2021年09月05日「キリストの十字架を思う」

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キリストの十字架を思う

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ルカによる福音書 24章28節~35節

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そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 24章28節~35節

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<要約> ルカ24章28-35節「キリストの十字架を思う」

1.導入
今朝は聖餐式を覚える礼拝、聖餐式の意味を覚える説教です。
説教題は「キリストの十字架を思う」としました。
聖餐式は、キリストがご自身のいのちを犠牲として獲得された救いの恵みが私たちに与えられていることを覚える。思い出す。再確認するときです。

本日の聖書箇所はルカ福音書24章28節から35節ですが、この話は13節からの続きです。
ですので、13節から27節までを簡単に確認してから今日のところに入ります。
イエスの十字架から3日後のこと、二人の弟子がエルサレムからエマオ村に向かって歩いていました。
二人はイエスがメシアであると信じ、彼に望みをかけ、従っていたのですが、そのイエスが十字架刑であっけなく死んでしまったのです。二人は失意の中で、エルサレムから逃げるようにしてエマオへと向かったのです。
しかしその途上で、彼らの後ろから追いついて一緒に歩き始めた人がいました。実はその方こそが復活のイエスだったのですが、二人にはそれがわかりませんでした。二人はイエスに尋ねられるまま、エルサレムで起きたことを話しました。イエスの裁判、十字架と死、埋葬。そして、今朝墓が空になっていたのいうニュースまで。

二人の話を聞いていたイエスが言いました。24章25節から27節まで、お読みします。
24:25「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
彼らはメシアをこの世的な救世主と理解していたのですが、「旧約聖書はメシアは苦しみを受けて栄光に入る」と記していることを教えたのです。
しかしこのように教えられても、二人はまだその方がイエスだと気付きませんでした。イエスの復活を信じていなかったからでしょう。

イエスの話を聞いているうちに、一行はエマオ村に近付きました。二人はイエスの話しをもっと話を聞きたいと思って、イエスを引き止めました。
イエスは二人の言葉に従って、一緒に家に入られたのです。ところが、どうしたことでしょう。
食事の席に着くと、イエスはまるで自分がその食卓の主人であるかのように「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」のです。
しかし、その瞬間に、
24:31 二人の目が開け、イエスだと分かった。と記されています。

「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」
このとき、二人の弟子は何を思い出したのでしょうか。二人の脳裏には、イエスがお元気だったときの思い出。記憶が鮮やかによみがえったのです。それは、「二匹の魚と5つのパン」別の言い方では「五千人給食」のときの記憶です。ルカ9章16節を見ましょう。
ルカ9:16 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
この時イエスは、今と同じように「パンを裂き、感謝し、渡す」という行為をなさいました。
主イエスが共におられる恵みの食卓の記憶です。そこに集った5000人以上の全員が満腹になり、満足し、さらにパンくずが12籠もなったのです。イエスが共におられる食卓で与えられる恵みは、有り余るほど豊かな恵みであることが示されたのです。

「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」
さらにこのフレーズは、最後の晩餐でイエスが聖餐式の制定をなさったときとも同じです。
最後の晩餐でのイエスの言葉はこうでした。
ルカ22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
最後の晩餐では、パン先の行為とご自身の十字架の贖いとを関係づけ、聖餐の礼典として教えられたのです。
二人の弟子は、エマオ途上でイエスにお会いするまで、悲しみと失意の中にいました。
しかしイエスにお会いし、聖書の解き明かしを受け、さらにパンを裂く聖餐式に与ったことで、目が開かれ、その方が復活されたイエスだと分かったのです。目の前におられるイエスこそが、旧約聖書が語っている「苦しみを受けて栄光に入られたメシア」だと理解したのです。
その瞬間に、イエスの姿は二人の前から消えてしまいました。
しかし二人の心は希望にあふれていました。そして、すぐにエルサレムにいる仲間の所へ戻りました。

