2021年02月07日「キリストが共におられる」

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キリストが共におられる

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 14章1節~11節

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「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 14章1節~11節

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説教要約 
聖餐式を覚える説教 ヨハネ14:1-11 「キリストが共におられる①」

今日は第一主の日ですから通常であれば聖餐式を行います。しかし、昨年の3月から新型コロナウィルス感染予防のため、礼拝での聖餐式を中止しています。一日も早く安心して聖餐式に与れる時を祈り求めましょう。
一方でこの機会に聖餐式の意味を学び直そうと、昨年10月、11月の第一主日の礼拝では聖餐式を覚える時を持ちました。今月からは、第一主日の礼拝説教で、聖餐式の意味を学ぶことにしました。
聖餐式(聖餐の礼典)は、キリストの十字架の死を記念して行うものです。通常パンとぶどう酒(川越教会はぶどうジュース)が用いられます。パンは十字架上でキリストが裂かれた肉、ぶどう酒はキリストが流された血をあらわしています。この二つはキリストの十字架によって信じる者に与えられる罪の贖いと赦しを象徴しています。聖餐式の場にキリストが霊的に臨在され、聖霊の働きによってキリストの恵みが私たちの心と体に結び付けられるのです。パンとぶどう酒に何か特別な効力があるとか、聖餐式を執行する教師に力があるということではありません。礼拝で語られるみ言葉の説教を通して、キリストの命の言葉を受け取るように、聖餐式では感覚的にキリストとの結合を確認し、私の心も体もキリストと共にあることを覚えるのです。この繰り返しによって、信教者は霊的に養われ信仰の維持と成長が期待されます。
今朝はヨハネ福音書14章から、聖餐式を通して、キリストが共におられる(主のご臨在)を覚えることの意味を考えたいと願っています。

ヨハネ福音書14章1~3節は葬儀の時によく読まれるところです。もう一度、1節から3節をお読みします。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(14:1-3)
イエスが私たちより先に天の父のもとに行って、信じる者たちのために場所を用意しておいてくださる。
そして信者の魂を迎えてくださる。この約束を覚えて、死を前にしても、死の時も、神を信じ、イエスの言葉を信じて、心を騒がせないで! というメッセージ。まさに葬儀にふさわしいですよね。
ですが、この時この場でイエスの話を聞いていた弟子たちは、イエスの言葉をどのように理解したでしょうか? 
実は、イエスは、これ以前に何度か、ご自身の死を弟子たちに予告しておられますから「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(14:4)と言われたのですが、弟子たちにはイエスの死が現実味を持っていませんでした。
ですから、弟子のトマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(14:5)と質問したのです。
しかし、イエスご自身は十字架の死を意識し、今それに向かって歩みを進めておられました。
イエスの十字架は、イエスを信じる者たちが神のもとへ、永遠の命へと至る道です。それでイエスは言われました。6節。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と。
イエスの十字架の死は、イエスを信じる者たちが神のもとへ、永遠の命へと至る唯一の道です。私たちは、このイエスの十字架と死が私の罪の赦しのため出るということを信じなければ、永遠の命、神と共に生きる命へとたどり着くことができないのです。

ところで、聖餐式は、イエスの十字架と死を覚える礼典です。ということは、イエスという道を通って、私たちが「神と共にいる場所」へと導かれる、そういう現実があることを覚える時でもあります。
今、「神と共にいる場所」と言いましたが、これは私たちが死んだ後、霊的に神の国に入るということだけではありません。イエスという道を通るなら、「神が共にいてくださる」ということが、私たちの生きている間に実現するのです。

7節からはイエスと父なる神との関係が教えられています。
イエス以外の道を通って父のもとへ行くことは出来ません。そして、イエスを見た者は父なる神を知る者であり,父を見た者であるとイエスは教えます。
すると今度はフィリポという弟子が「主よ、わたしたちに御父(おんちち)をお示しください。そうすれば満足できます」(14:8)と口をはさみます。
ここでもイエスは大切なことが教えられています。「父なる神とイエスは別々の神ではなく、一つである」ということ。
「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」(14:10-11a)
聖書はイエス・キリストと、父なる神の一体性を教えます。
私たちイエス・キリストを通して、彼が歩まれた生涯を通して、父なる神がどのような方なのかを知ることができるのです。
「わたしと父とは一つである。」ですから、今イエスと共にいる弟子たちは父と共にいる、インマヌエルだというわけです。
では、私たちはどうなのでしょうか? 

イエスは、ご自身が天にお帰りになった後のことをあらかじめ教えておられます。16-18節。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(14:16-18)
「別の弁護者」、「真理の霊」と言われているのは聖霊のことです。聖霊は、キリストが父に願って遣わされた霊です。キリストの弟子たちを助け、教え導くために、遣わされた霊です。
このように、信仰者が生きている間、聖霊が派遣され、聖霊がその歩みを「イエスという道」へと導いてくださいます。聖霊が共にいてくださるのです。ですから、私たちもインマヌエル、神が共におられるのです。
これも、キリストの十字架のなせる業です。
イエスは今地上におられませんが、キリストの霊である聖霊が信者とともに、また教会と共におられて、その歩みを支え続けてくださいます。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(14:27)
これは、十字架を前にしたイエスが弟子たちに語った言葉ですが、この同じ言葉が今も、イエスを信じる一人一人に、私たちに語られています。

私たちは毎月の聖餐式で、このように、神が私と共にいてくださること、主のご臨在を覚えます。
聖餐式では言葉だけでなく、キリストが十字架で裂かれた肉と流された血を想起させるパンとぶどう酒を食べ、飲むことで、確かに今、神が私の人生と共にいてくださることを確認するのです。
聖霊なる神、子なるキリスト、父なる神は別々の神ではありません。
聖霊はキリストの霊であり、イエスと父は一つです。ですから、インマヌエル、神が共にいてくださる。これが信仰者の現実です。

今、コロナ禍でまだまだ先が見えず、苦しい状況です。礼拝の中で聖餐式ができない日が続いています。一日も早いコロナ終息と、通常の礼拝に戻れる時を祈り求めましょう。
しかし、このような状況の中でも、インマヌエル、神が私たちと共におられ、キリストの平和は私たちの心にあります。

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