の存在・支配を否定し、主に逆らい続けています。この現実を知ろうとしないことは、彼らの行為を受け入れていることと同じです。
 このような主に逆らい行く人々が支配している社会にあって、主イエスは十字架の御業による罪への勝利と再臨による最後の審判を約束してくださいました。罪を悔い改めなければ必ず滅ぼされることを主は警告しておられます(1-5)。ただ、主はこの時を遅らせてくださっていることをここで語ります。

Ⅲ.最後の一人に至るまで福音を届けよ!
 主はいつまで罪がはびこることを許されているのでしょうか? 7節の問いかけは、罪に苦しむ者たちの叫びの声です。しかし園丁の意見は異なります。「来年は実がなるかもしれません」。主はまだ罪を悔い改めず、主の御前に来ていない者たちが、罪を悔い改め、信仰という実りを実らせることを待っておられます。主は彼らを見捨てられることはありません。すでに主を信じ、苦しみに耐えている者を、主は神の子、神の国の住民として招き入れてくださっています。ここから漏れることはなく、神の国の到来する時、すべての苦しみから解放され、主の祝福に満たされます。今の苦しみは長いようでありますが、主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです(Ⅱペトロ3:8)。
 同時に、主はまだ教会に集まっていない神の民を、捨てることはできないお方です。だからこそ、主は私たちに宣教するように求めておられるのです(マタイ28:19-20)。私たちは、主の壮大な救いのご計画を確認しなければなりません。主は天地万物を創造される前に、救いの民を選ばれ、それが変更されることはありません(参照:ウ小教理問34、信仰告白3:3,4)。
 まだ教会に集められていない主の民がいます。私たちの教会でも昨年洗礼を授かった方々がいます。これはまさに神の民が、まだ教会に集まっていないことの証しです。私たちには、誰が救われ、我が主の裁きに遭うのかは示されていません。家族が、友人が主の救いにあることを確信して祈りつつ、伝道することが、私たちに求められています。
 主は、旧約の時代、イスラエルに預言者を立て、イスラエルの民に罪の悔い改めと主への信仰を言い表すように語らせました。それは神の民イスラエルであっても、主から離れ、主に逆らって生きる時、主の裁きを逃れることができないからあり、現に、北王国はアッシリアに、南王国はバビロンによって滅ぼされ、イスラエルの民は捕囚の民とされました。
 主が預言者を立てられたのは、預言者の声を聞き、イスラエルの民が、主に立ち帰るためです。預言者はイスラエルの民からも嘲弄され、時には迫害をうけ、殉教の死に至りました。しかし主が預言者を立てたのは、そこに僅かでも主の民がおり、罪の悔い改めと主への信仰を言い表す民がいたからです。フィリポは、一人の宦官に出会うために、主によって遣わされ、福音を宣べ伝えました(使徒8:26-40)。
 教会の働きはこういうことです。すでに神を信じて主の御前に集められている私たちは、神の子としての祝福に与っています。まだ教会につながっていない一人の主の民がいれば、主は福音を宣べ伝えるように私たちに求めておられます。そのために神の国の完成が遅れているのです。主は、忍耐強く、最後の実が実るときを待っていてくださっています。
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「今、主の御業が働く」  ルカ13:10~17  2023.1.8 
 
序.
 前回「その段落だけを読んでいると、ルカが語ろうとしている真意・福音の本質を理解することができない」、「前後の文脈を理解しなければならないのだ」と語りました。私たちに今日与えられた御言葉は、この段落だけを読んで理解できることが語られています。しかし同じように注意が必要です。ここでは、安息日の問題、そして主イエスが神としての権威をもっておられることが語られていますが、この二つの論点は一つの方向性をもって読まなければなりません。つまりこのときにも前後の文脈を考えながら、「私たちが終末において完成する神の国に向かって歩んでいる」ことを踏まえつつ、ここを読むことにより、主イエスが安息日に癒やしを行われた真意が見えてきます。

Ⅰ.主イエスによる癒やし
 主イエスは、18年間、病気で苦しんでいる女性と出会います(10~11)。そして主イエスは、神の権威・御力により、女の病を癒やされます(12-13)。主イエスが福音を宣べ伝えるとは、主イエスにより、罪の奴隷とされている人を解放し、罪を赦し、神の国の民へと導くことです。長年病気を患っている人、つまり不治の病に苦しむ人の病気を癒やすということは、病に象徴される罪から解放し、神の国へ導いてくださっていることを意味しています。

Ⅱ.安息日と癒やし
 ところがユダヤ人である会堂長は、主イエスの癒やしの行為が、十戒の第四戒違反であると訴えます(14)。主は第四戒をこのように規定します。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出エジプト20:8-10)。「聖別」に関しては後から取り上げます。主は私たちに「七日目に休む」ことを求めておられます。それもすべての人です。つまり、人は働きづめであってはならず、七日の内、丸一日は休息をとるように、主は人を創造されたのです。これは基本原則です。
 しかし基本があれば、例外があります。主イエスの御業はそれにあたるわけで、ユダヤ人たちもまた例外規定を行っていることを、主イエスは指摘されます(15)。ウェストミンスター大教理問答問117では括弧の中です。「必要な業と憐れみの業に用いられる時間」は、安息日であろうと働いて良いと、ウェストミンスターは解釈しています。

Ⅲ.安息日の目指す方向性
 その上で、第四戒が規定されていることにおいて、付け加えられている理由を考えなければなりません。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」(申命記5:15)。安息日を覚えて聖とすることの意味は、私たちが主の日に神の御前で礼拝を献げることですが、主がエジプトで奴隷であったイスラエルを救ってくださったように、罪の奴隷であった私たちを、主が御子イエス・キリストの十字架の贖いにより救い出し、神の子としてくださったことを覚えることです。そうであるならば、18年間、病気で苦しんでいた人を、病気から解放することは、まさに安息日に適ったことが行われたのだということを、主イエスはユダヤ人である会堂長に語り、私たちに語ってくださっています。
 また第四戒は「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」とも語ります(出エジプト20:11)。出エジプト記では創造の秩序に訴えます。主なる神が天地万物を創造された目的は、神の国の完成に向けてでした。そのため人が創造されたとき、善悪の知識の木の実を食べないことにより、神の国が定められていました。神の御業により、罪の赦しと救いが与えられた私たちキリスト者は、再創造されたわけで、新たな主の安息を目指して、歩みを続けています。この主の安息こそが、キリストの再臨によってもたらされる神の国の完成です。
 ですから私たちが安息日である主の日を過ごすことは、主によって与えられる安息である神の国の完成に向けて、その日が訪れることを願いつつ、主を礼拝することです。主イエスは、これから十字架の道を歩まれますが、その先にある神の国の完成に向けて、この女性に対しても、その安息に与ることができるように、病気が癒やされたのです。だからこそ、私たちが主の日の礼拝を守ることは、神の国に向けての歩みでなければなりません。

 
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 「神の国とは……」  ルカ13:18~21  2023.1.15 
 
Ⅰ.僅かな人数からの出発
 ルカは、主イエスが安息日に1女性を癒やされたことに続けて、からし種とパン種の譬えに話しを移します。気にせず読みますと別の話しが展開されているのかと思ってしまいますが、ルカは「そこで」(18)と語り、私たちは連続性を覚えて読まなければなりません。つまりルカは13章に入り継続して神の国の話しを行っています。女性の癒しは、一人に行われた小さな御業です。しかし彼女にとっては神の国が示される大きな出来事でした。
 からし種はごま粒程の非常に小さな種です。そうした小さな種が、一年で2~3mにもなり、空の鳥が巣を作れる程にまで成長します。「神の国」は、最初は小さなことと思われている教会が、大きく成長するすることを物語っています。
 主イエスが宣教を開始したとき、最初に十二使徒が召されます。続けて主イエスは72人を伝道に遣わされます(ルカ10:1-12)。そして主イエスが天に昇られたとき、120人程の人々が一つになっていました(1:15)。この僅かな人たちに、主イエスは「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)と語り、大宣教命令を出されます。
 この後、聖霊降臨があり、ペトロの説教を受けて3000人程が仲間に加わり(使徒2:41)、パウロが加わり、異邦人宣教・世界へと宣教の和が広まっていきます。

Ⅱ.混沌の中からの主への信頼
 しかし福音宣教は順風満帆ではありません。弟子たちは主イエスが居なくなった時に、初めてそのことに気が付きます。つまり主イエスが逮捕されたとき、弟子たちは皆、逃げ去ります。ペトロも主イエスのことを「知らない」と語り、離反してしまいます。弟子たちは、自分の生命の保身を行い、キリスト教会としては存亡の危機に陥ります。
 主イエスの十字架の御業と復活により、弟子たちは一つになり新約の教会が立てられますが、キリスト教会は、ユダヤ人やローマ帝国によって迫害を受けます。そして拠点もエルサレムからアンティオケアに移らざるを得ません。復活の主イエスと出会い、改宗して異邦人宣教へと召されたパウロも同様です(Ⅱコリント11:23-28)。教会は、外からの迫害ばかりか、内においても、時として腐敗することがあり、宗教改革前夜は、当時のローマ教会は免罪符により、お金で救いを売買する状況でした(参照:ウェストミンスター信仰告白25:5)。
 しかし教会は、からし種のごとくに必ず成長していきます。主イエスの逮捕によってバラバラになった弟子たちに、復活の主イエスが現れてくださいました。そして主イエスはペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(ヨハネ21:15)と言われます。主イエスが愛してくださっています。主イエスと共にある喜び、神による救いの嬉しさが与えられました。これが非常に大切です。
 新約の時代の迫害においても、苦しみや殉教の死を伴いながらも、信仰をまっとうするキリスト者が与えられます。彼らもまた、キリストの十字架による死と復活が示され、自分自身の罪の赦しと神の子としての永遠の生命が与えられたのです。
 私たちはできることならば、苦しむこと、そして死を避けたいです。しかしそれ以上に、主がお与えくださった救いの恵みがどれだけ素晴らしいものであるかが示されたとき、信仰をまっとうすることができるのです。つまり、宣教の拡大は、トントン拍子に行ったのではありません。苦しみ、傷つき、さらには多くの犠牲が伴います。

Ⅲ.神の国を目指す歩み
 からし種のごとくに、教会は成長します。このとき主の晩餐の礼典に注目することが大切です。聖餐は神の国の前味を味わっています。時代・民族・国・言葉・文化を超えた人々が天国における晩餐に共に与ります。この素晴らしさ、喜びをお覚えいただきたいと思います。これこそが、からし種が成長した結果です。パン種が成長した結果です。
 天上の教会の素晴らしさを覚える時、地上の教会がどれだけ苦しみの中にあろうとも、苦しみを乗り越える力が与えられます。殉教の死をも覚悟して信仰を貫くことができるのは、神の国の永遠の生命の喜びに生きているからこそ、可能となります。
 今、日本では教会が小さくなっています。私たちも埼玉東部地区全体を見据えて、教会形成を行っています。忍耐と祈りが必要です。同時に、この苦しみを乗り越える先に、大きな成長が約束されています。それは数的成長ではなく、信仰が訓練され、主に喜ばれる信仰者として成長することでもあります。だからこそ私たちは今、苦しみの中にありますが、なおも希望をもって、神の国への歩みを続けていくことが求められています。
 
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  「今、天国の扉は開かれている」  ルカ13:22~30  2023.2.5 
 
序.
 主イエスは「神の国はからし種やパン種のように成長する」ことをお語りになりました。最終的に神が救いに御計画されている神の民のすべての者が救われるのであり、それぞれの時代・地域においては減少・撤退することもあります。また同時に、個々人の信仰の成長が約束されていることも確認しました。
 そうした中、弟子たちの中に、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(23)と問いかける者がいました。主イエスの福音と神の御力が多くのユダヤ人たちに受け入れられず、弟子たちは孤独さ・無力さも感じていたのではないでしょうか。人間心理として、人数が少ないことは不安になります。また弟子たちとしては、9章・10章において宣教に派遣されたとき多くの人たちが神を信じたのだから、主イエスが神であるならば、もっと多くの人が救われ、イエスの弟子となるのではないのか、と言った思いもあるかと思います。

Ⅰ.予定と遺棄を考える
 主イエスは「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(24)と語られていることから、ここだけを切り取り「救う者と滅ぼす者を定めておられる神は不公平だ。滅びる人が可愛そうだ」と語る人たちがいます。主なる神の永遠の選び、救いの予定に対する非難です。主は予め救う者を定めておられます。その結果、救われない者もいます。では、あなたは自分が救われるか、滅びるかを知っているのですか?自分が滅びることが分かっていれば、「なぜ神は私を滅ぼすのか」と語るでしょう。しかしパウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と語り、主イエスを救い主として信じている人は、皆救われることをお語りくださいます(参照:ウ信仰告白18:1)。
 そして「神は不公平だ」と人々が語る時、その人たちは他人のことばかり語り、自分は傍観者になっています。しかし主イエスが問うておられるのは「あなたはどう思うのか?」です。人は傍観者となり、見物人となった時、自らが神による救いに入りろうとしません。主イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい」とお語りになりますが、日本語聖書では「あなたがたは」という主語が省かれています。すべての人たちに問うておられますが、それは同時にここに集う私たち一人ひとり、そしてあなたに向けられている言葉です。「あなたは、主イエスが救い主であると信じていますか」と問われています。
 では結果として滅びる人たちはどうでしょうか? ルカ福音書16章には金持ちとラザロの話しが記されています。陰府(地獄)にさいなまれた金持ちについて記されています(ルカ16:22~31)。結果として滅びていく人たちは、主が御言葉によって語りかけても、耳を傾けようとせず、自らの罪を顧みて悔い改めることをしません。ここに神の裁きがあり、主なる神が天国の戸を閉じた後に、地獄にいることに気付き、救いを求めても手遅れです。

Ⅱ.聖書に生きよ!
 主イエスは「狭い戸口」と語られますが、救いの道は、誰もが一緒に連れ歩くような広い道ではないということです。「努力すれば救われる」と語ると、律法主義的な意味に取られるかも知れませんので、相応しくありません。ここでは意識を持つことが、大切です。つまり何も考えず、「みんなが行く道だから大丈夫」といった道ではありません。
 何に意識をするのかと言えば、主なる神・聖書に信仰の基盤をおいて生きることです(参照:ルカ6:46-49)。別の言い方をすれば、自己中心に生きるのではなく、神中心に生きること、生きる目的として、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとして生きることです(参照:ウェストミンスター小教理問答問1)。つまりあなた自身が、周囲の人々に流されることなく、主がお語りくださる聖書を土台として生きている時、主はあなたを救ってくださいます。主を信じ、聖書を基盤に私たちが生きるとき、周囲の人たちとは異なった歩みとなります。しかしそれが狭い戸口を歩むことです。

Ⅲ.救いの秩序と希望に生きるキリスト者
 このとき、私たちは救い主であるキリストと人格的に出会うことが求められえちます。いまリモートの時代を迎え、インターネットを通じて礼拝に与ることができるようになりましたが、なおも私たちは直接教会に来て、礼拝に与ることが大切です。そして私たちは、キリストとの人格的な交わりを、主の晩餐に与ることにより、確認します。主の晩餐に与ることにより、キリストの十字架に結びつき、神の国の晩餐(礼拝)の前味を味わいます。
 私たちにはすでに神の御国、永遠の生命の希望が与えられています。教会、そして聖書にこそ真実があり、真理があります。聖書が示す狭い戸口にこそ、生きる希望があります。
 
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 「十字架への道」  ルカ13:31~35  2023.2.12 
 
 Ⅰ.キリスト者として生きるとは…
 私たちは、主なる神により救われ、恵みに満たされつつ、時間を割き、教会に集まり礼拝を献げることが許されています。この行動は、主を信じていない人たちと明かな違いがあります。つまり礼拝に集い続けること自体、主なる神を信じている者の信仰の証しです。
 そして私たちが教会に来る姿を見ている家族や周囲の人たちは、自分たちとの違いを見ています。時に「否定したい」、時に「反抗したい」そういった思いで……。そしてそして憤りがエスカレートすると迫害や殺害へとつながることもあるかと思います。
 私たちは、彼らが教会に来て信仰を持ってもらいたいと願いますが、同時に彼らも私たちとの違いを実感しているかと思います。

Ⅱ.イスラエル人の罪
 さてファリサイ派の人々は主イエスに対して「ここを立ち去ってください」と求めます。「ヘロデがあなたを殺そうとしています」とも語ります。ヘロデは洗礼者ヨハネを殺し(マタイ14:10)、主イエスを恐れていました。しかしファリサイ人たちの言葉は言い訳に過ぎません。主イエスの語る福音等が、自分たちの信仰・教えとは違うことが明らかになり、違和感・恐れを感じていたのです。
 約束の民イスラエルでも、主がお語りになる福音に耳を貸さず、自分たちの思いで生き時、主が遣わす預言者を迫害し殺害しました(列王下21:16、エレミヤ26:20-21等)。殺す程の憎しみが湧くのは、主の遣わされた預言者たちとの行き方・人生観がまったく異なるからです。彼らは約束の民イスラエルだと自負しつつも、福音から離れた生活を行っていました。
 主イエスはヘロデのことを「あの狐」と語られます。強烈に軽蔑した言葉です。当時のタルムード(律法集)では、キツネは最もずるがしこい動物とされていました。ヘロデの無力さ・ひ弱さ・罪深さを指摘しています。ヘロデは、イエスを恐れ、殺意を抱いていました。自分勝手・身勝手な思いです。自らは不道徳を行い人の命を奪いつつ、イエスに対しては、自らの平安を取り去る者として、追放・殺害を願っていました。これは、旧約のイスラエルの民が預言者を迫害していたのと同じことを繰り返していることを意味しています。
 さらに主イエスは「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ…」(34-35)と語られます。「エルサレム」とは「平和の神」です。本来、主が平和を実現する町エルサレムで、主イエスは殺されに行きます。主イエスの死と復活により、私たちの罪が贖われ救いが完成します(参照:ウェストミンスター信仰告白8:5)。
 ヘロデとイスラエルの民がキリストを十字架に架けます。旧約のイスラエルの民が行ったことと同じことです。平和を実現される主により、平和を乱すイスラエルは特別な裁きを受けます。イスラエルの裁きは、主が遣わされた預言者の声に耳を傾けず、応じなかった結果です。イスラエルであろうと異邦人であろうと、福音と罪の悔い改めが迫られている時に、それを断り、自らの思いを貫く時、ここに救いはなく、主の裁きが待っています。

Ⅲ.救いの希望に生きよう!
 肉においてイスラエルに生まれることではなく、キリストの救いを受け入れ、キリスト者として生きることが大切です(参照:ローマ10:9-13)。私たちがキリスト者として生活する時、必然的に周囲の人たちとの違いが表面化します。私たちは周囲の人たちとの違いを恐れてはなりません。主は、御言葉の福音を受け入れる者に救いの恵み、罪の赦しと天国における永遠の生命をお与えくださいます。十字架と復活を成し遂げたキリストは、私たちに天国の住まいを準備してくださっています。ここにキリスト者の生きる希望があります。
 主イエスはヘロデとファリサイ人に「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」とお語りになりました。キリストは、エルサレムにおける十字架を見据えておられますが、その日まで福音を語り、悪霊を追い出されます。私たちキリスト者も同じ歩みが求められています。今、教会に来る人が少なくなり、教会の行く末も心配になります。しかし私たちは、昨日も・今日も・明日も、変わることなく、主を礼拝し、御言葉と祈りの伴う信仰生活を行い、主が託してくださった被造物を治めつつ、主を証し続けることが求められています。主にある救いの希望を持ちつつ、喜びをもって信仰の歩みを続けて頂きたいものです。

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  「安息日とは」  ルカ14:1~6  2023.2.19 
 
序.
 「安息日」は一般的には使われない言葉ですが、私たちキリスト者は、キリスト教安息日である主の日に神を礼拝することを非常に大切にしています。今日、与えられた御言葉より、安息日について考えて行こうと思います。

Ⅰ.主によって定められた安息日
 主なる神は、最初の6日間で天地万物を創造してくださり、6日目の最後に私たち人間を、神のかたち・神に似せて創造してくださいました。そして神は7日目に、休まれ、安息されました(創世記1章~2:5)。つまり人類の最初の時から、一週間の第七の日を安息日としました。そして神は、仕事を休み、神を礼拝する日とすることを求めておられます。
 そしてキリストが十字架の死と復活を遂げてから、週の最初の日(日曜日)がキリスト教安息日となりました。7日に一度休むことは、神が私たちの体のことを知っておられるからです。そして7日に一度、仕事から離れ、神の御前に集まり礼拝することにより、神が私たちの創造主・救い主であることを覚え、感謝と喜びをもって生きることができます。
 このことが、十戒の第四戒において規定されています(出エジプト20:8~11)。

