2025年11月09日「金持ちの男の話し」

問い合わせ

日本キリスト改革派 川越教会のホームページへ戻る

Youtube動画のアイコンYoutube動画

礼拝全体を録画した動画を公開しています。

Youtubeで直接視聴する

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

マルコ10:17-22
10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 10章23節~31節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約> マルコ10章17-22節 「金持ちの男の話し」 

今朝は、「永遠の命を受け継ぐには何をすればいいか」という話しです。

マルコ10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と質問をしたのは、金持ちの青年です。彼は幼いころからユダヤ教徒としての宗教教育、旧約聖書と律法を十分に教えられていました。
今は物質的に大変恵まれて、何不自由なく日々を送っていたのですが、しかし気にかかっていることがありました。それは先のことです。彼の関心は「永遠の命」についてでした。
彼は、イエス様のことを「善い先生」と呼んでいます。この「善い」というギリシャ語の第一の意味は「比べようもない神の正しさ」を指す言葉です。ですから、彼はイエス様のことを「神と等しいお方」と認めて、最大の尊敬をもって、この質問をしたのです。

彼の関心事である「永遠の命」について、まず、考えたいと思います。
旧約聖書には「人が永遠の命を持つ」という思想はありません。旧約聖書で「永遠の命」という言葉が出てくるのは実は、一か所。申32:40 わたしは手を天に上げて誓う。『わたしの永遠の命にかけて』だけです。これは神ご自身の言葉なので、「わたしの永遠の命」とは、神ご自身のこと。永遠から永遠までの存在である神、のことです。
ところが、新約聖書には「永遠の命」という言葉、全部で43節わたって出てきます。その中で圧倒的に多いのがヨハネ文書です。
今、読み進めているマルコ福音書には2回「永遠の命」という言葉が出てきますが、それは今日の所と来週扱う30節です。今日の箇所10:17では「永遠の命を受け継ぐには・・・」、来週の箇所10:30では「のちの世では永遠の命を受ける」です。
どちらも、誰かから「受け継ぐ」あるいは「受ける」と記されています。
つまり、旧約聖書、申命記に記されているように、もともと永遠の命は神が「わたしの永遠の命」と言われるように、神だけが永遠の存在として「永遠の命を持っている」のです。
そして、永遠の存在である神から受け継ぐ、神から受けることによって人が手にすることができるのが「永遠の命」です。

「永遠の命」について詳しく記しているヨハネ福音書から、もう少し「永遠の命」について考えたいと思います。
ヨハネ3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の 命を得るためである。
ヨハネ 5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
ヨハネ3:16によれば、「神の独り子」イエスを信じる者、ヨハネ5:24によるなら「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者」が、永遠の命を得るのです。そして、永遠の命を得た人は、裁かれることなく、死から命へと移る。
つまり、神の裁きを免れて、死から命へと移されるのが永遠の命だと教えられています。
もう1か所、ヨハネ福音書17:3。
ヨハネ17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
ここは、少し違う視点です。「永遠の命」は、ただお一人の生けるまことの神と、イエス・キリストを知ること、とあります。「知る」と訳されている言葉は、信じること、と言い換えることもできます。信じるとは、人格的な交わりの中に入れられることまでを含みます。まことの神が私の神となってくださり、その方は、私を自分の民として、愛しいつくしんでくださる。
別の表現をするなら、家族の一員のように、自分の子どものように、愛しいつくしんでくださる。
一方で私は、神の愛と慈しみを信じて、神に従っていく。
神と私がそういう関係の中に入れられるのが、永遠の命です。
永遠の命とは、神が持っておられる命の交わりの中に、キリストを通して私も入れていただくことで、この交わりは、地上の死を突き抜けて続く交わりです。ですから、永遠の命を得た人は、裁かれることなく、死から命へと移るのです。

マルコ福音書に戻ります。
この人は、そのような「永遠の命」を受け継ぎたいと真剣に願い、イエス様に尋ねたのです。
しかし彼の質問は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか?」です。この質問は後半が間違っています。永遠の命は「自分の力で、何かをすれば手に入る」ものではないからです。
さっきも言いましたように、永遠の命は神の命を受け継ぐこと、神との交わりに入れられることです。そのために私たちに求められることは、神の愛と慈しみを信じて、神に従うことです。

イエス様は、そのことを彼に気づかせようとして、ちょっと意地悪な答えをなさいました。
10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」これは、順番はバラバラですが、十戒の後半部分に当たります。
彼は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えています。彼はユダヤ人としての宗教教育を受け、幼いころから律法を教えられ、それを守るように育てられててきました。またこの人も、教えられてきたことを守る努力をしてきたのです。
しかし、イエス様の目から見れば、その守り方は決して十分ではありません。神は、表に現れる行為だけではなく、その人の心までをご覧になるからです。
なんとか彼に気づいて欲しいと思いながら語られたのが21節
10:21「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
イエス様は、彼を見つめ、慈しんで言われました。イエス様のお心がよくあらわされた言葉です。「慈しむ」とは「愛する」ということ。イエス様は彼が自分の間違いに気付いてほしいと心底思っておられたのでしょう。

しかし、このとき彼はイエス様の真意を理解できませんでした。彼にとって、財産は生活を支える一番確かなもの、信頼できるものだったからです。そして最後は22節。
10:22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

では、私たちはどうでしょうか? 私たちは金持ちじゃないから大丈夫? 今日の話、そういう話ではありませんよね。まことの神以上に、この世の何かを頼りにし、そこに価値を見出し、大切にする生き方を、イエス様は否定なさったのです。永遠の命を受け継ぐことができる生き方とは、神の愛と慈しみを信じて、神に従う生き方。神を第一とする歩みです。
ですが、これは私たちにとっても難しい生き方です。しかし、それをなさせてくださるのが神の救いの御業です。
今日の話しの結論は、来週の箇所になりますが、
マルコ10:27b 「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

関連する説教を探す関連する説教を探す