2021年08月22日「イスに捉えられたサウロ」

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イスに捉えられたサウロ

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 9章1節~9節

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さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 9章1節~9節

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<説教要約>使徒言行録9章1-9節「イエスに捉えられたサウロ」

今日の箇所は、キリスト教迫害に力を注いでいたパウロが、復活のイエスとの出会いによって、キリスト教徒となるという話。「パウロの回心」と言われる、衝撃的な出来事です。
この出会いによって、パウロの人生が全く変わります。キリスト教を迫害した側から、命がけでキリストの福音を宣教する者となったのです。
これは、何よりパウロ自身にとって衝撃だったで、パウロはこの経験を何度も語っています。使徒言行録だけでも3回、パウロがこの体験を語った記事があります。今日の箇所9章1-19節に加えて、22章6-16節、26章12-18節です。

この箇所より前に、使徒言行録にサウロの名前が登場するのは、ステファノの処刑場面です。
8章1節「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。」と記されています。
さらに今日の箇所では、サウロがエルサレムにいるキリスト教徒への迫害だけでは満足せず、周辺地域へ逃れていったキリスト教徒にまで、迫害の手を伸ばそうとしているのです。
彼は、今ダマスコという町へ向かおうとしています。が、その前に、合法的にキリスト教徒を連行するための許可を大祭司からもらっています。
このように、周到に準備してダマスコへと向かうサウロの姿から、彼が一時的な感情でキリスト者を迫害したのではないことが分かります。
もともと、彼は熱心なユダヤ教徒であり、律法については、当時超一流と言われたユダヤ教教師であるガマリエルの教えを受け、旧約聖書をしっかり学んでいます。
そのうえで、サウロは、キリスト教信仰が間違っていると信じているのです。
サウロの行動は、旧約聖書の神、唯一まことの神への熱心から生じたものです。
また、「この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。」は、ただ連行するだけでなく、彼らが信じている「道」の誤りを正し、ユダヤ教へと引き戻そう思いが現れています。

3節に「突然、天からの光が彼の周りを照らした。」とあります。この天からの光は、神の栄光の象徴です。神の使いである天使や、天からの訪問者が地上に現れる時、天からの強い光、明るい光を伴うということがありました。同じような状況が、聖書に何か所か記されています。そのことをサウロは知っていました。
ですから「突然、天からの光が彼の周りを照らした。」という状況下で、サウロは神の臨在を受け止めました。
そして、自分の名を呼び、語りかける神の声を聞いたのです。
「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と。
このときサウロは、これが確かに神の声、神の言葉であると悟り、即座に尋ねました。「主よ、あなたはどなたですか。」と。
するとどうでしょう、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」という答えが返ってきたのです。
「サウロよ、お前は私の教会、私の弟子たちを脅迫し、縛り上げ、殺そうとしている。しかしそれは、この私を憎み、私を殺すのと同じことだ!」と、イエスは言われたのです。

ここでサウロに現れたのは、復活のイエスでした。サウロは、イエスと出会い、イエスの言葉を聞いて、自分の信仰が間違っていることを悟りました。さらに自分が神の名において行ってきた「キリスト教徒迫害」が誤りであることを悟ったのです。彼は、自分の行動が神に喜ばれるどころか、神を憎み苦しめる行為であることを理解したのです。
このようにしてサウロは、復活のイエスと出会い、イエスに捉えられたのです。このときサウロは、地に倒れたまま、起き上がることができませんでした。

