2025年08月03日「小さいものへの愛」

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マタイ25章31-46節
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 25章31節~40節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約>
毎年8月15日に一番近い主の日、平和を考える説教をしています。今年は、3日と10日の二回を使って、平和を考える説教をいたします。

テキストが置かれている文脈
マタイ24章、25章はイエス様が地上でなされた最後の説教、終末について話された一連の教えです。そして今日の箇所はその最後にあたる部分です。
この世界には終わりが来る。それを聖書では「終末」と言います。Weekend の「週末」ではなく「この世の終わり」という意味での「終末」です。
終末を迎えるまでにいろんな出来事が起こると聖書は語っていますが、最後にイエス様がもう一度地上に来られる。
それを「再臨」と言います。
その時、すでに眠りについている者たち、死んでしまった者たちも含めて、今まで地上に命を与えられた全ての人がイエス様の前に集められ、正しい者とそうでないものとに分けられる。それは、ちょうど羊飼いがヒツジとヤギを分けるようにだと、教えられています。
ヒツジとヤギの違いは、見た目ではわかりにくいのですが、羊飼はそれを正しく分けることができるそうです。
同じように、私たちも地上で生活している間は、大きな違いはわからないようですけれど、イエス様が再臨されて、神の国の王としての座に着く時、全ての人を右と左に、正しい者とそうでないものとに分ける。
その結果は、25章46節「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
正しい者と認められた人は神の国でイエスさまとともに永遠の命にあずかり、そうでない人は、永遠の罰を受ける。
そういうことが、世の終わりに起こると、イエス様は十字架にお掛かりになる直前の説教で、語っておられるのです。

信仰義認と善き業との関係
ところで、私たちは
「永遠の命に至る救いは、イエス・キリストを信じる信仰を通して与えられる」と教えられ、そう信じています。だとすれば、イエス様の教えと矛盾しているのではないかと思う方もおられるでしょう。
ローマの信徒への手紙3章28節でパウロは
「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」と記しています。
ですが、同じパウロが、ガラテヤの信徒への手紙5章6節ではこう言います。
「 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」
イエス・キリストを信じる信仰を通して永遠の命に至る救いが与えられる。これはキリスト教の中心的な教えで、『信仰義認』という大切な教理です。
いくら良い行いをしても、愛の業を積み重ねても、それでわたしが「正しい人」として神様の前に立つことはできません。なぜならわたしたちが行う愛の業は、神に正しいと判断していただけるほど十分なもの、完全なものではないからです。罪あるわたしたちがいくら頑張っても、神様に満足していただけるほどに完全に、愛の実践をすることは不可能です。ですから、私たちが行う愛の業は神様に「正しい人」と判断される根拠ではありません。
ですが、パウロはガラテヤの人々に「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と教えて、愛の実践の必要も語っています。

あるいは、良き行い、愛の業は『信仰の結ぶ実』として『信仰が生きて働いていること』を証明してくれる、という教えもあります。
十分でなく、欠けていたとしても、わたしたちの行う愛の業は、わたしたちの信仰が真実の信仰で、生きて働いている信仰であることを示している、というのです。
ヤコブの手紙2:14-17です。
「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」
「死んだ信仰」とは、信仰がないのと同じこと。わたしたちの、キリストを信じる信仰が真実であり、本物であり、生きて働いていると証明してくれるのはわたしたちが行う愛の業なのです。
わたしたちが為す愛の業が、小さなもの、不十分なものであっても、イエス様は
マタイ25章40節『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』と言ってそれを認めてくださり、その人の信仰が真実の信仰であると判断して下さるのです。

