2025年12月21日「人となった神の子 神を示された方」

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人となった神の子 神を示された方

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章14節~18節

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ヨハネ福音書1:14‐18
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 1章14節~18節

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説教要約 ヨハネ1:14-18 「人となった神の子 神を示された方」   

聖書は神の救いの記述です。神が救い主として、イエス・キリストの降誕を、御計画のもとで実行されたのです。この一連の出来事は「救済史」と呼ばれ、聖書全体を通して流れが描写されています。

旧約聖書の最初にある「創世記」は、神が天地万物を創造し、全てを整えた後、最後に人間を創造されたと記しています。人は、神に似たものとして、神のよきところが与えられ、神のおられるエデンの園で平和で安全に生きられる者として造られました。しかし、蛇に化けたサタンにだまされ、人は神に背を向け、神から離れました。人は神に従うのではなく、自分の意志に従って生きることを選択したのです。神に背を向け、自分中心に生きること、これが聖書の教えている「罪」です。こうして、人は神のもとから追放され、神から離れて、労働の苦しみと産みの苦しみが加えられ、自らの罪を背負って生きる者となりました。
しかし、神は人を見捨てませんでした。
創世記に、「源福音」と呼ばれ、最初の神の救いのご計画として読まれている個所があります。
創世記3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。
「お前」とは、蛇に化けたサタン、悪魔であり、神に敵対する存在として登場します。神はサタンの子孫と女の子孫、つまりサタンと人間の間に、敵意、敵対する心を置かれました。それでサタンと人間は常に対決することになります。しかし初めから結果は定まっているのです。それが「彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」です。
人間の子孫がサタンの子孫の頭を砕き、致命傷を与える。サタンの子孫は人間の子孫のかかとを砕くが、それは致命傷ではない。つまり、サタンの子孫と人間の子孫との勝敗は最初から、女の子孫の勝利として定められているのです。そしてこの「女の子孫」こそが、おとめマリアから生まれる「イエス・キリスト」のこと。
ヨハネの言葉で言うなら、
1:14「 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
神が人として地上に来られる。これが、神が人をサタンの手から、罪の奴隷状態から救い出すための神の御計画だったのです。

旧約聖書を読み進めていくと、源福音の約束、救いのご計画を、歴史の中で、ノア~アブラハム~モーセ~ダビデという人物を中心に据えて、またさらに様々な人を用いて、進められたのです。
ダビデの頃になると、神の救いのご計画は、預言者の言葉を通して少しずつ明らかに示されていきます。
旧約聖書にしるされている救い主、メシア誕生の預言はたくさんありますが、一か所だけ記しておきます。イザヤ9:5‐6「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」
「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」の部分、「万軍の主の燃える愛が、これを成し遂げる」と言う翻訳もあります。神は、神から離れた人間の罪を赦し、もう一度、人が神の恵みの中で生きられるように、救いのご計画を進めたのですが、その動機は、人に対する「神の熱意」であり「神の燃える愛」です。
そして、この神の救いの計画が現実となったのが、クリスマス。神の御子イエス・キリストの誕生、そしてそれに続く十字架と復活の出来事です。

ヨハネ福音書には、いわゆるクリスマス物語はありません。しかし、イエス・キリストの誕生の意味が、1章1節から18節までに記されています。
ヨハネ1:14a「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」「言」、ロゴス・キリストは、人間として、地上に生まれました。他の福音書では、聖霊によって母マリアの体に宿ったと記されていますが、ヨハネは「わたしたちの間に宿った」と表現しています。言葉であるキリストが「私たちの間に」、つまり地上の世界に来られたということです。地上に天幕、テントを張って、私たちと一緒に、地上に住んでくださったのです。人間にとって遠い存在、かけ離れた方である神が、人間と同じ体をもって、私たちの所に来てくださった。それがクリスマスの出来事です。
1:14b「わたしたちはその栄光を見た。」ここでの「見た」とは、ただ、何となく見たということではなく、「見届ける」とか「観察する」、「出会う」というような意味まで含む言葉です。
では、何を見たのでしょうか? 彼らが見たのは「イエスの栄光」です。
1:14c「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」イエスの栄光とは、父の独り子としての栄光、神のみ子として地上でかたった言葉と行った業です。
イエス様は、地上生涯の間、基本的には私たちと同じように生活なさいました。人となられたイエス様は、スーパーマンではなく、私たちと同じように有限な肉体を持ち、私たちと同じように喜怒哀楽をもった人間として歩まれたのです。
しかし一方では、神としての力、病人を癒したり、悪霊を追放し、死人を生き返らせる権能をお持ちでした。その方の教えは、人間のものではなく神の教えのようだ、と人々は驚きました。神としての権威をもって教えられたからです。イエス様が地上で示された数々の力、これが父の独り子としての栄光です。
イエス様ご自身「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」と言われます(ヨハネ12:45)。
1:14c「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」地上に来られた神のみ子、キリストは、恵みと真理とに満ちておられる方。それは、父なる神の恵みと真理でもあります。
神の恵みと真理、旧約聖書では「慈しみとまこと」と表現されますが、キリストは、神の恵みと真理を人に与えるため、示すために、地上に来られたのです。
1:16「 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」
もはや神は、天から私たちを見守っているだけの存在ではありません。
クリスマスの夜、キリストが地上に来てくださったことで、神と共に生きる恵みが再び人に与えられたのです。わたしたちは、信仰という手を伸ばしさえすれば、その満ち溢れる豊かな恵みを受け取ることができるのです。
1:18「 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
今私たちは、肉の目で神を見ることはできません。しかし当時の人々の証言が聖書にしるされており、それを読むことはできます。
聖書の言葉は、普通の書物とは違います。記された言葉が、聖霊の働きによって、人の心を刺し貫くのです。人々の証言の言葉と共に聖霊が働いて、記されていることが真実であることをわたしたちに教えてくれます。
神の救いの計画は他人事ではありません。
神の愛は、見ようとおもえば見ることができ、受け取ることができます。
イエス・キリストは、神から離れている私わたしを、そしてあなたを救うために、クリスマスの夜、人となって私たちの所へ来て下さったのですから。
神は今も私たちに、「燃える愛」を示しておられるのです

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