2021年7月アーカイブ

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 西谷伝道所朝拝 マルコ福音書2章13節-17節「救われるのは誰か」2021,7,18

 (序)ガリラヤ湖畔での教え

 13節で「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」とあるが、先に1:16で「ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレ」彼らは漁師であったが、彼らに「私について記なさい。人間をとる漁師にしよう」と言ってお召しになった。

更には1:19で「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると、すぐに彼らをお呼びになった」とも記されている。主イエスは日常の働きの中にあった普通の人をご自分の弟子として召命し、お呼びになられたのである。

  このように主は彼らをその働きの只中からお召しになった。彼らは私達の先駆け的な存在。

主キリストは私たちを人間的な打算でお召しになるのではありません。この世的な打算で考えると、十字架の言葉に従うことなど愚かなことかもしれません。だがそこにこそ神の国、神の恵みの支配に与るまことの喜びがあって、主は力ある言葉をもって私たちを信仰と従順へと召しだして下さるのである。それはまことに幸いな救いへの命の召しであった。

 こうして主イエスが湖のほとりに出て行かれると、「群衆がそばに集まってきたので、イエスは教えられた」と言われている。2:2で「大勢の人が集まったので、・・・・イエスは御言葉を語っておられた」とあるように、ここでも主が教えられたことは「神の国の福音」、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた神の国の教えであったに違いない。この湖のほとりは人々の人々の生活の場であったようである。そうした日々の生活の只中にある人々に主は繰り返し神の国の福音を伝え、その教えを語り伝えた。それは優雅な仕方で語られる抽象的な言葉ではなく、「神の国は近づいた」否「神の国はもうここに来ている」という切迫感をもって語られたいのちの言葉であった。

 その意味では、「(ゆえに)悔い改めて福音を信じなさい」と、聞く人々に悔い改めて福音を信じ、真の神である主に帰る信仰を勧める真剣な教え、救いへの招きの言葉であった。


(Ⅰ)徴税人レビの召命

 こうした時、14節「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて『わたしに従いない』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」と。

この言葉を読んでいると、何かたまたま通りがかりに見かけて声をかけたかのように読んでしまうかもしれない。だがここでアルファイの子レビが収税所に座っていたのを、主イエスが「見かけた」という言葉は強い言葉です。主が深い関心をもってレビを見られた。

  まさに人間を取る漁師であった主イエスの深い愛のまなざしあそこにあったと言えます。

  彼の名はアルファイの子レビと呼ばれた。マタイ9:9の並行記事では、彼はマタイと呼ばれています。彼は徴税人であった。それはまさに税金を徴収する人であるが、今日の税務署の役人とは事情が違っていて歴史的背景がある。この当時パレスチナはローマの支配下にあり、独立心の強いユダヤ人とは言え、圧倒的な軍事力を持つローマには逆らえず、税金という仕方で服従を強いられた。税金は二種類あり、一つは一人一人にかかるいわゆる人頭税、それとここで徴税人レビが関わっていた通行税であった。カファルナウムは一つの領土の境であったようでここには税関が置かれていた。そしてここにはローマの役人ではなく、同胞ユダヤ人がこの徴税の権利を買って行っていた。このアルファイの子レビもユダヤ人であったと考えられる。だが、憎きローマの雇われ人であり、律法を知らない異邦人と交流を持つという理由で人々に嫌われた存在であった。後の所で語られるように、人々から憎まれ、つまはじきにされ、疎外された人間であった。ローマに納める税金は一定の定められた額があったようであるが、それを越えて徴収する事は幾らでも可能だった。それゆえに、多額の税金を徴収する悪徳な徴税人が多くあったのも事実であったようだ。

  そうした徴税人レビに主は目を留め、彼をご自分の弟子としてお召しになったのである。

  それはユダヤにおいては革命的な事であったに違いない。それによって大きな波紋を生むことになった事は後の言葉が語っていることである。突然主キリストの「私に従いなさい」

とのお召しを頂いた、徴税人レビは「立ち上がってイエスに従った」と言われています。

 

  私たちはこうした御言葉を読むと、どうしても人間的な戸惑いや躊躇を読み込んでしまう。だが、この御言葉を素直に読む限り、主の召しに対する戸惑いや躊躇は読み取れません。考えてみると、信仰は私たちが神を知り、主イエスを知るに至る人間の業ではありません。

  信仰とは、恵みの神が私たちを力ある御言葉と御霊によって捕らえて下さる神の業です。

  そうで あれば、勿論私達が信仰に導かれる時ある一定の時を経たとは言え、主キリストは力ある御言葉と御霊の導きによって、確かに私たちを恵みをもって捕らえて下さったのです。


(Ⅱ)主の食卓に招かれ

 主の弟子となったレビは主キリストをご自分の家に招待した。事実、ルカの並行箇所では、5:29「レビは自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した」と記している。主は招かれた側であるが、食事の主催者は主イエスご自身と理解できる。15節「イエスがレビの家で食事の席についておられた時の事である。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」主イエスが主催者である食卓に、多くの徴税人や罪人と呼ばれる人々がイエスや弟子たちと同席していたと言う。実に麗しい食事の光景である。主イエスと一緒の食事というと、私たちは一番に主が弟子たちと一緒に祝われた過越祭の最後の晩餐の光景を思い浮かべるのではないでしょうか。

