Youtube動画 礼拝全体を録画した動画を公開しています。 Youtubeで直接視聴する 音声ファイル 礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。 再生できない方はこちらをクリック 聖書の言葉 人道的律法 22:20 寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。 22:21 寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。 22:22 もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。日本聖書協会『聖書 新共同訳』出エジプト記 22章20節~22節 メッセージ <説教要約>毎年、8月15日に一番近い主日の礼拝で、平和について考える説教をしています。そういうわけで、本日は、パレスチナ問題に目を向け、考えたいと思います。最近二冊の本を読みました。一冊は、パレスチナの医師が記した「それでも私は憎まない」(イゼルディン・アブエライシュ著)という本。まず、こちらからご紹介します。著者は、1955年ガザ地区の難民キャンプに生まれたパレスチナ人で、彼は、大変な忍耐と努力で医師となります。奨学金を得てエジプトのカイロ大学医学部を卒業。ロンドン大学産婦人科学研究所を経てハーバード大学で修士号取得。パレスチナ人としてイスラエルの病院で働く初の医師となり、産婦人科でイスラエル人とパレスチナ人両方の赤ちゃんの誕生に携わってきました。そんな中、2009年1月に彼の自宅がイスラエル軍の戦車の砲撃を受け、3人の娘と姪が殺害されるという痛ましい出来事が起こりました。その時の様子が記されていますので、少しだけお読みします。「寝室の家具、教科書、人形、ランニングシューズ、木片が、私の娘たちと姪の体の一部分とともにバラバラに重なり合っていた。ただ一人、シャータだけが(大けがをしながらも)立っていた。一人の娘の死体を床の上に発見した。頭部がなかった。脳の組織が天井に張り付き、少女たちの小さな手や足が、まるで誰かが大急ぎで立ち去る時に置き忘れて行ったかのように床の上に落ちていた。血が部屋のあらゆる部分に飛び散っていて、私の愛する娘や姪の胴体から吹き飛ばされた腕や脚が、あちこちに横たわっていた。」彼は祈ります。「ああ、我が神よ、我が神よ、家が爆撃された。娘が殺された。わたしたちが何をしたというのか!」と。もちろん彼はイスラム教ですから、アッラーの神への祈りです。文字で読むだけで胸が苦しくなるような惨状です。ですが、実際に今地球上で起きている現実です。できれば知ることなく、スルーしたいと思います。しかし、先週もお話ししましたが、今週も、同じマザーテレサの言葉を覚えたいと思います。「愛の反対は憎しみではなく無関心です」。愛の対局にあるのは憎しみではなく、関心を持たないことだと。自分以外のことには目をつぶって、関心を持たなければ、私たちは何もしなくて済むし、何もできないのです。しかし知ることで、それが人ごとではなく、自分ごと、自分にも起こりうることだと考えられるようになるからです。著者自身「その時目の前に広がった光景は、わたしたち以外の誰にも決して目撃する羽目に陥ってほしくない」と記しています。しかし彼は、後日、この悲しみを乗り越えてこう語ります。「自分の命が助かったのは自分にやるべき働き、平和への働きがあるからだ」と。現状を伝え、自分が平和の懸け橋になる使命があると。「もう流血はたくさん、敵意もたくさんだ。軍事力での解決は失敗すると証明された今、この紛争を扱う新たな方法を見つけなくてはならない。寛容と譲歩を教訓とし、希望と善行と人命尊重に焦点を合わせるべきだ」。「わたしたちは未来に目を向けなくてはなりません。パレスチナ人の尊厳はイスラエル人のそれと等しく、両者が協調かつ協力して暮らすべき時は来ています。後ろを向いてはいけません」と。彼は、過去を振り返るのではなく、過去の憎しみを捨てて、将来に向けた共存を模索することを願っています。ではなぜ、パレスチナでこのような争いが続いているのでしょうか。それが、もう一冊の本を読むと、わかりやすく記されていますので、そちらも紹介します。もう一冊は「イスラエル軍元兵士が語る非戦論」(ダニー・ネフセタイ著)という本。著者は1957年イスラエル生まれのイスラエル人。先に紹介したパレスチナ人医師とほぼ同年代の人です。彼は高校卒業後イスラエル空軍で兵役を務め、その後バックパック旅行で立ち寄った日本に魅了され、日本人と結婚。現在埼玉県秩父に住んで家具職人として働きながら、反戦や脱原発をテーマに講演活動を行っています。この本には、彼が、イスラエルにいた時には気付かなかったこと、特に自分が受けてきた教育の偏りへの気づきを記しています。戦前の日本の教育もそうでしたが、イスラエルでも人々を戦争に向ける教育、特にパレスチナ人を敵として憎ませる教育がなされていることに、彼は気付いたのです。