2025年04月20日「十字架による和解」
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十字架による和解
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- 木村恭子 牧師
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エフェソの信徒への手紙 2章11節~18節
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聖書の言葉
2:11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。
2:12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。
2:13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
2:17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
2:18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
エフェソの信徒への手紙 2章11節~18節
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<説教要約>イースター礼拝 エフェソ2:11-18 「十字架による和解」
「負の連鎖」「憎しみの連鎖」という言葉、ご存じでしょうか?
例えば、戦争で大きな被害を受けた国が、その相手国を憎み続ければ、その国が力を得たとき相手国に報復の刃を向けることになる。これが負の連鎖であり、憎しみの連鎖。和解とは逆の方向です。
でも考えてみると、こういうことって、わたしたちのまわりでも結構あることです。たとえば、朝顔を合わせた近所の方に、気分良く挨拶をしたのに、挨拶が返ってこなかったとしたらどうでしょうか。無視されたような、いやな気分になりますよね。そして、次はこっちから挨拶するのはやめよう! なんて思ってしまう。そうすると、関係がだんだん疎遠になり、悪化の一途をたどることになるとしたら・・・。
これも、負の連鎖と言えるでしょう。
今日の説教題は、「十字架による和解」です。
「和解」は負の連鎖とは逆方向です。
人と人との間の「和解」は、負の連鎖を断ち切り、「仲直りする」というイメージ。
団体や企業などで使うときは、紛争や対立を終わらせるために両方が譲歩し合う行為を指します。
国際間の対立を解決する場合も「和解」という言葉が使われます。「パレスチナとイスラエルの和解交渉」という言葉、ニュースで聞きますよね。この場合、武力衝突ではなく、交渉で紛争を解決する道を探ること。共存する道を見出すことです。一日も早く負の連鎖を断ち切って和解が成立してほしいと願います。
聖書でも「和解」という言葉が使われます。聖書では、「人と人」の関係、地域や国同士の関係で使うこともありますが、聖書特有の使い方もあります。「神と人」との間で「和解」という言葉を使うのです。
そして、聖書ではこれが重要です。
使徒言行録の19章に、パウロのエフェソ伝道の記事がありますが、エフェソの町にパウロが福音の種を蒔き、やがて教会ができました。エフェソ教会の信者の多くはギリシア人やローマ人で、ユダヤ教からいえば異邦人でした。
それで、パウロは彼らに対して、
2:11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。
2:12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。
と、彼らの過去を話し始めます。もともとあなた方異邦人は、キリストとも無関係、まことの神の知らなかったなんて、ちょっと厳しい語りはじめです。
ところが13節でパウロの口調は変わります。
2:13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
異邦人はユダヤ教の神、まことの神を知りませんでしたから、神から遠く離れた存在でした。しかし、神を知っていると自負しているユダヤ人も、実際にはそれほど神と近くはない。動物犠牲をささげ、罪の赦しを得て、という具合に直接神に近付くことはできなかったのです。そういう意味ではユダヤ人も異邦人も、以前は神から距離がありました。
ところが、イエス・キリストの血、つまり十字架によって、罪ゆるされることで、ユダヤ人も、異邦人も、以前は考えられなかったほどの距離まで、神に近づけるようになりました。
さらに、ユダヤ人も異邦人も区別なく、両者がキリストを信じる信仰を通して神に近づくことができるようになったのなら、ユダヤ人と異邦人の間の距離も近くなった、「近い者となった」というのです。
ここでパウロは、ユダヤ人と異邦人(主にはギリシャ人)の間のことを例に出して語っていますが、この考え方は両者に限定されるものではありません。もっと広がりのあるものです。異邦人とは、ユダヤ教以外の人々のことですから、当然私たち日本人も含まれます。
互いにイエス・キリストを信じ罪赦されて同じ神に従って歩むなら、全ての人は近いものとなる、という考え方です。そしてここまでがプロローグ、導入部分です。
実際、パウロが語りたいこと、ここでの話の中心は14節から16節です。
2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
