月報巻頭言 Vol48「喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 4月号は「喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ」(詩編100編2節) のみ言葉から、第48話「賛美と讃美歌について④」です。
どうして音楽は、また賛美もその本質から外れてしまったのか。
マーシュ牧師はその原因についてイザヤ書14章から説いています。
そこで綴られるのはバビロン王とその王国の滅亡のことで、
主は預言者イザヤの唇を通してバビロンに
「お前の高ぶりは、琴の響きと共に陰府に落ちた。」(11節)と告げられています。
神を賛美するべく許された琴の音(創世記4:21)の音が、
もはや人を高ぶらせることに使われている。マーシュ牧師はそのことを言葉短く指摘しています。
本来、詩編150編で「角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。」(3節)と謳われているように、地上にあるすべての楽器も、またその楽器で奏でられる音楽も、本来は神を賛美するためにある。これがマーシュ牧師の主張の第二点です。
そうマーシュ牧師が主張するのは、賛美と音楽の本質を伝えるためです。
マーシュ牧師は喫茶店伝道での賛美にピアノを用いたそうです。
それは、わざわざピアノを選んだわけではありません。
当時の横浜の喫茶店には、しばしば米軍から払い下げられたピアノがあったからです。
もはやないと思っていた伝道の場。
しかし与えられたその場で備えられていた楽器がたまたまピアノだった。
それだけのことです。
ただそれだけのことを御心として、
共に心から神への賛美をささげること。
その大切さをマーシュ牧師は伝えておられます。
では、結局のところ賛美の本質とはいったい何なのか。
それは私たちの教会で言われるところのコーラム・デオ、
つまり神の御前に立つことだとマーシュ牧師は言われています。
ここでは詩編16編に綴られるダビデの詩が取り上げられています。
わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い
右の手から永遠の喜びを頂きます。(11節)
ダビデは賛美を通して神の御前に進み出ることを何よりも望み、
またその御前にて満ち足りた喜びを得ることが出来ている。
そう、マーシュ牧師は聖書から説き明かしておられます。
「聖書の中に出て来る賛美は、
主の臨在といつも関わりがあります。
それゆえに私たちは賛美の重要性を認め、
個人の信仰生活においても教会生活においても
賛美を成長させていかなければなりません。」(「賛美と礼拝」5頁)
この言葉を、私はすべての信徒と教会がおぼえるべき説き明かしだと受け止めています。
喜ぶべきことがないから、
また満ち足りていないから主の御前に出ない、出られないのではありません。
その逆で、主の御顔を仰いでいないから私たちは満ち足りない。
喜び祝えないのです。
それはあたかもネヘミヤが「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(8:10)と告げた通りのことです。
ですから賛美する私たちの心の向きが果たしてしてどっちを向いているのか。
私たちはまずそのことについて自らの心を吟味したいと思います。
加えてマーシュ牧師はそこに“賛美の成長”を加えておられます。
これはもちろん讃美歌練習をして、
上手に歌えるようになるという意味ではありません。
周囲の状況がどうであろうとも、賛美の本質を見失わないこと。
それが“成長”という言葉で表現されています。
それ故にマーシュ牧師は続くところで
「賛美はクリスチャンの『生き様』」だとも言っています。
「食べることは生きること」だとソクラテスは言いましたが、賛美することは私たちがキリスト者として生きること。
私たちが主にあって健全に生きていくために不可欠なことなのです。
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