2021年05月30日「モーセ物語2」

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モーセ物語2

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 7章30節~38節

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四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。モーセは、この光景を見て驚きました。もっとよく見ようとして近づくと、主の声が聞こえました。 『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』と。モーセは恐れおののいて、それ以上見ようとはしませんでした。そのとき、主はこう仰せになりました。『履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 7章30節~38節

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2021年5月30日 川越教会朝の礼拝 使徒言行録7章30-38節「モーセ物語2」

今私たちは使徒言行録7章に記されている、ステファノの説教を見ています。
今日は、7章30節から38節までを扱います。

モーセは40年間、ファラオの宮殿で、ファラオの王女の子として育ちましたが、その間も奴隷として苦しむ同胞、イスラエルの人々のことを忘れてはいませんでした。
ステファノの言葉を用いるなら、7章23節「四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。」とあります。
しかし、ステファノは続けて語ります。
7章25節「モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。」と。
実は、23節、25節の内容は、出エジプト記にはありません。ですから、旧約聖書に記されている状況をステファノが解釈して語っているということになります。
25節で、ステファノは「神」に言及していますが、果たしてこの時モーセに、「神に遣わされた」という自覚はあったのでしょうか。もっと言えば、モーセやイスラエルの人々は、真の神を覚え礼拝していたのでしょうか?

このとき、イスラエルの民はエジプトへ来て既に400年経っています。また、この400年間について旧約聖書は一切記していません。つまり、この400年は神が沈黙された400年だったのです。
その間にイスラエルの人々はエジプトで数を増し、神の約束の通り、大いなる民族となりました。けれど、彼らの宗教生活はどうだったのでしょうか? 聖書は何も記されていないので推測するしかありませんが、イスラエルの民は次第に先祖の神から心が離れていったのではないでしょうか。
しかしまことの神はそうではありません。
出エジプト記にはこのように記されています。
出エジプト記2:23-25
2:23 それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。
2:24 神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。
神は、イスラエルの民がエジプトで苦しむ姿、彼らの嘆きに目を留め、その苦しみを御心に留められたのです。
そして、神は、ミディアンの地で40年間羊飼いとして苦労を重ねたモーセの前に、ご自身を現わされ、自己紹介なさり、モーセを彼らの指導者としてエジプトから救い出すことを計画しておられたのです。
ステファノの説教では、神の自己紹介は
7:32 『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』でした。
しかし、出エジプト記を見ますと、神はここで二通りの自己紹介をしておられます。
大切なところなので、出エジプト記の方も見たいと思います。
出エジプト記3:14-15
3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
3:15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。
神の自己紹介の一つは、「わたしはある。わたしはあるという者だ」とあります。
「わたしはある。わたしはあるという者だ」という紹介は、日本語としては分かりにくいのですが、実は神のご性質をとてもよく現わしています。
「わたしはある」永遠からずっと存在している。あるいは「わたしはここにいる」。わたしは「あなたがたのところにいる」。そんな意味になります。これは、神の御性質をよく現わしています。
その紹介のあとで、さらに神は、
7:32『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』と自己紹介なさいました。
それで、イスラエルの人々は、ああ、あの時、自分たちの先祖に現れたあの神が、もう一度現れてくださったのだと理解することができたのです。
ここで重要なことは、聖書の神は、神の側からご自身を啓示してくださる、示してくださる神だということです。

また、400年もの間、ご自身を現わされなかった神ですが、イスラエルの人々を見離していたわけではありません。その証拠に神は、イスラエルの人々を「わたしの民」と言います。
神は「わたしの民」を救うために、モーセを遣わす、と言われたのです。

さらにステファノは7章35節で、「人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。」
と語ります。
人々は、モーセを拒んだが、神がモーセを「指導者、解放者としてお遣わしになった」と。
確かにユダヤ人にとって、モーセは出エジプトの指導者であり、奴隷状態からの解放者です。
モーセは、荒野での40年間、イスラエルの民を導く指導者であり、神の言葉を受けてそれを民に伝える預言者であり、また神と民の間を取り持つ祭司の役割も果たしました。
いうならば、預言者、祭司、王(指導者)という三つの役割を果たした特別な人物でした。
そして、ユダヤ人たちはこのモーセを慕い、彼が神から受け、人々に伝えた神の言葉をモーセ律法として大切にしています。ですから、この話はユダヤ人にとって、当然の話であり、異存なく受け入れられる内容です。

さらにステファノの説教は続きます。
7:36この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。
7:37このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』
7:38 この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。
さらに、39節の最初だけを読みますと、
7:39a けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、・・・。

ステファノは、「この人が」「このモーセが」と旧約聖書のモーセ物語を要約しているのです。当然ながら、ユダヤ人たちがよく知っており、信じている事柄です。
ところが、ステファノの話を聞いていたユダヤ人たちは次第にイライラしてきたはずです。
ステファノは、モーセの口を通して神が語られた『あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』が、イエス・キリストを指しているのだ!と言いたいのだということが、分かってきたからです。聞いている人々は、ようやくステファノの話の意図に気づいたのです。
あなた方は、神が遣わされた方、モーセのような預言者であるイエスを、認めず、退け、殺してしまった!!
しかし、このイエスこそ、「命のことば」そのものであり、命を与える方!!なのだ。
これが、今日の箇所でステファノが言いたいことなのです。

さて、この箇所を通して、神は私たちにもいくつかのことを示し、語っておられます。
第一番には、イエスこそ「命のことば」そのものであり、私たちはこの方を通して命の祝福に入ることができる、ということ。これが、キリスト教とユダヤ教の最大の違いです。

さらにもう一つのことは、聖書の神は、神の側から私たちに近づき、ご自身を示してくださる方だということです。神は、アブラハムを見出し、近づき、声をかけ、祝福の約束を与えられました。
神は、エジプトで苦しむイスラエルの人々に目を留め、モーセを遣わして救い出してくださいました。
その同じ神が、私に目を留め、私を教会へ導き、私をイエスキリストを信じる信仰へと、神の恵みへと導き入れてくださったのです。

そして今、神はコロナ禍で苦しむ私たちに目を留め、近くいてくださいます。
コロナ禍でいろんな辛いことがありますけれど、神はそれを傍観しているお方ではありません。
私たちは、こういう時こそいつも以上にしっかり目を開いて、神の業を確認し、共にいてくださる神に目を向けたいと思います。

最後にもう一つ。
このコロナは私たちの予想以上にコロナが長く続いていますが、このことのために、祈り続けているでしょうか? 神はご自身のご計画の中ですべてを支配しておられるのだから、祈っても祈らなくても「コロナは終わるときには終わるはず」と、開き直ったり、祈ることをあきらめてはいないでしょうか?
神は、エジプトで神の存在を忘れかけていたイスラエルの民のうめきを聞き、助けをあたえられた方です。
その同じ神が、神を見上げ、助けを求め、祈り続ける主の民の祈りを無視なさることがあるでしょうか? あるはずはありません。それどころか、神は、私たちが祈りを通して神に目を向け、神に依り頼むのを待っておられます。
神は、私たちの祈りもお用いになりながら、ご自身の御業、ご計画を進めていかれるということも覚えたいと思います。

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