2026年03月22日「裏切りの中で与えられる恵み」
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裏切りの中で与えられる恵み
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- 木村恭子 牧師
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マルコによる福音書 14章12節~21節
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聖書の言葉
マルコ14章12-21節
14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
14:13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14:14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
14:15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
14:16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
14:17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
14:18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
14:19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
14:20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 14章12節~21節
メッセージ
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受難節説教要約 マルコ14:12-21「裏切りの中で与えられる恵み」
今日の説教では、イエス様を裏切ったユダについて考えます。語りたいことは三つです。
1.ユダは特別ではない 2.裏切りや罪の中でこそ、神の恵みが示される。
3.どのような状況に置かれても、イエス様から離れてはならない。
1.ユダだけが特別ではない
「イスカリオテのユダ」といえば、イエス様を裏切った弟子。イエス様を売ったとんでもない男、というふうにインプットしている方が多いと思います。ですが、ユダは特別な悪人だったのでしょうか?
ユダの裏切りの記事は4福音書のすべてに記されていますが、扱い方には特徴があります。今回はマルコ福音書に沿って、マルコが描くユダ像を確認したいと思います。
マルコ14:10–11に、12弟子のひとりであるイスカリオテのユダが、イエス様を引き渡そうと、自分から祭司長たちのところへ行ったこと。祭司長たちは、ユダの話を聞いて喜び、ユダに金を与える約束をしたこと。ユダはイエス様を裏切る機会をねらっていたことが記されています。
マルコは、ユダは自らの意志で、イエス様を裏切ったのだとはっきり記しています。しかしマルコ福音書は、ユダの裏切りの動機は説明していません。
他方、他の福音書では、何故ユダがイエス様を裏切ったのか、その原因を推測できるような記述が記されているのです。
例えば、マタイ福音書には、ユダの方から金銭を要求したことが記されており、マタイはユダの金銭への欲が裏切りの原因と言いたいのかもしれません。
ルカ福音書は「ユダの中にサタンが入った」と書き、ヨハネ福音書も「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切り考えを抱かせていた。」とあります。サタン、悪魔は、神に敵対する存在ですから、ユダの裏切りはユダの心がイエス様から離れて、神の救いの働きに敵対する側へ移っていたことが原因だと言いたいのでしょう。さらにヨハネ福音書には、「ユダは金入れを預かっていながら中身をごまかしていた。」という記述があり、ユダは盗人だからイエス様を裏切っても不思議ではないと言いたいのかもしれません。
ではなぜマルコは、ユダがイエス様を裏切った動機や理由について、あるいはユダという人の人物像について、何も説明しないのでしょうか。そこには、ユダをことさら悪役として強調しないマルコの意図が読み取れます。ユダを“特別な悪人”として描かないことで、ユダも自分たちと同じ一人の罪人だ、と主張しているように思われるのです。
このマルコの意図を覚えながら、十字架の周辺にいたユダ以外の人物に目を向けてみましょう。
例えば、ペトロは12人のリーダー的な存在でした。しかし、思ったことをすぐに口に出してしまうようなところがあり、何度もイエス様に叱られています。イエス様の十字架のときには、「みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言っていたにもかかわらず、イエス様を三度否認しました。他の弟子たちも、イエス様が逮捕され、裁判にかけられ、あるいはピラトに尋問されたとき、みな逃げ隠れしていました。十字架刑が決まった後、誰一人イエス様のおそばに近寄ろうとしませんでした。
そういう意味では、ユダ以外の弟子たちも、イエス様の十字架のとき逃げ隠れし、自己保身に走ったのです。
マルコは、ユダの裏切りを強調したいのではなく、皆同じように弱さのある罪人なのだということを言いたいのだと思います。
まとめ1
裏切り者はユダだけではない。イエス様の周りにいたすべての人が、イエス様が一番つらいとき、苦しいときにイエス様から離れ、十字架を見上げることをしなかったのです。つまり、みんなユダと大差ない。
ユダだけが特別ではなく、他の弟子たちにも弱さと罪がありました。
