2021年08月01日「ひとりじゃない」

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「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 15章1節~10節

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<説教要約>ヨハネによる福音書15章1-10節 「ひとりじゃない」

今朝は7月4日に続いて聖餐式の意味を覚える説教です。
聖餐式は、神との交わりと主にある兄弟姉妹との交わり、という二つの意味があることを確認します。

今日の箇所で主イエスは、キリストに結ばれるという事実を、植物のたとえを用いて教えておられます。
ヨハネ15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」
「わたし」つまりイエスご自身が「ぶどうの木」であり、天の神、父なる神はブドウの木の世話をする「農夫」。そして、わたしたちは「ぶどうの枝」にたとえられています。
当然ながら、「枝」はブドウの木とつながっていなければ実を結ぶことはないし、やがて枯れてしまいます。ですから、枝であるわたしたちは、ぶどうの木であるイエスに結ばれていることが求められています。ですが、ただ何となくつながっている、というのではだめだということが2節でわかります。
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
わたしが洗礼を受けてクリスチャンになった。でも礼拝生活をなおざりにして、自分中心に生きている。ではだめなのです。実を結ばなければ、その枝はいつか取り除かれてしまうのです。クリスチャンは、実を結ぶという結果が求められるのです。
2節後半に「しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」とあります。ここは、キリストにしっかり結ばれているクリスチャンは、キリストを信じる信仰を貫くために、神が手入れをされる。信仰の訓練が与えられる。そしてさらに豊かな実を結んでいくということです。
「信仰の訓練」のなかには、試練や苦難も含まれます。その時にこそ、キリストに結ばれていることが必要です。
3節は、クリスチャンのスタート時点のことです。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
キリストを信じる信仰は、キリストの言葉、御言葉を聞くことから始まります。キリストの言葉を通して、キリストの十字架と罪の赦しを信じる信仰が与えられ、信仰によってキリストに結ばれることで、罪から解放され、聖くされる。神の前に立つことができる者として、認めていただけるのです。ですから、キリストにつながるためには、キリストの言葉、御言葉、聖書の言葉を聞くことが必要です。
7節でも15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
とあり、キリストにつながり続けるためには「わたしの言葉」つまり「キリストの言葉」が私たちの内にあること、キリストの言葉を聞き続けることが求められています。
10節は
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
とあり、「わたしの言葉」が「わたしの掟」と言い変えられています。
キリストの言葉、キリストの掟をいつも心に覚え、従って生きることが、キリストの愛にとどまるということなのです。
キリストの愛、キリストの恵みの内にとどまるためには、キリストの言葉である聖書の言葉を聞き続け、生活の中で常に意識し、従う努力が求められています。
一方で、聖餐式、聖餐の礼典は「目に見えるみ言葉」とも言われます。ですから聖餐式は、わたしたちが確かに今キリストに結ばれていること、神の愛の内にあること、神との交わりに入れられていることを覚えるときなのです。

週報の裏面に、式文「聖餐式の意味~食卓での交わり~」を記しておきましたので確認しましょう。
「礼拝式文 P107」より
 主の晩餐には二つの交わりが約束されています。
 第一は主との交わりです。この食卓にあずかる者は、教会のかしらであるキリストとの一致を約束されています。主イエスは、わたしたちのためにご自身を犠牲としてささげられました。福音を信じる信仰によってわたしたちは義と認められ、子とされ、聖徒される恵みにあずかっています。こうしてわたしたちはもはや、自らの罪のゆえに滅びることなく、救いに入れられ永遠の命を約束されています。わたしたちはこの世でも、来たる世でもキリストとひとつにされています。

さらに、式文には第二の意味も記されています。
 第二は聖徒の交わりです。わたしたちはこの食卓に共にあずかっています。わたしたちはこの世では孤独な者ではなく、神の家族の一員にされています。ですから、わたしたちはこの食卓に共につく者として信仰の歩みを重ねます。それゆえに、聖餐にふさわしく互いに励まし合い、助け合う者として歩みましょう。
こちらは、先ほどのブドウの木と枝にたとえるならば、木がキリストであり、枝がクリスチャンです。しかし、クリスチャンは私だけではありません。同じブドウの木に結ばれている他の人もいます。
ですから、わたしたちはこの世では孤独な者ではなく、神の家族の一員にされています。といわれているのです。わたしたちは同じ信仰を持つ「主にある兄弟姉妹」、「神の家族」として、互いのために配慮し、祈りながら地上で信仰の歩みを進めていきます。
一緒に聖餐式に与ることで、私たちは地上の教会で神の家族とされていることを確認し、お互いのために仕え合う責任があることを覚えます。

使徒パウロはそのことをコリント教会の人々に教えています。
Ⅰコリ10:16-17 
10:16 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。
10:17 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。
パウロはここで、聖餐式のパンはもともと一つのパンであり、それを分けて食べることで互いの一致を確認すると教えています。
通常、川越教会の聖餐式では、食パンを小さく切り分けて聖餐式のパンを準備します。もちろん、一口で食べられるように小さく切り分けるということもあります。 しかしそれ以上に一つのパンを分けるということに意味があるのです。
さらに、ハイデルベルク信仰問答問77も確認しましょう。
問77 信徒がこの裂かれたパンを食べ、この杯から飲むのと同様に確実に、御自分の体と血とをもって彼らを養いまた潤してくださると、キリストはどこで約束なさいましたか。
答 聖晩餐の制定の箇所に、次のように記されています。
わたしたちの「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『(取って食べなさい。)これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』といわれました。
また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念としてこのように行いなさい』といわれました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。
この約束はまた聖パウロによって繰り返されており、そこで彼はこう述べています。「わたしたちが神を賛美する讃美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」

ここまでの話しから、二つの意味でクリスチャンは「ひとりじゃない」ことが分かっていただけると思います。一つは、キリストに結ばれて「ひとりじゃない」ということ。
さらに、もう一つのことは同じブドウの木に結ばれた枝として、クリスチャン同士、同じ信仰によって結ばれた兄弟姉妹、神の家族だから「ひとりじゃない」ということです。
エフェソの信徒への手紙には、このことが別の表現で記されています。
教会のかしらがキリストで、クリスチャン、教会員はその体だ、という関係での説明です。
エフェソ4:12-16
4:12 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、
4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
4:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、
4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

クリスチャン一人一人がキリストの体であり、それぞれが分けられた小さなパンだと考えるならば、一つ一つのパンにたとえ凹凸があったとしても、それがパズルのように上手に合わされば、きれいな一枚の食パンになります。ですから、それぞれが整うこと以上に一つに結びあわされることが重要なのです。
かしらなるキリストが、一人一人を一つに結び合わせ、用い、成長させてくださるのです。
そこで大切なこと、それは、神への愛と共に、主にある隣人への愛です。お互い凹凸があり、いびつであり、かけた器であっても、お互いが神に愛された大切なひとりであり、同じキリストに結ばれた枝であり、一つの体であること意識して、愛によって結びあわされること。神が愛しておられる大切なひとりであることを覚えて、配慮し合うことが大事なのです。
牧師も信徒も、互いの欠けを指摘することに終始するなら、教会は立ち行かなくなります。そういう中でキリストの体である教会が傷つき、分裂することすら起こります。そういう状況をキリストは何よりも悲しまれます。
ですから、とりわけ教会での交わりにおいては、お互いの良いところに目を向けて、祈り合い、支え合い、配慮していくことが必要です。
牧師も欠けのある器ですから、牧師のためにも祈ってください。牧師の良いところを生かし、足りないところを役員はじめ会員がカバーしていく知恵も必要です。

4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

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