2020年12月27日「主を喜び祝うことこそ力の源」

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主を喜び祝うことこそ力の源

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ネヘミヤ記 8章1節~12節

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民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立ち、その右にマティトヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが、左にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカルヤ、メシュラムが立った。エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。次いで、イエシュア、バニ、シェレブヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、ヨザバド、ハナン、ペラヤというレビ人がその律法を民に説明したが、その間民は立っていた。彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ネヘミヤ記 8章1節~12節

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<要約>
聖書 ネヘミヤ記8章1-12節、 説教 「主を喜び祝うことこそ力の源」    

本日は2020年最後の主日礼拝ですから一年の締めくくりの説教として、今年の川越教会のテーマと聖句についてお話しします。今年のテーマは「み言葉・感謝・祈り」、聖句は「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」でした。そして今年の1月26日、会員総会の朝の説教で今年のテーマと聖句を取り上げましたので、その時の説教を思い出しながら改めて一年を振り返りたいと考えています。

1月26日の説教では、テーマ聖句を考える前にその背景にあるイスラエルの歴史を振り返りました。
旧約聖書に描かれているイスラエル民族の歴史は、彼らをいつくしみ、大切にし、そして恵みを与えようとしておられる神と、神に背を向けて偶像の神々を拝み、自分たちの思いに従って生きようとするイスラエルの民との攻防の歴史という言い方ができると思います。神から離れ、自分勝手に悪の道に迷い込む民を、神は何度も何度もご自身の恵みの中へ引き戻してくださる、そういうことが繰り返されたのです。そういう中でイスラエルが王国となり、神に従うダビデが王に選ばれました。ダビデ王はエルサレムに宮殿を建て、町の周囲に堅固な城壁を作りました。ダビデの息子ソロモンがその王位を継いで、神を礼拝するための立派な神殿を建てました。諸外国からも神殿を見物に来るほど立派なものでした。この頃が、イスラエル王国の最盛期といえるでしょう。
ですがそのイスラエル王国も、やがて南北に分裂してしまうのです。ソロモン王をはじめ民の心が再び神から離れて偶像に向かったからです。年月が流れ、北イスラエル王国はアッシリアという国に滅ぼされ、南の王国もバビロンという大国に滅ぼされて、主だった人々はバビロンへと連れていかれました。これがバビロン捕囚と言われる出来事です。
しかし、バビロンへ連れていかれた人々は、異国の地での苦しい生活の中で、先祖の神、真の神を思い出し、助けを求めました。
このように、同じ過ちを繰り返し、捕囚となったイスラエルの民に対して、神が彼らの祈りに答えられたのはそれから70年後のこと。ペルシアという超大国が、バビロンを滅ぼし、イスラエルの民を捕囚から解放するという形で、神は人々の祈りに答えられたのです。
民は期待に胸膨らませてイスラエルの地、故郷に戻ったのですが、実際にはさらなる困難が待っていました。かつて彼らが住んでいた土地には別の人々が暮らしており、立派だった神殿は破壊され、町の周囲の城壁も崩れ、農地は荒れ放題。彼らは故郷に戻ってもまともな生活ができませんでした。
そういう中で、神は二人の指導者をお立てになりました。エズラとネヘミヤです。

このような背景があって、今日の聖書箇所、ネヘミヤ記8章の話になります。
神殿再建と城壁の補修に尽力した、エズラとネヘミヤの前に、バビロンから帰ってきたイスラエルのすべての民が集まりました。神を礼拝するためです。
ネヘミヤ8:1 民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。
モーセの律法の書とは、旧約聖書の創世記から申命記まで、モーセ五書のことです。
記されているのは、アダムとエバから、モーセ迄の内容。イスラエルの民が、神に与えられた律法を捨て、神から離れ、苦難に会い、しかしそのたびに悔い改めて再び神を求め、神のもとに立ち帰るという歴史です。
集まった民は、神の前に「一人の人のようになった」とあります。
みなが、そこで読まれる律法の書の朗読に集中したのです。
8:3 彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。
とあります。創世記から申命記までですから、私たちの手元にある聖書でも339ページあります。これを読み上げるだけでもかなりの時間がかかるはずです。
ネヘミヤ 8:8 彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。とあります。
長いこと外国で暮らしていたために、イスラエルの言葉であるヘブライ語が理解できない人もいました。それで、彼らにもわかる言葉に翻訳しながら、さらにはその意味内容も理解できるように説明を加えながら、読み進められたのです。内容も分からないまま形式的に読み進めたわけではありません。ですから、民はその意味内容を理解しました。
そして民は気付いたのです。自分たちの今までの状況、バビロン捕囚が、律法の書に記されている歴史と同じだということに。つまり、自分たちが真の神から離れた結果として今があるということです。
そこに記されている内容を理解した人々は、神から離れた自分たちの過ちを悔い、あるものは嘆き、あるものは泣き、悔い改めて心を神に向けたのです。
そういう彼らの姿を見て、
ネヘミヤ 8:9 総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」と。
旧約聖書の内容、律法の言葉を聞き、その内容を理解していて泣いた彼らの姿は、悔い改めの姿でした。

