2021年04月11日「みんながキリストの体」

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みんながキリストの体

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 6章1節~7節

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そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 6章1節~7節

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<説教要約> 使徒言行録6章1-7節「みんながキリストの体」
今日の説教箇所は使徒言行録6章1~7節です。エルサレム教会で、役員が選ばれたという話です。
この一連の動きは、ひとつの課題が表面化したことから始まりました。短いところですが、内容的に3つに分けてみていきます。1節が表面化した課題。 2~6節がその対処。 7節はその結果です。
まず、1節の表面化した課題について見ていきましょう。

6:1a そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。
最初に目を引くのは「弟子の数が増えてきた」という言葉。これは教会にとってはうれしいことです。
しかし、そこで問題が生じたのです。そこにはエルサレム教会ならではの特別な状況が背景にありました。
教会の中に、ギリシア語を話すユダヤ人と、ヘブライ語を話すユダヤ人がいた、ということです。
もともと、主イエスの弟子であった12使徒はヘブライ語(正確にはアラム語)を話すユダヤ人です。しかし、ユダヤ民族は広く海外に離散していましたから、母国語であるヘブライ語が分らず、当時の公用語であるギリシャ語で話すユダヤ人も多くいたのです。もちろん、全く分からないということではなかったかもしれません。しかし、日常使っている言語が違うということは、細かい点での意思疎通が難しくなります。
そういう中で、
6:1bそれは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
とあり、やもめ(夫を亡くした婦人)への配慮ということで、ある不平等な状況が問題になったのです。
「軽んじる」と訳されている言葉は、「見落とす」とか「後回しにする」という意味もあります。これが故意に行われていたのか、あるいは言葉がわからないために意思疎通がうまくいかなくてそういう状況になったのか、それは分かりません。ですが、キリスト教の教えや信仰のことではないからといって、軽んじることのできない問題です。とにかく、このことが「苦情」という形で表面化したのです。

ですが、問題が起こること自体、あるいは問題が表面化するのが悪いということではありません。
教会だから、お互い愛し合い、赦し合って我慢すべき、問題は表面化しないように抑えるべき、という考え方もあります。もちろん個人のわがままであれば、我慢した方がいいこともあるでしょう。しかし、複数の人が同じように問題を感じているのであれば、きちんと確認して対処すべきです。
今日の箇所も問題が表面化したので、適切な対策が講じられ、結果として、教会が祝福され伝道が進んだということですから。
そこで大切になるのは、適切に対処することです。 ただ我慢したり、水面下で不満が増長するのを放置しておくと、思わぬ混乱を招くことになります。

この問題が表面化し、12人、つまり使徒たちに伝えられたのですね。それで彼らはすぐに対策を講じました。多分、最初に12人が感じたことは、この問題に対処するには、自分たちだけでは力が及ばないということだったのだと思います。使徒たちの働きの第一は、神の言葉を人々に語ること、つまり、今の教会で言うならば教師や牧師が担う働きです。そこに、人数が増えた教会員への配慮、特にやもめの食卓の配慮が加わるとしたら、第一の働きがおろそかになってしまうと彼らは判断したのです。
それで、その対策として、分配の働きを担うべき適切な人材を選ぶことを提案しました。
ここから教えられるのは、適材適所、賜物に応じた働き、ということです。
もしかしたら、使徒たちには食卓の配慮という賜物がなかったのかもしれません。また、教会の奉仕は、賜物と、働きの量、両方を考えることも必要です。いくら有能で何でもできる人でも、一人の人に過重な働きが集中しては、物事うまく進んでいきません。教会の働きは「与えられた賜物に応じて」が前提ですが、皆で担っていくということも重要です。それが、今日の説教題「みんながキリストの体」ということの意味です。

また、今回注目すべきことは、新たな働きのために7人が教会員によって選ばれたということです。
考えてみれば、使徒たちはイエスがお選びになった者たちですから、神が直接選んだということになります。しかし、今回は、教会員が判断して「霊と知恵に満ちた評判の良い人」を選んだのです。私たちが教会で役員を選ぶ時と同じですね。そしてその判断基準は「霊」つまり「聖霊」と「知恵」に満ち、人からの「評判の良い人」。その人の内側が問われています。
このようにして、新しい役割ができ、
6:5 信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオ の7人が選ばれたのです。
選び方については記されていませんが、とにかく教会員の意志によって7人が選ばれたということであり、もちろんそこに聖霊の働き、支配があったはずです。
使徒たちは、7人を前に立たせ、祈って彼らの上に手を置いた。とあります。いわゆる按手です。これは、教会の正式な働き人として7人を選んだということの印であり、また働きの上に神の助けを願い求める祈りでもあります。働きが与えられる時、そこに必ず神の助けがあるし、期待すべきだと思います。

その結果がどうなったかというと、それが7節です。
6:7こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。
教会は福音宣教、聖書を教えること、信仰に関することが中心なんだから、教会政治とか教会組織、役員などは必要ないと考える人もいます。ですが、今日の箇所を学ぶと、そうではないことがわかります。きちんと組織を整え、ふさわしい教会運営が行われることで、教会は成長し、神の言葉が広がっていくということが示されています。
7節には「祭司も大勢この信仰に入った」とあります。さらっと書かれていますが、これは大きなことです。祭司と言えばエルサレム神殿に仕えるユダヤ教の中心にいる人々。福音書では「サドカイ派」として登場しイエスとよく議論をしていた人々です。その人たちがキリストを信じて信仰に入ったというのですから、これは実に、驚くべきことです。

今日の話は、初代教会であるエルサレム教会の話です。初代教会は、キリストが天にお帰りになってからの信仰共同体です。つまり、キリストが地上におられない状況で始まる教会の営みについて記されているのです。今まで、キリストがお一人で担ってこられたことを、今度は人間が担うようになったのです。
キリストは、人々を教え、また癒されました。つまり教えることと、人々を配慮すること。それが教会の働きとまとめることができるでしょう。
キリストはお一人でそれをなさいましたが、私たちは一人でそれをすることはできません。どんなに小さな群れであっても、みんなで担っていくことが大切です。

聖書は「教会をキリストの体」にたとえて教えます。
教会員は、教会の中で、キリストの体としての役割があるのです。一人一人が与えられている働きを考え担っていく必要があります。 あるいは、役に選ばれるということもあります。
またこれは、一人一人がキリストの体として必要とされている、必要のない人は誰もいない、ということでもあります。
初代教会は、食卓の配慮する役職を置くことで、教会がうまく回っていくようになりました。
では、私たちの教会はどうでしょうか? 今、どんな問題、課題があるでしょうか。
その課題にどう対処していけば、教会がキリストの体としてさらに成長し、広がっていくでしょうか?一人一人が自分のこととして、もう一度考えてみてください。
最後に、二か所、聖書を開きます。

①一コリ12:12-13
12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
洗礼を受けて教会に加えられること、それはキリストの体につながって一つになるということです。
わたしたちは、キリストへの愛と隣人への愛において、互いに結びあわされ、一つになるのです。
②一コリ12:25-26
12:25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

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