2020年04月12日「共に生きるため」

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共に生きるため

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ルカによる福音書 24章1節~12節

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「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(ルカ24:6-7)

「 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一5:10-11)
 日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 24章1節~12節

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<説教要約>
聖書  ルカによる福音書24章1-12節 (新約 P159)
説教 「主と共に生きるため」   

イースターおめでとうございます。本日はイースターの説教です。
今日の話は、婦人の弟子たちがイエスの体が納められた墓へと向かう場面から始まります。
婦人たちは、イエスの十字架の死を見届け、葬られた墓の場所を確認し、それから葬りのために香料や香油を用意しました。そして「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。」(ルカ23:56)と記されています。
婦人たちは、イエスは死んでしまったと思っていましたから、今自分たちにできることは、先生の遺体を整えて埋葬し直し、きちんとお別れすることだと考えていたのです。

彼女たちは「週の初めの日の明け方早く」墓へと向かいました。墓に着くと、入り口の前に置かれていた大きな石がわきに転がっていましたので、恐る恐る中に入り様子を確かめました。すると納められていたはずのイエスのお体がありませんでした。彼女たちは困惑し、途方に暮れたのです。
ところが、そこに「輝く衣を着た二人の人」が現れました。この二人は神様からのお使い天使です。天使はこんなことを言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(ルカ24:5b-7)
天使は大切なことを継げたのです。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。・・・復活なさったのだ。」これは、イエスが復活なさって、今生きておられるという宣言です。
またこうも言いました。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」と。確かにイエスは、ガリラヤで弟子たちにご自身の死と復活を語っておられ、婦人たちも弟子としてこの言葉を聞いていました。

①「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ9:22)
②「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」(ルカ9:44)
③「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」(ルカ18:32-33)

はじめは忘れていたのですが、天使の言葉を聞いて、彼女たちは思い出しました。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」というイエスの言葉を。そして、イエスが復活されたことを信じたのです。
それから婦人たちは、自分たちが見たこと、聞いたこと、信じたことを11人とほかの弟子たちに話ました。しかし、彼らは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。(ルカ24:11)と記されています。

なぜ、弟子たちは婦人たちの話を信じることができなかったのでしょうか?
それは、死人が復活するはずはない。そういう自分の常識的な判断、思いが優先して、婦人たちの証言、またイエスが預言しておられた言葉も信じられなかったのです。
ではなぜ婦人たちは、イエスの復活を信じることができたのでしょうか?
婦人たちは、復活したイエスにまだお会いしていませんでしたが、墓が空になっているという現実と、かつて教えられたイエスの言葉、この二つが神の介入(天使の言葉)によって結び付けられたので、イエスの復活という超自然的な出来事を信じることができたのです。

目で見ることができなくても、自分が経験したことがなくても、常識では考えられないようなことでも、真実なことはあるのです。
このようにかたくなな心を持った私たちに対して、イエスは語ります。
「信じないものではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)
私たちが信じる者となるために、この時の天使のように、私たちの心に語りかけ働いてくださる神の力、聖霊の助けがあることも覚えたいのです。

ルカ福音書の話はここまでですが、今朝は、キリストの十字架の意味について、もう一か所聖書を開きたいと思います。
「 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一5:10-11) 
ここでは、キリストの十字架と復活を信じることで私たちに与えられる恵みが教えられています。
主イエスが私たちの人生と共にいてくださる、というのです。それは、生きている今も、死んだ後も、その後もずっと。
今、見えないウィルスとの戦いを続けている私たちですが、この時にも主イエスは私たちと共にいてくださいます。感染の不安の中でも、万が一感染してしまったとしても。
イエスの十字架と死と復活は、私たちが主と共に生きるようになるためだということを、しっかり覚えたいと思います。

さらにここには、主に結ばれている者たちへの勧めもあります。「あなたがたは、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」と。今は忍耐の時です。でも、この時に、同じ信仰で結ばれている方々と共に主を見上げ、そして励まし合って生きるなら心強いし、そのように生きることで教会の一致がさらに豊かになります。
今は忍耐の時、苦しみの時ですが、そういう中にも恵みがあることを覚えたいと思うのです。

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