2026年02月01日「何を献げるのか」

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何を献げるのか

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ルカによる福音書 21章1節~4節

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ルカ21章1-4節
21:1 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。
21:2 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、
21:3 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。
21:4 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 21章1節~4節

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2026年2月1日(会員総会後)説教要約 ルカ21章1-4節、「わたしたちは何を献げるのか」

毎年会員総会後の礼拝説教では「献金」についての説教をしていますので、本日も「献げる」ということについて考えたいと思います。
本日のテキスト、ルカ21章1-4節は、たった4節だけの短い箇所ですが、重要な教えが含まれています。
まず、場所はエルサレム神殿のさい銭箱の前。さい銭箱というと神社の前にある木の箱を思い浮かべるかもしれませんが、柱に備え付けられたラッパ型の献金箱です。そこに金持ちたちがたくさん献金を入れていく中で、貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を献金したのです。
「やもめ」翻訳によっては「寡婦」となっていますが。当時の社会では、女性は男性よりはるかに地位が低く、しかも彼女はやもめです。夫に先立たれたか、離縁された女性で、彼女を養ってくれる人はいません。整った社会保障制度もありませんから、彼女は日々の生活に追われていました。
そして21章1節。「イエス様は目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。」のです。金持ちは堂々と胸を張って、多額の献金を捧げました。その姿を、人々は称賛の目で見たのです。
そんな中、ひとりのやもめがやってきて、「レプトン銅貨二枚」を献金箱に入れたのですが、イエス様はそれをご覧になって、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」と言ったのです。
レプトン銅貨二枚、今のお金に換算するといくらくらいでしょうか? とりあえず日給1万円で計算してみました。それでも200円に満たない金額です。ですから彼女のささげた献金は、ほんとうにわずかだったことがわかります。金額を考えれば、彼女の献金はささげてもささげなくても体制に影響はないほどです。
ところが、イエス様の評価は違いました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」(21章3節)21:4には「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」というのがイエス様の言葉です。

ここから、二つのことを教えられたいと思います。
1.神は私たちの献げ物、献金の何をご覧になるか、何を評価なさるのか?
イエス様は、彼女が「だれよりもたくさん献金した」と評価なさいました。これはどういうことでしょうか? 金額で言えば、確かに少ないのです。ですから、ささげた金額について言っておられるのではないことはわかります。では、金持ちたちの献金とやもめの献金、どこが違うのでしょうか。
金持ちは多額の献金をしましたが、家に帰れば、捧げた献金以上にたくさんの財産があります。彼は献金することにおいて、何の犠牲も払っておらず、彼の生活には全く影響がありません。
一方でこの女性は、レプトン銅貨2枚献金したら、家には何も残っていないのです。もしかしたら、今晩、食事ができないかもしれない。それでも、いつも自分を配慮し、守り支えてくださる神様に感謝の気持ちを捧げたかったのです。
ですから、彼女は自分の全生活、もっと言えば自分の命をささげた、ということになります。
祭司も含め、当時の人々は献金の額に注目しましたが、イエス様は献金の額ではなく、捧げるために払った彼女の犠牲、そして同時に彼女の神への信頼をご覧になり、それを評価なさったのです。

2.この女性は、なぜ生活費全部を献金できたのか?
ではなぜ、この女性は、生活費全部を献金できたのでしょうか。
旧約聖書、申命記 10:17-18にこんな約束があります。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」
モーセの時代に、神がイスラエルの民に与えられた約束の言葉です。神は、旧約の時代から、小さい者、弱い者、力のない者、虐げられている者に配慮なさる神です。この女性は、イスラエルの神がこのような方だということを知っており、この約束を信頼していたのです。また、これまでの彼女の人生において、この信頼が裏切られたことはなく、やもめになってからも、貧しい中でも、生活は守られてきたのです。
いろんな形で、彼女の人生に神の配慮があり、苦しい生活の中でも、隣人や周囲の人々の手を通して、あるいは、ユダヤ教会の配給によって、必要が備えられてきたのです。
そういう中で彼女は、神がいつも自分に目を止めていてくださることを知っていました。神は私の必要をご存知なので、必ず神の助けがある。それが彼女の確信であり、彼女の信仰でした。
そのように神を信頼し、神により頼んで、神と共に生きていたので、この日、彼女は全生活費を献金するという仕方で、心からの感謝を表すことができたし、またそうしたかったのです。
ここから、献金とは、わたしたちの信仰の現れであり、神様への信頼の証しであることがわかります。

ですが、こういう信仰は、一朝一夕にもてるわけではありません。
いつも神に目を注ぎ、自分の周囲で、あるいは自分に起こってくる全てのことが、神の守りと導きの中で起こっていることに気づくこと、知ることから始まります。そういう風に、神を見上げ、イエス様と共に歩む、信仰の歩みを積み重ねていく中で、だんだんに確かにされるのが神へのゆるがぬ信頼です。

今の世の中、神に目を向けなくても、日常を送ることができます。周囲に起こってくる一つ一つのことは、偶然だ。幸運だ。ラッキーだ。あるいはその逆に、ついてなかったと言って、終わらせることもできます。神を知らない人は、そういう風に自分を納得させて生きています。

しかし、私たちがまことの神様に、イエス様に目を向けているなら、私の人生に、確かに神の愛が注がれていることがわかってきます。神様の恵みの中に置かれていることがわかるようになるのです。
時には、自分の願うとおりにならなくても、又つらい経験をしたとしても、それでも必ず神は、わたしが感謝を覚える結末へと導びいてくださるはずです。キリストの十字架と罪の赦しを通して、私の人生に、神の愛と憐れみ、神の配慮が、溢れるほどに注がれていることを、深く覚え、感謝できる時が必ず来るのです。

今年の川越教会の歩み、川越教会の経済状況や、会員数のことも、神様が一番よく知っておられます。
そして、すべてが神様のご計画、神様のみ手の中にあります。神様は与えることも取り去ることもお出来になります。ですから、わたしたちは、この世的な目で短絡的に判断して悲観的にならず、しかし、それぞれが最善を尽くして、神と教会に、隣人に仕えましょう。主に信頼して、主と共に、そして互いに支え合って歩んでいきましょう。そのような私たちの歩みを、神様は必ず祝してくださいます。
今朝の礼拝の招きの言葉、マラキ3章10節をお読みします。
「十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」

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