Ⅱ.イスラエルの選び
 ファリサイ派の人たち(ユダヤ人・イスラエル)は神から神の民であるとの召しを受け、彼ら自身もそのことを喜んで生きていたと言って良いでしょう。そして彼らは、安息日を一生懸命に厳格に守ろうとしていました。十戒は「十の戒め」と記され、「~しなければならない」と語られているため、多くの人たちは、「クリスチャンであれば、この戒めを守らなければならない」と思っているかと思います。ユダヤ人たちは、そのことに徹底していました。そのため、「安息日には働いてはダメ」ということが徹底して行われ、安息日に働くことは罪を犯すことであると語っていました。彼らは、主なる神が安息日を最初に定められた時のことを忘れて、7日に一度、休息することが主たる目的ではなく、安息日に休まなければならない禁止事項にしてしまいました。これが律法主義です。

Ⅲ.十戒の目的から考える安息日厳守
 十戒には序文があります。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」(出エジプト20:1-2)。この言葉を理解することが大切です。主は、「今から語る十の戒めを守りなさい。そうすればあなたたちを救う」とは語っておられません。神は「私は、あなたたちをエジプトで奴隷の状態から救い出した神である」とお語りになります。つまりイスラエルの民も今主を礼拝している私たちも、すでに救われています。私たちは、神の恵みの中に生きていますが、周囲には様々な罪の誘惑があります。そのため、神の恵みから離れないように、十のことばに従うように、神はイスラエルや私たちに対して求めておられます。つまり十戒は、「ねばならない」戒めではなく、主なる神に対しての愛、そして私たちの周囲に与えられている方々への愛を表す手段です。
 つまり、主なる神が安息日を守るように求めておられるのは、7日に一度、重労働から解放し、本来あるべき神との交わりの時、礼拝を守る時として定めてくださっています。

Ⅳ.神の愛に生きる
 ユダヤ人たちは、「安息日厳守」を貫いていました。そのため命に関わらなければ、病気すらも治すことは労働として許されないとしていました。しかし十戒ではそのようなことを教えていません。主なる神は一人ひとりを愛しておられ、今、不治の病にある水腫を患っている人をも愛しておられます。だからこそ、主イエスはこの人の病気を癒やされたのです。そのため主イエスは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)とも語られています。神の愛は、罪の中、死と滅びに向かっていた私たちを救い出し、私たちを神の国に導いてくださることにあります。ここに、私たちがキリストを救い主として受け入れ、キリスト者として生きる価値が示されています。
 キリストは病人を癒やし、苦しみから解放してくださいました。だからこそ私たちが、苦しむ者と共にある時、その苦しみを受け入れ、理解し、共有すること、祈ること、手助けをすること、献げることが求められています。
 私たちは、ユダヤ人たちのように律法・法律を守ることができなかった人たちを非難する者ではなく、私たち自身がキリストの十字架により罪赦された罪人であることを覚えつつ、人種・宗教による差別を行うことなく、互いに罪を赦し、互いに理解し合い、和解し、平和と共存をする社会を作るために、歩み続けることが求められています。

 
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  「へりくだるものは高められる」  ルカ14:7~14  2023.3.5 
 
序.
 今日の御言葉は道徳的な教訓として読まれることがあります。しかし私たちは、主がお語りくださる御言葉を、信仰の言葉として受け取ることが求められます。つまり私たちは、主なる神への信仰と日々の生活とが分離していてはなりません。主を信じることは、私たちの日々の生活中に信仰が表れます。それが有神論的人生観・世界観に生きることです。

Ⅰ.結婚式における席順
 主イエスは、宴席における席順について語り始められます。日本の結婚式の披露宴だと、招待する側が、予め席順を決め、招かれた客はそれに従って座ります。そのため、席順を決める側が、失礼がないか、役職などを気にしつつ作成することとなります。
 しかし、主イエスの時代は婚宴の席順などは決まっていなかったと思われます。婚宴に、どのような地位の方々が招かれているか分かりません。そのため婚宴に出席する者は、手探りの状態です。私たちは、聖書で「上席に着く」ことが何を意味しているか考えなければなりません。その人自身の心・思いが問われています。上席に着くことは、自分を大きく見せたい・誇りたい、野心的な思いがあるからであり、生きて働く主なる神のご支配の御前に生きていないことを意味します。自分で努力してその地位を獲得した・自分は素晴らしい・偉い、こうしたことを誇示することにより、自らを大きく見せたいのです。

Ⅱ.神の一方的な恵みに生きるキリスト者
 主イエスは「末席に行って座りなさい」とお語りになります。倫理的に考えるならば、「こうすれば良いのだ」で終わります。しかし信仰的に考えることあh、形を整えるのではなく、そこにある心・信仰が問われています。私たちは、主なる神の御前に立ち、自らの位置を確認しなければなりません。主が天地万物を創造し、私たちに生命をお与えくださっています。一方私たちは、主の御前に罪を犯し、滅び行く者でした。キリストが私たちの代わりに十字架に架かってくださらなければ、私たちに救いはありませんでした。
 主による救いの御業は、私たちに何か救いを獲得するだけの素晴らしいものが、少しでもあったからではありません。いくら社会において成功し、地位や権威を獲得していても、私たちは主の御前にはただの罪人です。地位も権威も財産も、主の主、王の王の御前には、誇ることができません。主がお与えくださった恵みを独り占めする時、主はその恵みを奪うことも可能です(参照:12:13-21)。主は、私たち一人ひとりに必要な賜物を与え、地位・権力・財産をお与えくださいました。そのため私たちは、主の御前に何一つ誇ることはできません。罪に滅び行く者であったにも関わらず、主は救いと神の子としての天国における永遠の生命をお与えくださいました。このことに感謝し、主に遜ることが求められます。
 これが人々の前にも遜りとなり、謙遜となります。私たちは、賜物・地位・権威・財産もまた、主がお与えくださった恵みとして受け入れ、感謝するしかありません。そうであるならば、他の人たちよりも地位が上にあるからといって、誇ることなどできません。そして主の恵みを覚えつつ、人々の前でも遜りと謙遜をもって接するようになります。主は、どのような人々の前にあっても、主の恵みを覚えつつ遜る人に対して喜びをお覚えくださり、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11)とお語りになります。

Ⅲ.見返りを求めない施し
 続けて12節以降で、宴会を開催する場合について語られていきます。主イエスが「友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない」(12)とお語りになりますが、普通の生活における交わりを否定されているのではありません。私たちは信仰をもって御言葉を聴くのであり、主イエスの言葉の意図を読み取ることが求められます。
 宴会は無料でお招きします。このとき招かれた側はお返しを考えます。地位のある人は、誰よりも多額なお返しを準備します。招く側は、それを期待してはなりません。主イエスは、お返しができない人たちを招くように語られます(14a)。これは見返りを求めず、施しを行う愛の行為です(参照:マタイ19:21)。
 キリストは私たちの生命を救うために十字架にお架かりくださいました。主は私たちに信仰以外に見返りを求めることはありません。そして主は私たちが生きていく上で必要なものをすべてお与えくださいます。不足があれば、私たちは主に祈ることが許されており、主は祈りを聞き届けてくださいます。主は無償の愛を私たちにお与えくださいました。
 私たちは聖書を読むとき、倫理的な教訓として読んではならず、常に、神の御言葉として信仰的に聖書の言葉に聞き、神の御国との繋がりを覚えることが求められています。 
 
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 「天の大宴会に招かれる者」  ルカ14:15~24  2023.3.12 
 
序.
 主イエスは、私たちを救うことにより、神の国(天国)における永遠の生命という大宴会に招いてくださっています。そして今日は、説教の後に主の晩餐に与りますが、私たちは主の晩餐に与ることにより、神の国における晩餐の前味を味わうのです。

Ⅰ.大晩餐会が開催される!
 さて、今日の御言葉において語られている晩餐は、国王が国民を招くような晩餐です。今年5月にG7の広島サミットが予定されていますが、会議の前後に晩餐会が行われるかと思います。そうすれば晩餐のイメージを思い浮かべることができるかと思います。
 晩餐会では予め出欠が確認され、当日会場に赴きます。そしてしばらく別室で待機し、晩餐が始まるにあたり改めて呼びかけが行われます。そのため招かれた人たちは、呼びかけがあるとすぐに移動するのであり、この場で出席を辞退することなど考えられません。
 一方神の御国における晩餐は、大宴会への招きが繰り返し行われています。毎週持たれます各教会における礼拝です。また個人的な伝道・証し・福音宣教が行われ、主が私たち一人ひとりを神の国へとお招きくださいます。伝道は、まさに天国における晩餐会への招待をすることです。しかし、神の国の晩餐がいつ始まるかは、私たちには隠されています。主イエスが十字架の死と復活を経て、2000年間待たされています。そのため、キリストの再臨は、今ではなく、まだずっと先であると思っている人たちも、少なからずいることでしょう。そのために、今日の御言葉に記されているような状況が発生するのです。

Ⅱ.大晩餐会に招かれた者に求められる判断
 宴会の時刻、つまりキリストが再臨され、神の国へ招かれる時は突然来ます。そのため、いつその時が訪れても、すぐに対応できるように準備しておかなければなりません。
 しかし今日の御言葉では、このとき別の予定を入れており、大宴会への招きを断る人がいることが記されていきます。最初の人は「畑を買ったので、見に行かねばなりません」(18)と語ります。早く手入れしたい気持ちは理解できます。次の人は「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」と語ります(19)。約束どおりの牛であり、騙されていないか確認することは大切なことです。最後の人は「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と語ります(20)。律法では結婚した時は戦争に行くことが免除されています(申命記24:5)。いずれの場合も、通常であれば認められる行為です。
 しかし、主イエスが今お招きくださっているのは、神の国における大宴会です。ここで問題となるのは優先順位です。あなたにとっての信仰の位置づけが問われています。天国での大晩餐に招かれることは最優先にすべきことです。私たちが救いを求めて、毎週熱心に礼拝に集っているのは、この時を迎えるためです。それ以上の喜び・祝福はありません。この晩餐の招きを拒否することは、あなたにとっての信仰がその程度であるからです。
 アブラハムの子孫であるイスラエルの民は、選民意識は高かったです。しかしイスラエル人は罪を繰り返し、主が預言者を遣わしても、預言者の言葉に耳を傾けることなく迫害し、殺害しました。そして御子を逮捕し、十字架に架けて殺しました。まさに彼らは主からの救いの招きを断り、自らの生活を優先しました。ここに彼ら自身の責任・罪がはっきりと表れています。神による招きを断ったのは、彼ら自身の意思によります。だからこそ、彼らは最後の審判において、主による裁きがもたらされます。
 ここで私たちに問いかけられていることは、主の招き入れが突然行われた時、私たちが、自分の予定よりも優先にして、神に従うことができるかです。そのため神の御言葉、そして社会に敏感であり、いつでも神の御声に聞き従う従順さが求められています。

Ⅲ.主の晩餐に与れる人々
 続けては新たに人を呼んでくるように命じます(21)。彼らは働くことができず、罪人とされ親しい友人がいませんでした。社会から見捨てられていました。彼らは、主の招きを断る理由がありません。何も無いからこそ、何も持たず、何も考えること無く、主の晩餐に参加することができます(参照:イザヤ55:1-3)。私たちに求められるのは、この従順さです。
 主は私たちを救いと永遠の生命に招いてくださっています。主の招きに答えて、主を信じること・礼拝することが求められています。
 そして主がいつ呼びかけてくださったとしても、いつでも招きに答える準備を私たちは求められます。主の神の国への招きに、感謝をもって、いつでも従うことができるように、準備をしていきたいと思います。
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 「イエスの弟子になるには」  ルカ14:25~33  2023.3.19 
 序.
 ルカ福音書では、結婚式の宴席について、それが神の国の晩餐のことであること、さらに前回は、誰が神の国における宴席に出席することができるのかを確認しました。

Ⅰ.自分自身の姿を顧みよ!
 ルカは、主イエスに従ってきた弟子たち・大勢の群衆に対して語られます(26)。「家族、自分の命ですら、憎まなければならない」と語られると、「絶対に主イエスの弟子にならない。キリスト教は怖い宗教である」と思われます。しかし主イエスは「家族を憎まなければならない」と語っておられるのではありません。主イエスは山上の説教で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とお語りになり、主イエスは敵対する人とも和解し、赦し合うことを求めておられます。つまり、どのような人たちとの間でも、憎み合うことは求められません。むしろ和解するために努めなければなりません。つまり、家族は愛することであり、実際に憎むことを求めておられるわけではありません。
 ここで主イエスが語っておられる「自分の命であろうとも、これを憎まないなら」(26)という御言葉に目を留めて頂きたいと思います。これは家族一人ひとり、そしてあなた自身と向き合うことです。つまりあなたは何者なのかを主の御前に顧みなければなりません。主イエスは続けて、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(27)と語ります。「自分の十字架を背負う」とは、あなたは主の御前に死刑になる程の罪人であることを自覚しろということです。
 普通に考えれば、「自分は死刑になるような悪い犯罪を犯したことはない」と思われるかと思います。しかし主イエスが語っておられるのは、主の御前で行われる裁判です。裁きの規準は主がお与えくださった律法です。主は聖・義・真実なお方です。全知全能である主は私たちのすべてを知っておられます。私たちは神の戒めを完全に守ることはできず、思いとことばと行いにおいて日ごとにそれらを破っています(参照:ウェストミンスター小教理問82)。
 つまり、私たちは、自分自身と家族の持っている罪を理解し、徹底的に憎み、罪を悔い改める必要が求められています。その上で生きて働いておられる主を受け入れることです。そして主の御前にすべてを明け渡し、罪の赦しを主に願い、主による救いを求めるようにと主イエスは語っておられます。突き詰めるところ、私たちが神の怒りと呪いを免れるためには、罪の赦しを主なる神に委ね、主に救いを求める以外にありません。そのため、家族や自分の命よりも、「主なる神を優先しろ、第一にしろ」と語られています。
 キリストは、私たちの罪を贖うために、すでに十字架の道を歩んでくださいました。私たちの罪による滅びはキリストによる罪の贖いにより罪が償われており、私たちの生命は、キリストの十字架と復活を受け入れ信じることにより、与えられています。キリストの十字架にしか、救われて永遠の生命を得ることはありません。

Ⅱ.主なる神にひれ伏して生きる
 ここで主イエスは二つの譬えをお語りになります。先に後ろの譬えを確認します(31-32)。私たちは、キリストの十字架による贖いが提示され、罪の赦しと救いが与えられています。自分で勝ち取ったものではありません。そうであるならば主なる神と戦ってはなりません。自分のことを信じて、自分の力で生きることではありません。それが自分の命であろうとも憎むことです。自分の力ではなく、主にすべてを委ね、主の御言葉、主の命令に聞き従って生きることです。これが別の言葉で語りますと、主なる神にすべてを明け渡すこと、主にすべてを委ねて生きることです。

Ⅲ.信仰の土台に生きる
 続けて初めの譬えを確認します(28-30)。この譬えは土台を据えることの大切さを語っています。私たちの土台・基礎体力となるものが何であるかを私たちは確認しなければなりません。それが主なる神であり、主がお語りになる聖書です(参照:マタイ7:24-27)。
 言い換えれば、あなたにとって主なる神とは、絶対的な救い主として存在していますか?ということを問いかけです。「神を信じている」と語りながら、半信半疑であったり、時間があるときだけ礼拝に出席する、自分が神を必要とするときだけ聖書を読むといったように、聖書の教えを生活の基礎とすることなく、いい加減な信仰を持つことを、主は認められません。「持ち物を一切捨てる」(33)とは、自分の力で生きることを捨てて、神の恵みに生きる、神にすべてを委ねる、神の御言葉に生きるということを表しています。
 私たちが生きるために神が存在するのではなく、主なる神が私たちを創造して命をお与えくださり、私たちに救いの恵みをお与えくださっています。自分中心・自己中心の生き方から、神中心の生き方に代わることが求められています。
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 「塩であれ!」  ルカ14:34~35  2023.4.16 
 
Ⅰ.塩は主によって与えられる福音
 マタイ福音書5:13では「あなたがたは地の塩である。……」と語られています。若干用いている言葉は違いますが、語ろうとしている意味は同じです。そのため、私たちがキリスト者として何か努力することが求められているように解釈されることが少なくありません。しかしここでは、私たちが努力して塩を獲得することは語られていません。私たちが聖書の御言葉を聴くとき、主なる神が聖霊をとおして私たちに福音・救いをお示しくださいます。

Ⅱ.塩とは……
 聖書は人間のことを焼き物師が粘土から作った器に例えます(ローマ9:20-21、参照:エレミヤ18:4)。つまり人間は主によって作られた器にすぎず、この器に神の御言葉、つまり塩を入れることが求められています。
 このとき私たちは、塩である御言葉を一生懸命にため込むこと、つまり礼拝・集会に一生懸命に出席したり、熱心であることが求められているのではありません。
 主イエスはからし種について語ります(ルカ13:18-19、同17:6)。つまり私たちが努力して、塩をため込む必要はありません。与えられた塩そのものが、聖霊の働きにより増していきます。塩はわずかでも、塩として純粋であれば、塩としての働きを行います。このことを主イエスは「確かに塩は良いものだ」(34)と語られています。

Ⅲ.塩の濃度が問われている
 では、「だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか」とはどういうことでしょうか。一度、土の器である私たちに塩である福音が伝えられると、塩が減ることはありません。
 問題は、塩気がなくなることです。塩をそのままなめると辛いです。そのため料理に塩を入れたとき、辛ければ水を足して薄めます。そうすると塩分は抑えられ、まろやかになります。つまり塩気がなくなるとは、私たちの内に塩以外の不純物が増え、罪を取り込むことです。
 神の民であるイスラエルに、主は繰り返し罪から離れ、悔い改めを求められました。なおさら私たちは異教の国に生きています。社会にでればその多くの方々は神の存在すら知りません。罪の社会との接点・罪の誘惑を避けて通ることはできません。
 そのため私たちキリスト者は、毎日の生活で、神の民として生きるとはどういうことか、自問自答しながら行動・発言することが求められます。創立宣言が語る有神論的人生観世界観に生きるとはまさにこのことです。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)。
 3年間のコロナ禍にあって、教会の弱さがはっきりと出ました。教会も社会状況に倣って行動しました。「安全のため」と、社会よりも慎重な行動をしているのではないでしょうか。しかし、塩気がなくならないように注意するとは、こういうことではありません。主は一つのところに集まって、主を礼拝することを求めておられます。御言葉に聴き、主の晩餐に与り、祈り、讃美し、献げることです。また聖徒の交わりを求めます。主なる神、そして教会員相互に直接会い、交わることが、非常に大切です。そうであるならば、危険が伴っても、それ以上に大切なこととして、継続することが求められます。戦禍の中にあっても、迫害下であっても、同様ではないでしょうか。
 このように私たちがキリスト者として主による救いの喜びに生きることこそが求められ、その結果、家族や周囲の人たちに対する証し・伝道となります。

Ⅳ.塩の契約に生きるキリスト者
 聖書では「塩の契約」という言葉が用いられています(歴代誌下13:5)。このときイスラエルは南北に分裂し、北イスラエルは主から離れ、偶像崇拝を行っていました。このとき南ユダ王国は40万人の軍隊を伴い、北王国の80万人の軍隊に対して、戦いに備えていました。このとき主は塩の契約により南ユダに勝利をもたらすことを約束してくださいました(13:5,12)。主を信じる者には勝利が与えられます。この塩の契約は、まさに恵みの契約そのものであり、主が私たちに契約してくださったのであり、破棄されることはありません。
 つまり、どれだけの罪の誘惑・迫害・苦しみがあったとしても、塩により殺菌されるように主により罪が赦され、神の民としてイスラエル、そして私たちは守られます。私たちは、救いである神の御言葉としての塩が与えられ、主を信じる信仰へと導かれています。だからこそ、罪の誘惑に負けることなく、主の御言葉に聞き従って歩み続けることが、今も求められています。
 
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 「見失った一匹の羊」  ルカ15:1~7  2023.4.23 
 
Ⅰ.神によって招かれている者・招かれていない者
 ルカ福音書15章では、3つのたとえが語られています。「見失った羊のたとえ」、「無くした銀貨のたとえ」、「放蕩息子とのたとえ」です。いずれも、まだ教会の交わりに加えられていない人、まだ信仰告白をしていない人たちが、教会の群れに導かれる喜びが語られています。
 既にお語りしたことですが、聖書において同じこと・同じテーマが繰り返し語られるのは、このことが非常に大切だからです。
 ではどういった人が、神によって招かれているのでしょうか。主イエスは、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れてくるように語られていました(14:21)。彼らは断る理由がなく、主の招きに答えることができました。別の言い方をすると、自分の都合を優先することなく、主の御業を優先したのです。このことこそが、神の被造物としての人間にとって大切なことです。
 今日の御言葉においては、徴税人や罪人が、主イエスの話しを聞こうとして近寄って来ています。彼らは、主イエスの御前に立つこと、主イエスの御言葉を聴くことを優先することができた人々です。
 一方、ファリサイ人・律法学者たちであるユダヤ人からすれば、徴税人や罪人は、神の律法により、神の救いから漏れた罪人であり、一緒に食事をすることも、交わりを持つことも忌み嫌われていました(2)。
 ユダヤ人にとって、天国に行くことができるのは、律法を守り罪のない人たちです。彼らは自分たちは救われ、天国に行けると自負していました。そして自分たちとそれ以外の人たちを区別していました。「ファリサイ」とは分離するという意味で、当時の人々が偏見を込めて呼んでいました。
 彼らの誤りは、救われる者と滅びる者とを区別することを、さらに神の決定に従うのではなく、自分たちで、罪の有無を決定していたことです。

