2021年07月18日「フィリポの伝道」

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フィリポの伝道

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 8章5節~13節

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フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。
ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 8章5節~13節

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<説教要約> 使徒言行録8章5-13節「フィリポのサマリア伝道」

今朝は使徒言行録8章5節から13節。ステファノが処刑され、その後に起こったエルサレム教会への大迫害。そしてそのために、多くの信徒がエルサレムから散らされた、という話の続きです。
5節。「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。」
フィリポは、ステファノと共に7人の役員の一人に選ばれた人物で、彼もステファノ同様、ギリシャ語を話すユダヤ人です。エルサレム教会への迫害は、特にギリシャ語を話すユダヤ人がターゲットだったようだと前回お話ししました。
ですから、フィリポもエルサレムに留まることができず、散らされた一人です。彼は命からがらエルサレムを脱出したのですが、身を隠しながら逃げていたわけではありません。「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。」 とある通りです。
福音書にもサマリアという地名、よく出てきますね。サマリアはユダヤとガリラヤの間にあるので、ユダヤからガリラヤへ向かうなら、必ず通らなければならない町です。しかし、ユダヤ人とサマリア人は歴史的、宗教的に仲が良くありませんでした。

いい機会なので、サマリアのことを少しお話ししておきます。サマリアの始まりは、列王記上16章24に記されています。23節から見ましょう。「ユダの王アサの第三十一年に、オムリはイスラエルの王となり、十二年間、王であった。六年間はティルツァで王であった。彼は銀二タラントでシェメルからサマリヤの山を買い、その山に町を建て、彼が建てたこの町の名を、その山の持ち主であったシェメルの名にちなんでサマリヤと名づけた。」
ソロモン王の後、ダビデ王国は南ユダと北イスラエルに分裂しましたが、その北王国、イスラエルの王オムリがサマリヤの山を買いそこに町を造ったのがサマリアの起源です。その後北王国はアッシリアに滅ぼされ、サマリアには他国からの移民が住み着き・・・というように、歴史的にはいろんな変遷がありました。が、この当時、サマリアは行政区「サマリア」となっていて、この地域に住んでいたのが「サマリア人」です。
サマリア人は旧約聖書の中のモーセ五書だけを信じていました。そしてエルサレム神殿とは別に、独自に神殿を建てそこで神を礼拝しました。
そして、申命記18章18節 で神がモーセに語られた言葉「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。」に基づいて、「モーセのような預言者」の出現を待望していたのです。
ですからユダヤ人たちは、彼らをユダヤ教の分派主義とみて軽蔑し、嫌っていたのです。
しかし、イエス様はそうではありませんでした。ヨハネ福音書の4章にイエスとサマリヤの女性の話が記されていますが、そこにこんな会話が記されています。
ヨハネ福音書4章25-26節  女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」と。ここで彼女が言うメシアとは、先ほどの申命記にある「モーセのような預言者」のことです。そしてイエスは、それこそが『わたしだ』と教えられたのです。このように、イエスは、ユダヤ人が軽蔑し交際していないサマリア人の女性に対して、ご自身をメシアとしてお示しになっていたのです。

使徒言行録のフィリポの話に戻りますが、フィリポも、イエスと同じように、ユダヤ人が軽蔑し交際しないサマリア人たちの町で、悪霊や病で苦しんでいる人々を癒し、多くの人を助けたのです。
8:7 汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。ですから、当然、町の人々は、大変喜んだわけです。
そして、フィリポという人も、使徒ペトロや使徒ヨハネと同じように、悪例追放や病のいやしという特別な力が神から与えられていたことが分かります。

ところが、この町にシモンという魔術師がいた、というのです。9節以下です。11節までもう一度お読みします。「ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。」
シモンが行っていた魔術の内容は、記されていないのでわかりません。彼に本当に奇跡をする力があったのか、あるいはインチキだったのか。しかし、サマリア人たちは、シモンを「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」ともてはやし、「長い間その魔術に心を奪われていた」のです。そしてシモン自身も、自分がもてはやされることをよしとしていたし、あるいはそれでお金儲けをしていたかもしれません。
それでもシモンは、フィリポが語る神の国とイエス・キリストの福音、十字架を通して示された神の愛、罪の赦しと復活の命の福音を信じて、多くのサマリヤ人と一緒に洗礼を受けました。
13節には、「 シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。」とあります。
ここまでが今日の話なのですが、この話の中からいくつかのことを確認したいと思います。
一つは、癒しや悪例追放など、奇跡だけでは信仰は生まれないということです。
サマリアの人々は、フィリポの行った病人の癒しや悪例追放などを大変喜びました。8節には「町の人々は大変喜んだ」とあります。
病が癒され、悪霊が体から出ていき、足が治って普通に歩けるようになったら、癒された人も家族も、その周囲の人々も嬉しいに違いありません。フィリポに感謝し、彼の力に驚き、彼の評判は広がっていくでしょう。ですがそれで終わりです。
しかし、12節を見ますと、
「フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。」
つまり、キリスト教信仰は、福音が語られ、それを聞かなければ成立しないということです。福音が正しく、適切に語られることが重要なのです。

ですが、反対のことも言えます。人々は、フィリポが行った癒しや悪例追放という奇跡を通して、彼の信じる神に関心を持ちました。フィリポが信じている神、彼にこのような力を与えておられる神、フィリポを通して働かれた神のもとへ集まり、神の言葉、キリストの福音を聞いて、信じたのです。
キリスト教信仰とは、神の愛を知ることです。そしてそのためには、キリスト者の愛の業が用いられる。クリスチャンを通して働く神の愛の業が必要なのです。

このことはイエスの宣教を見てもわかります。二か所ほど聖書を開きます。
マタイ4章23節「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」あるいは、
マタイ9章35節「 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」

イエスがなさった宣教の内容は、具体的には「会堂で教え御国の福音を宣べ伝ること」と「病気や患いをいやすこと」。そして「病気や患いをいやすこと」は「愛の働き」「愛の業」と言いかえることができます。つまり、主イエスは愛の業を、福音宣教の働き、神の国の業として行ったのです。
今日の使徒言行録8章でのフィリポも同じです。「福音を宣べ伝えること」と「愛の業」この両方が、神の支配、神の国を伝える働きであり、この両方によって人は信仰へと導かれるのです。

ということは、教会も、そしてキリスト者それぞれも、この両方の働きを通して神の国を証ししていくことが求められているということです。この両方が用いられて、キリストの福音、神の愛が地上に広まっていき、教会が、神の国が進展していくことを覚えたいと思います。
私たち一人一人は小さな者ですが、言葉での福音宣教と共に、隣人を自分のように愛すること。この両方が神の国の進展、福音宣教に仕える業なのです。
八木重吉という人が記した短い詩を紹介します。
『信ずること/キリストの名を呼ぶこと/人をゆるし出来るかぎり愛すること/それを私の一番よい仕事としたい』

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