2020年09月20日「死者の中からの復活」

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死者の中からの復活

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 4章1節~4節

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ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 4章1節~4節

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<説教要約>
「ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。」(使徒4:1)とあります。
この直前まで、ペトロは、足の不自由な人の癒しをきっかけに集まってきた人々に話をしていました。内容は、癒しがイエスの力によること。イエスは神が遣わされたメシアであり、神がイエスを死者の中から復活させたことなどで、それらを神の約束に結び付けて丁寧に説明したのです。
話が終わるころに、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいてきました。
「二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。」(使徒4:2-3)とあります。
彼らは、ペトロとヨハネが神殿内で、無許可で人を集めたことを問題にしました。しかし、それだけではありません。彼らが語った内容そのものが気に障ったのです。「イエスの復活」について語ったことが特に気に入らなかったのです。彼らは「いらだっていた」と記されています。
では彼らのいら立ちの原因は何でしょうか? 実は、イエスは祭司長と神殿守衛長らによって逮捕され、裁判にかけられ、十字架で殺されたのです。そのイエスがこともあろうに復活した、とペトロとヨハネが語るのを聞いて彼らは我慢できませんでした。また、彼らはサドカイハでしたからかれらは「復活」を否定する立場でもありました。そんなこんなで、彼らはいらだっていたわけです。彼らはペトロとヨハネをその場でとらえて一晩牢に入れたのです。牢に入れ脅しをかけて、二度と神殿でキリストのことを話さないようにさせようと考えたのです。

ところが、二人が捕えられ、牢に入れられたにもかかわらず、4節を見ると、「二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。」とあります。ペトロの説教によって、5千人の男の人がキリストの死と復活、そしてその意味を信じたのです。
以前、ペンテコステの時にも、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」(使徒2:41) と報告されています。ここでは洗礼を受けたことまでが記されていますが、今はペトロとヨハネが牢に入れられてしまったので、洗礼は後日、ということでしょう。
しかし、以前三千人が教会に加わり、今日も男性だけで5千人が信じたわけですから、エルサレム教会は大変な勢いで成長していったことが分かります。

ところで、サドカイ派について、もう少し詳しくお話ししたいと思います。
当時のことを知る聖書以外の資料にヨセフォスという人の著書『ユダヤ戦記』『ユダヤ古代誌』などの歴史書があります。ヨセフォスはその中で、サドカイ派についていくつかのことを記しています。サドカイ派は、エルサレム神殿を中心とする祭司の一族で裕福な上流階級に属していました。さらに彼らは肉体の復活、死後の罰や報い、御使いや霊の存在を信じません。ですから今を楽しめばそれでいいという生き方になります。しかも彼らの多くはお金持ちだったので、この世ではある意味それで満足していたのかもしれません。今だけを見て、今を楽しむ生き方。こういう生き方って、現代人にも多いですよね。

使徒パウロは、サドカイ派の人々と同じように復活を信じないコリント教会にあてて以下のような内容の手紙を書いて今す。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(Ⅰコリ15:3-5)
パウロが「最も大切なこと」というのですから、これがキリスト教の中心と言ってもいいでしょう。
つまり「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」これが福音の中心です。
サドカイ派は死者の復活を認めませんが、しかし今日の話し、神殿でのペトロの説教は、イエスの死と復活を目撃したペトロやヨハネが語っているのです。

またパウロは、サドカイ派の人々と同じように、死者の復活などないというコリント教会の人々に、15章20-22節で、キリストの復活の意味と、キリストを信じるキリスト者の復活(死者の復活)の関係について語ります。
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(Ⅰコリ15:20-22) これは、キリストの復活と、キリストを信じる者たちの復活の希望の関係です。
キリストの復活は、神の御子が十字架で死んで復活したというだけの出来事ではありません。キリストの復活は、キリストを信じて死んだ者たちの復活の初穂、さきがけなのです。キリストを信じて地上生涯を終えた人は、キリストが体を持って復活したのと同じように復活するのです。もちろん、すぐにではありませんが。キリストが死なれたのは「わたしたちの罪のため」であったし、また同様に、キリストが復活されたのは、キリストに結ばれて死んだ者達が、キリストと共に復活するためなのです。つまりキリストの復活を信じることで、私たちにも復活の希望があるのです。この教え、現実主義者、目で見える物しか信じない、という人には受け入れられないでしょう。でも、本当に私たちの人生は死で終わりでしょうか? 皆さん、それで満足ですか? 
ですが「死者の中からの復活」とは、死んだあともう一度復活して今と同じように人生を生きるチャンスがあるということではありません。
復活の希望は、やがて完成する神の国で、神の恵みの中で、神と共に生きるという形で実現します。
完成した神の国については、抽象的な表現ですが、ヨハネ黙示録21章3-4節に記されています。
「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」(ヨハネ黙21:3-4)
今私たちの現実は、もちろん神の恵みの中で生来ていますが、しかし辛いことや苦しいことが多いと感じる方がいらっしゃるでしょう。病の苦しみや社会的、経済的な問題もあります。いじめや差別、孤独、あるいは人間関係が大きな重荷になっている人もいらっしゃるでしょう。ですが、今どのような状況にあったとしても、その中でイエス・キリストを通して真の神を見上げて歩んでいれば、今もまた死んだ後も、神の恵みの中で生きることができるのです。
その意味では、パウロが言うように、最も大切なことは「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」を信じ受け入れて神を見上げることです。
その先には、私たちの想像を超えた神の恵みと祝福があることを覚えたいのです。

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