Ⅱ.主イエスの所に集まる者を救ってくださる神
 一方神は、すでに主に救いを求めて集まってきている人たちはもちろんのこと、まだこの場に集まっていない人たちも、ここに加えられることを望んでおられます。「あなたは罪を犯したから救われる資格がない」ということも語られません。それが、見失った一匹の羊を捜しに行くことです。
 なぜなら、天地万物を創造し、最後に人間を神のかたち・神に似せて・神の息吹を吹き入れてつくられ、主にとって人間は愛らしいのです。しかし人間は罪を犯し、死と滅びにいたる者となりました。本来あるべき場所からいなくなった人間を主は、見つかるまで、探してくださいます。
 そして主なる神は、天に十分な場所を私たちのために用意してくださっています(参照:ヨハネ14:2)。主は、主を求めて神の御許に来る人を皆、お救いくださいます。
 つまり、神の御許に来る人たちは、すべて神の子の数に入れられており、神の子どもとしてのすべての特権、つまり神の国に入り、神の祝福に入ることが約束されています(ウェストミンスター小教理問34)。

Ⅲ.見つかった羊が見つかることによる天国での喜び
 誰が神の子として、神の救いに入れられるかは、主なる神は知っておられ、その数は定められています。しかし定められた人が、まだ、主の御許に集まっていません。そのため、キリストの再臨と神の国の完成は、まだ来ていません。神の民として予定されている人が、まだ救われていないため、主は、その人を探し続けてくださいます。
 ここでは「羊」を例えにして語られています。羊は、羊飼いによって飼われている家畜です。つまり羊は、自分たちだけで生きることはできず、羊飼いに導かれるからこそ迷うことなく生きることができます。そのため、羊が一匹でもいなくなれば、羊飼いは、その一匹の羊を探します。
 そして羊は、羊飼いの声を知っているため、呼びかけられたとき、羊飼いの元に返ってきます(ヨハネ10:3-5)。そのため主は、まだ神を信じていない人たちを呼び続けてくださいます。そして、主が救いへと御計画されている人は、私たちの信仰・私たちの証しをとおして、主なる神の呼びかけを聞き、そして教会へと集められます。これがまさに伝道です。
 そして羊である私たちが、羊飼いである主なる神、主イエスと出会うとき、私たちのために、キリストが十字架の死と復活が成し遂げられたことを知り、受け入れることができます(ヨハネ10:14-16)。
 このとき、見失っていた羊が見つかったことで、教会において、そして天国において大きな喜びが満たされます(6-7)。
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 「一人の罪人の悔い改め」  ルカ15:8~10  2023.5.7 
 
序.
 ルカ福音書15章では、同じことをテーマにした例え話が3つ語られています。聖書において同じことが繰り返されることは、ことの重要性を示しています。

Ⅰ.ルカ福音書15章とは
 ルカ福音書15章では、教会から離れて行っていた人・神を信じていなかった人が神を信じて、神の御許に戻ってくることが天の喜びであると語られています。
 多くの教会で、「この一人を見つけるために伝道を行いましょう」と語られます。伝道すること・神を証しすることは大切です。しかし主イエスがここで語ろうとしていることの意図は、違います。

Ⅱ.主の民が集う場としての教会
 注目したいことは、一枚の無くした銀貨が見つかること・一人の罪人が悔い改めることにより、天国で喜びが溢れることです。
 主なる神は、まだ教会に来ていない一人の人を捜し求めておられ、そうした方が教会に招かれることを願っておられます。その人のために、ここに教会があります。
 つまり教会が教会であるのは、主を信じている神の民が礼拝すること、さらに主が探しておられた方が集う場であることです。
 神の国である天の教会は永遠に存続しますが、地上の教会は永久に存続することはありません。時代・地域により栄枯盛衰があります。ですから今、日本の教会が減っており、定住の牧師がいないとしても、そこに教会があり、神を礼拝する信徒がいるならば、教会として存続することが求められています。しかし、いざ廃止となるとき、それを受け入れることも求められています。
 主イエスは、天に昇られる直前に、宣教命令を語られました(マタイ28:19~20)。この時、誰も滅びないで、すべての人が救われることを語っているのではありません。主は、罪の故に滅び行く私たち人間に対して、キリストの十字架の贖いにより、罪の赦しを宣言し、救ってくださいました。このとき主は、救う人たちを予め定めておられます(参照:ウェストミンスター小教理問34)。
 つまり主なる神は、100匹の羊・10枚の銀貨のように、神の国に入る神の子の数を知っておられます。そのすべての人たちが集まる日を、今、待っておられます。一人、教会に来て、その人が洗礼を授かるときに、天国における喜びが溢れます。そして最後の一人が主を信じ、神の民とされた時、主イエスは再臨し、神の国が完成します。

Ⅲ.一人の救いとは
 このとき私たちが主なる神に求められていることは、塩であることです(14:34-35)。つまり塩である主の御言葉を、少なくても良いから、純粋に保ち続けることです。不純物が入ってきて塩気がなくなれば、神の民としては相応しくありません(ファリサイ人や律法学者)。つまり不純物として自分勝手な基準に従って人を裁いてはなりません。
 主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と語り、御言葉を純粋に疑うことなく聞くことが求められています。主イエスの御言葉を聞く者であれば、徴税人でも罪人でも構いません(1)。十字架上の主イエスは、十字架に架かる極悪人が自らの罪を悔い改めたとき、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とお語りくださいます(ルカ23:40~43)。
 主は、立派な信仰生活・聖い生活を送ってきたことなど求めておられません。むしろ自分は聖いと思い込み、人を裁く律法学者たちを裁いています。むしろ、自分の行いを省み、罪を悔い改めること、主による救い、キリストの十字架による罪の贖いを信じることを求めらておられます(参照:ウェストミンスター信仰告白15:2)。

Ⅳ.誰もが集える場としての教会
 主が教会に神の民を集めるとき、私たちにとって都合の良い人、話しやすい人、意思疎通ができる人ばかりではありません。民族・言葉・障害の有無の違いがあれば、性的少数者かもしれません。犯罪者・精神障害者かもしれません。
 いずれにしても、主なる神が招いておられる方が教会に来たとき、私たちが勝手な判断をして、「教会に来てはならない」といったことを語ってはなりません。教会に集う者皆が共通認識をもち、誰であっても、教会における礼拝を共に守ることができるよう、教会における交わりができるようにしていくことが求められています。
 私たちは、誰であっても教会に来た者が、神による救いに与る安らぎの場所として集い、救いの感謝と喜びをもって信仰生活をする場を、私たちは形成していかなければなりません。このとき主なる神は、主によって探し求められていた人が、この大宮教会に与えられられたことを、天において大いに喜んでくださいます。
 
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 「死んでいた者が生き返った」  ルカ15:11~24  2023.5.21 
 
Ⅰ.教会から人が離れる
 今の時代、宗教に魅力がなくなり、教会に人が来なくなっています。1995年のオウム真理教によるサリン事件、さらに統一教会の二世問題は、キリスト教会も少なからず影響を受けています。
 しかし新しい人たちが教会に来ることがなくなったのは、教会の側にも問題があったと言わなければなりません。一つは礼拝説教の問題です。聖書を正しく解き明かすことは大切ですが、説教が聞く一人ひとりに生きる喜びに満たされるものとなっているのかを問い直さなければなりません。
 そしてもう一つ、教会が快い場所・自分の居場所となっているかということです。
 今の時代、楽しいことが世に満ちています。心が満たされます。そのため時間を割いて教会に来る魅力がなければ、だれも教会に来ることはありません。

Ⅱ.目の前にある魅力的なこと
 今日の聖書で出てくる放蕩息子は、まさに目の前の楽しみを求め、家を出て行きます。彼にとって日々の生活は、同じことの繰り返しであり、つまらないものでした。
 それに比べて、外の社会は、楽しいことに溢れているように思い、憧れます。
 彼は父親の財産を手にして、旅立ちます。彼は、一生楽しんで生きていくことができると感じたことでしょう。楽しみ・興奮を求めて生きるとき、今の時のことしか考えられません。しかしこうした生活は永遠には続かず、終わりを迎えます。
 今の時代は、楽しいことに満ち溢れ、次々と楽しみが尽きることはないかと思います。しかし、これらにはいつまでも続く楽しみはなく、永遠の安らぎはありません。

Ⅲ.我に返り、自らの姿を顧みることにより
 彼は、財産をすべて失い、食べるものすら手に入らなくなることにより、初めて自らの現実を知りました。そして彼は我に返ります(17)。そして、父の家には変わることのない安らぎがあることを知ります。そして彼は自らの罪を悔い改めます(17-18)。彼は、自らの姿を知り、「息子と呼ばれる資格がないこと」、「雇い人の一人でもかまない」ことを自覚します。
 人は、自らの姿を知ることにより、初めて罪の悔い改めができます(参照:ウェストミンスター大教理問76)。この悔い改めは、一つの罪に留まることのない、「命にいたる」永遠の悔い改めです。
 そして、我に返って自らの姿を顧み、自らの罪を悔い改め、生き方を変えようとするときに、人は、初めて本当の平安、永遠に続く安らぎを求めることができます。

Ⅳ.天における喜び
 彼にとってそれが父親の家に帰ることでした。父親のところにいるときには気づかなかった変わることのない安らぎに気が付いたのです。
 そして私たちにとっては、教会がその場所でなければなりません。もし教会がそのような器となっていなければ、教会の存在自体が問われていることとなります。
 父親のところに帰ってきた彼は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」(21)と悔い改めを告白します。
 しかし父親は、弟が帰ってきたことを歓迎し、祝宴を始めます(22-24)。父親にとって、彼が今まで何をしてきたのか関係ありません。なぜなら、父親の家にこそ平安があり、自分の居場所であることが気が付いたとき、命に至る悔い改めが、すでに行われているからです。罪を悔い改めなければ、家に帰ってくることなどできません。そして何より大切なことは、父親の子どもとして、共に歩むことであるからです。
 これと同じように、私たち一人ひとりが教会に集い、神さまを信じて、永遠の生命という安らぎに入ることを、主は、手放しで喜んでくださいます。
 父親は「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(24)と語ります。日々の楽しみ・興奮を求めて、神から離れ、罪を繰り返している者は、肉の死・神による永遠の裁きを免れません。しかし、自らの姿を顧み、罪を悔い改め、主の御前に集まることにより、主はすべての罪を赦し、神の子として天国における永遠の生命をお与えくださいます。私たちの罪を償うために、神の御子が十字架にお架かりくださいました。そしてキリストが死から三日目の朝に甦られたように、神を信じる私たちも、キリストの再臨のときに復活の生命が与えられ、罪の赦しと、天国における永遠の平安が与えられます。そして主は、滅びに向かっていた者が、神の子となり、天国の安らぎに生きることを、無条件に喜んでくださいます。
 
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 「お前はいつもわたしと一緒にいる」  ルカ15:25~32  2023.6.4
 
序.
 放蕩していた者が帰って来ることは、父としての何よりの喜びであり、父は息子のために肥えた子牛を屠り、祝宴を始めます。神にとって、私たち人間が神の御許に戻ることが、天におけるこの上ない喜びです。

Ⅰ.内面の闇
 一方兄は忠実に父に従い農園で働いていました。周囲の人たちからは、「立派な息子」と見えていました。つまり毎週礼拝に出席し、奉仕を行うキリスト者のようです。
 しかしこの兄の問題は根が深いです。弟は父の財産をもらったのに、自分はもらっていないとの不満を持っていました。兄は、父親の下に与えられた恵まれた住環境に気が付いていません。
 また弟が財産を食い潰して戻って来たにも関わらず、盛大な宴席が設けられたことに対して、自分は何もしてもらっていないと兄は嫉妬します(29)。
 そして兄に第三に挙げられる問題は、「弟は罪人であるが、自分は清廉潔白だ」と意識していることです。

Ⅱ.兄の持っている罪
 兄は自己中心であり、他者との比較(相対評価)において、自己弁護しています。そのため「自分は悪くない・立派だ」という意識があり、律法主義に陥っています。
 そのため兄は、父の存在、つまり神を見失っています。弟は父からの財産を失って、初めて父からの恵みに気が付きましたが、兄は父の元に居続けており、その恵みに気付いていません。つまり父なる神の絶対的な御力を知らず、無神論の相対的な社会で生きています。
 このとき私たちは、物事を考える視点を、自分ではなく、神に置かなければなりません。神中心です。つまりドローンにおいて社会の全体像を見渡し、神の義・聖・真実を基準に物事を考えるとき、自分自身の姿を客観的に見ることができます。そうすることにより、弟が自らの罪を理解したように、自分自身の姿も神の御前には罪に汚れていることが示されます(参照:ルカ6:41,42)。

Ⅲ.父なる神の愛
 父は「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(24)と語り、喜んで祝宴を催します。
 その上で、兄に「あなたは毎日一緒にいるのに、私の恵みに気が付かないのか?」と叱責することはなく、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる」(31)と語ります。父なる神はいつも私たちと共に居てくださり、見守っていてくださいます(子どもと親のカテキズム問1)。そして私たちが神を忘れている時も、神は私たちと一緒にいてくださいます。
 主は、天地万物を創造し、人を創造してくださいました。私たちが必要なものはすべて神から与えられます。神は、私たちが必要なものをすべて備えてくださいます。
 父は常に兄を見守っていています。見守るとは、必要な時に手助けをすることであり、苦しんでいる時に何も行わなければ、それは見守っていることにはなりません。
 その上で神は、「わたしのものは、全部お前のものだ」(31)とお語りくださいます。私たちは、自分にないものばかりを気にします。しかし神は、私たちといつも一緒にいてくださり、日々私たちに必要な恵みをお与えくださっています。経済・健康・生活・礼拝・賜物も、すべて神が私たちに備えてくださった恵みです。神は、アナニアとサフィラ(使徒5:1~11)の如く、一瞬にして生命や生活に必要なすべてを奪うことも可能なお方です。
 さらに神は、私たちに足りないものがあるならば、お祈りすることを許してくださっています。主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7:7~8)とお語りになります。私たちは神の恵みに満たされています。そして、まだ足らないものがあるならば、その必要をも満たしてくださいます。

結.いつでも神はあなたを見守っていてくださいます!
 あなたが神から離れ忘れている時も、神の御前から逃げ去った時も、神は、あなたを忘れることはありません。だからこそ、自分の判断で、神の存在を判断するのではなく、いつでも神はあなたと共にいてくださり、愛をもって見守っていてくださっています。
 主は私たちに対して、私たちが神を知り、神と共に歩み、神の栄光をあらわし、神を喜びとして、神と人に仕えて歩むことを、願っておられます(子どもと親のカテキズム問2)。

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  「小さなことに忠実な者」  ルカ16:1~13  2023.6.11
 
序.
 私たちに今日与えられた御言葉は、どのように理解すれば良いのか、非常に理解しがたい物語です。不正を働いた管理人が、さらに主人の財産を用いて、借りている人たちの借金を減額を行っています。

Ⅰ.契約信仰
 最初に確認しなければ成らないことがあります。つまり、主なる神は不正を良とされるお方ではありません。キリスト教は、「契約宗教」です。改革派教会は神と私たちキリスト者との契約を大切に考えます。
 最初に神が人間と結ばれた約束は、命の契約です。アダムとエバに対して、命の木の実から食べてはならないことを命じられ、食べなければ永遠の生命が約束されました。彼らはこの契約を破り、彼らから生まれるすべての人間が、死ぬ者となりました。
 続けて神は人間に恵みの契約をお与えくださいました。主なる神を信じることにより、救われます。本来なら私たちが背負うべき罪の刑罰を、キリストの十字架によって贖われることを約束してくださいました。
 私たちは、この恵みの契約に生きているからこそ、罪の赦しと神の子としての永遠の生命されています。
 そういうことからすれば、主なる神が、契約を大切にされ、律法という契約において不正を見逃されるお方ではありません。

Ⅱ.不正を働いた管理人の知恵
 ではなぜ主イエスは、不正を働いた管理人を称賛しているのでしょうか?この世の法則から言えば、借用書の内容を書き換えることは公文書偽造であり、大きな罪です。
 「賢い振る舞い」、つまり彼は最終目的を達成するために、何を行えば良いのか、理解していました。
 管理人は借りのある人たちを呼び、借りた金額を値引きします。ここでの借金の棒引きは、500日分の給与に相当する額です。
 管理人は彼らに恩を売ることにより、自分に好意を持ってもらい、これからの住まいを確保しようとしました。動機は不純です。しかし彼が行っている行為は、借金をしている者には、感謝する愛の行為です。だからこそ管理人の職を追われた時、彼は自分を助けてくれることでしょう。
 富を不正に蓄え、富におぼれていた管理人が、富を手放します。今まで自分が管理していた富が手元から離れることを知り、富に対する未練もありません。彼は、今後の住まいを得るために努力します。

Ⅲ.生きる目的
 私たちキリスト者にとって富とは何かを考えなければなりません。キリスト者も生きていくためには富が必要です。そのため、主が私たちにお与えくださった富に対して適切な管理をすることが求められます。
 それだけではありません。主なる神は、富める者は、隣人を愛し、貧しい者に献げることを求められます(参照:マタイ19章)。主によって与えられた富は、必要を覚える者たちに献げることを、主は喜ばれます。
 そのため富が生きる目的となってはなりません。富は、あくまで私たちが生きるという目的のために与えられた道具の一つであり、富が生きる目的ではありません。
 主イエスは最後で、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とお語りになります。私たちの生きる目的は、主なる神にあるのであり、この世の富が生きる目的となってはなりません(参照:ウェストミンスター小教理問1)。
 この管理人は、行っていることは間違っています。しかし、富のためではなく、生きることを目的をもっているということにおいては賢い振る舞いであると、主イエスはお語りになります。

Ⅳ.大事なことに向かって生きよ!
 また主イエスは「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」とお語りになります。富の問題は、生きる目的である神を信じることに比べれば、小事に過ぎません。キリスト者として天国への道を歩む私たちは、富が、本質の問題、生きる目的となってはなりません。
 富は、神に委託されているが故に重要ですが、富が私たちの生活を支配してはなりません。そうすれば本末転倒となります。
 私たちとっての大事・一番大切なことは主なる神を信じ、神の御国(天国)へ向けて歩むことです。この大事のために、私たちは小事に対しても忠実に生きるのです。
 私たちは大事を見失って、小事を行おうとする時、小手先のことを行い本末転倒となります。生きていくために欠かせない富でも、キリスト者にとっては小事なことです。何をするにおいても、神の栄光のため、神の喜びのために生きることが求められています(参照:Ⅰコリント10:31)。
 
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 「心もご存じである神」  ルカ16:14~18  2023.7.2
 
序.
 キリスト者も、経済的な活動抜きに生活することができません。そのためキリスト者も、お金を管理することは大切です。

Ⅰ.金への執着
 しかしお金に関わることは、その人の隠れた本心が表れます。ファリサイ派の人々は金に執着していました(14)。「執着」は「欲深い」ことであり、神よりも金を優先することです。主イエスは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と語ります(13)。神を信じると語っても、心は金にあり、神不在の信仰となっています。
 金・異性・酒は、人間の持っている欲望を代表しています。欲望が私たちの内に入り込み、執着するようになれば、私たちは、神を忘れ、神から離れてしまいます。

Ⅱ.インマヌエル
 私たちが神を信じることにより、社会的に成功を遂げ、立派な生活ができるのでしょうか。神を信じれば病気が治り、元気に生きることができるのでしょうか。信仰は因果応報ではなく、新興宗教とは違います。
 そのため一生懸命に奉仕を行い、献金を献げることにより、より良い生活が与えられるというものでもありません。奉仕も献金はノルマではありません。主によって与えられた恵みの感謝を献げる行為です。
 旧新約聖書の全体が、主なる神の御言葉であり、真実で記されています。主なる神は、天地万物を無から創造されました。主なる神は、ノアの洪水のように、地上のすべてを滅ぼす力を持っておられます。何十年も寝たきりの人を、御子であるキリストは起き上がらせ、働くことができる体として癒やす力を持っておられます。
 つまり主なる神は、私たちに生命を与え、生きるために必要なすべてのことを与えてくださり、恵みで満たしてくださいます。私たちは、主なる神のご支配の下に生きています。働くための能力も技術も、神からの賜物です。今日の食べ物・飲み物も、すべて神が備えてくださいます。「あなたがたは食べるにしろ、飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)と語られています。
 私たちは常に主なる神の御前に生きています。そのため私たちは、神から隠れることはできません。だからこそ神の御前で、神が喜ばれる社会を作るために、私たちは日々働き、生活しています。
 また主イエスはお語りになります。「求めなさい。そうすれば、与えられる。……」(ルカ11:9-10)。私たち人間に生命を与え、救いをお与えくださる神は、私たちのすべてを知っておられ、私たちの必要を満たしてくださいます。因果応報ではなく、私たちは神の恵みによって生きています。
 「インマヌエル(神は我々と共にいてくださる)」のであり、ここに神の不在の欲望、執着が入って来てはなりません。

