2026年05月03日「神に愛されているから」
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神に愛されているから
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- 木村恭子 牧師
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マルコによる福音書 12章28節~34節
聖書の言葉
マルコ12章28-34節
12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 12章28節~34節
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説教要約 マルコ福音書12章28-34節 「神に愛されているから」
12:28彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
これが今日の箇所のはじまりです。
これ以前に、マルコ福音書には、ダヤ教の様々なグループの人たちが、かわるがわるやってきてイエス様に質問を投げかけ、あるいは議論を仕掛けた様子が記されています。ですが、彼らの目的は、イエス様を言葉の罠にかけ、イエス様を失脚させることでした。
しかし今日イエス様のもとにやってきた律法学者は目的が違うようです。
彼の質問は、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」という質問でした。
1世紀当時、つまりイエス様が地上におられた頃、律法学者の間では、大小さまざまある律法の中で、どの戒めが「重要」なのか。律法全体を要約するとどうなるのか。 律法の優先順位をどう考えるべきか。そういうことが、彼らの関心事であり、日々議論されていたのです。
と言いますのも、当時の掟、律法と言われるものはモーセ五書に記されているものだけでなく、人間が作り上げた「口伝律法」というものがあり、民衆はそれを守ることを強要されていました。
例えば、安息日律法には、安息日にしてはいけない39のことが決められていました。
安息日に移動できる距離は、自宅から900メートル以内。
労働してはいけない、というだけでなく、荷物は運んではいけない。
命に係わる以外の病人やけが人を治療してはいけない。などなど、細かい規定がありました。
そういう中で、この律法学者は、実際の所、本当に大事な掟、神が第一に求めておられることは何か。律法の中心はなにか? それを真剣にイエス様に尋ねたのです。
この質問をお聞きになったイエス様は、直ちに答えられました。それが29-31節です。
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これは、旧約聖書、申命記6章4-5節の言葉です。
この言葉は「イスラエルの人々の神信仰の核心、中心を表す言葉として教えられてきたことで、律法学者にとってもビンゴ! 全くその通り! と同意できる教えです。もう少し詳しく見ましょう。
「イスラエルよ、聞け」まず、神の言葉を聞くこと。神のみ旨を問うこと。それが信仰の出発点であり、神に従うときの中心です。そうでないと、私たちの行動は自分中心の思いに支配されてしまうからです。
それに続く言葉が「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」です。
「唯一の主」とは、他に並ぶもののないただ一人のお方ということ。そしてこの唯一の神が、私たちと唯一無二の関係を結んでくださる主なる神です。
神は、イスラエルの上に立つ主権者ですが、イスラエルに対して横暴に振る舞われるお方ではありません。実際はその逆で、神がまず、何のとりえもないイスラエルの民をお選びになり、ご自分の民とされたのです。それは、主権者として君臨するという関係ではなく、父として民を愛するという関係でした。
申命記7:6-8にこんな風に記されています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」
イスラエルの選びは、神の愛が先行しました。神が、ご自身の愛の対象としてイスラエルを選ばれたのです。その上で神はイスラエルに迫りました。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と。
申命記の言葉は「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
イエス様の言葉では「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」言葉が多少違いますが、その違いを見る必要はありません。
「心」は、わたしたちの感情・意志・価値観の中心です。「精神」は「魂」という言葉でもありますから、私たちの命そのものと言えるでしょう。「思い」は「知性」とも訳せる言葉で、理解・判断・考え方。「力」は、身体・行動・時間・能力・資源とも訳すことができ、実際に体を使って行動することが求められています。
神を愛するとは、心の中だけの問題ではありません。
限界までの力を出して、神を愛する生き方が求められています。
神は、わたしを選び、召し、慈しんで育て、すべてを与えてくださいます。そうして、ついには愛する独り子さえも、与えてくださったからです。
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」第二の掟は「隣人への愛」です。それも、「自分のように愛しなさい」という教えです。
神に愛され、真の愛を知っている人は、同じように隣人を愛することができる、ということでもあります。神への愛と隣人への愛、この二つは一つのこと、と言えるのかもしれません。
新約聖書、ヨハネの手紙Ⅰ、4章10-11節を引用します。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
この律法学者は、イエス様の教えを理解することができました。しかし、イエス様の言葉が理解できても実践できるとは限りません。それは、イエス様の最後の言葉をみるとわかります。
12:34a イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。
イエス様は、律法学者に対して「あなたは、神の国から遠くない」と言われましたが、神の国に入れる、とは言いません。この違い、おわかりでしょうか?
私たちは、イエス・キリストを通さなければ、イエス・キリストによる罪の赦しと、聖霊の助けがなければ、神を愛し、隣人を愛する生き方はできないのです。
イエス・キリストの十字架による罪の赦しを信じ、聖霊に助けられて、神と隣人を愛する歩みへと導いていただけるように、そのための力が与えられるように、祈り求めましょう。