2021年01月31日「命のことばを告げなさい」

問い合わせ

日本キリスト改革派 川越教会のホームページへ戻る

命のことばを告げなさい

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 5章17節~26節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。
これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 5章17節~26節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約>
使徒言行録5章17-26節 「命のことばを告げなさい」
今日の話は「大祭司と仲間のサドカイ派の人々」の登場からです。
イエス様の時代、ユダヤ教にはいくつかの宗派がありましたが、福音書によく登場するのはファリサイ派とサドカイ派です。サドカイ派は、エルサレム神殿を中心に権力を持っている一派で、祭司家系に連なる人々でした。サドカイ派については後で詳しく触れることにします。
使徒言行録4章に、ペトロとヨハネが神殿でキリストの復活について語って逮捕された事件が記されています。この時に彼らを逮捕し尋問したのが、「大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族」(使徒4:6)とありますが、この人たちがサドカイ派の中心人物です。
ペトロとヨハネは「今後あの名、つまりイエスの名によってだれにも話すな」と脅され、その時は釈放されました。
しかし、その後も彼らは語り続けたので、信じる者たちが多く起こされたし、教会は周囲の人々からも好意を持たれていました。さらに、使徒たちの癒しによって、彼らの評判はエルサレム近郊の町々にまで広まっていきました。ですから、サドカイ派の人々は、自分たちの言葉を無視して従わず、ますます評判を得ているエルサレム教会指導者たち、使徒たちを面白く思っていなかったのです。
17節には「ねたみに燃え」とあります。「燃えて」と訳されている言葉は、「満たされる」という意味のギリシャ語です。つまり、彼らの心は「ねたみ」でいっぱいになったというのです。
それで、サドカイ派の人々は、使徒たちを、今回、正式に逮捕して、牢に入れられ、裁判にかけることにしたのです。

逮捕されたのは「使徒たち」と複数形で書かれているので、多分12使徒全員だと思います。
ところが、その夜神は特別なことをなさいました。天使を遣わして、牢の戸を開け、彼らを外に連れ出したのです。この時牢の前に番兵がいたのですが、使徒たちがぞろぞろと外に出たことに全く気付かなかったというのです。不思議な話で、神の力が働いたとしか考えようがない事柄だと思います。
20節では、天使が神からのメッセージを使徒たちに伝えています。「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と。
ここでは、神殿で語ることと、命のことばを民衆に告げるようにということが命じられています。
彼らは、神の力によって牢から出され、命のことばを語るように命じられたことで、自分たちが行っている福音宣教が、神からの派遣であることをはっきり自覚しました。さらに、神が天使を遣わして彼らを牢から救い出してくれたことで、この働きのために神の助けがあり、神が共にいてくださるということも確認できたはずです。ですから、彼らは力を得て、早速に、神殿の境内で教え始めました。

一方で、彼らを逮捕した大祭司とサドカイ派の人々は、彼らを正式な裁判にかけようと準備していました。
ユダヤの政治と宗教を裁く正式な裁判を開くために、議員を招集したのです。そして、牢に入れておいた使徒たちを議場に連れてくるように、下役たちに命じました。裁判の場所と、牢が離れていたのですね。
ところが、その時点で使徒たちは既に牢から出て、神殿に行き、イエスの名によって語っていたのです。
23節にはこのように記されています。「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」
番兵は、使徒たちが外に出たことに全く気付いていませんでした。またこの話、念が入っているのは、使徒たちが牢から出た後、扉がきちんと閉められてさらに施錠までしてあった点です。
下役たちは大急ぎで神殿守衛長と祭司長たちのところへ戻って報告をしました。そうこうしているうちに、神殿から人がやってきました。
そして、「あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」(使徒5:23)と告げたのです。
最後は26節。「そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。」とあります。
方法はともかく、使徒たちは牢から脱走したわけです。しかし彼らは、逃げ隠れせず堂々と、エルサレム神殿で、禁じられていた「あの名、つまりイエスの名」によって語っていました。ですから、手荒な方法で裁判の場所まで連行されても仕方ない状況です。しかし、使徒たちを逮捕に向かった人々は、手荒なことをしなかったのです。「民衆に石を投げつけられるのを恐れて」と理由が記されていますが、これは少し説明が必要です。レビ記24:15-16を読むと分かりますが、実はここで、神を冒涜するもの、主のみ名を呪う者にたいして、石で打ち殺すという刑罰が命じられています。逮捕に向かった人々は、民衆からそのようにされることを恐れたのです。ということは、少なくとも使徒たちが語っている言葉は、神のことばである、と多くの民衆が信じるようになっていたということなのです。