Ⅲ.主の御前に、私たちは罪人
 そして「神はあなたたちの心をご存じで」す(15)。私たちに生命をお与えくださる主なる神は、私たちのすべてをご存じです。私たちは他人に隠し事を行うことができたとしても、神の御前に何一つ隠すことはできません(ウェストミンスター小教理問82)。そのため私たちは神の御前に何一つ申し開きを行うことができません。「欲望」、「執着」する事柄は、人(自分)を喜ばせるのですが、神の御前には罪であり、忌み嫌われるもの・罪であり、罪の刑罰は「死」です。つまり金に執着する者は、神の御前で罪人と宣言され、死を避けて通ることができません。

Ⅳ.主の恵みに生きよ!
 しかし主イエスは「神の国の福音が告げ知らされた」とお語りになります(16)。福音によって与えられる罪の赦しと救いは、自分で求めて得ることはできません(16)。そのため私たちは、神の御言葉である福音を受け入れ、信じることが求められます。つまり、私たちに生命を与え、罪の赦しと救いをお与えくださる神を信じ、示される神の国を信じることです。この時、主なる神が私たちに救いをお与えくださいます。
 私たちは金に執着し、罪を犯してします。そのため罪の故に滅びを避けることができません。キリストは滅び行く私たちに代わって、私たちのすべての罪の刑罰を、十字架において担ってくださいました。
 主が私たちの救いのために、福音をお示しくださいました。私たちが福音を信じて生きる時、主は私たちに天国における祝福を約束してくださいます。天国を祝福してくださる神は、私たちの地上の必要をも満たしてくださいます。
 金に執着して生きるのではなく、すべてをご支配になられる主なる神を信じ、主に委ねて生きるとき、私たちは、主からの祝福を受け、恵みに生きることができます。
 
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 「死者の声など誰も聞かない」  ルカ16:19~31  2023.7.9
 
序.
 主なる神は、私たちの心のすべてもご存じです。一方私たち人間は、神の思いを自ら知ることはできません。そして主なる神を知らない多くの人たちは、この世の生活がすべてであると思い込んでいます。

Ⅰ.序
 今日の御言葉では、死後天国と地獄に行った人たちのやりとりが語られています。ヨブ記において、神とサタンの会話が記されていますが、地上の生涯を終えた人たちの会話は他にはないかと思います。私たちは彼らの会話から、天国と地獄について注目することではありません。
 今日の御言葉において考えることは、第一に、どのような人が神の国に行くことができ、行けないのかです。そして第二は、神の国に行く方法を確認することです。

Ⅱ.神によって神の国招かれるとは……
 ここで登場するのは、一人の金持ちとラザロという貧しい人です。金持ちは、地上の歩みでは名声があり、人々の間では名が知れ渡っていました。(19)。誰もが夢見るような生活です。しかし彼は死後、陰府に下り、天国には入れません(参照:ウェストミンスター信仰告白32:1)。神は、金持ちになること自体が否定されているのではありません。キリスト者も、社会的に成功する者もいます。与えられた者は、主に感謝しつつ、有用に用いれば良いのです。
 しかし、金持ちはラザロに何をしたでしょうか。自分や家族や親しい人たちのみが優雅に暮らし、目の前にいる乞食であるラザロを避けて、無視しています。自分の生活がよければ、周囲は関係ありません。自己中心の生活こそが、彼の滅びの原因です。
 一方ラザロは、金持ちの前では名前すら名乗ることができなかったかと思いますが、天国では彼の名が記されています。そして彼は天国で、アブラハムのすぐそばに連れて行かれます(22)。
 聖書は、ラザロが神を信じていたとは記しません。しかし主なる神はラザロを選び、天国へと招き入れてくださいました。これは神による恵みですが、主は彼が虐げられ貧しい生活を送っていたことをお覚えくださったのです。

Ⅲ.どのようにすれば、神の国に行くことができる……
 さて金持ちは、死後、陰府に下り、炎の中もだえ苦しみます。そしてラザロに助けを求めますが、主なる神はアブラハムによって、陰府に下った者が天国に来ることができないこと、手助けすらできないことを宣言します。カトリック教会では、死者のための祈りが行われたりします。しかし、死者の行く場所は、死の時点ですでに決められています。煉獄と呼ばれる中間的な場所煉獄はありません。
 次に陰府に下った金持ちは、自分の兄弟たちには同じ苦しみを味わわないようにして欲しいことを頼みます(27-28)。このときアブラハムは金持ちに語ります。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる」(29)。これは律法と預言書、つまり旧約聖書を指し示しています。今の私たちにはキリストの十字架の御業が成し遂げられ、新約聖書も与えられています。ですから、「あなた方には、旧新約聖書が与えられている。それに耳を傾けよ」と語られているのです。
 ここで金持ちは、「死んだ者が現れれば、悔い改めるだろう」と語ります。人々は、死者の話しを興味本位に聞くことはあっても、信じることなどありません。
 旧新約聖書66巻は、「信仰と従順の唯一の規範」です(ウェストミンスター大教理問3)。
 私たちに示されている聖書に、主なる神がどのようなお方であり、私たちが救われ・天国に入るすべての術が語られています。主の御言葉が示され、解き明かされる時、聖霊なる神が共に働き、その人の心に「信仰」が宿り、悔い改めの心が生じます。
 伝道することは大切です(マタイ28章)。しかしこのときに主の御言葉が示され、福音が解き明かされると同時に、聖霊が一人ひとりに働きかけがなければ、人々に福音が届き、信仰と悔い改めに導かれることはありません。伝道は彼らが教会に来るきっかけに過ぎません。彼らに福音の説教が語られ、同時に聖霊の働きが宿ることが何よりも大切です。
 そして、一人ひとりに神の御言葉が解き明かされ、聖霊が働いたとき、彼らは神の子としての歩み、永遠の生命を取り戻します。すべての者が、地上の歩みはやがて終わりを告げ、肉体は死を遂げ、朽ち果てます。しかし主なる神を信じる私たちの魂は、天国に挙げられ、キリストと共に永遠の祝福に導かれます。キリスト者として生きる喜びは、神との交わりの内に天国で与えられる永遠の生命にこそあります。 
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「繰り返し罪を赦す」  ルカ17:1~4  2023.7.16
 
Ⅰ.すべての者の罪を明らかにされる主なる神
 その上で主イエスは、「つまずきは避けられない」とお語りになります(1)。「つまずき」とは、「他人を傷つける者」、「罪を犯す者」です。主なる神は、私たちのすべて、つまり行い・口から発する言葉・さらに心の中まで知っておられます(参照16:15)。その上で、主はご自身の義に照らします。そのため、誰一人「罪がない」と語ることはできません。すべての者が、罪を犯し、人を傷つけてしまう罪人です。
 さらに主イエスは、「そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」(2)と語ります。つまりすべての人が、罪の刑罰としての肉の死を避けて通ることができず、滅びに向かっています。
 そして主イエスは「あなたがたも気をつけなさい」(3)と語ります。つまり私たちも、「自分は人をつまずかせたことなどない」と語ることはできません。

Ⅱ.神の愛に生きるキリスト者
 しかし主は「キリストが私たちの救い主である」と告白する者の罪を赦してくださいます。「だれでも、自分の罪を、神に私的に告白して、罪の赦しを祈り求めるべきである――そのようにし、かつ罪を捨てることによって、その人は憐れみを見出すであろう」(ウェストミンスター信仰告白15:6前半)。
 御子であるキリストが十字架に架かられたのは、そのあなたの罪を贖うためでした。私たちは、ここにある神の愛に生きることが許されています。
 一日の終わりに個人礼拝をもたれる方もいるかと思います。このとき、一日を顧み、罪の悔い改めを行います(参照:ヨブ1:5)。
 また、礼拝では「罪の告白」を行い、同時に「罪の赦しの宣言」を受けます。礼拝毎に行うことであり、礼拝までの一週間、明らかになった罪もあれば、自分では気が付かなかった罪もあります。それらの中には、他人を傷つけたものもあるでしょう。しかし、それらの罪を悔い改めれば、主は「罪の赦し」を約束してくださいます。つまり「一日に七回、あなたが罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と語ると、主なる神はあなたを赦してくださいます」。あなた自身が、今、神の愛に、生かされているのです。

Ⅲ.悔い改めれば、赦してやりなさい!
 その上で主イエスは、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、許してやりなさい」と語ります(3)。
 「あなたが、神によって罪が赦され続けている」ことを忘れたとき、「いつまで」、「なぜ」と言った言葉が出て来ます。そして愛想が尽き、嫌になり、憎しみがこみ上げてきます。しかし、神の愛があなたに注がれており、キリストの御業により今日も罪が赦されたことを理解しているならば、他人の罪を怒ることはできません。
 そのために、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、許してやりなさい」(3)と語ります。これが、信仰告白の後半部分です。「同様に、自分の兄弟、あるいはキリストの教会を躓かせる者は、私的、あるいは公的な告白と、自分の罪を悲しむことにより、傷つけた相手の人々に対して、自分の悔い改めを進んで明らかにすべきである。そのようになされたならば、傷つけられた者たちはその人と和解し、愛をもってその人を受け入れるべきである」(ウェストミンスター信仰告白15:6後半)。
 罪が個人レベルで明らかになり、罪の告白が行われれば、それ以上明らかにする必要はありません。しかし、教会裁判によって明らかになる場合もあります。この場合でも、戒規が行われるか、事実が認定されれば、そこで和解が行われなければなりません。一度和解すれば、それ以上、引きずってはなりません。真に和解が行われなければ、教会は一致を保つことができません。

Ⅳ.隣人を愛し、罪を赦しなさい!
 その上で主イエスは「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(4)と語ります。ある人は、「七回までは赦すが、八回目以降は赦さなくても良い」と解釈するかもしれません。しかし主イエスは、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)と語ります。主イエスが語る「七」とは、数字の7ではなく、無限を表す表現です。主はあなたの罪を赦し続けてくださいます。だからこそ、主がキリストの十字架の御業により、あなたのすべてを赦し、救い、神の子として天国に導いてくださっているように、私たちも隣人を愛をもって罪を赦すことが求められています。
  
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 「小さな小さな信仰」  ルカ17:5~6  2023.7.23
 
I.信仰を増してください!
 弟子たちは、「わたしどもの信仰を増してください」と語ります。このときの信仰とは、私たちが自分で身に付けるもの、増やすように努力するものといった思いがあるかと思います。
 つまり信仰とは、礼拝や祈祷会・集会に熱心に出席すること、奉仕を一生懸命に行うこと、献金を多く献げること、といった熱心さと考えることがあります。しかしこうしたことは、新興宗教の考えです。「徳を積む」という言葉が用いられます。しかしこれらのことは信仰の結果、感謝の表れであり、信仰を自らの手で勝ち取るものではありません。
 そのため主イエスは「あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば良い」とお語りになります。主イエスは、「信仰は、熱心さによって計ることをしてはならない」と、お語りになっています。

Ⅱ.信仰は、主なる神から
 ウェストミンスター信仰告白第14章「救いに導く信仰について」では、「信仰という恵みの賜物」と語られています。信仰は主なる神から与えられるものであり、自分で得るもの、育てるものではありません。
 その根拠として語られているのが、最初の部分です。天地万物の前に、主はすべてを計画し、救い、神の子とする者を選ばれました。この選びに基づいて、滅び行く石の心を持っていた私たちに対して、主が働きかけ、肉のI恥ヽを与え、神を信じるものとさせてくださいます。
 このときに主体的に働くのは、「かれらの心の中におけるキリストの霊の御業」です。私たちに信仰が与えられるのは、聖霊の御業です。キリストが、「からし種一粒ほどの信仰があれば」と語られるのは、「聖霊によって信仰が与えられていれば」と語っているのです。

Ⅲ.主によって与えられる信仰に生きよ!
 聖霊の働きによって信仰が与えられたとき、私たちは初めて「キリストは私たちの救い主です」と信仰を告白することができるようにされます。
 ですからパウロが「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と語りましたが、主の御業によって生じた信仰だからこそ、もうあなたは神の救いにあることを、パウロは宣言することができるのです。
 このとき信仰の大小が問題となるのではなく、あなたに信仰をお与えくださった主なる神がどのようなお方として信じたのかということが問題となってきます。あなたは罪の故に死に、滅びに向かっていました。そのあなたを主はキリストの十字架の御業の故に罪を赦し、神の子として、天国へとお招きくださいました。これが信仰を持った者の歩む道です。あなたの永遠の歩みを方向転換させる力を持っておられるのが、主なる神です。そうであるならば、この主なる神に、全面的にひれ伏し、委ねることが、信仰です。
 主イエスが語る「からし種一粒ほどの信仰」とは、まさにこの確信をもって主なる神を信じ、すべてを委ねることがわずかでもできていれば良いのです。

Ⅳ.信仰が与えられた者
 ウェストミンスター信仰告白はさらに告白します。「信仰という恵みの賜物は、かれらの心の中におけるキリストの霊の御業であり、通常は御言葉の宣教によって生み出される。信仰は、また、この御言葉の宣教と、聖礼典の執行、ならびに祈りにより、増し加えられ、強められる」(14:1)。
 聖霊が働くことによって信仰が与えられるのだから、「私たちは伝道する必要はない」と語ることはできません。通常は、キリストが証しされ、ここに聖霊が働くことにより人に信仰が与えられるのであり、私たちは主の御業に参与し、主を証しすること、伝道することが求められています。
 私たちが行っている礼拝の主要要素である「御言葉・聖礼典・祈り」これらにより、私たちの信仰は養われていきます。ですから主は、私たちを毎週礼拝へと招いてくださり、礼拝の恵みに与らせてくださいます。そうすることにより、キリストヘの揺るぎない信仰が養われていきます。だからこそ、私たちは、礼拝を大切にするのです。
 その上でウェストミンスター信仰告白14:2では、御言葉の養いにより、具体的にどのように信仰が結実するかが語られていきます。「からし種一粒ほどの信仰」であっても、主を信じ、疑うことなくすべてを主に委ねるとき、主の啓示の書である御言葉を真実として受け入れ、御言葉に聞き従う者とされるのです。
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  「わたしは取るに足りない僕です」  ルカ17:7~10  2023.8.6
 
序.
 現代社会では人権や権利をないがしろにすることはできません。そのため今日の聖書を読むとき「僕に食事を取らせないのはブラックだ」という指摘もあるかと思います。しかし聖書の文脈を理解して読むならば、このような解釈を行ってはなりません。

Ⅰ.私たちの救いは、主の恵みによる
 ルカは17章に入り、「あなたは主により罪が赦されており兄弟の罪も赦しなさい」、「信仰はわずかでも、主から信仰が与えられていることが大切であり、自分で一生懸命になる必要はない」と語ってきました。この流れで記されている今日の御言葉も、信仰の問題として語られています。
 また今日の御言葉の前提として、主が私たち罪人の罪を贖ってくださったことを理解しなければなりません。主は天地万物を創造し、その後もすべてを支配しておられます。一方私たち人間は被造物です。
 また主なる神は、人を神のかたちに、神に似せて、おつくりくださいました。神は人を特別な存在として、愛する存在としておつくりくださったのです。
 そして人が罪を犯し滅びる者となったにも関わらず、主の恵みにより、人は罪が赦されます。そのために、御子が十字架の死と甦りを担ってくださいました。
 私たちが救われるには、主によって与えられた恵みを信仰により受け入れること以外にありません。ですから主への奉仕は、救いを獲得するためではなく、救いから漏れることを恐れてこわごわ行うことでもありません(参照:ウェストミンスター信仰告白16:5)。

Ⅱ.私たちの救い主がお語りになる言葉
 主と私たち人間との関係性を理解することにより、主人の命令に対して(8)、どのように応えれば良いのか理解することができます。ここでは主人のために夕食を作らなければ滅ぼされるという脅迫じみた奉仕が求められているのではありません。主は、滅び行く私たちの罪を贖い、救ってくださった愛に満ちておられるお方です。
 主人と僕の関係を、愛し合う男女の関係で考えればどうでしょうか。好きな人の求めは、できる限り実現できるように行動するのではないでしょうか。このとき、「自分が行ってやる」という上から目線になることなく、相手が喜ぶ姿を見たいとの思いの一心で行うのではないでしょうか。
 主があなたを愛し、あなたを滅びから救い出し、神の子として神の国に招いてくださっています。このとき私たちも主を愛し、主が求めておられることを率先して行うようにされます。つまり主が何を求めておられるか聴きながら神中心に生きるか、聖書が語る神の求めを無視して、自分の思い・都合を優先して生きるかということです。
 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)と語ります。私たちを愛し、滅びから救ってくださった神を第一に、神中心に生きる信仰は、自己中心の信仰とは異なります。だからこそ、主がお語りくださる御言葉に聴きつつ、御言葉に従う生活を行うのです。これが教会においては奉仕につながります。

Ⅲ.主に奉仕をするとは……
 奉仕を考えるとき、時間を献げる礼拝・賜物を献げる奉仕・財を献げる献金があります。これらの奉仕は主の求めですが、命令されているから行うのでは、「やらされている」感があるかと思います。主が、なぜ命令を発せられているのか意味を理解することにより、奉仕の姿勢が違ってきます。
 主は「安息日を覚えてこれを聖とせよ」と命じられます。そのため多くの教会で、「安息日・礼拝厳守」が語られてきました。しかし、主が私たちに礼拝することを求めている一番の理由は、罪赦された私たちが、神の恵みを忘れることなく、神との交わりに生きるためです。ですから礼拝厳守を強調するのではなく、「主によって招かれている」ことをお覚えいただきたいのです。
 また主は教会でキリストの体を形成することを求めておられます。教会に集う一人ひとりに個性があり、賜物があります。それぞれがキリストの体の一つの器官であり、それぞれが賜物に応じて奉仕することにより、初めてキリストの体である教会となります(参照:Ⅰコリント12:12~31)。
 そして献金です。主は、私たちが生きるために必要を満たしてくださいます。その感謝を献金として献げます。その結果、教会が立ち、愛の業が行われていきます。
 これらの奉仕は主による救いの感謝の表れです。だからこそ救いの感謝・喜びをもって主に奉仕します。このとき私たちも、「わたしどもは取るに足りない僕です」 (10)と語ることができます。
 
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  「信仰の喜びに生きる」  ルカ17:11~19  2023.8.13
 
Ⅰ.再び癒やしを取り上げるルカ
 主イエスは、宣教の初めに、多くの病人を癒やし、主の御力を人々に示されました。そして、主イエスは十字架への歩みを初めておられる最中、改めて、重い皮膚病を患っている人10人を癒やしました。
 ルカは、全体の流れを意識して福音書を記しています。そのため、時として時系列は崩されているかと思います。そうした中、改めて癒やしのことが語られています。ここにルカの意図があります。私たちは今日の御言葉から、福音書前半において語られていた癒やしの出来事とは異なった意図を受け取ることが求められています。
 ルカがここで改めて癒やしの御業を語った目的は、真に主の救いの御業に与った者の反応・対応を語るためです。私たちは、主が私たちに救いに導く時、主は聖霊を通して私たちに働きかけ、私たちの石の心を砕き、罪を悔い改め、主イエスへの信仰を告白し、従順の生活が与えられることを確認して来ました(17:1-10)。そして救われる者が、主の御業、救いの出来事に出会う時、その人は喜びつつ、感謝します。

Ⅱ.差別に生きる人々
 「重い皮膚病」を煩った人は、人々から汚れた者とされ、人里離れた所で暮らすことが求められました(レビ13:45-46)。そのため、らい病人たちは、彼らのみで集団生活を送っていたと考えられます。
 彼らは、主イエスが通りがかられた時、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げ、主イエスに憐れみを求めます。癒やしではありません。自分達が癒やされるなど考えの中にもありません。今なお世界中の多くの人々が、絶望から抜け出すことができず、あきらめて生きています。

Ⅲ.主イエスの介在
 しかし主イエスは彼らを癒やしてくださいました。そして主イエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と語ります。それは公に病気が癒やされたことが宣言され、隔離生活が終わることを意味しています。つまり主イエスは、彼らが願っていた以上のことをお与えになりました。
 しかし10名の内9名は主イエスの所に戻って来ませんでした。彼らは、癒やされたことが嬉しかったことでしょう。しかし彼らには主イエスの存在がありません。自分さえ良ければ、それで十分なのです。
 多くの人たちは、まさに彼らと一緒です。自分が望んでもいなかった恵みが与えられたとしても、自分にとって主イエスは、関係のない存在です。主イエスを認識しない者に救いはありません。
 しかし、その中の一人は、大声で神を賛美しながら戻って来ました(15)。彼が他の9名と異なっていたのは、自分の癒やしには、キリストが関与してくださったことを知り、受け入れたことです。彼はイエス・キリストを救い主として信じました。信仰とは、救い主であるイエス・キリストと出会い、信じることです。
 主によって罪の赦しと救いが与えられた者は、石の心が砕かれ、信仰を告白し、自らの罪を悔い改め、信仰の実りとしての良き生活へと導かれます(17:1-10)。主の救いに与るとき、キリスト者は信仰の実りとして、主に感謝を表します(ウ小教理問1)。
 主なる神は、時代を超え、空間を超えて存在される無限・不変・永遠の神です。私たちの生活のすべてに介在します。だからこそ、良いことがあれば、主から与えられた恵みです。また苦しみ・試練に対しても、「助けてください」と祈ることができます。私たちに起こる出来事のすべてに主が介在しておられる事実を忘れてはなりません。

