◆ガラテヤの信徒への手紙  連続講解説教

「使徒パウロからの手紙」  ガラテヤ1:1~5    2023.5.7
 
序.
 ガラテヤ書はパウロ書簡の一つです。パウロ書簡は、教理の全般を語った四大書簡(ローマ、Ⅰ・Ⅱコリント、ガラテヤ)、獄中書簡(エフェソ、フィリピ、コロサイ、フィレモン)、牧会書簡(Ⅰ・Ⅱテモテ、テトス)があります。ガラテヤ書は四大書簡の一つとして、信仰義認やキリスト者の自由を中心に教理が語られています。

Ⅰ.ガラテヤ書
 パウロが記した書簡の多くは、パウロが宣教した町の教会、あるいはパウロの弟子の名が記されていますが、ガラテヤ書は一つの教会ではなく、ガラテヤ地方の諸教会に記された手紙となっています。
 ガラテヤ地方とは、小アジア(現在のトルコ)の真ん中あたりです(聖書巻末地図8)。またローマがBC25年にこの地方を属州としたとき、南の地域に広がりました。
 ですからパウロが、どちらの意味でガラテヤという名を用いているのか議論の余地があることですが、パウロが宣教していた頃はすでにローマの属州となっていたため、南の部分も含んでいると思われます。
 聖書のどの書簡を読むにしても、著者・宛先・時代を特定することは大切です。しかしこれらのことに集中しすぎれば、著者が書簡を記した目的を見失うこととなります。そのため私たちも、ガラテヤ書を読むにあたって、場所の特定を追い求めるのではなく、著者であるパウロの執筆目的を考えなければなりません。

Ⅱ.公的使信としてのガラテヤ書
 手紙は冒頭で「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(1)と語ります。つまり、パウロの私信ではなく、使徒パウロが記した公的使信として読まなければなりません。
 ここで大切なことは、パウロが使徒であることです。パウロ自身、この後記すことですが(11節以降)、パウロが使徒となった経緯を私たちは使徒9:1-18から確認することができます。ファリサイ人としてキリスト者を迫害しダマスコに乗り込もうとしていたパウロに、復活のキリストが出会ってくださいました。すでに天に昇り、父なる神の右に座しておられたキリストが、直接パウロに声をかけ、そして神の民として召したのです。「使徒」は、単なるキリスト者とは違い、直接キリストと出会い、キリストによって弟子とされた者たちです。
 そればかりではなく、パウロはファリサイ人として、旧約聖書からキリストの言動に対する知識にも満たされており、キリストが語る福音に対する理解も、キリストと出会うことにより与えられました。

Ⅲ.ガラテヤの諸教会
 手紙の受取手であるガラテヤの諸教会は、パウロにより直接、あるいは間接的に宣教された教会であったと思われます。
 そのガラテヤの諸教会の人々が、今、パウロの語ってきた福音から離れようとしています(6)。パウロは、手紙全体においてガラテヤの人たちの信仰の過ちを指摘しつつ、福音を弁証していきます。
 しかしパウロが手紙の最初に語るメッセージは、「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(3)です。パウロは、神からの斬罪・叱責ではなく、父なる神の愛と、御子であるイエス・キリストにより罪が赦され、神の国における愛の交わりに入れられ、恵みと平和が与えられていると宣言します。これがキリスト教の本質です。罪を指摘し叱責するのではなく、神の愛に包まれ、その結果、自らの罪・自らの誤りが示され、悔い改めへと導かれます。

Ⅳ.神の恵みに生きるキリスト者
 そしてパウロは最後に、今、ガラテヤの諸教会の人たちを愛によって包んでくださっている主なる神が、どのようなお方であるか、4,5節において語ります。
 神から離れた人は、自らの罪の故に肉の死の後に行われる最後の審判により裁きが待っています。しかし、キリストは十字架にお架かりくださり、私たちが背負わなければならない罪の刑罰を担ってくださいました。キリストを信じる者は、キリストの十字架の故に罪が贖われ、神の子として救いに入れられます。あなたたちは、この御子であるキリストにより罪が贖われ、もう神の子とされていると、ここで宣言してくださっています。
 そしてキリストを十字架にお渡しくださった父なる神は、永遠に、世々限りなく栄光に包まれて生きておられます。
 使徒パウロは、主の福音から別の信仰の道を歩もうとしているガラテヤの人たちに、神の愛をもって、語りかけています。

 
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「惑わし惑わされる時代に語られる福音」  ガラテヤ1:6~10    2023.5.21
 
Ⅰ.信仰に対する誘惑にさらされるキリスト者
 日本では、教会に来て、洗礼を受けた人の相当数の人が、洗礼から3年いないに教会から離れていると言われています。つまり、洗礼を一時の感情で行い、熱が冷めれば教会から離れるのです。このことは、洗礼が感情的に行われている問題もあれば、教会における教育の問題もあります。
 しかし一番大切なことは、罪からの救い、永遠の滅びから天国の永遠の生命に移されていることに現実味がなく、思弁的になっていることです。信仰が思弁的になり、体全体で救いの喜びに満たされることなく、頭の中で考えていると、誘惑に引っかかります。キリスト教の名を語る異端者、キリスト教から離れたところにおいて最もらしいことを語る人々が多くいるのです。
 そして、こうした異端者やサタンの誘惑に遭うことにより、真の救い、信仰から離れて行く人たちが少なからずいるのです。

Ⅱ.教会に対するサタンの攻撃
 今までは個人の信仰者に対する外部からの働きかけ、攻撃について語りましたが、キリスト教会そのものに対しても、同様の攻撃が行われます。この場合、教会に立てられている牧師や指導者自身が、福音から離れて、異端的なことを語り始める場合があれば、教会を乗っ取るために教会に加入する人もいます。いずれにしても、牧師や指導者が語る言葉が、神の御言葉・福音から離れることにより、教会全体の信者の信仰が歪められます。
 そのため、中会における牧師(教師)の試問、教会(小会)における役員(長老・執事)や信徒の試問には、慎重さが求められます。もちろん、それ以前の交わりにおいて信仰を確認していることが前提としてありますが、試問が形式的・通過儀礼になりつつあるため、小会や中会は、試問に対する慎重さを欠いてはなりません。
 また小会・中会において、いざ反キリスト的な言動、別の福音を語り始めた人が出てきた時、その誤りを指摘し、戒める、あるいは排除することが求められます。こうしたことが迅速に行われなければ、異端者により教会が支配され、教会は混乱します。
 ですから小・中会、さらにはすべての教会員は、説教や指導者の言動を無批判に受け入れてはなりません。御言葉に反することが語られたり、教会の秩序に違反することが行われれば、「否」の声を挙げること、適切に処置を講ずることが求められます。
 コヘレトの言葉では、神の御言葉としての知恵を深め、地上に起こることを常に見極め、観察し、判断することを求めています(参照:コヘレト8:16)。考えることを止めたとき、教会の中に腐敗が持ち込まれます。そのため日々考え、御言葉の養いを受け続けなければなりません。その基礎としての教理・信条を身に付ける必要があります。そうすることにおいて、社会においても、教会の中においても異質なことに対して判断・対応することができるようになります。

Ⅲ.福音を常に鵜呑みにしてはならない
 パウロは「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」(8)と語ります。パウロは、パウロ自身が異なった福音を語ったとすれば、それを指摘し、糾弾するように求めています。そして「呪われるがよい」と語ります。
 つまり、パウロ先生・牧師が語っているから、「それは正しい」と鵜呑みにするのではなく、誤りがあれば、そのことを指摘することが求められています。
 そのため語る側も、上から語るのではなく、遜りを持って語ること、自分が知識を持っているとの傲慢さをもつのではなく、謙虚さをもって語ることが求められます。

Ⅳ.誘惑に強い教会を形成するには
 語る者も、聞く者も、教会に集まるすべての人に求められることですが、誰を信じ、誰の語る言葉に従って生きているかが問われています。教会の交わりは人間的なものではありません。一人ひとりが、主なる神・キリストとの交わりを回復し、生命の交わりに生きている者として、教会における交わりが求められています。そのため、神の愛、キリストによる罪の赦しが欠けているならば、聖徒の交わりではなく、人間的な交わりにすぎなくなります。
 神の御前に私たちは生かされており、その前提での交わりが深まるとき、誘惑や教会を揺るがすことがあっても、キリストの教会は揺るぎません。だからこそ表面的な交わりではなく、福音の本質を確認しつつ行う交わりを行うことが求められています。
 
 
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「イエス・キリストの啓示」  ガラテヤ1:11~12    2023.6.4 
 
 序.
 使徒パウロは、小アジアのガリラヤ地方にある教会にあてて手紙を記しています。パウロはこの手紙が、個人的な手紙ではなく、主なる神によって使徒とされたパウロが記す公的な手紙であることを、最初に語りました。その上で、ガラテヤの諸教会の人たちがパウロによって示された福音から離れていることを忠告しつつ、主なる神以外から語られる福音はないことを、前回確認しました。その上でパウロは、「福音は人によるものではありません」(11)と語り、主から御子によって与えられたものであることを今日のテキストで確認します。

Ⅰ.啓示なしに、神を知ることはできない
 私たちが神を信じるとき、神の御力・神による救いを信じるわけですが、このとき、私たち人間が、「神はこういうお方である」と決めると、私たちの信じている神は、私たち人間が頭の中で考え、私たちにとって都合の良い神を作ったこととなります。これは人間が神を求める、下からの信仰ということができます。
 しかし神は、私たちの都合によって働くお方ではありません。自律自存であり、永遠から永遠に生きておられます。主が天地万物を創造し、最後に人間を神のかたち・神に似せてお作りくださいました。つまり、神中心、上からの信仰です。
 そして私たち人間は、空間的・時間的・変化する有限な存在ですが、主なる神は、無限・永遠・不変のお方です。有限である人間が無限であるお方を理解することはできません。そのために私たち人間が、神を知り・信じようとすれば、主がお語りになる御言葉に聴くことが求められます。つまり主の啓示に聞かなければなりません。

Ⅱ.神の啓示とは……ウェストミンスター信仰告白1:1より考える
 ウェストミンスター信仰告白1:1は、神の啓示ついて告白しています。つまり、主なる神が人間を創造されたとき、神と人は交わりの内にありました。そのため人は、神が創造された自然をとおして、神を知り、神との交わりを行うことができました。
 しかし人が罪を犯すことにより、人は神から離れ、自然によっては神を知ることができなくなりました。それでも神を求めようとする人間は自分たちで神をつくります。それが自然信仰となり偶像礼拝です。
 罪に陥った人間を、主なる神はなおも愛してくださり、救ってくださいました。
 旧約のイスラエルの民は、神が直接語られることにおいて、また預言者によって、さらには奇跡や自然現象をとおして、主はイスラエルの民にご自身を啓示されました。
 そして新約の時代には、啓示された文書としての聖書をもって、主はご自身を私たちに啓示しておられます。
 そして信仰告白は最後に次のように告白します。「そのことが聖書を、最も必要なものとするのであり、神がその民に自らの御心を啓示された上述の以前の方法は、今では停止している」。新約の時代、主が直接、聖霊をとおして語られることはなく、過った教えなどが入り込まないように、文書として留められています。だからこそ、キリスト教会では、聖書のみと語り、聖書の御言葉に聴くことが求められています。

Ⅲ.キリストによる啓示を伝える教会
 主の啓示は神の御子・ロゴス(言葉)であるイエス・キリストによって行われました。
 パウロは復活の主イエスと出会い、主イエスにより使徒とされたのです。御子から直接召されたからこそ、パウロには語る権利があるのです。そのためパウロは「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」(12)と語り、ガラテヤの人たちに訴えます。
 そして、神からの直接的な啓示を終えた新約の時代においては、主がお示しくださった御言葉である聖書から聞くことが求められます。その上で主は、福音宣教者として牧師をお立てくださいました。このときに大切なことは、主なる神からの召しです。内的に、そして外的に必要な知識が与えられていることを、教会は確認した上で、任職して按手を行います。
 そのためパウロも教会も知らないところで勝手に福音を宣べ伝え、福音を歪める人たちが出てきたとき、そうした人たちの巧みな言葉に騙されてはなりません。
 また正式に教会で任職を受け、按手された牧師でも、サタンの使いである場合もあります。だからこそ、教会(特に教会役員である長老)は、牧師が語る説教を100%疑うことなく聞くのではなく、福音から離れたことを牧師が語っていれば、その働きを止める働きが与えられています。

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 「胎内にあるときから選び分けてくださる神」  ガラテヤ1:13~17    2023.6.11
 
序.
 パウロがガラテヤ地方の教会を宣教し、福音を伝えました。しかし今、ガラテヤの教会の人たちは、パウロが伝えたキリストによる救いの福音から離れ、別の道を歩み始めています。そのためパウロは、イエス・キリストからの啓示こそが唯一の福音であることを語っています。

Ⅰ.神を信じるとは
 最初にパウロは、キリストの使徒として召された者であると自己紹介し、神から権威が付託された形で手紙を記していることを語りました。今日の御言葉では改めて、パウロがどのようにして、神と出会い、福音宣教者とされたを語ります。
 今日、私たちが確認することは、神を求め、神を信じることは、私たちが自発的に行うことなのかどうかです。
 教会では、「私キリスト者ではないが、礼拝に出席して良いですか」・「私、神を信じるつもりはない」と語られる方が来ます。それでも良いのです。「礼拝に出席したい」思いが、神から与えられているからです。神を否定していても、礼拝を破壊しようとしなければ、それは神がお招きの民であり、等しく神を礼拝する権利を持っています。
 つまり私たちは「神を信じる」と語りますが、信仰は神の働きによって与えられる恵みの賜物です。ですから、私たちが神を信じる・自発的な行為ではありません。信仰は、私たちの心の中におけるキリストの霊の御業です(ウェストミンスター信仰告白14:1)。神の御霊が働く私たちの側は受動的です。ですから、「私が神を信じる」のではなく、神の御霊によって「神を信じるように導かれる」のです。