ここまでが、今日の箇所のストーリーですが、この話の中で二つのことを考えたいと思います。
一つはサドカイ派の人々のねたみについてです。
そのために、サドカイ派についてもう少しお話しします。聖書とヨセフォスという人の文章から、サドカイハは復活、天使、霊の存在、さらに未来の罰と報いも認めないということがわかっています。ですから、イエスの復活を語るキリスト教会に対して反対するのは当然です。しかし、彼らのねたみは、教会の教え、教理に対する反発だけだったのでしょうか?
復活がなく、死後の裁きもないと考えるなら、現世だけが大切になります。しかもサドカイ派は、貴族階級に属し、裕福な人が多かったということもあり、彼らにとっては今手にしている権力を維持することが優先事項でした。
しかし、イエスの教えが広まって、人々がキリスト教を信じるようになれば、いろんな意味で彼らの立場は危うくなります。そう考えると、彼らのねたみの原因は、実はそんなところにあったと言えるでしょう。
彼らは宗教的指導者でありながら、実際の感心は世俗的なことであり、心は真の神から離れていたのです。

所で、「ねたみ」については、新約聖書に様々な言及があります。
イエスは、マルコ福音書7章20-23節で次のように教えています。
「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
ねたむ心は、生まれながらの人間、罪ある私たちの内にある感情です。
しかしパウロはこのようにいいます。
ローマ人への手紙13:13-14です。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」
ガラテヤの信徒への手紙5:25-26にも、「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」とあります。
ねたみという感情は、私たちの中にある感情ですから、私たちが神から目を離して人の目だけを気にする時現れてくるのです。私たちが神からいただいている賜物や環境、状況に満足し、感謝して生きるなら、ねたみという感情から解放されるはずです。自分の心にねたみの感情が芽生えたと感じたなら、自分が見ている方向をもう一度確認すべきです。神は、私にも隣人にも、それぞれにあった、ふさわしい良い物を与えておられるからです。

もう一つお話ししたいのは、20節「この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」という所です。
ここで「命の言葉」を語るようにと命じられていますが、「命のことば」とは何でしょうか。
ここで言われている「命」は、地上の命、現世の命ではなく、「永遠の命」、「霊的な命」、のことです。
永遠の命は、イエス・キリストご自身であり、イエス・キリストの生涯、つまり十字架の死と復活と昇天であり、イエス・キリストが地上生涯の中で語り、教えた言葉です。福音の言葉と言い換えてもいいでしょう。
神は使徒たちに、この命のことば、救いの言葉を残らず民衆に告げ知らせよと命じました。
そして、彼らが民衆に伝えた命の言葉が、今、聖書として私たちの手元にあるのです。
私たちは、聖書を通して、あるいは聖書の解き明かしを通して、救いに至る命のことばを受け取ることができるのです。

命のことばを手にした体験をボンヘッファーという神学者はこのように記しています。ちょっと長いですが、お読みします。
「私が自分の心を神の前に閉ざしていた時に、自分ひとりの罪の道を歩んでいた時に、神よりも自分の罪を愛した時に、自分の罪のゆえに不幸と悲惨に身をやつしていた時に、みずから道を迷い帰る道を見失った時に、神の言葉が私に臨んだのである。
その時私は、「神が私を愛している」という声を聞いた。そしてその時イエスが私を見いだしてくれ、わたしを支えてくれた。-まことに、彼だけが私を支えてくれたのだ。―
彼は私を慰め、私のすべての罪を赦し、私の悪を数え上げることをしなかった。わたしは憐れみを受けたのである。
私が神の戒めを守れず神に敵対していた時にも、神は友のように扱ってくれた。私が神に悪を行っていた時にも、神は善いことをしてくれた。神は私の悪を数え上げるようなことはせず、怒ることなく絶えず私を尋ねだしてくれた。神は私と共に苦しみ、私のために死んでくれた。神は私のためには何もいとわなかった。そして神は私に勝った。神は自分の敵に打ち勝ったのである。父は失われていた子を再び見つけ出したのだ。

どうか皆様方が、サドカイ派の人々のように、今だけの幸いを求めることがありませんように。
真の命のことばを受け止め、信じ、従うことを通して、永遠の命、神の恵みの中で生きる命をいただくことができますようにと願っています。

関連する説教を探す関連する説教を探す