2025年07月06日「イエスとは何者か」

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8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
◆イエス、死と復活を予告する
8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 8章27節~33節

原稿のアイコンメッセージ

 <説教要約> マルコ8:27~33 「イエスとは何者か」
イエス様は大切なことを、段階を踏んでお示しになる。霊的な理解は少しずつ深められる、ということを念頭に置いて今日の箇所を見ましょう。

イエス様はフィリポ・カイサリアの村々を回っている途中で、弟子たちに一つの質問なさいました。
「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。
多くの人がイエス様の評判を聞き、イエスの教えと癒しを求めましたが、彼らはイエス様のことを、どなただと考えていたのでしょうか? 弟子たちの答えは28節。
8:28「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 人々の認識は、「イエス様は旧約時代の力ある預言者だ」というものでした。
さらに、イエス様は弟子たちに質問なさいました。
8:28a「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と。「あなた方の理解は、どうなのか」と質問なさったのです。するとペトロがその場の弟子たちを代表するように答えました。「あなたは、メシアです。」
これは、弟子としての召命を受けて以来、イエス様と共に生活する中で、今この段階で弟子たちが到達した霊的な理解でした。

この箇所、口語訳聖書では、ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」となっています。
口語訳で「キリスト」と訳していた部分を、新共同訳聖書は「メシア」と訳し直しています。
ヘブル語で「メシア」、ギリシャ語では「キリスト」、意味は「油注がれた者」。
旧約時代、神様に託された職務である、預言者・祭司・王が、その職に就く時、神様が任命される、その仕事を与える、という印として、「油を注ぐ」という儀式をしました。油注がれ、神様に特別の仕事を与えられ、任命された者がメシアです。
さらに旧約聖書には、モーセのように、預言者・祭司・王と言う三つを兼ね備えた一人の預言者を与えるという神の約束があり、「ダビデの子孫から、永遠の王様を与える」という約束もあります。これらの約束をよく知っているユダヤ人たちは、このような「メシア」の出現を期待して、待ち続けていました。
そして現実的には、モーセがイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出したように、あるいは、バビロン捕囚から解放されて帰還がゆるされた時のように、今、メシアが、ローマ帝国とヘロデの支配から自分たちを救ってくれることを期待したのです。
ですから「あなたはメシア」とは、イエス様は、「ユダヤ人の王、イスラエルの救世主として、自分たちを解放してくれる救い主だ、ということであり、これがペトロと弟子たちの期待、彼らが到達している理解でした。

しかし、ペトロのメシア理解が間違っていることが、31節以下で示されています。
31節以下でイエス様は、ご自身の死を予告なさって、ペトロが抱いているメシア理解が間違っていることをお示しになりました。
8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32b しかも、そのことをはっきりとお話しになった。
ペトロも弟子たちも、イエス様がメシア、ユダヤ人の救世主として、先頭に立って、イスラエルを政治的、あるいはこの世的な救いへと導くメシアと思っていたのに、長老、祭司長、律法学者などユダヤ教指導者たちに排斥され、そして殺されるなんて。そんなこと、あってはならないと考えたのです。
ですから、ペトロは、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」のです。
しかし、イエス様はそのペトロに対して、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と厳しくおしかりになりました。

「神のことを思わず、人間のことを思っている。」とは、どういうことでしょうか?
ペトロの言葉は、イエス様の身の上を案じての言葉でしょう。しかしイエス様の心配だけではなく、自分の立ち位置も計算したはずです。
しかし弟子たちの理解は、神の永遠からのご計画、神の意志からはほど遠いもので、イエス様はペトロの言葉を、サタンの言葉、誘惑、と退けられたのです。
31節の言葉は、イエス様がユダヤ教の指導者たちから排斥され殺されること。すなわち十字架のこと。
しかし、それだけでなく「三日の後に復活することになっている」とも言われています。
イエス様は、神の救いのご計画について、「十字架と復活」を教えておられるのです。ですが、ペトロも弟子たちも、この時点で神の救いのご計画についての霊的な理解はできませんでした。

では、わたしたちはどうでしょうか?
ここでイエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だというのか?」と問われましたが、この問いは、私たちにも問われていることです。
私たちは、洗礼を受ける時、どのようにイエス様を信じているのかを、誓約します。
洗礼の誓約の3番目が、イエス・キリストについての信仰告白であり、誓約です。確認しましょう。
洗礼の誓約3「あなたは、イエス様・キリストを、神の御子、また罪人の救い主と信じ、救いのために、福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみより頼みますか?」
洗礼前の学びのときに、イエス様をどのように受け入れ、信じるのかを学んだうえで誓約したはずです。
しかし、洗礼前の学びでこのことの霊的な意味を、深く理解できたかと言えば、それは無理があります。
洗礼を受け信仰の歩みがスタートし、その後のいろんな出来事を通して、一人一人がキリスト理解を問われ、深められて今に至っていると思います。
つまり「あなたがたは(あなたは)わたしを何者だというのか?」というイエス様の問いは、信仰の歩みの中でずーっと問われ続けるのです。
イエス様は、あるときには「私の罪を清めてくださる方、罪からの救い主。」
あるときには、「私を誘惑から守り導いてくださる私の牧者」。
辛い出来事、悲しみや試練の中にあって、イエス様は「わたしを背負ってくださる方」であり、「ただ一人の良き隣人、理解者」となって下さる方、かもしれません。
大きな失敗や自らの罪、あやまちによって、神の怒りや裁きに触れ、心折れそうなことがあったかもしれません。それでも、イエス様はわたしのそばにいてくださったから、わたしはここにいられる。
様々な歩みの中で、いろんな経験の中で、わたしたちのキリスト理解は深められ、広げられ、さらに豊かなものとされていくのです。

「イエスとは何者か」イエス・キリストは、わたしにとって、どのようなお方なのか。日々の祈りの中でイエス・キリストと親しく交わるなかでイエス様は私と出会ってくださり、その度に私たちのキリスト理解は深められていくのです。
そしていつの日か、顔と顔とを合わせて、イエス・キリストにお会いするとき、わたしたちははっきりとイエス様を理解することができるのです。
Ⅰコリント13:12「 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」

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