Ⅳ.一人を思う主イエスの愛
 また主なる神は、社会から隔離・阻害されている人々に対する思いやり・愛・憐れみを持っておられます。苦しんでいる者の苦しみを、十分に受け止めてくださる神です。そして、彼ら自身が諦めていたことすら適えてくださいます。
 主イエスのところに戻ってきたのはサマリア人でした。主イエスの救いに与る時、民族も言葉も性別も身分も関係ありません。主イエスの提示された御業を感謝して受け入れ、信じる者に主の救いは与えられます。主イエス・キリストは、神の御子として、社会から見捨てられ苦しみの中にある人たちを憐れんでくださり、愛に包み、救いへと招いてくださいます。
 だからこそ私たちキリスト者も、民族として差別されている人たち、様々な障害をもつことにより社会からさげすまされている人たち、社会から忘れ去られたような人たちを忘れてはなりません。主が憐れんでくださるように、私たちもキリストの愛の業に仕えることが求められています。
 
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  「神の国はいつ来るの?」  ルカ17:20~24  2023.8.20
 
序.
 主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語り、宣教活動を始められました(マルコ1:15)。このときの「神の国」とは何か? 今日の御言葉で、このことを考えていきます。

Ⅰ.信仰が与えられた者
 主イエスがエルサレムに行き、十字架に架かることを見据えつつ歩みを続けています(9:51-)。そして17章に入り、神の国に入ることができる神の民の信仰について語られています。神から与えられた信仰であり、それを受け取ると、生き方・行動に変化が生じます。それが信仰告白・悔い改め・善き生活(奉仕)に表れます。
 今日の御言葉では、主によって信仰が与えられたキリスト者である私たちですが、どこに目指して歩んでいるのか、そのために今何が求められているのかを考えて行かなければなりません。

Ⅱ.神の国とは……
 ファリサイ人は「神の国はいつ来るのか」と問いかけます(20)。ユダヤ人にとって、「神の国」=「天国」です。
 しかし神の国が完成された場所が天国ですが、神の国と天国を同一視してはなりません。つまり天国とは、キリストが再臨し、最後の審判でサタンが滅ぼされることにより実現します。ここに私たちキリスト者も、復活の体が与えられ、入ります。つまり、私たちキリスト者のゴールです。
 しかし、神の国は天国と同一視してはいけません。主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)と語られました。つまり神の国は、神の御子イエス・キリストによって与えられます。
 その上で主イエスは、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』といえるものではない」と語られます(21)。神の国とは、救いが完成して初めて与えられる天国ではありません。

Ⅲ.神の支配する神の国
 では神の国とはどのようなものなのか?「国」と語ることから、そこには王がおり、王の支配の下に生きることです。つまり、私たちが神の民として、神の支配に生きるとき、それはもう「神の国」に生きていることとなります。私たちキリスト者は、神の支配に生きる、神の国に国籍を持つ者です(フィリピ3:20)。キリストが再臨されていませんので、まだ私たちは地上に国籍を有しています。クエーカーのように、地上の国から逃避することはしません。ですから、キリスト者はいわば二重国籍です。
 しかし同時に、主イエスは「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」(マタイ6:24)と語られます。そして主なる神により生命が与えられ、天国の希望に生きるキリスト者は、主なる神を第一にして生きることが求められています(マタイ6:33)。
 そして私たちが、主なる神を信じ、キリストを王として受け入れて、神の国に生きようとするとき、ウェストミンスター大教理問答問45から聞くべきです。
 最初に「世から一つの民を」と告白します。旧約ではイスラエルですが、新約の時代では霊的なイスラエルであるキリスト者のことです。主なる神につながるということで、一つです。そのため主は霊的統治を教会に求め、役員と律法と譴責を与えることを良しとされています。
 そして第二で、キリスト者は神の恵みに満たされて主に従って生きるとき、主の栄光と様々な益を約束してくださいます。
 そして第三で、主なる神を信じることなく、神の国から離れたところで生きる者は、神による救いはないことを宣言します。

Ⅳ.天国に向けての歩み
 ルカは、人の子が現れること、つまりキリストの再臨について語ります(24)。キリストが再臨するとき、最後の審判が行われ、神の国が完成します。それが天国です。
 世紀末の時代になると、人々は終末を予言します。しかし予言は、見込みに過ぎません。しかし主の預言は、神のご計画に伴う言葉であり、必ず成就します。そのため、人の予言に惑わされてはなりません。
 キリストは再臨のときを明らかにされません。だからこそ私たちは、いつキリストの再臨するのか分からないからこそ、日頃からその準備を怠ってはなりません。
 しかし同時にキリストは、すべての者が分かるような形で再臨されます。
 主なる神の御支配の中に信仰が与えられキリスト者とさせていただいた私たちは、神の国に生きています。だからこそ、主なる神にすべてを委ね、主の恵み・導きを信じてこの世の歩みを行い、揺るぎない天国の希望に生きることが求められています。
 
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  「人の子が現れるとき」  ルカ17:25~30  2023.9.3
 
序.
 キリストが再臨し、神の国が完成する時、キリスト者は、完成した神の国である天国へと招き入れられます。今日の御言葉ではキリストの再臨が予告されています。

Ⅰ.排斥の予告
 主イエスは、今、十字架に架かるためにエルサレムに向かっています。そのため、すでに二度にわたって十字架において苦しみを受け、死と復活を遂げられることを予告されてきました(9:21-27、9:43b-45)。そしてこの後18:31-34で三度目の予告をされます。ここで主イエスは、ユダヤ人に排斥されて十字架に架かられることを語ります(25)。
 このときユダヤ人は発想の転換が求められます。ユダヤ人にとって救い主(メシア)はダビデ王の再来であり、王として凜とし、英雄でなければなりませんでした。こうしたメシアがイスラエルを再興し、イスラエルの民を神の国の祝福へと導いてくれると信じていました。
 しかし、主イエスはそうではないと語られます。つまり、ユダヤ人たちが思い描いている神の国は、力のある王が訪れ、その王によって神の国が到来するものでしたが、違った形で神の国は訪れます。
 では、主イエスが私たちにお与えくださる神の国とはどのようなものでしょうか。
 つまり神の国とは私たち人間が予想できるようなものではありません(23)。私たちの価値観とはまったく違った形で訪れます。

Ⅱ.ノアの時代の裁きについて
 神の国と、この世の人たちとの価値観の違いは、いつの時代においても起こることです。主イエスは最初にノアの時代のことを取り上げます(26-27、創世記6-8章)。主の御言葉に聞き従うノアとその家族は、主の命令に従い箱船を作りました。丘の上で大きな箱船を作っています。人々は、創造主である主なる神を忘れ、ノアが語る主の警告の言葉を受け入れず、ノアの行動をあざ笑っていたのではないでしょうか。
 彼らが主の裁きにあった原因が語られています(創世記6:1-6)。彼らは主なる神から離れ、自分の価値観によって生きていました。これこそが主の裁きの原因です。
 私たち人間は、主なる神にかたどり、主なる神に似せて主によって創造されました。そうであるならば私たち人間は、主に従って生きることが、なによりも大切なことです。このとき、主の価値観、主が私たち人間に求めておられる生き方を、主がお示しくださる律法、つまり十戒により、確認することが求められます。
 このとき私たちは、神の価値観をこの世の価値観に近づけ、曖昧に解釈してはなりません。主の御言葉が示されても、この御言葉を解釈するのは私たち人間であり、自分の都合の良いように主の御言葉を読むとき、御言葉は歪曲されます。そのため改革派教会では、神中心の信仰を求めます。私たちが神を求めるのではなく、主が私たちに何を求めているのか聞くことが大切です。
 つまり主なる神の価値観は、あきらかにこの世の価値観とは異なります。この違いを違いとして受け入れ、主の価値観、律法に従って生きることが求められます。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。……あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(16:13)。

Ⅲ.ロトの時代の裁きについて
 主イエスは、もう一つロトの時代のことをお語りになります(28-29、創世記19章)。アブラハムはソドムのために執り成しの祈りを行います(18章)。このとき主は「その十人のためにわたしは滅ぼさない」(創世記18:32)とお語りになりました。ここに一人でも神の民がいるならば、主は裁きを行うことはありません。しかし、主の警告が発せられてもその生活を変えない人たちに対して、主は裁きを行われます。
 このように主イエスは、旧約聖書の例を2つ示して、主の御声に聞くことなく、自らの生活を変えない人たちに裁きがもたらされることを語ります。
 聖書が同じ内容のことを2度・3度繰り返し語るとき、それは重要なことが語られているということです。

Ⅳ.キリストが再臨されるとき
 そして主イエスは最後に、「人の子が現れる日にも、同じことが起こる」(30)とお語りになります。旧約聖書において語られていたことは、主イエスの時代、さらに新約の時代の現代でも同じことが起こります。
 主イエスは再臨されるとき、神の国を完成させ、私たちに天国をお与えくださいます。私たちは、主イエスが再臨される日を、希望をもって待っています。
 復活の主イエスは再臨するため、主が神の民として選ばれているすべての人たちが教会に来て、主を信じるときを待っておられます。しかし、キリストが再臨しても、自らの生活を改めない人たちは、主の裁きにより、滅びを免れることはできません(参照:ウェストミンスター信仰告白33:1)。

 
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 「その日には」  ルカ17:30~37  2023.9.10
 
Ⅰ.その日
 聖書は「その日」という言葉を繰り返し語ります。私たちは、聖書が語る「その日」に向かい歩んでいます。主イエスが語る「その日」とは、人の子が現れる日です(30)。人の子である主イエスは、十字架の死と復活により天に昇られましたが、再臨を約束されました。このとき最後の審判が行われ、神の国が完成します。まさに主イエスの十字架の御業は、その日に、神の民とされるキリスト者が救われ、天国に入るために避けてとおることができないことでした。
 私たちは、日々の生活の中、救われて完成する神の国(天国)のことを、忘れてしまいます。そして、旧約のノアやロトの時代に起こったことは、自分たちの生活には関係のない余所事と思ってしまいます。
 しかし、私たちは聖書のただ中に生きています。天地創造から始まり、アブラハムに始まるイスラエルの歴史、メシアであるイエス・キリストの来臨と十字架の御業があります。その流れの中で、私たちは今、生きています。そしてこの歴史の延長線上に、「その日」があります。
 この現実を忘れたとき、信仰が曖昧になり、抽象化・相対化します。そうすると、信仰生活・礼拝に出席する行為が他の行事との比較において行われることとなります。
 聖書において、主イエスの再臨と最後の審判の日を「その日」と語るのは、余りにも意識しすぎないためであり、それでもなお意識して生きるためではないでしょうか。

Ⅱ.「その日」を強調することにより……
 「最後の審判」を意識しすぎると、「どうせ、最後の審判を迎えるのだから」と語り、今の生活が疎かになります。そして、私たちは生きる目的を見失います。主は、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」とお語りになり、人を創造してくださいました(創世記1:26)。これは、三位一体なる神と共に、主との交わりに生きることです。また、神との交わりの中で、主がお与えくださったこの世を治め、秩序を整えて生きることが求められます(同1:28)。
 最後の審判がすぐにでも来ると思うと、これらの生きる目的が忘れ去られます。
 また「主の日が来る」と終末を予想し、キリスト者を惑わす者も出てきます。20世紀末や第二次世界大戦中、こうした噂が世界中を駆け巡りました。
 つまり、最後の審判が近いと感じると、人々は浮き出し始めます。そのため主は、あえて「その日」という言葉を用いられています。そして、「その日」がいつであるか、聖書は語りません。

Ⅲ.あなたの信仰が問われている!
 ただ今日の御言葉では、「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」(33)。「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」(34)と語られており、戸惑いを覚えた方も少なからずいるかと思います。
 私たちは、主から生命が与えられており、自らの生命も他者の生命も、粗末に扱ってはなりません(参照:第六戒)。しかし、主イエスは、この世の生活がすべてとなり、主なる神を忘れた生活を行うことを警告されています。つまり私たちは、キリストの十字架の御業により、主がお与えくださった罪の赦しと救いを受け入れ、私たちの周囲にある様々な罪の誘惑を退け、御言葉に従った歩みを行うことが求められています。
 また主イエスが「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」(34)と語ることは、パウロが語った「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われる」(使徒16:31)と語ることと違うではないかと、思われるかもしれません。信じる者は救われますが、救いは主のご計画に基づくものであり、最終的には主のご計画に委ねることが求められます。そのため、私たちは家族も救われることを信じます。
 しかしここで主イエスが語ろうとされていることは、私たちの周囲の人たちのことではなく「あなた自身はどうなのか」です。
  ロトの妻のことを思い出しなさい(32)と語ります(参照:創世記19章)。主はロトに「後ろを振り返ってはいけない」(同19:17)と語られました。しかしロトの妻は後ろを振り向いたため、塩の柱となりました(同19:26)。私たちが忘れてはならないことは、罪の故に滅び行く私たちを、主がキリストの十字架の故に罪を赦し、天国へとお招きくださったことです。そのため私たちは主の恵みに感謝して生きることが求められています。「家族や友人が可愛そうだ」と思うのであれば、福音を伝えれば良いのです。あなたに与えられた恵みに感謝することなく主に不平・不満を語ることは、不信仰です。
 
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  「しつこく祈る」  ルカ18:1~8  2023.10.1
 
序.
 今日の御言葉において、主は不正な裁判官を称賛しているのだろうか、どのように理解することが求められているのだろうかと困惑される方もおられるかと思います。

Ⅰ.諦めやすい私たち……これは不信仰である!
 主イエスは「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(1)と語ります。
 私たちは、弱く、すぐに怖じ気づき、諦めてしまいます。弟子たちも同じです。こうしたことを知っておられる主イエスは、愛をもって弟子たち・私たちに語りかけてくださいます。社会における異常さが当たり前となり、不平があっても、公然と批判することをせず、すぐに諦め、忘れてしまいます。その結果、私たちの身に、危険が迫っても何も変わることはありません。
 奴隷制度は旧約の時代から制度として有り、多くの人たちが苦しんできました。しかし奴隷制度が廃止されたのは19世紀に入ってからです。弱者の苦しみに対して、社会は人権の大切さ・問題の本質を知りながら、簡単には問題を解決することができず、「当たり前だ、変わることなどない」との諦め、私たちを祈りから遠ざけていました。しかし諦めることなく、祈り続け・戦った人がいます。そうした人たちの信仰・祈りが、社会に変化をもたらしたのです。
 教会のこと、家庭の信仰のことも同様です。家族の救いを私たちは諦めている部分があります。これは私たちの不信仰であり、私たちの弱さです。私たちは祈り続けることが求められています。

Ⅱ.不正な裁判官とやもめの訴え
 主イエスは不正な裁判官について語ります。彼は神を信じておらず、不正を働き、賄賂をもらっていました(2)。つまり彼が裁判を行うのは、自らのためです。
 一方、一人のやもめが裁判で訴えようとしています。やもめの訴えなど、裁判をしても時間と手間ばかり取られます。だから、裁判官は告発を受理しません(4)。しかし、このやもめは引っ切りなしに来て訴え続けます。裁判官は彼女がうっとうしいため、裁判を行います。やもめの熱心さが、裁判官を動かしました。

Ⅲ.私たちは誰に対して祈っているのか…
 主イエスは、「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい」と語ります(6)。私たちは、不正な裁判官ではなく、粘り強く訴え続けたやもめに注目すべきです。
 「まして神」(7)が私たちの祈りを聞いてくださいます。このとき神へ祈りをささげる私たちの信仰が問われています。
 私たちの祈りが、空虚だと思ってしまう原因は、「祈りが聞き届けられるだろうか」という疑い、「祈っても変わりはない」という諦めです。
 しかし私たちは本当に祈りがまったく聞かれないのでしょうか。私たちは、一つひとつの祈りの結果を確認しなければなりません。病気が癒やされ、問題が解決し、小さなことも主は聞き届けてくださいます。
 私たちは、神からの恵みはすぐに忘れ、その一方、解決されない問題を、神に不平不満に思い、「祈っても無駄だ」との思いになります。
 奴隷制度や人種差別は20世紀まで解決を待たなければなりませんでした。人権・差別は、長い長い一人ひとりの祈りが積み重なり、問題が解決していきます。祈りは解決するまで、数日どころか、数年待たなければならないこともあります。そのため、自分の生涯を終え、後の世代に受け継がれることもあります。しかし、主はその問題を覚え、解決へと導いてくださいます。
 イスラエルの例を確認しましょう。エジプトで奴隷となったイスラエルが解放されるまでに400年が必要でした(創世記15:13-16)。バビロン捕囚も解放まで70年が必要でした。主はイスラエルを見捨てることはありませんでした。私たちは、からし種一粒ほどの信仰が求められています(マタイ17:20)。
 主なる神は、天地万物を創造し、キリストを私たちの罪を償うために十字架に献げられた救い主です。主は、天地創造に始まり、キリストの十字架・再臨と最後の審判、神の国完成という救済の歴史の中で働いておられます。昨日・今日・明日という短い期間で、神の存在、神の御力がないと判断してはなりません。
 主なる神は、今も生きて働いておられます。そして主なる神は、今も私たちと共におられるインマヌエルの神です。だからこそ私たちは、ここで出てくるやもめのように、諦めることなく主を信じて祈り続けることが求められています。
 
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「神への祈り」  ルカ18:9~14  2023.10.8
 
序.
 ルカは17章で神の国について語り、18章に入ると祈りについて語り始めます。両者は密接に関係しています。神による救いの確信があるからこそ、信じて祈ることができるのです。主イエスは不信仰な私たちに、諦めずに信じて祈ることを求めておられます(1-8)。私たちは生きて働く主なる神を疑うことなく信じることが求められています。

Ⅰ.あなたは何者か…
 今主イエスの前にいるのは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」(9)です。彼らは、他人の評価とかけ離れた自己評価を行っています。ここで主イエスは、主に祈る私たち自身は何者であるか考えるように問いかけておられます。自らの姿を、主観的にではなく、客観的に見なければなりません。それは周囲の人たちとの比較においてではありません。義・聖・真実である主なる神は、完全無欠です。そのお方が、私たちに義の基準として律法をお示しくださっています。
 十戒を代表とする律法には3つの用法(働き)があります。第一の用法は、市民的用法です。すべての人たちに対して、一般的な善悪の基準が心に刻まれています。これは、神によって創造された私たち人間が、罪によって神との交わりを失いましたが、なおも神の像が残っており、殺してはならない、盗んではならないといった、基本的な法律を作成し、社会の秩序を保つことを良としてくださっています。
 律法の第二の用法が、教育的用法です。主は私たちのすべての行い・言葉・心の中をご存じです。そのため私たちは主の御前に罪人であることが示され、罪の悔い改めと信仰へと促されます。
 主イエスの所に姦淫を行った女が連れて来られました(ヨハネ8章)が、主イエスは、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)とお語りになります。誰一人彼女に石を投げることはできませんでした。つまり主の律法の前に、私たちは、誰一人自らが義しい者であると語ることはできません。

Ⅱ.祈り
 さてここで主イエスは、一人のファリサイ派の人と一人の徴税人を取り上げ、彼らの祈りについて語り始めます(11~12)。主イエスは、彼の祈りを批判しません。一信者としては素晴らしい行いです。しかし主イエスは彼を咎められます。彼は、自己正当化し、他者をさげすむからです。救いは、神の恵みによってあたえられるのであり、信仰により他者を蔑む口実にはできません。
問題は、私たちが主イエスの前に立つとき、神の御言葉である律法(十戒)に従って、自らの姿を顧みることができるか否かです。
 一方、徴税人はどうでしょうか? 神殿の近くに来ることすらできません。遠くに立ち、目を天に上げることもせず、胸を打ちたたいています。主の御前に立つ自らの罪の大きさにたじろぎ、自らを何一つ誇ることができません。徴税人として私腹を肥やすため、必要以上の税金を取り立てていたことでしょう。徴税人としての行為は咎められるべきです。しかしここで大切なことは、彼が自らの罪を理解していたことです。だから彼は、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」としか祈れません(13)。主は彼の信仰を喜ばれます。
 神の御子であるキリストが、十字架にお架かりくださったのは、彼のように自らの罪の故に、自らの償いを行うことができないことを受け入れ、主に救いを求める者の罪を赦し救うためでした。自らの罪が示された私たちも、キリストの十字架に罪の赦しを委ねることが求められています。私たちが、主に救いを求めるとき、主は喜んで受け入れてくださり、救いへと招き入れてくださいます。

