キリストの名において祈る
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 14章12節~14節
ヨハネ14:12-14
14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 14章12節~14節
1.ヨハネ14:12‐14
イエス様は、地上におられる時すでに、弟子たちに、祈りについての約束をお与えになりました。まずヨハネ14章13-14節を見ましょう。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
これはイエス様のお言葉ですから、「わたしの名」とは「イエス様の名」ということです。
イエス様は、「わたしの名」「イエス・キリストの名」によって祈るならば、その祈りを聞きあげてくださると約束しておられます。
2.ヨハネ16:23b-24
ヨハネ福音書16章23b-24節にも、同じようなイエス様の言葉が記されています。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
イエス様が地上におられる間、弟子たちは、イエス様に直接お願いしました。しかし、この後イエス様は十字架の死~復活を経て、天にお帰りになります。イエス様はその時のことを念頭に置いて、このように話されたのです。
イエス様は、「わたしの名」によって、「父に願いなさい」と言っておられます。また願った結果「あなたがたは喜びで満たされる。」という約束までが伴っています。
3.イエス・キリストの名とは
ここでもう一度、「イエス・キリストの御名」について確認しましょう。
「イエスキリストの名」とは、「イエス・キリストご自身」であり、「イエス・キリストの御業」そのもの。もっと具体的にいうなら、イエス様が私たちのために成し遂げられた十字架による執成しのことを指しています。
イエス様が父なる神の心を和らげるために行った、ただ一度の犠牲。私たちの罪と咎を消し去るために流された血と裂かれた体、イエス様が十字架上でささげた忍耐と複縦。このイエス・キリストの十字架の御業によって、私たちは罪赦され、そして父なる神の前に進み出ることができます。臆することなく、父なる神に願うことができます。そして私たちの祈りが父なる神に届けられ、父なる神は私たちの祈りに目を留めてくださり、聞きあげてくださる。「イエス・キリストの御名」とは、イエス・キリストの十字架の犠牲と執成しのことを指しています。
そのことが、ウェストミンスター大教理問答の問181で告白されています。
問181 なぜわたしたちは、キリストの御名によって祈らなければならないのですか。
答 人間の罪性と、それによる神との隔たりは、非常に大きいので、わたしたちは仲介者なしに神の御前に近づくことは決してできません。また、その栄光ある業に任命され、かつふさわしい方は、天においても地においても、キリストおひとり以外には存在しません。それゆえわたしたちは、他のいかなる名でもなく、ただキリストの御名によって祈らなければなりません。
4.ウェストミンスター大教理問答 問180
大教理問答 問180も確認しましょう。
問180 キリストの御名によって祈るとは、どういうことですか。
答 キリストの御名によって祈るとは、キリストの命令に従い、かれの約束に信頼して、キリストのゆえに憐みを願い求めることです。それは、キリストの御名をただ唱えることによるのではなく、わたしたちが、祈ることへの励ましと、祈りにおける大胆さ・力・聞き入れられるとの望みを、キリストとかれの仲介から引き出すことによります。
イエス様は、イエス・キリストの御名によって祈りなさいと弟子たちに命じ、イエス・キリストの御名による祈りを神が受け入れてくださると約束しておられます。イエス様が私たちと父なる神の間の仲保者として、私たちの祈りを父なる神に届けてくださるのですから、私たちは、自信をもって、大胆に、堂々と祈ることができるのです。
ヘブライ人への手紙4章16節にはこのように記されています。
「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
ただ一度イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって苦しまれ、私たちのすべての罪の罰を受けてくださいました。
ですから、イエス・キリストを信じる私たちは、もう堂々と神の前に立つことができます。そして、堂々と神に近づいて願いを祈ることができるのです。
父なる神からの助けをいただくために、遠慮しないで、大胆に、恵みの座、神の懐に飛び込もうじゃないか、という勧めです。
イエス・キリストの贖いは完全であり、わたしたちは罪赦されています。ですから、堂々と、神のみ座に近付くことができます。遠慮する必要はありません。堂々と神に願いをささげることが許されており、その祈りに神は目を留めてくださるのです。
大教理問答 問180の言葉で言うなら、「それは、キリストの御名をただ唱えることによるのではなく、わたしたちが、祈ることへの励ましと、祈りにおける大胆さ・力・聞き入れられるとの望みを、キリストとかれの仲介から引き出すことによります。」
「キリストの名によって祈る」とは、キリストが成し遂げてくださったただ一度の十字架の贖いによる罪の赦しを前提として、神に愛されている者として、神に祈ることができる、願うことができるということです。
もう一か所、ヨハネの手紙Ⅰ5:13‐15も読みましょう。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」
永遠の命とは、神に愛され、神と共に生きる命です。
神の子の御名、つまりイエス・キリストの十字架による罪の赦しを信じている者は、地上に居ながらにして、すでに神の愛の中にいるのです。神に愛されている私たちが、神のみ旨にかなう祈りをするなら、それはすでに聞き入れられていると確信すべきです。
わたしたちの祈りは確かに神に届いており、神は私たちの祈りに目を留め、応えてくださる。そう信じて、大胆に、祈ることが今私たちに求められています。
また、同時に、わたしたちの祈りを神がどのように扱い、どのように応えてくださるのか、そのことも注意深く見守っていく必要があります。そういう中で、わたしたちは神と共に、神の愛の中で、生かされていることを実感として知ることができるからです。
ヘブライ4:16「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」