2021年10月17日「互いに愛し合うこと」

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互いに愛し合うこと

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 9章36節~43節

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ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。
ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。
ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した。

日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 9章36節~43節

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<説教要約> 使徒言行録9章36-43節「互いに愛し合うこと」

今朝は先週に続いて、癒しの話です。と言いましても、今日の箇所は、病のいやしではなく、死からのいやしです。
ですが、病のいやしでも、死からのいやしでも、教えられていることは同じです。
「命は神の御手の内にある。」そして、「イエスこそ、命の主である。」

話の舞台は、ヤッファという町です。ヤッファは地中海沿いの港町で、旧約聖書にも登場する古い街。ヨナ書では、ヨナが神の命に逆らって別の町へ行くため、このヤッファから船に乗ったと記されています。
ヤッファは紀元後70年のエルサレム陥落後も、パレスチナのキリスト教の中心地の一つとして存在していたことが知られています。
現在は、イスラエル第二の都市であるテル・アビブに合併され、テル・アビブ・ヤッファと呼ばれていて、ペテロの働きを記念する聖ペテロ修道院や、皮なめしシモンの家があったとされる場所もあるそうです。

で、当時ヤッファにも、キリスト者の群れがあり、この群れの中に、一人の婦人の弟子がいたのです。
彼女の名はタビタ。これはヘブル語の名前ですが、ギリシャ語ならドルカス。で、それを日本語にすれば「カモシカ」です。この人が「カモシカ」という名前の通りの人物るなら、彼女はキリストの弟子として、教会の中で身軽に動き回って多くの働きをしていたことでしょう。
そんな彼女が病気で死んでしまったのです。そこで、教会の人々はペトロがリダにいるということを聞いて二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだのです。

ペトロは、使いの話を聞いてすぐに出かけました。屋上の部屋ではやもめたちがドルカスの死を悲しみ、彼女のまわりで泣いていました。
9:39 bやもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた とあります。
寄留者ややもめなど、社会的に弱い立場の人を配慮することは、旧約の時代から神が教えておられたことで、教会もその教えを引き継いでいました。
ドルカスも、養ってくれる夫や家族のいないやもめたちと共にいて、彼女たちの世話をし、具体的に助けていたのです。

ドルカスのもとへ到着したペトロは、周りの人々を外へ出してから、先ず神に祈りました。
彼女が多くの人々、特に生活基盤のないやもめたちに頼りにされていること。今も、ヤッファの群れの中で彼女の働きが必要なことなどを、祈ったのでしょう。祈り終わると、ペトロは彼女に向かって声をかけました。「タビタ起きなさい」。すると彼女の目が開き、床から起き上がりました。
上半身起き上がった彼女に、ペトロは手を貸して、立ち上がらせたのです。死からのいやしです。
これは、ペトロの祈りに対する神の応答です。
直前のアイネアの時同様に、このいやしはペトロの力ではなく、イエスがいやしてくださったのです。
そして教えられているのは、前回同様に、「命は神の御手の内にある。」そして、「イエスこそ、命の主である。」 です。
その結果、9:42 このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。のです。
また、最後に
9:43 ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した。
という一文が続いているのは、この後もヤッファでの話が続くからです。

今日の箇所から、三つのことを覚えたいと思います。
一つは、今日も何度も言いましたが、「人の命は神の御手の内にある。」そして、「イエスこそ、命の主である。」
そして、地上でイエスと共に、イエスに結ばれて生きているなら、私たちは既に新しい命に生かされているということです。

また、今日の箇所で考えたいもう一つのことは、
タビタのいやしは、彼女のよき業のご褒美に、いやされたのでしょうか? 行いによって、人の命が長くなったり、短かったりするのでしょうか? ということ。
私は、そうではないと思うのです。
タビタがこのとき再び生かされたのは、彼女にはまだ役割があったから。やるべきこと、生きるべき使命があったからだと思うのです。
どんなに善行を積んだ人でも、短命の人がいることも事実です。人生が短くても、それが行いに対する罰だとは決して言えません。そこには神の深いご計画と、神のご配慮があるのです。
ではなぜ、神はここでタビタを再び生かされたのでしょうか?
それは、彼女がヤッファで、ヤッファの教会の中で、あるいは彼女の家族の中で、彼女の役割、生きる意味があったから、彼女が必要とされていたからです。
私事になりますが、昨年私がコロナで入院した時、ある人にこんなことを言われました。「地上生涯の中で役割が残っているのなら、必ず回復が与えられるはず」と。
まだやるべきことがあるなら生かされるし、地上での役割がないなら召される。もちろんこれは、神の目から見て、あるいは神のご計画の中で、ということです。この言葉の意味は深いなあと思います。
例えば、辛い状況の中で自分ではそろそろ人生を終わりたいと思うことがあっても、生かされているなら、役割があるのですから頑張らなければいけない。反対に、頑張りたいと思っても、神様がお召しになるなら、それはその時が最善なんだと思える信仰。このような信仰、神への信頼を大切にすべきだと思います。

最後に、タビタという一人の婦人のなした愛の業を覚えたいと思います。
彼女の愛の業、働きに励まされた人が大勢いました。彼女に支えられた人がたくさんいたのです。
その人たちは、タビタという一人のキリスト者を通して、具体的に神の愛を知ったのです。
キリスト教の中心は神の愛です。
ヨハネの手紙Ⅰ 4章10-12節にこう記されています。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

地上の神の国としての教会は、互いに愛し合い、励まし合う群れです。お互いに支え合って信仰の歩みを進めていくのです。そのようにして、地上に神の愛が、神の国が広がっていくのです。

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