ところで、今のイスラエルという国の歴史についてご存じでしょうか?イスラエル人の歴史認識、教育を簡単にまとめるとこうです。・パレスチナの地は、神がイスラエルに与えた地で、先祖のユダヤ人が住んでいたが、2000年ほど前にローマ帝国に征服され、ユダヤ民族は 世界各地に離散した・19世紀半ばから、ヨーロッパでユダヤ人の差別や迫害が激しくなり、理想の国家建設を目指す思想や運動が具体化した。・彼らはイスラエルの地(現在のパレスチナ)に戻って建国することを夢見て、世界各地からパレスチナに移民したが、そこにはパレスチナ人が住んでいた。・第一次世界大戦後、パレスチナは国際連盟からイギリスに委任され、イギリスはユダヤ移民を認めたのでさらに多くのユダヤ人が入植し、1948年にはついに、パレスチナにイスラエルを建国した。これがユダヤ人側の意識です。しかし、著者はこんな風に記しています。「ユダヤ人の意識としては、パレスチナは神が自分たちに与えた『約束の地』だから、そこに自分たちの国『イスラエル』を建国するのは当然、という理屈です。しかし、仮にそうだとしても、2000年も土地を離れていたのですから『今日からここはイスラエルになったから、パレスチナ人は出て行ってください』と言われても困ります。これは明らかに侵略であり、当然ながらそこで紛争が頻発するようになったのです。」と。著者はこうも記します。「中世以前、アラブ人が信仰するイスラム教の勢力が支配していた広大な地域では、ユダヤ教の旧約聖書とキリスト教の新約聖書はイスラム教のコーランと同様に唯一神から示された「啓典」とみなされ、イスラム教勢力はユダヤ教徒とキリスト教徒を「啓典の民」として、人頭税を治めれば彼らの信仰を認め、共存していたのです。ですから、教義からも歴史からもイスラム教徒とユダヤ教徒、キリスト教徒は本来決して敵ではありません」と。しかし、イスラエルは建国後も武力によって領地を広げようとしています。特に、第三次中東戦争でイスラエルはヨルダン川西岸も占領したので、ユダヤ民族が2000年間祈り続け、神が約束した場所(聖書で言うならカナンの地)にやっと帰ってきた、と喜びました。ですがイスラエルがやったことは、武力でアラブ人が住んでいた土地を奪ったわけです。イスラエルで受けた教育について、著者はこんな風に語っています。「強い軍隊を持たなければ、ここで安全に暮らすことができない。」「軍隊があってこそ私たちは安全に生活できる」と教育され、イスラエルには男女ともに兵役があります。イスラエルの民は、その昔、エジプトで奴隷とされ、一時はギリシャ人から迫害を受け、2000年前にはローマによる侵略によって国が滅ぼされ、さらにナチス・ドイツのホロコーストによって600万人ものユダヤ人が虐殺された。このような多くの犠牲のもとに、イスラエルは建国されたのだから、これを守っていかなくてはならない。この国を守るには武力しかない。「戦争以外に平和という選択肢はあり得ない」。「平和を守るために進んで軍隊に入ろう」という教育をうけ、彼も実際そう信じていたそうです。さらに小学校低学年から、パレスチナ人の土地を奪って入植地をつくるのを正当化する根拠として、旧約聖書の言葉が教えられているそうです。創世記15章18-21 その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」確かにこの言葉は旧約聖書に記されている神の言葉です。しかし、神の言葉はこれだけでしょうか? こういう風に、ある個所だけを抜いてそれが聖書全体の教えと受け取るのは、誤った聖書の用い方です。例えば、先ほどの箇所より前に、神がアブラハムに与えた約束の言葉はこうです。創世記12章1-3節 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」旧約の神が、ユダヤ民族が父として崇めるアブラハムに与えた最初の約束、「アブラハム契約」です。ここには「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」という言葉があり、神の祝福の約束はイスラエル民族に留まらない、ということが示唆されています。また、今日の聖書箇所 出エジプト記22章20‐22節を見ましょう。「 寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。 寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。 もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。」これは、イスラエルの民が出エジプト後、荒野の生活を経て、約束の地カナンに入ったときに守るべき神の掟ですが、その中に、人道的律法と言われるものがあり、「寄留者や身寄りのない者,貧しい者」に関して神が言及している個所です。