誰が一番偉いか
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 9章33節~37節
マルコ9:33-37
9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 9章33節~37節
2025年9月14日要約 マルコ9:33-37 「誰が一番偉いか」
本日の説教題は「誰が一番偉いか」です。
ぜひ今日の説教を通して、この問いへの答えをお持ち帰りいただきたいと思います。
ですが、今日の話に入る前に、直前の出来事を思い出しましょう。9章31節で、イエス様は弟子たちに
「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と話され、ご自身がこの後「十字架の死と復活」へ進まれるとお話しになっています。しかし、弟子たちの反応は32節「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」とあります。よく言えば弟子たちは、「十字架の死と復活」を受け止める心の準備ができていなかったと言えるでしょう。しかしもっとはっきり言うと、このときの弟子たちの思いは、イエス様が十字架で死ぬなどあってはならない、考えたくない、スルーしたい、と思っていたのです。それが、今日の箇所でよくわかります。
弟子たちは、イエス様から「十字架の死と復活」の話を聞いた直後、家に戻る道々で「だれがいちばん偉いか」を言い争っていたというのです。どうして、イエス様の「十字架の死と復活」予告を聞いて、こんな議論になったのでしょうか。
弟子たちがイエス様から「十字架の死と復活」の話を聞くのは2度目でした。そして彼らは、これは普通ではない。何か新しいことが起こると感じたのです。おそらく終末的な王国の到来、いよいよイエス様が王なるキリストとして、この国を支配なさるときが来る、と考えたのだと思われます。
そういう中で、弟子たちの関心は、イエス様の王国で自分がどれほど出世できるか。王なるイエス様の次の地位はだれなのか? 12人の中のトップはだれなのか?
「十字架と復活」の話が、彼らの中ではそういう風につながって、議論がヒートアップして、先頭を歩くイエス様に聞こえてしまった、ということだと思われます。
イエス様は、弟子たちの議論を聞きながらどんなお気持ちだったでしょうか?
自分がこれから向かおうとしている「十字架の死」について話した直後に、弟子たちはそのことはスルーして、別のことで言い争っている。イエス様の死より、自分たちの出世に関心がある弟子たち。
イエス様の十字架の死は、こういう自分本位な弟子たちのためであり、イエス様を信じ、従っているつもりの私たちのためであります。
弟子たちは、そして私たちも同じように、ことの本質になかなか気付くことができない、霊的理解の鈍い者であることを、ここから読み取る必要があると思うのです。
弟子たちは、イエス様の言葉を、イエス様の心を、「十字架の死と復活」の意味を、まだ受け取ることができずにいました。
それでも、イエス様は、あきらめることなく、弟子たちをさらに教え導こうとなさっています。
イエス様はお座りになり、自分の周りに弟子たちをお呼びになりました。これは、重要な話をするからよく聞きなさい、というパフォーマンスです。緊張している弟子たちを前にして、イエス様はこう言われたのです。
9:35b「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
「一番先になりたい者」とは、人の前に立ちたい者、筆頭になりたい者、ということです。直前まで弟子たちが議論していたことですが、イエス様の話は、彼らの思考回路とは違う次元の内容です。
「いちばん先になりたい者」は「すべての人の後になりなさい」と教えます。
イエス様は「いちばん先になりたい」という欲求をここで否定してはいません。しかし、イエス様の教える「いちばん」の定義は、この世の優先順位、弟子たちの価値観とは真逆です。
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
「すべての人の後になる」とは、「すべての人に仕える者になる」こと。つまり、全ての人に仕える者こそ、いちばん先の者、いちばん偉いのだ、と教えたのです。「仕える者」「奉仕者」とは、ギリシャ語で「ディアコノス」意味は、食卓の給仕人、仕える者、奉仕者です。
マルコ福音書10章42-45節にも同じような話が記されています。42-44節はほぼ同じ内容です。しかし45節には、もう一歩踏み込んで、イエス様ご自身の仕え方についての言及があります。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエス様は、自分の命を献げること、自分の命を犠牲にし、捨てることを通して、真に仕える者であるのだ、という言及。まさに、「イエスの十字架と死」の意味が教えられています。
イエス様は、今日の箇所、9章35節ではそこまで語っておられませんが、弟子たちが理解できるように、少しずつ、少しずつ、ご自身の「十字架の死と復活」の意味を弟子たちに教えておられるのです。
ここまでの話しをまとめます。このように、神の国の価値観は、私たち人間社会のそれとはまったく違います。「偉さ」とは何か。偉いとはどういうことか。この世のシステムでは、地位や権力、財産を持って人を使う人が「偉い人」と考えられます。しかし、神の国ではその真逆です。人に仕える者、人のために働くものが偉いのです。なぜなら、神の国の王であるイエス様ご自身が、そのようなお方だからです。
この後36,37節は、イエス様のゆえに、子どものような小さな者、価値のないと思われている者を受け入れることは、イエス様を受け入れるということ。そして、イエス様を受け入れることは、天の神様を受け入れることに等しい、という教えです。
ここは、マタイ福音書の25章31‐46節、イエス様が死後の裁き、「最後の審判」について語られたたとえ話が参考になります。
長いので今朗読はしませんが、要約すると、「小さい者の一人」にしたよき業は、最後の審判者である王、イエス様にしたことと同じこと。反対に「小さい者の一人」に助けの手を差し伸べなかったことは、最後の審判者である王、イエス様にしなかったことと同じ。そして、「小さなものの一人」に手を差し伸べなかった者は、永遠の命の恵みに与ることができない、という話です。
今日の箇所マルコ9章37節「子供の一人を受け入れる者」とも共通する内容です。
「神よ、神よ」と言葉で神をあがめることで満足せず、あなたの周囲に神が置かれている「小さきもの」を見過ごすことがないように、という警告として、今日の箇所を受け止めたいと思うのです。
今日の話、一言で言うならば、神の国では「仕える者が一番偉い」というのが結論です。何故なら、神の国の王であるイエス様ご自身がそのようなお方であり、わたしたちもイエス様の歩みに倣うよう、求められているからです。
また、「小さい者」を受け入れることは、神を受け入れることと等しい。わたしの近くにいる、あるいは私の周りに置かれている「小さきもの」は、神がわたしに託しておられる者、という視点も忘れてはなりません。