Ⅱ.神による予定に与る私たち
 パウロは、「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して」くださったと告白します(15-16)。またウェストミンスター大教理問答も、次のように告白します。
問13 神は、天使と人間に関して、特にどのようなことを聖定しておられますか。
答 神は、永遠不変の聖定により、かれの完全な愛から、しかるべき時に現されるかれの輝かしい恵みが讃美されるため、ある天使たちを栄光へと選び、またキリストにおいて、ある人々を永遠の命へと、その手段もともに、選んでおられます。
 主なる神は、①永遠から永遠に生きておられる、②全世界を支配し、私たち人間の生命も司られている、③ご自身の御計画に従って、歴史が形成されています。
 だからこそ、私たちが神を信じる(自己中心)のではなく、主なる神の導き(神中心)に従って生きることが求められています。
 そのためパウロは、ガラテヤ人・私たちに、すべてを支配しておられる主を信じ、主の御言葉、主が遣わされる預言者・使徒の語る言葉に耳を傾けることを求めます。

Ⅲ.予定から生じる疑問点
 しかし、予定の教理を語るとき、「私たち人間は、神の操り人形なのか」、「私たちには自由意思はないのか」と問われます。確かに生まれる前から、神がすべてを定めておられると語られると、私たち人間には決定権がないように思われます。
 しかし神は創造者であり、人は被造物です。無限・永遠・不変の霊である神を、有限・時間的・変化する人間が、すべてを知ることはできません。神がご自身を啓示し、示しくださらなければ、私たちは神のことを知ることはできません。
 また私たちは、神からの働きかけがあり、自らの意見を変えたり、行動を変えたりすることはしません。主は、私たちに聖霊により働きかけてくださいますが、私たちの意思を無視して、働きかけることはなく、私たちが主を求め、神を信じたいとの思いを心の中に生じさせてくださいます。つまり、100%神の御計画ですが、同時に100%私たち自身の意思により、神を信じるのです。
 また、「選ばれ救われる者は良いが、滅びる者が可哀想だ」と語られます。神が滅びる者を決定するのではありません。罪の故に全ての者が滅びに定められています。主なる神は、この中から救いに与る者たちを選び、神を信じることができるように聖霊により働きかけてくださいます。私たちは、滅び行く者を救いに導いてくださる神の愛に目を向けなければなりません。

Ⅳ.パウロの召し
 パウロは、復活の主イエスに出会い、主からの召しを受けましたが、パウロが嫌々、キリストを受け入れ、宣教者になったわけではありません。パウロは、復活の主イエスに出会い、いわば納得させられ、キリストを信じたのです(使徒9:5-6)。そして、この方以外に、神はいない・救い主はいないことがはっきり示されたのです。
 主を信じ、福音宣教者になることは、私たちの自発的な行為であると思われがちですが、すべてを支配しておられる主の御計画が、私たちの心を変化させ、信仰告白・福音宣教者へと召し出してくださいます。
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「改心したパウロ」  ガラテヤ1:16~24    2023.6.18
 
 序.
 パウロは、ガラテヤの教会の信徒たちに向けて、手紙を書き送っています。ガラテヤの教会の人たちが、キリストによる福音から離れていたからです。これは、パウロ個人が私的に記した手紙ではなく、キリストの使徒として召され、主から託された御言葉を記しています。そのためパウロは、自らが主によって召された使徒であることを、改めてガラテヤの人たちに説明します。

Ⅰ.使徒言行録とガラテヤ書
 ガラテヤ1:16-19に記されているパウロの改心については、使徒9:19b-29で詳細に語られています。両者を比べて頂きますと、使徒言行録の方が詳細に記されています。

Ⅱ.パウロが記したこと、記さなかったこと
 しかしパウロがガラテヤ書において、あえて記さなかったことでもあることを、私たちは理解しなければなりません。つまりダマスコにおいて、命が狙われ、夜に逃げ出したことなどは記しません。ガラテヤの人たちに伝えたいことは、パウロの改心の状況ではなく、パウロが主と出会い、主によって示された福音を宣べ伝える者となったことを証しすることです。
 一方、使徒言行録では記されなかったことが、ガラテヤ書で記されていることは、注目すべきことではないでしょうか。アラビアに退いたこと(17)、三年後にエルサレムに上ったこと。15日間、ケファ(ペトロ)と出会ったことです(18)。
 アラビアに行ったことは、他に記されていないため、アラビアのどの地方に行ったのか、またその間、何をしていたのか、パウロは語りません。神学者によっては、伝道をしていたと語る人もいます。パウロ自身が語りませんので、憶測になりますが、私は、パウロが主から異邦人の宣教者として召され、備えの期間としたのではないかと思います。自らが主から召しを受けた使徒であることを言及するこの場所で、あえて3年間アラビアにいたことを明らかにしているからです。つまり、私たちには知らされていませんが、パウロから直接宣教された人たちは、パウロの改心の話しを繰り返し聴いてきたかと思いますので、アラビアでの3年間の意図も知らされていたのではないでしょうか。
 またガラテヤ書では、パウロがエルサレムに上り、15日間、ケファ(ペトロ)のもとに滞在したこと、主の兄弟ヤコブ以外、他の使徒に出会っていないことを語ります。ここは使徒言行録とかなり違いがあります。ここではパウロを信じない人たちがいたことなどを語る必要はなく、むしろペトロと出会い、主の使徒として、現在の教会の状況、これからの宣教計画などを確認し合ったことを、ガラテヤ書において記したのではないかと思います。
 今週、大会が行われますが、大会において教会の方針を決めますが、公的・私的に多くの交わりが行われます。パウロがエルサレムでペトロと会ったのは、まさにこうしたことを、行ったのではないでしょうか。

Ⅲ.主の御霊により福音を語るようになったパウロ
 パウロは以前、キリスト者を迫害し、殺していました。そのパウロが、復活のキリストと出会うことにより、福音を語る者となりました。不思議に思う者、不審がる人がいるのは当然なことです。しかし、主なる神がパウロの心に働きかけてくださいました(23-24)。パウロに働いた主の御霊を(参照:ウェストミンスター信仰告白9:4)、周囲の人たちも受け入れたのです。パウロはこのことを語りたかったのであり、対立が激しかったことを語る必要はありませんでした。
 パウロ書簡と使徒言行録とでは異なったことが語られています。それは目的が異なっているからであり、書簡の記された目的が異なれば記される内容も違ってきます。
 ですからパウロは嘘をついているのではなく、聖書に矛盾があるわけではありません。つまり、二つの書簡を読み比べることにより、コインの表と裏を理解することができるのです。このことは登山することに例えられることもあります。富士山を登るのに、大きく4つの登山ルートがあると言われています。通るルートが違えば、見える光景はまったく異なります。しかし、どのコースを使っても、一つの目標である富士山の山頂に辿り着きます。
 ですから、福音書は4つあり、一つで良いのではとも語られます。しかし異なった視点で読むことにより、福音の本質をよりよく理解することができます。
 パウロは、主なる神から召しを受け、主により示された福音を宣教しているのであり、パウロが示す福音から離れたところに、別の福音がないことを、パウロはここでガラテヤの信徒たちに語りかけています。
 
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「福音の真理-もう割礼はいらない」  ガラテヤ2:1~6    2023.6.25 
 
序.
 ガラテヤの諸教会は、パウロが宣べ伝えた福音から離れていました。そのためパウロは、主の使徒として、ガラテヤの信徒に向けて、キリストのみが唯一の主であり、主の御言葉に聴くことをしなければならないことを語っています。
 前回は、パウロが復活のキリストと出会い、主の使徒として召されたことを、使徒言行録9章と比較しつつ、確認しました。

Ⅰ.キリスト者になったパウロの14年
 その後14年が経ちます(1)。これは、パウロが復活のキリストと出会ってからなのか、エルサレムに上ってから(1:18)、さらに14年なのか、はっきりしません。後者のように思いますが、断定する必要もありません。ただパウロがそれだけの経験を積み、教会において使徒としての認知が広まっていたことを物語っています。
 パウロの行動を、使徒言行録で追っていくと、最初にエルサレムに上り(9:26)、飢餓慰問のために再度エルサレムに上ります(11:27-30)。その後第一回目の宣教旅行に出かけ(13-14章)、そしてその後、エルサレム会議に出席します(15章)。今日の聖書箇所では、エルサレム会議の言及ですから、使徒15章に一致することとなります

Ⅱ.主によって求められた教会会議
 パウロは第一回目の宣教旅行を終えてエルサレムに上ったのは、神の啓示によると語ります(1)。旧約の時代の族長・預言者は主から直接啓示を受けました。そして主イエスが復活された後の使徒も同様です。
 しかし現在は主から直接啓示を受けることはありません。聖書の霊感と同じですが、主から直接啓示を受けるのは、旧約から使徒の時代で終わります。主による直接啓示があるからこそ、主の御言葉としての聖書の真正さも担保されています。
 パウロが示された神の啓示とは、割礼に関して異なった意見がでてきたことに対して、使徒たちを代表とする教会でどのように判断するのかを、主が教会会議に解決を求めたからです(使徒15:1-2)。そして会議では、異邦人に洗礼を授けるにあたり、割礼を施す必要はないとの結論を得ました。
 つまり旧約聖書の時代であれば、主の顕現、もしくは主が直接預言者に語りかけることにより、主の意思が示されましたが、新約の時代、主からの直接的な啓示はありません。そのために、教会は教会会議を開催し、主の働き人として任職された使徒、現在であれば教師・長老が会議を行うことにより、一人ひとりに宿る聖霊の導きにより、問題を解決することを求めたのです。

Ⅲ.教会会議の開催
 教会会議で決議することは、エルサレム会議における、異邦人キリスト者が割礼を受けなければならないのか否かという、キリスト教教理に関わることから、教会の予算まで多岐にわたります。
 ここでパウロは大切なことを語ります(2)。つまり福音宣教を行うこと、教会を形成し、礼拝説教を語ることは、自己満足で行うことではありません。
 ガラテヤ書では、パウロが主によって召された使徒であり、主の御言葉をパウロが福音として語っていることを、確認しています。このとき使徒として召された者同士の間で、一致があるはずです。なぜならば、主がすべての使徒に対して一つの同じ福音を伝えているはずだからです。
 しかし使徒であっても、罪赦された罪人であり、自分の思いのままに語り始めると、それは神の御言葉から離れた、パウロ個人の言葉となります。パウロ自身が「自分は無駄に走っているのではないか」と意見を求めたのは、まさに主の福音ではなく、パウロ自身の自己都合で語っていないかを、周囲の人たちに意見を求めたのです。
 つまり使徒であるパウロ、教師・長老の按手を受けた者が御言葉の説教・奨励に与るとき、自分の言葉を語るのではなく、語る者自身が、主が求められる御言葉に聴かなければなりません。そのために、主の御前に遜り、謙遜になることが求められます。
 また主は、教会の問題を、監督として立てられた一人で判断するのではなく、主の召された者たちが会議を行い、問題解決を求められています。これが私たち改革派教会が長老制を採用する根拠です。

Ⅳ.教会会議の決定
 パウロは、復活のキリストと直接出会い、使徒としての召されましたが、さらに教会会議において決議した福音の真理を語っています。そのためガラテヤ教会の人々が福音から逸れていることに対しても、パウロは、主の御言葉・教会の決定の福音から、逸れて譲歩することはいたしません(5)。
 そのため私たちも、自分の意見ではなく、教会会議の決定に従うことが求められます。
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 「人に福音宣教を任せられる神」  ガラテヤ2:7~10    2023.7.2
 
序.
 パウロは、ガラテヤの信徒に向けて、キリストが宣べ伝えた福音こそが、唯一の福音であり、他にはないことを語り、信仰の歩みを改めるように求めています。

Ⅰ.福音宣教者
 主は、新約の時代、主の弟子に福音宣教をすることを求めています(マタイ28:16~20)。キリストは、十字架の死と復活により、私たちの救いの御業を完成されたからです。ですから主イエスは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)とお語りになります。
 キリストの十字架の御業・死と復活は、見ても信じることはできません。その場に立ち会った多くのユダヤ人たち、ローマの総督や兵士たちは、復活したキリストを受け入れることができませんでした。
 むしろ旧約のメシア預言、御子の誕生と十字架の死と復活は、神の御言葉によって示され、聖霊に満たされた者が、石の心が砕かれ肉の心が与えられ、神を信じるようにされます。このとき、主は罪人であり、欠けの多い弟子たちを、福音宣教者として用いてくださいます。自分が宣教するのではなく、主が用いてくださいます。

Ⅱ.福音宣教の多様化
 私たちが聖書を読み、預言者の働きや使徒ペトロ、パウロの宣教を顧みるとき、万能者・超人のように思ってしまうかも知れません。しかし、彼らも一人の罪赦された罪人です。そのため、その働きを限定しました。使徒言行録6章では、使徒たちの働きが多くなってきたため、ステッファノら7人を新たな働き人(執事)に選び、使徒たちは教えることに専念しました。
 そしてガラテヤ書では、ペトロら12使徒は、割礼を受けた人々(ユダヤ人)を専門に宣教を行うのであり、割礼を受けていない人たち(異邦人)のために、パウロがその働き人として召されたのだと語ります(7-8)。
 つまり、キリストの福音を信じることにおいては一致しつつも、そこに集う人たちは多様です。そして主は、教会に牧師・長老・執事をお立てくださいました。働きに上下関係はなく、働きの目的が違います。また牧師であっても、一人ひとりの違いがあります。日本人を中心に宣教を行う者・外国人のために宣教を行う者・青少年を対象に宣教する人・高齢者施設で宣教する者もいます。教会において、牧師に求められるものは大きいかも知れません。しかし、その牧師に与えられた賜物・守備範囲を理解しつつ、分担してその働きに仕えることが大切かと思います。

