2021年10月10日「みことばによるいやし」

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みことばによるいやし

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 9章32節~35節

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ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。
リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 9章32節~35節

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<説教要約> 使徒言行録9章32-35節「み言葉によるいやし」

今朝はまず、使徒言行録9章までの流れを確認したいと思います。
7章までに、初代教会であるエルサレム教会の基礎が固まっていく様子が記されています。
その後、エルサレムの教会に対する大迫害が起こって、使徒たち以外の多くのキリスト者、主にギリシャ語を話すキリスト者たちが、ユダヤとサマリア地方に、あるいはもっと広くアジアやヨーロッパに散って行きました。
8章はフィリポによるサマリア伝道、そしてアフリカの高官への伝道の話が続きます。
9章でサウロが登場し、回心の記事が記されています。サウロの記事は、9章1節から31節までです。
そして、今日の箇所9章32節からは、主人公がペトロになり、それが12章の終わりくらいまでです。
その後、13章からは、いよいよパウロの伝道旅行の話が始まります。

そこでまず、使徒ペトロの歩みについて、彼がいったいいったいどんな人物だったかをふりかえってみましょう。
福音書から、ペトロの人物像を追ってみたいと思います。
ペトロはガリラヤ湖の漁師でした。その彼をイエスが見出し、声をかけ、弟子としたのです。
その時に、イエスがペトロにおかけになった言葉、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」は印象的です。
ペテロは12人の弟子の中で最年長で、12人の中でもイエスの側近として、イエスのそば近くで仕えました。福音書を見ると、ペテロは12人の代弁者としてイエスに質問し、忠誠を誓いました。12人を代表して「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16:16)と告白しました。
彼は行動力があり自信家でした。ですが、不安定で臆病な面もあり、それがイエスの十字架の時、主を三度知らないといった、あの事件に現れています。

一方で、イエスはこのペトロの性格を案じていました。特に十字架にお掛かりになる前に、彼が「三度わたしを知らないと言うだろう。」と予告しましたが、それがイエスの十字架の後、現実となりました。
しかし、同時にイエスはこんな言葉も語っておられました。
ルカ22:32「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

イエスが十字架の死から復活なさった後、イエスは真っ先にペトロにお会いになりました。イエスはずっとペトロのことを案じておられたのです。
ヨハネ福音書21章には、ペトロの心のリハビリともいえるイエスの言葉が記されています。ヨハネ21:15-17をお読みください。
三度イエスを知らないといったペトロに対して、三度ペトロの信仰を確認しています。
ペトロの三度めの答え
ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」が印象的です。
イエスの十字架以前、彼は、12人のリーダーとしての自分の位置、力、イエスを主と信じる信仰と熱心に自信を持っていました。彼は自分の力でイエスに従っていけると考えていたのです。
しかしイエスが十字架で死なれた時に、彼の自信は粉々に打ち砕かれたのです。
そして彼は悟りました。自分の弱さも含め、そのすべてをイエスは知っていてくださる!だから、自分はただイエスに寄り頼んで、イエスに従っていけばいいのだ、と。

十字架の前に、イエスに言われたあの言葉、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
そしてこのとき、新たにイエスに言われた「わたしの羊を飼いなさい。」。
これらの言葉は、しっかりペトロの胸に刻まれて、この後の彼の働きの基盤となりました。
ですから、使徒言行録に登場するペトロは、以前のペトロとは別人のようでした。エルサレム教会の指導者としての働き、彼の説教、祈りには力がありました。ユダヤ教指導者からの迫害にも屈しませんでした。
しかしそれは、ペトロ一人の力ではなく、彼を支え、励まし、力を与えている聖霊の働きがあったのです。
当初、ペトロはエルサレム教会の中心的な指導者として重要な役割を果しました。しかしエルサレム教会がある程度整ってからは、その地位に固執しませんでした。
今日の箇所から12章の終わりまでは、エルサレム教会を出たペトロの伝道の記事が続きます。

9:32 ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。
エルサレム教会の指導者として、教会に留まっているのではなく、彼は教会を離れ「方々を巡り歩いた」のです。彼は、エルサレム教会から各地に散らされたキリスト者を訪問し、福音を語り、彼らを励ましました。この頃になりますと、キリストを信じる者たちの群れが、各地にでき始めていたようです。
ペトロは、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」、「わたしの羊を飼いなさい。」
このイエスの言葉に従って、彼なりに考えて行動したのです。そこには聖霊の導きもあったはずです。

