2025年12月14日「期待して待つ」
問い合わせ
期待して待つ
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書
イザヤ書 40章27節~31節
聖書の言葉
イザヤ40章27-31節
40:27 ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。
40:28 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。
40:29 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
40:30 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
40:31 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
イザヤ書 40章27節~31節
メッセージ
関連する説教を探す
説教要約 イザヤ書40:27-31
今日は待降節第三主日です。今朝は、旧約聖書イザヤ書から、預言者の口を通して予告されていたことを確認したいと思います。
はじめに朗読したのはイザヤ書40章27節以下ですが、40章1~8節を見て、そのあと27節以下を見ていきます。
歴史的には、紀元前587年、新バビロニア帝国が台頭し、南ユダ王国を責め、多くの住民をバビロンに強制的に移住させる、ということが起こりました。「バビロン捕囚」と言われる出来事です。この事件によって、ユダ王国は滅亡し、ソロモン神殿は破壊され、多くの人々は捕虜としてバビロンへ移住させられてしまうのです。しかし、この災いは歴史の中でたまたま起こる出来事ではありません。
ユダの王と民の心が神から離れ、国内では偶像礼拝がはびこり、貧しい者たちを省みない腐敗した政治が続きます。そういう中でくだされるのが「バビロン捕囚」という神の裁きです。
しかし、イザヤ書40章からは、慰めのメッセージが語られています。
「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」(40:1-2)
これは、裁きが与えられたのちに、慰めが与えられるという預言、神からのメッセージです。神は彼らの罪を罰するけれど、そのあとで赦しを与え、彼らの犯した罪以上の恵みを与えてくださる。というのがここでの預言の言葉です。この預言は、彼らが祖国へ戻って生活を立て直すことができる、というだけでなく、実はそれ以上に大きな恵みの預言、約束の言葉が記されています。それが3節以下です。
「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」(40:3-5)
バビロン捕囚から解放された人々が祖国へ戻る情景が詩的に表現されています。
しかしこの個所は、新約聖書に引用されるとき、イエス・キリストの道備え、準備をした洗礼者ヨハネの働きを預言した言葉として読まれます。
「 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(ルカ3:3-6)
新約聖書では、イザヤの語った預言が、メシア、救い主の誕生の備えをする洗礼者ヨハネの出現の預言として読まれているのです。
6節から8節も見ましょう。「 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
神が「呼びかけよ」といわれ、呼びかけられたイザヤは「わたしは言う、なんと呼びかけたらよいのか、と。」と答えています。
野の花は、猛暑で熱風が吹けばしおれ、大風が吹きつければたちまち倒れます。私たち人間も、猛暑には弱り、寒さには震え、病を得、そしていつか死を迎える、そういう存在です。植物ほどでないにしても、結局自分の意志で自分の生涯を生きることができない、そういう者なのです。
しかし、イザヤは言います。
8節「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
弱く枯れ果てていく世界、そしてわたしたち。しかしそれらを立たせるもの、それらを再創造する力が神の言葉です。「とこしえに立ち続ける」神の言葉の永遠性が、有限な人間の生に朽ちることのない命を与えます。神のことばに聞くこと、神の呼びかけに聞くことこそが命なのです。わたしたちはみ言葉、聖書の言葉を通して神を知り、神に近づくことができます。神のことばには、人を生かす力、永遠に立ち続けさせる力があるのです。ここまでのことを覚えたうえで、27節以下を見ましょう。
27節「 ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。」 神は、わたしのことなど関心がない。神は、わたしのことを忘れておられる、と嘆いている姿は、神を見失った私たちの姿でもあります。しかしそんな私たちに対して語られた言葉が28節以下です。
28節「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。」
神は永遠から永遠にまでおられ、地の果てから果てにまでおられ、時間も空間も超越し、人間の思考の中に納めることができない存在です。その方が、天地万物を創造し、今もそれを治め保っておられる。
神は息詰まったり、疲れたりしない方。わたしたちの理性で測ることができない、理解しつくすことができない方。神がそういう方であるからこそ、
29節「 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる」。のです。
老人はもちろんのこと、若者だって「倦み、疲れ」、「勇士」であってもつまずき、どんなに強い人でも倒れることがある。しかし、
31節「 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
わたしたちの人生は、野の草と同じように、被造物としての弱さ、はかなさが伴います。年齢とともに気力、知力、体力が弱っていく。
そういう中で、確かなものは、唯一神の言葉であり、信仰をもって神と共に歩む歩み、主に望みをおく歩みです。
そういう神が、メシア、救い主を地上に送るために、ご自身の御計画の中で備え、イスラエルの歴史の中で、救いの計画を進め、クリスマスの夜に御子を地上に送られたのです。
神の救いの計画のスパンは、わたしたちの思考を越えているので、わたしたちには理解しつくせません。
それでも、神は、大いなる忍耐をもって、救いの計画を進め、今も、わたしたちを救うため、神の民に加えるために、わたしたちの魂に働いておられます。
わたしたちが、地上に遣わされたメシア、キリストに目を向け、神の救いのご計画に望みを置いて生きるなら、わたしたちは神からの新しい力、新しい希望、新しい命を受けることができます。
たとえ体は衰え、力を失っていったとしても。
それでも、全能の神、主に望みをおく人生の歩みは、最終的に失望に終わることのない、確かな歩みであることを、信仰をもって受け止めたいと思います。神に期待して、自らの歩みが完成するときを待ちたいと思うのです。
31節「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」