不思議なことに、同行者には声は聞こえたけれど、誰の姿も見えなかったのです。
使徒言行録22章9節では「一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。」と記されています。
同行者たちは、イエスがサウロに語った話の内容は、聞き取れなかった。しかし何か普通ではないことが起きたということは理解できたのだと思います。
このあと、サウロは三日の間、目が見えないままでした。
そして、「食べも飲みもしなかった」とあります。これは精神的なダメージのため飲食できなかったということではありません。彼は自らの意思で断食し、神に祈り続けたのです。
真剣な祈りの中で、彼は一連の出来事を繰り返し思い返したことでしょう。
イエスの言葉を思い返し、自分が学んできた旧約聖書の内容、特にメシア預言について思い返したかもしれません。また、ステファノが命がけで語った説教の内容や、彼を殺害したことも思い返していたはずです。
そういう中で、サウロは、イエスメシアであり、神の御子であること、そして自分がキリスト教徒たちに行ってきた迫害は、神に対する大きな罪であったと理解したのです。
正義感からダマスコに向かっていたサウロでしたが、今、イエスと出会い、あやまちを示され、後悔してもし足りないという心境だったはずです。
しかし、イエスの最後の言葉「 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」に望みをかけて、このあと自分がなすべきことが示されるようにと祈り求めたことでしょう。

今日の箇所で注目すべきことをまとめます。
(1)神の側からの接近
一つは、神の側からサウロに近づいてくださったということ。
自分の正義感から、キリストの弟子を迫害しようとダマスコへと急いでいたサウロに、イエスが近づき、語りかけて、彼の過ちを示されたのです。
神の方から近づいて、ご自身を示してくださる。聖書の神、真の神は、神のほうから私たち人間に近づいてくださる方です。
もちろん、このときのサウロのように、イエスご自身が直接言葉をかけてくださるというのは、特殊なこと。
今、神は聖霊の働きとみ言葉、人を用いて、あるいはいろんな出来事を通して、私に近づいてくださり、ご自身を示してくださいます。神の意志を知らせてくださいます。そういう、神の思いを私たちは注意して受け止める必要があります。
いっぽうで、イエスによって過ちを示されたサウロは、言いのがれや言い訳をせず、イエスを受け入れています。
このように、正しいことが示されたなら、私たちも言い訳をせず、受け入れることが大切です。自分の誤りが示されたときには、素直に悔い改めること、生き方を変えることが必要です。
サウロは、この後、ここで示されたことをしっかり受け止め、過去の過ちを悔い改め、新たな使命に命を懸けて、「この道」「キリストの道」を進んで行きます。
(2)祈りの必要
また、この出来事の後3日間、パウロが「食べも飲みもしなかった」とは、断食して祈ったのだ、と言いました。
神の御心、ご計画を知ろうとするとき、何かを決める時、行動を起こすときなどには必ず祈りが必要です。
パウロは何かにつけ必ず祈っていました。(使徒13:1-3、使徒14:21-23) 
断食はなかなか難しいですが、せめて祈ることは大切にしたいものです。

(3)ユダヤ教とキリスト教の共通点と違い
また、サウロの回心を考える時、ユダヤ教とキリスト教の違いを考えることになります。
ユダヤ教とキリスト教の違いは、イエス・キリストをメシア、救い主と信じるか信じないか。これが、ユダヤ教とキリスト教の大きな分かれ道です。
パウロは、旧約聖書の神、ヤハウエを唯一、まことの神と信じるユダヤ教徒でしたから、イエスを神の御子、神と信じるキリスト教を受け入れることができなかったのです。
それでは、キリスト教は一神教ではないのでしょうか? 
いいえ、キリスト教も一神教、唯一まことの神を信じる宗教です。しかし、その唯一まことの神を「父・子・聖霊なるひとりの神」と信じるのです。
神学用語では「三位一体」と言いますが、この言葉は聖書には出てきません。しかし、父なる神、子なるキリスト、御霊なる神(聖霊)は、特に新約聖書のいろんなところに登場します。そして、私たちの救いのために、協力して共に働いておられるのです。言葉で説明するのは難しいのですが、聖書を読んでいくと、そう考えるしかないし、イエスご自身がそう教えておられるのですから、私たちはそれをそのまま、信仰によって受け入れます。
「三位一体の神様ご自身が、あたかも身を乗り出すようにして私たちの救いのために計画し、その計画に従って御子を遣わし、贖いを成し遂げ、さらには聖霊を遣わして、その救いを私たちの内に実現し、完成してくださること、すなわち救いの一切は三位一体の神様ご自身が成し遂げてくださるのです」(神様と共に歩む道 子どもと親のカテキズム解説より)

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