Ⅲ.キリスト者としての信仰生活
 だからこそ私たちは、神の愛に感謝し、神による救いを喜び、神の民としての歩みを行います。このとき私たちは、律法の第三用法(倫理的用法)に生きることとなります。まさに善き生活、キリストを証しする民として、率先して律法に従った歩みを行う者となるのです。これは救いを求めるための善き業ではなく、律法主義ではありません。すでに救われた者が感謝と喜びをもって、主に従って生きる生活です。
 この時、私たちの祈りもまた、必然的に、主の御前に、自らを省み、遜りと悔い改めをもって、主による救いに感謝することとなります(参照:ウェストミンスター大教理問185)。
 私たちを救いへとお招きくださった主なる神を知り、さらに主の救いに与る己を知ることにより、私たちは主に祈り求めることができるようにされていくのです。
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 「子供を受け入れる主イエス」  ルカ18:15~17  2023.10.15
 
 Ⅰ.幼子を受け入れる主イエス
 今日の御言葉では、前の節で記されている「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14)をこととのつながりを覚えつつ読むことが大切です。
 十字架への道を歩み始められている主イエスが、誰が神の国に入ることができるのかを私たちに示そうとされています。
 弟子たちは、乳飲み子たちが連れて来られたとき、親たちに叱ります。説教を聴くのに邪魔になるからです。主イエスの語られる一言一言を聞き漏らすことなく聴こうとすれば、子どもの泣き声や言葉は邪魔になります。
 しかし主イエスは「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と語られます(16)。この御言葉を解釈する時、私たちが幼子のように、無邪気になり、何でも受け入れる無垢になるように解釈されます。しかし、このような解釈は律法主義であり、主イエスが語ろうとされていることではありません。
 当時は女性の社会的地位が低かったわけですが、幼子はそれ以下で、一人前の人間と認められない無価値な存在でした。
 つまり、社会的にも無価値な存在であった乳飲み子を、主イエスは受け入れてくださいました。価値のない者であっても、主イエスの所に来る者を、主イエスは受け入れてくださいます。

Ⅱ.幼児洗礼と恵みの契約
 乳飲み子を無条件に受け入れてくださる主イエスの行動は、教会における幼児洗礼において引き継がれています。プロテスタント教会の中に、幼児洗礼を認めない教会があります。彼らは「信じる者は救われる」という御言葉から、自らの口で告白していない幼子に洗礼を授けることを拒みます。
 しかし、主イエスは無条件に幼子を受け入れてくださいました。幼子を神の民に加えることは、主がアブラハムに割礼を制定される時に既に定められました。旧約における契約は、新約の教会にも継続しているのです。それを教会は幼児洗礼として定めています(参照:ウェストミンスター大教理問74)。

Ⅲ.御言葉と律法主義と信仰教育
 私たちは現実的に子どもたちが礼拝に集うためにはどうすれば良いかを考えなければならない。
 教会で「礼拝厳守」が語られてきました。第四戒において語られていることです。これは律法主義者とどこが違うのでしょうか。幼子やまだ信仰を告白していない人たちに「礼拝厳守」が語られるとき、それは彼らにとっては律法主義となります。礼拝に出席することは神が求めておられることであり、教育していくことが必要です。教会は救いの恵みが与えられる場所だからです。
 しかし彼らが強制されていると思うとき、それは律法主義そのものです。律法は救いの感謝と喜びをもって主に従って行こうとするときに機能するのでり、彼らにとっては律法主義になります。このことを、教会は注意しなければなりません。
 また教会は、誰もが自分たちの居て良い場所でなければなりません。同年代の友だちがいない時、救いの核心と喜びがまだない子どもたちは、教会に自分の居場所を見つけることができません。
 そのため子供たちが中会のキャンプや修養会等に参加し、同年代の友だちを作ることは大切です。時が来れば、救い主イエス・キリストと出会い、教会の中へと招き入れられます。そのために、中会的な交わりは非常に大切です。そして、主イエスが乳飲み子を無条件に受けれていくださったように、教会は、子どもたち・青年たちを受け入れ、見守ることが求められています。
 そして最後に、礼拝における静粛の問題を考えます。礼拝中、うるさければ気がとられ、じっくりと説教を聞くことができません。しかし乳飲み子が泣き、幼児が動き、おしゃべりするのは当たり前のことです。教会が子どもたちと一緒に礼拝することを求める以上、教会員はこのことを理解し合い、忍耐すべきです。特に弱い立場にある人たちに対する配慮・忍耐が必要です。
 同時に、子どもたちの成長に合わせて、神を礼拝することの大切さ、神に救われている喜びを教育することで、礼拝中、静かに過ごすことなどが教育されていきます。
 強制的に行ったとしても、それは彼らに取れば律法主義です。毎日、繰り返し繰り返し、忍耐強く語り教えていくことが求められています。
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 「神の国に入るとは」  ルカ18:18~30  2023.11.5
 
 序.
 主イエスはエルサレムへの道を歩み、神の御国に入るキリスト者とはどのような者であるかを語っています。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14)に注目しつつ、御言葉に聴きます。

Ⅰ「善い先生」
 ここに「ある議員」が登場します。これはユダヤの政治的な議会の議員ではなく、ユダヤ教の教会の指導者・役員です。
 彼は熱心な信仰生活を送り、律法を遵守し、救われ・永遠の命を受けるために努力していました(20)。
 彼は、主イエスに「善い先生」と尋ねます(18)。「善い」は、「尊い・有能・優良な」と訳せます。主イエスを、福音の指導者として、尊敬し敬っています。しかし、こうした判断は、相対的判断であって、絶対的判断ではありません。このとき主イエスは「わたしに従いなさい」(23)と語られます。主なる神である主イエスは、絶対的権威者であり、相対的に善い方ではありません。

Ⅱ.実生活が伴ってこその信仰
 主イエスは、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(20)と語られます。私たちの救いはキリストの十字架により決定しています。絶対的権威者である主なる神の決定です。私たちは、常に神の御前に生きています。このとき神の義・聖・真実に生きることが求められます。このことが十戒において定められています。私たちが常に神に従って生きることこそ、創立宣言が語る有神的人生観・世界観に生きることとなります(Ⅰコリント10:31)。
 さらに主イエスは「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」と語ります(22)。私たちが絶対的権威者としてのキリストを信じる時、主がお創りになったすべてを受け入れ、隣人を愛することとなります。そして苦しんでいる者・悲しんでいる者と共に歩み、手を差しのばすのです。これこそが、愛の業・執事的働きであるディアコニアです。
 そして真に隣人を愛し、愛の業に生きようとする時、平和を求め、敵対する者との和解を求めて生きる者へとされます。

Ⅲ.救い主と出会うとは…
 しかし主イエスが「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と語られた時、これを聞いた人々は、「それでは、だれが救われるのだろうか」と語ります(24)。他の人々も金持ちの議員と同じ基準で生きています。努力して成功を収め、富と名声を手に入れることにより、神の祝福に満たされ、神の国に入れると、思われていたのです。私たちは、主イエスが「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)と語られた御言葉を思い返さなければなりません。
 主イエスは「人間にできないことも、神にはできる」と語られます(27)。永遠の生命を得ることは、人間には不可能であり、主なる神の御子であるイエスさまだから可能です。神は無限・永遠・不変の霊です(ウェストミンスター小教理問4)。神が、私たち人間を創造し、生命をお与えくださる神であり、神がおられなければ、私たちたちは、今日も生きることが許されていません。私たちは、創造主である神と、神の被造物である人間の関係を理解しなければなりません(ローマ9:20)。
 私ち人間が神になることはあり得ません。そして、肉体的・体力的・能力においても、この限界を私たち自身が知り、打ちのめされた時、私たちは改めて、無限・永遠・不変の霊である神を見上げることができるのです。このとき、私たちはすべてを神に委ね、祈る者とされます。
 しかし私たち人間が自分の存在そのものに満足し誇っている間は、いくら救いを求め、神を信じると告白したところで神を知り救いを得ることはできません。

Ⅳ.真のキリスト者として生きよ!
 ①口で「神を信じる」、「救いを求める」と語りながらも、自分の功績を誇り、自己中心に生きている人と、②自らの限界を知り罪を受け入れ、悔い改め、すべてを主なる神に委ね、主による救いを求めて生きている人とは、根本的に違いが生じます。
 両者は、生活が安定している時はそれ程違いは出てきませんが、失敗したり挫折した時、両者の違いは明かになります。主イエスは「種蒔きのたとえ」(ルカ8:4~8)を語られていますが、「もどき」であれば、試練に耐えることはできず、種が育たないように、信仰も失われます(参照:ローマ5:4、Ⅰコリント10:13)。すべてのことが主なる神の支配の下にあります。だからこそ弱い時にこそ、私たちは神にすべてを委ね、祈るのです。主が救いの道をお与えくださいます。
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 「人の子は三日目に復活する」  ルカ18:31~34  2023.11.12
 
 Ⅰ.三度、予告をされる主イエス
 主イエスは、今、ユダヤ人に逮捕され、罪人として十字架に架かるためにエルサレムに上られようとしています。主イエスは、ユダヤ人や群衆から離れて、12人の弟子たちだけを集め死と復活の予告を行われます。3度目のことです(9:21-27,9:43-45)。他の共観福音書と共に三度、同じことが語られることに主の強い意志が込められています。
 創世記41章には、ファラオが同じ夢を二回見たが、それを誰も解き明かすことができず、途方に暮れていた時、囚われの身であったヨセフが夢の意味を説き明かします。「ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです」(41:32)。二度でも、主のご計画が決定的であることを物語ります。三度ならなおさらです。また聖書で「3」は完全数を表しています。
 主イエスが三度も予告されるのは、主イエスにとって十字架の死と三日目の復活の意味する所が大きいことを物語っています。聖書の頂点と語ることができます。
 しかし過去の二回は、主イエスはまだガリラヤ伝道の最中であり、1回目と2回目の間に、主イエスの姿が変貌を遂げられる不思議な出来事が記されていました(9:28-36)。つまり主イエスが神の権威を持っておられることを強調していました。
 一方、今回の予告は、主イエスが十字架の御業をとおして、神の救いの計画を成し遂げられることが強調されています。

Ⅱ.「聖書の預言」と「予言」
 神の救いの計画は「預言」により示されています。キリスト教は、「言葉の宗教」・「啓示の宗教」です。神ご自身が私たちに語りかけてくださり、神の語りかけを信じる者に主は救いをお与えくださいます。
 つまり、聖書が語る「預言」は、人が将来を予想する「予言」とは、まったく異なります。主は、最後までのすべてを完全にご計画し、知っているからこそ、誤りなく語ることができるのであり、何が一番重要なことであるかを理解した上で、十字架の死と復活が、何よりも大切なことであることを、主イエスは、三度、語られることにおいて証ししておられます。
 また主イエスの十字架の死と復活は、神の救いの御業において最も大切なことであるからこそ、旧約聖書でも、繰り返し預言されてきました(詩編22編・イザヤ52・53章等)。だからこそ主イエスも「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」とお語りになります。
 また主イエスが御自身のことを「人の子」と語られる時、御自身のメシア性を表現したものであり、旧約聖書で預言されたメシアそのものであることを語っておられます。
 つまり主による救いは、永遠の御計画(聖定)に基づいて行われます(参照:ウェストミンスター信仰告白3:1)。主は、壮大な計画を持っておられ、天地万物の創造の前から、罪人である私たちを救うために、御子イエス・キリストをこの世にお送りくださり、十字架の死と復活を計画されていました。

Ⅲ.明らかにされる奥義
 しかし聖書は「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった」と語ります(34)。主の御言葉・預言が語られた時、すべての者が、すぐにそのことを理解し、主を信じることができるようになるかと言えば、そうではありません。主イエスの弟子たちも、主イエスの3度目の死と復活の予告を理解することができませんでした。
 主の御言葉・説教を理解する者は多くはありません。それは主によって隠されているからです。「奥義(おくぎ)」と語ります。主の御言葉を理解するためには、時を待たなければなりません。それまで隠されています。「奥義(おうぎ)」と呼ばれるものもありますが、「おうぎ」のように極めるものではありません。主の御言葉は私たちには隠されています。しかし、時が来れば聖霊の働きをとおして、私たちの石の心が砕かれ、理解できる時が与えられます。主イエスの弟子たちは、キリストが十字架に架けられ死を遂げ、三日目の朝に甦る時を待たなければなりませんでした。彼らには、この真理を理解でき、信じる時が来ることをお示しくださっているのです。
 同様に教会に集う一人ひとりが神の御言葉が理解でき、キリストの十字架による救いを受け入れる時が定められています。そのため伝道には忍耐が伴います。しかし主の救いの契約に私たちが生きるとき、私たちは平安の信仰生活を歩むことができます。
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 「あなたの信仰があなたを救った」  ルカ18:35~43  2023.11.19
 
序.
 「彼らにはこの言葉の意味が隠されて」(34)います(奥義)。そのため、主が預言を語られたとしても、それを信じるためには、主が定められた時が必要であり、その時になって主が聖霊を通して石の心が砕かれ、信仰の目が開かれる必要があります。

Ⅰ.全体の位置づけから知るテキスト
 主イエスが盲人の目を開かれることが、主イエスの死と復活の予告のすぐ後に記されていることに、私たちは注目しなければなりません。ルカは主イエスによる病人の癒やしの奇跡を繰り返し語ってきました。福音書の最初の方で行われた癒やしは、主イエスが神の御力をもった真の神であることが示されるためでした。しかし、ここで語られていることは意図が異なります。
 この記事は共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)において記されていますが、マタイ・マルコでは、主イエスの死と復活の後、ヤコブとヨハネの母の願いが挿入されていますが、ルカは省いています。また盲人についても、マタイは二人であったと語り、マルコはバルティマイであったと語ります。各福音書は同じことを語っていても、それぞれ意図が異なります。そのため私たちはテキストの前後の流れを確認しつつ、ルカが語ろうとした意図をくみ取ることが求められます。

Ⅱ.救いは主のご計画の現れ
 ルカ福音書18章では、誰が救われるのかが議論されてきており、前回、神の御子である主イエスが十字架の死と復活を予告されました。つまり神の救いに与る者は、十字架と復活のキリストと出会うことが求められています。
 十字架の死と復活のキリストによる救いは、誰にどのように示されるのでしょうか。主イエスは、ガリラヤ伝道に出られた時にイザヤ61:1-2を引用しつつ、語られていました(4:18-19)。ここに福音の目的が3つ明らかにされています。
 ①捕らわれ人を解放すること
 ②目の見えない人に視力を回復を告げる
 ③圧迫されている人に自由を与えること
 私たちは、「自分が救われる・罪の赦しに与る・信仰を告白する」と自分が主体になり考えがちですが、私たちが救われるために働かれる主体は、創造主・贖い主である主なる神ご自身です。
 そして、主が永遠の滅びから救い出してくださるのは、人々から卑下され、自分を誇ることができない人々です。ルカ福音書4章で語られてきたことが、18章において、明らかにされていきます。

Ⅲ.信仰は信じて確信すること!
 今日の御言葉では、一人の盲人にスポットが置かれます。彼は、「ナザレのイエス」をダビデの子・メシアとして受け入れ、病気の癒やしを行う力を持っておられる方であることを信じています。
 人間にはできない力を示される主イエスのことを、多くの人たちが興味を示していたことでしょう。しかし彼らは、主イエスが救い主であること、主イエスの成し遂げる御業が天からの御業であることを信じていませんでした。主イエスの弟子たちですら、奥義に隠されており、この時点では理解することができませんでした。
 しかしこの盲人は、ナザレのイエスをメシアとして信じていました。これは彼が特別な能力を持っていたからではなく、神が憐れんでくださり、主イエスが救いをお与えくださるメシアであることを受け入れることができるように、主が聖霊をとおしてお働きくださったからです。かれにとってはこのとき、主の救いの業が実現する時であり、奥義が明らかにされる時でした。

Ⅳ.福音の拡がりと私たちの信仰
 盲人に示された救いは、主イエスの十字架と復活を経て弟子たちに示され、この福音が全世界へ、そして今、私たちへと伝えられています。自分は盲人でもない、捕らわれていない、圧迫されていない、と思われるかと思います。しかし、肉の死と滅びから逃れられないということではは、信仰的に盲目であり、罪の奴隷であり、サタンによって捕らえられているのです。私たちがこれらを受け入れ、主による救いを受け入れるために、主の御霊の働きにより奥義が明らかにされることが求められます。
 そして、奥義が明らかにされるのには、一人ひとりに、時が定められています。そして、一人ひとりに定められたときに、主は聖霊により私たちの石の心を砕いてくださり、信仰を告白するものとしてくださいました。まだ信仰を持っていない家族が親しい人にも、主がこうした時を定めておられ、信仰が与えられるときがくることを、私たちは主に委ね、祈り続けることが求められています。
 
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 「悪いことをした人でも救われる」  ルカ19:1~10  2023.12.3
 
 序.
 今日の説教題を「悪いことをした人でも救われる」としましたが、誤解されてはいけませんので最初に語りますが、悪いことをしても、誰でも救われると語っているのではありません。悪いことをした人でも、救い主イエス・キリストと出会い、罪の悔い改めが与えられたとき救われます。

Ⅰ.ザアカイの持つ問題
 主イエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(18:25)と語り、また盲人を癒やし「あなたの信仰があなたを救った」(18:42)と語られました。つまり自らの力で生き、救いを獲得しようとしても救いを得ることはできないが、何もなくても、神を信じ、主によりすがることにより、主は救いをお与えくださいます。
 ザアカイは徴税人であり、金持ちでした。しかし同時に、彼にはコンプレックスがありました。一つは背が低いことです。見かけにこだわる人は少なくなく、コンプレックスを持っている人も少なくありません。ザアカイもその一人でした。
 そしてもう一つ、徴税人としてローマに雇われた身、さらには必要以上の税の取り立てを行っていたことにより、同胞のユダヤ人からも罪人として見られていたことです。ましてザアカイは徴税人の頭でした。
 そのため噂となっていたイエスが通りがかり、一目見たいと思っても、誰も協力してくれません。そのためイエスを見ようとして、ザアカイはいちじく桑の木に登る行動を取らざるを得ませんでした。遠巻きに主イエスの姿を確認しようとしたのです。

Ⅱ.主イエスとの出会いと人々の目
 金持ちの議員が永遠の命を得ようとして主イエスの前に現れた時、主イエスの言葉に彼は非常に悲しみ、富にすがりついていました(18:22-23)。
 ザアカイは金持ちでしたが、人々から受け入れられない孤独感・劣等感があり、彼は今持っている富、地位や権威に固執しようとは思っていません。そして人々に受け入れられたい、安らぎの居場所が欲しいとの思いがあったのではないでしょうか。
 この時、主イエスはザアカイを見上げて、ザアカイの名前を呼ばれます。初対面ですが、主イエスはザアカイのすべてのことをご存じです(参照:ヨハネ4:16-18)。私たちは皆、主の御前に、名前ばかりか、日々の行い・言葉・心の中の思いもすべて知られており、何一つ隠しておくことなどできません。
 この時、これを見ていた人たちは、イエスを批判します。彼らにとってザアカイは、ローマに仕える犬であり、不当に税金を取り立てる罪人です。また、彼らはザアカイの心の奥底を知りません。
 しかし、主イエスは徴税人ザアカイの信仰を受け入れ、彼を神の子として受け入れてくださいました。人は表面で判断してはなりません。神の民か、罪人として主の裁きに遭う人であるのか、それを知っておられるのは主なる神だけです。主を信じる告白をした者に対する救いは、神の民として召されていることを確認できたとしても、それ以外の人たちに対して、私たちは救いの判断を下すことはできません。
 つまり主イエスを信じる信仰と周囲の人たちの反応は一致しないことがあります。表面的なことや身なりで、人を判断してはなりません。そのため教会は、教会に尋ねてくるすべての人を、温かく受け入れることが求められています。

Ⅲ.悔い改めが伴う信仰の告白
 そして、主イエスが自宅を訪れ、泊まることを聞いたザアカイは、すぐさま立ち上がり、主イエスに告白します。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8)。ザアカイは信仰を告白し、同時に罪を悔い改めます。自らの罪を受け入れ悔い改めがあるからこそ、自らの内に主による罪の赦しが必要であることを受け入れ、主による救いを確信することができるからです(参照:ウェストミンスター信仰告白15:2,5)。
 自分自身の罪が示された者は、救い主である主イエス・キリストと出会うことにより、キリストの十字架による無条件の罪の赦しが示されます。
 そしてキリストと出会い、信仰を告白し、罪を悔い改めた神の民は、生活そのものが変化します。つまり神の子に相応しい生活、罪から離れ、キリストに倣う生活へと促されていきます。これは救いを獲得する努力として行うのではなく、すでにキリストの十字架の贖いによる罪の赦し、神の子としての特権が与えられている者として、感謝と喜びをもって行うものとなるのです。
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 「神に従う者の生活」  ルカ19:11~27  2023.12.10
 