これは、私たちも同様で、私たちにもユダと同じように、弱さや罪があるということを覚えたいのです。
2.裏切りや罪の中でこそ、神の恵みが示される。
二つ目のポイントは「裏切りや罪の中でこそ、神の恵みが示される」です。
マルコ14:27イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。
イエス様は、ペトロがイエス様を3度否認することも、ユダの裏切りも、弟子たちが十字架のもとから逃げ去ることもすべてご存知でした。また、ご自身が向かう十字架への道が、どれほど辛く苦しい道であるかもご存知でした。ゲッセマネで祈るイエス様のご様子から、十字架に向かうイエス様のお心を想像してみましょう。イエス様のゲッセマネでの祈り(マルコ14:32-36)を読むと、イエス様の苦しみが良くわかります。これほどの苦しみの中で、イエス様は十字架へと歩まれました。
それは、十字架が神の救いのご計画を成就する道であること、これ以外に罪ある人間を救う道はないことをご存知だからです。
まとめ2
人々の裏切りの中で、イエスさまだけが黙々と、定められた道を歩まれ、十字架へ向かい、十字架で死なれました。人間の裏切りや弱さに全く影響されることなく、神の御業は神の御計画の通りに進んでいったのです。それはただ、神から離れ罪と弱さの中で、飼い主の無い羊のようにさまよっている人間たちが、もう一度神の恵みへと立ち帰る道をつくるためでした。
この救いの計画は、アダムとエバが、神に背を向け神のもとから追放されたときに、神が人間を愛し、もう一度恵みの中へと招き入れるために立てられた計画の成就です。
それが何千年という長い時を経て、イエス・キリストの十字架によって成し遂げられたのです。
キリストの十字架の救いは、人の裏切りの中で示された神の愛と恵みです。
3.どのような状況に置かれても、イエス様から離れてはいけない。
三つ目のポイントは、「どのような状況に置かれても、イエス様から離れてはいけない」です。過越しの食事のとき、イエス様を裏切ることをすでに決めていたユダについて、こんな風に言っています。
14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
注目したいのは後半「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」です。神の救いの計画と、人間の自由と責任が、緊張した形で交差する一節です。ユダは、滅びに至る者として生まれてきたから、イエス様はユダをはじめからあきらめていた、生まれない方がよかった、といっているのでしょうか? ですが、私にはそうは読めません。この言葉はイエス様の嘆きの言葉、ユダへの深い憐みの言葉だと思います。
そしてユダが救われたかどうか、結末は神だけがご存知であり、人間が詮索すべきことではありません。
ここでは、ユダと他の弟子たちとの違いには注目したいのです。
最初にお話ししたように、ユダだけが特別な罪人ではなく、ペトロも、他の弟子たちも、それぞれ罪と弱さがありました。しかし、ユダと他の弟子たちとの間には、明らかな違いがあります。
ペトロや他の弟子たちは、イエス様の十字架のときにはイエス様のもとを逃げ去りましたが、彼らにはイエス様を見捨てたことへの後悔と悔い改めがありました。そして十字架の後には共に集まり祈り合い、そして復活のイエス様にお会いすることができ、そこから新たな力を得て福音宣教へと進んでいきました。
しかし、ユダは罪を犯した後、イエス様のもとから逃げ去りました。ユダの最後、ユダの死については、マタイ福音書27章3-5節と使徒言行録1章17-18節に記述があります。どちらが正確なユダの最後なのかはわかりませんが、どちらにしても悲惨な地上生涯の終わり方です。
そして、最終的に彼が救いに入れられたのか、退けられたのかは、私たち人間にはわかりません。
それでも、わたしはそれでもまだ、ユダに救われるチャンスが残されていたと思うのです。彼が最後の最後、死のときに心から悔い改めて、イエス様の恵みに立ち帰るなら、救いの道は閉ざされないはずです。
ですから、ここで声を大にして伝えたいことは、ただ一つのことです。
どのような状況に置かれても、イエス様から離れてはいけない。
わたしたちはどのような中に置かれたとしても、あるいはどのような罪や過ちを犯したとしても、イエス様に背を向け、イエス様のもとから逃げ去ってはなりません。
もう一度復習します。
ユダと他の弟子たちとの違いは、イエス様のもとへ戻ったのか戻らなかったか、その一点です。
どのような罪や過ちを犯したとしても、悔い改める機会は残されています。ですから、イエス様に背を向け、イエス様のもとから去ってはいけないのです。
裏切りの中で示される神の愛が、今も、わたしたちに注がれているからです。
最後に詩編130:1-8を読んで祈ります。
130:1深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
130:2 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
130:3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。
130:4 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
130:5 わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。
130:6 わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。
130:7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。
130:8 主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。