10節には勧めの言葉が続いています。
ネヘミヤ 8:10「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
このように自らの過ちを悔いて、神に立ち帰る者を、神は祝福してくださいます。
今、イスラエルの民は、悔い改めの涙を流し、もう一度神のもとへ戻って、礼拝を献げているのです。
そういう彼らに対して、今日は主の日、神を礼拝する日だから、喜んで神を見上げ心からの礼拝を献げるように!そして、共に喜びの食事に与るように、と勧めているのが、ネヘミヤ記8章10節です。
さらに、ここで食事の備えがない人とも分け合って、一緒に喜びなさいとも勧められています。

神は形式的な礼拝や、義務的に献げる礼拝をお喜びにはなりません。
悔い改めて神に立ち帰ること、神を見上げて心からの礼拝を献げること、主にある兄弟姉妹と共に喜ぶこと、この三つが伴う礼拝が神に喜こばれる礼拝です。同時に、このような礼拝こそが、私たちの人生の力の源となるのです。
「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
今年の1月26日の礼拝の結論は、「2020年という新しい年、礼拝と教会生活を義務としてではなく、真実の悔い改めと、神への感謝、そしてともに喜びをもって献げましょう」と結びました。

また、2020年1月19日の週報で、今年のテーマ「み言葉・感謝・祈り」についてこのように記しました。
「み言葉」と「祈り」は、私たちの信仰生活の基本であり、私たちが神から恵みをいただくための手段でもあります。ですが、その間にあえて「感謝」という言葉を入れ込みました。神に対しての感謝と共に、主にある兄弟姉妹への感謝も覚えたいと思います。私のために配慮し、守り支えてくださる神への感謝。同時に私のために祈って下さり、私にできない奉仕をしてくださる主にある方々への感謝。その両方を覚えながら、謙遜に信仰の歩みを進めていきましょう。新しい年も、お互いの足りないところを補い合い、祈り支え合って、共に歩んでいきましょう。引き続き私のためにもお祈りください。 
ということを記しました。

ここまでのことを思い出しながら、今年一年の歩みを振り返ってみましょう。
今年はなんといっても「新型コロナウィルス COVID-19」に振り回された一年でした。
川越教会は、高齢の方が多いこともあり家庭礼拝が続きました。流行の第1波では3月1日から5月24日まで、第2波では8月9日から9月6日まで。第3波では牧師の入院のために11月15日から12月13日が家庭礼拝になりました。こんなことはいまだかつてなかったことです。

しかし、そういう中でも第1波、第2波の時には、週報と説教が牧師の手で配布され、加えて説教が教会のホームページに掲載されるようになりました。第3波では11月半ばに牧師が入院した後もスパーリンク宣教師と豊川先生のご奉仕で説教が備えられ、それを役員が配布して家庭礼拝が守られました。共に集って礼拝できない中でも、み言葉と、祈りの課題が届けられて家庭礼拝を献げることができたことに感謝を覚えます。
また、このたびの経験は、集まって共に神を礼拝できること、毎週み言葉が与えられることはあたりまえではなく、感謝すべきことだと深く教えられました。今年のテーマ「み言葉・感謝・祈り」の前半「み言葉・感謝」が教えられたわけです。

加えて、今年のテーマの後半「感謝・祈り」についても、特に牧師の入院という緊急事態を通して、みんなが真剣に祈りました。私が入院中できることは祈ることだけでしたが、しかし祈ることができたのです。
さらには、私のために祈っていてくださる教会の方々の祈りがあることにどれほど励まされ、感謝をおぼえたことでしょう。ある方は「今回ほど切実に、一生懸命に神に祈ったことはなかった」とおっしゃいましたが、多くの方々の祈りに支えられ、神が祈りに応えてくださったので、先週から教会の働きに復帰することができました。神はこのようにして今年のテーマの後半、「感謝・祈り」についても、私たちに多くのことを教えてくださったのです。

2020年という年は、世界中の人にとって、そして私たちにとっても大変な年でしたが、コロナウィルスはまだ先が見えません。来年もこの状況が続くかもしれません。
しかし、だからこそ私たちはもう一度、しっかりと神に目を向けて、神を礼拝できることの幸いを覚えたいと思います。
「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
「主を喜び祝うことこそ、わたしたちの力の源である。」

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