22章20節は、「寄留者」今の言葉で言うならば「在留外国人」についての言及です。ヤハウェの契約の民として保護されているイスラエルも、かつてはエジプトで在留の外国人として苦労したことが指摘され、イスラエルの共同体の中にいる、他国の民や保護する者の無い弱者を苦しめてはならないと命じられています。このように、神の目は、もとから、イスラエル民族だけでなく、それ以外の民にも向けられていたのです。選民ユダヤは、ユダヤ人を通して神の救いがすべての人にもたらされるという神の約束であり、神の意志です。そして、この約束はイエス・キリストを通して実現し、イエス・キリストを信じるすべての民に及ぶのです。ここで、今の日本に目を向けたいと思います。7月20日に行われた参院選では、参政党や国民民主党などの新興勢力が大きく議席を増やしました。特に参政党の躍進には驚かされました。ですが、参政党について皆様はご存知でしょうか?「日本人ファースト」を掲げるナショナリズム的な政策、「核」を抑止力として持つべきという主張や、徴兵制を是認する党員がいること。しかし日本には、外国人でも、日本人とともに普通に生活している良心的な人々が大勢います。言いたいことは、平和的共存は可能だし、狭い地球で今後そういう意識を持たない限り、平和は訪れないということです。戦争が起こると多くの人命が失われます。爆撃するその下に、多くの命の営みがあることを私たちは忘れてはいけないのです。武力、軍事力で平和は維持できないということを肝に銘じたいと思います。対立する環境で生まれた両者の記した本を読みましたが、不思議なことに結論は一致しています。この複雑な関係を修復するためにしなければならないことは、過去の憎しみや争いの記憶を手放す勇気を持つこと。痛みや悲しみは消えるものではありませんが、それに縛られ、そこに留まるのではなく、未来へ歩むために一歩を踏み出すこと、共存の努力をすること、と両者は語っています。そのために重要なのは教育です。過去の事実を捻じ曲げない教育、しかし憎しみをあおるのでなく、そこから前を向くこと。宗教や生活様式に違いはあっても、人としての心、自分や家族を大切に思い、命が大切なことに変わりないことを知る必要があります。憎しみを超えて、共存の希望を選ぶとき、わたしたちの社会は今よりは平和な社会へと向かっていくはずです。神が造られた世界で、神が造られた人々が、共存する道を選び取りたいと思うのです。イザヤ2:4-52:4主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。2:5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。 関連する説教を探す 2025年の日曜朝の礼拝 『出エジプト記』
<説教要約>
毎年、8月15日に一番近い主日の礼拝で、平和について考える説教をしています。
そういうわけで、本日は、パレスチナ問題に目を向け、考えたいと思います。
最近二冊の本を読みました。
一冊は、パレスチナの医師が記した「それでも私は憎まない」(イゼルディン・アブエライシュ著)という本。
まず、こちらからご紹介します。
著者は、1955年ガザ地区の難民キャンプに生まれたパレスチナ人で、彼は、大変な忍耐と努力で医師となります。
奨学金を得てエジプトのカイロ大学医学部を卒業。ロンドン大学産婦人科学研究所を経てハーバード大学で修士号取得。
パレスチナ人としてイスラエルの病院で働く初の医師となり、産婦人科でイスラエル人とパレスチナ人両方の赤ちゃんの誕生に携わってきました。
そんな中、2009年1月に彼の自宅がイスラエル軍の戦車の砲撃を受け、3人の娘と姪が殺害されるという痛ましい出来事が起こりました。その時の様子が記されていますので、少しだけお読みします。
「寝室の家具、教科書、人形、ランニングシューズ、木片が、私の娘たちと姪の体の一部分とともにバラバラに重なり合っていた。ただ一人、シャータだけが(大けがをしながらも)立っていた。
一人の娘の死体を床の上に発見した。頭部がなかった。脳の組織が天井に張り付き、少女たちの小さな手や足が、まるで誰かが大急ぎで立ち去る時に置き忘れて行ったかのように床の上に落ちていた。血が部屋のあらゆる部分に飛び散っていて、私の愛する娘や姪の胴体から吹き飛ばされた腕や脚が、あちこちに横たわっていた。」
彼は祈ります。「ああ、我が神よ、我が神よ、家が爆撃された。娘が殺された。わたしたちが何をしたというのか!」と。もちろん彼はイスラム教ですから、アッラーの神への祈りです。
文字で読むだけで胸が苦しくなるような惨状です。ですが、実際に今地球上で起きている現実です。
できれば知ることなく、スルーしたいと思います。
しかし、先週もお話ししましたが、今週も、同じマザーテレサの言葉を覚えたいと思います。
「愛の反対は憎しみではなく無関心です」。
