月報巻頭言 Vol40「主にあって苦難を耐え忍ぶ②」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 2025年のテーマは「主にあって喜び、耐え忍び、祈り続けよう」 副題は「主にあって苦難を耐え忍ぶ②」です。
先月はみ言葉そのものから、主にある希望が与えられているからこその忍耐であるのだと学びました。今月は、そのみ言葉を読み解く宗教改革者カルヴァンの視点から学びたいと思っています。
まず注目したいこと。
それはカルヴァンがこの12節のみ言葉を主の弟子への言葉、
特に再臨を待ち望む者たちへの言葉だと理解をしていることです。
そのことは、彼がこの箇所を解説するにあたって引証聖句とした、
福音書にある一つのみ言葉から理解できます。
そのみ言葉は、西谷教会に少し前に与えられた
「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」(ルカ18:1)です。
この「気を落とさずに」とは神から離れ、悪に陥らないようにとの意味でした。
そして祈りとは、神によって弟子たちに定められたことでした。
ですから必然的に祈りは、キリストにあって既に始められている神の国、そのリアリティに基づくことになりますですから祈りとはmなにか現実からの逃避や、修行によって悟りを得る行為などではない。
これらが主日のみ言葉から共に教えられたことでした。
その意味で苦難を耐え忍ぶ者とは、主が再び来られるまでの日々、その一つひとつを祈りにおいて神に委ねる人々のことです。
その前提があるゆえのことでしょう。
カルヴァンは希望にあっては喜ぶこと、苦難にあっては耐え忍ぶこと、そしてたゆまず祈ることは互いに結びついている言葉だと理解します。
すなわち切り分けることなど出来ないキリスト者の一つの姿だと言うのです。
文献を調べてみると古代教父オリゲネスも同様の理解でした。
そしてその両者に共通していること。
神ご自身がそのすべてにおいてお働き下さるということです。
そう言われても、
祈って神の働きに委ねるだなんて、
「いのち輝く未来のデザイン」という、ケイタイでなんでもできる
現代社会を生きる私たちどこか浮世離れした別世界のお話のように聞こえるのかもしれません。
しかし聖書はその随所で神に委ねる者たちの現実を、
その希望のうちに祈る者へと変えられるお方であることを示す書物です。
たとえば旧約聖書のルツ記にはナオミに訪れた数々の悲しい出来事が綴られています。
彼女ははばからず
「全能者がわたしをひどい目に遭わせた」(1:20)とも口にするのですが、
その一方で彼女はその全てが主の御手によって下されたことを一切疑いませんでした(1:13)。
神は彼女にルツという義娘を与え、
やがてルツとボアズの間に生まれた子にあって主を賛美し、
改めて希望のうちに祈る者とされました(4:14~)。
新約聖書では
パウロ自身がコリント教会への手紙ではばからず
「わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」と赤裸々に綴ります(Ⅰコリ2:3)。
それは以前のアテネでの伝道のこと、
またその前のテサロニケや続くべレアでのことがあったからです(使徒17章)。
その時も神はテサロニケ教会の人々のうちにキリストからの愛と信仰とを保ち、
そのことを通してパウロを神への喜びと感謝から祈る者とされました(Ⅰテサ3:7~10)。
そう考えていくと、
私たちがキリスト者として生きることは、
苦難を耐え忍ぶ日々だとも言えそうです。
ただ、その苦難を超えて有り余る神からの希望を確信しつつ、
たゆまず祈らせてもくださる日々だということです。
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