Ⅲ.一つの福音を宣べ伝えるペトロとパウロ
 そうした中、ペトロは異邦人宣教者としてパウロが召された後、異邦人にも宣教をすることの一つのしるしが与えられました(参照:使徒10章)。ペトロは、旧約聖書において禁じられていたものが、神によって清められたものとして食べて良いことが示されました(10:10-16)。ペトロは、このことにより旧約の時代とは異なり、ユダヤ人だけではなく、異邦人も主によって受け入れられており、宣教することが求められていることが示されたのです。
 そしてイタリア隊の百人隊長であるコルネリウスに会うと、ペトロは口を開き語ります。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(10:34-35)。すると一同の上に聖霊が降り、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれました(10:44-48)。
 ペトロ自身が、異邦人宣教を行うことの障害が取り除けられることにより、ペトロはパウロを受け入れ、パウロが異邦人宣教を行うことに対しても、思いを一致することができました。こうしたことは、ケファと記されているペトロと共にヤコブ・ヨハネにも示されました。
 ガラテヤ2:9では「一致のしるしとして右手を差し出した」とあります。新共同訳は意訳しており、「交わりのしるし」です。主のある交わり・聖徒の交わりですが、ペトロをはじめとする使徒たちと、異邦人宣教に召されたパウロ・バルナバとの間で、意見の一致を見たのです。すると、ヤコブ・ケファ・ヨハネにより、パウロとバルナバは、按手をされました(9)。
 按手を行うに際して大切なことは、キリストを宣べ伝えること、キリストによって指し示された福音を宣べ伝えることで、一致していることです。宣教方法の違いがあっても、語っている福音は、一つです。
 この一致を、パウロはガラテヤの教会の人たちとも持ちたいのです。私たちは時代も場所も違いますが、キリストの福音において一致しています。
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 「あやまった生活を非難する」  ガラテヤ2:11~14    2023.7.9
 
序.
 ガラテヤ書において、パウロはガラテヤの教会の人たちが、キリストの福音から離れていることを嘆き、キリストの福音以外に救いはないことを語っています。

Ⅰ.あえてペトロの失敗を手紙に記すパウロ
 今日の御言葉では、パウロが使徒の一人ケファ(ペトロ)を非難しています。キリストの体としての教会の一致を語ろうとすれば、むしろ黙っていた方が良いことです。
 それでもパウロは語ります。なぜなら、ガラテヤ教会の信徒たちは、パウロからキリストの福音から離れていることを指摘されています。受け取る側にとっては、「パウロ先生は、自分たちを裁いている」と感じてしまいます。しかしパウロは、彼らを裁き・非難するために手紙を書き送っているのではなく、彼らが自らの誤りに気が付き、そしてキリストの福音に立ち戻ることを願っています。

Ⅱ.神の御前に生きるとは
 パウロは使徒ペトロが過ちを犯していたことを指摘しつつ、キリストの使徒でも過ちを犯すこと、そしてそれが指摘されることにより、真理に立ち戻り、赦されることを語ろうとしているのです。
 ペトロの犯した過ちは、人の目を気にして、態度を変えていたことです。一方で異邦人を受け入れ、彼らと共に食事をしつつ、割礼を受けているユダヤ人が近寄ってくると、自分は異邦人から離れ、異邦人とは付き合っていないかの如くの態度を示していました。福音とは、人の目を気にすることなく、神のみを畏れ、主の御言葉(律法である十戒)に従って生きることです。
 パウロはすでにガラテヤ書において、異邦人に割礼が必要かどうかの議論を行い、不要であることを使徒会議(エルサレム会議:使徒15章)において確認したことを語ってきました。つまり、ユダヤ人キリスト者も、異邦人キリスト者も、区別すべきではなく、キリストの僕として対等な兄弟姉妹の関係にあることを確認すべきことです。
 にもかかわらずペトロは、ユダヤ人キリスト者に配慮し、異邦人キリスト者と交わりを否定するかのような行動をとったのです。このことに対してパウロは、ペトロにその過ちを指摘し、非難しました。
 つまりユダヤ人も異邦人も、同じように交わり、交流を行うことが求められます。現代的に考えれば、性別・人種・言葉・身分・障害の有無・少数者に対しても同様のことが言えます。人の顔色を見て言動するのではなく、神の御前に主の御言葉から聞き取り、行動することが求められます。
 こうした言動を続けることは、ときとして他人とは違ったことを行っているように思われます。為政者・権力者から嫌われることもあります。それでも私たちキリスト者は、人や周囲の人たちに合わせるのではなく、主なる神の御言葉に従うことが、私たちキリスト者には、求められています。

Ⅲ.罪赦された罪人
 使徒であっても、誤り・罪を犯します。そしてすべての人が、地上の歩みを続ける限り、罪を繰り返します(参照:ウェストミンスター大教理問78)。つまり私たちは、人の罪を指摘する以前に、自らの生活・信仰を顧み、自らも主の御前に遜り、謙遜になることが求められています。
 また一度誤りを犯せば、もう赦してもらえないかといえば、そうではありません。罪に気が付き、悔い改めれば良いのです。大切なことは、罪を悔い改めることです。そして周囲の人たちも、罪の悔い改めを受け入れ・和解すれば、その後は過去のことを蒸し返さないことです。

Ⅳ.律法主義に陥るな
 人に罪を指摘するには、非常に注意深くすべきです。誤り・罪を指摘すれば問題が解決するかと言えばそうではありません。
 罪を指摘する側と指摘される側との関係性が問われます。権力や地位のある牧師や長老が、一人の信徒に対して語るとき、上から語っていると受けとられます。上にある者を恐れて聞き従うだけで、問題の本質が理解され改善されることはありません。
 ここで求められるのが、日頃からの交わり、信頼関係を構築することです。この関係性が生まれて、初めて助言・忠告が有効になります(参照:Ⅰコリント13:1)。
 いくら正しい忠告が行われても、愛の交流がなければ、聞き入れられず、裁かれていると感じて反感を買います。また律法主義と感じてしまうこともあります。
 パウロは、使徒ペトロに忠告したように、ガラテヤの信徒たちに対しても忠告し、そしてキリストの福音の道へと戻ってきてほしい、キリストの民としての交わりを回復したいとの思いで、手紙を書き記しています。 
 
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「信仰によって義とされる」  ガラテヤ2:15~16    2023.7.23 
 
序.
 今日の御言葉は、信仰義認が語られており、ガラテヤ書でも中心的な聖句です。義認と信仰との関係、義認と聖化との関係を、確認していきたいと思います。

Ⅰ.ユダヤ人的生き方からの変更が迫られるパウロ
 最初にパウロは、「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」と語ります(15)。つまり、キリストと出会う以前、パウロはユダヤ人であることを誇り、神の選びの民であることを自負していました。
 しかし、復活のキリストと出会ったパウロはこうした以前の生き方を否定します。このことが、「けれども」(16)という言葉に込められています。つまりユダヤ人として生きるとは、律法をまっとうして、神による救いに生きることでした。しかし主イエスは、このようなユダヤ人の生き方に対して、「否」を語り続けられました。そしてパウロもまた、復活の主イエスと出会い、主イエスが語られている意味を知り、「律法の実行では救いに入れられることはない」ことを知りました。
 つまり主の御前で救いを求めようとする者は、神の義・聖・知識の御前に、自らは欠けがあり、罪があることが示されます。そして律法をまっとうしようとしても、まっとうできず、全的に堕落して、自らの力で救いなど獲得することができません。

Ⅱ.主によって与えられる信仰
 自らの罪が示され、自らの行いにおいて救いを獲得することができないことが示されると、私たちは罪の悔い改めと信仰へと導かれます。そして主の御霊により、主の御言葉を理解する力が与えられます。信仰の目が開かれるのです。
 このとき、御子イエス・キリストの十字架の御業の意味を理解することができ、「キリストの十字架は、あなたの罪の贖いのためであった」ことが示されます。
 信仰とは、自分で聖書を理解し、獲得することではありません。自らが罪人であることが示されることにより、自分では救いを獲得することができないことが示され、その結果として、主が聖霊を通して、お与えくださる恵みです。そのため信仰は増し加えなければならないものではなく、小さくとも主から与えられた信仰を持つこと、神を信頼し、委ねることが大切です。だからこそ、からし種ほどの信仰を持てば良いのです(ルカ17:5-6)。

Ⅲ.義認と予定の関係
 その上で、「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」(16)ことを考えなければなりません。信仰とは主なる神から与えられるものですが、同時に信仰は私たちの体の内に与えられるものであり、私たちが自分の言葉において告白するものです。
 そして「信仰によって義とされる」とは、神による決定です。つまり人間は全的に堕落し、罪の故に死ぬ者・滅びる者と定められています。しかし義とされるとは、この罪が取り去られ、神によって義とされ、罪がない者として神の子の数に入れられ、天国での永遠の生命が与えられることです。
 これは神の内にある法的な概念であり、信仰を告白する者は、キリストの十字架によって罪が贖われ、神の子とされることが決定しています。だからこそ、パウロは「信仰によって義とされる」と語ると同時に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と語ります。つまり信仰が与えられた者は、天地万物の創造の前に、主なる神が救いへと決定していたのですが、それが聖霊をとおして、信仰をお与えくださった結果、救いの決定が実行されました。だからこそ主を救い主として信じた者は、神の救いの中にあることを宣言することができるのです。

Ⅳ.義認と聖化の関係
 そして、神によって信仰が与えられ、義とされた者は、キリストの十字架の贖いにより、罪の赦しと神の子としての神の恵みに生きることができるようにされます。これは、義と認められ、天国の約束が与えられたのだから、「あとは自由に生きられる」とはなりません。なぜならば、信仰を告白するとき、同時に自らの罪が示され、罪の悔い改めが行われていたからです。さらに、救いをお与えくださった主なる神の義・聖・真実が示されたからです。
 このとき私たちキリスト者は、神の子としてふさわしい者になろうとして、キリストに倣った生活を行うようにされます。それが聖化の歩みです。具体的には、主によって愛された者として、主なる神を愛し、隣人を愛する者として生きる者へと変えられていき、十戒によって示された律法に従って、生きる者とされていきます。
  
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「神に対して生きる」  ガラテヤ2:17~19    2023.9.3  
 
序.
 前回は、信仰義認について確認しました(2:15-16)。律法の実行によって義を得る律法主義ではなく、主から与えられる恵みを受け入れ、信仰を告白した者が、主によって義と認められることを確認しました。

Ⅰ.罪のないキリストが、私たちの贖い主となられた
 それに続く今日の御言葉(17-19)は、読んでいて理解に苦しむ所です。私たちは、信仰によって義と認められますが、罪人であることに変わりありません。そのためキリスト者のことを「罪赦された罪人である」とも語ります。私たちが神により義と認められるのは、キリストの十字架が、私たちの罪の贖いのために適用されたからです。
 私たちが罪人であるならば、私たちに罪の赦しをお与えくださるキリストもまた、罪に汚れているのではないかと問題にされます(17)。ここで問われていることは、キリストはどういうお方であるかです。
 キリストの二性一人格の問題です(参照:ウェストミンスター信仰告白8:2)。二性一人格とは「キリストは、100%真の神にして、100%真の人である」ことです。普通に生まれた人は、生まれながらに罪を持ち(原罪)、毎日、罪を犯す(現行罪)のですが、キリストは、聖霊によってお生まれになったために罪から守られ、また地上の生涯において、罪を一切犯されませんでした。
 また、主イエスは逮捕され、有罪として十字架刑に処せられましたが、罪のないお方が有罪とされました。つまりキリストが十字架の死の刑罰を受けたのは、御自身の罪の故ではなく、キリストが私たちの刑罰を引き受けられた結果です。
 そのためパウロは「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(19)と語ります。「キリストの十字架は私たちの贖い」であると語りますが、「贖う」とは、身代金を支払って罪人の身柄を引き取ることです。そのためパウロは、「十字架に架かられたキリストの姿こそ自分自身だ」と語ります。つまり2000年前に十字架に架かられ苦しみ・血を流して肉の死を遂げられたキリストの姿は、今に生きる私たちキリスト者のためでした。
 キリストが十字架にお架かりくださり、肉の死を遂げてくださったからこそ、私たちキリスト者は、死と主の裁きを免れることができます。またキリストは、死・罪・サタンに打ち勝ち、甦りました。この勝利の内に私たちは今生きており、完成された神の国である天国への希望があります。

Ⅱ.キリストの二性一人格
 ここでキリストの二性一人格について確認します。二性一人格の教理は、ニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年)において確定しました。つまりパウロが17節で語ることは、ユダヤ人ばかりか、キリスト教会においても、様々な議論が行われ、この後3世紀にわたり教会において議論されることとなります。教会は公会議を行い、ニカイア会議(325年)、コンスタンティノポリス会議(381年)において、キリストの二性一人格の教理が確定します。この二性一人格の教理は、基本的にすべてのキリスト教会(正教会・カトリック教会・プロテスタント諸教会)において一致しています。
 つまり三位一体の教理と共に、二性一人格を否定するとき、それはキリスト教会とは認めることができず異端です。その他にも異端と区別する指標として、旧・新約聖書のみを正典とし他の書物を正典としないこと・キリストとは別の新しいメシアを持たないことなどを、挙げることができます

Ⅲ.律法ではなく、キリストに生きるパウロ
 パウロは、キリストの十字架の贖いにより、罪が赦されたことを信じており、律法を全うすることによって救われる律法主義を強く否定しています(18)。
 つまりパウロは「自分で打ち壊したもの」(18)と語り、律法による義を否定しました。ここで律法による義に頼ろうとすることは、自ら過ちを犯した違反者であることを、自ら認めることであると語っています。
 パウロが「律法によって死んだ」(19)と語るのは、律法が示されることにより、自らの行い・言葉・心に罪があり、罪の刑罰としての死があることが示されることです。自分では律法をまっとうできないからこそ、キリストの十字架の贖いを唯一の希望として神を信じていることを、パウロはここで宣言しています。
 パウロは律法によって死んだと語りますが、「律法に従わない・従わなくてよい」と語っているわけではありません。「律法により義を獲得する」ことを放棄したのであって、キリスト者として、神の子に相応しく歩むために、律法を用いて生きています(参照:ガラテヤ書3章以降)。

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「キリストがわたしの内に生きる」  ガラテヤ2:20~21    2023.9.10  
 