  そこにおいても麗しい食事の仲間に裏切り者のユダの存在があった。ここでも、ファリサイ派ユダヤ人なら眉をひそめてしまいそうな光景があったのである。そこには、レビの仕事仲間であった多くの徴税人が同席していた。それだけではない。多くの罪人も加わっていたと言われている。「罪人」という言葉は当時あいまいな使われ方をしていたようです。


「罪人」の反対には「義人」があって、それはここにファリサイ派ユダヤ教徒が登場しているように彼らは律法を持ち、学び、それに従って清く生きようとする人々。それに対して、「罪人」と言われている人々は、律法を持たず、それを学ぶことを知らず、その結果、律法に沿った生き方を知らない人々。考えてみれば、ユダヤ人の中でファリサイ派ユダヤ教徒は多いとは言え、少数派であったと思われますから、一般のユダヤ人はいつでも「罪人」の範疇に数えられる可能性があった。ましてユダヤ人以外の異邦人は律法は持っていない、それに学んだ事もありませんし、それに従った生活などした事がない罪人と呼ばれる人間。


 主キリストが主催する食卓が表しているものは、弟子たちと共にした最後の晩餐が予表したように天国の祝宴を表していると言える。こうした天国の祝宴を描いている預言者の御言葉にイザヤ書25:章6-9(1098p)の御言葉がある。「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布(苦難と悲嘆のしるし)を滅ぼし、死を永久に滅ぼして下さる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上から拭い去って下さる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそ私たちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう。」


 主キリストが主催者として開いて下さった食事には、多くの徴税人や罪人が一度ならずしばしば招かれたようである。それは当時の人々には異様な光景であったに違いない。

 これを見て、16節「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事されるのを見て、弟子たちに『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。」ファリサイ派の律法学者と言われているが、彼らがどのような人々であったかは正確には分からない面があるようである。だが一般的に言われるのは、ファリサイ派とは宗派であって、彼らの特徴としては律法を持ち、それを学び、それに沿った清い生活を追い求める人々であった。それはこのことの裏返しであるが、清さを追い求めるということは、穢れを遠ざけようとすることである。宗教的な汚れ、それこそここに登場してくる異邦人や罪人、彼らは律法を知らない、律法を守り得ない汚れた人間と考えられたから、彼らとの交わりを努めて避けようとした。食事を一緒にするなど論外であったに違いない。そうであればこそ、こうした徴税人や罪人を招いて一緒に食事をするナザレのイエスの異常な行動に対するファリサイ派ユダヤ教徒の不満や批判が起こるのは自然なことであった。


(Ⅲ)罪人を招く主キリスト  ルカ15章 失われた息子を追い求める父

 そこで、主イエスは言われた。17節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。彼が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。

 ここで主イエスが注意し、警告しようとしたのはファリサイ派的な生き方の誤りです。

 ファリサイ派の誤りと申し上げましたが、それは必ずしも自明のことではありません。

 ファリサイ派ユダヤ教徒は本来とても真面目な人々であり、律法に基づく清潔・実直な生き方ゆえに人々の尊敬を集めていました。それはまさに「正しい人、義人」そのものの姿。彼らは律法、この場合の律法とは道徳律法に加えて求められた儀式律法への忠誠故に汚れ、宗教的な穢れ、罪人や異邦人を避け、分離して生きようとする分離派的な生き方をした。宗教的な清さを追い求めることは必ずしも間違いではない。ただ、それが他者を裁く、他者に対するおごりに繋がっていくのならばそれは主キリストの追い求めたことと違っている。


 主は「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われた。

 罪人を招く、失われた者が主のもとに帰る。それはルカ15章にしるされた放蕩息子の例えに教えられたことである。その最初の「見失った一匹の羊」の例えにおいて「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九匹の正しい人についてよりも大きな喜びがある」とある、「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」という言い方は、鋭い言葉である。又、放蕩息子の例えにおいても、父から離れ、失われた放蕩息子の弟もそうですが、同時に見逃してはならないのは父の元にありながらその心においては父を離れている兄の姿です。  

 それはファリサイ派ユダヤ教徒と重なる部分がある事は見逃せない。リスト教が義人のための律法の宗教ではなく、罪人のための贖いの宗教であるということは私たちが忘れてはならない重要な事です。今朝の御言葉はそれを教える御言葉です。

 値なき罪人が贖われる、救われるためにイエス・キリストが来られ、私たちの罪の贖いのために十字架にご自身が「罪」となられた。Ⅱコリ5章21(331p)「罪と何のかかわりもない方を、神は私達のために罪となさいました。私達はその方によって神の義を得ることができたのです」。この十字架にご自身を捧げて下さったキリストをこそ私たちは信じているのです。ここにこそ罪の赦しがあり、神の国、神の恵みのご支配があると私達は信じているのです。

 イエス・キリストが「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたのは、まさにこの事を言い表した御言葉です。イエス・キリストはこうして私たちの罪を贖い、その罪を赦してご自身と父なる神との命の交わりに与らせ、更には私たちを神の国の喜びの祝宴にも与らせて下さるのです。私たちが礼拝において共に与る御言葉と見える言葉である聖餐の恵みは、その具体的な主と主にある聖徒との豊かな交わりと祝宴の姿そのものであるのです。


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