今日の箇所で彼が訪問したのはリダという町。ここで彼が向かった先はアイネアという人の家でした。
9:33 そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。
「アイネアという人に会った」とありますが、偶然会うというより「見つけた」「訪問した」というニュアンスの強いことばです。イエス・キリストを信じてクリスチャンになったアイネアという人がいて、この人が8年間も病で寝たきりだという話しを聞き、尋ねたのでしょう。
「中風」は、麻痺とか、半身不随、というような意味で、脳梗塞など脳血管障害の後遺症で体がマヒして動けない状態のことです。
ペトロは、このアイネアを尋ねて、
9:34「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。 と記されています。
体がマヒして8年もの間動けなかったアイネアが、ペトロの一言の言葉ですぐに起き上がった、というのです。聖書にはいとも簡単に記されていますが、その前後で、アイネアの心にはいろんな思いがあったはずです。
先ずアイネアは、エルサレム教会の有名な使徒、ペトロが、自分を尋ねてくれたことがうれしかったはずです。病や苦しみ、試練の中にある時に、教会に自分が覚えられている、祈られている。さらに教会から使徒が派遣されるということは励みになるし、力になります。
アイネアはペトロがエルサレムで行った数々のいやしについても知っていたはずです。
美しの門の前に座っていた生まれた時から足の不自由な男をペトロが癒した話は、目撃者が大勢いますから、あっという間に広まったはずです。ですから、アイネアも、ペトロの訪問を受けて、体の癒しも期待したはずです。そして、期待通りの結果になったのです。
ペトロの言葉は、「イエス・キリストがいやしてくださる」というものでした。既にイエス・キリストを信じるキリスト者であるアイネアに対して、イエス・キリストは今も生きておられ、働いておられる、そしてあなたをいやしてくださる、といったのです。
アイネアの体に、イエス・キリストの力が働き、彼のマヒがいやされ、自分で起き上がることができたのです。
この結果、9:35 リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。
リダとシャロン周辺の人々の間に、アイネアのいやしの話が広まり、イエス・キリストの名によるいやし、イエス・キリストの力、を多くの人が知り、信じたのです。
イエス・キリストを信じるとは、主に立ち帰ること。
アダムの罪によって、神から離れて生きていた人が、イエス・キリストを信じることで、もう一度神のもとに戻ること、これがキリスト教信仰です。

では、いやしとはなんでしょうか?8年間床から起き上がれなかったアイネアが、イエス・キリストにいやされ、自分の力で起き上がり、自分で床を整えることができるようになった。麻痺が治った。これが体のいやしです。
ですが、アイネアに起こったことは、体のいやしだけではありません。
ここで大切なことは、アイネアがイエス・キリストを信じる信仰によっていやされた、という事実です。
言葉を補うならば、「罪の赦しが本当のいやしである」ということです。
ローマの信徒への手紙で、パウロはこのように教えています。
ローマ5:12 「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」
さらに、同じローマの信徒への手紙6:23には、「 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」と教えられています。

今年5月に川越教会の一人の姉妹が天に召されました。
この方は、若い時に腎臓を患い、40年以上にわたって週3回の人工透析を続けました。晩年は長期にわたる人工透析の後遺症のため、全身の痛みに苦しみました。しかし、彼女の心はいつも前向きでした。隣人への愛に満ちていました。なぜなら彼女は本当の意味で、イエス・キリストによっていやされていたからです。最後に、この姉妹の「川越教会50周年記念誌」の文章を紹介し、その後祈ります。

「恵みの日々」  
 今年は、川越教会伝道開始50年目を迎えようとしていますが、私も川越に転居して37年がたとうとしています。
 私の第2の人生は、殆んど川越教会の思い出につながります。教会もいろいろな出来事がありましたが、私生活も平坦ではありませんでした。誰にもいえることでしょうが、一つ一つ書き記していたら、一冊の恵みの本が、出来上がると思います。
 只、今になって実感していることは、すべての事柄を通して、いつも神様に守られていたという事です。もし、教会につながっていなかったら弱い私ですから、心もくじけて、不安な毎日を過ごしていたと思います。今までの、たどたどしい信仰生活を通して思った事は、信じてゆだねなければ、決して神様の栄光は見る事が出来ない、という事です。ぎりぎりになって、自力ではどうする事も出来なくなり、主にゆだねます、という時になって必ず解決が与えられました。何度も経験を通して、信仰の確信が深められたような気がします。
 信じるとは、私の今までがどんなものであろうとも、あるいは私の今の状態がどうであろうとも、み言葉を何より確かなものとして生きていく・・・その時に確かな平安が与えられるのだと思います。
 不可能を可能として下さる主にゆだねて、何事にもとらわれることなく、これからも与えられた目の前の課題に、全力投球していきたいと願っています。川越教会も、今を伝道の時として、用いられますよう心より祈っています。

本当のいやしは、人生をイエス・キリストに明け渡し、イエス・キリストに依り頼んで生きる時に与えられます。
神は、ペトロを支え、導かれたように、私たちの人生の歩みも、み言葉を通して導いてくださいます。その時々で、必要な助けや励まし、いやしをあたえてくださいます。
そして、わたしたち信仰者を、最終的ないやしである、神の国、永遠の命にまで導き入れてくださるのです。

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