2021年03月21日「イエスの祈り」

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イエスの祈り

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ルカによる福音書 22章39節~46節

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イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 22章39節~46節

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<説教要約>受難節説教3  ルカによる福音書22章39-46節
私たちは今、イエス・キリストが十字架に向かわれた歩みを覚えながら、受難節を過ごしています。
今朝は、「ゲッセマネの祈り」と言われるイエスの祈り。逮捕される直前のイエスの祈りを見ましょう。

ゲッセマネの祈りは、いわゆる「共観福音書」と言われるマタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書に記されています。
今日の説教のテキストは、ルカによる福音書22章39-46節ですが、ゲッセマネの祈りはマタイ福音書では26章36-46節、マルコ福音書では14章32-42節です。まずは、それぞれの箇所を読んでみてください。
それぞれの箇所を読んでみて、どんな風にお感じになったでしょうか? それぞれの記述を比較しながら見ていきましょう。

まず、祈りの前の主イエスの様子、言葉として
マタイはイエスが「悲しみもだえ始められた」と記しており、その後弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」と言い残して弟子たちのそばを離れました。
マルコは「イエスはひどく恐れてもだえ始めた」と記し、その後「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」と言い残して弟子たちのそばを離れています。
ルカ福音書にはそれらの記述はありません。「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われたと記しています。
次に、イエスの祈りの言葉を比べてみましょう。
マタイでは「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
マルコは「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
ルカは「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
このように内容はほぼ同じです。イエスの苦しい思い、正直な願いは、この杯、つまり十字架の死を取り除けて欲しいのです。十字架は肉体的に大変な苦痛です。しかしここでのイエスの恐れはそれだけではありません。十字架の死は、すべての人の罪を背負って神に裁かれ神に見捨てられることです。
「わたしと父は一つである」というほどに、地上におられても父なる神と親しい交わりの中にいた方が、神から完全に見放され、捨てられ用としているのです。
できることなら、この十字架という杯を取り去って欲しい、と願うのは当然です。ですから、イエスは祈りの中で自分の思いと格闘し、サタンの誘惑と格闘して、なんとか父の思いに近づこうとしているのです。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。」というマルコ福音書の言葉が、私たちの心にも強く迫ってきます。
神はなんでもおできになる。神にできないことはない。だから、人の罪を赦す方法だって十字架でなくてもいいのではないか。どうにかして、十字架から解放して欲しい、という祈りです。
しかし、「わたしの願いではなく、御心のままに」とあります。自分の願いと父の御心。それがかけ離れている中で、何とか父の御心に従うために苦しみ、戦っている姿が見て取れます。
ですが、別の見方をするならば、この戦いは、サタンとの戦いです。
イエスの十字架がなければ、私たちの罪の救いが実現しないわけですから。
この後マタイ、マルコ福音書では、イエスが弟子たちのところへ戻ると、弟子たちが寝ていたという話しが記されています。
ルカ福音書では、この最初の祈りの後にイエスの苦しむ様子が記されています。43-44節です。
22:43[すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
ただし、ここは[ ]カッコつきです。[ ]は有力な写本に抜けているという印です。しかし多くの学者は、これがルカの特徴的な文書であると認めていますので、一応[ ]つきでここに記されています。
ルカはここで「イエスが苦しみもだえた」と記しています。
また、イエスの苦しみ格闘する姿を「汗が血の滴るように地面に落ちた」と描写するのは、いかにも医者ルカらしいと思います。

マタイはイエスが3回祈られたと記しています。
二回目の祈りでは、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」と、自ら十字架へと向かう決心をされた様子がうかがえる祈りになっています。
マルコ福音書には、二回目、三回目の祈りの言葉は記されていません。ただ、誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさいと言われたのに、誘惑に負けて眠ってしまった姿が記されているだけです。
ルカ福音書は、イエスが3回祈られたという書き方ではありません。[ ]つきの43、44節の後
イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」という言葉でこの場面が終わっています。

ここまで、マタイ、マルコ、ルカ福音書で、ゲッセマネの祈りを比較しました。三つの福音書を読み合せると、情報量が増えてその時の状況がさらにリアルになります。
ですが、今日の説教のテキストはルカ福音書ですから、ルカ福音書の中心的なメッセージを受け止めたいと思います。ルカの記述で特徴的なのは、
40節「誘惑に陥らないように祈りなさい」、46節「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」 
このメッセージがイエスの祈りの前後にあることです。
40節で教えられていることは、祈りが誘惑に勝つための手段だということ。逆に言うなら、祈らないことで私たちは誘惑に陥るのだ、ということになります。
さらに44節は、誘惑に陥らないためには、目を覚まして祈っていることが必要だと教えています。
しかし、このように神から与えられた使命を果たすため、神の永遠からの救いのご計画を成し遂げるために、イエスは血の汗を流してこの苦しい祈りを戦い抜いて、十字架へと向かわれました。目をしっかりと開いて、自分と周囲のこと、神の御心をしっかり見据えて、そして十字架へと向かわれたのです。
そこには、何とかして罪ある人類を救おうとなさる神の熱心と、イエスの大きな犠牲とがあります。この両方が、罪ある人類に向けられた神の愛です。
イエスはこのようにして、罪びとのために悩み、苦しみ、神のみ旨に従って十字架の道へと向かって行かれたのです。この、神の愛をわたしたちはしっかり受け止めたいと思うのです。
また、今朝私たちも、46節のイエスの言葉を共に覚えましょう。
ルカ4:46 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

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