2021年06月13日「神はどこにおられるのか」

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神はどこにおられるのか

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 7章44節~50節

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わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。この幕屋は、それを受け継いだ先祖たちが、ヨシュアに導かれ、目の前から神が追い払ってくださった異邦人の土地を占領するとき、運び込んだもので、ダビデの時代までそこにありました。ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、神のために家を建てたのはソロモンでした。
けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、/わたしの手が造ったものではないか。」』
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 7章44節~50節

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<説教要約>使徒言行録7章44-50節「神はどこにおられるのか」
今日の所でステファノは、イスラエル民族にとって神殿がどんな意味を持つのかを、旧約聖書から確認しようとしています。
7章44節には
7:44 わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。 とあります。
ステファノはここで、出エジプトの時の幕屋は神に命じられたとおりに造ったものだと言います。
出エジプト記を見ますと、モーセが十戒を神から受けた時、幕屋の建設の指示がありました。神は、幕屋の材料、寸法、造り方まで、詳しく指示しておられます。神の指示全体は大変に長いのですが、出エジプト記25章8節、9節だけ確認します。
出エジプト記25:8-9
25:8 わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。
25:9 わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい。
確かに神の指示で幕屋を造ったのですが、しかし神は、「その中に住む」とは言っていません。「わたしは彼らの中に住む」と言っておられるのです。つまり幕屋は、イスラエルの民にとって生ける神が自分たちと共におられる、という見えるしるし、象徴なのです。また、この幕屋の一番奥に、モーセが神から受けた十戒の板を納めるように、という指示もあります。ですから、幕屋は神の言葉である十戒が納められる、そういう場所でもありました。
続いて45節でステファノは、イスラエルの民が約束の地であるカナンに導き入れられた後、ダビデの時代まで幕屋があったと語っています、
旧約聖書を調べますと、幕屋はヨシュアがカナンに運び入れた後、ずっと同じ形、同じ場所にあったわけではなく、また十戒の入った箱も、敵に奪われたり、取り戻したりと、いろんな変遷、移動がありました。
そして最終的にダビデが十戒の入った箱を、ダビデの町と名付けたエルサレムに運び、ダビデの張った天幕におさめました。天幕で、神殿ではありませんでしたが、ダビデには神の神殿を造りたいという願いがありました。
しかし、神は、ダビデが神のために神殿を建てることをお許しになりませんでした。神は、ダビデに神殿建築の準備をする役割を与え、神殿建設は息子ソロモンが行ったのです。

7章48節からがこの場にいる人々に対するステファノの主張です。
7:48 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。
こう言ったあと、ステファノはイザヤの預言を引用しています。
7:49 『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。
7:50 これらはすべて、/わたしの手が造ったものではないか。」』
イザヤ書の方も確認しましょう。66章1-2節です。
66:1 主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。
66:2 これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。
確かに幕屋は神の指示で造られたのですが、それは神が住む場所ではなく、神がそこにおられるということの象徴でした。また、礼拝の場所、そして十戒を納める場所としての役割があり、それが重要でした。
神がそこに住んでいるということではありません。そして、それは神殿も同じなのです。
イザヤ書66章2節の後半では、「わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。」とあります。ここはステファノが引用していない部分ですが、実はこちらの方が重要です。人間に求められているのは、神が住む神殿を造ることではなく、苦しみや砕かれた霊をもって、神の前に行き、神の言葉を受け、神に聞き従うことです。

実はそのことは、ソロモンもよく知っていました。ですから、ソロモン神殿が完成した時、ソロモンが神殿の前で祈りを献げ神を礼拝しましたが、その時の祈りはこのようなものでした。
列王上8:27-29
8:27 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。
8:28 わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。
8:29 そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。
ソロモン神殿は、大変立派な神殿でしたが、神がそこにお住まいになることはないと知っていたのです。
ソロモンの願いは、神がこの神殿に目を注ぎ、この場所で祈る民の祈り、献げる礼拝を受け入れてくださることでした。
ステファノは、エルサレム神殿にこだわり続けるユダヤの人々に、神殿の持つ意味を思い出させようとしているのです。

では、今私たちが「あなたの神はどこにおられるのか」と問われたら、何と答えるのが正しいのでしょうか?
この問いに正しく答えるために、教理から神の御性質を確認をしたいと思います。
ウェストミンスター大教理問答
 問7 神は、どのような方であるか。
 答 神は霊であり、存在、栄光、祝福、完全、において自存無限、充足、永遠、不変、知り尽くせない、どこにでもおられる、全能、全地、最も賢く、最もきよく、最も正しく、最もあわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみとまこととの豊かな方である。

ここで、神のご性質として「どこにでもおられる」と教えられています。ですから、「神は天におられる」「神は教会におられる」「神は私と共におられる」どれも正解です。

でもそうであればなぜ、私たちは主日に教会に集まって、教会で礼拝をささげるのでしょうか?
神は教会だけにおられるわけではありません。ですから、コロナ禍の今、家庭礼拝をささげている方がおられますが、それが可能なのは、神はどこにでもおられるからです。
しかし、かつてソロモン神殿が特別であったように、今は地上の教会が、神が特別に目を注いでくださる場でもあります。また、神の民が神から呼び出され、集められて、神を共に礼拝する場が教会です。そして、神はそこに特別に目を注いでいてくださるのです。教会に共に集まって神を礼拝できることが、私たちにとってどれほどの恵みであり、励ましであり、祝福であるかは、今コロナ禍で自由に集まれない状況の中で、私たちが感じていることでもあります。

さらに、「神はどこにおられるのか」の答えとして、もう一つ覚えたいこのがあります。
それは、「神は、神を信じる者と共にいてくださる」ということです。
神はどこにでもおられますから、神から隠れる場所はありません。ですから私たちの罪は神に隠すことができないのですが、反対に、私たちの心の思いまで、すべて神が知っていてくださるということでもあります。特に今、コロナ禍で辛いことの多い日々ですが、そういう私たちの日常に神は目を注いでくださり、共にいて、私たちを助け、導き、支えとなってくださいます。それほどまで、神は私たちの近くにいてくださるのだ、ということをしっかり覚えたいと思います。
特に今、お一人で礼拝をなさっている方、しかし実際には一人ではありません。神があなたと共に、あなたの目の前に、確かにおられます。

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