愛の対局にあるのは憎しみではなく、関心を持たないことだと。自分以外のことには目をつぶって、関心を持たなければ、私たちは何もしなくて済むし、何もできないのです。
しかし知ることで、それが人ごとではなく、自分ごと、自分にも起こりうることだと考えられるようになるからです。
著者自身「その時目の前に広がった光景は、わたしたち以外の誰にも決して目撃する羽目に陥ってほしくない」と記しています。
しかし彼は、後日、この悲しみを乗り越えてこう語ります。
「自分の命が助かったのは自分にやるべき働き、平和への働きがあるからだ」と。現状を伝え、自分が平和の懸け橋になる使命があると。
「もう流血はたくさん、敵意もたくさんだ。軍事力での解決は失敗すると証明された今、この紛争を扱う新たな方法を見つけなくてはならない。寛容と譲歩を教訓とし、希望と善行と人命尊重に焦点を合わせるべきだ」。
「わたしたちは未来に目を向けなくてはなりません。パレスチナ人の尊厳はイスラエル人のそれと等しく、両者が協調かつ協力して暮らすべき時は来ています。後ろを向いてはいけません」と。
彼は、過去を振り返るのではなく、過去の憎しみを捨てて、将来に向けた共存を模索することを願っています。
ではなぜ、パレスチナでこのような争いが続いているのでしょうか。
それが、もう一冊の本を読むと、わかりやすく記されていますので、そちらも紹介します。
もう一冊は「イスラエル軍元兵士が語る非戦論」(ダニー・ネフセタイ著)という本。
著者は1957年イスラエル生まれのイスラエル人。先に紹介したパレスチナ人医師とほぼ同年代の人です。彼は高校卒業後イスラエル空軍で兵役を務め、その後バックパック旅行で立ち寄った日本に魅了され、日本人と結婚。現在埼玉県秩父に住んで家具職人として働きながら、反戦や脱原発をテーマに講演活動を行っています。
この本には、彼が、イスラエルにいた時には気付かなかったこと、特に自分が受けてきた教育の偏りへの気づきを記しています。
戦前の日本の教育もそうでしたが、イスラエルでも人々を戦争に向ける教育、特にパレスチナ人を敵として憎ませる教育がなされていることに、彼は気付いたのです。
ところで、今のイスラエルという国の歴史についてご存じでしょうか?
イスラエル人の歴史認識、教育を簡単にまとめるとこうです。
・パレスチナの地は、神がイスラエルに与えた地で、先祖のユダヤ人が住んでいたが、2000年ほど前にローマ帝国に征服され、ユダヤ民族は 世界各地に離散した
・19世紀半ばから、ヨーロッパでユダヤ人の差別や迫害が激しくなり、理想の国家建設を目指す思想や運動が具体化した。
・彼らはイスラエルの地(現在のパレスチナ)に戻って建国することを夢見て、世界各地からパレスチナに移民したが、そこにはパレスチナ人が住んでいた。
・第一次世界大戦後、パレスチナは国際連盟からイギリスに委任され、イギリスはユダヤ移民を認めたのでさらに多くのユダヤ人が入植し、1948年にはついに、パレスチナにイスラエルを建国した。これがユダヤ人側の意識です。
しかし、著者はこんな風に記しています。
「ユダヤ人の意識としては、パレスチナは神が自分たちに与えた『約束の地』だから、そこに自分たちの国『イスラエル』を建国するのは当然、という理屈です。
しかし、仮にそうだとしても、2000年も土地を離れていたのですから『今日からここはイスラエルになったから、パレスチナ人は出て行ってください』と言われても困ります。これは明らかに侵略であり、当然ながらそこで紛争が頻発するようになったのです。」と。
著者はこうも記します。
「中世以前、アラブ人が信仰するイスラム教の勢力が支配していた広大な地域では、ユダヤ教の旧約聖書とキリスト教の新約聖書はイスラム教のコーランと同様に唯一神から示された「啓典」とみなされ、イスラム教勢力はユダヤ教徒とキリスト教徒を「啓典の民」として、人頭税を治めれば彼らの信仰を認め、共存していたのです。ですから、教義からも歴史からもイスラム教徒とユダヤ教徒、キリスト教徒は本来決して敵ではありません」と。
しかし、イスラエルは建国後も武力によって領地を広げようとしています。
特に、第三次中東戦争でイスラエルはヨルダン川西岸も占領したので、ユダヤ民族が2000年間祈り続け、神が約束した場所(聖書で言うならカナンの地)にやっと帰ってきた、と喜びました。ですがイスラエルがやったことは、武力でアラブ人が住んでいた土地を奪ったわけです。
イスラエルで受けた教育について、著者はこんな風に語っています。
「強い軍隊を持たなければ、ここで安全に暮らすことができない。」「軍隊があってこそ私たちは安全に生活できる」と教育され、イスラエルには男女ともに兵役があります。
イスラエルの民は、その昔、エジプトで奴隷とされ、一時はギリシャ人から迫害を受け、2000年前にはローマによる侵略によって国が滅ぼされ、さらにナチス・ドイツのホロコーストによって600万人ものユダヤ人が虐殺された。