ところで、40節と45節を少し詳しく見たいと思います。
25:40『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
ここで、愛の業の対象として『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人』とあります。これは誰のことでしょうか?
ここでは二つの限定が付いています。一つは『私の兄弟』もう一つは『最も小さい者の一人』です。
教会では、教会員どうし、お互いを『兄弟姉妹』という呼び方をします。
キリストを信じた人は、キリストに結ばれて父なる神の子どもとされますから、クリスチャン同士は主にある兄弟姉妹になります。そのように考えますと、ここで愛の業の対象とされているのは「わたしの兄弟」ですから、クリスチャンに限定されるということになります。
では、愛の対象はクリスチャンに限られるということでしょうか?
ですが、聖書は何百年にもわたって、手書きで書き移されて来たために、いくつかの写本があります。実は、ある写本ではここに『わたしの兄弟』という言葉が抜けているものがあります。
さらに45節をみると
25:45『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
こちらは永遠の罰を受ける人々への言葉ですが、ここには、『わたしの兄弟』という言葉はついていません。
ですから、愛の業の対象を『クリスチャン』に限定して、狭く考えるのは危険な気がいたします。

では、『最も小さい者の一人』の方はどうでしょう? 『最も小さい者』という言葉は、新約聖書の中で14回使われています。
その使い方を見ると、『些細なもの、ごく小さなこと、最も劣ったもの、つまらない者、価値の低い者』というような意味で物事や人物に対して使われています。
それで、ここでは、行為の対象者が価値のないような、小さな人というより、本当に取るに足りないような、小さな愛の業、ということが言いたいのだと思われます。
ここで重要なのは、愛の業を示す対象ではありません。
そうではなく、本当に取るに足りないような、小さな愛の業であっても、神はそれを、イエス様にしたのと同じ程の大きな行為として認めてくださるということです。
重要なことは、今わたしたちが愛の業を示すべき相手に気づいて、そして、わたしに与えられている賜物を使って愛の業を行うことです。

信仰とは、キリストが私のために十字架にかかって死んでくださったことを信じること、キリストの十字架を通して私に示された神の愛を受け止めることです。
そして、真実に神の愛、キリストの愛を受け止めたならば、信仰者の歩みは、隣人を愛する歩みへと当然向かうはずなのです。
私たちは、自分にゆだねられている隣人に対して愛の業を示すことで、神とキリストを愛する生き方ができるのです。
キリストが再び地上に来られ、最後の審判、裁きが行われる時、裁きの基準は「イエス・キリストを信じる信仰」です。
その時、イエス様から問われるのは、イエス様を信じて、イエス様と共に地上の歩みをしてきたかということ。そして、その信仰の歩みを証明するのが「隣人への愛」です。キリストへの愛のゆえに私たちが隣人に対して示した愛です。
私たちが行う愛の業は、ほんの小さなものであり、不十分なものであり、決して誇れるものではありません。
ですが、イエス様は「最も小さい者の一人にした愛の業」を、「わたしにしてくれたこと」として、イエス様に対して行ったことのように評価し、認めてくださいます。
そして、その者を右側に置いて、神の国を受け継ぐ正しい者、永遠の命にあずかる者、と認めてくださるのです。

もう一度35,36節を見ましょう。
25:35、36「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」
食べさせる、飲ませる、宿を貸す、服を与える、見舞う、訪問する。求められているのは大掛かりな救済事業でも、社会の制度改革でもありません。一人ひとりが、自分の隣人に対して、自分の持っている物を分け合うことで共に生きるという愛の業です。

愛の人、マザーテレサは数々の名言を残していますが、その中にこんな言葉があります。「愛の反対は憎しみではなく無関心です」。
愛の対局にあるのは憎しみではなく、関心を持たないことだと。自分以外のことには目をつぶって、関心を持たなければ、わたしたちは何もしなくて済むし、何もできないのです。
ですから、愛を実践するために、今までよりもう少し広く、あるいは深く、自分の周りの人々に、出来事に、関心を持つこと。そのうえで、わたしが誰の隣人になるかということです。
そういう目で周囲を見回すとき、神が今わたしに求めておられる愛の業、働きが必ず見えてくるはずです。
神が今、わたしに求めておられる愛の業、働きを考え、受け止め、知恵を用いて、ふさわしい形で愛の業を実践しようではありませんか。
そのようにして、神の国の働きにともに仕えてまいりましょう。

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