神の国に入れるのは誰か
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 10章13節~16節
10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 10章13節~16節
2025年11月2日 マルコ10章13-16節 説教要約 「神の国に入れるのは誰か」
今日の説教題は「神の国に入れるのは誰か」で、中心は14節bから15節。
要約すると「神の国はこのような者たち(つまり子供のような者たち)のもの。子供のように神の国を受け入れなければ、神の国に入ることはできない。」です。しかしこれは隠喩、たとえです。
では具体的にイエス様は、何を教えておられるのでしょうか?
13節「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」
並行箇所のルカ福音書では「乳飲み子までも連れてきた」となっていますから、集まってきたのは歩けるような子供から、親に抱かれた乳飲み子までいたことがわかります。大勢の親子がイエス様を取り囲んで、大変な状況になったのでしょう。弟子たちはこの状況を抑えようとして、押し寄せてきた人々を「叱った」のです。
しかしイエス様はどうされたのでしょうか。14節。「イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。』
この言葉は私たちの教派が幼児洗礼をさずける証拠聖句の一つです。ここで子供たちは、自覚的にイエス様のもとに来たわけではなく、親と一緒に、あるいは親が連れてきたと思われます。また、イエス様は、そういう幼い子供たちを呼び寄せられました。さらに、親たちを叱った弟子に対して「憤った」とまで書かれています。
信仰の父、アブラハムに与えられた救いの約束は「あなたとあなたの子孫の神となる」でした。
使徒言行録2:39には、「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」とあります。もちろん信仰は自覚的であるべきです。
ですが、実際には私たちは自覚する前に、神の招きがあり、聖霊の働きがあって、信仰へと導かれるのです。そうであれば、幼い子供も同じこと。自覚がなくても、神が招いておられるのであれば、また両親が、あるいは片親がキリストを信じる者であれば、神の救いの恵みの中におかれているという理解で、私たちの教派は幼児洗礼を授けます。親と教会はその子に神の愛を教え、子どものために祈り、やがて自分の言葉で信仰告白ができるように養い育てるのです。もちろん、体罰や強制はあってはなりません。
しかし必ずしもクリスチャン家庭の子供が信仰を持つというわけではない。残念なことですがそういう現実もあります。それでも親は、あきらめずに、子どもの救いのため、家族の救いのために祈り続けることが大切です。不可能を可能としてくださる神が、「あなたとあなたの子孫の神となる」と約束しておられることに希望を置いて、忍耐強く祈り、待ちましょう。
16節「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」とあり、イエス様が子供たちを大切にしておられ、、また喜んで祝福しておられる様子が見て取れます。
ところで、人々は何のために、子どもたちをイエスの所へ連れてきたのでしょうか?
それは、「イエスに触れていただくため」です。
イエス様はみ言葉と愛の業で神の愛をお示しになり、その様子は村中、町中に知れ渡っていました。
そういう愛に満ち、力ある方に触れていただきたい、祝福してもらいたい、祈って欲しい、という親心は、私たちにも理解できます。中には、病気の子どもを連れてきた人もいたかもしれません。
しかし、イエス様の周りは大騒ぎだったことでしょう。そうでなくても、常に大勢の人に追い回されていたイエス様ですから、弟子たちはイエス様のお体を心配して、親たちを叱ったのでしょう。その配慮もわかります。ですが、私たちは、ここで学びたいと思います。
その時々で何を優先すべきか、今は何が重要か、を判断する必要があることを学ばされます。
そして残った個所、14節後半から15節のイエス様の御言葉、ここが重要です。
10:14b-15「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
「神の国を受け入れる」とはどういうことか。まして「子供のように受け入れる」とは、何を意味しているのでしょうか。
ここはいくつかの解釈があります。
一つは、「子どものように、身を低くしなければ、神の国に入ることができない」という解釈。
あるいは、「幼子のように天真爛漫に、素直な心で、神の国を受け入れなさい」という教えであるという解釈。素直な心で福音を受け入れることも大切です。でも、必ずしも子供は素直とは限りません。
では、ここではいったい何が教えられているのでしょうか?
イエス様は、子供が親からの支えを期待し、それを受け続け、成長する姿。そういう親への依存性を神の国に入る比喩として教えておられるのです。
神の国に入るために必要なのは、謙遜や素直さ以上に、神に信頼し、依存して、神の国の福音を受け取ること、受け続けることでやがて神の国に入れるように整えられていく、という教えです。
子供が親に依存して、親からの保護を受けて成長するように、人は、神により頼んで、神の国の福音を受け取り続けることで、神の国に入ることができる、というのがここでのイエス様の教えです。
差し出された神の国の福音、イエス様の言葉を受け取り続けることで、信仰が生まれ、それが確かなものとされ、ついには神の国に入ることができるのです。
礼拝で語られる聖書の言葉とその解き明かし、解説である説教を聞き続けることで、やがて主イエスを信じる信仰が確かなものとされ、イエスを信じて洗礼を受け、地上の神の国である教会のメンバーとなります。地上の神の国である教会と、神の国、天国はつながっています。
ですから、聖書を通して、信仰が与えられ、教会のメンバーになった人は、地上の神の国に入ったということ。神の恵みのうちに入れられたのです。そしてその人は、やがて天の神の国、天国に入ることができるのです。
聖書の話を一回聞いたら奇跡が起こって、信仰が与えられるということではありません。「聞き続ける」ということが重要です。聖書は、新約聖書であっても2000年前のユダヤが話の背景になっています。旧約聖書は、天地ができる前から、また紀元前1500年にできたイスラエル王国の歴史が背景にありますから、一度聞いたくらいではなかなか理解できないし、自分一人で読み解くのも大変です。
ですから「聞き続ける」ことが必要なのです。
礼拝説教を聞き続けることで、その時々に心に残る神の言葉や心に響くメッセージが与えられ、不思議ですけれど、キリストを信じる信仰へと導かれます。
ここにいらっしゃる多くの方は、みんな、そのようにして信仰へと導かれ、洗礼を受けて地上の神の国のメンバーになっている方々です。 あるいは、その途上の方もいらっしゃいます。
大切なことは、神に信頼してみ言葉を受け続けること、礼拝に参加し続ける忍耐です!!
ここにおられるお一人お一人が、み言葉を受けることを通して、信仰へと導かれますように。そのようにして、神の国への歩みをしっかり歩んでいただきたいと願っています。