2021年01月03日「心も思いも一つに」

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心も思いも一つに

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 4章32節~37節

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信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 4章32節~37節

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<要約>
使徒言行録4章32-37節 「心も思いも一つに」
1.序
新年おめでとうございます。
新しい年の最初の主の日、日曜日に、神を礼拝ができる幸いを心から感謝いたします。
コロナの感染拡大が収まりませんが、そういう中だからこそ、神を見上げ、神の恵みの中にあることを共に覚えたいと願っています。

実はお読みした聖書箇所は昨年11月8日、私の入院前の礼拝で扱ったところです。その時の説教題は「心を一つにして生きる」でした。そして、教会の一致と教会組織についてお話ししました。
ですが、今朝は、32節に集中したいと思います。
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。(使徒4:32)
その中でも特に前半部分、「信じた人々の群れは心も思いも一つにした」というところを考えたいのです。
「信じた人々の群れ」とあります。これは、当然ながらイエス・キリストの十字架と死と復活、昇天を信じた人々、ということです。
イエス・キリストの十字架と死と復活、昇天を信じることで、私たちには様々な恵みが与えられます。
ウェストミンスター小教理問答によれば、「義認、子とされること、聖化、この世でそれらに伴い、あるいはそれらから流れ出るいくつもの祝福」(問32の答)が与えられると記されています。
「義認」とは、神が私を「義」、「罪なし」と認めてくださること。もう少し厳密にいうならば、私たちは信仰をもって洗礼を受けた後も、罪や過ちを犯します。それでも、キリストの十字架のゆえにその罪の赦してくださり、「罪なし」と判定してくださる。それが「義認」の祝福です。
「子とされること」とは、キリストのゆえに私たちも神の子とされて、親がわが子を愛おしむように、神が私たちに相対してくださるのです。
さらに「聖化」とは、私たちが神の言葉に従って生きていく中で、少しずつ私たちの言葉や行い、生き方が清められていく、神の子としてふさわしい成長が与えられていくという祝福です。
さらに、信じたものへの祝福は、この世で生きている間だけにとどまりません。
ウェストミンスター小教理問答の問37、問38には、死の時の祝福、そのあとの祝福についても記されています。
ウェストミンスター小教理問答の文言で紹介しておきます。
問37 信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
答 信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります。信者
の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休
みます。
問38 信者は、復活の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
答 信者は、復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公
に受けいれられ無罪と宣告され、永遠に、全く神を喜ぶことにおいて完全
に祝福された状態にされます。

32節には「信じた人々の群れ」と短く記されているだけですが、その中身は大変なものです。神はこのように、イエス・キリストを信じた人々の群れに属する一人一人を特別に扱ってくださり、生きている間も、死んだあとも、その先まで、大きな恵みを与えてくださるのです。
このように、キリストのゆえに神から与えられる恵みを理解した彼ら、「信じた人々の群れ」は、神とキリストへの感謝の思いであふれ、感謝の思いのゆえに心が一つになったのです。
彼らの思いは、神とキリストへのあふれる感謝の思いです。これを「神への愛」と言い換えることもできるでしょう。
エルサレム教会はこのようにして、神とキリストへの感謝の思いで心が一つになりました。
そして、貧しい人々への援助という形で持ち物を共有したのです。これも神とキリストへの感謝の思いを表現する一つのかたちです。けれどもこのような感謝の表現が全てではありませんし、最優先のかたちでもありません。

と言うのも、神が最もお喜びになるのは、神を神としてあがめ、礼拝することです。
神は私たちの良い業や私たちの献げ物、献金をお喜びになりますが、それ以上に私たちの神への愛、心の思いを喜んで受け取ってくださるのです。
私たちは、新しい年2021年を迎えましたが、先のことを考えるとき、特に新型コロナウィルスのことでは楽観視できない状況です。そういう中で、共に集う礼拝が何回献げられるか、何回継続できるか、わかりません。
ですが、それだからこそ、今年の礼拝一回一回を大切に、集中して、心を一つにして献げたいと願っています。また、たとえ家庭礼拝であっても、手にしている週報や説教原稿、音声、映像などに集中して、毎週の礼拝を神の前に大切に献げて行きましょう。神は、神を喜び、神を礼拝する民を喜んでくださるからです。

また、そのようにして礼拝を献げることは、私たちの力の源でもあります。昨年末の礼拝、12月29日の礼拝で確認した通りです。
「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミヤ8:10b)
形式的にではなく、義務感からでもなく、心から献げる礼拝を神はお喜びになり、礼拝者を祝福してくださいます。同時にこのような礼拝こそ、私たちが神から祝福され、力をいただける礼拝です。
新しい年、心も思いも一つにした神礼拝を献げることを大切にしていくことで、川越教会も、また私たち一人一人の歩みも、神の祝福をいただけるはずです。

最後に詩編27編を記します。よく味わってください。

主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。さいなむ者が迫り/わたしの肉を食い尽くそうとするが/わたしを苦しめるその敵こそ、かえって/よろめき倒れるであろう。彼らがわたしに対して陣を敷いても/わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても/わたしには確信がある。ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ/幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ/主に向かって賛美の歌をうたう。主よ、呼び求めるわたしの声を聞き/憐れんで、わたしに答えてください。心よ、主はお前に言われる/「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。 27:9 御顔を隠すことなく、怒ることなく/あなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください/見捨てないでください。父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。主よ、あなたの道を示し/平らな道に導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。貪欲な敵にわたしを渡さないでください。偽りの証人、不法を言い広める者が/わたしに逆らって立ちました。わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。(詩編:1-14)

詩人の願いは 「命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えること」、つまり、神の家で神を礼拝すること、そして神が共にいてくださる歩みです。
主日の礼拝を大切にして、そこから喜びをいただく祝福された一年の歩みでありますように!!

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