序.
 ガラテヤ書2章では、聖書の中心的な教理である信仰義認について語っています。

Ⅰ.キリストがわたしの内に生きておられる!
 主なる神から十戒を代表とする律法が示されたとき、私たちは行い・言葉・心の中を顧みるとき、律法をまっとうできない罪人であることが示されます。罪の刑罰は死です。そのため、パウロは「律法によっては死んだのです」と語りました(19)。
 その上でパウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(20a)と語ります。「生きる」とは、肉において生きることではなく、霊において、つまり神の御国を受け継ぐ永遠の生命をもって生きることです。つまり、自分で律法をまっとうすることにより救われ、生きる者となったのではありません。キリストがパウロを支配し、罪の赦しと救いをお与えくださいました。そしてパウロ自身、主なる神の支配に生きる者とされたのです(参照:ウェストミンスター信仰告白10:1 有効召命)。
 つまり、神の救いのご計画に基づいて、主なる神が聖霊によりパウロに働きかけ、パウロが罪を悔い改め、主なる神を信じるように、お導きくださいました。
 そのためパウロは、続けて「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(20b)と語ります。主は、律法において罪人と宣言されているから、「生きる資格はない」とは語られません。主がパウロを愛してくださり、罪の赦しを与えるために、御子が遣わされました。そしてキリストの十字架により、罪は贖われました。このことをパウロは、キリストの御業に感謝し、神への信仰をもって生きる者とされました。

Ⅱ.律法の第三用法に生きるキリスト者
 だからこそ、律法を一生懸命守ることにより自らの力で救いを獲得しようとする必要はありません。むしろ、十戒を代表とする律法において、いくら律法に従った生活を行おうとしてもできない罪人であることが、毎日の生活において明らかにされます。
 主なる神は、私たち人間が、律法を完全に守ることができないことをご存じです。律法を守ることができないことが示され、罪の悔い改めと主の御前に遜りをもって生きることを求めておられます。
 自分で一生懸命に頑張って生きるのではありません。主なる神が、キリストの十字架の御業の故に、私を恵みに満たして支配してくださっています。そのため私たちは、キリストにあって律法に従った生活・善き業を行うことができるのです。

Ⅲ.恵みの契約に生きるキリスト者
 キリストの十字架により罪が赦されたからこそ、神の子とされ、天国の祝福が与えられました。自分で律法を守ったから、救われたのではありません。このことをパウロはここでも繰り返して語ります(21)。
 ここでパウロは「神の恵み」と語ります。主は、私たちといつも一緒にいてくださり、日々の生活を養い、恵みで満たしてくださいます。この恵みが私たちに与えられ続けます。それは恵みの契約の故です。
 主による救いは、神のご計画に基づき、私たちに有効に召命されることにより、このとき私たちは罪の悔い改めと信仰告白へと導かれます。このとき救いは、天国に入ることと直結しており、途中で破棄されることはありません。天国行きのパスポートが発行され、「神の刻印」(黙示録)が押されています。
 つまり私たちが信仰を告白し、洗礼を授かるとき、主なる神は恵みの契約書にサインし、割り印を押してくださったのです。この契約書は永遠に有効です。

Ⅳ.キリスト者として生きる
 そうすると、私たちのキリスト者としての生活はどうなるでしょうか。ガラテヤ書は3章からこのことを語って行くことですが、今日はつだけ語らせていただきます。私たちは、「クリスチャンだから」、「信仰を守らなければならない」といった「ねばならない」から解放されています。
 律法を、行い・言葉・心の中で、完全に守ることはできません。そのため、諦め、自分勝手に生きるのではありません。完全には律法を守ることはできませんが、キリストの十字架により罪が赦されており、より神の子としてふさわしい歩みを行うことが求められています。これが善き生活です。これは「こうしなければならない」と思って行うのではなく、救いの感謝と喜びをもって、キリストに倣う者として行うのです。
 だからこそ、「クリスチャンだから」と肩肘張る必要はなく、救いの感謝と喜びをもって、信仰生活を歩んでいこう!

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 「福音を聞いて信じる」  ガラテヤ3:1~6    2023.9.17 
 
序.
 パウロは2章で、聖書の中心的な教理である信仰義認について語りました。

Ⅰ.キリストの十字架を思い出せ!
 そして3章に入っても、この議論の続きを行います。私たちからすれば、同じようなことを繰り返しているように思えます。パウロは、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」(1)と呼びかけます。新しい共同訳・新改訳では「愚かな」と訳します。
 ここでパウロは、主なる神を信じる信仰とは、何かを突き詰めようとしています。
 パウロはすでに「キリストへの信仰によって義として頂いた」(2:16)と記しました。主は信じることにより、無条件に救いへとお招きくださっています。
 そのためにキリストが十字架に架かられたのです。パウロは、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(1)と語ります。パウロ自身も、ファリサイ人として、キリストの十字架の姿を見ていたことかと思います。ガラテヤの信徒たちの中にも、キリストの十字架の目撃者が、まだ数多くいたのではないでしょうか。そして、キリストの十字架を受け入れて、キリスト者となったのです。キリストの十字架は、あなたの罪のためであった、キリストの十字架によって、あなたの罪が贖われた、だからこそ、あなたは罪の刑罰を引き受ける必要はなくなったのだ、と改めて確認しています。
 ウェストミンスター大教理問答問70では、義認について問答しています。「義認とは……、罪人に対する神の無償の恵みによる決定です」。主なる神が、キリストの御業によってお示しくださった救いを、ただ受け入れれば良いのです。条件を付ける、律法を守ることで自己満足をすることは、必要ありません。

Ⅱ.御言葉による福音を忘れるな!
 「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」(2)。あなたは、キリストの十字架によりあなたの罪が贖われ救われたとの、主の御言葉・福音を耳にすることにより、信じたのですよね。
 「福音」とは「良き知らせ"Good NEWS”」です。罪の赦し・義認・救いの意味が込められています。主イエスによって語られた福音を聞いて、主なる神を信じ、信仰を告白しました。素直に語られた福音を受け入れ、信じ、感謝したのです。
 その事実を忘れ、救いの条件として「律法」を要求しています。彼らにとっては先祖帰りと言って良いかと思いますが、ここにある、人間の性(さが)、頑なさ、罪深さ、愚かさをパウロは嘆いています。
 「あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」(3)。主は、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(エゼキエル36:26)と語られていました。私たちの心は、罪深く、頑なです。自らの行い・意志では、主なる神を受け入れることはできません。主なる神が、福音である御言葉を提示してくださり、ここに聖霊が働くことにより、私たちの心は砕かれ、キリストの十字架の御業を受け入れ、主を信じる信仰へと導かれたのです。
 しかしパウロはガラテヤ人に、「“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」と語ります。つまり、主が働いてくださった御業を、自分の意志において拒絶したことを意味します。

Ⅲ.アブラハムを顧みよ!
 続けてパウロはアブラハムについて語ります。ガラテヤの教会にいたユダヤ人キリスト者は、主イエスの時代の律法学者やファリサイ人たちと同じように、旧約における律法を重んじると語りつつ、自分たちで付け加えた律法を守ることに必死な、律法主義者となっていました。
 しかしその彼らユダヤ人に対して、パウロは、アブラハムを取り上げます。彼らにとってアブラハムは信仰の父でした。アブラハムから始まるイスラエル人にとって、信仰の対象であったと言っても良いかと思います。
 パウロは、彼らにとっても信仰の対象ですらあったアブラハムを取り上げて語ります。「それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです」(6)と(参照:創世記15:1-6)。
 アブラハム自身、主なる神の言葉が語られたとき、その声に耳を傾け、主なる神が成し遂げてくださることを信じたのです。
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「信仰によって生きる」  ガラテヤ3:7~14    2023.10.1  
 
序.
 パウロは、ガラテヤの諸教会の人たちが、パウロが語った福音を忘れ、律法によって生きていることを、強く批判します。一言語るだけではなく、繰り返し語るのは、それだけ彼らが律法主義に凝り固まっていたからだと言えます。

Ⅰ.主を信じる者に祝福をお与えくださる主なる神
 そして遂にパウロはアブラハムについて語り始めます(6)。パウロが反論しているのはユダヤ人キリスト者が中心だったと思われます。彼らにとって、アブラハムは信仰の父であり、自分たちはアブラハムの子であると自認していました。彼らにとって、アブラハムはイスラエルの祖であり、自分たちの存在価値・誇りは、自分たちがアブラハムの子イスラエルにあることでした。
 一方パウロは「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子である」(7)と語り、さらに、「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました」(8)と語ります。これは創世記12:3の引用です。
 「地上の氏族はすべて
  あなたによって祝福に入る。」
 「地上の氏族」(創世記)をパウロは「異邦人」と言い換えます。パウロはイスラエルを除外して語っているのではありません。翻訳の問題で、口語訳や昔の新改訳は「国民」と訳します。つまり「信仰によって義とされた人々すべてが主が祝福される」と創世記において語られていると、パウロは語っているのです。

Ⅱ.律法によっては誰も救われない!
 「それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(9)。ここにはイスラエル・異邦人の区別はなく、パウロはイスラエルだからダメだとは語りません。
 そして、「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです」(10)と続けます。これは申命記27:26の引用です。つまり全的堕落、皆が罪人であり、誰一人、律法をすべて守ることができる人はいません。このことは旧約聖書において語られてきたことです。つまり、私たちの行い・言葉・心のすべてが、律法を守ることができるのかが問われています。しかし私たちはこのすべてを守ることは不可能です。私たち人間は皆、罪人であり、神に呪われた存在です。だからこそパウロは、「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです」(11)と語ります。
 だれも、自分の力で律法を守り、救いを獲得することができないからこそ、主が指し示してくださる恵みを受け入れること、つまり、信仰によって義とされることを信じて、「信仰によって生きる」ことが求められています(11b、参照:ハガイ2:4)。

Ⅲ.主によって指し示されていた贖い主(メシア)
 しかし、神を信じるだけであれば、私たちの罪がなくなることがありません。そのため私たちは、主による罪の贖いに与ることが求められます。そのため、旧約の時代、主はメシアの約束を預言してくださいました。罪を犯したばかりのアダムとエバに対しては、原福音を示されました(創世記3:15)。「彼」とは「キリスト」であり、サタンに対する勝利を約束してくださいました。
 アブラハムに対しては、創世記15:4において、直接的には、イサクのことを語りますが、ここにアブラハムの子としてお生まれになるキリストが指し示されています。
 そして旧約のイスラエルの民に対して、主は絶えずメシアを約束してくださり、イスラエルの民もメシアを待望していました。
 主がメシアを約束してくださったのは、イスラエルに贖い主が必要だったからです。しかしイスラエルの人たちは、自分たちは選びの民であり、メシアが現れたときに天国に凱旋できると期待していました。この過ちをパウロは強く否定したのです。

Ⅳ.信仰義認に生きるとは……
 そしてパウロはキリストを持ち出します(13)。キリストが来られ、私たちの罪・律法の呪いを代わりに背負い、私たちの罪を贖い出してくださいました。アブラハムが召され、イスラエルが約束の民となり、旧約においてメシアが約束されたのは、「救いが異邦人に及ぶため」、メシアであるキリストが、イスラエルの内から与えられることを約束してくださっていたのです(14)。
 宗教改革において「信仰義認」が語られますが、人間の罪(全的堕落)・そして神による無条件的選びと召しの結果であり、私たちは罪の悔い改め抜きの信仰義認を語ることはできません。
 
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「アブラハムへの契約」  ガラテヤ3:15~20    2023.10.8   
 
 Ⅰ.契約・会議に基づく教会形成
 パウロは「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり」と語り(14)、一つの例として、「遺言」について語ります(15)。他の聖書では「契約」とも訳される言葉です。
 聖書のことを“Testament"とも言います。“Old Testament”,“New Testament”ととは「古い契約・新しい契約」のことです。
 契約書(遺言書)は、契約内容と共に、日付・署名捺印が行われます。そうすると、新たな日付で契約書・遺言書が作成されない限り、最初の契約書が有効です。
 そのため教会では会議の決議を重視します。会議の決議に基づいて活動が行われることにより秩序が保たれます。教会や中大会の委員会の活動も、会議を無視して行われると、秩序が乱れることとなります。

Ⅱ.アブラハムに与えられた恵みの契約
 先程は「遺言」と語ったことを「約束」と言い換えます(18)。「契約」と「約束」は、日本語においては、違います。「約束」は道徳的なもの、「契約」は法的な制度です。しかし主がアブラハムに約束されたことは、私たちの救いに関わること法的なことであり契約です。ですから、聖書では「契約・遺言」と、神が私たちに語られる「約束」とは、同義語であると言えます。
 主なる神がアブラハムにお与えくださった約束が創世記12:1-3,7に記されています。
パウロが、「その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです」と語るのは、創世記12:7のことです。「あなたの子孫にこの土地を与える。」このアブラハムへの契約はキリストによって有効とされます。それが十字架の御業です。

Ⅲ.恵みの契約に対する律法の役割
 つまりパウロが語りたいことは(17-18a)、主なる神はアブラハムに、信仰によって救われることを約束してくださいました。アブラハムは主なる神を信じ、主の御言葉に従い、神によって義と認められました(15:6)。これは、アダムとエバに与えられた原福音(創世記3:15)の恵みの契約が更新されたものですが、このアブラハムに与えられた恵みの契約が、新約の時代においても有効であることを、パウロは語ります。
 その上でパウロはユダヤ人が語る「律法厳守」に言及します。十戒を代表とする律法はモーセに与えられました。しかし律法は契約ではなく、契約を補充するものです。
 憲法と法律の関係に似ています。憲法とは、為政者を含めてすべての者が従うことが求められます。しかし法律は、憲法を実行するために定められ、憲法の理念を超えたことを定めることはできず、憲法を超えて守ることが求められることはありません。
 つまり、主なる神を信じることによって救われる契約が与えられましたが、私たち人間はなぜ神に救いを求めなければならないのか、ということを明らかにするために、律法が与えられたのです(19)。
 パウロは、律法とは、私たちの違反を明らかにするためであると語ります。今日の朝の礼拝において、律法には3つの働き(用法)があることを語りました。
 第一用法:市民的用法
 第二用法:教育的用法
 第三用法:倫理的用法