このような多くの犠牲のもとに、イスラエルは建国されたのだから、これを守っていかなくてはならない。
この国を守るには武力しかない。「戦争以外に平和という選択肢はあり得ない」。「平和を守るために進んで軍隊に入ろう」という教育をうけ、彼も実際そう信じていたそうです。
さらに小学校低学年から、パレスチナ人の土地を奪って入植地をつくるのを正当化する根拠として、旧約聖書の言葉が教えられているそうです。
創世記15章18-21 その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」
確かにこの言葉は旧約聖書に記されている神の言葉です。
しかし、神の言葉はこれだけでしょうか? こういう風に、ある個所だけを抜いてそれが聖書全体の教えと受け取るのは、誤った聖書の用い方です。
例えば、先ほどの箇所より前に、神がアブラハムに与えた約束の言葉はこうです。
創世記12章1-3節 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
旧約の神が、ユダヤ民族が父として崇めるアブラハムに与えた最初の約束、「アブラハム契約」です。
ここには「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」という言葉があり、神の祝福の約束はイスラエル民族に留まらない、ということが示唆されています。
また、今日の聖書箇所 出エジプト記22章20‐22節を見ましょう。「 寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。 寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。 もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。」
これは、イスラエルの民が出エジプト後、荒野の生活を経て、約束の地カナンに入ったときに守るべき神の掟ですが、その中に、人道的律法と言われるものがあり、「寄留者や身寄りのない者,貧しい者」に関して神が言及している個所です。
22章20節は、「寄留者」今の言葉で言うならば「在留外国人」についての言及です。
ヤハウェの契約の民として保護されているイスラエルも、かつてはエジプトで在留の外国人として苦労したことが指摘され、イスラエルの共同体の中にいる、他国の民や保護する者の無い弱者を苦しめてはならないと命じられています。
このように、神の目は、もとから、イスラエル民族だけでなく、それ以外の民にも向けられていたのです。
選民ユダヤは、ユダヤ人を通して神の救いがすべての人にもたらされるという神の約束であり、神の意志です。
そして、この約束はイエス・キリストを通して実現し、イエス・キリストを信じるすべての民に及ぶのです。
ここで、今の日本に目を向けたいと思います。
7月20日に行われた参院選では、参政党や国民民主党などの新興勢力が大きく議席を増やしました。
特に参政党の躍進には驚かされました。ですが、参政党について皆様はご存知でしょうか?
「日本人ファースト」を掲げるナショナリズム的な政策、「核」を抑止力として持つべきという主張や、徴兵制を是認する党員がいること。
しかし日本には、外国人でも、日本人とともに普通に生活している良心的な人々が大勢います。
言いたいことは、平和的共存は可能だし、狭い地球で今後そういう意識を持たない限り、平和は訪れないということです。
戦争が起こると多くの人命が失われます。爆撃するその下に、多くの命の営みがあることを私たちは忘れてはいけないのです。
武力、軍事力で平和は維持できないということを肝に銘じたいと思います。
対立する環境で生まれた両者の記した本を読みましたが、不思議なことに結論は一致しています。
この複雑な関係を修復するためにしなければならないことは、過去の憎しみや争いの記憶を手放す勇気を持つこと。
痛みや悲しみは消えるものではありませんが、それに縛られ、そこに留まるのではなく、未来へ歩むために一歩を踏み出すこと、共存の努力をすること、と両者は語っています。
そのために重要なのは教育です。
過去の事実を捻じ曲げない教育、しかし憎しみをあおるのでなく、そこから前を向くこと。
宗教や生活様式に違いはあっても、人としての心、自分や家族を大切に思い、命が大切なことに変わりないことを知る必要があります。
憎しみを超えて、共存の希望を選ぶとき、わたしたちの社会は今よりは平和な社会へと向かっていくはずです。
神が造られた世界で、神が造られた人々が、共存する道を選び取りたいと思うのです。
イザヤ2:4-5
2:4主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
2:5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。