月報巻頭言 Vol41「主にあってたゆまず祈り続ける①」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 2025年のテーマは「主にあって喜び、耐え忍び、祈り続けよう」 副題は「主にあってたゆまず祈り続ける①」です。
6か月にわたって、
ローマの信徒への手紙12章12節のみ言葉から
まず「希望」、また「忍耐」について教えられてきました。
最後は「祈り」です。
今回もこれまでそうしてきたように、
まずはみ言葉を理解するところから始めます。
冒頭の「たゆまず」ということ。
日本語の辞書を引いてみると、
「飽きたり怠けたりせずに努力し続けること」という意味でした。
“怠けず努力し祈り続けなさい”と言われると、
大切だけれど、続けられるか不安になりますね。
そこでギリシャ語のほうも調べることにしました。
そうすると興味深いことに気付きました。
ギリシャ語はどちらかというと、
怠けてしまう私のほうではなく、
そのたゆませない「力」のほうに意味の軸が置かれていたのです。
パウロはこの言葉をもう一度、13章6節のところで用いています。
日本語では「励む」と訳された言葉ですが、
その両方ともの前提をパウロは神に仕えることに置いています。
ですからそのたゆませない「力」とは、
本来的に神からの力のことであり、
またその力への感謝と敬意から、
積極的に従おうと心新たに「励む」、という
いわば信仰による力だと言えます。
つまり「たゆまず祈りなさい」とは、
なにか私たちの不断の努力で緊張しながら祈っていくという、
いわば修行的な生活を指すことではありません。
また決められた時間に形式的に祈るということでもないわけです。
祈りという神との交わりを経て、
神の力を積極的に受け取ること。
またその御力に励まされることです。
そしてそれは12章8節のみ言葉との関連で申し上げれば、
自らも偽りのないその愛に
励み続けていくということでもあります。
ですから神への祈りを大切なこととして、
日常に取り入れていく生き方を始めること。
それがこの「たゆまず祈りなさい」というみ言葉が意図することです。
そこまでは「なるほど、そうか」と、スムーズに理解できるのですが、
続く14節を読むとハードルが、
またぐぐっと上がるようにも思えます。
そのみ言葉が「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」です。
迫害する者のために神からの祝福を祈る。
「祈れ」と他人に言うことは簡単です。
ただ、いざ自分の事として実際に、というとどうでしょうか。
この祈りをキリスト者の口だけのキレイ事にせず、
心から実行に移すことがどれほどに困難であるのかは、
容易にご理解頂けるでしょう。
ただ、ここでは以前「忍耐」の②の際に
宗教改革者カルヴァンの理解としてお伝えしたことを
思い起こして頂きたいのです。
それは「希望」と「忍耐」も、
最後の「祈り」と、離れがたく結びついているということです。
その際にはルツ記に記されたナオミのことや、
使徒パウロのこととして、
神は祈る者たちを感謝と喜びとで満たされるお方だということを教えられました。
反対に言えば、
神へと祈ることなく確かな希望を得ることは出来ないし、
その希望に向けて忍耐することも出来ないということです。
その理解を進めていくと、
救われながらも私たちの唇がときとして
呪いの言葉で満たされるのは、心から祈ることが出来ていない。
全てを神へと委ねられていない自らの悲しい現実に気付かされます。
そしてそのときにおのずと唯一、必要不可欠なことに気付かされます。
それが祈りにおいても主イエスが中心であり、
私たちのキリストであられるということです。
相手を許し、祈ることの出来ない自分。
その相手への、数々の呪いの言葉までをもすべて引き受けて、
キリストは十字架の上で裁かれてくださった。
聖霊に導かれてそのことに気付かされ、
自らの思いのすべてをその十字架の主イエス・キリストに
委ねることが出来たとき、
人はただその事実の前にへりくだり、
この上ない感謝で満たされます。
そのとき私たちは
キリストにある希望と忍耐とによって、
自らを迫害する者のためにも、
たゆまず祝福を祈る者へと変えられるのです。
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