2022年02月06日「復活の主との交わり」

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復活の主との交わり

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ルカによる福音書 24章28節~35節

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一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 24章28節~35節

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<説教要約> 

今朝は御言葉を通して聖餐の恵みを覚え、神の恵みを確認するときとしたいと願っています。
今日の説教題は「主イエスがおられる食卓」です。

聖書朗読はルカ福音書24章28節から致しましたが、この話は13節から続いています。
ですので、前の所を簡単にお話ししてから、今日の話に入りましょう。
この話は、イエスが十字架で死なれてからちょうど3日目の出来事です。
二人の弟子が、エルサレムから11キロほど離れたエマオ村に向かって歩いていました。
この二人は、12使徒ではありません。しかし彼らも、「この方こそイスラエルを解放してくださるメシア、救い主」とイエスに望みをかけ、イエスに従っていた弟子です。
しかし、望みをかけていたそのイエスが十字架につけられて死んでしまったのです。
二人は失意の中、逃げるようにしてエルサレムを離れ、エマオへと向かっていたのです。
その途上で、彼らの後ろから追いついて一緒に歩き始めた人がいました。実はその方こそ復活のイエスだったのですが、二人にはそれがわかりませんでした。それで、二人はイエスに尋ねられるままに、エルサレムで起きたこと、イエスの裁判、十字架と死、埋葬、そして、今朝墓が空になっていたことまで話したのです。
二人の話を聞いていてイエスが言いました。
24章25節から27節まで、お読みします。
24:25「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
イエスは、彼らに欠けていた旧約聖書理解を、聖書から丁寧に指摘なさいました。
彼らはメシアをこの世的な救世主と考えていましたが、旧約聖書は「メシアは苦しみを受けて栄光に入る」と記していることを教えたのです。
しかし、この時もまだ、二人はその方が、死から復活されたイエスだとは気が付きませんでした。

ここからが、先ほど読んだ箇所、28節以下です。
こんな風に、イエスの話を聞いているうちにエマオ村に近付きました。二人はここで泊まるつもりでしたが、イエスはなお先へ行こうとしておられる様子でした。
二人は、イエスの話しに心惹かれ、もっと話を聞きたいと思い、イエスに言いました。
24:29「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」
そういって、イエスを無理に引き止めたので、イエスは彼らと一緒に家に入られたのです。 

ところが、どうしたことでしょう。
食事の席に着くと、イエスはまるで自分がその食卓の主人のように「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」のです。
そして、その瞬間、24:31 「二人の目が開け、イエスだと分かった。」とルカは記します。
「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」
この、イエスの行為は、この二人とって、とても幸いな記憶でした。
それは、イエス一行がまだガリラヤにいたときのこと。五つのパンと二匹の魚を五千人以上の人々に分け与えたときの出来事でした。
イエスの話を聞こうと集まった大勢の人々を、空腹のまま解散させないために、イエス自らが食事をふるまったあの事件です。ルカ福音書9章16節にこう記されています。
ルカ9:16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
この時にイエスは、「パンを裂き、感謝し、渡す」という一連の行為をなさいました。
五千人給食の奇跡として、大変有名な話しです。二人もその場にいて、この恵みに与ったのでしょう。主イエスが共におられる恵みの食卓です。
この恵みの思い出と、先ほどまでの聖書の解き明かしが二人の中で結びついて、彼らの目が開かれ、その方が復活のイエスだと分かったのです。

「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」さらにこのフレーズは、最後の晩餐でイエスが聖餐式の制定をなさったときとも同じです。
もっとも、最後の晩餐の食卓にいたのは12弟子だけですから、この二人はその場にいなかったと思われます。しかしこの福音書の著者であるルカは、福音書を読む人々を意識して記しています。このシーンが最後の晩餐の時にイエスが制定された聖餐式、主の晩餐と同じ、イエスが共におられる食卓であると教えているのです。
ルカ22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
イエスは、最後の晩餐で、パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えるという行為と、ご自身の十字架の贖いとを関係づけられたのです。

二人の弟子は、エマオ途上でイエスに会うまで、エルサレムで起きた出来事の意味を理解できず、失意の中にいました。
しかし復活のイエスにお会いし、イエスから聖書の解き明かしを受け、さらにパンを裂くという聖餐式に与ることで、目が開かれました。
目の前におられるイエスこそが、聖書が語る「苦しみを受けて栄光に入られたメシア」、「復活の主」だと理解したのです。

二人は、道々イエスに聖書を説明していただき、旧約聖書がイエスを証していることを教えていただきました。が、その時にはまだ、その方がイエスだとは気が付きませんでした。
しかし、二人はその時のことを思い返して「私たちの心は燃えていたではないか」といいます。
その後、イエスは二人と食卓を共にし、そこで「パンを裂く」という行為によってご自身を示され、二人はその方が、死から復活されたイエスだとはっきりわかったのです。
二人は、復活のイエスに教えられて旧約聖書の預言を理解し、イエスが共におられる食卓、聖餐式に加えられて、目が開かれました。
今でいうなら「み言葉と聖餐の礼典」を通して、復活されたイエスがわかったということです。
二人の弟子は直接イエスに教えていただいたのですが、今は、その役割を聖霊なる神が担っておられます。み言葉と礼典と共に、聖霊、つまりキリストの霊が働いて、わたしたちの心の目が開かれるのです。

以下、聖餐式の時に読まれる式辞の中の「復活の主と聖餐」を記しておきます。
よみがえられた主イエスは、復活日の午後、弟子たちと食卓を共にされ、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました(ルカによる福音書24章30節)。これが、今お話しした場面です。
その食卓において弟子たちの目は開かれ、パンを裂かれた方が、よみがえられた主イエスであったことを悟りました。この食卓は週の最初の日のことでした。

この聖餐の食卓にあずかるたびに、弟子たちは、よみがえられた主イエスが復活日に弟子たちとパンを裂かれたことを思い起こしました。
こうして、弟子たちに連なる教会は、聖書朗読と説教と聖餐によって主の日を祝い続け、主イエスの復活を記念し続けています。

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