Ⅰ.キリストのエルサレム入城と人々の思い
 主イエスと弟子たちの一行はエルサレムに迫り、主イエスの十字架が目前に迫っています。しかし人々は主イエスが十字架に架かられることなど知るよしもありません。人々は、イエスが王として君臨し、ローマから解放されることに思いを寄せていました。この思いは熱狂的です(19:37-38)。
 しかしながら主イエスがエルサレムに入城されるのは、王になるためではなく、十字架に架かられるためでした。そのため主イエスは十字架と復活を予告され(18:31-34)、さらに主イエス御自身が地上からおられなくなったときのことを人々に伝える必要がありました。
 このことを主イエスは、王が旅立たれるたとえを通してお語りになります。高貴な人が、王位を受けるために遠い所に旅立たれることは、人々もよく知っていました。当時、ローマの属国であったユダヤでは、ユダヤを支配する権威を認めてもらうために、王はローマにまで旅だったのです。

Ⅱ.忠実な僕
 王は10人の人々に1ムナがそれぞれ与えられました(口語訳や新改訳では1ミナ)。1ムナは、100デナリオンであり、100日分の賃金です。私たちは、ここで、このお金がどのような目的で、王から僕たちに対して与えられたかを、考えていくことが必要です。
 このお金は、主イエスが不在の間すべての必要を主が備えてくださることを意味しています。出エジプトの荒野の40年、イスラエルの民は毎日マナやうずらの肉が与えられ、不自由はありませんでした。それと同じです。つまりここでのムナは、単なるお金ではなく、主がお与えくださる恵みでありプレゼントです。そして主は、私たち一人ひとりに、賜物(たまもの)として、各々異なった個性・特技・長所をお与えくださいます。
 カルヴァンの言葉を用いれば、私たちは「神の器」とされています。器だけでは何も役に立ちませんが、そこに神の恵み・賜物が注がれることによって、役に立ちます。
 そのため主人である主イエスが父なる神のもとに旅立たれても、私たちは心配する必要はありません。主は、私たち一人ひとりに必要な賜物を備えてくださいます。人それぞれ内容は異なります。生きていくために必要な特技、働き等必ず何かあります。
 私たちは、すでに罪の赦しに与った者でり、神に与えられている恵みに感謝して生きています。そして、神から与えられた恵み・恩寵を用いて、神に仕えていくことができます。初めの僕も、2番目の僕も「あなたの一ムナで~」と語っていますが、成功の秘訣はすべてを主に委ねることです。自分の力や努力で成功したと思うことに、人間の弱さや罪が潜んでいます。神の器に与えられた神の恵みムナは、ヨーグルトが自然発酵するように、育っていきます。

Ⅲ.悪い僕
 私たちが注目しなければならないのは、3番目の者です(20-21)。彼は主人を憎んでいました。彼は主の裁きに脅え、与えられたムナを失うことを極度に恐れます。
 このとき主人は語ります(23)。銀行に預けておくだけでも利子は付きます。今のように利子がほとんどない時代ではありません。利子は1割・1割5分(10%・15%)付いていました。1ムナが100万円であれば、1年で110万円・115万円になります。
 しかし彼は、タンス預金をしました。万が一にも銀行がつぶれ、資金が減ることを恐れたのでしょうか。石橋を叩いても、わたらなかったのです。それだけ、彼にとって、主の裁きは恐ろしいものでした。
 主なる神は、彼の罪を赦して、神の子として受け入れてくださろうとしています。そのために必要な賜物を与えてくださいました。彼は、その神の豊かな恵みを見ることなく、裁きを恐れています。そのため神の器として中にあるムナが役に立たない状況を作り出しています。
 つまり与えられたムナをどのように用いるのかによって、私たちの信仰が表れます。
 失敗してすべてを失うかもしれません。しかし主は、与えられた賜物を忠実に用いた結果であれば、そのことに対して裁かれる方ではありません。なぜなら主の懐には、有り余るものがあるからです。もし失敗して失ったとしても、とるに足らないことです。それよりも、わずかなものでも、忠実に用いる者を、喜んでくださいます。

Ⅳ.主から与えられた恵みに生きる
 私たちはすでに神の器とされ、そこにムナがそそぎ込まれています。だからこそ、私たちは今、主から与えられた賜物を用いて、主を証しして生きていくことが求められています(ウェストミンスター信仰告白16:2)。

 
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 「子ろばを準備する」  ルカ19:28~36  2024.1.7
序.
 主イエスと弟子たちの一行は、ガリラヤからエルサレムに向けての旅を終え、いよいよエルサレムに入城しようとしています。主イエスの心は十字架に向いています。エルサレムに入ると、主イエスとファリサイ人・律法学者との対立はますます激しくなります。結果的に主イエスはユダヤ人たちの手によって十字架に架けられますが、主イエスは御自身の意志により十字架を引き受けられ、苦い杯を受け取られました。それは、罪人である私たちの罪を贖い、私たちが神の子として神の国に入るためでした。

Ⅰ.子ろばに乗ってのエルサレム入城
 十字架に架けられる主イエスが、都に入るために選ばれたのは、子ろばです。救い主が都に上るにしては、なんとも貧弱です。子供の芝居の様な光景です。しかし主は、勇ましい馬を喜ばれるのではありません(詩147:10)。子ろばは平和の使者だからです。
 このことは主イエスの生涯を象徴しています。馬小屋の飼い葉桶にて生まれられた主イエスは、生涯遜りの歩みでした。そして十字架に架かられます。
 このことはゼカリヤ9:9-10に預言されていました。このお方が戦車・軍馬を絶ち、平和を告げられます。
 今なお世界は戦争を行い、力による支配が行われています。しかしキリストがエルサレムに入城し、十字架の御業を成し遂げることにより、真の平和が訪れました。罪が取り去られ、サタンが滅ぼされます。そしてキリストが再臨された時、神の国が完成し、真の平和が実現します。この時の状況が、イザヤ11:6~9aに預言されています。

Ⅱ.真っさらな子ろばを用意しろ!
 「いと高きところには栄光、神あれ、
  地には平和、御心に適う人にあれ」
(2:14)と呼ばれた救い主は、(19:38)
 「主の名によって来られる方、王に、
  祝福があるように。
  天には平和、いと高きところには栄光」
と呼ばれ、エルサレムに入城します。
 それは「まだだれも乗ったことのない子ろば」(19:30)です。旧約のイスラエルの民は、初子・初物を献げるように求められました。主イエスが、まっさらの新しい子ろばが与えられることは生け贄として献げられるために、ふさわしいことでした。
 今日は聖餐式がありませんが、私たちは、十字架に献げられたキリストを覚えつつ、今も礼拝を献げています。だからこそ、主を礼拝する私たちも、真っさらな心で、主を礼拝することが求められます。そのため健康管理・御言葉(心の準備)・献金・奉仕の準備を行うことにより、最善を尽くして礼拝に出席することが求められます。

Ⅲ.弟子たちの様子
 ここで弟子たちが果たした役割が語られています。これは私たちにとりましては、重要なことが語られています(19:30-35)。
 弟子たちは、すべてが準備された通りに行っただけで、小さな子どもがお使いに行くようです。主イエスの言葉は、実現します。私たちは神の言葉を疑うことなく、聞き従うことが求められています。
 聖書の御言葉は成就します。アブラハムも、モーセも、主の言葉に従いました。主イエスの昇天後のペトロやパウロも同じです。彼らの働きを私たちには真似することはできないでしょうか。しかし彼らは、聖霊を通してお語りくださるの声に耳を傾け、それを実行しているにすぎません。彼らの働きの素晴らしさは、彼ら自身から出てきたものではなく、神の御霊によって賜物が与えられ、行ったに過ぎないのです。
 それぞれ与えられている賜物は異なります。主のお語りくださる御言葉を疑うことなく信じて、各々与えられた賜物を用いて、主のために仕えていくことが、私たちには求められています。私が説教を語ることも同じです。自分で、「何か、語ってやろう」と思うと、説教を語ることなどできません。実際には聖書や注解書などを調べながら考えるのですが、それらの行為を通して、必要な言葉を、聖霊を通して、主がお与えくださいます。だからこそ、皆さまも、力のない私の言葉を聞くのではなく、聖霊を通してお語りくださる力強い神の御言葉を、説教という形で聞くことができるのです。
 主が命じられた通りにすればよいのは、私たちの全生涯を考えてみても同じです。どんなに心配しても、主が道を備えてくださり、必要な道を切り開いてくださいます。私たちは、その道を子どものように従順に、従って歩むことが求められています。
 子ろばに乗ってエルサレムに入城されたキリストは、すでに十字架の御業を成就し、私たちに罪の贖いと救いを成し遂げてくださいました。キリストが再臨されたとき、私たちの救いが完成し、真の平和が実現します。だからこそ私たちは、平和の使者であるキリストを信じ、キリストがお与えくださった御言葉に聞き従った歩みを行っていくことが、今日も求められています。

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 「子ろばで入城する」  ルカ19:37~44  2024.1.14
 
 Ⅰ.キリストがエルサレムに入城することにより
 メシアであるイエス・キリストが都に凱旋し、十字架に架かるのは、ユダヤ人たちに逮捕されることによって行われますが、主の御業が明らかになることであり、主イエスが主権を担っておられるからです。
 このとき、イエスを救い主として喜び信じる者たちと、反対者とに分かれます。
 「弟子たちの群れがこぞって、…声高らかに神を賛美し始めます」(37)。他の福音書は「大勢の群衆」(マタイ21:8、ヨハネ12:12)、「多くの人」(マルコ11:8)と語りますが、ルカは「弟子たちの群れ」と語ります。ルカは、彼らは主イエスによって救いに与る神の民として私たちに語りかけます。
 ここでは、神の御国が完成し、キリストが神の御国に凱旋して迎えられる天の出来事が象徴的に示されています。だからこそ、大勢の群衆もまた、主イエスによって救われる弟子たちに数えられているのです。

Ⅱ.すべての人に救いが提示されている
 このとき、主による救いに入ることを、自ら否定する者たちは、自らの言動によってそれを明らかにします(39)。
 「神は、なぜすべての者を救わないのか。それが真の愛ではないか」と言ったことが語られることがあります。しかし、裁きを神の責任にしてはなりません。聖書は、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」(使徒16:31)と語ります。主なる神は、救いのために、他に何の条件も求めておられません。
 私たち人間は、すべての者が肉の死を避けて通ることができません。生まれながら、そして毎日行い・言葉・心の中で罪を犯す罪人です。しかし主なる神は、滅びではなく、罪を赦す救いの道をお示しくださいます。それが、イエス・キリストを救い主として受け入れ、信じることです。これを拒否しなければ救われます。
 主イエスのエルサレムへの凱旋に対して「否」を唱えることこそ、主イエスを拒否する行為です。自らの言動により、主による救いの提示を拒否しています。それ故に、裁きを逃れることはできないのです。

Ⅲ.主イエスの御業は、平和の実現のため!
 御子の十字架により救いが完成することを救いに与る者は黙っていられません(40)。一方主イエスは、涙を流されます(41)。皆が救われ、滅びてほしくないからです。
 今の世の中、罪の故に争い・虐げ・搾取が行われ、その結果、弱者が取り残され、苦しんでいます。主イエスの十字架により、平和の道が据えられます。このとき、真の平和を求める者は主イエスを否定しません。主イエスを否定するのは、真の平和を実現する主イエスの御業を否定しているからです。主イエスの御業により自分たちの得が取り除けられることを知っているからです。

Ⅳ.平和を実現する神の御子
 主イエスは 「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない」(42)。とお語りになります。聖書には「奥義」(新共同訳「秘められた計画」、協会共同訳「秘義」)と訳されている言葉があります。つまり伝道し福音が語られるとき、聖霊が働き、今まで信じることができなかった主による救い、キリストの十字架の御業を受け入れ、信じることができるようにされます。これは見えなかった者が、主によって見えるようにされた結果です。「石の心が取り除かれ、肉の心が与え」られ(エゼキエル36:26)、「目からうろこが落ち」ます(使徒9:18)。
 キリストが再臨され、神の国が完成し、真の平和が実現するとき、最後の審判が行われます(43-44)。このときになお主イエスによる平和の到来を拒否する人たちに対しては、主による裁きが行われます。
 多くの場合、戦争は「平和のために、罪を除去するため」と語られます。聖書が語ることと似て非なるものです。旧約における聖絶は主の命令でした。一方新約の時代、主イエスは、罪を赦し・和解・復讐ではなく敵を愛することを求めておられます。主は、私という罪人の罪を赦し、救いをお与えくださいました。敵に対しても同じ愛が語られています。だからこそ、私たちは神の側に立ち彼らを裁くのではなく、和解し、罪を赦す、愛することが求められています。
 だからこそ、私たちは、一方的に攻められ、迫害されることに対して抵抗する以外に、いかなる戦争にも反対します。
 キリストが再臨はまだ来ていません。これは、主に逆らっている人たちの中にも、罪を悔い改め主を信じる人がいるからです。最後の一人が救われるまで、最後の審判は猶予されています。
 だからこそ私たちは今、伝道し、福音を伝えることが求められています。
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 「神の宮」  ルカ19:45~48  2024.2.4
 
 序.
 主イエスは、十字架にお架かりになるために、エルサレムに入られました。主イエスがエルサレムに入城して最初に行ったことが、商人を神殿から追い出すことでした。神の宮である神殿から商人を追い出すことは、救い・信仰の本質に関わることです。

Ⅰ.救われるためには…
 世界は、終末、神の国の完成に向けて向かっていますが、罪を犯した人は皆、罪の刑罰として死と滅びに向かっています。
 キリストの十字架は、罪人の罪が贖われ、神の国における永遠の生命を得るためです。
 この神の国に集められる人々は、救い主イエス・キリストを受け入れ、信じます。そして神を信じる者は、安息日である主の日を大切にして守り、悪事から離れます(参照:イザヤ56:2)。
 神を信じるとき、神を神として崇めます。それが神礼拝です。教会では、「安息日厳守・礼拝厳守」とで語られてきました。確かに、礼拝こそが、救いの喜びを顧みるときです。罪に満ちている私たちが、この恵み深い神から離れないために、主は週に一度、主を礼拝することを求めておられます。
 しかしまだ神を信じていない人たちに礼拝厳守が語られたとき律法主義となります。救いを獲得するために、礼拝に出席しなければならないのではありません。
 主なる神は、神の国における永遠の生命、永遠の安らぎを、礼拝全体によりお示しくださいます。ですから「安息日を守る」のは、主により救いが示され、信仰を告白した者が、感謝と喜びをもって集うことが求められているのであって、まだ信仰をもっていない人に強制してはなりません。
 そして、神の国の祝福に入るために、悪を行い神から離れることがないように、良き生活を心がけることが求められています。神が私たちに戒めとしての十戒をお与えくださったのは、私たちを救い、神の民として、罪から守ってくださるためです。そのため律法を守り悪事から離れなければならないのではなく、悪事によって罪を犯し滅びることなく、神の救いに与るために、律法を守り悪事から離れることが求められています。だからこそイザヤ書においても「自戒する人は」(56:2)と語り、心がけることが大切であり、罪を行ったら、即「滅びだ」と語られているのではありません。

Ⅱ.救いには、民族・身分による区別はない!
 イザヤは、異邦人でも宦官でも救われると語ります(56:3-6)。別の言い方をすれば、肉においてイスラエルでなければ救われないのではなく、どのような民族であっても、どのような身分であっても、神の救いの条件には関係がありません。救い主である神を信じれば良いのです(参照:使徒16:31)。主なる神を信じる者に対して、無条件の救いが提供されています。

Ⅲ.神の宮・教会とは何をする所か
 つまり、神殿である神の宮・教会で求められていることは、純粋に神を求める人が集まり、主のお語りになる御言葉に聞き、祈りを献げる場所であることです。
 主の御言葉に聞くとき、主に対するおもてなしすら、後回しでかまわないのです(マルタとマリアの例:ルカ10:38-42)。
 当時、神殿では生け贄が献げられます。この時に、生け贄に献げる動物を準備しておかなければなりません。しかし便利なようにと、神殿の境内において、それらを販売する人たちが出て来たのです。しかし主イエスは、その行為を「あなたたちはそれを強盗の巣にした」とまで語り、叱責されました(46)。
 主イエスの言葉は、今、神を礼拝している私たちに対しても語りかけておられます。
 確かに神殿で必要なものがそろうことは便利です。しかし便利さは、時として物事の本質を見失わせます。つまり、礼拝を献げる者の姿勢、信仰が問われています。
 私たちは大切な仕事をする時、旅行する時、前もって準備します。それと同じです。主なる神を礼拝するために、日頃の準備以上に、備えなることが求められています。これが神を救い主と信じて、神を第一に、神中心に生きるということです。
 私たちは日々多忙に生きています。礼拝に出席するために、土曜日にできる限り仕事等を片づけておくことが必要です。肉体的に疲れているならば、前もって休息を取ることも大切です。何よりも、神を礼拝するために、その時間を確保しておくことも大切です。献金を献げるために準備しておかなければなりません。奉仕する者は、その準備を整えておくことが求められます。
 主イエスは、救いに与った私たちが主を礼拝するすることの意味、信仰の本質が何かを、私たちに問いかけておられます。
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  「神の権威」  ルカ20:1~8  2024.2.11
 
 
Ⅰ.神の権威とは……
 祭司長・律法学者・長老たちユダヤ人は、イエスを殺そうと謀り、主イエスのところに近づいてきます(19:47~48、20:1)。そして、「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」と語ります(2)。ユダヤ人たちは「遂にこの時が来た」と思ったことでしょう。
 ユダヤ人たちは主イエスに対して「あなたは神としての権威はどこにあるのか」と尋ねます。彼らはこのようなことは証明できないと思っています。つまり、「あなたは目に見えない神が存在することを証明することができますか?」ということが問われます。神が存在すること、神の権威が自らに与えられていることを、他人に説明することは、非常に難しいことです。
 祭司長は按手を受けていたことでしょう。律法学者や長老も、教会の権威として自分たちは認められていると思っています。しかし現実はどうでしょうか? 祭司は本来世襲制でした。アロンの一族・レビ族でなければなりません。ところがこの当時、政治的に権威を得た大祭司は、ヘロデ大王の任命となり、レビ族とは関係なく、大祭司として任職されていました。ですから、約30年の間に30人の祭司長が任命されています。短ければ1日で交代したこともあったということです。つまり、彼らは自分たちにこそ権威があると思っているのですが、主なる神によって与えられた権威ではなく、形式的な権威に過ぎませんでした。

Ⅱ.神の権威
 しかし真の権威は神御自身から発出し、神ご自身の力が備えられています。そして神の権威を有することにより、偽物をうち砕く力を持ちます。偶像を破壊する力が備えられます。
 教会の牧師もまた、使徒ペトロより受け継がれてきた教会にある神の権威により按手を授かり、任職しています(マタイ16:17-19)。そのため牧師が真に主の霊に満たされ、主の御言葉を解き明かす時、教会の周囲に存在する様々な力にうち勝つ力を有します。神の権威があるからこそ宣教は広がります。神の権威は、人間的なものではありません。主なる神が聖霊をとおして働かれるため、神の権威が与えられ、力を持ちます。
 そして神の存在・神の権威は、神の御言葉である聖書、そしてそこに霊である聖霊の働きによって、示されます(ウ大教理問2)。
 神の御言葉が発せられたとき、神の義・聖・真実が明らかになります。そして、不義(罪)・不潔・嘘が暴かれます。神の御言葉は、周囲の人たちの態度を見て、話すことが変更されることなどあり得ません。

Ⅲ.人間的なことは明らかになる!
 このとき主イエスは、ユダヤ人たちに、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも人からのものだったか」(4)と問われます。この質問の意図は、彼らの上っ面な権威を暴き、人間的な策略であることを明らかにするためでした。
 彼ら自身は、「ヨハネの権威は人からのものだ」と思っていました。しかし人々は、ヨハネは神から与えられたものと信じていました(参照:ルカ7:28-30)。彼らは人々の反感を恐れていました。
 かと言って、彼らは自分の信念を曲げてまで「ヨハネは天からのものだ」とも言えません。ヨハネを天からのものだと認めるとき、主イエスもまた天からのものであることを受け入れざるを得ないからです(参照:3:16)。そのため、彼らは答えることができませんでした。
 このことにより、ユダヤ人たちは神の権威に生きることなく、人を見て、人間的な損得勘定によって生きていることが明らかになりました。彼らはかたちにおいては、神に仕えているようでありましたが、実態は神を信じることなく、自分たちの都合の良いように生きていたのです。このことを主イエスによって暴かれました。

Ⅳ.神の権威に生きるキリスト者
 神によって与えられた真の権威は、不義・不潔・嘘を暴き、その上で真実・事実を明らかにします。事実を隠したり、歪めたりする必要はありません。真理が時と場合によって違ってくることなどありません。
 主イエスはこの後、十字架に架かり、死と復活を成し遂げてくださいます。この主イエス・キリストの十字架と復活こそ、御自身が神の権威を持っておられ、さらに神御自身であることを証しされた結果です。イエス・キリストを真の神と認めるとき、私たちもまた、キリストの十字架の御業に与り、罪の赦しと救いに入れられます。
 私たちは、人間的な権力や人の目を気にするのではなく、神の権威・神の御言葉に聞き従うことが求められています。

