2021年12月12日「主の道備え」

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さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。
近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。
父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。

父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。
それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。
これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、 敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。
幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」
幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 1章57節~80節

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<説教要約>ルカによる福音書1章57-80節  「主の道備え」

先週の説教は、長いこと子どもが与えられることを待ちわび、祈り続けていた、祭司ザカリアとエリサベト夫妻のもとに天使が遣わされて、子どもが与えられると知らされた、という話しで、
最後は1章の24、25節。
1:24 その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。
1:25 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

その後、ルカ福音書は26節から56節まで、マリアの話が記されていますが、ザカリアとエリザベトの話の続きは、57節からです。
1:57 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。
1:58 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
神は、高齢の夫妻に子どもをお与えになりました。
夫妻の長い長い年月をかけた祈りに、しかし、もう半分あきらめかけていた彼らの願いを、神はかなえてくださいました。
当時のユダヤ社会では『子どもが与えられること、子孫が増し加えられることは神の祝福』と考えられていました。ですから、自分たちの歩みを神が祝福してくださったという実感は、二人にとって大きな喜びだったはずです。
同時に、神は、自分たちの長い間の祈りに、ずっと目を留めてくださっていた、ということを知ったこと。神が自分たちに目を留め、憐れみを与えてくださったという実感が、彼らの喜びをさらに大きくしたことでしょう。
また、二人の悩みをそばで見ていた人々、近所の人たちや、親類の者たちも、「主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。」と記されています。
ひとりの子どもの誕生が、周囲の人々の喜びとなったのです。

次の59-66節には、子どもの割礼と、名前を付ける話が記されています。
8日目に割礼を施すことは、ユダヤ人たちが大切にしている宗教行事です。割礼は、かつて神がアブラハムと結んだ契約の印として定められたものだからです。
神がアブラハムに与えられた約束、契約の中心は、「あなたとあなたの子孫の神となる」というものです。それに、子孫の繁栄とカナンの土地を与える、という実質的な祝福が加えられていました。
しかし、アブラハムに与えられた約束、契約は、最初からユダヤ民族だけに限定されたものではありません。
創世記12:2-3を見ると、神の約束は最初から、『地上のすべての民』が視野に入っています。
①創世記12:2-3
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
この約束がアブラハム~イサク~ヤコブ~に引き継がれ、ダビデ王朝~バビロン捕囚というユダヤ民族の長い歴史を経て、キリストの誕生、クリスマスの出来事となって実現、成就したのです!!
59節からは、子どもの命名の話です。
エリザベトとザカリアは、既に子どもの名を「ヨハネ」と決めていました。天使が告げた名です。
1:62 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。
1:63 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。
約10カ月前、天使から子どもが与えられると告げられたザカリアは、天使に「しるし」を求めました。
天使は彼に言いました。
1:20 あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。
そしてこの日からザカリアは本当に話せなくなったのです。実際には、話せないだけでなく、聞くこともできなくなっていました。子どもの誕生を待つ10カ月の間、ザカリアは、聞こえないし話せないという苦しい状態に置かれました。
しかし、目は見えたのです。エリサベトのおなかが少しずつ大きくなっていくのを見ることができましたから、天使が伝えた神の言葉が確かに実現しつつあることを実感し続けたはずです。
こうして、時が来れば実現する! という天使の言葉は、彼の信仰の確信となりました。

「ヨハネ」とは、「ヤハウェは慈しみ深い」、「神はいつくしみ深い」という意味です。
子どもをヨハネと命名すると、
1:64 たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。とあります。それが、68節以下のザカリアの預言です。
1:67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。少しずつ見ていきましょう。
(1)1:68-71 
1:68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、
1:69 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。
1:70 昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。
1:71 それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。
68節に「解放し」とあります。
ここ、口語訳聖書やフランシスコ会訳聖書では、ひらがなで「これをあがない」
新改訳聖書では「贖いをなし」聖書協会共同訳聖書では「これを贖い」
となっています。
つまりここは、罪からの解放、代償を払って罪から救い出すという意味で、実際にはイエスの十字架を指しています。
「救いの角」という言葉は「角」とは、力が集中する場所のことで、「救いの角」は、イエス・キリストを指しています。
こういう方を、ダビデの家から誕生させた! というのがここの意味です。
71節に「われらの敵」とありますが、これは争いの時の敵、味方のことではなく、私たちの最大の敵である罪のことです。
ですから、ダビデの家から誕生するイエス・キリストが、力強く私たちを罪から贖ってくださる、というのが71節までの内容です。