Ⅳ.恵みの契約に生きる私たち
 つまり、ユダヤ人たちが主張する「律法厳守」は、主が求めていることではないことを、パウロはここで明らかにします。「~ねばならない」と語られるとき、「あなたは罪人であり、守ろうとしても守ることができない」ことを知り、受け入れなければなりません。だからこそ自らで救いを獲得しようとするのではなく、主の恵み・キリストの十字架による贖いによる神による救いを受け入れることが求められています。
 キリストは、十字架の死と復活の御業により、私たちの罪が贖われ、神による救い、神の子とされ、救いに与ることができるように、仲介してくださったのです(20)。
 一方、アブラハムに与えられた恵みの契約は、神による決定がアブラハムと私たちに与えられ、宣言されたものであり、仲介者は不要なのです。
 旧約の時代と新約の教会では違いもありますが、しかし恵みの契約ということでは、まったく同じ契約です(参照:ウェストミンスター信仰告白7:6)。つまり、アダムにおいて与えられた原福音・アブラハムにおいて更新されたこの恵みの契約を、今に生きる私たちにも受け継いでいます。
 だからこそ、私たちは自分で一生懸命に神にすがり求めず手を離せば、滅びるというものではありません。主なる神が私たちをしっかりと受け止め、罪の赦しと救い・天国へと導いてくださいます。
 私たちは神の恵みによって救われ、天国に行くことが約束されています。主を信じ、安心して、天国への道を歩み続けましょう。
 
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 「律法の役割」  ガラテヤ3:21~25    2023.10.15   
 
序.
 パウロは、ガラテヤの諸教会の人たちが、パウロが語った福音、すなわち律法によって救われることはなく、信仰によって救われていることを忘れ、律法によって生きていることを強く批判します。一言語るのではなく、繰り返し言葉を重ねるように語るのは、それだけ律法主義に凝り固まっていたということが言えるかと思います。

Ⅰ.律法と恵みの契約の関係
 そしてパウロは、アブラハムに与えられた恵みの契約こそが、私たちに与えられた相続(契約)であって、律法は契約ではないことを語りました。そして、「では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです」(19)と語り、さらに、「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない」(21a)と語ります。前回、私も律法は相続(契約)ではないと語りました。律法とは何なのか?
 アブラハムに与えられたのは、恵みの契約でした。信仰義認であり、信じれば救われます。これは、人が罪を犯した後にお与えくださった原福音(創世記3:15)を引き継いだもので、原福音は主の御前に罪を犯した人に与えられた恵みの契約です。ここで私たちが忘れてはならないのは、旧約のイスラエルの民も、私たちも、罪の中に生きている事実です。そのため私たちは律法によって義とされることはありません(21b)。

Ⅱ.生命の契約と律法
 つまり主なる神は、人に対して最初に一つの約束をしてくださっていました。生命の契約(業の契約)と語られます(創世記2:16-17)。
 人、つまりアダムとエバは、一本の木の実、善悪の知識の木の実から食べなくても、豊かな生活が保障されていました。そして、神と交わり、神を礼拝し・神の御言葉に従って生きることができました。やがて神の国が完成し、人は神の恵みの内に永遠に生きることができたのです。このとき、人に罪がなく、律法も必要ありませんでした。
 しかし「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです」(22a)。アダムとエバは罪を犯しました。このとき以来、人は、生まれながらにして、また毎日の生活にあって、主の御前に罪を犯す者となりました。原罪と現実罪です。
 罪の結果は死です(創世記2:17)。そして律法が与えられることにより、私たち人間は、罪の支配下に生きており、だれも死を免れ得ないことを知ります。律法が与えられなければ、私たちは自分自身が罪の中に生きていることを知ることができませんでした。

Ⅲ.罪が示されることにより、初めてキリストを受け入れる!
 私たちは律法が示されることにより、行い・言葉・心の中にある罪が指し示されました(23)。前回も語りましたが、律法の第二用法(教育的用法)です(参照:ウェストミンスター信仰告白19:6「第二に」)。
 このとき私たちは、自分自身には神によって救われる義を持っていないことを知り、死んだら滅びることを受け入れざるを得なくなります。このとき初めて、主なる神による救いに寄り縋る者とされます。このときに与えられるのが、神の御言葉によって示されたイエス・キリストです(22b)。

Ⅳ.律法は養育係としての働きは終えたけれども、不要ではない!
 パウロは「律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係である」(24)と語ります。先程説明した律法の第二用法のことです。十戒に代表される律法が、主から示されることにより、私たちは罪人であることが明らかにされました。自らの行いにおいては神による救いを得ることができないことが分かったため、イエス・キリストによる罪の贖いを受け入れ、主なる神への信仰に導かれたのです。
 「私たちは養育係の下にはいません」(25)とは、養育係であった律法が不要になったと語っているのではありません。これは、律法の第二用法「教育的用法」の役割は終えたと語っています。
 キリストに結ばれて、神による救いに生きようとするとき、神の子としての相応しい生活が求められます。このときに改めて律法を用います。これが、律法の第三用法・倫理的用法です。これがキリスト者としての善き業・聖い生活を求めることにつながります。ルター派教会では、「信仰義認」を強調し、律法の第二用法を重視しますが、改革派教会は、律法の第三用法を用いることを、強調します。そのため、私たちにとって十戒に代表される律法が不要になったのではありません。なおも十戒の重要性を、十戒の前文・要約(マタイ22:37-40)に確認して、十戒を学び続けることが大切です。
 
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「キリストにおいて一つとなる」  ガラテヤ3:26~29    2023.11.5   

 序.
 今、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナの間で戦争が行われています。民族・言葉・文化・宗教が違うことによる対立です。戦争の原因は、人間の罪の結果としての分断と自己顕示欲によります。このとき、上に立てられた為政者・権威者の責任が大きいかと思います。

Ⅰ.バベルの塔建設の結果
 私たちは、この分断の原因を確認することが求められます(創世記11:1~9:バベルの塔)。混乱・分断の原因は人が神に近づき、神に代わろうとして塔を建設したからです。人は罪があるからこそ、自分が神に代わろう・人より上に立とう・支配しようと考えるのです。この罪の結果が死です。だからこそ、人は皆、肉の死を迎えます。そして、この罪の結果、最後の審判により、罪の刑罰としての滅びが待っています。

Ⅱ.キリストに結ばれる
 このように罪の故に死に、滅び行く私たち人間をなおも愛し、罪の赦しを与え、救いへと導いてくださるのが主なる神です。私たちの罪の刑罰を支払うために、主は御子イエス・キリストをこの世にお送りくださり、キリストは十字架に架かり、自らの命を死に明け渡すことにより、私たちの罪を償ってくださいました。
 そしてパウロはこのキリストを救い主として信じる者に、神による罪の赦しと救いが与えられることを、語り続けてきました。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(26)。
 私たちは信仰により神の子とされました。このとき私たちは、神になろう・神に代わろうとする必要はなくなります。キリスト・イエスと結ばれ、そのしるしとして洗礼を受けます。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(27)。「キリストを着る」とは、神の子とされていることです(参照:ウェストミンスター大教理問165)。洗礼を授かることにより、神に接ぎ木され、神の子として養子とされたのです。
 私たちは信仰を告白し、洗礼を授かることにより、キリストを着て、そして神の子とされました。もう、神に敵対し、神に代わろうとする必要はなくなりました。人と戦い、人を支配する必要がなくなりました。

Ⅲ.キリストにおいて一つとなる
 ですから、「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」(28)。つまり私たちが洗礼を授かり、神の子とされたため、神と和解しました。その結果、バベルの塔の建設によってもたらされた主の裁きとしての混乱・分断が解消されました。国・民族・言葉の壁が取り払われます。身分・性別や体の障害による差別もなくなります。 この結果、言葉が違い、意思疎通が行えないことも解消します。自分が他者よりも力を持ち、優位に立つ必要もなくなりました。
 「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(28b)。このとき、神の国においては、あらゆるハラスメントやいじめもなくなります。互いに和解し、一致がもたらされます。こうした小さなトラブルがなくなることにより、権力闘争・国と国・民族と民族・宗教と宗教の争いもなくなります。これが終わりの日、神の国に訪れます(参照:イザヤ2:4)。
 キリストの十字架の贖いは、すでに成し遂げられました。しかし現実には、戦争が継続しています。「だから宗教はダメ・あてにならない」ではありません。キリストは十字架の死により、私たちの罪の贖いは成就し、キリストは復活を遂げてくださいました。このことにより、死・罪・サタンに対して勝利を遂げてくださいました。そしてキリストは、天に昇られ、今、神の右の座についておられます。このキリストが、再臨を約束してくださいました。キリストが再臨し、最後の審判を行って、すべての罪を裁き、神を信じるキリスト者を、神の御国である天国へと導いてくださいます。
 このとき、戦争も争いも敵対することもなくなります。私たちは、天国に向けて歩み続けています。再臨を待つ現在、私たちは神が完成してくださる神の国を目指し、教会を形成し、為政者に平和を求めることを訴えなければなりません。

Ⅳ.あなたは神の相続人である!
 パウロは、あなたがたもアブラハムの子孫であることを強調します(29)。これは肉においてイスラエルに属することではなく、信仰によって霊的なイスラエルとして、アブラハムの子孫とされることです。
 そして「あなたたちは、約束による相続人で」す。神の相続人、キリストが受け継ぐ神の財産を、キリストにつながるあなたも約束されています。
 
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 「神の相続人」  ガラテヤ4:1~7    2023.11.19 
 
序.
 パウロは、ユダヤ人キリスト者に対して、信仰によって救われるのであり、律法は、キリストのもとに導く養育係であると語りました(3:24)。つまり、律法が示されることにより、私たちは行い・言葉・心において主の御前に罪を犯す罪人であることが明らかにされたのです。それ故に、律法を守るのではなく、信仰を告白しする者こそ、神の救いに与ります(3:29)。

Ⅰ.神の相続人
 キリスト者は神の子とされ、神の相続人とされています(ウェストミンスター大教理問74)。相続人は、親である主なる神からすべての栄光・祝福が与えられます。
 また大教理問答は、「神の無償の恵みによる決定です」と語ります。神の子とされ、神の相続人とされるのは、私たちが自らの行いにおいて義を獲得したからではなく、主の永遠の御計画に伴う決定であり、主が聖霊をとおして私たちに働きかけてくださるからです。その結果、私たちは主への信仰を告白します。

Ⅱ.未成年である旧約のイスラエルの民
 パウロは、旧約におけるイスラエルと新約に生きるキリスト者の違いを説明しようとします。旧約の時代は神の相続人として未成年でした(1-3)。つまり、神の相続人として、神の財産を受け継ぐ権利を持っていますが、まだ未成年なため、自分で財産を管理する能力がなく、そのために後見人や管理人の監督の下にあったのです。
 つまり旧約のイスラエルの民は、神の奥義が明らかにされておらず、預言において、予告・設計図だけが見せられている状態です。完成された状態がまだ分かりません。そのため、主が顕現されることにより、主なる神がおられ、イスラエルに対して主の御業を示されます。それが幕屋における礼拝となり、臨在を示す契約の箱となります。律法により、行い・言葉・心において罪人であることを示し、罪人であるけれども、主を信じる者に救いを与えることを、出エジプトと荒野の40年の養いにより、示してくださいました。そして罪の悔い改めのしるしとして、動物による生け贄を献げることを求められました。
 これはキリストの御業が行われる前、未成年であるイスラエルに示されたことでした。彼らは、神の臨在・神による救い・罪の贖いが示されましたが、本体であるキリストの御業が成し遂げられていない状態でした。そのため、彼らの罪の赦しと救いは、キリストの来臨を待つ必要がありました。

Ⅲ.キリストの御業が成し遂げられた新約の時代
 今やキリストは来臨し律法をまっとうし、十字架と復活の御業は完成しました(4-5)。
 約束のメシアであるキリストは乙女マリアの子として来臨しました。キリストが、人の子どもとしてお生まれになったのは、罪の故に滅び行く私たちを救うためでした。そのために何が必要か? 二つあります。
 第一に人が罪の結果、受け取ることができなくなった神との約束を果たすことです。つまり生命の契約を守ること(創世記2:16,17)、律法をまっとうすることです。そのために、メシアは人から産まれ、律法の下に生きることが求められました。キリストの御業としての積極的な服従と言われます。
 キリストの積極的服従により、律法をまっとうできない罪人であることを理解した人の負の部分が解消したのです。
 第二に、罪の結果の刑罰に遭うことです。キリストは、十字架の死・葬り・陰府下りにより、私たちが担うべき罪の刑罰を肩代わりしてくださいました。これが贖いです。この十字架の御業が消極的服従です。
 キリストの御業は、私たちを救うためであり、私たちの負の遺産である罪の刑罰を十字架で行われ、神の子としての特権を受け取るために必要な律法をまっとうすることを、成し遂げてくださいました。
 キリストのこの二つの御業により、私たちの罪は赦され、神の相続人として財産を受け取る権利が与えられました。そのため旧約のイスラエルに求められた律法をまっとうすることは、救いの条件としては不要となったのです。

Ⅳ.新約の時代に生きる私たち
 さらに「御子の霊」(6)である聖霊が与えられました。キリストが再臨し、神の国が完成し、神の祝福に満たされるまで、主は私たちを見捨てることをありません。聖霊が与えられることにより、私たちは常に神と共にあります。そのため私たちはいつでも主に頼り、祈り求めることができます。
 そして、神の子とされているからこそ、サタンの誘惑により、罪を犯すことを避けなければなりません。それが律法に従って生きることであり、救いの条件として律法が与えられているのではありません。
 
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 「あなたは神に知られている!」  ガラテヤ4:8~11    2023.12.3 
  
 
 序.
 パウロは、律法を守ることにより救われると考える律法主義ではなく、主なる神を信じる信仰によって救われることを語ってきています。信仰がずれているとしても、主なる神を信じていることが前提です。このときに、私たちが信じている主なる神はどのようなお方であり、私たちが主なる神をどのように信じているかが問題です。

