2022年01月16日「分け隔てしない神」

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分け隔てしない神

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 10章34節~43節

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そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。
しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 10章34節~43節

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<説教要約>使徒言行録10章34-43節  「分け隔てしない神」

今日は34節から43節。神によるさまざまな準備があって、そしてついに、ペトロがカイサリアのコルネリウスの家に到着し、キリストの福音を語る場面です。
10:34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。
10:35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
ペトロはすでに、ユダヤ教に改宗した外国人たちに聖霊が降ったり、サマリヤ人の地でイエスを信じる者が大勢与えられたり、という経験をしていました。しかし、それでもなお、「選びの民としてのユダヤ民族」という意識から抜け切れずにいたことを自覚したのでしょう。
それで、今回のことを通して、自分の考えを神が正してくださった、と告白しているのです。
説教者と言えども、神の前では一人の人間ですから、間違いも犯すし欠けや罪もあります。ですから、説教者自身がまず、神の前に立って神の言葉に聞く姿勢が大切だということです。

ペトロは、「神は人を分け隔てなさらない」と言います。旧約聖書では、神の約束、救いの祝福は、アブラハムに対して、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と語られています。
また、旧約聖書にしるされている人を分け隔てしない神ということでは、
申命記10章17-19節にこう記されています。
10:17 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、
10:18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。
10:19 あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。
ここは、神の救いに関しての記述ではありませんが、しかしこのように、神は、人を分け隔てせず、いつも弱い者たちの側に立つお方です。

しかし、ここでの「神は人をわけ隔てなさらない」という言葉の主旨は、特に救いにおいてのことです。
ですから、ペトロは
10:35 「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」と言葉を続けます。

次の36節から38節は、ちょっとわかりにくい文章です。新共同訳聖書も苦労して訳しているのが分かります。
ですが、とにかく、ペトロはここで、イエス・キリストが地上で、十字架にお掛かりになる前になさったことをまとめています。
特徴的なことは、
「神が」イエスキリストを送った。「神が」聖霊と力に依って油を注いだ。イエスが人々を癒したのは「神が一緒だったから」。と、唯一、全能の神しか知らないコルネリウスに、イエスを紹介する際、神からの派遣、神が選んだ(油注いだ)、神が一緒だった、というふうに紹介していることです。
また、イエス・キリストを「御言葉」、「油注がれた者」つまりメシア、救い主、そして「出来事」として紹介していることも、興味深いと思います。

さらに39から41節では、イエスの十字架の死と復活について語っています。
人々がイエスを木にかけて殺した。しかし神が、このイエスを三日目に復活させた、と。
さらに41節では、復活後のイエスが姿を現わされ、教えたり、共に食事をなさったりしたのは、民全体の前ではなく、前もって選ばれた証人である、自分たちに対してだった、とも語っています。

ペトロの説教の結びは42、43節。
まず42節。
10:42 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
ペトロは「わたしたちにお命じになりました」と言います。「わたしたち」とは、ペトロが代表するエルサレム教会、さらには、このあと面々と続いていくキリストの教会とそこに属するすべての人までが含まれています。
イエスが語られた「言葉」、イエスがなした「出来事」。そのすべてを福音として「民に宣べ伝え、力強く証しするように」と神は後の教会に対して、また私たちに対して、命じておられるのです。

ペトロは最後にもう一度、43節で、預言者の言葉として
10:43 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」と語っています。
コルネリウスは、信仰心あつく、神を畏れ、多くの施しと祈りを行って、神の前に正しく生きている人だと紹介されています。しかし、そういうコルネリウスであっても「罪の赦し」が必要で、罪の赦しは信仰を通して与えられる、と教えているのです。どれほど良き生活を心がけ、善良に生きているつもりでも、人は皆神の前では罪があり、欠けがあります。人の善良さは神の前には通用しません。神の基準で言うならば決して十分ではないのです。

36節に
10:36 神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、と記されています。
私たちが神の前に立つためには、キリストの平和が必要です。
キリストが私たちに与えてくださる平和は、先ず、神と私と平和の関係です。そのためには罪の赦しが必要です。
さらに、キリストが与えてくださる平和は、人と人との平和でもあります。私が神の前に罪赦されていることで、私も隣人を赦すことができる。人と人とが互いに赦しあって生きることができる。それが人と人との平和です。神との平和と人との平和、その両方がキリストの十字架によって、キリストを信じる信仰によって、私たちに与えられるのです。

今日の説教題は「分け隔てしない神」です。
神は私たちを国籍や人種によって分け隔てされる方ではありません。
最初に旧約聖書申命記10章17-19節を引用しましたが、神は一貫してこの姿勢を貫いておられます。神の目は弱いもの、力のないものに注がれるのです。そしてこの精神は、キリスト教会に引き継がれました。
例えば、日本の開国当時のことを考えてみましょう。明治になって鎖国が解かれ、キリスト教禁教令が廃止されると、日本にキリスト教が続々と入ってきました。そのときに、キリスト教と一緒に欧米の進んだ医療や教育が愛の業として一緒に入ってきたのです。
このように、福音と共に、また福音の実としての愛の業。神はご自身の業を、ご自身の民であるキリスト者を用いて実践なさいます。聖書を学んでいれば、あるいはキリストの救いを信じていればそれでいい、という考えは誤りです。キリスト者の成す愛の業はキリストに結ばれて罪の赦しを受け、神との平和が与えられていることの証しですから。
ガラテヤ 5:22 -26
5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
5:26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
神が人を分け隔てしないのですから、私たちもそのように生きるべきです。

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