キリストの十字架の目的は、私たち人間が、神との関係を回復すること、和解することです。けれども、人が神と和解するとき、同時に人と人も和解の方向へと進むことができる。ここでパウロはそのように教えるのです。彼は、ユダヤ人と異邦人の間の敵意、壁はキリストの十字架によって取り除かれると考えたのです。しかし、それは人間の努力によるのではなく、キリストの十字架によるのです。
通常、「和解」は両者が条件を出し、両方がある度譲歩し歩みよることで関係が回復し、和解が成立します。しかし、「神と人との和解」の場合、両方が条件を出し、譲歩しあうのではありません。
神が、キリストを通して一方的に譲歩することで、神と人との和解が成立する、これが神と人の和解です。神の譲歩とは、キリストの一方的なへり下りです。
以前は罪のため、神に近づくことができなかった人間が、キリストのへり下り、十字架によって罪赦されて神に近づけるようになる。それが、神との和解です。
ですが、「神と人との和解」はそれで終わりません。
神に近くされた者は、その人たち同士も近くなるので、お互いの間でも平和の関係が築けるようになる、ということでもあります。
つまり、キリストの十字架は、神との平和、人と人との平和、さらには世界全体の平和を実現する道なのです。
「キリストのヘリ下りと十字架による和解」について、もう少し考えたいと思います。
キリストの十字架は、一方的な神の譲歩、神の御子キリストのヘリ下りです。
神の御子はクリスマスの夜、人間となって生まれ、幼い時は当時の一般庶民同様父の仕事を手伝い、家族と共に成長しました。
30歳過ぎに福音宣教の働きを開始なさいましたが、歩まれた道は、一貫して「給仕する者」「仕える者」「足を洗う者」でした。
彼が弟子として選んだのは、地上の支配者や権力者、地位あるものたちではなく、ガリラヤ湖の漁師であり、人々から嫌われている徴税人、一般民衆、それも社会の底辺に生きる人でした。
彼はユダヤをめぐり歩いて、病人をいやし、悪霊に悩む者を助け、神の国の福音を語りました。
しかし、彼の地上生涯の最後は、人々から排斥され、捨てられ、十字架へと追いやられたのです。
その有様を、パウロはこう記しています。フィリピ2:6‐8です。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
一方的な神の御子のヘリ下りと十字架の死。
しかしこのことを通して、人は神との和解の道を得たのです。それは、罪赦されて神の前に立つことのできる者、神を礼拝し、神に自分の願いを祈ることのできる者となることのできる道です。
コロサイ1:21‐22に記された通りです。
1:21 あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。
1:22 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。
キリストのヘリ下りと十字架によって、神と人の間の和解の道ができたのですが、これは一方的な神の譲歩とキリストの犠牲、ヘリ下りによって実現した和解、「十字架による和解」の道です。
キリストのヘリ下り、十字架は、罪あるわたしの罪を赦し、神と和解させてくださるものです。
さらにキリストの十字架は、わたしたちを人と和解させ、さらには被造世界を和解へと導くものです。
そしてこれが、キリストの十字架を通してわたしたちに示された「神の愛」です。
では、この和解を、神の愛を受け取るために、わたしたちがすべきことは何でしょうか?
まずは、イエス・キリストの十字架と死が私の罪のため、神と和解させていただくためであることを受け入れ信じ、それを表明して、洗礼を受けること。そのようにして、自分が、神と和解させていただくことが第一のことです。
さらに、神と和解させていただいたなら、次はわたしが、和解の業に仕える者となることです。「和解の業に仕える」なんていうと、たいそうなことと思うかもしれません。でも、そうでしょうか?
最初に例に出した「挨拶」を無視された話を、もう一度考えてみましょう。
せっかく私が挨拶したのに、相手は挨拶を返してくれなかった。それで気分が悪くなったから次は挨拶しないで無視しよう! では、負の連鎖になります。
ではどうすればいいでしょうか? 対処の仕方はいろいろあると思いますが、その時こんなことを考えるといいと思います。「イエス様ならどうなさるだろうか」と。そうするといい対処法が見つかることが多いです。イエス様なら、何度無視されてもあいさつし続けるだろうか? 挨拶を無視する人に、「何か辛いことがありましたか?」と声をかけるかもしれません。イエス様は、苦しんでいる人、孤独な人に歩み寄られたことを思い出しましょう。
わたしたちも、まずは、神と和解させていただきましょう。そしてさらに、和解の業に仕える歩みを選び取りましょう。
十字架による和解、神との和解を受けた私たちだからこそ、日常の小さなこと、些細な出来事の中で、「和解の業に仕える」ことができるのです。
そんな積み重ねが、キリストと共に生きることであり、キリストを証しすることでもあります。
そういう人がたくさん起こされることで、いつの日か、パレスチナとイスラエルの和解が成立することを、祈りたいと思います。
復活のキリストが、私たちの歩みと共にいてくださいます。
ローマ14:17-19
14:17 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
14 :18 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。
14:19 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。