Ⅰ.かつては罪の奴隷であった私たち!
 今は神を知っているが、神を知らなかったときのことを、私たちは顧みなければなりません(8)。「神を知らない」と語るとき、二つのことが考えられます。一つは、神を知らず、まったく自分の力で生きてきたことです。もう一つは、主なる神以外のもの、つまり偶像を神とし、信じてきたことです。これらはいずれも、主なる神以外のものの奴隷、つまり罪の奴隷でした。
 十戒では前文が記されています。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」。エジプトで奴隷であったイスラエルの民が主なる神により救い出されたのですが、新約に生きる私たちも、これを省くことなく告白します。新約に生きる私たちは罪の奴隷であり、肉の死、そして永遠の裁きから逃れられなくなっていたのです。
 主なる神による救いに与るとは、この罪の奴隷から解放されることであり、十戒の前文が私たちにとっても大切なのです。

Ⅱ.主なる神は、あなたを知っておられる!
 「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(9)。この御言葉は非常に大切です。私たちは「神を信じている」と語りますが、私たちがどのように神を知っているのか、神を信じているのかを問い続けなければなりません。
 このとき、私たちが「神を知っている」、「神を信じている」と語る前に、主なる神が「あなたのすべてを知って」おられます。参照:ザアカイ(ルカ9章)、サマリアの女(ヨハネ4章)
 天地万物を無から創造し、その時以来すべてを統治し、全知全能である神の御前に、私たちは生きています。私たちは、他人には隠すことができたとしても、神の御前には、行いばかりか、口から発した言葉、心の中まで何一つ隠すことはできません。
 主なる神が、律法に従って人を救われるのであれば、私たちは誰一人、救いに入ることはできません。

Ⅲ.偶像は無力であり、旧約の儀式律法の役割は終えた!
 だからこそ、パウロは強い言葉をもってガラテヤの信徒たちを叱責します(9)。パウロは、主の教えから離れ、偶像に仕えていると語ります。つまり、「神を信じている」と語りながらも、周辺諸国の偶像に取り込まれ、そして主の教えから離れて行っていたのです。主なる神が、生きて働いておられ、私たちのすべてを知っておられる全知全能の神であるのに対して、神々は人の手で作られた偶像です。何の力もありません(参照:エリヤとバアルの預言者:列王記上18章)。
 「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」(10)。これらは、安息日・断食日・新月・過越祭・七週祭・仮庵祭・生け贄など旧約の儀式のことです。旧約の時代、これらの儀式はメシアを指し示す事柄として非常に大切でした。しかし、これらの儀式は、キリストの来臨と十字架の御業により不要となりました。そのため私たちは、儀式という形式にこだわる必要はなくなりました。
 儀式(形式)に頼ろうとするのは、そもそも主なる神がどのようなお方であるのか理解していないからです。
 私たち罪人の罪を赦すためには、人が罪の償いを行うことが求められました。そのために、神の御子であるキリストが人としてお生まれになり、私たちに代わりに十字架の苦しみを担われ、肉の死を遂げられました。しかし御子は復活を遂げ、罪と死・サタンに勝利を遂げてくださいました。
 だからこそ、イエス・キリストを救い主と信じるキリスト者は、自分では罪を持っていますが、キリストの故に罪が贖われ、救われ、永遠の生命が与えられました。

Ⅳ.ダイナミックに働く主なる神を知れ!
 私たちは、この主なる神のダイナミックな救いの御業を、小さく頭の中に閉じ込めてはなりません。私たちは、主なる神の壮大な救いの御計画の全体像、そしてイエス・キリストによって成し遂げられた十字架の御業を、受け入れなければなりません。
 このとき、御言葉の説き証しである説教が大切になってきます。キリストの十字架の御業を指し示す主の晩餐の礼典が大切になります。そして、パウロが語ったこうした福音を彼らは一度は受け入れ、信仰を告白したにもかかわらず、そこから離れてしまったのです(11)。
 信仰を告白しながらも、少なくない人たちが、教会から離れていきます。様々な要因がありますが、根本的に問題は、主なる神がどのようなお方であるか、さらにこのダイナミックな主なる神の御業を理解していないことから来ています。
 私たちは、このダイナミックな主なる神の証し人であることが求められています。
 
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 「あなた方が味わった幸福」  ガラテヤ4:12~20    2023.12.10
 
序.
 パウロは手紙において、ガラテヤの信徒たちがパウロが語った信仰から離れ、ユダヤ人のように律法主義に陥っていることを嘆いています。

Ⅰ.信仰を変質したガラテヤの信徒たち
 今日のテキストに「あの者たち」(17)とでてきます。律法主義者であるユダヤ人のことを指し示しています。つまり、ガラテヤの信徒たちは、律法主義者たちの影響で信仰が変質してしまったのであり、当初はパウロが語った福音を聴き、受け入れ、純粋な信仰を持っていたのです(12-15)。
 つまりパウロはガラテヤの信徒たちを、ただ批判しているのではなく、純粋な信仰に立ち帰ることを願っています。

Ⅱ.パウロを受け入れていたガラテヤの信徒たち
 ここにおいてパウロは、ガラテヤを宣教した当時のことを話します。パウロは、他の書簡においても、様々な試練に遭ってきたことを語っています(Ⅱコリント11:23-28)。そしてパウロは、自らの弱さをキリストにあって誇っています(13)。ガラテヤの教会において、パウロの身に何が起こったのか、はっきり記しませんが、逮捕され囚人となったか、人々から辱めを受けていたのではないでしょうか(14)。そしてガラテヤの教会の信徒たちは、人々からパウロと同じ囚人と見られることを恐れず、パウロを受け入れ、パウロの語る福音を受け入れました。
 さらに、「自分の目をえぐりだしても~」と、迫害をも恐れず、主によって与えられる救いの希望に生きていました(15)。

Ⅲ.変質する信仰の要因と、神礼拝への招き
 しかしパウロは、「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか」(15)、「わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか」(16)と語り、ガラテヤの信徒たちの信仰が変質してしまったことを指摘します。
 私たちは弱く・日々の生活に追われ、主から与えられた恵みである信仰で変質してしまうことがあります。私たち自身の弱さが原因ですが、外的要因も大きいです。
 この外的な要因を考えるとき、その一つが、ここで「あの者たち」と語られるような、直接的な人の働きかけです。そしてもう一つ、社会の状況・雰囲気です。
 「あの者たち」に関しては、後に改めて考えることとしますが、私たちの信仰が弱いと社会の状況・雰囲気に流されてしまいます。今回のコロナ禍にあって、多くの教会が社会に飲み込まれました。第二次大戦中の戦時下における日本のキリスト教会も然りです。多くの教会が、政府が「外出規制」を打ち出すと、教会も礼拝を止めてしまうことが横行しました。
 確かに未知のウィルスによる危険が伴います。しかし、それ以上に大切な礼拝、主なる神との交わり・聖徒の交わりをどのように行っていくかを考えつつ、行っていくことが、大切です。各個教会・一人ひとりのキリスト者が考えることなく、政府にすべてを委ねること、教会の指導者に委ねることは、非常に危険なことです。万が一にも日本で戦争が始まれば、教会も巻き込まれ、第二次大戦中と同じような道を歩む危険性が、あるのではないでしょうか。
 私たちの信仰が弱いため、主は七日毎に私たちを礼拝へとお招きくださいます。十戒の第四戒は主からの命令ですが、主が私たちの弱さを覚え、礼拝にお招きくださっているのです。また、リジョイスを用いたりして、毎日家庭礼拝を行うのも、私たちに与えられた主の恵みです。

Ⅳ.揺るぎない信仰を形成するために
 さて「あの者たちは、あなたがたに対して熱心」です(17)。熱くなることを否定しませんが、すべてのキリスト者が同じように熱くなる必要はありません。むしろ、かれらの熱心の理由を考えなければなりません。異端と言われる人たちは伝道の時間や献金額といったものにノルマがあります。ノルマを達成することにより、より救いを確かにしようとしています。目標があった方が、やり甲斐を感じてしまうのが、人間の性(さが)ではないでしょうか。
 私たちは、日々主の御前に信仰を顧みること、彼らの伝道熱心さの本質を見抜くことで騙されることなく、信仰が守られます。
 パウロはガラテヤの信徒たちに「わたしの子供たち」と語りかけます(19~20)。パウロは決して彼らを突き放したり、見捨てたりしていません。福音が伝えられ、救いの喜びに満ちていた頃の幸福なときを取り戻してほしいと切に願い、語りかけています。
 昨今の日本の教会、そして改革派教会においても、私自身同じ憂いを持っています。主がお与えくださった信条・さらに改革派教会の在り方を、聖書から学び、その信仰の上に立つ教会形成が求められています。

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「イサクとイシュマエル」  ガラテヤ4:21~28    2024.1.7  
 
 序.
 今、イスラエルとパレスチナが戦争を行っていますが、今日の御言葉にはこのことと関連することが語られていますので、私たちは注意深く聖書の御言葉に聴くことが求められています。

Ⅰ.肉によって生きると……
 パウロはガラテヤ教会の人たちに対し、「律法の下にいたいと思っている人たち」(21)と呼びかけます。旧約の律法に従って生きている人たちに対して、旧約の律法には何が語られているのか注意深く聴きなさい、とパウロは語ります。
 「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります」(22)。これは、創世記16:10,15、21:2より引用しつつ語っています。
 アブラハムがハガルによってもうけたイシュマエルは、アブラハムの思い・主の御言葉を信じ切ることができずに人間的な知恵によって子どもをもうけたのであり、「女奴隷の子は肉によって生まれた」と語ります(23)。そのことに対して、イサクは、主の御計画に従い、主の約束によってサラの子として生まれた、自由な女から生まれた、約束の子です(23)。

Ⅱ.行いの契約に生きることは奴隷である!
 パウロは、ハガルを女奴隷、サラを自由な身の女と語りつつ、「この二人の女とは二つの契約を表しています」(24)と語ります。つまり二人は実際に身分の違いがありますが、これらが神の二つの契約、つまり行いの契約と恵みの契約の関係を表しています(参照:ウェストミンスター大教理30)。
 行いの契約は、善悪の知識の木の実を食べること(創世記2:16)と関係していますが、アダムとエバがこれを破ったことにより、彼らから通常に生まれるすべての人が、罪をもって生まれ、日々罪を犯しています。つまり行いの契約は、神との救いの契約は、破棄されました。この行いの契約を引き継いでいるのがハガルです(24b-25)。
 「シナイ山に由来する契約」(24)とは、出エジプト時にモーセが与えられた十戒のことです。つまり、罪を犯した者は、律法が指し示されることにより、自らの罪を顧み、主の御前にあって救いがないことが示されます。だからこそ、主による救いを求めて、主を信じることが求められました。
 そして律法の下に生きる者は、奴隷となっています(25)。モーセは十戒を授かるにあたり、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20:2)と語られました。本来のイスラエルは、主によって奴隷から救い出された自由の身分が与えられた者であり、主を信じ、主による救いに生きることが求められていました。しかし、ここで与えられた律法を奴隷の下で解釈した結果、律法主義者となったのです。
 また奴隷として律法の下に生きることは、今のエルサレムに生きることです(25)。今、イスラエルとパレスチナにおいて行われている戦争は、まさに今のエルサレムを巡る争いです。しかし聖書は、今のエルサレムを求めることは、奴隷の身分であると語ります。今のイスラエルはユダヤ主義者であり、パレスチナはハガルの子イシュマエルに繋がる者たちです。そしてキリスト者は、今のエルサレムに固執する必要はありません。一部のキリスト者は、シオニズムと語られるイスラエルを支持する人たちですが、彼らの聖書解釈は間違っています。

Ⅲ.信仰によって生きるキリスト者
 私たちキリスト者は、地上のエルサレムを求めるのではなく、天のエルサレム、神の国、天国を目指しています(26)。主なる神が、アブラハムに約束してくださった約束の地は、地上におけるイスラエルはしるしに過ぎず、天のエルサレムこそが、約束の地・神の都です。
 27節にはイザヤ54:1が引用されています。不妊の女が子どもを産むことは、主なる神の御業として行われます。つまり、私たちは人間的に考え、律法に従って生きるのではなく、主なる神を信じ、主の成し遂げる御業を信じて生きることが求められます。このとき、奴隷として滅び行く者が、信仰により神の恵みに入れられます。
 ですから大切なことは、肉においてイスラエルとなる・律法に従って生きることではなく、罪を犯し、罪の奴隷であることを認めた上で、信仰によって生きることです。
 主なる神は、私たちの信仰の故に奴隷から解放し、自由な身分、天のエルサレムに属する者としてくださいました(28)。
 私たちキリスト者は、身分としての奴隷とされている人たち、肉においてイスラエルとして生きる人たち、さらには肉においてイシュマエルの子として生きるパレスチナの人たちが、今の奴隷としての身分から解放され、天のエルサレムを目指す信仰が与えられることを切に求めなければなりません。ここに真の平和が実現します。
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「あなた方は神の子だ!」  ガラテヤ4:28~5:1    2024.1.14   
 
序.
 アブラハムの二人の子。サラから生まれたイサクは自由の身分の子であり、女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルは奴隷の身分の子です。その上で、肉においてイスラエルとして生まれることが自由なのではなく、律法では罪が示されるのであり、主による恵みに生き、主なる神への信仰に生きることこそが真の自由の子、神の救いの民です。前回、このことを確認しました。

Ⅰ.分かれろ!
 パウロは、ガラテヤ教会の信徒たちに、すでに信仰告白した「あなたがたは約束の子」であることを語ります(28)。
 それと同時に、キリスト者として歩むことは、迫害もあることを指摘します(29)。つまり、律法に従って生き、自分は正しいと誇って生きる者は、信仰によって生きているキリスト者とは、生き方が異なります。その結果、迫害・抑圧が避けられません。
 パウロは、イサクとイシュマエルの話しを続けます(創世記21:9)。創世記を読む限り、単なる兄弟げんかのようですが、ガラテヤ書では、このことは主を信じる約束の子と、主から離れていく奴隷の子との間の争いであると語ります。
 キリスト者として信仰によって生きようとするとき、主を信じることなく・知ろうとしない人たちとは、根本的に生き方・物事の価値観が違い、衝突が避けられません。
 キリスト者人口の少ない日本において、明治期、キリスト教会の指導者たちは、国(為政者)に受け入れられ、認められることを目指しました。禁教令を知っているキリスト者にとって、このように思うことは理解できます。しかしこのことは、神の民としての本来持っていなければなければならならいものを犠牲にすることとなります。
 日本では、1912年に神道・仏教・キリスト教の代表者が共に集まり、キリスト教が正式に政府に認められました。このことでキリスト教会は大喜びしました。しかし結果として、朝鮮併合が行われる中、教会は韓国・朝鮮人の立場に立つことなく、植民地化に協力し、日中戦争・第二次世界大戦に協力していきます。そして天皇を神の立場に起くことを認め、キリスト教の指導者が神社参拝を行い偶像崇拝を行いました。

