2020年09月13日「日々新たにされて」

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だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時(いっとき)の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙二 4章16節~18節

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<説教要約> 敬老感謝の礼拝 
Ⅱコリント4:16~5:5 「日々新たにされて」 

本日は、敬老感謝の礼拝として礼拝を献げていますので、説教は高齢に伴う苦難について考えたいと願っています。
聖書はコリントの信徒への手紙Ⅱ4章16~18節で、3節だけで短い箇所ですが、少しずつ見ていきたいと思います。
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(二コリント4:16)
ここで「外なる人」と「内なる人」という対比があります。
ここでは「外なる人」と「内なる人」が対比されていますが、これは人間の「肉体」と「心や精神」という対比ではありません。
<外なる人>とは、人間の地上の存在としての肉体と精神両方のことで、それはやがて衰え、滅びる。あるいはやがて死を迎えます。
いっぽうで、<内なる人>は衰え滅びない。それだけでなく、かえって<日々新らしく>されるというのです。
パウロがここでいう<内なる人>とは、信仰によってキリストに結ばれ、キリストの御霊が与えられた命のこと。信仰者の霊的側面のことを<内なる人>と言っているのです。
別の言い方をするなら、キリストに結ばれた新しい命のことを<内なる人>ともいえるでしょう。

ところで、コリントの信徒への手紙一12章13節にこんな言葉があります。
一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。(コリントⅠ12:13)
ここは、信仰者一人一人がキリストの体であることを教えている箇所ですが、ここで、<皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。>と教えています。
この箇所の教えのテーマとはずれますが、しかし、「洗礼を受けるとは、一つの霊、つまりキリストの霊をのませてもらう」ということだと分かります。つまり、私たちはキリストを信じ、洗礼を受ける時、キリストの御霊が一人一人に与えられて、新しい命を生きはじめるのです。
もう一か所別の所を見たいと思います。コロサイの信徒への手紙2章12節。
洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。(コロサイ2:12)
ここでは、キリストを信じ洗礼を受けることを通して、キリストと共に復活の恵みに与る命が与えられると教えられています。というより<キリストと共に復活させられた>と、ギリシャ語の過去形が用いられているので、既にキリストの復活に与っていると教えているのです。

そういうことを考え合わせると、<わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます>とは、既に洗礼を受けてキリストに結ばれている人。キリストの霊を受けているキリスト者は、地上において既に復活の命を生き始めていて、その命が日々新たにされていく。永遠の命の祝福、復活へと、一日、一日、近づいていくのだと教えられていることが分かります。
しかしパウロは、次の4章17節で実際に今起こっている地上での現実にも目を向けています。
わたしたちの一時(いっとき)の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。(コリントⅡ4:17)
パウロは復活のキリストに出会い、洗礼を受け、そして異邦人伝道へと遣わされた伝道者ですが、その働きは困難を極めました。パウロはキリストゆえに多くの苦しみを受けたのです。
もちろんその時々で、神の介入や助け、守りがありましたが、苦しくなかったはずはありません。
ですがパウロは、それらを<一時(いっとき)の軽い艱難>と言います。やせ我慢でそういっているのではない、ということが、4章17節後半からわかります。
彼は、地上の苦しみ以上に、復活のキリストから与えられる希望、祝福について「比べものにならないほど重みのある永遠の栄光」と表現し、そこに心を向けているのです。

わたしたちも、今地上でいろんな形で試練や苦しみ、辛さや困難なことがあります。まして歳を重ねて体の自由が利かなくなり、体に痛みがあればならなおさらです。地上の苦しみ、特に体への困難は、決して軽いものではありません。
それらを<一時(いっとき)の軽い艱難>という言葉で片づけることができない、と思われるかもしれません。さらに私たちは、地上で最後の試練として「死」に立ち向かわなければならない、ということもあります。それは、パウロも同じはずです。
ですが、それでも、パウロが言うようにそういう様々な困難や苦しみは、必ず終わる時が来ます。
それで、私たちが、艱難や苦しみに押しつぶされないために、パウロは18節で教えます。
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリント二4:18)
ここでは<見えるものは過ぎ去る>、<見えないものは永遠に存続する>という対比で教えられています。<見えるもの>とは、私たちの今の現実、地上世界のことです。<見えないもの>とは、今はまだ与えられていないけれど、やがて与えると神が約束しておられる事柄。具体的には「キリストの再臨」、「神の国の到来」、「体の復活」や「永遠の命と共に与えられる永遠の栄光」のことです。

ここで、今日の箇所のもう少し先、コリントの信徒への手紙Ⅱ5章4-5節を見たいと思います。
この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。(コリント二5:4-5)
<幕屋>とはテントのような一時的な住みかのことで、私たちの地上の体のこと。私たちは今、地上の体、地上の現実の中で<重荷を負ってうめいて>います。しかし、パウロはその現実から逃げ出したいとは言いません。そうではなく<天から与えられる住みか>つまり復活の体を<上に着たい>と言います。
ここから、地上の体と復活の体が全く無関係ではないことが分かります。私たちが今生きている体が贖われて、復活の体へと変えられていくのです。ということは、私たちが地上で経験している具体的な苦しみや試練が、やがて復活の体へと生かされていくということもあるのだと思います。
そして最後に、<神はその保証として“霊”を与えてくださった>とあります。

今、洗礼を授けられたキリスト者に霊が与えられていることは、やがて与えられる復活の命への保証なのです。私たちの中のキリストの霊が、それを保証してくださっているのです。
どのような苦難があっても、キリストの霊が、必ず永遠の栄光にまで導き入れてくださるのです。そこに、私たちの救いの確かさがあります。
ですから、
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントⅡ4:18)
私たちは地上生涯の最後の一息を吸い込み、そして吐き出すその時まで、今はまだ見えないけれども確かな希望、神が約束しておられる永遠の栄光に、目を注ぎ続けたいと思います。

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