二人は、道でイエスにお会いした時のことを思い返して
24:32「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合っています。
彼らが復活のイエスと出会い、イエスの口から旧約聖書の意味、メシア・キリストの復活について教えられたとき、「心が燃える」ような経験をしたというのです。
ここに使われている「燃える」というギリシャ語は、「火をつける」とか「燃やす」という言葉の受身形の分詞で、「火がつく」「燃やされる」という意味になります。復活のイエスの言葉によって、今まで悲しみに沈んでいた心が明るく照らされ、温かい気持ち、熱い思いに変えられた、ということだと思うのです。これが、キリストの言葉、御言葉の持つ力です。
これと同じことが、今も、聖書を通して、聖霊の働きが用いられて、私たちの心にも起こるのです。み言葉は生きて働く神の力です。
さらにその後、イエスは交わりの食卓で「パンを裂く」ことでご自身を示されました。二人はこのときになってやっと、この方が死から復活されたイエスだとわかったのです。
復活のイエスが共におられる食卓、聖餐式に加えられて、心の目が開かれたのです。
「み言葉と聖餐の礼典」は、今も同じように働きます。今も、私たちの心が燃やされ、信仰の目が開かれるということが起こるのです。
私たちも御国を目指す歩みの途上で、御言葉と聖餐式を通して、毎週、毎月、イエスと出会い、イエスの恵みの中にいることを確認し、心燃やされて新しい週の歩みへと向かうのです。
聖餐式はイエスが獲得してくださった恵みを覚え、思い起こすとき、想起するとき。そして、その恵みの中に、私が入れられていることを覚える時なのです。
ですから、一日も早く、安心して礼拝に出席できる時が与えられるように、引き続き祈っていきましょう。
最後に、礼拝式文の関係個所と、ウエストミンスター小教理問答 問96、問97の関係個所をお読みします。

礼拝式文「記念・想起」
主の晩餐はわたしたちの主イエスが弟子たちと共に食事をされたときに、わたしの記念としてこのように行いなさいと命じられた礼典です。主イエス・キリストは、パンと杯を覚えて、ご自身の記念として行いなさいと言われました。わたしたちはパンを見て、わたしたちの主が十字架の上でご自身を罪のための贖いのそなえものとしてくださったことを覚えます。また杯をその目で見ながら、キリストの流された御血潮が新しい契約の血であることを思い起こします。主の晩餐は、私たちがキリストによって新しい契約の民とされていることを保証します。したがってわたしたちはこの主の晩餐において、キリストがなしてくださった大きな御業を思い起こし、勝ち取ってくださった勝利はわたしたちのものであることを確認し、すでに栄光の民に加えられていることを確信します。キリストがご自身のいのちを犠牲にすることによって獲得してくださった救いの恵みを、今日この場所であらためて心に覚え、想起します。

ウエストミンスター小教理問答も確認します。 まず、問96です。
<ウェストミンスター小教理問答>
問96 主の晩餐とは、なんですか。
答 主の晩餐も、ひとつの礼典です。そのとき、キリストの指定にしたが って、パンとぶどう酒を与え、また受けることによって、キリストの死が示されます。また、ふさわしい陪餐者が、身体的、肉的な仕方でではなく信仰によって、キリストの体と血を、キリストのあらゆる祝福もろとも分け与えられて、霊的に養われ恵みのうちに成長するのです。

さらに、聖餐式に臨む際の私たちの態度についても小教理問答は教えてくれています。
問97 主の晩餐をふさわしく受けるには、何が求められていますか。
答 主の晩餐にふさわしく参加したい人には、次の事が求められています。 すなわち、主の御体をわきまえる自分の知識・キリストを糧とする自分の信仰・自分の悔い改めと愛と新しい服従について、自己吟味することです。
それは、ふさわしくないままで来て、その飲み食いによって自分にさばきを招くといけないからです。

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