Ⅱ.迎合してはならない!
 サラがハガイとイシュマエルを追い出すように訴えたとき、主はそのとおりにするようにアブラハムに語られます(同21:9-13)。
 つまり、アブラハムがハガイとイシュマエルを家から追い出したのは、一緒にいることで、闘争・迫害が発生するからであり、一緒にいることから生じる衝突、さらには信仰が変質していく危険性を取り除くためでした。このことは、出エジプトを果たしたイスラエルに対して、主は、原住民であったカナンの人々を滅ぼし尽くすことを命じていることにも通じます。主は、主の裁きとして、カナンの原住民を取り除くように命じられました。
 私たちキリスト者は、まだ神のことを信じていない多くの人たちと共に生きています。そのため、私たちは伝道することが求められます。しかし先程も語ったとおり、彼らに迎合してはなりません。彼らに受け入れられるよう彼らに合わせるのではなく、キリスト者として、神の真理を貫き、福音を証しして生きることが求められています。

Ⅲ.自由な道を歩むキリスト者
 私たちが忘れてはならないことは、いま「わたしたちは、……自由な身の女から生まれた子です」(31)。私たちは、奴隷の子として生まれ、滅び行く者でした。律法を完全に守ることができないからです。しかし、主イエス・キリストによって提示された罪の赦しを受け入れることにより神の子とされ、自由な者とされたのです。
 ウェストミンスター大教理問答問165には、洗礼について問答があります。ここで「御自身への接ぎ木」と語られています。神の子とされる(養子)とされたのです。
 根本的に生きる道・生きる目的が、変わったのです。自分のため、権力・武力・財力を身に付けることは不要となりました。それらは罪の奴隷であって、滅びの道であることが示されたからです。
 信仰により、キリストの十字架により、キリストと接ぎ木され神の子とされました。つまり私たちは神の目的に従って生きることとされたのです。私たちの生きる目的は、神に栄光を帰し、永遠の神を喜びとすることです(ウェストミンスター小教理1)。
 これこそが、罪の奴隷における滅びの道から解放された、自由な道を歩むことです。世の支配に迎合することなく、主による救いの喜びを持ちつつ、主の御言葉に聞き従った歩みをすることが求められています。

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「信仰こそ大切である!」  ガラテヤ5:1~6    2024.1.21    
 
序.
 ノン・クリスチャンの中には、クリスチャンは窮屈であるように思われている方もいます。つまり、毎週礼拝に出席すること、献金を献げることです。しかし、キリスト者は自由であることをパウロは語ります。

Ⅰ.旧約における律法の役割
 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(1)。
 宗教の束縛から自由になると考える人たちがいますが、パウロが語る「奴隷の軛」とは何かを考えなければなりません(1)。罪の奴隷です。私たちキリスト者は、信仰を持ち、罪の奴隷・罪の裁きから解放され、自由の身とされたのです。
 十戒の前文において、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」と語りますが、新約に生きる私たちにも十戒が適用されるのは、罪の奴隷から導き出され、解放されているからです。
 しかしガラテヤの信徒たちは、旧約の民のように、割礼が必要だと語っています。割礼を受けるとは、旧約の規定の中にあって生きることを意味します。恵みにより救いに与ることは、アブラハム以降、新約においても継続していますが、旧約の時代には律法を守ることが求められました。律法には、十戒を代表とする道徳律法だけではなく、祭儀律法・司法律法があります。
 たとえば、祭儀律法としての動物の生け贄は、キリストの十字架の死を指し示すために、繰り返し確認することが求められました。つまりこれを守らなければ、罪の贖いを理解することはできません。そのため、祭儀律法を守ることが求められたのです。
 旧約のイスラエルの民は、こうした主が定められた律法を守ることにより、やがて与えられるメシアによる罪の贖いを確認し、主を信じることが求められました。
 しかし、約束のメシアであるキリストはすでに来臨され、十字架の死と復活が成し遂げられ、私たちの罪の贖いと救いは完成しました。そのため、割礼を受けることも、儀式律法や司法律法に定められた規定を守ることも、不要になったのです。このことをパウロは、「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」と語ります(4)。

Ⅱ.罪人の救い
 私たちはここで改めて、道徳律法の役割を確認しなければなりません。十戒を代表とする道徳律法は、これを守ることを条件に救いが約束されたのはありません。主は、無条件にイスラエルを奴隷から解放してくださった後に、道徳律法・十戒をお与えくださいました(出エジプト20:2:十戒前文)。
 それでは十戒の役割はなんでしょうか? 第一に、十戒に照らして自分はこれを守ることができない罪人であり、主の裁きに価する存在であることを確認することです。主は義・聖・真実な神であり、私たちの行い・言葉・心の中のすべてをご存じです。
 「私は罪人だけれども、主がキリストによって私の罪を赦し、救ってくださった」。このことを知ることが非常に大切です。パウロが、「主イエスを信じなさい。そうすれば、……救われます」(使徒16:31)と語るのは、「罪人である私は、キリストの十字架の故に救われた」ことを告白することです。
 主は私たちに無条件に救いをお与えくださるわけで、ここに主の御業を受け入れ、主を信じる信仰が求められているのです。

Ⅲ.信仰義認
 私たちが神の救いに生きるとき、その目標・希望は「義とされる」ことであり、言い換えれば、罪が赦され、神の子とされ、永遠の生命が与えられることです。
 ここで聖書は「義とされた者の希望」(5)と過去形で訳します。他の翻訳では「義とされる者の希望」です。これは新共同訳聖書の方が、良い訳かと思います。キリスト者の救いは、キリストの十字架の死と復活により確定しました。そして、私たちが主を信じると告白した時点において、義と認められ、これは決定しています。
 この義とされること、つまり罪の赦しと救いは、聖霊により、私たちの罪の心・石の心を打ち砕いてくださり、ここに信仰が与えられることにより、実現しました。

Ⅳ.愛の実践として、律法の第三用法に生きるキリスト者
 キリスト・イエスに結ばれる(6)、つまり十字架の御業を受け入れ、信じるときに、罪の故に滅びる者から、神の恵みによって生きる者へと移されます。そのときパウロは、「愛の実践を伴う信仰」と語ります。信仰により、奴隷の軛から解き放たれ、自由の身となったキリスト者ですが、何を行っても良い自由ではありません。
 世の中には、「表現の自由」があることを語りつつ、他人を虐げることを語る人がいます。しかしこれは、表現の自由の根底にある基本的人権を理解していません。他人の人権を守った上での表現の自由でなければなりません。同様に、
 信仰により救われるのですが、主が私たちに求めていることに従った上で自由に生きることができるのであり、十戒に聞き従うことです。この十戒を実践するときに、私たちは愛の実践を行うこととなります。主イエスは十戒の要約を語っています(マタイ22:37~40)。信仰に伴って、神を愛すること、隣人を愛することが、律法の第三用法であり、「愛の実践を伴う信仰」です。
 主は私たちにキリストの十字架による救いをお与えくださいました。私たちはこれを受け入れ、救いの感謝と喜びをもって、律法に聞き従った愛の実践を伴う信仰を持つことが求められています。
 
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「信仰により自由とされる」  ガラテヤ5:7~15    2024.2.4     

 序.
 私たちは、改革派教会に属しています。御言葉によって改革され続ける教会を意味しています。これは、人間の弱さを認識しているからこそです。つまり人間は、聖書をとおして与えられた最初に持った信仰から、徐々に慣れが生じ、原点から離れていく、自己流になっていくからです。信仰にしても、聖書の解釈にしても、原点に戻ることにより、私たちは神に喜ばれる聖い信仰を保ち続けることが求められています。

Ⅰ.信仰は次第に劣化する
 ガラテヤの信徒たちは、パウロが伝えた御言葉により神を信じ、キリスト者となったのですが、邪魔者が出てきて、真理から離れ、信仰が歪んでいました(7-8)。信仰は、聖書の御言葉に聞き続け、日々新たにされていかなければ、自然と真理から離れていきます。このことは他者の助言・教えに影響されることも少なからずあります。
 小さなことと思っていても、本質から離れてしまうと、小さなパン種が膨れるように、信仰の本質から離れたものとなります(9-10)。なぜならば、信仰の本質から離れたことを教える者は、主による救いから漏れた、主の裁きを受ける者だからです。
 そのため私たちは、御言葉である聖書に聞き続けること、主の日に礼拝に出席し、説教に聞き続けることが求められています。
 聖書から離れることにより、自我による自己流となり、そこに罪が混入します。あたかも真実が語られているようなことを、聖書に確認することなく信じてしまいます。それが次第に大きな誤りとなります。
 そのため私たち改革派教会では、信仰規準・信条を持っています。毎日聖書を読んでいても、また牧師であっても、気が付かないうちに真理から離れていくことが有り得るのです。そのため、教会が告白した信仰規準に常に立ち返り、純粋な信仰から離れないようにすることが求められています。

Ⅱ.信仰による衝突
 まさにガラテヤ教会では、気が付かない内に信仰が変質し、旧約の時代に行われていた割礼が、新約に生きる自分たちにも必要であると信じるようになっていたのです。
 その上でパウロは、今なお迫害を受けていることについて問いただします(11-12)。
 パウロは、以前、ユダヤ人として、律法主義、ファリサイ人として生きていました。律法による義を求め、そのために割礼が必要であることを求めていました。しかし、復活のキリストと出会うことにより、罪により律法によっては救われないことが示され、キリストの十字架を受け入れることにより罪が贖われ、神による救いが示されました。そのためユダヤ人たちから迫害を受け続けています(参照:Ⅱコリント11:23~28)。
 信仰とは、律法を守ることではない、割礼を受けることではない。信仰とは、キリストと出会うこと、キリストの十字架を受け入れること、神の恵みによって与えられることであることが、パウロはキリストと出会うことにより示されたのです。
 主を信じることができない者、律法を守ることにより自分で救いを獲得する者、自分の力で生きている者にとって、キリストの十字架はつまずきです。なぜならば、自分の罪、自分の弱さを受け入れ、自分には救われるための力がなく、その資格もない人間であることを受け入れて、初めてキリストの十字架による罪の贖ないを受け入れることとなるからです。
 新約の歴史をとおして、キリスト者が多数派、教会が国教化している場合を除いて、常にキリスト者は迫害を受けてきました。目に見える迫害のみならず、社会的に受け入れられないこと、家族の中で一人信仰を持ち、信仰の戦いを行っている人たちも、今なお少なくありません。

Ⅲ.自由に生きるキリスト者は、愛に生きる!
 キリスト者が、信仰の故に迫害・虐げ・受け入れられないことは、避けて通ることができません。信仰の故に、生き方・生きる目的が違ってくるからです。
 しかしパウロは信仰を持つことにより、自由を得たと語ります。十戒の前文では「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」と語りますが(参照:出エジプト20:2)、キリスト者は罪の奴隷、滅びから解放されたのです(参照:ウェストミンスター信仰告白20:1)。
 罪の奴隷・刑罰としての滅びから解放されているからこそ、自由なのです。このとき、キリストにあって罪が赦された者として、神を愛し、神を礼拝し、隣人を愛し、愛をもって生きる者とされます(13-15)。
 こうした私たちキリスト者の生き方が、周囲の人たちに自分たちとの違いが示され、それが伝道のきっかけになります。
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「霊の導きに従って生きる」  ガラテヤ5:16~26    2024.2.18      
 
 序.
 パウロは、ガラテヤの諸教会の人たちが、パウロが語った福音から離れ、律法主義になっていることを語ってきています。

Ⅰ.肉と霊の対立に生きるキリスト者
 神の恵みによって救われていることを受け入れるとき、私たちの生まれながらに持っている罪から離れ、神の求めに応じて生きることとなります。これが「肉において生きる」ことから、神の恵みによって信仰により「霊に従って生きる」ことです。
 私たち人間の生まれながらにもっている人間性は罪に満ちています。全的堕落であり、罪の性質をもって生まれ(原罪)、日々の生活の中にあっても主の御前に行い・言葉・心の中で罪を犯します(現行罪)。そのすべてが罪の刑罰としての死・滅びを避けることができないものです。
 キリストと出会い、神の恵みに生きるとき、罪に生きることから離れようとします。これが霊に従って生きることです。両者は対立し、両立することはありません。しかし、信仰を告白した私たちキリスト者は、罪赦された罪人と語られるとおり、肉に生きる本質をまったく捨て去ったわけではなく、残滓が残っています(18)。

Ⅱ.肉の業に生きる者
 肉に生きることとはどういうことであるかが、19~21aで列記されています。①性的な乱れ、②宗教的な混乱・腐敗、③社会的な人間関係の乱れ、④自制心の欠如です。
 しかしこれらは罪の極一部であり、聖書全体には様々な罪が列挙されています。このすべての罪を分類しているのが十戒です(参照:ウェストミンスター小教理41-81、大教理98-148)。
 「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」(21)。これは非常に厳しいことを語っているように思います。しかし、私たちに求められていることは、これらのことが罪であり、罪の刑罰として滅びにいたるものであることを認識し、また自らの意志において、こうしたものを行わない・離れることです。