(2)1:72-75 アブラハムに与えられた約束
1:72 主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。
1:73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、
1:74 敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、
1:75 生涯、主の御前に清く正しく。
この部分は、先ほども見ましたアブラハム契約、アブラハムに与えられた約束を、神は覚えておられ、その約束のゆえに、その信仰の子孫である我々が、恐れることなく神に近づくことができる。神を礼拝することができる、という内容です。

(3)1:76-78a 洗礼者ヨハネの使命
76節からは、ザカリアとエリサベトに与えられた子ども、ヨハネの役割が預言されています。
1:76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、
1:77 主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。
1:78a これは我らの神の憐れみの心による。

いと高き方の預言者、 主に先立って行き、その道を整える者、 主の民に罪の赦しによる救いを知らせる者、これがヨハネの役割です。

(4)1:78b-79 キリストの誕生
最後の78節後半から79節は、キリストの誕生と救いとが高らかに歌われています。
1:78bこの憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」
イエス・キリストは、天から与えられた救い主、メシア。神の御子です。
その方が、私たちのところまで来てくださる。
そして、罪の中であえいでいる私たちを照らし、十字架の贖いによって信じる者に罪の赦しを与え、その足を平和の道へと導き入れてくださる。

洗礼者ヨハネは、この大きな恵みの御業の道を備えるために、神が時を選んで、ザカリアとエリサベトに与えられた子どもでした。
1:80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

洗礼者ヨハネの誕生は、子どものない夫婦の願いを神がかみがかえりみて子宝を与えられた、という単純な話ではありません。
何千年も前に、アブラハムという人物に与えられた神の祝福の約束が実現する直前に、その道を備える役割を担ってヨハネが誕生したという、実に神の救いの御業の中での出来事です。
ですから、ヨハネの誕生は「神の時」に実現したのです。

与えられた子どもはヨハネと命名されました。「神は慈しみ深い」という意味です。
ヨハネは、旧約最後の預言者として、人々に悔い改めて神に立ち帰るよう迫りました。
やがてイエスが働きを始めると、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」「この方こそ神の子」とイエスを紹介し、イエスの働きの道備えをしたのです。
洗礼者ヨハネの誕生と役割は、神の救いの御業の実現、神のご計画の中での出来事です。

このように、長い歴史の中で、神は一つ一つ整え、準備し、ついに救いの御業はイエスキリストの誕生、十字架、死、復活によって実現しました。
クリスマスは神の救いの御業、救いの角であるイエス・キリストの誕生を祝う時です。
神の救いの御業には、「神の時」があります。時が来れば実現するのです。

私たちも、この「神の時」の中で生きています。
神の救いの御業は歴史の中で、気の遠くなるような長さ、スパンで実現してきたし、今も進み続けています。そして、私たちも今その中に入れられているのです。
私たちが、神の救いの御業を知らされていて、2021年の待降節に、教会に集められ、神を礼拝している。
これは、決して偶然の出来事ではなく、神の御業、神の時に私も入れられている、ということです。
地上にたくさんの人々がいる中で、神はこの私に目をとめ、ご自身の救いの中に招き入れてくださった。あるいは、招き入れようとしておられるのです。
これは決してあたりまえの出来事ではありません。
1:78a これは我らの神の憐れみの心による。
1:78bこの憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」

今、私たちが救いに入れられていることを感謝しつつ、次週のクリスマスの礼拝を喜びと共に献げましょう。

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