 
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  「神の恵みと神の忍耐」  ルカ20:9~19  2024.2.18
 
 
序.
 主イエスは、逮捕され十字架に架かるために都エルサレムに登ってこられました。そして、神を礼拝することこそが大切であり、神の宮において商売を行ってはならないことを語りました。また20章に入り、ユダヤ人たちが「何の権威でこのようなことをしているのか」との問いかけに対して、ユダヤ人たちこそが、旧約聖書によって示されている神の権威を無視し、自分たちの都合に合わせていることを語りつつ、御自身は主が指し示した洗礼者ヨハネによって指し示されたメシアであることを、暗に語りました。

Ⅰ.主人を裏切る農民
 主イエスは民衆に一つの例え話を行います。農夫は、主人からぶどう園を与っていました。つまり、農夫は労働の対価として、正当な報酬は求められます。しかし、そこでの収穫物は基本的に農園主のものです。そのため農園主は、その農夫の収穫に応じて農夫に報酬を支払います。この当時の主人は1/3~1/4を自ら受け取り、残りを報酬として与えていたとされます。「1/3も搾取される」のは多いように思いますが、実際には主人のものの内から2/3を受け取ることが許されていたのです。
 このことは私たちと神の関係と同じです。天地万物は主なる神が創造され、統治されています。私たちが自分の所有物だと思っているすべてのものは、すべてが神の所有物です。主の祈で「今日も、日用の糧を今日も与え給え」と祈ります(参照:ウェストミンスター小教理問104)。つまり、私たちは必要な糧・日用品・家・働き場・賜物すべてを神から与っています。
 この当時、アブラハムの時代とは異なり、神が直接イスラエルの民の前に表れることはなく、すべて預言者を通して御自身の御言葉を伝えておられました。それが、主人が農夫たちのところに僕を送ることです。

Ⅱ.農民の罪
 ところがここに罪が混入します。罪の故に、自分が主人になろうとする欲望が出てきます。この様なことはあらゆる社会において考えられることです。年長者と年下者、親子、上司と部下の関係等です。これらの秩序を否定すると、社会そのものが歪みます(参照:ローマ13:1-2)。神を否定する・偶像を拝む・罪を犯すことが求められない限り、上に立てられた権威に従うべきです。
 このように社会の秩序を守らないと、信仰においては汎神論・無神論の扉を開くこととなります。神がいないのと、神が姿を現されないのとは、まったく違います。存在されるが、姿を現されていないのです。それがここで旅立たれた主人です。
 主人は農夫の所に僕を送ります。農夫は、主人のことなど忘れ、自分のことだけを考えています。三人の僕を相次いで、袋たたきにしたりして追い返します。その間、主人は忍耐し、彼らが悔い改めるのを忍耐して待っていてくださいます。旧約の時代、主は預言者を送りましたが、イスラエルは、預言者を迫害したり殺したりしました。
 パウロは「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」と語ります(Ⅰコリント3:6-7)。働いたのは確かに農夫です。しかし、主の許し・恵みがなければ、農作物は実ることがありません。それを人間は忘れたのです。
 農夫は目の前にある収穫物しか見ておらず、主人を見ていません。今、神の存在を見ることができないことから、人々は神はいないことにしてしまったのです。

Ⅲ.世に送られた神の御子
 主人は、最後に愛する息子を農園に送り込みます。それがイエス・キリストです。ここに神の愛が表れています(ヨハネ3:16-17)。
 しかし、主人の息子がぶどう園の外にほうり出され、殺されたように、ユダヤ人は、御子イエス・キリストを、神の宮エルサレムの外ゴルゴダの丘に連れ出し、十字架に架けます(参照:ヨハネ1:10-11)。
 現代社会では、文化・科学技術文明が発達しています。携帯・インターネット抜きの生活など考えられません。しかしすべては人間の生活向上のために主がお与えくださった恵みです。この神の恵みを忘れ、自らが誇るための道具にしてはなりません。
 キリストは十字架の死を遂げ、三日目の朝に甦られました。隅のかなめ石になったのです。パウロは「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。……イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」とパウロは語ります(Ⅰコリント3:10-11)。家を建てる時、堅い地盤に杭が届いていなければ家は傾きます。届かない所に要石を置きます。据えられた要石が抜き取られれば、家は崩れていきます。

結論.
 「神はいない」のではなく、神は今、神の御国に旅立たれています。しかし主は、私たちの要石として、キリストをお与えくださいました。そして神は、私たちが生きていく上で必要なものをすべて備えてくださっています。私たちは、神に感謝し、救いを喜びつつ、主に仕えていくことが求められています。
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「神の支配と世的支配」  ルカ20:20~26  2024.3.3
 
Ⅰ.教会に襲いかかる信仰の戦い
 ユダヤ人たちが、主イエスの言葉じりをとらえようとしています(20)。そして彼らは、主イエスの所に、正しい人を装う回し者を遣わします(20)。彼らは神の民キリスト者を惑わす者であり、神を裏切る者、神に敵対する者のことです。現在においてもキリスト教会に正しい人を装って集う者がいます。こうしたことが教会内で現れると、教会は混乱に陥ります。
 彼らが教会に現れたとき、私たちが最初にしなければならないことは、彼らの目的を知ることです。相手を知らなければ、戦いようがありません。このとき主イエスの所に近づいてきた者たちは、主イエスを捕らえさせるきっかけを作りたかったのです。
 彼らは、言葉巧みに人を騙そうとします。人類の最初の罪は、悪魔である蛇が言葉巧みに騙して、人間に罪を犯させました(創世記3章)。言葉じりを捕らえようとする、また言葉巧みに人を騙そうとすることに、私たちは用心しなければなりません。
 そのために私たち自身は、主なる神を知り、神が私たちに何を求めておられるかを、主の御言葉より聞き続けることが求められており、備えをすることが必要です。つまり教会に襲いかかる問題に関して、私たち一人ひとりが、信仰の武具を身に着けることが必要です(参照:エフェソ6:11-18)。

Ⅱ.税金の問題
 彼らは主イエスに税金を皇帝に納めるべきか否かを問いかけます(22)。彼らの狙いはイエスを逮捕し、国家反逆罪として裁くことでした。イエスが「税金は皇帝に納めるべきではない」と答えると答えると、ローマに対する反逆罪となります。一方、主イエスが「税金は皇帝に納めるべきだ」と答えると、民衆が主イエスに敵対し、自分たちに味方すると考えたのです。つまり彼らにとって、主イエスがどちらに答えても、自分たちに味方するとの質問でした。
 主イエスは彼らのたくらみの見抜き、その質問をかわす如くに答えられます。これは、罠を仕掛ける者たちの意図を知り、賢く対応した結果です。これが信仰の武具を身に着け、賢く対応することです。

Ⅲ.教会と国家の関係を考えよう!
 その上で、主イエスは「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか」と語り(24)、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられます(25)。
 「皇帝のものは皇帝に」つまり主イエスは為政者が国を治めることを認めておられます。キリスト者も、政治と無関係に生きることを、主イエスは求めておられません。
 旧約の時代、主はアブラハムを召し出し、神の民としてくださいました。この時、神はイスラエルに対して、アブラハムをとおして信仰による救いと共に、生活に必要なすべての面倒を見てくださいました。つまり、神が王としてのお働きも行っており、イスラエルの民を統治していました。
 しかしイスラエルの民は、他の国と同じように、王を求めました。その結果、主はサウロを立て、その後にダビデを王として立ててくださいました。神の民イスラエルに立てられる為政者・王は、主なる神への信仰を表しつつ、同時に、民の生活、民の平和のために政治を行うことが求められています(参照:ウェストミンスター信仰告白23:1)。
 そのため、献金において教会を支えるように、国に税金を納めることが求められます。主は、上に立つ権威に従うことを求められます。「今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(ローマ13:1)。しかし、「権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです」(ローマ13:6)。為政者が神の求める生活と平和の実現から外れた政治を行う時、つまり偶像崇拝に仕えること、罪を犯すことを求めるとき、キリスト者はそれに従う必要はありません。
 一方、主イエスは「神のものは神に返しなさい」(25)ともお語りになります。第一のものを第一とすることを忘れては、本末転倒となります。主が私たち人間を創造し、生命をお与え下さいました(創世記1:27) 。私たち人間は神によって特別に祝福され、神からの多くの恵みが与えられています。
 また、私たちがキリスト者とされ罪が赦され神の子とされるために、キリストが人としてお生まれくださり、十字架で苦しみ、死と復活を成し遂げてくださいました。そして神の国の完成の時、私たちは裁かれることなく神の国に迎えらます。
 つまり献金を献げるのは主によって罪が赦されて救われたキリスト者の感謝の表れです。神を礼拝し・献金を献げることを疎かにして、神を信じているとは言えません。
 
 
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「家族と復活の生命」  ルカ20:27~40  2024.3.10
 
Ⅰ.「サドカイ派」と「復活」
 主イエスは度々ファリサイ派と共にサドカイ派の人々を非難されます。ファリサイ派は分離主義者であり、律法を建前にした自分たちの作った規準に生きる人々と、それを守ることができない人々とを分け隔て人々を裁く人たちでした。
 一方サドカイ派は現実主義者であり、権力と結びついていました。当時のイスラエルはローマの属国であり、ローマ権力と結びつくことは、世俗であり、聖書の御言葉よりも、世の常識・為政者の都合に合わせて生きることを意味しています。彼らも「聖書を信じる」と語りますが、モーセ五書のみを重んじ、預言書などは軽んじていました。その結果、罪と向き合うことがなく、信仰は世俗的であり、現実主義者でした。
 現代においても旧約聖書が軽んじられることにより、罪が指摘されて罪の悔い改めが求められなければ、教会は世俗的になります。だからこそ、聖書のみと共に聖書全体であり、旧約も疎かにしてはなりません。
 こうした世俗化したサドカイ派の人々は終末における最後の審判や、復活を信じることはありませんでした。「復活」を否定し、神の国・天国を否定するならば、私たちが神を信じている理由はなくなります(参照:Ⅰコリント15:32)。その結果、自分勝手な自己中心の信仰・生活となり、世俗の社会・神を信じない社会につながります。

Ⅱ.もはや死ぬことはない神の民
 そうした背景にあって、サドカイ派の人々は、主イエスに質問を行います(28~33)。これは申命記25:5~6に基づいています。このことを忠実に守るならば、復活した時、女は誰の妻なのかという問いかけです。復活を信じないサドカイ派の人々は、復活信仰の矛盾点を攻撃しています。
 しかし、地上の生涯と神の国・天国における生き方とは異なります。天国においては、現世における人間関係とは異なったものです。復活した体は親も子も、また夫も妻もありません。すべての者が神の子です。
 主イエスは「この人たちは、もはや死ぬことはない」と語られます(36)。「死ぬことができない」のです。「義とされるすべての者を、神はそのひとり子イエス・キリストにあって、また彼のゆえに、子とする恵みにあずかるものとされ」(ウェストミンスター信仰告白12章)、「罪も苦しみも悲しみもすべてが取り除かれ、そして神の御前にあって、讃美と喜び、さらには多くの親しい人たちとの交わりの中に、生き続けるのです。ここにこそ、キリスト者としての喜び、祝福、平安があるのです」(Ⅰコリント15:43)。
 神の国では、すべての者がキリストを長子とする兄弟姉妹です(ローマ8:29-30)。つまり、この世における人間関係である夫婦・親子・兄弟の関係が破棄されるのではなく、義とされ聖とされた者として、まったき理想の愛が実現します。教会にあって、「兄弟姉妹」と言う呼び方がされるのは、全ての者が、神の国においては神の子としての兄弟姉妹だからです。

Ⅲ.生きている者の神
 また主イエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(38)と語ります。ここは出エジプト記3章の引用ですが、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と語り、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」と過去形では語らず、現在形です。つまり今もなお、神によって捉えられ義とされたアブラハム・イサク・ヤコブは、生きているのです。彼らの霊魂は、神によって義人とされ、神の栄光の内に生きているのです。
 つまりキリスト者が肉体の死を遂げる時、ただ単に動物の命がなくなるのと同じような概念で考えるべきではありません。つまり人間は肉体の死を遂げても、なおも霊魂は完全に聖くされ生き続けます。だからこそウェストミンスター小教理問1は、「人間の生きる目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」と告白します。
 私たちはこの後、聖餐式に与りますが、罪の故に朽ちゆく者が朽ちない者になるために、憐れまれぬ者が憐れまれる者へ、罪あるものが罪のない者へとされるために、御子イエス・キリストが十字架に架けられ、肉体の苦しみと死を遂げられました。聖餐式はこのことを記念するために、行われる礼典です。私たちは、聖餐に与ることによって、繰り返しキリストの十字架の贖いによって罪赦され、肉体の死を遂げてもなお、永遠の生命、神の祝福にあることを、心に覚えます。だからこそ私たちは、この世の生活に束縛されるのではなく、神の国の希望、喜びに胸をときめかしながら、日々歩み続けることが許されています。
 
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 「ダビデが主と呼ぶ者」  ルカ20:41~44  2024.4.7
 
 
序.
 主イエスは、十字架にお架かりになられるためにエルサレムに昇ってきました。そして主イエスは、神の宮について、神の権威について、復活について律法学者やサドカイ人たちと議論してきましたが、最後に、イエス御自身が何者であるかと明らかにされようとします。

Ⅰ.ダビデのことは何ぞや…
 ルカは福音書全体をとおして、イエスは主、神の御子、救い主であることを語り続けてきています。しかし問題となるのは、ユダヤ人たちがイエスについてどのように思い、何を期待しているのかです。人々は、「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」「預言者が生き返った」(9:18-20)と語っていました。
 そして主イエスは、「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と問いかけられます(41)。
 主イエスが家系においてダビデの子、ダビデの子孫であることは明らかです(マタイ1:1、ルカ3:23-38)。またルカは主イエスの誕生の次第において、イエスがダビデの家に属することを語ります(ルカ1:27,32,69、2:4)。
 またこのことは、旧約聖書においてもダビデへのナタンの預言において語られてきたことです(サムエル下7:12-13)。
 主イエスは、ダビデの子孫としてお生まれになられました。つまり、イスラエルが神の民として特別に召されたのは、まさにアブラハムの子、ダビデの子として、救い主メシアがお生まれになられることに尽きます。そのため主なる神は、イスラエルが罪を繰り返し、バビロン捕囚として裁かれる時にも、イスラエルを滅ぼし尽くすことはなさらず、残りの民を約束の地エルサレムに帰還させてくださいました。
 しかしユダヤ人たちが「ダビデの子」と呼んでいるこの称号は、単にダビデの子孫としての「ダビデの子」ではありません。当時の時代背景を私たちは理解しなければなりません。
 ユダヤ人たちは、ローマの属国とされていたイスラエルを、ダビデの子であるメシアが解放するという政治的指導者を求めていました。つまりここで主イエスが「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」(41)と語られたのは、こうした人々の持っている政治的な指導者としてのメシア像を否定することが目的でした。

Ⅱ.勝利者イエス
 続けて主イエスは、詩編110:1を引用して語ります(42)。この詩編は、ダビデの子であるソロモンの即位に際してダビデが歌ったものです。そして最初の『わが主に賜った主の御言葉』とは、ダビデの子として誕生するメシア預言とされ、このメシア預言は、主イエス御自身に対して語られていると、主イエスは語ります。
 そしてダビデの子としてお生まれになられたメシアは、同時に主の右の座にお着きになられる方であることを、主イエスは、自らここで語られています。
 このお方が、「父なる神の右の座に就」きます。王としてのイエスであり、キリスト王権です。主イエスは復活を遂げられた後に、天に昇って行かれ、父なる神の右の座に就かれたのです。
 また主イエスは、「わたしはあなたの敵をあなたの足台にしよう」と語ります(43)。これは敵であるサタンに対する勝利を宣言されています。これは原福音(創世記3:15)の約束が、キリストの十字架と復活、そして再臨と神の国の完成において、成し遂げられることを、主イエスは私たちに語りかけています。
 つまり主イエスは、単にダビデの子孫としてお生まれになられ、政治的な指導者なのではなく、神に等しいお方、私たちの救い主であられることを宣言されています(参照:ウェストミンスター小教理問26)。
 ここに律法学者たちが思い描いていたメシアと、神の御子イエス・キリストとの大きな違いが明らかになります。主イエスは、律法学者の考えているような政治的な指導者でも、イスラエル民族の中でのみ通用する様なメシアでもありません。ダビデとの関係で、単なる肉的な繋がりを語るものでもありません。ユダヤ人たちは、主イエスの霊的な側面を理解していませんでした。
 主イエス・キリストは、十字架の死と復活の後、主なる神の右の座にお着きになります。そして創造主・統治主なる父なる神に等しいお方であられ、全世界・宇宙を治めるお方です。
 私たちは今、このイエス・キリストによる救いに与り、永遠の生命と神の国の祝福が約束されています。キリストによる救いに希望をもって日々歩み続けましょう。
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 「上席を好む者」  ルカ20:45~47  2024.4.14
 
 序.
 主イエスは、十字架にお架かりになられるためにエルサレムに上ってきました。そして主イエスは、神の宮において、神の権威について、復活について議論し、そして前回イエス御自身が何者であるかと明らかにされました。そして今日の御言葉では、イエス・キリストの前に立つ律法学者や私たちは何者であるかを明らかにされようとしています。つまり神殿において、誰が主を礼拝するのかを問いかけておられます。

Ⅰ.「律法学者」としての肩書き
 律法学者は、旧約聖書の律法を専門に研究・解釈して民衆に教えていました。また最高法院の議員として社会的にも尊敬されていました。そして彼らは人々とは違った長い衣を身にまとっていました。
 神に仕える働き人は、働きは違っても、特権階級ではありません。その働きの故に人々から敬われることがあっても、他者に誇ることではありません。
 しかし「律法学者」という肩書きを持ち地位に就くこと、特別な身なりをすることにより、自分は他人よりも優れた者として錯覚してしまいます(46)。このとき、人々に対して虐げを行います(47)。

Ⅱ.主の御前に生きるキリスト者
 他者との間において優劣を競って生きること、そして自らの価値を誇るとき、私たちは、主なる神が不在となっています。
 つまり私たちが主なる神を信じ、主の支配に生きるとき、主の御前に生きる自分の姿を顧みることが求められます。主は天地万物を創造しすべてを支配しておられます。私たちも主により創造され、生命が与えられています。このとき同時に主は私たちのすべてを知っておられます。そして、行い・言葉・心の中のすべてが、十戒で代表される律法により主の義・聖・真実において吟味されます。生きて働く主なる神の御前にあって私たちは皆が罪人です。全的に堕落しています。そして罪の刑罰は死です(参照:創世記2:17)。だからこそ日々主の御前に罪を犯す私たちは、誰一人自分の力で永遠の命を獲得することはできません。
 しかし主は、御子イエス・キリストを私たちにお与えくださいました。私たちの罪を担い、十字架にお架かりくださいました。十字架は、主を信じる者のすべての罪の贖いです。だからこそ主なる神を信じる者は、キリストの十字架の故に罪が赦され、神の子として神の御国が与えられます。私たちはこの後聖餐の礼典に与ります。献げられたパンは十字架で裂かれたキリストの体を指し示しています。ぶどう液は十字架で流されたキリストの血を指し示しています。
 つまり主なる神を信じ、キリストの十字架の御業を受け入れるとき、私たちは何も誇ることはできません。ただキリストにより与えられた罪の赦し、日々の生活に与えられた恵みに感謝して生きるのです。
 人それぞれに優れたことを持ち合わせています。教会に来られている方の中にも、御言葉を取り次ぐ牧師、教会を治める長老、愛の業を司る執事、奏楽者、教会学校の先生方、週間に来られ掃除をしてくださる方もいます。社会においても、それぞれのもっているものを用いて、働いておられます。
 それぞれが異なった個性があるからこそ、社会が形成され、また教会が形成されていきます(参照:Ⅰコリント12:12-15、同12:21-28)。

Ⅲ.キリスト者として生きるとは
 それぞれは働きの違いがあっても、主の御前には一人ひとりが尊い存在です。誰一人欠けてもいけません。そうであるならば、優劣を付け、自らを誇ることは不毛です。他者は自分にはない優れたことがあり、それを尊重し合うことが求められます。持っているものがあれば、分け合います。地位ある者・財がある者は、持っていない者に分けることが主から求められています。
 最初にウェストミンスター大教理問129を問答しました。これは十戒の第五戒「父母を敬え」の教えを展開しています。この戒めは、ただ実の父母を敬うことを語っているのではなく、目上の者(年長者)、目下の者(年少者)、対等の人のすべての人を敬うように求めていると語ります。
 互いの違い・個性を認め合うことなく、地位や身なり・一つの相対的な規準により上下関係で他者を判断することにより、抑圧・圧政・弾圧が生じます。このことが究極的に独裁となり、戦争の道を開きます。そのため私たちは他者の人権を尊重することが求められています。
 私たちが主の御前に罪赦された罪人として生きるとき、主から与えられた救いと日々の恵みに感謝しつつ、教会・社会において謙遜と遜りをもって、人々との交わりに生きることができるのだと思います。
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