Ⅲ.救われ、霊の導きに生きるキリスト者
 パウロは「霊の結ぶ実は愛である」(22)と語ります。つまり生まれながらにして全的に堕落している人間には、愛は無かったものであり、主が聖霊をとおして私たちに働きかけてくださらなければ、知ることも実践することもできませんでした。ですから、神を知り、神を信じ、神から語られた御言葉に従ってこれらのことを知り、それが実って実践することが求められています。
 ここで最初に語られているのが愛です。つまり愛を考えるとき、主なる神によって愛され、救われた私たちは、縦の関係、神を愛するものとされます。その上で、横の関係、隣人への愛の広がりを見せます(参照:マタイ22:37-40)。
 では、私たちが愛を実践するとき何が求められているでしょうか。知ること、そのために人格的な交わりを行うことです。交わりを行うことにおいて、問題があれば解決に向けて一緒に考えることとなります。施しが必要であれば施します。賜物を用いて頂けるのであれば、奉仕のために協力していただくこととなります。
 そしてそれに続けて語られている「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」とは、愛の交わりをどのように行うのかです。つまり愛に生きるとは、支配・従属の関係、上下の関係ではなく、互いに人格を認め・尊重し、遜りを持つことです(参照:ウ小教理63-66、大教理123-133)。
 こうした愛の交わりを、寛容・親切・善意・柔和・節制により行うことにより、平和が構築され、生きる喜びが与えられます。 こうしたことは、神から与えられるものであり、禁じられることはありません(23)。

Ⅳ.キリストの十字架の愛に生きる
 私たちが、罪による死・裁きをはっきりと知るとき、主への信仰を告白し、主が御言葉に指し示してくださる御言葉によって生きる道が示され、肉の欲情や欲望といった罪を否定し、罪赦された愛に生きることができます。これがパウロの語る霊の導きに従って生きることであり、神の民として神の国へ前進することです(24-25)。
 パウロは最後で「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」と語ります(26)。これらは、私たちの弱さの表れです。キリスト者として生きようとしても、罪の残滓があり、キリスト者であることをうぬぼれたり、意見の相違などから挑み合ったり、主導権争いをするねたみ合いが生じます。正直なところ、こうした争いはキリストの大きな愛を理解していない、心の小ささから生じています。キリストの十字架の愛に包まれた者として、互いに平和に、互いに喜びに満ちた歩みを行っていくことが大切です。
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「柔和な心で、正しい道を歩む」  ガラテヤ6:1~10    2024.3.3
 
   
 序.
 教会を立てるための教会のしるし(マーク)として、御言葉(説教)、祈祷、正しい聖礼典、さらに訓練としての戒規があります。

Ⅰ.柔和な心をもって戒規せよ!
 今日の御言葉においても、戒規について語られています。私たちキリスト者は、罪赦された罪人であり、サタンの誘惑に陥り、罪を犯してしまうこと、人を傷つけてしまうこともあるかも知れません。そのため、「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」(1)、その罪を裁くことを行うのではなく、「正しい道に立ち帰らせ」ること、つまり罪の悔い改めを行い、信仰を回復させることが求められます。
 このときに教会(特に牧師・長老)は、柔和な心で、その人に相対することが求められます。キリストの立場に立ち、上から裁いては、問題は解決しません。
 ここで大切なことは、すべてのキリスト者が、罪赦された罪人であり、同じようにサタンの誘惑に陥り、罪を犯す危険性があるということです(2-5)。
 「自分は罪を犯していないが、この人は罪を犯した」との思いが、裁きとなります。行いにおいて罪を犯していないとしても、言葉において人を傷つけること、心の中で罪を犯すことを、私たちは毎日行っています。これらはすべて罪であり、日々罪の悔い改めが求められています。そうであるならば、自らを誇ることなどできません。これが「自分の行いを吟味」することです。
 このようにすることにより、主の御前に遜り、その人の前でも柔和に対応することが可能となります。

Ⅱ.主がお与え下さった様々な賜物により、教会は立つ!
 そしてパウロは、「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」(5)と語ります。私たち自身の罪のために、キリストは十字架にお架かりになりました。これがここで語る自分の重荷です。
 このときに、柔和な心を持つと共に、主なる神の御前にあっても、隣人の前であっても、遜りの心が生じてきます。そうすることにより、自分に与えられている主からの賜物、人一人ひとりに与えられている能力としての賜物を、受け入れることができ、一人ひとりの優れたところを認め合うことができるようにされます(参照:ローマ12:3-8)。
 その上で、パウロはローマ12:10において、「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と語ります。
 そしてパウロは、ガラテヤ6:6で次のように語ります。「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい」。御言葉を教える牧師は、一般信徒より偉いのでしょうか? 教える賜物も主がお与えくださいました。牧師は自分の力・能力で御言葉を教えているのではありません。また、様々な賜物を持った長老・執事・そして奏楽者・教会学校の先生方、その他一人ひとりが教会に集い、主によって与えられた賜物を用いて奉仕することにより、教会が成り立ちます。
 つまり牧師も、主の御前にあっては一人の罪赦された罪人であり、他の信徒と同じです。そして一人ひとりの信徒たちの支えによらなければ、生活を維持していくことはできません。そのため「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません」(7)と語り、牧師が神のように君臨することを戒めています。

Ⅲ.霊に生きよ!
 続けてパウロは語ります。「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」(7b-8)。農作業は手入れをしただけ、良いものが育ちます。私たちは自分の力で何かを行えば、全的堕落であり、結果は罪の結果の滅びです。しかし主なる神を信じて、信仰に生きるとき、主からの霊が与えられ、キリストの十字架の罪の赦しと救いに生きることができるようになります。キリストの十字架により、滅びではなく、罪の赦しと神の国の永遠の生命に生きることができるようにされます。

Ⅳ.神と隣人と共に生きるために
 そしてパウロは最後で「すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」(9-10)と語ります。「善を行う」とは、自分で一生懸命に十戒を守る律法主義ではありません。キリストの十字架により罪が赦された者として、主に感謝し、遜り、柔和な心で律法に仕えることです。その上で、主が一人ひとりにお与えくださった賜物を用いて奉仕し、また隣人に仕えていくとき、主の御霊が満たされた恵みに生きることができ、また教会が立てられていきます。
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「十字架の他に誇るものはない」  ガラテヤ6:11~16    2024.3.10
 
    
 
序.パウロが自筆で記す!
 ガラテヤ書を読み進んできましたが、いよいよ結びの言葉に入ります。
 手紙はパウロが語ったものを、弟子が口実筆記していました。しかし最後の部分は、パウロ自身の手で記すために、大きな字となっています(11)。

Ⅰ.割礼を受ける必要などない!
 そしてこの最後の部分は、今まで語ってきたことのまとめを記します。つまり、今日のテキストを読めば、ガラテヤ書で語ってきたことを理解することができます。
 パウロがガラテヤ書において一番語ってきたことは、ガラテヤの信徒たちがパウロが語った福音から離れ、別の教えを信じ、ていることでした。その中心的なことが、ユダヤ人キリスト者の悪い影響を受け、洗礼とは別に、割礼を必要としたことです。
 しかしパウロは、キリスト者に求められることは信仰のみ(信仰義認)であり、割礼を受ける必要はないことを語ってきました。

Ⅱ.割礼を求める人たちとは……
 割礼を求める人たちは、元来ユダヤ人キリスト者たちだったかと思いますが、ガラテヤの信徒たちがユダヤ人キリスト者に倣おうとするのは、「肉において人からよく思われたい」からです(12)。つまり彼らのは、自分の信念はなく、周囲の人たちから浮いた存在になりたくないのです。ここに神の御言葉を理解しようとする福音理解はなく、雰囲気・形にこだわっています。
 また彼らは「キリストの十字架のゆえに迫害されたく」ありません(12)。彼らは、神を信じていることにより迫害されるのであれば、それを捨てることに抵抗がありません。それよりも、周囲の人たちから嫌われたくない・迫害されたくないとの思いが強いのです。神による救いをまったく理解していないと言わなければなりません。
 さらにパウロは、「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていません」と語ります(13)。ユダヤ人の多くは、律法主義者でした。信仰に入り、救われることを求めますが、自らの行いにより救いを獲得できると信じていました。そのために、彼らは、自分たちがどの律法を守っているのか、示していました。しかしこれらは、旧約聖書が語り、旧約聖書が求めている理解とはかけ離れ、自分たちに都合の良いように解釈したものでした。だからパウロは、彼らは律法を守っていないと宣言します。
 このことを明らかにしているのが、主イエスがマタイ福音書において語られた山上の説教(5~7章)です。旧約聖書の律法を引用しつつ、主が求めておられる福音とは何かを主イエスは弟子たちに教えています。

Ⅲ.恵みに契約に生きるキリスト者
 続けてパウロは信仰の核心を語ります。「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(14)。旧約聖書において主は律法を全うすることにより救われることをお示し下さいましたが、現実に生きる私たち人間は罪を犯します。そのために、肉の死と、罪の刑罰としての裁きを避けることができませんでした。しかし、神の御子あるイエス・キリストが、人として生まれ、私たちに代わって律法を全うしてくださいました。さらに、罪のないキリストが罪人として十字架にお架かりくださいました。キリストの十字架こそが、私たちの罪の刑罰そのものであり、私たちの罪は、キリストの十字架によって贖われたのです(参照:ウェストミンスター信仰告白28:1)。
 神による恵みの契約が与えられ、キリストに接ぎ木され、神の養子とされたのです。その結果、再生され、罪が赦され、新しい生命に生きる者とされました。洗礼は、恵みの契約のしるし(サイン)であり、証印(シール)です。救いの契約書があり、主なる神がサインし、割り印を押してくださっています。あなたは神の子、永遠の救いの民であると、主が宣言して下さっています。
 これが「新しく創造されること」であり(15)、私たちキリスト者は再生・再創造されたのです。
 この真理に生きるとき、周囲の人たちがどう思っているかを気にするのではなく、まず神との関係に生きることであり、御言葉において神の真理を知り、キリストの十字架が私たちの救いに適用され、神と共に歩むことが大切です。
 その上で、教会における信仰の友との聖徒の交わりを大切にし、教会における調和を形成することが求められます。周囲を気にしない独りよがりになってはなりません。キリスト者として、信仰の一致と調和に生きることが求められています。
  
 
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「イエスの焼き印を受けている」  ガラテヤ6:17~18    2024.3.17 
 
 序.
 ガラテヤの信徒への手紙を読み進めてきましたが、今回が最後です。前回、手紙の結論を確認しました。割礼を求めることも、救いの条件として良き行いを求めることもありません。これらは、パウロの語った福音から逸脱したものです。

Ⅰ.イエスの焼き印を身に受けている私たち
 私たちの救いには、キリストの十字架がなによりも重要であり、他には何も必要ありません。その上でパウロは「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」と語ります(17)。
 前回、イエス・キリストを信じて、洗礼を授かるとき、神の子として受けいられることを約束する恵みの契約に、主によりサインが行われ、割り印が押されていることを確認しました。この恵みの契約は、神が私たちに結んでくださった契約であり、神によって破棄されることはありません。だからこそ私たちは、安心して信仰生活を送ることができるのです。

Ⅱ.天国の門は開かれる
 主イエスはヨハネ福音書において、羊と羊飼いのたとえをお話になりました。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」…「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」(ヨハネ10:1-9)。
 私たちは洗礼に伴う恵みの契約書を持っているからこそ、この天国の門を通行することができるのです。

Ⅲ.聖書全体が語る福音
 またヨハネ黙示録においては「神の刻印」として語られます(黙示録7:3-4)。神の刻印が押されず、獣の刻印が残っている者は、主による裁きが行われるとき、滅びることから逃れることができません。
 モーセの時代に、主の裁きがエジプト人を襲ったときに、家の入り口の二本の柱と鴨居に血を塗ることにより、主による裁きは過ぎ去り、イスラエルの民がエジプトを脱出することができたように(出エジプト12章)、神を信じ、キリストの十字架を受け入れて洗礼を授かった者に神の刻印が押されることにより、最後の審判によって世界が裁かれる時にも、裁きは過ぎ去り、神の国における祝福に満たされます。
 つまりパウロが語っていることは、旧約聖書において予表され、主イエスによって語られていたこと、さらに黙示録において預言されていることであり、聖書全体において語られていることです。だからこそ私たちは、パウロが語った福音に耳を傾けることが求められています。

Ⅳ.挨拶が語る、裁きを求める手紙ではない!
 そしてパウロは最後で、「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン」(18)と挨拶の言葉を語ります。パウロは最初の挨拶を語り(1:1-5)、最後でも挨拶を語ります。このことは、当時の手紙の定型句であったと言われています。普通に手紙を書き、それを読んでもらうのであれば、何の問題もないことです。
 しかしパウロが手紙で語っていることは、ガラテヤの諸教会の人たちが、パウロが語った福音から離れてしまったため、悔い改め・信仰の回復を求めることでした。もしかしたら、パウロが語ったことから離れて行くだけではなく、パウロ自身からも距離を置こうとしていた人々も少なくなかったのではないでしょうか。そうした人たちに対して、今、パウロは手紙を書いています。
 だからこそ、決して裁くために手紙を書いているのでも、滅びの宣告を語っているのでもなく、あなたたちは、私と同じイエス・キリストにより神の子とされたキリスト者であることを、挨拶においてパウロが確認することは大切だったのです。

Ⅴ.信頼関係に基づく教会形成
 さらに私たちは、日頃の挨拶や交わりの大切さ覚えなければなりません。私たちは、主の日の朝に夕に主の御前に礼拝を献げています。まず主の御前に立ち、キリストの十字架の御業による救いに感謝しつつ、自らの罪を悔い改め、主への信仰を告白することが求められます。縦の関係です。それと同時に、教会に連なる兄弟姉妹との交わりを疎かにしてはなりません。必要なことだけを話し合うのではなく、日頃から挨拶を行い、コミュニケーションを行うことが大切です。そうすることにより、互いに信頼関係が生まれ、祈り合うことができます。
 こうした信頼関係があるからこそ、何かがあったとき注意したり戒規を行うときにも、聞く耳を持っていただけるのです。 信頼関係がなければ、注意された人は教会から離れていきます。戒規を行う場合、「裁き」と受け取られます。
 パウロが、これだけ厳しい手紙を書くことができたのは、日頃から交わりを行い、親密な関係を築いていたからです。日頃からの交わり、信頼関係があるからこそ、教理に根ざした教会形成が可能になります。
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